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メフメト3せい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
メフメト3せい
オスマン皇帝こうてい
在位ざいい 1595ねん1がつ15にち - 1603ねん12月22にち

出生しゅっしょう 1566ねん5月26にち
オスマン帝国ていこくマニサ
死去しきょ 1603ねん12月22にち
オスマン帝国ていこくイスタンブール
配偶はいぐうしゃ ハリメ・スルタン
  ハンダン・スルタン
子女しじょ シェフザーデ・マフムト
アフメト1せい
ムスタファ1せい
家名かめい オスマン
王朝おうちょう オスマンちょう
父親ちちおや ムラト3せい
母親ははおや サフィエ・スルタン
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうスンナ
サイン
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メフメト3せい

メフメト3せいMehmed III, 1566ねん5月26にち - 1603ねん12月22にち[1])はオスマン帝国ていこくだい13だい皇帝こうてい在位ざいい1595ねん1がつ15にち - 1603ねん12月22にち)。ちちだい12だい皇帝こうていムラト3せいははサフィエ・スルタンアフメト1せいムスタファ1せい

生涯しょうがい

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即位そくいまえ

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メフメトはスレイマン1せい治世ちせいちゅうの1566ねんにマニサでのちムラト3せいサフィエ・スルタンとのあいだまれた。祖父そふのスレイマン1せいはメフメトのまれたとしになくなり、そのメフメトはマニサちちははごし、そこでイブラヒム・エフェンディから教育きょういくをほどこされた。8さいときちち即位そくいすると皇太子こうたいしとなり、1582ねん6がつ2にち割礼かつれいけ、それと同時どうじ祝祭しゅくさいもよおされた。メフメトの割礼かつれいは16さいとかなりおそかったがちちのムラト3せいはこの割礼かつれい空前くうぜん盛儀せいぎにしようとしていた。盛儀せいぎいちげつあいだつづいた。1583ねんにはマニサの知事ちじになった。マニサの知事ちじつとめる時期じき自身じしん割礼かつれいほどこしたジェッラー・メフメト・パシャに家政かせいとしてつかえていたハンダン・スルタンしたしくなってのち夫人ふじんとなった。

即位そくい

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1595ねんちちみかど崩御ほうぎょによりぎ、皇帝こうていとして即位そくいする。しかしちちおなじく無能むのう皇帝こうていで、政治せいじおも宰相さいしょうらにまかりであったため、帝国ていこく衰退すいたい促進そくしんされる治世ちせいともいえる。かれ自身じしんが、戦場せんじょうおもむいたのは、即位そくい直後ちょくごいちのみであった。

かれ即位そくいしたときには19にん男子だんし兄弟きょうだいがいたが、伝統でんとうしたがむを全員ぜんいんころしている。宮廷きゅうていぜんスルタンとその子供こどもたちのかんれつがあまりにもながかったため、人々ひとびとあわれみ、なげかなしんだという。このため、つぎ即位そくいしたアフメト1せいおとうとのムスタファ(ムスタファ1せい)をころさずにのこし、以後いごしんスルタン即位そくいするとき兄弟きょうだいごろしは、おこなわれなくなった。

長期ちょうきトルコ戦争せんそう

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ハンガリー長期ちょうき戦争せんそうでは、1596ねんにエゲルを占領せんりょうし、メフメト3せいひきいるぐんがメゼーケレシュテにおいて、ハプスブルクぐんやぶった。これ以降いこうはハンガリーでのぐん司令しれいかんクユジュ・ムラト・パシャ任命にんめいした。1598ねんにはかつて占領せんりょうしたジュールがハプスブルクがわ奪還だっかんされた。1600ねんにはオスマンぐんはカニジャを占領せんりょうするが、1601ねんにセーゲシュフェヘールをうばわれた。翌年よくねんにはセーゲシュフェヘールを奪還だっかんするが、ハンガリー支配しはい拠点きょてんブダがハプスブルクがわ包囲ほういされた。ブダの陥落かんらくこそはまぬかれたものの、たたかいはしだいに辺境へんきょう城塞じょうさいをめぐる争奪そうだつせん様相ようそうていした。

ジェラーリーの反乱はんらん

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ハプスブルクとハンガリーをめぐって戦争せんそうしているころ足下あしもとアナトリアシリアでは、反乱はんらん相次あいついでいた。その反乱はんらんしゃはジェラーリーといった。かれらは財政難ざいせいなんおちいった中央ちゅうおう政府せいふによって封土ほうど没収ぼっしゅうされたスィパーヒーやワクフの減少げんしょうによって貧困ひんこんしたマドラサ学生がくせい、そして土地とち没収ぼっしゅうされた農民のうみん遊牧民ゆうぼくみんらであった。その反乱はんらんだいいちは1596ねんはじまる。ジェラーリーらは下級かきゅう軍人ぐんじんカラ・ヤズジュ反乱はんらん合流ごうりゅうをした。1600ねんにカラ・ヤズジュはスルタンであると宣言せんげんした。オスマンがわはハンガリー戦線せんせん忙殺ぼうさつされ、その討伐とうばつ十分じゅうぶん兵力へいりょくけない事態じたいになった。カラ・ヤズジュは1601ねんソコルル・メフメト・パシャ息子むすこでバグダードの知事ちじのソコルルザーデ・ハサン・パシャにやぶれたが、カラ・ヤズジュのあにデリ・ハサン翌年よくねんにソコルルザーデ・ハサン・パシャをった。1602ねんにカラ・ヤズジュはぬがデリ・ハサンがあといだ。また、地方ちほうでも、ウズン・ハリルのらんカレンデルオールのらんジャンポラントのらんなどがきた。ジェラーリーの反乱はんらんにおいて、騎馬きば機動きどうりょくのある山賊さんぞく集団しゅうだん各地かくちむらまちおそったため、オスマン帝国ていこく台帳だいちょうにあったはずのむらまでがえる事態じたいにまでなった。これにより、所領しょりょうむらから徴税ちょうぜい生計せいけいてていた在郷ざいきょう騎士きしたちが、生活せいかつできなくなり、かれ自身じしんもジェラーリーになるというまけ連鎖れんさ存在そんざいした。さらには、カラ・ヤズジュ討伐とうばつにあたっていたはずのカラマンしゅうぐん政官せいかん待遇たいぐうへの不満ふまんから反乱はんらんぐんくわわった。

ジャンポラントのらんこしたジャンポラント(アラブめいジュンブラード)は、オスマン王家おうけによる支配しはい不正ふせいであるととらえて、自分じぶんがそれにとってわろうとした。ジャンポラントはもともとシリアとの国境こっきょうちかいキリス地方ちほう支配しはいしゃであったが、勢力せいりょくがシリアへ拡大かくだいするとレバノン名家めいかマアンオールむすんでアレッポ足場あしば独立どくりつ宣言せんげんをした。

カレンデルオールのらんこしたカレンデルオールは手下てしたてた手紙てがみで、「オスマン王家おうけ圧政あっせいしゃで、かれらは増長ぞうちょうしきっている。ジャンポラントの反乱はんらん以降いこう我々われわれオスマン見切みきりをつけ、いのちあるかぎりはかれらに服従ふくじゅうしない。アッラーの加護かごがあるならば我々われわれは、オスマンぐんかし、ユスキュダル(ボスホォラス海峡かいきょうのアジアがわ)からこちらがわをオスマン王家おうけあきらめさせる。」といてある。オスマン王家おうけバルカン半島ばるかんはんとう支配しはいすればい、アナトリアは我々われわれ支配しはいする、という意思いしかんじられる。

帝国ていこく混乱こんらん

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また、メフメト3せい国内こくないにおいて、あたらしい困難こんなん直面ちょくめんすることとなった。それは17世紀せいき初頭しょとうイスタンブールでの騒擾そうじょうである。これはだい宰相さいしょうとイスラム長老ちょうろう対立たいりつし、前者ぜんしゃイェニチェリ後者こうしゃ常備じょうび騎兵きへいつながることで、りょう集団しゅうだんあらそいが暴力ぼうりょくともなこうそう激化げきかした。最終さいしゅうてきには鎮静ちんせいしたものの、これ以降いこうたびたびこの騒擾そうじょうかえされるようになる。この騒擾そうじょうにおいては、常備じょうび騎兵きへいぐんだんによってメフメトの廃位はいいほのめかされていた。疑心暗鬼ぎしんあんきおちいったメフメト3せいははサフィエ・スルタン讒言ざんげんにより1603ねん混乱こんらん背後はいご何者なにものかがいるとして息子むすこシェフザーデ・マフムトとその使用人しようにんたちを処刑しょけいした。

晩年ばんねんにはアッバース1せいひきいるサファヴィーあさがかつてちちムラト3せい獲得かくとくした領土りょうど侵攻しんこうしてきた。

1603ねん暴飲ぼういん暴食ぼうしょく原因げんいんで38さい崩御ほうぎょし、アフメト1せいいだ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ メフメト3せい - Find a Grave英語えいご