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ハリメ・スルタン

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ハリメ・スルタンHalime Sultan、? - 1623ねん)は、オスマン帝国ていこくおっとメフメト3せい息子むすこシェフザーデ・マフムトムスタファ1せいがいる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

母后ぼこうになるまで[編集へんしゅう]

ハリメ・スルタンの出身しゅっしん不明ふめいであるが、一説いっせつにはアブハズけい出身しゅっしんというせつもある。ハリメは皇子おうじ時代じだいメフメト3せいむすばれて1582ねんシェフザーデ・マフムトを、1592ねんにムスタファ(ムスタファ1せい)を出産しゅっさんした。

1603ねん息子むすこのマフムトが処刑しょけいされる。同年どうねんメフメト3せい死去しきょするともう一人ひとり息子むすこのムスタファも処刑しょけいにあったが、あたらしいスルタンのアフメト1せい黄金おうごんとりかごばれるハレム一室いっしつ幽閉ゆうへいするにめた。1612ねんにもムスタファは処刑しょけいされそうになったが、キョセム・スルタンがとりなしてこれもふせがれた。

母后ぼこうとして[編集へんしゅう]

1617ねんにアフメト1せい死去しきょすると息子むすこのムスタファ1せい即位そくいし、ハリメはヴァリデ(母后ぼこう)となった。しかしムスタファ1せいには精神せいしんてき異常いじょうおおく、翌年よくねん退位たいいさせられた。つぎ即位そくいしたオスマン2せい殺害さつがいされたのちふたたびムスタファ1せい即位そくいするがこれもすぐに退位たいいさせられた。それ以降いこうのハリメはしずかな余生よせいごし、1623ねん死去しきょした。

子女しじょ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]