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ムスタファ3せい

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ムスタファ3せい
Mustafa III
オスマン皇帝こうてい
在位ざいい 1757ねん10月30にち - 1774ねん1がつ21にち

出生しゅっしょう 1717ねん1がつ28にち
死去しきょ 1774ねん1がつ21にち
後継こうけい アブデュルハミト1せい
子女しじょ セリム3せい
家名かめい オスマン
王朝おうちょう オスマンちょう
父親ちちおや アフメト3せい
母親ははおや ミフリシャー・スルタン
サイン
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ムスタファ3せいMustafa III, 1717ねん1がつ28にち - 1774ねん1がつ21にち)は、オスマン帝国ていこくだい26だい皇帝こうてい在位ざいい1757ねん - 1774ねん)。ちちだい23だい皇帝こうていアフメト3せいははフランスじんアブデュルハミト1せいあにセリム3せい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

即位そくいまで[編集へんしゅう]

ムスタファはアフメト3せいとミフリシャフ・スルタンとのあいだ1717ねんにうまれた。ムスタファにはスレイマン(1710-1732)という同母どうぼけいがおり1720ねんにはあにのスレイマンと異母いぼ兄弟きょうだいのメフメト(1717-1756)とバヤズィト(1718-1771)らととも割礼かつれいけた。このとき割礼かつれいしきは、9月18にちから10がつ2にちまでの15にちつづいており豪華ごうかさが際立きわだっていて、しょ外国がいこくから使節しせつまねいたり帝国ていこくのあらゆる場所ばしょからギルドがて、各地かくちから食料しょくりょうなどをあつめた。ひるはギルドの行列ぎょうれつ曲芸きょくげいなどがおこなわれ、よる宴席えんせき花火はなびつづき、膨大ぼうだいとみ消費しょうひされた。ギルドの人数にんずうは1109にんにのぼり、それぞれグループをつくり、そこであずまやをつくって行進こうしんした。花火はなび毎日まいにちのようにつづき、燭台しょくだいがた花火はなび噴水ふんすい真似まね花火はなび回転かいてん花火はなびなどがもよおされた。

1730ねんちち廃位はいいともない、慣例かんれいしたが兄弟きょうだいたちとともトプカプ宮殿きゅうでん奥深おくふかくに27年間ねんかん幽閉ゆうへいごした。1756ねんあにシェフザーデ・メフメト (アフメト3せい皇子おうじ)不慮ふりょげるとムスタファは事実じじつじょう皇太子こうたいしとなった。(ただしメフメトの死因しいんには諸説しょせつあり、一説いっせつにはオスマン3せいによる毒殺どくさつともわれる。)1757ねん従兄じゅうけいオスマン3せい嗣子ししなく崩御ほうぎょしたため皇帝こうてい即位そくいした。

即位そくい[編集へんしゅう]

即位そくい水道すいどうはしだい規模きぼ穀物こくもつ倉庫そうこつくるなどした。またムスタファ3せい頻繁ひんぱん旅行りょこうをしており、法律ほうりつがしっかり施行しこうされているかどうかを確認かくにんしたという。精力せいりょくてきかつ開明かいめいてき皇帝こうていであり、西欧せいおう列強れっきょうくらべて時代遅じだいおくれであることがあきらかになったオスマン帝国ていこく軍隊ぐんたい国家こっか制度せいど近代きんだいすすめようとした。しかしそのこころみはきゅう権力けんりょくそうであるイェニチェリイマームつよ抵抗ていこうけた。フランスの協力きょうりょくによって数学すうがく航海こうかいじゅつ自然しぜん科学かがくのアカデミーを設立せつりつ

プロイセンとの同盟どうめい[編集へんしゅう]

ムスタファ3せいはオーストリアに対抗たいこうすべくプロイセンフリードリヒ大王だいおう同盟どうめいすることをかんがえた。1761ねんにプロイセンと国交こっこうむすび、軍隊ぐんたい再編さいへんすべくベルリン将校しょうこう採用さいようするなどした。1763ねん両国りょうこく外交がいこうかん交換こうかんした。

戦争せんそう[編集へんしゅう]

ヨーロッパ列強れっきょうくらべて自国じこく軍事ぐんじてき劣弱れつじゃく正確せいかく認識にんしきしていたため、戦争せんそうひかえていた。1757ねんから1763ねんまでだい宰相さいしょうつとめていたコジャ・ラグプ・パシャはなるべく戦争せんそうきないようにこころがけていたが1763ねん死去しきょした。後任こうにんのデヴキイ・ハムザ・ハミト・パシャもすぐにだい宰相さいしょう解任かいにんされたためキョセ・バヒル・ムスタファ・パシャが就任しゅうにんした。1765ねんにムスタファ・パシャの汚職おしょく発覚はっかくした。ムスタファ・パシャはいいわけつづけていたため、だい宰相さいしょう解任かいにんされのち処刑しょけいされた。一説いっせつにはあにのシェフザーデ・メフメトが殺害さつがいされたときだい宰相さいしょうでその殺害さつがい関与かんよしていたため処刑しょけいされたともいわれる。その後任こうにんのムフシンザーデ・メフメト・パシャも対外たいがい融和ゆうわつとめていたが1768ねんポーランド内乱ないらん発生はっせいし、ロシアぐんコサック騎兵きへいげるポーランドじんってオスマン帝国ていこく領内りょうないげんウクライナりょうバルタ)に侵入しんにゅうしたため、ロシア帝国ていこくたい宣戦せんせん布告ふこくせざるをなくなった(だい6戦争せんそう)。

しかし戦争せんそうはムスタファ3せいおそれたとおり敗戦はいせんつづきで、1769ねんにロシアはモルドバへと侵攻しんこうヤッシー占領せんりょうされた。同年どうねん、ロシアはコーカサスへと侵攻しんこうした。ただしこちらは1772ねんまでにロシアぐん撤退てったいしている。地中海ちちゅうかいではロシア海軍かいぐんバルト海ばるとかい経由けいゆしてペロポネソス半島はんとう占領せんりょうし、そのでオスマンがわへの反乱はんらんこさせた。1771ねんにロシア海軍かいぐん撤退てったいするとペロポネソス半島はんとう反乱はんらん鎮圧ちんあつされた。エジプトやシリアでも反乱はんらんきており、反乱はんらん次々つぎつぎ拡大かくだいしていった。オスマンがわはこの混乱こんらんおさめるべく1769ねんだい宰相さいしょうアルバニアじんのイヴァズザーデ・ハリル・パシャを、1771ねんにシラフダル・メフメト・パシャを任命にんめいした。しかし戦争せんそう絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうで、1774ねんにムスタファ3せいやまいにより崩御ほうぎょした。おとうとアブデュルハミト1せいいだ。

家族かぞく[編集へんしゅう]

つま

  • ミフリシャフ・スルタン
  • ミフリシャフ・カドゥン
  • アイニュルハヤト・カドゥン
  • アディルシャー・カドゥン
  • リファト・カドゥン

息子むすこ

  • セリム3せい(1761ねん-1808ねん)
  • ヘビドゥラー(1761ねん)
  • メフメト(1767ねん)