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ラリサ

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ラリサ
Λάρισα
位置いち
ラリサの位置の位置図
ラリサの位置いち
位置いち
ラリサの位置(ギリシャ内)
ラリサ
ラリサ
ラリサ (ギリシャ)
ラリサの位置(地中海内)
ラリサ
ラリサ
ラリサ (地中海ちちゅうかい)
ラリサの位置(ヨーロッパ内)
ラリサ
ラリサ
ラリサ (ヨーロッパ)
座標ざひょう : 北緯ほくい3938.5ふん 東経とうけい2225ふん / 北緯ほくい39.6417 東経とうけい22.417 / 39.6417; 22.417
行政ぎょうせい
くに ギリシャの旗 ギリシャ
 地方ちほう テッサリア
 けん ラリサけん
  ラリサ
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき 122 km2
標高ひょうこう 67 m
人口じんこう
人口じんこう (2001ねん現在げんざい
  市域しいき 126,076にん
    人口じんこう密度みつど   1,028にん/km2
その
ひとしときおび EET (UTC+2)
夏時間なつじかん EEST (UTC+3)
公式こうしきウェブサイト : [1]

ラリサ (Λάρισα, Lárisa, Larisa) またはラリッサ (Larissa) は、ギリシア中部ちゅうぶ都市としテッサリア地方ちほう中心ちゅうしん都市としであり、テッサリアの首府しゅふラリサけん県庁けんちょう所在地しょざいち市街しがいピニオスがわ沿いにひろがっている。

世界せかい遺産いさんメテオラちかい。アテネ方面ほうめんから列車れっしゃメテオラかう場合ばあい、ラリサえき手前てまえやく40kmのパレオファルサロスでカランバカ方面ほうめんえる。

地理ちり

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テッサリア地方ちほうには、欧州おうしゅう自動車じどうしゃ道路どうろE75号線ごうせんや、アテネテッサロニキむす鉄道てつどうかよっている。また、ラリサの地域ちいきは、ヨーロッパ各地かくちへの航路こうろむすばれている、中央ちゅうおうギリシャ国際こくさい空港くうこう立地りっちするネア・アンヒアロスちかい。

また、土星どせい衛星えいせいディオネ表面ひょうめんにあるきずは「ラリサ・チャスマ」とばれるが、これはラリサのまち由来ゆらいする。

歴史れきし

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古代こだい

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旧石器時代きゅうせっきじだいには、人類じんるいがこの地域ちいき生活せいかつしていたという痕跡こんせき発見はっけんされているが、先進せんしん地域ちいき周辺しゅうへんという位置いちづけであった。しかし、ラリサ周辺しゅうへん土地とち肥沃ひよく農業のうぎょうてきしており、また古代こだいにはうま産地さんちとしてもられていた。やがて、ラリサ周辺しゅうへん地域ちいきギリシア地域ちいきとのくなるほど発展はってんしてった。

ラリサの名称めいしょうは、古代こだいギリシャで「城塞じょうさい」を意味いみし、旧石器時代きゅうせっきじだいにはおおくのまち一般いっぱんてきであった単語たんごが、がれたものである。ギリシア神話しんわにおいて、ニンフラリッサ原始げんしじんペラスゴスむすめだとされている。

また、ラリサは有名ゆうめい古代こだい医者いしゃヒポクラテスソフィストゴルギアス死亡しぼうした土地とちだともかんがえられている。

紀元前きげんぜん5世紀せいきまつに、テッサリア地方ちほうポリス貨幣かへい共有きょうゆうする慣習かんしゅう消滅しょうめつすると、ラリサは独自どくじ貨幣かへい鋳造ちゅうぞうするようになった。この貨幣かへい表面ひょうめんには、ラリサの名前なまえのもとであるとされる、ニンフラリッサえがかれていた。これは当時とうじ有名ゆうめいであった、シラクサのニンフ、アレトゥサえがかれたキモンの貨幣かへい影響えいきょうけたとおもわれている。また、裏面りめんには、平原へいげんひろがるテッサリア地方ちほうのシンボルであるうまが、さまざまなポーズでえがかれている。また、テッサリアひと祖先そせんとされた英雄えいゆうテッサロス姿すがたも、たいていはえがかれていた。

また、ラリサは、クセノポンらやギリシア傭兵ようへいひきいてペルシアかい、紀元前きげんぜん401ねんやぶれた将軍しょうぐん1人ひとりメノン出身しゅっしんでもある。(クセノポンちょアナバシス』より。)アケメネスあさペルシアのおうダレイオス2せい息子むすこで、あにアルタクセルクセス2せいたおし、ペルシアのおうになることをくわだてたしょうキュロスを、メノンは助力じょりょくしようとしたのであった。このメノンについては、プラトン対話たいわへんなか叙述じょじゅつされている。そこでは、ソクラテスただしいこうえと科学かがくちがいを、メノンをれいに「ラリサへのみち」として説明せつめいしている。「ラリサへのみち」とは、メノンがきるみちしんじて故郷こきょうのラリサを目指めざしたように、それぞれ人間にんげんは、人生じんせいなか真実しんじつ模索もさくしながら、という目的もくてきへときている、とったのであった。

ヘレニズム・ローマ時代じだい

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テッサリア地方ちほうまち寡頭せい圧倒的あっとうてきであった時代じだいには、ラリサはパラスギオティス地域ちいき名声めいせいがある、アレウアデによって支配しはいされていた。紀元前きげんぜん369ねんになると、タグス(Tagus)とばれるテッサリア地方ちほうストラテゴ支配しはいするようになった。ペロポネソス戦争せんそうこると、ラリサはアテナイがわって参戦さんせんした。

しだいにテッサリア地方ちほう中心ちゅうしん都市としとなっていったラリサは、紀元前きげんぜん344ねんマケドニア王国おうこくピリッポス2せいによって併合へいごうされた。紀元前きげんぜん196ねんには共和きょうわせいローマ同盟どうめい都市としとなり、テッサリア同盟どうめい盟主めいしゅとなった。

中世ちゅうせいから現代げんだい

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マ帝国まていこく分裂ぶんれつ、ラリサはひがしマ帝国まていこく統治とうちりょうとなり、5世紀せいきまで司教しきょうかれた。そのブルガリア帝国ていこくセルビア王国おうこく支配しはいされ、15世紀せいきにはオスマン帝国ていこく支配しはいにはいった。オスマン帝国ていこく時代じだいのラリサは、ヤニナしゅうヴィライェト)にあるパシャかれた、トルコイェニシェヒリ・フェナル("Yenişehr-i Fenar"=「ギリシャのあたらしいまち」)としてられた。そのあいだには古代こだい街並まちなみは徐々じょじょになくなった。

ギリシャ独立どくりつ戦争せんそうさいにはアリ・パシャ本営ほんえいがラリサにかれ、また、アリ・パシャによって徴収ちょうしゅうされたスーダンからのアフリカへいのこりが、ラリサの郊外こうがい集落しゅうらくつくり、居住きょじゅうした。1881ねんには大量たいりょうトルコじんが、ラリサから移住いじゅうした。19世紀せいきのラリサは、おも皮革ひかく綿めんきぬタバコなどの生産せいさん有名ゆうめいであった。また、ラリサでは排水はいすい施設しせつ不備ふびや、かわ氾濫はんらんによって熱病ねつびょうマラリアなどが流行りゅうこうしたこともあり、死亡しぼうりつ出生しゅっしょうりつ上回うわまわることもあった。

1897ねんまれ戦争せんそうさいには、ラリサはおう太子たいしコンスタンティノス本営ほんえいかれ、4がつ25にちにはトルコぐん占領せんりょうした。平和へいわ条約じょうやく締結ていけつは、ラリサはギリシャりょうとどまった。

現在げんざい、ラリサで有名ゆうめいなのは、20世紀せいきはじめまで使用しようされていた、モスクミナレットや、イスラム教徒きょうと墓地ぼちである。

人口じんこう推移すいい

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とし 人口じんこうひと けん人口じんこうひと
1889 13,610 -
1907 18,001 95,066
1991 113,781 277,973
2001 126,076 279,305

観光かんこう

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遺跡いせき

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古代こだい劇場げきじょう

教育きょういくおよび研究けんきゅう機関きかん

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スポーツ

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  • AEL 1964
  • アポロン・ラリッサFC
  • オリンピア・ラリッサBC
  • AEL 1964BC

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ

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姉妹しまい都市とし

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参考さんこう

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  • "PDF (875 KB) 2001 Census" (ギリシア National Statistical Service of Greece (ΕいぷしろんΣしぐまΥうぷしろんΕいぷしろん) (2007-10-30)
  • "Basic Characteristics" Ministry of the Interior(ギリシア (2007-08-07)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Sister City Directory” (英語えいご). Sister Cities International. 2012ねん2がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん2がつ6にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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