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ミナレット

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ミナレット(Minaret、アラビア: مَنارة‎もしくはمِئذَنة)は、モスクマドラサなどのイスラム教いすらむきょう宗教しゅうきょう施設しせつ付随ふずいするとうとううえからはムスリム礼拝れいはいサラート)をびかけるアザーンながされる。初期しょきイスラーム世界せかいでは、ミナレットはイスラームの権威けんい象徴しょうちょうとなっていた[1]

ミナレットはアラビアで「ひかりとも場所ばしょ」を意味いみするマナーラ (منارة manāra) が英語えいご転訛てんかした言葉ことばである[1]。アラビアでは「ひかり(ヌール)」「(ナーラ)」から派生はせいしたマナール (منار manār) あるいはマナーラ (منارة manāra) のほか、「アザーンをおこな場所ばしょ」を意味いみするマアザナとばれることもある。トルコでは「ミナレ(Minare)」とばれ、エジプトシリアでは「マダーナ(Ma'dhana)」「ミダーナ(Mi'dhana)」、きたアフリカでは「サウマアー(Șawma'a)」ともばれる[2]みなみアジアではミーナール (مينار mīnār) ともばれる。日本語にほんごでは「ひかりとう」「尖塔せんとう」とやくされることもある[3]

歴史れきし

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起源きげんについては不明ふめいであるが、シリア地方ちほうキリスト教きりすときょう教会きょうかい付設ふせつされていた鐘楼しゅろう転用てんようしたとするせつがあり、 また語源ごげんからシリア・エジプト沿岸えんがんにあった灯台とうだい砂漠さばくてられた目印めじるしとう起源きげんとするともかんがえられている[1][3]7世紀せいき時点じてんではミナレットはてられておらず、礼拝れいはいびかけは屋根やねうえおこなわれていた[3]705ねんウマイヤあさのカリフに即位そくいしたワリード1せいマディーナ(メディナ)の預言よげんしゃのモスク改築かいちくおこない、改装かいそうされたモスクの四隅よすみいちへん4m、たかさ25mちょうのミナレットがそなえられていたとつたえられている[4]

8世紀せいきから10世紀せいきにかけて角柱かくちゅうじょうとうイランからイベリア半島はんとうにわたる広範こうはん地域ちいきてられ、スペイン南部なんぶにはキリスト教きりすときょう教会きょうかい鐘楼しゅろう転用てんようされたミナレットもある[3]9世紀せいき一時期いちじきにはイラク、エジプトでマルウィヤ・ミナレットなどの螺旋らせんじょうのミナレットがてられ、それらのミナレットはバベルばべるとうをモデルにしているとわれている[5]11世紀せいき中央ちゅうおうアジア、イランに円柱えんちゅうじょうとうあらわれ、12世紀せいき以後いごいちついかた(ドゥ・ミナール)が流行りゅうこうした[3]セルジュークあさ考案こうあんされたドゥ・ミナールは、イランからはなれたインドアナトリア半島はんとう伝播でんぱする[6]デリークトゥブ・ミナールには円柱えんちゅうじょうとうひれじょうフリンジ、アラビア銘文めいぶんムカルナス、そしてドゥ・ミナールといったイランの建築けんちく様式ようしき影響えいきょう見受みうけられる[7]

15世紀せいきオスマン帝国ていこく時代じだいさいさきとがった鉛筆えんぴつがたのミナレットが主流しゅりゅうになる[3]。オスマン帝国ていこくイスタンブールせいソフィアだい聖堂せいどうをモスクに転用てんようしたのち、4ほんのミナレットを増築ぞうちくしている。

イラン、トルコなどの地域ちいき複数ふくすうのミナレットてられたことを契機けいきとして、ミナレットの役割やくわり従来じゅうらい礼拝れいはいびかけをおこなから建築けんちく装飾そうしょく変化へんかしていった[8]

構造こうぞう

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ジャームのミナレット内部ないぶ階段かいだん

ミナレットはモスクのミフラーブ主軸しゅじくとする線上せんじょうてられることがおおいが、中庭なかにわ片隅かたすみもんりょうわきてられることもある[1][3]だいモスクのミナレットはたかった装飾そうしょくほどこされているのにたいし、住宅じゅうたく集落しゅうらくのミナレットはひくくずんぐりしたものになっている[3]

シリア、きたアフリカでは角柱かくちゅう、イラク、イラン、トルコでは円柱えんちゅうのミナレットがおおく、エジプトにおお折衷せっちゅうがたのミナレットは長方形ちょうほうけい土台どだいはち角形かくがた円柱えんちゅうとうげ、角柱かくちゅう円柱えんちゅうあいだ部分ぶぶん壁画へきがえがかれている[1]。イラン、中央ちゅうおうアジアに建設けんせつされた角柱かくちゅうじょうのミナレットは基部きぶ発掘はっくつされるだけにとどまっており、実際じっさいとうたかさや形状けいじょう判明はんめいしていない[9]きたアフリカでも一時期いちじき円柱えんちゅうのミナレットが建設けんせつされたが、時代じだいとおして初期しょき様式ようしきである角柱かくちゅうのミナレットがこのまれている[10]。9世紀せいき前半ぜんはんてられたカイラワーン(ケルアン)のミナレットはどう時代じだい螺旋らせんがたのミナレットやぜん時代じだいのシリアのミナレットとことなり、さんそう角柱かくちゅうかさねた形状けいじょうっているが、独特どくとくのミナレットのかたち古代こだいローマ時代じだい灯台とうだいをモデルにしているとかんがえられている[11]。ミナレットの頂上ちょうじょう円錐えんすいじょう屋根やねせるオスマン様式ようしきのミナレットは、さき円錐えんすいじょう屋根やねけられていたはかとうからの影響えいきょうがあるとかんがえられている[12]。オスマン帝国ていこく領内りょうないでは、オスマン様式ようしき流行りゅうこうするまえてられたミナレットのうえあらたに鉛筆えんぴつがたのミナレットが増築ぞうちくされたれい確認かくにんされている[13]。1986ねんパキスタンイスラマバード建立こんりゅうされたシャー・ファイサル・国家こっかモスクはトルコじん建築けんちく設計せっけいがけたため、銀色ぎんいろのオスマン様式ようしき尖塔せんとうが4ほんてられている[14]日本にっぽん東京とうきょうジャーミイはトルコ共和きょうわこく所有しょゆうてられているため、オスマン様式ようしき尖塔せんとうてられている[12]

もんりょうわき一対いっついのミナレットをてる様式ようしきはドゥ・ミナールとばれ、対象たいしょうせいによってモスクのくち視覚しかくてき強調きょうちょうされる[15]。ドゥ・ミナール様式ようしきひろ地域ちいき普及ふきゅうしたが、やがて中央ちゅうおうアジアでは建物たてものすみたいになるとうてられるようになり、15世紀せいきにドゥ・ミナール様式ようしきすたれたアナトリア半島はんとうでは敷地しきちすみにミナレットがてられるようになったエジプトではドゥ・ミナール様式ようしき採用さいようされることはすくなく、モスクに複数ふくすうのミナレットがてられている場合ばあいドームならぶミナレットのたかさを強調きょうちょうするためにそれぞれがことなるかたちをとっている[12]

遺体いたい安置あんちされた場所ばしょうえてられるはかとう内部ないぶ空洞くうどうになっているのにたいし、ミナレットの内部ないぶには昇降しょうこうのための階段かいだんもうけられている[16]時代じだいつにれてミナレットのかたち角柱かくちゅうから円柱えんちゅう変化へんかしていった理由りゆうについて、円柱えんちゅうがたのミナレットの内部ないぶにもうけられた螺旋らせん階段かいだんとう強度きょうどたかめていることがげられている[17]。ミナレットのなか螺旋らせん階段かいだんのぼ階段かいだんりる階段かいだんわかれたじゅう構造こうぞうになっており、15世紀せいきのオスマン帝国ていこくでは階段かいだんばんを120ずつ三重みえ螺旋らせん階段かいだん出現しゅつげんした[18]

11世紀せいき後半こうはんからとうたて方向ほうこう境界きょうかいとなるフリンジけたミナレットがあらわれ、とうけられたフリンジはひかり太陽たいよう象徴しょうちょうだとかんがえられている[10]。また、11世紀せいきのイランで発展はってんしたムカルナス技法ぎほうはミナレットののきかざりにもれられている。スペインのコルドバだいモスク(メスキータ)はレコンキスタのちキリスト教きりすときょう教会きょうかい転用てんようされ、16世紀せいきまつにモスクのミナレットがあらしによって破損はそんすると、修復しゅうふく工事こうじさいにミナレットの上部じょうぶにルネサンス様式ようしき装飾そうしょくくわえられた[19]

機能きのう

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ミナレットは1にちに5おこなわれる礼拝れいはいびかけ(アザーン)のとなるほか、要人ようじんらせるためにも使つかわれていた[20]サファヴィーあさ以降いこうのイランではシーア国教こっきょう採用さいようされたため、アザーンはイーワーンもん)のうえのゴルダステとばれる小屋こやおこなわれるようになり、ミナレットは建築けんちくぶつ装飾そうしょくひとつとなる[21]近代きんだい以前いぜんはアザーンをびかける人間にんげんムアッジン)が肉声にくせい礼拝れいはいびかけていたが、おおくのモスクでは礼拝れいはいしつもうけられたマイクをとおしてスピーカーからアザーンをながしている[3]。スピーカーの普及ふきゅうすすんだ事情じじょうくわえて、本来ほんらいのモスクにはミナレットはそなけられていなかった歴史れきしてき経緯けいい建築けんちく抑制よくせいというてんから、ミナレットの建設けんせつ不要ふようとする主張しゅちょうされている[22]

きたアフリカではミナレットは「隠遁いんとんしょ」を意味いみする「サウマアー(サウマア)」とばれているが、これはミナレットのなか高僧こうそう宿泊しゅくはくするしょう部屋へやもうけられていたことに由来ゆらいする[23]。イランのケルマーンひがしカヴィール砂漠さばくには崩壊ほうかいしかかったミナレットが一定いってい間隔かんかくいてっているが、これらのミナレットは狼煙のろしだいとして使つかわれていたとかんがえられている[23]。ミナレットのふもとにあるモスクでは国家こっか支配しはいしゃあきらかにするフトバ説教せっきょう)がおこなわれており、高層こうそう建築けんちくぶつ一種いっしゅ権力けんりょく象徴しょうちょうになっていた[24]。こうした支配しはいしゃ意図いと逆手さかてり、民衆みんしゅうがミナレットを抗議こうぎ活動かつどうとすることもあった[25]

ミナレットのいちれい

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 杉村すぎむら「ミナレット」『しんイスラム事典じてん』、471-472ぺーじ
  2. ^ 村田むらた「ミナール」『アジア歴史れきし事典じてん』8かん、405ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i 深見ふかみ『イスラム建築けんちくがおもしろい』、42-43ぺーじ
  4. ^ 羽田はた『モスクがかたるイスラム』、52-54ぺーじ
  5. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、89ぺーじ
  6. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちく世界せかい』、83-84ぺーじ
  7. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちく世界せかい』、101-102ぺーじ
  8. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、100ぺーじ
  9. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、88-89ぺーじ
  10. ^ a b 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、90ぺーじ
  11. ^ 羽田はた『モスクがかたるイスラム』、91-92ぺーじ
  12. ^ a b c 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、95ぺーじ
  13. ^ 羽田はた『モスクがかたるイスラム』、194ぺーじ
  14. ^ 水谷みずたに『イスラーム建築けんちくしん』、154ぺーじ
  15. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちく世界せかい』、83ぺーじ
  16. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、81ぺーじ
  17. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちく世界せかい』、79ぺーじ
  18. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、89-90ぺーじ
  19. ^ 羽田はた『モスクがかたるイスラム』、96-97ぺーじ
  20. ^ 長谷部はせべ史彦ふみひこ「ミナレットにおける異議いぎもうて」史学しがく』72かん3ごう収録しゅうろく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく, 2003ねん)、113ぺーじ
  21. ^ 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、98ぺーじ
  22. ^ 水谷みずたに『イスラーム建築けんちくしん』、43,79ぺーじ
  23. ^ a b 深見ふかみ『イスラーム建築けんちくかた』、96ぺーじ
  24. ^ 長谷部はせべ史彦ふみひこ「ミナレットにおける異議いぎもうて」史学しがく』72かん3ごう収録しゅうろく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく, 2003ねん)、123-125ぺーじ
  25. ^ 長谷部はせべ史彦ふみひこ「ミナレットにおける異議いぎもうて」史学しがく』72かん3ごう収録しゅうろく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく, 2003ねん)、125ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 杉村すぎむらとう「ミナレット」『しんイスラム事典じてん収録しゅうろく平凡社へいぼんしゃ, 2002ねん3がつ
  • 羽田はたただし『モスクがかたるイスラム』(中公新書ちゅうこうしんしょ, 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ, 1994ねん3がつ
  • 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちくかた』(東京とうきょうどう, 2003ねん7がつ
  • 深見ふかみ奈緒子なおこへん『イスラム建築けんちくがおもしろい』(あきらこくしゃ, 2010ねん1がつ
  • 深見ふかみ奈緒子なおこ『イスラーム建築けんちく世界せかい』(岩波いわなみセミナーブックス, 岩波書店いわなみしょてん, 2013ねん7がつ
  • 水谷みずたにあまね『イスラーム建築けんちくしん』(イスラーム信仰しんこう叢書そうしょ, 国書刊行会こくしょかんこうかい, 2010ねん12がつ
  • 村田むらた治郎じろう「ミナール」『アジア歴史れきし事典じてん』8かん収録しゅうろく平凡社へいぼんしゃ, 1961ねん