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とう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京とうきょう存在そんざいする世界せかい一番いちばんたかい"とう"、東京とうきょうスカイツリー
とう」の起源きげんであるサーンチーストゥーパ

とう(とう)は、接地せっち面積めんせき比較ひかくしていちじるしくたか構造こうぞうぶつのことである。

定義ていぎ語源ごげん

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日本語にほんごの「とう」は、もともと仏教ぶっきょう構造こうぞうぶつである仏塔ぶっとう意味いみしていたが、現代げんだいでは様々さまざま比較的ひかくてきたか構造こうぞうぶつとうじょう構造こうぞうぶつ)にたいしても使用しようされており、建築けんちく基準きじゅんほうによって厳密げんみつ定義ていぎはされていない。

とう」の語源ごげん

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日本語にほんごの「とう」の語源ごげんサンスクリットかたり)の स्तूपstūpa、ストゥーパ、意味いみ: heap、…をげる、蓄積ちくせきする)にもとめられる。このかたり古代こだいインドにおいて、饅頭まんじゅうかたげたづかのことをもすようになっていたが、仏教ぶっきょうには今日きょううところの「卒塔婆そとうば」の意味いみれられた。stūpa は中国ちゅうごくで「古代こだい中国語ちゅうごくご発音はつおん [*suːdtaːʔpʰaːl])」とおとうつしかんやくされ、やがて「窣(そつ)」が脱落だつらくして「坡(とうばば)」に変化へんかしたとかんがえられている。ただし、「坡(塔婆とうば)」はサンスクリット stūpa のパーリかたちである tūpa (トゥーパ)がおとうつしかんやくされたものとのせつもある[1]。「とう」は、そのいずれかのかたちからさらに省略しょうりゃくされ、1文字もじあらわされるようになったものである(現代げんだい中国語ちゅうごくご発音はつおんは「ター、拼音: 」)。

日本にっぽんでは神道しんとうにおけるかみ奈備(かみなび)やいわ信仰しんこう(いわくらしんこう)が石塚いしづか信仰しんこうとなり、仏塔ぶっとうむすびつき供養くようとうとなった。はか場合ばあいもあるが、祈念きねん祈願きがんとして「そこに宿やどいのち」がすさぶるかみにならぬように、慰霊いれい鎮魂ちんこんとしてまつったものであり、五重塔ごじゅうのとうなどをしたものもおおいが、ただの石版せきばん場合ばあいもある。またまつられるものも食料しょくりょうとして捕獲ほかくしたさかなくじらであったり、包丁ほうちょう人形にんぎょうなどの器物きぶつ道具どうぐなど)のものもあり、森羅万象しんらばんしょういのち宿やどるとする神道しんとう観念かんねんもとづくものとなっている。

日本にっぽんにおける「とう」は、江戸えど時代じだいまでは、仏教ぶっきょうてら構造こうぞうぶつのみを言葉ことばとして使用しようされていた。したがって、江戸えど時代じだい前後ぜんこう高層こうそう建造けんぞうぶつたとえば、吉野よしのさと遺跡いせき再現さいげんされる古代こだい(やぐら)や中世ちゅうせい城郭じょうかく建築けんちくられる天守てんしゅ一般いっぱんに「とう」とぶことはない[注釈ちゅうしゃく 1]が、形式けいしきではとうのようにてられたものをそうとうがたうことがある。

しかし、明治めいじ以降いこうはいってきた西洋せいよう建築けんちくぶつ構成こうせいしていた構造こうぞうぶつtower対訳たいやくとして「とう」が使つかわれるようになる。電波でんぱ送信そうしんたかいアンテナや送電そうでんのための構造こうぞうぶつも「とう」のがあてられるようになった。したがって、現在げんざいの「とう」の用法ようほう厳密げんみつ定義ていぎ存在そんざいするわけではない。

なお、とう助数詞じょすうしは「もと」であるが、これも仏塔ぶっとう由来ゆらいかんがえられる。また、助数詞じょすうしとして「そう」なども使つかわれることがある。

tower の語源ごげん

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英語えいご tower[ˈtaʊ.ə(ɹ)]、タウア[注釈ちゅうしゃく 2]慣用かんようてき日本語にほんご表記ひょうき:タワー〉)は、ドイツTurm (トゥルム)やフランス語ふらんすごtour (トゥール)、イタリア torre (トッレ)などと同様どうようラテン語らてんご turrem (トゥルレム)< turris (トゥルリス、意味いみ: high structurepalatiumarx高層こうそう建造けんぞうぶつ古代こだいローマのななつのおかの)大宮おおみや殿どの城塞じょうさい)に由来ゆらいする[2]。それはさらにふるく、古代こだいギリシアじんエトルリアじんしてぶところの Τυρρήνιοι (Turrēnoi、えい: Tyrrhenians、テュレニアじん)という言葉ことば起源きげんることができる。また、漢字かんじの「とう」と同様どうようサンスクリットの stūpa との関連かんれんせい指摘してきされることもあるが、さだかではない。

古代こだいとう

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オリエント文明ぶんめい

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チョガー・ザンビール遺跡いせきジッグラト紀元前きげんぜん2000ねんごろか)
エドフ神殿しんでんのパイロン
紀元前きげんぜん2世紀せいきころ造営ぞうえいか)

古来こらいから人類じんるいたかいものへの憧憬どうけい畏敬いけいねんいてきた[3]古代こだいから中世ちゅうせいにかけてのとうじょう構造こうぞうぶつにはメソポタミアジッグラト古代こだいエジプトピラミッドオベリスク、さらに中世ちゅうせい教会堂きょうかいどう鐘楼しゅろうなどがあるが、これらはいずれもいし煉瓦れんが塊状かいじょうげた塊状かいじょう構造こうぞうである[3]

とう歴史れきし監視かんしとう宗教しゅうきょうとうからはじまったといわれている[3]

イェリコの監視かんしとう

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確認かくにんできる世界せかい最古さいことううみ北方ほっぽうやく9kmに位置いちする古代こだい都市としイェリコにあった監視かんしとうである[3]。イェリコは紀元前きげんぜん8000ねんごろ世界せかい最古さいこ集落しゅうらくとされており、やく4haの面積めんせき人口じんこうやく2000にん生活せいかつしていたとされている[4]。イェリコは年間ねんかんつうじて温暖おんだん豊富ほうふ湧水わきみずから食料しょくりょう資源しげんゆたかであったため、周辺しゅうへん平原へいげん山岳さんがく地帯ちたいらす未開みかい民族みんぞく標的ひょうてきにされていた[4]。そのためイェリコでは住居じゅうきょぐん周囲しゅうい石造いしづくりの防御ぼうぎょかべかこみ、防御ぼうぎょかべ内側うちがわには監視かんしとうがたてられていた[4]集落しゅうらくあとには現在げんざいでも直径ちょっけい10mほどのえんとうが9mのたかさまで残存ざんそんしているが、この監視かんしとう望楼ぼうろう)がどのくらいのたかさであったかはかっていないもののあきらかに監視かんし目的もくてきてられたものであった[4]

ジッグラト

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イェリコの防御ぼうぎょかべ監視かんしとうシュメール文明ぶんめいのジッグラトにがれた[4]。この年間ねんかん降水こうすいりょうすくなく、農業のうぎょう用水ようすいをチグリスがわとユーフラテスがわ依存いぞんしていたが増水ぞうすい時期じき水量すいりょう不規則ふきそくつね氾濫はんらん危険きけんにさらされていた[4]。また、地形ちけい開放かいほうてきであったため、周辺しゅうへん山岳さんがく民族みんぞく遊牧民ゆうぼくみんぞく侵入しんにゅうされる危険きけんせいたかかった[4]。このような環境かんきょうから周辺しゅうへん環境かんきょう変化へんか把握はあくするための大型おおがた監視かんしとう情報じょうほうとう)がつくられた[4]

初期しょきのシュメールのジッグラトは洪水こうずい見張みはるための監視かんしとうとして建設けんせつされたが、のちに史上しじょう最古さいこ宗教しゅうきょうとうへと変容へんようした[5]紀元前きげんぜん4000ねんから3400ねんごろになるとシュメール文明ぶんめいでは労働ろうどう分化ぶんか階層かいそう分化ぶんかしょうじ、煉瓦れんがだい神殿しんでんきずかれるようになった[5]。シュメールのかく都市とし国家こっかでは、それぞれの守護神しゅごじんのもとに神権しんけん政治せいじおこなわれていたが、主神しゅしん殿どの次第しだいたか位置いち建立こんりゅうされた[5]人工じんこうてきおかもうけた層状そうじょう基壇きだんじょう神殿しんでんもうけられ、このようなおか人工じんこうせいなるおか「ジッグラト」とばれるようになった[5]

こうとう建築けんちく原型げんけいひとつとして著名ちょめいなものに紀元前きげんぜん2100ねんごろの「ウルのだいさん王朝おうちょうのジグラット」がある[5]。ウルのだいさん王朝おうちょうのジグラットは3そう基壇きだんからなり、さい上層じょうそうつきかみナンナルの拝殿はいでんてられていた[5]各層かくそう表面ひょうめん焼成しょうせい煉瓦れんが内部ないぶ日干ひぼ煉瓦れんがきずかれ、テラスには樹木じゅもくうえ栽されていた[6]

さらに紀元前きげんぜん562ねんにはしんバビロニア王国おうこくのネブカドネザルおうがジグラットを再建さいけんしたが、その淵源えんげんはウルのジグラットにあるといわれている[6]旧約きゅうやく聖書せいしょの『創世そうせい』には、まちとうてて、そのいただきをてんとどかせようとする野望やぼう実現じつげんと、それにたいしてあるじあたえたばち寓話ぐうわである、バベルばべるとう登場とうじょうする。このバベルばべるとうのモデルはネブカドネザルおうのジグラットであるとするせつがある[6]

古代こだいエジプトのパイロン

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古代こだいエジプトでは、神殿しんでんもんが2つのとうはさまれたかたちをとっていた。 この形式けいしきパイロンとうもん)とぶが、現在げんざいでもルクソール神殿しんでんエドフ神殿しんでんなどおも神殿しんでん遺跡いせきでそれらを確認かくにんすることができる。

また、古代こだいギリシアじんが「オベリスク」とび、後世こうせい、ヨーロッパ社会しゃかいでモニュメントとして転用てんようされることともなる、四角よつかどおもり記念きねんとう神殿しんでんくちなどに設置せっちされた。

これは太陽たいようしん信仰しんこう関係かんけいし、せいなるいし「ベンベン」が発展はってんしたものともかんがえられている。

地中海ちちゅうかい文明ぶんめい

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ふうとう(アテネ, BC1世紀せいき)

古代こだいギリシア

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古代こだいギリシアヘレニズム地中海ちちゅうかい地方ちほうでは、灯台とうだい見張みはりとうのぞいてあまりとうつくられなかった。 世界せかい七不思議ななふしぎにもかぞえられるアレクサンドリアのだい灯台とうだい紀元前きげんぜん3世紀せいきころ)がてられたのはこの時代じだいである。灯台とうだいぜんこうやく134m。大理石だいりせきつくりであった。このとうは1,650年余ねんよちょうきを地中海ちちゅうかいのぞ一大いちだい建築けんちくぶつであったが、14世紀せいきに2地震じしんって崩壊ほうかいしたのを要塞ようさい建設けんせつ資材しざい転用てんようされるかたちで消滅しょうめつした。また、紀元前きげんぜん1世紀せいきにはローマの影響えいきょうにあったアテナイに、時計とけいとうとしても使つかわれたふうとう建設けんせつされていることからもかるように、けっしてとう建築けんちくがなかったわけではない。

アウレリアヌス城壁じょうへき(ローマ, 3世紀せいき)
ヘラクレスのとう(スペイン, 2世紀せいき)

古代こだいローマ前期ぜんき王政おうせいローマ・共和きょうわせいローマ

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古代こだいローマがイタリア中部ちゅうぶ建国けんこくされ、ローマじんはイタリア南部なんぶサムニウムひとシチリアマグナ・グラエキア)のギリシアじん、イタリア中部ちゅうぶエトルリアひと、イタリア北部ほくぶガリア・キサルピナ)のガリアじんなどの土地とち併合へいごう領土りょうど拡大かくだいしていった。その過程かていたエトルリアやギリシアの高度こうど建築けんちく技術ぎじゅつれて古代こだいローマの建築けんちく技術ぎじゅつ発展はってんしていった。まただいポエニ戦争せんそうではローマの領土りょうどふかくまでカルタゴぐん蹂躙じゅうりんされ、内乱ないらんいち世紀せいきには内戦ないせん国土こくど荒廃こうはいした。この時期じき都市とし自己じこ防衛ぼうえいのため城壁じょうへきかこまれた城郭じょうかく都市としとなるところもあった。またローマ軍団ぐんだんもその駐屯ちゅうとん防塁ぼうるいかこっていた。城壁じょうへき防塁ぼうるいかく出入でいぐち城門じょうもん)には、一時いちじてきであればが、恒久こうきゅうてき使用しよう見込みこめるものであればとう配置はいちされた。この時期じき首都しゅとローマはぜんしゅう11kmのセルウィウス城壁じょうへきによりまもられていた。また、戦場せんじょうでは移動いどうしき木製もくせいおさむしろとう使つかわれることもあった。

古代こだいローマ後期こうき帝政ていせいローマ

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古代こだいローマ全盛期ぜんせいきになると、もはや侵入しんにゅうできる外敵がいてき存在そんざいしなくなり、都市とし機能きのう拡大かくだいわせて城壁じょうへき拡大かくだいしていく必要ひつようがなくなった。マ帝国まていこく防衛ぼうえい国境こっきょうせんきずかれた防壁ぼうへきリメスならびに軍団ぐんだんおよび補給ほきゅう物資ぶっし迅速じんそく投射とうしゃできるローマ街道かいどうなどの輸送ゆそう維持いじによっておこなわれていた。しかしながらマ帝国まていこく衰退すいたいする4世紀せいきころ以降いこうゲルマンじん侵入しんにゅう対抗たいこうするため都市とし城壁じょうへきかこえかべ)をきずいて防衛ぼうえいする必要ひつようせいしょうじた[7]マ帝国まていこく最盛さいせいには城壁じょうへきたなかった首都しゅとローマも、てい間隔かんかく監視かんしとうんだぜんしゅうやく19km・たかさ8m・あつさ3.5mのローマン・コンクリートつくられたアウレリアヌス城壁じょうへき防御ぼうぎょされることになった。

このように、ローマじんとうきずくのはひとえに軍事ぐんじじょう目的もくてきからであり、国家こっか拡大かくだいに、また、つね民族みんぞくとの衝突しょうとつ予想よそうされる国境こっきょう地帯ちたいではさかんに建設けんせつされている。

西洋せいようとう

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城郭じょうかく建築けんちくとう

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Saint-Sylvain-d'Anjouじょう木造もくぞうキープ
トリムじょうキープ(アイルランド, 12世紀せいき)

西にしマ帝国まていこく消滅しょうめつ古代こだいローマの建築けんちく技術ぎじゅつ急速きゅうそくうしなわれ、るいならびに木造もくぞうとうしがらみふたた主流しゅりゅうをなす時代じだいおとずれた。中世ちゅうせい初期しょき、ローマにわり地中海ちちゅうかい支配しはいけん手中しゅちゅうにしたサラセンじん襲来しゅうらい監視かんしするための見張みはりとう英語えいごばんが、地中海ちちゅうかい沿岸えんがんさかんにてられるようになった。

10世紀せいきさん圃式農業のうぎょうなどの農業のうぎょう技術ぎじゅつ革命かくめいによる生産せいさんりょく上昇じょうしょうともな人口じんこう増大ぞうだいとみ蓄積ちくせきはじまると、それらをまもるための施設しせつつく維持いじする社会しゃかいてき余裕よゆうまれた[8]。またカロリングあさフランク王国おうこく衰退すいたい分裂ぶんれつして中央ちゅうおう支配しはいりょくゆるみだし、ノルマンじんマジャールじん侵入しんにゅうはげしくなると、各地かくち領主りょうしゅなか自立じりつして領地りょうちきょだて防備ぼうび強化きょうか[8]しはじめた。当初とうしょ居館きょかん附属ふぞく施設しせつまわりに直径ちょっけい50mほど[8]へいつくり、ほり程度ていどだったが、10世紀せいきわりころからしろべる建築けんちくぶつつくるようになった。これらのおおくは木造もくぞう簡易かんいなもので、代表だいひょうてき形態けいたいモット・アンド・ベーリーかたしろである。平地ひらち丘陵きゅうりょう地域ちいき周辺しゅうへんりだして、ほり(そらほりおおかった)を形成けいせいし、その小山こやまおかげた。小山こやま粘土ねんどかためてその頂上ちょうじょう木造もくぞうまたは石造せきぞうとう(キープ)をつくった。

11世紀せいきには、天守てんしゅ外壁がいへき石造いしづくりのしろ建築けんちくされるようになる。石造いしづくりの城壁じょうへきには四角しかくとうけられ、かべまもかたちになった。12世紀せいき十字軍じゅうじぐん時代じだいには、中東ちゅうとうにおけるビザンティンアラブ技術ぎじゅつれ、築城ちくじょう技術ぎじゅつ革新かくしんてき変化へんかがみられた。集中しゅうちゅうしき城郭じょうかくばれるしろは、モットの頂上ちょうじょうかれた石造いしづくりの直方体ちょくほうたい天守てんしゅとうキープ)が、同心円どうしんえんじょう配置はいちされたじゅうまたはそれ以上いじょう城壁じょうへきまもられていた。内側うちがわほどかべたかくして、外壁がいへきやぶられても内側うちがわ防御ぼうぎょ有利ゆうりになるよう工夫くふうされている場合ばあいもあった。12世紀せいき後半こうはんには十字軍じゅうじぐん中東ちゅうとうからまなんだカタパルト (投石とうせき)使つかわれるようになる[8]投石とうせきは50kgのいしを200mあまばすことが出来できるものもあり、14世紀せいきすえ大砲たいほうにそのやくってわられるまでしろめの中心ちゅうしんてき兵器へいきであった[8]。この投石とうせきより飛来ひらいするいしだん衝撃しょうげきいっ吸収きゅうしゅうするため、直方体ちょくほうたいとう多角たかくがた円筒えんとうがたになり、またかべあつみもしていった[8]

クラック・デ・シュヴァリエしろがわぼうとう(シリア, 12世紀せいき)

12世紀せいき後半こうはんになり、とう城壁じょうへき胸壁きょうへきもうけてクロスボウもちいて反撃はんげきおこな[8]ようになった。城壁じょうへきには壁面へきめんから突出とっしゅつする半円はんえんがたとうがわぼうとう)をはいし、そこに胸壁きょうへき銃眼じゅうがんもうけることで城壁じょうへきてきへい左右さゆうから射掛いかけることが可能かのうとなった[8]。こうしてしろ軍事ぐんじてき機能きのう中心ちゅうしん天守てんしゅとう(キープ)からがわぼうとうはいした城壁じょうへき移行いこうしていった。ついには、しろとは強固きょうこ城門じょうもんゲートハウス)とがわぼうとうはいした城壁じょうへきそのものとなり、城壁じょうへき内接ないせつするかたち居住きょじゅうスペースなどの建物たてもの配置はいちされた[8]。この様式ようしきしろ城壁じょうへき)のことをカーテンウォールしき城郭じょうかくぶ。ここにいた天守てんしゅとう(キープ)の軍事ぐんじてき意味いみ消滅しょうめつし、強固きょうこ城門じょうもんであるゲートハウスがその役目やくめになうことになった。

このほか、中世ちゅうせいにははし防衛ぼうえいのためのはしとう城門じょうもん一体化いったいかしたゲートタワー居住きょじゅう空間くうかん包含ほうがんした小型こがたしろタワー・ハウス英語えいごばんなどもてられた。また、防衛ぼうえいようとうなかには牢獄ろうごくとして使つかわれた牢獄ろうごくとう(Prison tower)や、弾薬だんやく保管ほかんする火薬かやくとう(Powder tower)として使つかわれるものもあった。

14世紀せいきごろ中国ちゅうごくからつたわった黒色こくしょく火薬かやく製造せいぞう技術ぎじゅつ大砲たいほう製造せいぞう可能かのうにした。15世紀せいき中頃なかごろからは高炉こうろ技術ぎじゅつ普及ふきゅう鋳鉄ちゅうてつもちいた「中型ちゅうがた小型こがた大砲たいほう」が大量たいりょう生産せいさんされるようになる[8]。15世紀せいき砲弾ほうだんには炸薬さくやく信管しんかんはなかったが、初速しょそくおおきく水平すいへいちか軌道きどう砲弾ほうだん破壊はかいりょくおおきかった。たか建造けんぞうぶつ大砲たいほう標的ひょうてきとなったため城壁じょうへきたかさよりもあつさを重視じゅうしするようになり、さらに地下ちかげて建設けんせつされ地上ちじょうからはその姿すがたいだせないような要塞ようさいかたしろとなっていく[8]防衛ぼうえい施設しせつとしてのとう意味いみさなくなり、以後いご国境こっきょうからはるかにはなれた安全あんぜん防衛ぼうえい機能きのうより居住きょじゅうせい壮大そうだいさや豪華ごうかさを重視じゅうしした王侯おうこう貴族きぞく居城きょじょう邸宅ていたく)の一部いちぶとしてとう建築けんちく存続そんぞくしていくことになった。

キリスト教きりすときょう浸透しんとうからゴシックまでのとう

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サン・セルナン教会きょうかい(11- 13世紀せいき

古代こだいローマ時代じだいから中世ちゅうせい初期しょきにおいて軍事ぐんじてき性格せいかく中心ちゅうしんであったとうは、中世ちゅうせいはいるとキリスト教きりすときょうむすびつき、教会きょうかい建築けんちくにおいても重要じゅうよう役割やくわりになうようになった。 いのりの時刻じこくなど教会きょうかい信者しんじゃ情報じょうほう伝達でんたつするための手段しゅだんであったかね設置せっちするための「かねとう」(「鐘楼しゅろう」ともう。英語えいご:belfry)が出現しゅつげんした。

サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂せいどう(530- 550ねん?) ビザンティン建築けんちくでのとういちれい

プレ・ロマネスクなど

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プレ・ロマネスクはいって教会きょうかい建築けんちく基本きほんができあがったが、「西にしかまえ」の構造こうぞうもこのころに出現しゅつげんした。 教会きょうかいくち西側にしがわいているが、西にしかまえとは教会きょうかいくち突出とっしゅつさせた形式けいしきであり、ここにとう配置はいちするものがあらわれた。

周囲しゅうい建造けんぞうぶつから独立どくりつしたとうもあったが、この形式けいしきイタリア数多かずおお建築けんちくされた。 ビザンティン建築けんちく教会きょうかい形式けいしきをよくのこすイタリアはラヴェンナサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂せいどう(530ねん~550ねん?)のかねとうは、たかさ37.5mで10世紀せいきまつ追加ついかされた。

ジョットの鐘楼しゅろう
(1387ねん完成かんせい
ヴォルムスだい聖堂せいどう(1171- 1240ねん?)

ロマネスク

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ロマネスク様式ようしき独立どくりつがねとうとして代表だいひょうてきなものとしてピサのはすとう(1173- 1372ねん)がある。 ゴシック様式ようしきであるが、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどうにあるジョットの鐘楼しゅろう(1387ねん完成かんせい)も独立どくりつしたとうである。

建物たてもの十字じゅうじ交差こうささせ、その交点こうてんじょうとう形式けいしきのものも登場とうじょうしている。 代表だいひょうてきなものとしは、フランストゥールーズにあるサン・セルナン教会きょうかい(11- 13世紀せいき)や、ベルギートゥールネだい聖堂せいどうなどである。

ドイツヴォルムスだい聖堂せいどう(1171- 1240ねん?)は、交差こうさ部分ぶぶん八角はっかくとうが、東西とうざいには4つのえんとうつ。 ドイツのロマネスク建築けんちくひとつの到達とうたつてんとされる。

ゴシック

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シャルトルだい聖堂せいどう
(12世紀せいき) 右側みぎがわが1140ねんから角錐かくすいとうひだりが16世紀せいきてられた後期こうきゴシックのとう

ゴシックにはさらにとう注力ちゅうりょくそそがれ、教会きょうかい建築けんちくとして多数たすうとうがヨーロッパ各地かくち建設けんせつされた。 とく西にしかまえに2つのそうとう形式けいしき目立めだつようになる。 とう上昇じょうしょうせい強調きょうちょうするような工夫くふうほどこされた。 とう開口かいこう部分ぶぶん縦長たてながになり、とう上部じょうぶしぼんだ尖塔せんとうそなけられるようになった。

ゴシック様式ようしきは、その装飾そうしょくキリスト教きりすときょう視覚しかくてき要約ようやくしたものともいえるが、とう天上てんじょうへのはしのイメージとかねとうとしての機能きのうあわった。 またこの時期じき、ヨーロッパ各地かくち教会きょうかいとうたかさをきそあらそいもしょうじた。

そうとう顕著けんちょれいとしては、フランスではノートルダムだい聖堂せいどう(パリだい聖堂せいどう)・アミアンだい聖堂せいどうランだい聖堂せいどうランスだい聖堂せいどうシャルトルだい聖堂せいどうなどがある。

シャルトルだい聖堂せいどうファサード右側みぎがわが1140ねんからつロマネスク様式ようしき角錐かくすいとうひだりが16世紀せいきてられた後期こうきゴシックのとうてられた。

ストラスブールだい聖堂せいどう(1190- 1439ねん)のファサードは、たんとうながらたかさ142m。 赤色あかいろ砂岩さがんつくられており、独特どくとく印象いんしょうあたえている。

ドイツのゴシック教会きょうかいとうとしては、ケルンだい聖堂せいどう(1248- 1880ねん)やウルムだい聖堂せいどう(1377- 1890ねん)などが著名ちょめいである。 ケルンだい聖堂せいどうそうとう形式けいしきでそのたかさは157mにたっした[9]。 さらに、ウルムだい聖堂せいどう西にしかまえのとうは161mでゴシックもっとたかい。 また、ミラノだい聖堂せいどう(1386ねん-1813ねん)の場合ばあいたかとう存在そんざいしないものの、135のピナクル(しょう尖塔せんとう)がもうけられた。

一方いっぽうフランスでは、巨大きょだいするゴシック様式ようしき建築けんちく反発はんぱつするかのように「レイヨナンしき」とばれる小規模しょうきぼ聖堂せいどう出現しゅつげんした。 パリのアルビだい聖堂せいどう(1282ねん-1385ねん)はそのいちれいであるが、ここでもたかとう確認かくにんできる。

キリスト教きりすときょうにおける宗教しゅうきょう建築けんちくとしてのとうとはべつに、世俗せぞくてきとう建設けんせつ目立めだった。

サン・ジミニャーノ
12世紀せいきから14世紀せいきにかけて建設けんせつきそわれた。
クラック・デ・シュヴァリエ
12- 13世紀せいき初頭しょとう十字軍じゅうじぐんによってきずかれたしろげん・シリア。

イタリアのサン・ジミニャーノは、おかうえにあるとうまちである。 貴族きぞく教皇きょうこう皇帝こうていかれてきそい、たがいに権力けんりょく誇示こじするため、次々つぎつぎとう建設けんせつしていった。 最盛さいせいにはそのすう72という乱立らんりつぶりであったとつたえられる。 やがてまちそのもののいきおいがおとろえ、とうかずおおきくらしたが、それでもなおおおくが後世こうせいのこされた。 このとうなら景観けいかんは「サン・ジミニャーノ歴史れきし地区ちく」として世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。 当地とうち場合ばあい軍事ぐんじ目的もくてき宗教しゅうきょうてき意義いぎをもってとうきずかれていたわけではない。 世俗せぞくてきなシンボルとしてとう建設けんせつ競争きょうそうひろげられたというてんで、にはない独自どくじせいっている。

ベルギーのフランデレン地域ちいきワロン地域ちいきでは、自治じちけん獲得かくとくした都市としまち広場ひろば中心ちゅうしん教会きょうかいとは独立どくりつしてかねとう建設けんせつしていった。 「ベルギーとフランスの鐘楼しゅろうぐん」として世界せかい遺産いさんにも登録とうろくされている。

他方たほう軍事ぐんじ目的もくてきをもってきずかれた城塞じょうさいにも特徴とくちょうてきとうつくられた。 十字軍じゅうじぐん建設けんせつしたクラック・デ・シュヴァリエ(12- 13世紀せいき初頭しょとう)をはじめ、フランスのガイヤールじょう(1196ねん)やクシーじょうなども代表だいひょうてきなものとしてげられる。

ルネッサンスからバロックとう

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セント・ポールだい聖堂せいどう(1710ねん

ルネッサンス時代じだいのイタリアの建築けんちくは、はんゴシックを鮮明せんめいした。 とうよりも安定あんていかんのあるドーム重視じゅうししている。 かねとう設置せっちはあったが、あまりたかさに注力ちゅうりょくしなくなった。

しかし、バロック様式ようしきではふたたとう見直みなおされ、教会きょうかいのファサードに2つのとう配置はいちされたものが流行りゅうこうした。 このそうとう形式けいしき教会きょうかい建築けんちくは、バロックにヨーロッパ全域ぜんいきひろがりをせたほか、スペイン植民しょくみんしたラテンアメリカ各地かくちにも数多かずおお建設けんせつされた。

バロック様式ようしきとうとしては、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラだい聖堂せいどう(1750ねん)、イギリスはロンドンのセント・ポールだい聖堂せいどう(1710ねん)など、多数たすうれいることができる。

東洋とうようとう

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言語げんごがくてき知見ちけんからすでに紐解ひもといたように、stupa、すなわち、なにかを「げること」とそのようにしてつくられた「づか」が、東洋とうようの「とう」の文化ぶんかてき起源きげん主体しゅたいである。 つまり、とう元来がんらいつちによるづかのことであった。 もっとも、古代こだいインドにおける饅頭まんじゅうがたげた土塚つちづか stupa (ストゥーパ)の民俗みんぞくがくてき起源きげんなどについては、いまだつまびらかにされていない[1]

仏塔ぶっとう仏舎利ぶっしゃりとう

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この習俗しゅうぞく初期しょき仏教ぶっきょうにもれられ、釈迦しゃか聖者せいじゃえん(ゆかり)のしな遺体いたい一部いちぶ遺骨いこつ舎利しゃり〉、遺髪いはつなど)といった、いわゆるせいなる記念きねんひん遺品いひん遺物いぶつ土中どちゅうめ、つちをしたうえ日干ひぼ煉瓦れんがまわりをかこ建造けんぞうぶつとしてはじまっている。 釈迦しゃか存命ぞんめいちゅう、すでにそのようなかたちのストゥーパがつくられていたことが、『じゅう誦律』[10]の56かんしるされている。 造営ぞうえいしたのは長者ちょうじゃスダッタ[注釈ちゅうしゃく 3]で、釈迦しゃか諸国しょこく遊行ゆぎょう(ゆぎょう)するあいだ供養くようする機会きかいうしななげき、せめて身近みぢかえんものかせてほしいとねがつめかみさずかり、これらをストゥーパにおさめ、つめとうかみとうとしてあがめたとつたえられる。 また、釈迦しゃか入滅にゅうめつしたのち、遺骨いこつ所有しょゆうめぐって有力ゆうりょくしゃあいだあらそいがこったが、バラモンそうドローナ(ドーナ)の仲介ちゅうかいによって武力ぶりょく衝突しょうとつけられ、遺骨いこつは8つにけてそれぞれが供養くようすることとなった。遅参ちさんしたモーリヤの一族いちぞくにはのこはいゆずられ、分配ぶんぱいしゃドローナには分配ぶんぱいもちいたびんあたえられた。 このようにして、10のストゥーパが、歴史れきしてき間違まちがいないとされる最初さいしょの「仏舎利ぶっしゃりとう」として各地かくちてられることとなった[1]

ひがしアジアの仏塔ぶっとう

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チベットラサ仏塔ぶっとう(チョルテン)

中国ちゅうごくでの仏塔ぶっとう建立こんりゅうは、さんこく時代じだい3世紀せいきころ)にはじまる。 ここでは中国ちゅうごく古来こらい楼閣ろうかく建築けんちく影響えいきょうけて、インドのストゥーパとはおおきくことなる重層じゅうそう高層こうそう建築けんちくぶつとして発展はってんしていった[1]。 しかしこの文化ぶんかけん中国ちゅうごくとそのつよ影響えいきょうにあったひがしアジア文化ぶんかけん朝鮮ちょうせん日本にっぽん・その、および、ここでは便宜上べんぎじょうチベットなどもふくむ)では、造形ぞうけいめんでのおおきな変容へんようとは対照たいしょうてきに、遺物いぶつおさめる「うつわ(うつわ)」としての仏塔ぶっとう位置いちづけは踏襲とうしゅうされており、それも特色とくしょくひとつである。

日本にっぽん仏塔ぶっとう

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法隆寺ほうりゅうじ五重塔ごじゅうのとう(6- 7世紀せいき建立こんりゅう) 現存げんそんする木造もくぞうとうとして日本にっぽん最古さいこ
だん山神さんじんしゃじゅうさんじゅうとう(1532ねんごろ造営ぞうえい

すでにべたように、「とう」の元々もともと仏寺ぶつじにあるものを言葉ことばであった。 さらに、日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてき仏教ぶっきょうてら推定すいていされている飛鳥寺あすかでら伽藍がらん(がらん)は、とう中心ちゅうしんとし、そのひがしきた西にし金堂こんどう配置はいちされていた。 しかし、時代じだいくだるにれてとう伽藍がらん前面ぜんめんかれるようになっていった。

木造もくぞう仏塔ぶっとう

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木造もくぞうとう建築けんちく様式ようしきとしては、おおきくけて「多重たじゅうとう」と「多宝塔たほうとう」にけられる。

多重たじゅうとう
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多重たじゅうとうは、三重みえとう五重塔ごじゅうのとう代表だいひょうされるもので、平面へいめんじょうから四方しほうがた円形えんけい多角たかくがたもある)の空間くうかんなんそうにもかさねたものである。 日本にっぽん多重たじゅうとう源流げんりゅうは、中国ちゅうごく楼閣ろうかくであるとかんがえられている。

とう中心ちゅうしんには「しんばしら」がかれ、その周囲しゅういはしら配置はいちしている。 いただきには「相輪そうりん」とばれるどうまたはてつでできたしょうとうけられた。

とうささえるしんばしらは、法隆寺ほうりゅうじ五重塔ごじゅうのとうでは地中ちちゅう2mほどに礎石そせきき、そのうえっている(掘立ほったしき)。 平安へいあん時代じだいはいると、礎石そせき地表ちひょういて、そのうえしんばしらせるようになった(地上ちじょうしき)。

さらに鎌倉かまくら時代じだい以降いこうは、しんばしら最上さいじょうそうからだいそうめるようにしたものが目立めだつ。 京都きょうとうみじゅう山寺やまでら五重塔ごじゅうのとうがこの形式けいしき現存げんそんする最古さいこのものである。

江戸えど時代じだい寛永寺かんえいじ日光にっこう東照宮とうしょうぐう五重塔ごじゅうのとうは、しんばしらうえからげる構造こうぞうをとっている。 これは、木材もくざい乾燥かんそう起因きいんしたこころはしら収縮しゅうしゅくはしら収縮しゅうしゅくによるゆがみの発生はっせいおさえるためとかんがえられている。

五重塔ごじゅうのとうより多層たそうとくななじゅう以上いじょうになると、木造もくぞうかず比較的ひかくてきすくない。妙楽寺たえがくじげんだん山神さんじんしゃ)のじゅうさんじゅうとう唯一ゆいいつ現存げんそんする木造もくぞうとうである。

752ねん天平てんぴょうかちたから4ねん)、奈良なら東大寺とうだいじ当時とうじ最大さいだいとなるたかさ320しゃくやく100m)のななじゅうとう東西とうざい建設けんせつされた。なん消失しょうしつし、そのたび再建さいけんされたが、室町むろまち時代ときよ以降いこうはついに再建さいけんされなかった[注釈ちゅうしゃく 4]

また、1392ねん明徳めいとく3ねん)には足利あしかが義満よしみつによってきょう相国寺しょうこくじななじゅうとう発願ほつがんされ、1399ねんおうなが6ねん)に完成かんせいした。 たかさ360しゃく(109.1 m)におよぶこのとう[9]史上しじょうもっとたかかった日本にっぽん様式ようしき仏塔ぶっとうであるが、わずか4ねん落雷らくらいによって炎上えんじょう再建さいけん目指めざした義満よしみつ急死きゅうししたのち息子むすこ足利あしかが義持よしもちあといで再建さいけん応仁おうにんらんえて1470ねん文明ぶんめい2ねん)10がつ3にち火災かさいによって焼失しょうしつするまでのすうじゅう年間ねんかんきょう見下みおろしつづけた。[11]

なお、法勝寺ほっしょうじ八角はっかくきゅうじゅうとうたかさ840しゃくやく250m)とつたえられるものの、その信憑しんぴょうせいひくいとわざるをない。

石山寺いしやまでら多宝塔たほうとう
(1194ねん落成らくせい
多宝塔たほうとう
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多宝塔たほうとう本来ほんらいたから如来にょらい釈迦如来しゃかにょらいの2つの仏像ぶつぞう安置あんちしたとうのことである。 木造もくぞうほか石造せきぞうのもの(長野ながの常楽寺じょうらくじ多宝塔たほうとうなど)も存在そんざいする。 通常つうじょう一層いっそう方形ほうけいで、そう円形えんけいをしたそう形式けいしきのものが一般いっぱんてきであるが、その外観がいかん一定いっていしていない。 中国ちゅうごくではさんそうしきおおく、日本にっぽんでもろくかくさんじゅうとうのものが存在そんざいしていた。

そう円形えんけい部分ぶぶんささえるはしらだいいちそうにまでばしたものを大塔おおとう形式けいしきび、多宝塔たほうとう区別くべつする場合ばあいもある。 空海くうかい建立こんりゅうした高野山大こうやさんだいとう810ねんころか)が最初さいしょわれる。

石山寺いしやまでら多宝塔たほうとうは、鎌倉かまくら時代じだい1194ねん建立こんりゅうで、現存げんそんする木造もくぞう多宝塔たほうとうのなかで最古さいこのものである。 根来寺ねごろじ多宝塔たほうとう大塔おおとう)はたかやく36m。 現存げんそんする日本にっぽん最大さいだい規模きぼ多宝塔たほうとうであり、唯一ゆいいつ現存げんそん大塔おおとう形式けいしきでもある。

石造せきぞう仏塔ぶっとう

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みみづか五輪ごりんとう

五輪ごりんとう(ごりんとう)は、密教みっきょうでの五大ごだい、すなわちみずふうそら体現たいげんしたとうである。 日本にっぽん独自どくじ仏塔ぶっとうで、墓碑ぼひ供養くようとしてもひろ使つかわれている。

ぬいとう(むほうとう)は、とうさい上部じょうぶ楕円だえんがたつくったとうのことであり、がないことからこの名前なまえいたといわれる。また、この形状けいじょうから卵塔らんとう(らんとう)とばれることもある。中国ちゅうごくとうだい発祥はっしょうで、日本にっぽんつたえられたのは鎌倉かまくら時代じだいであったとかんがえられている。

たから篋印とう(ほうきょういんとう)は、陀羅尼だらに(だらに)とばれた呪文じゅもんおさめておくためのとうであった。のち、墓碑ぼひ供養くようなどに使つかわれるようにもなった。法隆寺ほうりゅうじにもえがかれているため、ふるくから日本にっぽんつたえられていたものとかんがえられる。平安へいあん時代じだいには木造もくぞうとう陀羅尼だらにおさめることもあったようであるが、鎌倉かまくら時代じだいには石造せきぞうわった。

題目だいもくとう(だいもくとう)は、南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうきざまれた、鎮魂ちんこん目的もくてきとする供養くようとうである。

東南とうなんアジアの仏塔ぶっとう

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東南とうなんアジア文化ぶんかけんでは、元来がんらいのストゥーパはほぼ忠実ちゅうじつがれ、中世ちゅうせい時代じだい石造せきぞう寺院じいん中核ちゅうかくをなした。 しかしその一方いっぽうで、造形ぞうけいめんれば比較的ひかくてき原形げんけいちかいものの本質ほんしつてきまったちがった、パゴダ様式ようしきされた。これは遺物いぶつおさめる「うつわ」ではなく、釈迦しゃかむ「家屋かおく」であり、信者しんじゃ出入でいりする建築けんちくぶつ変化へんかしている。パゴダは英語えいごでは「仏塔ぶっとう」をかたりとしてひろもちいられている(cf. en:pagoda)。

きん現代げんだいとう

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きん現代げんだいとう宗教しゅうきょうとう記念きねんとうのぞいて実用じつようてき目的もくてきびるようになった[12]とうはその目的もくてきにより、展望てんぼうとう監視かんしとう管制塔かんせいとう広告塔こうこくとう照明しょうめいとう通信つうしんとう無線むせんとうテレビ塔てれびとう給水きゅうすいとう吸気きゅうきとう排気はいきとう冷却れいきゃくとう送電そうでん鉄塔てっとう煙突えんとつなど特定とくてい限定げんていされた機能きのうをもつものがおおくなった[12]

しかし、エッフェル塔えっふぇるとうのようにとう存在そんざい象徴しょうちょうてき意味いみったり、さらに象徴しょうちょうせい増幅ぞうふくされたれいおおくみられる[12]

様式ようしき

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19世紀せいきはいるとイギリスはつゴシック・リヴァイヴァル運動うんどうおこり、そびえとうもまた見直みなおされる時代じだいとなった。とはいえ、従来じゅうらいのようなかねとうではなく、近代きんだいてき合理ごうりせい象徴しょうちょうともぶべき時計とけいとうがそれにってわりかれるようになった。

イギリス国会こっかい議事堂ぎじどう(1847- 1860ねん完成かんせい
かってみぎがビッグ・ベン、ひだりがヴィクトリアタワー
サグラダ・ファミリア(1882ねん - ) アントニ・ガウディさく
アインシュタインとう
(1920- 1924ねん
エーリヒ・メンデルゾーン設計せっけい

1836ねん再建さいけんはじまったイギリス国会こっかい議事堂ぎじどうウェストミンスター宮殿きゅうでん)には、たかさ97mのビッグ・ベンられる時計とけいとう、および、110mのたかさをつヴィクトリアタワーが設置せっちされた。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは、19世紀せいきから20世紀せいきにかけてかく都市としにゴシック様式ようしきによる教会きょうかい相次あいついで建築けんちくされた。 これらの教会きょうかいにはたかとう併設へいせつされた。

カナダ国会こっかい議事堂ぎじどう(1865- 1927ねんさく) 火災かさいのち再建さいけん
建設けんせつちゅうエッフェル塔えっふぇるとう
(1889ねん完成かんせい

ゴシック・リヴァイヴァルをよく表現ひょうげんしているれいとして、カナダのオタワにあるカナダ国会こっかい議事堂ぎじどう(1865ねん~1927ねん)がある。 この建物たてものは、一度いちど火災かさいによりすべてをうしなったが、その再建さいけん中央ちゅうおうにあるとうたかさはやく92mである。

アントニ・ガウディ代表だいひょうさくであるサグラダ・ファミリア(1882ねん - )は、当初とうしょひがしに「生誕せいたんもん」、西にし受難じゅなんもん」、 みなみに「栄光えいこうもん」の3つのファサードにそれぞれ4つの尖塔せんとうけい12のとうたせる計画けいかくであった。 現在げんざい完成かんせいしているのは「生誕せいたんもん」で、とうたかさは92mである[9]

技術ぎじゅつ

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近代きんだいとう出現しゅつげん産業さんぎょう革命かくめいによるあたらしい製鉄せいてつほうあたらしい架橋かきょう技術ぎじゅつがなければおとずれなかっただろうといわれている[12]

近代きんだいになって建築けんちくれられるようになった素材そざい、すなわちてつガラスコンクリートは、とうにもあたらしいスタイルをあたえた。

土木どぼく分野ぶんや技術ぎじゅつ革新かくしんでははしのほうが先行せんこうしており、架橋かきょう技術ぎじゅつは18世紀せいきまつ鋳鉄ちゅうてつアーチきょう各地かくち建設けんせつされるようになるとライズ(アーチの頂点ちょうてんからアーチのりょうはしむす鉛直えんちょく距離きょり)のおおきいくみせきアーチの歴史れきし終焉しゅうえんむかえた[12]。しかし、鋳鉄ちゅうてつはもろくりによわいためトラスきょうの落橋事故じこ相次あいついで発生はっせいした[12]しん鉄橋てっきょう時代じだい錬鉄れんてつ生産せいさんされるようになってから本格ほんかくし、メナイ吊橋つりばしやブリタニアきょうなどの建設けんせつでのてつ材料ざいりょう試験しけんはこけた模型もけい実験じっけんなどがおこなわれた[13]。さらに1851ねんだいえい博覧はくらんかいでは鋳鉄ちゅうてつトラス構造こうぞうぶつの「クリスタルパレス」が発表はっぴょうされ建築けんちく分野ぶんや本格ほんかくてきてつ時代じだい到来とうらいした[14]。1860ねんにベッセマーがてんほう発明はつめいすると良質りょうしつ鋼材こうざい大量たいりょう生産せいさんされるようになり、製鉄せいてつほう架橋かきょう技術ぎじゅつ進歩しんぽとともに記念きねんとう構想こうそう次々つぎつぎ発表はっぴょうされるようになった[14]

エッフェル塔えっふぇるとう(1889ねん)は、鉄骨てっこつによる300m[注釈ちゅうしゃく 5][9]とうとしてフランスのパリ市内しない建設けんせつされた。 このとうだい4かい万国博覧会ばんこくはくらんかいのモニュメントもねて設計せっけいされたが、パリの美観びかんそこねるとして建設けんせつ当初とうしょ不評ふひょうであり、パリの芸術げいじゅつから抗議こうぎがなされた。 しかし、時代じだいるごとにパリのランドマークとして認知にんちされるようになっていった。

エーリヒ・メンデルゾーン処女しょじょさくで、ドイツの表現ひょうげん主義しゅぎ特徴とくちょう色濃いろこしたドイツのポツダムにあるアインシュタインとう(1920- 1924ねん)がある。 このとう文字通もじどお相対性理論そうたいせいりろん実測じっそく検証けんしょうのための施設しせつで、鉄筋てっきんコンクリートづくりえるが構造こうぞうはレンガづくりである。

ドイツのダルムシュタットてられたヨゼフ・マリア・オルブリッヒ設計せっけいのルートヴィヒ大公たいこう結婚けっこん記念きねんとう(1908ねん)も、いただきをイメージしたまる屋根やね特異とくい形状けいじょうをしている。

オーギュスト・ペレさくであるフランスのデュ・ランシーのノートルダム教会きょうかい(1924ねん)も鉄筋てっきんコンクリートせい。 コンクリートしのとう特徴とくちょうてきである。

クライスラー・ビルディング(1928- 1930ねん) 完成かんせい世界一せかいいち奪還だっかんするため、36mの尖塔せんとう追加ついかした。

20世紀せいき以降いこう

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20世紀せいき初頭しょとうとう建築けんちくには技術ぎじゅつてき注目ちゅうもくされる提案ていあんがある一方いっぽう荒唐無稽こうとうむけい計画けいかくあんもみられた混乱こんらん時期じきといわれている[15]

19世紀せいきまつ発明はつめいされていたエレベーターは、高層こうそう建築けんちく居住きょじゅうせい大幅おおはば改善かいぜんした。 1900年代ねんだいはいってニューヨークでは、だいいち世界せかい大戦たいせんによる好景気こうけいき高層こうそうビルの建築けんちくラッシュがおとずれた。 その嚆矢こうし(こうし)となったのは、キャス・ギルバート設計せっけいウールワースビル(1913ねん)である[16]先述せんじゅつしたイタリアのサン・ジミニャーノと同様どうよう、ここでもまた、相次あいついで世界一せかいいちたかさを目指めざ競争きょうそう発生はっせいし、摩天楼まてんろうskyscraper)が出現しゅつげんした。

クライスラー・ビルディング(1928- 1930ねん)は、たかさ283mでアメリカのアールデコ様式ようしき完成かんせいがたとして評価ひょうかされた。 しかし、ビル完成かんせい直後ちょくごウォールタワー世界一せかいいちたかさをうばわれた。 このため、36mの尖塔せんとう追加ついかしてその奪還だっかんした。 世界せかい恐慌きょうこう発生はっせいにより、エンパイア・ステート・ビルディング(1930ねん)の完成かんせいをもって摩天楼まてんろうたか競争きょうそう終止符しゅうしふたれた。

ソビエト連邦れんぽうにおいてもまた、たかさへ強調きょうちょうこころみる権威けんいてき建築けんちく様式ようしき発生はっせいしている。 だい世界せかい大戦たいせん前後ぜんごしておこったソ連それんのゴシック・リヴァイヴァルは、スターリン様式ようしき(スターリン・ゴシック様式ようしき)ともばれた。 1930年代ねんだいから計画けいかくされていたソビエト宮殿きゅうでんたかさ415mでエンパイア・ステート・ビルディングをいて世界一せかいいちになることを目指めざしていた。 この宮殿きゅうでん中心ちゅうしんに、周囲しゅういセブンシスターズばれる高層こうそうビルを配置はいちした都市とし設計せっけいおこなわれた。

ソビエト宮殿きゅうでん建築けんちく見送みおくられたが、周囲しゅうい高層こうそうビルは予定よていどお建設けんせつされた。 これらのビルはたかさを強調きょうちょうするようにさい上部じょうぶ尖塔せんとうもうけられた。 モスクワ大学だいがく本館ほんかん(1953ねん)とホテル・レニングラード(1953ねん)が代表だいひょうてきである。

20世紀せいきにはRC構造こうぞうのコンクリートのとう実用じつようされた[17]

だい世界せかい大戦たいせん1970年代ねんだいワールドトレードセンター・ビル世界せかい貿易ぼうえきセンター・ビル)、シアーズ・タワー(げんウィリス・タワー)など、アメリカ以外いがいでも世界せかい各国かっこくちょう高層こうそうビル建築けんちくラッシュとなった。

1990年代ねんだい以降いこうは、東南とうなんアジア中国ちゅうごくなどでちょう高層こうそうビルの建築けんちく活発かっぱつしている。

ギャラリー

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1. ワシントン記念きねんとう(1848- 1884ねん
2. シュエダゴン・パゴダ(6世紀せいき建立こんりゅうか)
3. 東京とうきょうタワー(1957- 1958ねん建設けんせつ
4. 給水きゅうすいとういちれい
5. 航空こうくう管制塔かんせいとういちれい

とう安全あんぜんせい

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ピサのはすとう(1173- 1372ねん
フォントヒル修道院しゅうどういん(1776- 1812ねん)。とうは2かい崩壊ほうかいした。

とうはそのたかさのため、外部がいぶ要因よういんによるおもわぬ副作用ふくさよう倒壊とうかいなどの危険きけんせいをはらむ。

構造こうぞうてき欠陥けっかん

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ピサのはすとう

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1173ねん着工ちゃっこうピサのはすとう(イタリア)は、地盤じばんよわ場所ばしょてられたことに原因げんいんし、建設けんせつ途中とちゅうはやくもかたむはじめていた。

事態じたいけて施工しこうプランは変更へんこう余儀よぎなくされ、とうたかさは当初とうしょ予定よてい半分はんぶんになったものの、工事こうじ中止ちゅうしされることはなかった。そうして1372ねん不等ふとう沈下ちんかもっと顕著けんちょれいとして世界せかいにもまれなかたちで落成らくせいた。

ボーヴェだい聖堂せいどう

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フランスのボーヴェだい聖堂せいどう1225ねん - 1300ねんころ)はたかさ153 mというとう建設けんせつ挑戦ちょうせんした。 しかし、完成かんせいして10ねんとう自然しぜん崩壊ほうかいしている。

フォントヒル修道院しゅうどういん

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また、イギリスにおけるゴシック・リヴァイヴァル建築けんちく先駆さきがけであるウイリアム・バックフォードさくのフォントヒル修道院しゅうどういん(1776- 1812ねんみぎ画像がぞう参照さんしょう)は、90 mのたかさをとう予定よていされていた。しかし、工事こうじちゅうとう崩落ほうらくし、バックフォードは設計せっけいミスをみとめた。結局けっきょく規模きぼ縮小しゅくしょうして完成かんせいたが、それも1825ねん崩壊ほうかいし、再建さいけんされることはなかった。

地震じしん

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アレクサンドリアのだい灯台とうだい

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先述せんじゅつしたが、古代こだいエジプトにあったアレクサンドリアのだい灯台とうだいは14世紀せいきごろ地震じしんにより崩壊ほうかいしている。 ただしこれは、1000年余ねんよちょうきをえてのちのことであった。

やわら構造こうぞう

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一方いっぽう日本にっぽん五重塔ごじゅうのとう地震じしん倒壊とうかいしたというれいをほとんどない。 これは、とう各層かくそう強固きょうこ結合けつごうしていない、いわゆる「やわら構造こうぞう」をっているため、地震じしんれにつよい(対応たいおうりょくがある)ものとかんがえられている。

飛行機ひこうき衝突しょうとつ

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ニューヨーク、エンパイア・ステート・ビルディング(1930ねん
1945ねん軍用ぐんよう衝突しょうとつしたが、建物たてものはそのまま使用しようされている。

衝突しょうとつ予防よぼう設備せつびとして、航空こうくう障害しょうがいとう設置せっちがある。 日本にっぽん場合ばあい航空こうくうほう地上ちじょうめんから60m以上いじょう建物たてものには航空こうくう障害しょうがいとう設置せっち義務ぎむづけられており、さらに鉄塔てっとうのような骨組ほねぐ構造こうぞう構造こうぞうぶつかんしては、点滅てんめつするランプなどによる昼間ひるま障害しょうがい標識ひょうしき設置せっち必要ひつようとなる。

エンパイア・ステート・ビルディング

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エンパイア・ステート・ビルディングは、1945ねん7がつ28にちアメリカ空軍くうぐん中型ちゅうがたばくげき B-25 が79かい衝突しょうとつする事故じこ発生はっせいした。原因げんいんは、濃霧のうむによる視界しかい不良ふりょうであった。B-25は目的もくてきニューアーク空港くうこうかっている途中とちゅうのこりの燃料ねんりょうすくなかったこともあり、建物たてものへの被害ひがいすくなかった。

エンパイア・ステート・ビルディングが完成かんせいしたのは1930ねんであり、航空機こうくうき衝突しょうとつ設計せっけいじょうまったく想定そうていされていなかった。

この事故じこ教訓きょうくんに、高層こうそう建築けんちくぶつ航空機こうくうき衝突しょうとつ想定そうていした設計せっけいがなされるようになった。

ワールドトレードセンター・ビル

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2001ねん9月11にち発生はっせいしたアメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけんで、2ボーイング767ワールドトレードセンター・ビルみなみとうきたとう相次あいついで突入とつにゅうした。 このビルは設計せっけいじょう航空機こうくうき衝突しょうとつ考慮こうりょされていたため、突入とつにゅう直後ちょくごにはビルの倒壊とうかいはなかった。しかし、突入とつにゅう構造こうぞうてきダメージにくわえ、衝突しょうとつしたボーイング767の残存ざんそんジェット燃料ねんりょうによる火災かさい構造こうぞう部材ぶざい強度きょうどいちじるしく低下ていかしたことにより、およそ1あいだののちに2むねとも倒壊とうかいした。

ふうによる振動しんどう

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とうたかくなるとふうによる圧力あつりょく無視むしできない。また、強度きょうどじょうかぜ克服こくふくしても、高層こうそう建築けんちくでは強風きょうふうによって長時間ちょうじかんつづけることが問題もんだいとなった(ふうともぶ)。

これに対応たいおうするためのせい装置そうち導入どうにゅうおこなわれている。たとえば横浜よこはまマリンタワーさい上部じょうぶには、水槽すいそう設置せっちされている。これは「液体えきたいダンパ」とばれる装置そうちであるが、水槽すいそうなかみず建物たてものれに影響えいきょうされて振動しんどうし、そのみず振動しんどうが、すかたちで建物たてものれをおさえる方向ほうこうはたらくというものである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、天守てんしゅ英訳えいやくするときに tower をあてることがある。
  2. ^ 仮名かめい転写てんしゃはあくまで便宜べんぎじょう表記ひょうきであり、正確せいかくなものではない。以下いか同様どうよう
  3. ^ 須達(しゅだった)、須達(しゅだつ、すだつ)。つね孤独こどくものまずしいもの慈善じぜんほどこしたため、「きゅう孤独こどく(ぎっ-こどく)長者ちょうじゃ」と尊称そんしょうされる。
  4. ^ 1970ねん日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかいにおいてこのとうは、古河ふるかわパビリオン(鉄筋てっきんコンクリートせい)として再現さいげんされている。
  5. ^ のちに324.0m

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 中村なかむらはじめへん仏教ぶっきょう語源ごげん散策さんさく』(だい1はん東京書籍とうきょうしょせき、1977ねん、218-221ぺーじ松本まつもとあきらたかしちょ) :tupa の関連かんれんづか関連かんれん初期しょき仏教ぶっきょうにおけるとうについての記述きじゅつ中国ちゅうごくでの仏塔ぶっとうおこり。
  2. ^ tower - Online Etymology Dictionary
  3. ^ a b c d 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、188ぺーじ 
  4. ^ a b c d e f g h 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、50ぺーじ 
  5. ^ a b c d e f 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、51ぺーじ 
  6. ^ a b c 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、52ぺーじ 
  7. ^ Claridge, Amanda 1998 Rome: An Oxford Archaeological Guide
  8. ^ a b c d e f g h i j k 堀越ほりこし 宏一こういち戦争せんそう技術ぎじゅつ社会しゃかい」3.しろ天守てんしゅとう, 〜 15のテーマでまな中世ちゅうせいヨーロッパ ISBN 978-4-623-06459-5
  9. ^ a b c d ながさの比較ひかく資料しりょう1 E2 m
  10. ^ cf. りつむね#日本にっぽんりつむね
  11. ^ cf. 京都きょうと相国寺しょうこくじ - 日本にっぽん塔婆とうば
  12. ^ a b c d e f 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、192ぺーじ 
  13. ^ 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、192-193ぺーじ 
  14. ^ a b 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、193ぺーじ 
  15. ^ 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、194ぺーじ 
  16. ^ Study for Woolworth Building, New York”. World Digital Library (1910ねん12月10にち). 2013ねん7がつ25にち閲覧えつらん
  17. ^ 坪井つぼい善昭よしあきほか『“ひろさ”“ながさ”“たかさ”の構造こうぞうデザイン』建築けんちく技術ぎじゅつ、2007ねん、195ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • きりじき 次郎じろう西洋せいよう建築けんちく共立きょうりつ出版しゅっぱん ISBN 4-320-07660-5
  • 吉田よしだ こう『アール・デコの建築けんちく合理ごうりせい官能かんのうせい造形ぞうけい中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ ISBN 4-12-101786-2
  • マイケル ルーイス『ゴシック・リバイバル』えいたからしゃ ISBN 4-269-82006-3
  • 浜島はまじま ただし日本にっぽんふつとう集成しゅうせい中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん ISBN 4-8055-0392-0

関連かんれん項目こうもく

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