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ベルヴォア砦 とりで
ベルヴォア砦 とりで 平面 へいめん 図 ず
ビューマリス城 じょう (カーテンウォール式 しき 城郭 じょうかく )
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集中 しゅうちゅう 式 しき 城郭 じょうかく (しゅうちゅうしきじょうかく、英語 えいご : concentric castle 、フランス語 ふらんすご : château concentrique )とは、城 しろ の中心 ちゅうしん である天守 てんしゅ を二 に 重 じゅう またはそれ以上 いじょう の城壁 じょうへき (カーテンウォール )で取 と り囲 かこ んで防御 ぼうぎょ している城 しろ のこと。またはその築城 ちくじょう 技術 ぎじゅつ をいう。城壁 じょうへき は外周 がいしゅう より内 うち 周 しゅう のほうがより高 たか く造 つく られており、最 さい 外周 がいしゅう の城壁 じょうへき が攻 おさむ 城 じょう 兵器 へいき に対抗 たいこう している間 あいだ 、より内 うち 周 しゅう の城壁 じょうへき は高 たか い位置 いち から弓 ゆみ を用 もち いて防御 ぼうぎょ を行 おこな うことができた[1] 。地形 ちけい に制約 せいやく がない場合 ばあい は、城壁 じょうへき は方形 ほうけい に造 つく られることが多 おお かった。
市街地 しがいち を幾重 いくえ もの城壁 じょうへき で取 と り囲 かこ んで防御 ぼうぎょ する築城 ちくじょう 技術 ぎじゅつ は、アッシリア やペルシア帝国 ていこく 、古代 こだい エジプト 、バビロニア に遡 さかのぼ ることが出来 でき る。
この都市 とし 自体 じたい を二 に 重 じゅう またはそれ以上 いじょう の城壁 じょうへき で囲 かこ む方式 ほうしき は、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ にも登場 とうじょう するラキシュ (ラキシ)で発掘 はっくつ により確認 かくにん されており、アッシリア の首都 しゅと ニネヴェ のセンナケリブの宮殿 きゅうでん の壁 かべ には、このラキシュを攻略 こうりゃく したことを記念 きねん するレリーフが埋 う め込 こ まれている。古代 こだい の都市 とし バビロン も集中 しゅうちゅう 式 しき 城郭 じょうかく であり、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の首都 しゅと コンスタンティノープル もまた二 に 重 じゅう の城壁 じょうへき を備 そな えていた。
城 しろ として集中 しゅうちゅう 式 しき 城郭 じょうかく が確認 かくにん できる最 もっと も古 ふる いものは、12世紀 せいき に十字軍 じゅうじぐん の聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん が現在 げんざい のイスラエル で建 た てたベルヴォア砦 とりで であろう[2] 。また同 おな じく12世紀 せいき に造 つく られたシリア にあるクラック・デ・シュヴァリエ 城塞 じょうさい は現在 げんざい 最 もっと も保存 ほぞん 状態 じょうたい が良 よ い集中 しゅうちゅう 式 しき 城郭 じょうかく とされている。
12世紀 せいき に、集中 しゅうちゅう 式 しき 城郭 じょうかく の建設 けんせつ 技術 ぎじゅつ は十字軍 じゅうじぐん により西 にし ヨーロッパに伝播 でんぱ した[1] [3] とされている。モットの頂上 ちょうじょう に置 お かれた石造 いしづく りの直方体 ちょくほうたい の天守 てんしゅ 塔 とう キープが、二 に 重 じゅう またはそれ以上 いじょう の城壁 じょうへき で守 まも られていた。内側 うちがわ に行 い く程 ほど 、壁 かべ を高 たか くして、外壁 がいへき を破 やぶ られても内側 うちがわ の防御 ぼうぎょ が有利 ゆうり になるよう工夫 くふう されている場合 ばあい もあった。
石造 いしづく りの城 しろ を攻撃 こうげき するためには、地下道 ちかどう を掘 ほ って城壁 じょうへき を崩 くず したり、攻 おさむ 城 しろ 塔 とう や破 やぶ 城 しろ 槌 づち を使 つか う従前 じゅうぜん の方法 ほうほう だけでなく、12世紀 せいき 後半 こうはん には十字軍 じゅうじぐん が中東 ちゅうとう から学 まな んだカタパルト (投石 とうせき 機 き ) が使 つか われるようになる[3] 。投石 とうせき 機 き は50kgの石 いし を200m余 あま り飛 と ばすことが出来 でき るものもあり、14世紀 せいき 末 すえ に大砲 たいほう にその役 やく が取 と って代 か わられるまで城 しろ 攻 ぜ めの中心 ちゅうしん 的 てき 兵器 へいき であった[3] 。この投石 とうせき 機 き より飛来 ひらい する石 いし 弾 だん の衝撃 しょうげき を逸 いっ し吸収 きゅうしゅう するため、直方体 ちょくほうたい の塔 とう は多角 たかく 形 がた を経 へ て円筒 えんとう 形 がた になり、また壁 かべ の厚 あつ みも増 ま していった[3] 。
集中 しゅうちゅう 式 しき 城郭 じょうかく の建設 けんせつ コストは非常 ひじょう に高 たか く、聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん やテンプル騎士 きし 団 だん 、または西 にし ヨーロッパ内 ない では裕福 ゆうふく で強力 きょうりょく な王 おう や領主 りょうしゅ しか築城 ちくじょう し維持 いじ することが出来 でき なかったとされる。
カタパルト (投石 とうせき 機 き ) と並 なら んで弓矢 ゆみや による攻撃 こうげき 技術 ぎじゅつ も発展 はってん したが、城 しろ に立 た て籠 こ もった防御 ぼうぎょ 側 がわ の抵抗 ていこう 手段 しゅだん は塔 とう の上 うえ から石 いし や熱 ねっ した油 あぶら を落 お とす程度 ていど [3] のものであった。12世紀 せいき 後半 こうはん になり、塔 とう や城壁 じょうへき に矢 や 狭間 はざま を設 もう けてクロスボウ を用 もち いて反撃 はんげき を行 おこな う[3] ようになった。城壁 じょうへき には壁面 へきめん から突出 とっしゅつ する半円 はんえん 形 がた の塔 とう (側 がわ 防 ぼう 塔 とう )を配 はい し、そこに矢 や 狭間 はざま を設 もう けることで城壁 じょうへき に取 と り付 つ く敵 てき 兵 へい に左右 さゆう から射掛 いか けることが可能 かのう となった[3] 。こうして城 しろ の軍事 ぐんじ 的 てき 機能 きのう の中心 ちゅうしん は天守 てんしゅ 塔 とう (キープ)から側 がわ 防 ぼう 塔 とう を配 はい した城壁 じょうへき に移行 いこう していった。ついには、城 しろ とは強固 きょうこ な城門 じょうもん (ゲートハウス )と側 がわ 防 ぼう 塔 とう を配 はい した城壁 じょうへき そのものとなり、城壁 じょうへき に内接 ないせつ する形 かたち で居住 きょじゅう スペースなどの建物 たてもの が配置 はいち された[3] 。この様式 ようしき の城 しろ (城壁 じょうへき )のことを特 とく にカーテンウォール 式 しき 城郭 じょうかく と呼 よ ぶこともある。カーテンウォール式 しき 城郭 じょうかく では天守 てんしゅ 塔 とう (キープ)の軍事 ぐんじ 的 てき 意味 いみ は消滅 しょうめつ し、強固 きょうこ な城門 じょうもん であるゲートハウスがその役目 やくめ を担 にな うことになった。
^ a b Kennedy, Hugh (2000). Crusader Castles. Cambridge University Press. ISBN 0-521-79913-9 .
^ Nicolle, David (2008). Crusader Castles in the Holy Land: An Illustrated History of the Crusader Fortifications of the Middle East and Mediterranean. ISBN 978-1846033490 .
^ a b c d e f g h 堀越 ほりこし 宏一 こういち 「戦争 せんそう の技術 ぎじゅつ と社会 しゃかい 」3.城 しろ と天守 てんしゅ 塔 とう , 〜 15のテーマで学 まな ぶ中世 ちゅうせい ヨーロッパ史 し ISBN 978-4-623-06459-5