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古代 こだい エジプトのBuhen の復元 ふくげん 図 ず 紀元前 きげんぜん 19世紀 せいき
イリオス (世界 せかい 遺産 いさん )トルコ
ジャイサルメール (世界 せかい 遺産 いさん )インド
パルマノーヴァ 市 し イタリア
アビラ (世界 せかい 遺産 いさん )スペイン
ゲッティンゲン ドイツ(模型 もけい )
カルカソンヌ (世界 せかい 遺産 いさん )フランス
ナールデン 市 し オランダ
1572年 ねん のパリの図 ず
大 だい 囲 かこえ 壁 かべ (世界 せかい 遺産 いさん )ジンバブエ
城郭 じょうかく 都市 とし (じょうかくとし)[1] [2] とは、城壁 じょうへき [3] で周囲 しゅうい を囲 かこ み堅固 けんご に防御 ぼうぎょ した都市 とし を指 さ す
。土 ど 塁 るい 、堀 ほり なども防御 ぼうぎょ 施設 しせつ として用 もち いられる。
城郭 じょうかく 都市 とし の歴史 れきし は古 ふる く、エジプト文明 ぶんめい 、メソポタミア文明 ぶんめい 、インダス文明 ぶんめい 、中国 ちゅうごく 文明 ぶんめい や、古代 こだい ギリシア の各地 かくち に誕生 たんじょう している。
城郭 じょうかく 都市 とし の起源 きげん は環 かん 濠 ほり 集落 しゅうらく と考 かんが えられ、新 しん 石器 せっき 時代 じだい に農耕 のうこう が誕生 たんじょう するとともに世界 せかい 各地 かくち で普遍 ふへん 的 てき に見 み られた。農耕 のうこう の発達 はったつ が始 はじ まり集落 しゅうらく に富 とみ が蓄積 ちくせき されるようになると、これを奪 うば おうとする外敵 がいてき の脅威 きょうい に対 たい して防御 ぼうぎょ するため、周囲 しゅうい に堀 ほり をうがち土 ど を盛 も り上 あ げて土 ど 塁 るい とした。やがて防御 ぼうぎょ 力 りょく 強化 きょうか のためより堀 ほり を深 ふか くし、水 みず を溜 た め、土 ど 塁 るい には柵 しがらみ を設 もう けた。さらに版 はん 築 ちく 、煉瓦 れんが や石 いし を積 つ んで壁 かべ を作 つく り、壁 かべ はより高 たか く、堅固 けんご 、巨大 きょだい となり、都市 とし になっていった。これらの城郭 じょうかく 都市 とし は古 ふる くから都市 とし 文明 ぶんめい が興隆 こうりゅう し、部族 ぶぞく 、民族 みんぞく 間 あいだ の争 あらそ いが頻発 ひんぱつ していた地域 ちいき において著 いちじる しい発展 はってん を遂 と げた。
一方 いっぽう で都市 とし 内 ない 人口 じんこう 密度 みつど が高 たか いため、低湿 ていしつ 地 ち 条件下 じょうけんか では衛生 えいせい 状態 じょうたい が劣悪 れつあく となり、疫病 えきびょう も急速 きゅうそく に蔓延 まんえん する傾向 けいこう もあった。
ヨーロッパの都市 とし は、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の軍隊 ぐんたい の宿営 しゅくえい 地 ち を起源 きげん としているものが多 おお い。ヨーロッパというのはロ ろ ーマ帝国 まていこく の市民 しみん から見 み れば、「ガリア 」と呼 よ ばれる場所 ばしょ で、「辺境 へんきょう の地 ち 」、まともな文明 ぶんめい が無 な い野蛮 やばん な者 もの たちが住 す む場所 ばしょ という位置付 いちづ けであった。ロ ろ ーマ帝国 まていこく は領域 りょういき を広 ひろ げるにあたってローマ軍 ぐん を派遣 はけん し現地 げんち の者 もの たちと戦争 せんそう を行 おこな い、そのほとんどの闘 たたか いで現地 げんち の者 もの たちを打 う ち破 やぶ っていった。ロ ろ ーマ帝国 まていこく は土木 どぼく 技術 ぎじゅつ に優 すぐ れており、帝国 ていこく 軍 ぐん が進軍 しんぐん した場所 ばしょ に、ラテン語 らてんご でcastra カストラ という、「軍事 ぐんじ 拠点 きょてん 兼 けん 宿営 しゅくえい 施設 しせつ 」を構築 こうちく した。ローマ軍 ぐん のカストラは、ローマ軍 ぐん がいなくなった後 のち も残 のこ され、現地 げんち の者 もの たちがそのまま使 つか い、やがて街 まち となっていった。そういった理由 りゆう で、ヨーロッパの都市 とし 名 めい には"castra"から派生 はせい した言葉 ことば が残 のこ っているものも多 おお い。例 たと えば、Lancaster(ランカスター )のcasterやManchester(マンチェスター ) の「chester」などが挙 あ げられる[4] ラテン語 らてんご 起源 きげん 以外 いがい でも、「とりで」「城塞 じょうさい 」「堡」を意味 いみ する古代 こだい ゲルマン語 ご "burg"(現代 げんだい ドイツ語 どいつご "Burg"→地名 ちめい 接尾 せつび 辞 じ #-burg )は、ドイツ語 ご ・オランダ語 ご 圏 けん における"-burg"(例 れい :Hamburg(ハンブルク ) )、英語 えいご 圏 けん における"-burgh"(例 れい :Edinburgh(エディンバラ ) ), "-bury"(例 れい :(Canterbury(カンタベリー ))などの地名 ちめい が残 のこ る。また、スラブ語 ご 圏 けん における「グラード 」も同様 どうよう の意味 いみ である。
中世 ちゅうせい 以前 いぜん の大陸 たいりく の主要 しゅよう 大都市 だいとし には、ほとんどの場合 ばあい 高 たか い城壁 じょうへき が備 そな えられていることが一般 いっぱん 的 てき であった。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の帝都 ていと コンスタンティノープル は高 たか さ10数 すう メートルの3重 じゅう の城壁 じょうへき で守 まも られていたし、イスラム文化 ぶんか 圏 けん の中心 ちゅうしん 都市 とし であったバグダード も7つの城門 じょうもん を持 も つ直径 ちょっけい 2.35kmの円形 えんけい の城壁 じょうへき で囲 かこ まれていた。
近隣 きんりん の都市 とし 同士 どうし の領土 りょうど 争 あらそ いも相当 そうとう なものがあり、城郭 じょうかく 都市 とし が建設 けんせつ された大 おお きな理由 りゆう のひとつであるが、もうひとつにヨーロッパは、「ユーラシア大陸 たいりく 」というヨーロッパとアジアの大陸 たいりく をあわせた巨大 きょだい な大陸 たいりく の一部 いちぶ であり、地続 じつづ きでいつでも外敵 がいてき が入 はい ってくる可能 かのう 性 せい にさらされている土地 とち であるので、基本 きほん 的 てき に敵 てき の侵入 しんにゅう に対 たい する対策 たいさく は欠 か かせないというところがある[5] 。
城郭 じょうかく 都市 とし ・城壁 じょうへき 都市 とし では、城壁 じょうへき には城門 じょうもん が構 かま えられ、堀 ほり がうがたれて跳 は ね橋 ばし などが設 もう けられている場合 ばあい もあった。城門 じょうもん の外側 そとがわ にもう1重 じゅう 城壁 じょうへき が設 もう けられるなど防備 ぼうび は厳重 げんじゅう を極 きわ めた。城壁 じょうへき の上 うえ には一定 いってい 間隔 かんかく で望楼 ぼうろう が設置 せっち され、壁 かべ に開 あ けられた銃眼 じゅうがん によって敵 てき を射撃 しゃげき した。城郭 じょうかく 都市 とし の内部 ないぶ には、丘陵 きゅうりょう に領主 りょうしゅ の城 しろ 館 かん が建 た てられるなどして城塞 じょうさい (シタデル)を形成 けいせい し、周辺 しゅうへん には家臣 かしん 団 だん の他 ほか 、一般 いっぱん 住民 じゅうみん も居住 きょじゅう した。大 おお きなものでは郭内 かくない に耕地 こうち があるものもあり、井戸 いど がいくつもあって長期 ちょうき の籠城 ろうじょう に耐 た えられるようになっていた[6] 。
二 に 度 ど のオスマン軍 ぐん のウィーン包囲 ほうい に耐 た えたウィーン は深 ふか い堀 ほり と厚 あつ い城壁 じょうへき に塔 とう と堡塁 ほうるい を備 そな えていた。パリ の城壁 じょうへき は市域 しいき 拡大 かくだい に併 あわ せて放射状 ほうしゃじょう に拡大 かくだい され、6回 かい も作 つく り替 か えが行 おこな われた。最終 さいしゅう の城壁 じょうへき 「ティエールの城壁 じょうへき 」は総 そう 延長 えんちょう 30㎞を超 こ える欧州 おうしゅう 随一 ずいいち の大 だい 城壁 じょうへき になった。
近世 きんせい に至 いた り大砲 たいほう が発達 はったつ したことで、高 たか い城壁 じょうへき は防御 ぼうぎょ の面 めん で重要 じゅうよう 性 せい を低下 ていか させ、実戦 じっせん に耐 た えうるために城壁 じょうへき は低 ひく くなり、大砲 たいほう の死角 しかく を無 な くすため、星 ほし 形 がた に稜 りょう 堡を配 はい する星 ほし 形 がた 要塞 ようさい が主流 しゅりゅう となっていく。しかしそういった城壁 じょうへき も市域 しいき の拡張 かくちょう や航空機 こうくうき 出現 しゅつげん による戦術 せんじゅつ の転換 てんかん のため、20世紀 せいき 中 なか には次々 つぎつぎ と取 と り壊 こわ されて、跡地 あとち は道路 どうろ になったり鉄道 てつどう 用地 ようち になった。中 なか には残 のこ された城壁 じょうへき が整備 せいび され、観光 かんこう 資源 しげん として活用 かつよう されている例 れい もある。
内城 うちじろ ・要塞 ようさい の意 い のクヘンディズ(kuhendiz、もしくはアルク、Arg)、市 し 璧内の市街地 しがいち シャフリスターン(şehristan)、市 し 璧外の市街地 しがいち ラバド(rabat)の三 さん 要素 ようそ からなる[7] 。市 し 璧の門 もん バーブ(bāb)は夜 よる になると閉 し められる。元 もと はシャフリスターンとクヘンディズからなり、シャフリスターンには居住 きょじゅう 地 ち や歓楽街 かんらくがい や礼拝 れいはい 所 しょ などが置 お かれた。発展 はってん とともに居住 きょじゅう 地 ち が市 し 璧から溢 あふ れラバドが形成 けいせい された。おもに商業 しょうぎょう などが行 おこな われるのは、ラバドである。このような都市 とし の在 あ り方 かた は、Üç Bölümlü Kent Modeli (Tripartite City Model)として分類 ぶんるい される[8] 。
平 ひら 遥 はるか 古城 こじょう (世界 せかい 遺産 いさん )中国 ちゅうごく
西安 しーあん の城壁 じょうへき と水堀 みずほり 中国 ちゅうごく
水原 みずはら 華 はな 城 じょう (世界 せかい 遺産 いさん )韓国 かんこく
中国 ちゅうごく では「城 しろ 」[9] [10] の本来 ほんらい の語義 ごぎ は都市 とし を囲 かこ む防塁 ぼうるい ・城壁 じょうへき 自体 じたい を指 さ していたが、後 のち に城壁 じょうへき で囲 かこ まれた内部 ないぶ をも含 ふく むようになった。特 とく に城壁 じょうへき のみを指 さ す場合 ばあい は「城 しろ 牆 (じょうしょう)」という。二 に 重 じゅう になった城壁 じょうへき のうち、宮殿 きゅうでん や行政 ぎょうせい 機関 きかん といった都市 とし の中心 ちゅうしん 機能 きのう を守 まも る内側 うちがわ の城壁 じょうへき (内城 うちじろ )を「城 しろ 」、市街地 しがいち を守 まも る外側 そとがわ の城壁 じょうへき (外城 とじょう )「郭 かく 」と呼 よ び区別 くべつ した。
宮崎 みやざき 市 し 定 じょう は中国 ちゅうごく の都城 みやこのじょう の発展 はってん 段階 だんかい モデルを次 つぎ のように説明 せつめい している[11] 。最 もっと も原初 げんしょ の段階 だんかい では、小高 こだか い丘 おか に支配 しはい 者 しゃ の城塞 じょうさい が築 きず かれ、その周辺 しゅうへん に人民 じんみん が散 ち 居 きょ する山城 やましろ 式 しき が成立 せいりつ した。次 つぎ に集落 しゅうらく の回 まわ りを壁 かべ で囲 かこ った城主 じょうしゅ 郭 くるわ 従 したがえ 式 しき が現 あらわ れ、そこから、内側 うちがわ の城 しろ の城壁 じょうへき を強化 きょうか し城壁 じょうへき が二 に 重 じゅう 構造 こうぞう となる内城 うちじろ 外郭 がいかく 式 しき と、内城 うちじろ の城壁 じょうへき がはっきりしない城 しろ 従 したがえ 郭 かく 主 あるじ 式 しき へと並行 へいこう 的 てき に変化 へんか し、城 しろ 従 したがえ 郭 かく 主 あるじ 式 しき から城壁 じょうへき が外郭 がいかく だけになる城壁 じょうへき 式 しき が生 う まれた。文献 ぶんけん 資料 しりょう 上 じょう では、内城 うちじろ 外郭 がいかく 式 しき は春秋 しゅんじゅう 時代 じだい に多 おお く、城壁 じょうへき 式 しき は戦国 せんごく 時代 じだい 以後 いご 、あるいは秦 はた ・漢 かん 代 だい 以後 いご に多 おお くなる[11] 。
中国 ちゅうごく の城壁 じょうへき の特徴 とくちょう の一 ひと つに城門 じょうもん が過剰 かじょう なまでに多重 たじゅう 構造 こうぞう で作 つく られていることが挙 あ げられる。これは甕 う 城 じょう (おうじょう)と呼 よ ばれるもので城門 じょうもん は二 に 重 じゅう 、三重 みえ の城壁 じょうへき で守 まも られていた。
かつての首都 しゅと であった南京 なんきん と西安 しーあん には大 だい 規模 きぼ な城壁 じょうへき があり保存 ほぞん 状態 じょうたい も良好 りょうこう である。北京 ぺきん の城壁 じょうへき は北京 ぺきん 駅 えき 付近 ふきん にわずかに残 のこ るだけでほぼ消滅 しょうめつ している。
城郭 じょうかく 都市 とし の例 れい (城壁 じょうへき が現存 げんそん )[ 編集 へんしゅう ]
エジプト
インド
中国 ちゅうごく
韓国 かんこく
日本 にっぽん の城郭 じょうかく [ 編集 へんしゅう ]
吉野 よしの ヶ里 さと 遺跡 いせき
鎌倉 かまくら 、ただし城郭 じょうかく 都市 とし と捉 とら えるかについては解釈 かいしゃく が分 わ かれている。
姫路 ひめじ 古地 こち 図 ず (1761年 ねん )
江戸城 えどじょう 配置 はいち 図 ず (外郭 がいかく )
日本 にっぽん には本格 ほんかく 的 てき な都市 とし が出現 しゅつげん する以前 いぜん の弥生 やよい 時代 じだい に、既 すで に互 たが いに割拠 かっきょ 、抗争 こうそう するクニ の防衛 ぼうえい 拠点 きょてん として吉野 よしの ヶ里 さと 遺跡 いせき などの環 かん 濠 ほり 集落 しゅうらく が発達 はったつ していたが、これは統一 とういつ 国家 こっか の形成 けいせい へと向 む かう中 なか で姿 すがた を消 け した。
やがて中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき な律令 りつりょう 国家 こっか が建設 けんせつ されていく中 なか で、中国 ちゅうごく の都城 みやこのじょう 制 せい の概念 がいねん が輸入 ゆにゅう され、国 くに 都 と としての平安京 へいあんきょう や平城京 へいじょうきょう などは城門 じょうもん や望楼 ぼうろう を設 もう け、囲 かこえ 郭 かく 都市 とし の体 からだ をなしていた。
だが、これらの都城 みやこのじょう は戦時 せんじ の防衛 ぼうえい に耐 た えられる城壁 じょうへき などは築 きず かれなかった。
鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ の本拠地 ほんきょち である鎌倉 かまくら (神奈川 かながわ 県 けん 鎌倉 かまくら 市 し 中心 ちゅうしん 部 ぶ )は、西 にし ・北 きた ・東 ひがし の三 さん 方 ぽう を切通 きりどお し (鎌倉 かまくら 七 なな 口 くち )や切岸 きりぎし 状 じょう の人工 じんこう 地形 ちけい (名越 なごし 切通 きりとおし の「お猿 さる 畠 ばたけ の大 だい 切岸 きりぎし 」など)が見 み られる丘陵 きゅうりょう で囲 かこ まれ、残 のこ る南側 みなみがわ も海 うみ が塞 ふさ ぐ馬蹄 ばてい 形 がた の盆地 ぼんち である特性 とくせい から、赤星 あかほし 直 ただし 忠 ただし の研究 けんきゅう 以来 いらい 、都市 とし 全体 ぜんたい が自然 しぜん 地形 ちけい を防御 ぼうぎょ 施設 しせつ とする城郭 じょうかく 都市 とし (鎌倉 かまくら 城 じょう )だったとする説 せつ がある[12] [13] 。これは、九条 くじょう 兼 けん 実 み の日記 にっき 『玉 たま 葉 は 』の寿 ことぶき 永 ひさし 2年 ねん (1183年 ねん )条 じょう に「鎌倉 かまくら 城 じょう 」という記述 きじゅつ があることや、『太平 たいへい 記 き 』での幕府 ばくふ 滅亡 めつぼう の際 さい に鎌倉 かまくら 北西 ほくせい 方面 ほうめん から侵入 しんにゅう を試 こころ みた新田 にった 義貞 よしさだ 軍 ぐん の攻撃 こうげき を幕府 ばくふ 側 がわ が一時 いちじ 的 てき に凌 しの ぎ、稲村ヶ崎 いなむらがさき への迂回 うかい 突破 とっぱ まで防 ふせ いだ描写 びょうしゃ があることなどから言 い われてきたことであるが、赤星 あかほし により防御 ぼうぎょ 施設 しせつ とされた「お猿 さる 畠 ばたけ の大 だい 切岸 きりぎし 」が建築 けんちく 土木 どぼく 用 よう の石切場 いしきりば (採石 さいせき 場 じょう )であることが発掘 はっくつ 調査 ちょうさ で判明 はんめい したことや[14] 、他 た の鎌倉 かまくら の人工 じんこう 的 てき な地形 ちけい 改変 かいへん も軍事 ぐんじ 要素 ようそ 以外 いがい の様々 さまざま な目的 もくてき による土地 とち 利用 りよう に起因 きいん していること[15] 、『玉 たま 葉 は 』の「鎌倉 かまくら 城 じょう 」と言 い う言葉 ことば が、城郭 じょうかく というより(源 みなもと 頼朝 よりとも の)「本拠地 ほんきょち 」という意味合 いみあ いで使 つか われているとする齋藤 さいとう 慎一 しんいち の指摘 してき など[16] 、否定 ひてい 的 てき な見方 みかた も出 で てきており、「鎌倉 かまくら 城 じょう =城郭 じょうかく 都市 とし 」と言 い う捉 とら え方 かた には見直 みなお しが行 おこな われている[15] 。
博多 はかた や堺 さかい では都市 とし の周囲 しゅうい を土 ど 塁 るい と堀 ほり で囲 かこ み(環 かん 濠 ほり 都市 とし )、また各地 かくち で土 ど 塁 るい と堀 ほり で囲 かこ まれた集落 しゅうらく も出現 しゅつげん するようになる(環 かん 濠 ほり 集落 しゅうらく )。一向 いっこう 宗 そう の寺院 じいん も堀 ほり や土 ど 塁 るい で防御 ぼうぎょ された(寺内 てらうち 町 まち )。その中 なか でも大 だい 規模 きぼ なのが石山 いしやま 本願寺 ほんがんじ で、後 のち に大阪城 おおさかじょう の建設 けんせつ 地 ち となる。
戦国 せんごく 時代 じだい になり、城 しろ が戦国 せんごく 大名 だいみょう の領国 りょうごく 経営 けいえい における支配 しはい 中枢 ちゅうすう 拠点 きょてん としての重要 じゅうよう 性 せい を増 ま してくると、小田原 おだわら 城 じょう などに見 み られるように城下町 じょうかまち の周囲 しゅうい に自然 しぜん の河川 かせん や堀 ほり 、土 ど 塁 るい を配 はい した外郭 がいかく 構造 こうぞう が取 と られる城郭 じょうかく が現 あらわ れた。
総 そう 構 かま えの代表 だいひょう 的 てき な例 れい には、江戸城 えどじょう がある。徳川 とくがわ 幕府 ばくふ が建設 けんせつ した城 しろ で、渦巻 うずまき 状 じょう に堀 ほり を巡 めぐ らしており、外堀 そとぼり の内側 うちがわ に徳川 とくがわ 家 か に近 ちか い旗本 はたもと などが住 す む武家 ぶけ の街 まち (武家 ぶけ 屋敷 やしき 群 ぐん )を配置 はいち している。ただし明 あかり 暦 れき の大火 たいか 後 のち に武家 ぶけ 地 ち を郊外 こうがい に移転 いてん する都市 とし 改造 かいぞう を行 おこな ったため、戦 せん で江戸 えど の町 まち 全体 ぜんたい を防衛 ぼうえい するのはほぼ不可能 ふかのう になった。
豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし は京都 きょうと の町 まち を全長 ぜんちょう 22.5kmに及 およ ぶ長大 ちょうだい な土 ど 塁 るい と堀 ほり で囲 かこ んだ(御 ご 土居 どい )。
^ 城壁 じょうへき 都市 とし (じょうへきとし)、囲 かこえ 郭 かく 都市 とし (いかくとし)とも呼 よ ばれる。フランス語 ふらんすご でville fortifiée 、Cité fortifiée、ville avec rempart、英語 えいご ではwalled city、fortified city、ドイツ語 ご でbefestigte Stadt 。
^ 城塞 じょうさい 都市 とし (じょうさいとし)と呼 よ ぶ場合 ばあい もある。ただしこの場合 ばあい の城塞 じょうさい はcitadelの意味 いみ ではない。
^ 城壁 じょうへき は仏 ふつ :fr:muraille 、rempart、英 えい :city wall、独 どく :Stadtmauer という。
^ なお、ラテン語 らてんご で「tra」、フランス語 ふらんすご で「tre」と記述 きじゅつ されているものを英語 えいご に移入 いにゅう する場合 ばあい は、「ter」とするのが典型 てんけい 的 てき なパターンである。なお、イギリスはというのはノルマン人 じん (=フランス西岸 せいがん の民族 みんぞく )が支配 しはい し王 おう となっていた歴史 れきし があるので、英語 えいご はフランス語 ふらんすご 起源 きげん の語彙 ごい が非常 ひじょう に多 おお い。
^ 東 ひがし ヨーロッパの境界 きょうかい あたりを移動 いどう していた遊牧民 ゆうぼくみん ・狩猟 しゅりょう 民 みん なども攻 せ め入 はい ってくる可能 かのう 性 せい があり、実際 じっさい ヨーロッパはそうしたことを歴史 れきし 上 じょう 何 なん 度 ど も経験 けいけん しており、ヨーロッパ人 じん にとっては常 つね に心配 しんぱい の種 たね で、おまけに13世紀 せいき には遥 はる か彼方 かなた のモンゴルのチンギス・ハン やその子 こ らの軍 ぐん が地球 ちきゅう を半周 はんしゅう ほどもして怒涛 どとう の勢 いきお いでヨーロッパに迫 せま った出来事 できごと があり、攻 せ め入 はい った村 むら 々の住民 じゅうみん を大人 おとな だけでなく幼児 ようじ ・赤子 あかご まで情 なさ け容赦 ようしゃ なく皆殺 みなごろ しにしてしまう この東 ひがし アジアの民族 みんぞく の到来 とうらい にヨーロッパの人々 ひとびと は心底 しんそこ 震 ふる えあがり、その恐怖 きょうふ は彼 かれ らの心 しん ・文化 ぶんか に深 ふか く刻 きざ み込 こ まれた。
^ ヨーロッパの城郭 じょうかく 都市 とし では、門限 もんげん が定 さだ められていて、その時刻 じこく になると門扉 もんぴ が閉 と じられ、翌朝 よくあさ までは入 はい ることができないとりきめになっていることが一般 いっぱん 的 てき であった。うっかり知 し り合 あ いだからと扉 とびら を開 あ けて、それが悪人 あくにん にそそのかされたりして手先 てさき となった人 ひと で、悪人 あくにん たちが複数 ふくすう 名 めい 飛 と び込 こ んできたりすると、もう都市 とし を守 まも ることができなくなってしまうからである。商人 しょうにん など離 はな れた都市 とし に仕事 しごと で出向 でむ く生活 せいかつ をする者 もの 、日 にち 中 ちゅう に外 そと に遊 あそ びにゆく者 もの たちもいたが、門限 もんげん には注意 ちゅうい を払 はら う必要 ひつよう があり、遅刻 ちこく してしまうと内側 うちがわ に入 い れてもらうことはできず、遅刻 ちこく してしまった者 もの は、門扉 もんぴ の近 ちか くの城 しろ 壁 かべ ぎわなどでたき火 び などをしつつ、(それなりの金額 きんがく のお金 かね を持 も っている商人 しょうにん などは特 とく に心細 こころぼそ い想 おも いをしながら)夜 よる をすごす必要 ひつよう があった。17世紀 せいき や18世紀 せいき の作家 さっか が書 か いた文章 ぶんしょう などには、そうした状況 じょうきょう の描写 びょうしゃ などが盛 も り込 こ まれているものも結構 けっこう あり、どうやら遅刻 ちこく する者 もの は日常 にちじょう 的 てき にいたようで、遅刻 ちこく した者 もの 同士 どうし が夜通 よどお し語 かた りあうことでひょんな縁 えん が生 う まれる様子 ようす が描 えが かれているものもある。
^ クヘンディズ コトバンク
^ “IV. Türkiye Lisans Üstü Çalışmalar Kongresi: Bildiriler Kitabı - III ”. Türkiye Lisansüstü Çalışmalar Kongresi(トルコ大学院 だいがくいん 研究 けんきゅう 会議 かいぎ ?). 20220907 閲覧 えつらん 。 :145-153
^ 日本 にっぽん の「城 しろ 」を意味 いみ する用語 ようご (英 えい :castle、仏 ふつ :château、独 どく :Burg / Schloss など)は封建 ほうけん 領主 りょうしゅ の居館 きょかん を兼 か ねた軍事 ぐんじ 施設 しせつ のことである。
^ 日本 にっぽん では、「城 しろ 」という言葉 ことば は、城塞 じょうさい (citadel)に近 ちか い建築 けんちく (城 しろ 館 かん )を指 さ すことが多 おお い。しかし、防衛 ぼうえい 施設 しせつ の堀 ほり や柵 しがらみ や土 ど 塁 るい を指 さ して「城 しろ 」と呼 よ ぶ例 れい もある。
^ a b 布野 ふの 修司 しゅうじ traverse編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい (編 へん )「作品 さくひん としての都市 とし :都市 とし 組織 そしき と建築 けんちく 」『建築 けんちく 学 がく のすすめ』昭和堂 しょうわどう 2015 ISBN 9784812215135 pp.197-198.
^ 赤星 あかほし 1959
^ 赤星 あかほし 1972
^ 「国 くに 指定 してい 史跡 しせき 名越 なごし 切通 きりとおし 」 逗子 ずし 市 し 公式 こうしき HP
^ a b 岡 おか 2004 pp.41-64
^ 齋藤 さいとう 2006 pp.184-185
赤星 あかほし 直 ただし 忠 ただし 1959「鎌倉 かまくら の城郭 じょうかく 」『鎌倉 かまくら 市 し 史 し (考古 こうこ 編 へん )』鎌倉 かまくら 市 し
赤星 あかほし 直 ただし 忠 ちゅう 1972「逗子 ずし 市 し お猿 さる 畠 ばたけ 大切 たいせつ 岸 がん について」『神奈川 かながわ 県 けん 文化財 ぶんかざい 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ 34集 しゅう 』神奈川 かながわ 県 けん 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい
岡 おか 陽一郎 よういちろう (五味 ごみ 文彦 ふみひこ ・馬淵 まぶち 和雄 かずお 編 へん )2004「幻影 げんえい の鎌倉 かまくら 城 じょう 」『中世 ちゅうせい 都市 とし 鎌倉 かまくら の実像 じつぞう と境界 きょうかい 』pp.41-64 高志 こうし 書院 しょいん
齋藤 さいとう 慎一 しんいち 2006『中世 ちゅうせい 武士 ぶし の城 しろ 』吉川弘文館 よしかわこうぶんかん