城郭じょうかく都市とし

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古代こだいエジプトのBuhen復元ふくげん 紀元前きげんぜん19世紀せいき
イリオス世界せかい遺産いさん)トルコ
ジャイサルメール世界せかい遺産いさん)インド
パルマノーヴァ イタリア
アビラ世界せかい遺産いさん)スペイン
ゲッティンゲン ドイツ(模型もけい
カルカソンヌ世界せかい遺産いさん)フランス
ナールデン オランダ
1572ねんのパリの
だいかこえかべ世界せかい遺産いさん)ジンバブエ

城郭じょうかく都市とし(じょうかくとし)[1][2]とは、城壁じょうへき[3]周囲しゅういかこ堅固けんご防御ぼうぎょした都市としす 。るいほりなども防御ぼうぎょ施設しせつとしてもちいられる。

概説がいせつ[編集へんしゅう]

城郭じょうかく都市とし歴史れきしふるく、エジプト文明ぶんめいメソポタミア文明ぶんめいインダス文明ぶんめい中国ちゅうごく文明ぶんめいや、古代こだいギリシア各地かくち誕生たんじょうしている。

城郭じょうかく都市とし起源きげんかんほり集落しゅうらくかんがえられ、しん石器せっき時代じだい農耕のうこう誕生たんじょうするとともに世界せかい各地かくち普遍ふへんてきられた。農耕のうこう発達はったつはじまり集落しゅうらくとみ蓄積ちくせきされるようになると、これをうばおうとする外敵がいてき脅威きょういたいして防御ぼうぎょするため、周囲しゅういほりをうがちげてるいとした。やがて防御ぼうぎょりょく強化きょうかのためよりほりふかくし、みずめ、るいにはしがらみもうけた。さらにはんちく煉瓦れんがいしんでかべつくり、かべはよりたかく、堅固けんご巨大きょだいとなり、都市としになっていった。これらの城郭じょうかく都市としふるくから都市とし文明ぶんめい興隆こうりゅうし、部族ぶぞく民族みんぞくあいだあらそいが頻発ひんぱつしていた地域ちいきにおいていちじるしい発展はってんげた。

一方いっぽう都市としない人口じんこう密度みつどたかいため、低湿ていしつ条件下じょうけんかでは衛生えいせい状態じょうたい劣悪れつあくとなり、疫病えきびょう急速きゅうそく蔓延まんえんする傾向けいこうもあった。

ヨーロッパ[編集へんしゅう]

ヨーロッパの都市としは、マ帝国まていこく軍隊ぐんたい宿営しゅくえい起源きげんとしているものがおおい。ヨーロッパというのはマ帝国まていこく市民しみんかられば、「ガリア」とばれる場所ばしょで、「辺境へんきょう」、まともな文明ぶんめい野蛮やばんものたちが場所ばしょという位置付いちづけであった。マ帝国まていこく領域りょういきひろげるにあたってローマぐん派遣はけん現地げんちものたちと戦争せんそうおこない、そのほとんどのたたかいで現地げんちものたちをやぶっていった。マ帝国まていこく土木どぼく技術ぎじゅつすぐれており、帝国ていこくぐん進軍しんぐんした場所ばしょに、ラテン語らてんごでcastra カストラという、「軍事ぐんじ拠点きょてん けん 宿営しゅくえい施設しせつ」を構築こうちくした。ローマぐんのカストラは、ローマぐんがいなくなったのちのこされ、現地げんちものたちがそのまま使つかい、やがてまちとなっていった。そういった理由りゆうで、ヨーロッパの都市としめいには"castra"から派生はせいした言葉ことばのこっているものもおおい。たとえば、Lancaster(ランカスター)のcasterやManchester(マンチェスター ) の「chester」などがげられる[4]ラテン語らてんご起源きげん以外いがいでも、「とりで」「城塞じょうさい」「堡」を意味いみする古代こだいゲルマン"burg"(現代げんだいドイツ語どいつご"Burg"→地名ちめい接尾せつび#-burg)は、ドイツ・オランダけんにおける"-burg"(れい:Hamburg(ハンブルク) )、英語えいごけんにおける"-burgh"(れい:Edinburgh(エディンバラ) ), "-bury"(れい:(Canterbury(カンタベリー))などの地名ちめいのこる。また、スラブけんにおける「グラード」も同様どうよう意味いみである。

中世ちゅうせい以前いぜん大陸たいりく主要しゅよう大都市だいとしには、ほとんどの場合ばあいたか城壁じょうへきそなえられていることが一般いっぱんてきであった。ひがしマ帝国まていこく帝都ていとコンスタンティノープルたかさ10すうメートルの3じゅう城壁じょうへきまもられていたし、イスラム文化ぶんかけん中心ちゅうしん都市としであったバグダードも7つの城門じょうもん直径ちょっけい2.35kmの円形えんけい城壁じょうへきかこまれていた。

近隣きんりん都市とし同士どうし領土りょうどあらそいも相当そうとうなものがあり、城郭じょうかく都市とし建設けんせつされたおおきな理由りゆうのひとつであるが、もうひとつにヨーロッパは、「ユーラシア大陸たいりく」というヨーロッパとアジアの大陸たいりくをあわせた巨大きょだい大陸たいりく一部いちぶであり、地続じつづきでいつでも外敵がいてきはいってくる可能かのうせいにさらされている土地とちであるので、基本きほんてきてき侵入しんにゅうたいする対策たいさくかせないというところがある[5]

城郭じょうかく都市とし城壁じょうへき都市としでは、城壁じょうへきには城門じょうもんかまえられ、ほりがうがたれてばしなどがもうけられている場合ばあいもあった。城門じょうもん外側そとがわにもう1じゅう城壁じょうへきもうけられるなど防備ぼうび厳重げんじゅうきわめた。城壁じょうへきうえには一定いってい間隔かんかく望楼ぼうろう設置せっちされ、かべけられた銃眼じゅうがんによっててき射撃しゃげきした。城郭じょうかく都市とし内部ないぶには、丘陵きゅうりょう領主りょうしゅしろかんてられるなどして城塞じょうさい(シタデル)を形成けいせいし、周辺しゅうへんには家臣かしんだんほか一般いっぱん住民じゅうみん居住きょじゅうした。おおきなものでは郭内かくない耕地こうちがあるものもあり、井戸いどがいくつもあって長期ちょうき籠城ろうじょうえられるようになっていた[6]

のオスマンぐんウィーン包囲ほういえたウィーンふかほりあつ城壁じょうへきとう堡塁ほうるいそなえていた。パリ城壁じょうへき市域しいき拡大かくだいあわせて放射状ほうしゃじょう拡大かくだいされ、6かいつくえがおこなわれた。最終さいしゅう城壁じょうへきティエールの城壁じょうへき」はそう延長えんちょう30㎞をえる欧州おうしゅう随一ずいいちだい城壁じょうへきになった。

近世きんせいいた大砲たいほう発達はったつしたことで、たか城壁じょうへき防御ぼうぎょめん重要じゅうようせい低下ていかさせ、実戦じっせんえうるために城壁じょうへきひくくなり、大砲たいほう死角しかくくすため、ほしがたりょう堡をはいするほしがた要塞ようさい主流しゅりゅうとなっていく。しかしそういった城壁じょうへき市域しいき拡張かくちょう航空機こうくうき出現しゅつげんによる戦術せんじゅつ転換てんかんのため、20世紀せいきなかには次々つぎつぎこわされて、跡地あとち道路どうろになったり鉄道てつどう用地ようちになった。なかにはのこされた城壁じょうへき整備せいびされ、観光かんこう資源しげんとして活用かつようされているれいもある。

中東ちゅうとう[編集へんしゅう]

内城うちじろ要塞ようさいのクヘンディズ(kuhendiz、もしくはアルク、Arg)、璧内の市街地しがいちシャフリスターン(şehristan)、璧外の市街地しがいちラバド(rabat)のさん要素ようそからなる[7]璧のもんバーブ(bāb)はよるになるとめられる。もとはシャフリスターンとクヘンディズからなり、シャフリスターンには居住きょじゅう歓楽街かんらくがい礼拝れいはいしょなどがかれた。発展はってんとともに居住きょじゅう璧からあふれラバドが形成けいせいされた。おもに商業しょうぎょうなどがおこなわれるのは、ラバドである。このような都市としかたは、Üç Bölümlü Kent Modeli (Tripartite City Model)として分類ぶんるいされる[8]

中国ちゅうごく[編集へんしゅう]

ひらはるか古城こじょう世界せかい遺産いさん中国ちゅうごく
西安しーあん城壁じょうへき水堀みずほり 中国ちゅうごく
水原みずはらはなじょう (世界せかい遺産いさん韓国かんこく

中国ちゅうごくでは「しろ[9][10]本来ほんらい語義ごぎ都市としかこ防塁ぼうるい城壁じょうへき自体じたいしていたが、のち城壁じょうへきかこまれた内部ないぶをもふくむようになった。とく城壁じょうへきのみを場合ばあいは「しろ(じょうしょう)」という。じゅうになった城壁じょうへきのうち、宮殿きゅうでん行政ぎょうせい機関きかんといった都市とし中心ちゅうしん機能きのうまも内側うちがわ城壁じょうへき内城うちじろ)を「しろ」、市街地しがいちまも外側そとがわ城壁じょうへき外城とじょう)「かく」と区別くべつした。

宮崎みやざきじょう中国ちゅうごく都城みやこのじょう発展はってん段階だんかいモデルをつぎのように説明せつめいしている[11]もっと原初げんしょ段階だんかいでは、小高こだかおか支配しはいしゃ城塞じょうさいきずかれ、その周辺しゅうへん人民じんみんきょする山城やましろしき成立せいりつした。つぎ集落しゅうらくまわりをかべかこった城主じょうしゅくるわしたがえしきあらわれ、そこから、内側うちがわしろ城壁じょうへき強化きょうか城壁じょうへきじゅう構造こうぞうとなる内城うちじろ外郭がいかくしきと、内城うちじろ城壁じょうへきがはっきりしないしろしたがえかくあるじしきへと並行へいこうてき変化へんかし、しろしたがえかくあるじしきから城壁じょうへき外郭がいかくだけになる城壁じょうへきしきまれた。文献ぶんけん資料しりょうじょうでは、内城うちじろ外郭がいかくしき春秋しゅんじゅう時代じだいおおく、城壁じょうへきしき戦国せんごく時代じだい以後いご、あるいははたかんだい以後いごおおくなる[11]

中国ちゅうごく城壁じょうへき特徴とくちょうひとつに城門じょうもん過剰かじょうなまでに多重たじゅう構造こうぞうつくられていることがげられる。これはじょう(おうじょう)とばれるもので城門じょうもんじゅう三重みえ城壁じょうへきまもられていた。

かつての首都しゅとであった南京なんきん西安しーあんにはだい規模きぼ城壁じょうへきがあり保存ほぞん状態じょうたい良好りょうこうである。北京ぺきん城壁じょうへき北京ぺきんえき付近ふきんにわずかにのこるだけでほぼ消滅しょうめつしている。

城郭じょうかく都市としれい城壁じょうへき現存げんそん[編集へんしゅう]

アフリカ[編集へんしゅう]

エジプト

欧州おうしゅう[編集へんしゅう]

中東ちゅうとう[編集へんしゅう]

みなみアジア[編集へんしゅう]

インド

中央ちゅうおうアジア[編集へんしゅう]

  • バクー(アゼルバイジャン)グワーリヤル

ひがしアジア[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく
韓国かんこく

北米ほくべい[編集へんしゅう]

日本にっぽん城郭じょうかく[編集へんしゅう]

吉野よしのさと遺跡いせき
鎌倉かまくら、ただし城郭じょうかく都市としとらえるかについては解釈かいしゃくかれている。
姫路ひめじ古地こち(1761ねん
江戸城えどじょう配置はいち外郭がいかく

古代こだい[編集へんしゅう]

日本にっぽんには本格ほんかくてき都市とし出現しゅつげんする以前いぜん弥生やよい時代じだいに、すでたがいに割拠かっきょ抗争こうそうするクニ防衛ぼうえい拠点きょてんとして吉野よしのさと遺跡いせきなどのかんほり集落しゅうらく発達はったつしていたが、これは統一とういつ国家こっか形成けいせいへとかうなか姿すがたした。 やがて中央ちゅうおう集権しゅうけんてき律令りつりょう国家こっか建設けんせつされていくなかで、中国ちゅうごく都城みやこのじょうせい概念がいねん輸入ゆにゅうされ、くにとしての平安京へいあんきょう平城京へいじょうきょうなどは城門じょうもん望楼ぼうろうもうけ、かこえかく都市としからだをなしていた。 だが、これらの都城みやこのじょう戦時せんじ防衛ぼうえいえられる城壁じょうへきなどはきずかれなかった。

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ本拠地ほんきょちである鎌倉かまくら神奈川かながわけん鎌倉かまくら中心ちゅうしん)は、西にしきたひがしさんぽう切通きりどお鎌倉かまくらななくち)や切岸きりぎしじょう人工じんこう地形ちけい名越なごし切通きりとおしの「さるばたけだい切岸きりぎし」など)がられる丘陵きゅうりょうかこまれ、のこ南側みなみがわうみふさ馬蹄ばていがた盆地ぼんちである特性とくせいから、赤星あかほしただしただし研究けんきゅう以来いらい都市とし全体ぜんたい自然しぜん地形ちけい防御ぼうぎょ施設しせつとする城郭じょうかく都市とし鎌倉かまくらじょう)だったとするせつがある[12][13]。これは、九条くじょうけん日記にっきたま』の寿ことぶきひさし2ねん1183ねんじょうに「鎌倉かまくらじょう」という記述きじゅつがあることや、『太平たいへい』での幕府ばくふ滅亡めつぼうさい鎌倉かまくら北西ほくせい方面ほうめんから侵入しんにゅうこころみた新田にった義貞よしさだぐん攻撃こうげき幕府ばくふがわ一時いちじてきしのぎ、稲村ヶ崎いなむらがさきへの迂回うかい突破とっぱまでふせいだ描写びょうしゃがあることなどからわれてきたことであるが、赤星あかほしにより防御ぼうぎょ施設しせつとされた「おさるばたけだい切岸きりぎし」が建築けんちく土木どぼくよう石切場いしきりば採石さいせきじょう)であることが発掘はっくつ調査ちょうさ判明はんめいしたことや[14]鎌倉かまくら人工じんこうてき地形ちけい改変かいへん軍事ぐんじ要素ようそ以外いがい様々さまざま目的もくてきによる土地とち利用りよう起因きいんしていること[15]、『たま』の「鎌倉かまくらじょう」と言葉ことばが、城郭じょうかくというより(みなもと頼朝よりともの)「本拠地ほんきょち」という意味合いみあいで使つかわれているとする齋藤さいとう慎一しんいち指摘してきなど[16]否定ひていてき見方みかたてきており、「鎌倉かまくらじょう城郭じょうかく都市とし」ととらかたには見直みなおしがおこなわれている[15]

そうかま[編集へんしゅう]

博多はかたさかいでは都市とし周囲しゅういるいほりかこみ(かんほり都市とし)、また各地かくちるいほりかこまれた集落しゅうらく出現しゅつげんするようになる(かんほり集落しゅうらく)。一向いっこうそう寺院じいんほりるい防御ぼうぎょされた(寺内てらうちまち)。そのなかでもだい規模きぼなのが石山いしやま本願寺ほんがんじで、のち大阪城おおさかじょう建設けんせつとなる。

戦国せんごく時代じだいになり、しろ戦国せんごく大名だいみょう領国りょうごく経営けいえいにおける支配しはい中枢ちゅうすう拠点きょてんとしての重要じゅうようせいしてくると、小田原おだわらじょうなどにられるように城下町じょうかまち周囲しゅうい自然しぜん河川かせんほりるいはいした外郭がいかく構造こうぞうられる城郭じょうかくあらわれた。

そうかまえの代表だいひょうてきれいには、江戸城えどじょうがある。徳川とくがわ幕府ばくふ建設けんせつしたしろで、渦巻うずまきじょうほりめぐらしており、外堀そとぼり内側うちがわ徳川とくがわちか旗本はたもとなどが武家ぶけまち武家ぶけ屋敷やしきぐん)を配置はいちしている。ただしあかりれき大火たいかのち武家ぶけ郊外こうがい移転いてんする都市とし改造かいぞうおこなったため、せん江戸えどまち全体ぜんたい防衛ぼうえいするのはほぼ不可能ふかのうになった。

土居どい[編集へんしゅう]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし京都きょうとまち全長ぜんちょう22.5kmにおよ長大ちょうだいるいほりかこんだ(土居どい)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 城壁じょうへき都市とし(じょうへきとし)、かこえかく都市とし(いかくとし)ともばれる。フランス語ふらんすごville fortifiée、Cité fortifiée、ville avec rempart、英語えいごではwalled city、fortified city、ドイツでbefestigte Stadt 。
  2. ^ 城塞じょうさい都市とし(じょうさいとし)と場合ばあいもある。ただしこの場合ばあい城塞じょうさいはcitadelの意味いみではない。
  3. ^ 城壁じょうへきふつfr:muraille、rempart、えい:city wall、どく:Stadtmauer という。
  4. ^ なお、ラテン語らてんごで「tra」、フランス語ふらんすごで「tre」と記述きじゅつされているものを英語えいご移入いにゅうする場合ばあいは、「ter」とするのが典型てんけいてきなパターンである。なお、イギリスはというのはノルマンじん(=フランス西岸せいがん民族みんぞく)が支配しはいおうとなっていた歴史れきしがあるので、英語えいごフランス語ふらんすご起源きげん語彙ごい非常ひじょうおおい。
  5. ^ ひがしヨーロッパの境界きょうかいあたりを移動いどうしていた遊牧民ゆうぼくみん狩猟しゅりょうみんなどもはいってくる可能かのうせいがあり、実際じっさいヨーロッパはそうしたことを歴史れきしじょうなん経験けいけんしており、ヨーロッパじんにとってはつね心配しんぱいたねで、おまけに13世紀せいきにははる彼方かなたのモンゴルのチンギス・ハンやそのらのぐん地球ちきゅう半周はんしゅうほどもして怒涛どとういきおいでヨーロッパにせまった出来事できごとがあり、はいったむら々の住民じゅうみん大人おとなだけでなく幼児ようじ赤子あかごまでなさ容赦ようしゃなく皆殺みなごろしにしてしまう このひがしアジアの民族みんぞく到来とうらいにヨーロッパの人々ひとびと心底しんそこふるえあがり、その恐怖きょうふかれらのしん文化ぶんかふかきざまれた。
  6. ^ ヨーロッパの城郭じょうかく都市としでは、門限もんげんさだめられていて、その時刻じこくになると門扉もんぴじられ、翌朝よくあさまでははいることができないとりきめになっていることが一般いっぱんてきであった。うっかりいだからととびらけて、それが悪人あくにんにそそのかされたりして手先てさきとなったひとで、悪人あくにんたちが複数ふくすうめいんできたりすると、もう都市としまもることができなくなってしまうからである。商人しょうにんなどはなれた都市とし仕事しごと出向でむ生活せいかつをするものにちちゅうそとあそびにゆくものたちもいたが、門限もんげんには注意ちゅういはら必要ひつようがあり、遅刻ちこくしてしまうと内側うちがわれてもらうことはできず、遅刻ちこくしてしまったものは、門扉もんぴちかくのしろかべぎわなどでたきなどをしつつ、(それなりの金額きんがくのおかねっている商人しょうにんなどはとく心細こころぼそおもいをしながら)よるをすごす必要ひつようがあった。17世紀せいきや18世紀せいき作家さっかいた文章ぶんしょうなどには、そうした状況じょうきょう描写びょうしゃなどがまれているものも結構けっこうあり、どうやら遅刻ちこくするもの日常にちじょうてきにいたようで、遅刻ちこくしたもの同士どうし夜通よどおかたりあうことでひょんなえんまれる様子ようすえがかれているものもある。
  7. ^ クヘンディズ コトバンク
  8. ^ IV. Türkiye Lisans Üstü Çalışmalar Kongresi: Bildiriler Kitabı - III”. Türkiye Lisansüstü Çalışmalar Kongresi(トルコ大学院だいがくいん研究けんきゅう会議かいぎ?). 20220907閲覧えつらん:145-153
  9. ^ 日本にっぽんの「しろ」を意味いみする用語ようごえい:castle、ふつ:château、どく:Burg / Schloss など)は封建ほうけん領主りょうしゅ居館きょかんねた軍事ぐんじ施設しせつのことである。
  10. ^ 日本にっぽんでは、「しろ」という言葉ことばは、城塞じょうさい(citadel)にちか建築けんちくしろかん)をすことがおおい。しかし、防衛ぼうえい施設しせつほりしがらみるいして「しろ」とれいもある。
  11. ^ a b 布野ふの修司しゅうじ traverse編集へんしゅう委員いいんかいへん)「作品さくひんとしての都市とし都市とし組織そしき建築けんちく」『建築けんちくがくのすすめ』昭和堂しょうわどう 2015 ISBN 9784812215135 pp.197-198.
  12. ^ 赤星あかほし 1959
  13. ^ 赤星あかほし 1972
  14. ^ くに指定してい史跡しせき 名越なごし切通きりとおし逗子ずし公式こうしきHP
  15. ^ a b おか 2004 pp.41-64
  16. ^ 齋藤さいとう 2006 pp.184-185

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 赤星あかほしただしただし 1959「鎌倉かまくら城郭じょうかく」『鎌倉かまくら考古こうこへん)』鎌倉かまくら
  • 赤星あかほしただしちゅう 1972「逗子ずしさるばたけ大切たいせつがんについて」『神奈川かながわけん文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ34しゅう神奈川かながわけん教育きょういく委員いいんかい
  • おか陽一郎よういちろう五味ごみ文彦ふみひこ馬淵まぶち和雄かずおへん)2004「幻影げんえい鎌倉かまくらじょう」『中世ちゅうせい都市とし鎌倉かまくら実像じつぞう境界きょうかい』pp.41-64 高志こうし書院しょいん
  • 齋藤さいとう慎一しんいち 2006『中世ちゅうせい武士ぶししろ吉川弘文館よしかわこうぶんかん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]