鎌倉かまくらじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
鎌倉かまくらじょう
神奈川かながわけん
鎌倉城の切岸といわれた「お猿畠の大切岸」。石切場だったことが解り疑問視されている。
鎌倉かまくらじょう切岸きりぎしといわれた「さるばたけだい切岸きりぎし」。石切場いしきりばだったことがわか疑問ぎもんされている。
城郭じょうかく構造こうぞう 城郭じょうかく都市とし?異説いせつあり
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし みなもと頼朝よりとも
築城ちくじょうねん 1180ねんうけたまわ4ねん)?
おも城主じょうしゅ 鎌倉かまくら幕府ばくふ将軍しょうぐん
はいじょうねん 不明ふめい
遺構いこう 切岸きりぎし?異説いせつあり
指定してい文化財ぶんかざい 指定してい
埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい
包蔵ほうぞう番号ばんごう
鎌倉かまくらNo.87[1][2]
位置いち 北緯ほくい3519ふん09.1びょう 東経とうけい13932ふん49.0びょう / 北緯ほくい35.319194 東経とうけい139.546944 / 35.319194; 139.546944 (鎌倉かまくらじょう)座標ざひょう: 北緯ほくい3519ふん09.1びょう 東経とうけい13932ふん49.0びょう / 北緯ほくい35.319194 東経とうけい139.546944 / 35.319194; 139.546944 (鎌倉かまくらじょう)
座標ざひょう鎌倉かまくら中心ちゅうしん
地図ちず
鎌倉城の位置(神奈川県内)
鎌倉城
鎌倉かまくらじょう
テンプレートを表示ひょうじ

鎌倉かまくらじょう(かまくらじょう)は、現在げんざい神奈川かながわけん鎌倉かまくらいきにあたる中世ちゅうせい鎌倉かまくらしめ呼称こしょう中世ちゅうせい当時とうじ史料しりょうえる言葉ことばだが、その解釈かいしゃくには諸説しょせつがあり、鎌倉かまくら全域ぜんいき軍事ぐんじ要塞ようさい=城郭じょうかく都市としなしたとするせつのほか、そうではなくみなもと頼朝よりとも=みなもとの「本拠地ほんきょち」を意味いみする言葉ことばとするせつなどがある。

鎌倉かまくらじょうかん成立せいりつ[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初頭しょとうにあたる、みなもとたいらあらそったうけたまわ寿ことぶきひさしらん(1180ねん-1185ねん)のころ九条くじょうけん日記にっきたま』の記事きじとして、寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)10がつ25にちじょうに「鎌倉かまくらじょうにいるみなもと頼朝よりとも木曽きそ義仲よしなか追討ついとうのためにへい5まんおこし」て、同年どうねん11がつ2にちじょうに「去月きょげつ5にち鎌倉かまくらじょう出発しゅっぱつした」とあることがられている[3]。この記事きじの「鎌倉かまくらじょう」を、るい堀切ほりきり切岸きりぎしなどをきずいて防御ぼうぎょかためた軍事ぐんじ施設しせつてきな「しろ」の意味いみとらえ、また鎌倉かまくら現存げんそんする人為じんいてき地形ちけい改変かいへん城郭じょうかくてき遺構いこうて、鎌倉かまくら全域ぜんいき城郭じょうかくかんがえるせつ(または中世ちゅうせいじんがそう認識にんしきしていたとするせつ)が出現しゅつげんした[4]

城郭じょうかくてき視点してん鎌倉かまくらじょうについてれた初期しょき研究けんきゅうは、戦前せんぜんの1937ねん昭和しょうわ12ねん)の鳥羽とば正雄まさおによる「城郭じょうかく構造こうぞう社会しゃかい経済けいざいてき考察こうさつ」(『歴史れきし教育きょういく12-8』※鳥羽とば 1980『日本にっぽん城郭じょうかくさい検討けんとう』に所収しょしゅう)という。ただしとりは、天然てんねん要害ようがいなかにある鎌倉かまくらが「鎌倉かまくらじょう」と一部いちぶばれたものの、明確めいかくしろ遺構いこうがなく、中世ちゅうせい鎌倉かまくらには有事ゆうじさい防御ぼうぎょ施設しせつつくることはあっても、常設じょうせつてき城郭じょうかく遺構いこうはなかったとする[5][6]

軍事ぐんじ都市とし」「城塞じょうさい都市としてき鎌倉かまくらぞう印象いんしょうけたのは、神奈川かながわ県内けんない考古学こうこがく研究けんきゅう基礎きそきずいた赤星あかほしただしただしの1950年代ねんだい-1970年代ねんだい研究けんきゅうといわれる[4]

赤星あかほしは、古都こと鎌倉かまくら西にしきたひがしの3ぽう急峻きゅうしゅん山地さんちみなみうみ相模さがみわん)という天然てんねん要害ようがいかこみ、鎌倉かまくらななくちばれる切通きりどお平時へいじ出入口でいりぐちとしているが、有事ゆうじには封鎖ふうさして外部がいぶからのてき迎撃げいげきする城塞じょうさい都市としであるとして、きゅう鎌倉かまくらまちいきから極楽寺ごくらくじ地区ちくのぞ範囲はんいを「鎌倉かまくらじょう」の範囲はんいとした。その具体ぐたいてき遺構いこうれいとして、鎌倉かまくら逗子ずしさかい丘陵きゅうりょうにある名越なごし切通きりとおしくに史跡しせき)の逗子ずしがわ800メートルにわたってみられる「さるばたけだい切岸きりぎし」という切岸きりぎしじょう岩盤がんばん露頭ろとうげて、これを北条ほうじょう三浦みうら侵攻しんこうそなえてもうけたものとした[7][4]

赤星あかほしによる軍事ぐんじてき性格せいかく積極せっきょくてき評価ひょうかした鎌倉かまくら都市としぞうは、石丸いしまる熙による研究けんきゅうでさらにすすんで、和田わだ合戦かっせん以降いこう城塞じょうさい都市としとしての拡張かくちょうはかられたと推論すいろんされた[8][4]

1980ねん昭和しょうわ55ねん刊行かんこうの『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい6(千葉ちば神奈川かながわ)』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ)も『たま』や赤星あかほし論考ろんこうき、鎌倉かまくら当時とうじ地域ちいき全体ぜんたいをして城郭じょうかくとらえられていたとする[9][10]

批判ひはんてき見解けんかい諸説しょせつ[編集へんしゅう]

近年きんねん、これについて批判ひはんおおくあらわれており[11]おか陽一郎よういちろう岩手いわてけん一関いちのせき博物館はくぶつかんほね寺村てらむら荘園しょうえん遺跡いせき専門せんもんいん[12])は、「切岸きりぎしじょう岸壁がんぺきや「堀切ほりきりじょう尾根おね開削かいさく斜面しゃめんだんりした「平場ひらば」など、鎌倉かまくら周囲しゅうい山々やまやまにあり軍事ぐんじ防衛ぼうえい関係付かんけいづけられてきた遺構いこう考古こうこ史料しりょう両面りょうめんから精査せいさした。その結果けっか、それらは家屋かおく切通きりどおしのみちはかやぐら)・採石さいせきじょうなど幅広はばひろ用途ようと生産せいさん遺構いこうである可能かのうせいたかく、中世ちゅうせい軍事ぐんじ直結ちょっけつさせるよりも、鎌倉かまくら時代じだい近世きんせい(あるいは現代げんだい)までをつうじてれんめんおこなわれてきた一般いっぱん土地とち利用りよう所産しょさんとみたほう適切てきせつなものがおおいとした[13]名越なごしにある「おさるばたけだい切岸きりぎし」などの地形ちけいは、鎌倉かまくら時代じだい当時とうじ土地とち造成ぞうせいや、道路どうろ舗装ほそうよう周囲しゅういやまどろがん破砕はさいしたものを多用たようしている事例じれいから、石切いしきり採石さいせきじょう痕跡こんせきるべきとする[14]実際じっさいに「おさるばたけだい切岸きりぎし」は、2002ねん平成へいせい14ねん)におこなわれた逗子ずしによる発掘はっくつ調査ちょうさで、14世紀せいき~15世紀せいきだい建物たてもの基礎きそとう使用しようしたとかんがえられる石材せきざい石切場いしきりばだとわかり、切岸きりぎしせつ疑問ぎもんされた[15]

同様どうよう事例じれいとしては、JRきた鎌倉かまくらえき北側きたがわ丘陵きゅうりょうひろがる「亀井かめいとりであと鎌倉かまくら遺跡いせき番号ばんごうNo.346)」があり、鎌倉かまくら策定さくていする遺跡いせき一覧いちらんひょうでは遺跡いせき種別しゅべつを「しろかんあと」としているが[1][2]、2000ねん-2001ねん平成へいせい12-13ねん)におこなわれた発掘はっくつ調査ちょうさだい亀井かめい2018ばん1外地がいちてん)では、丘陵きゅうりょう岩盤がんばんから土木どぼく建築けんちく石材せきざい使つかわれる「鎌倉かまくらせき」をいたじょうにして作業さぎょうおこなった15世紀せいきだいられる遺構いこうやく604ヶ所かしょ検出けんしゅつされ、石切いしきりじょうであったことが確認かくにんされている(弥生やよい時代じだい中期ちゅうき竪穴たてあな建物たてものぐん古墳こふん時代じだい終末しゅうまつ横穴よこあなぐんつかっている)[16]

また、横浜よこはま金沢かなざわ朝比奈あさひなまち鎌倉かまくらじゅうしょとをつなあさえびす奈切どおりくに史跡しせき周囲しゅうい山々やまやまも「朝比奈あさひなとりで鎌倉かまくら遺跡いせき番号ばんごうNo.310)」として城塞じょうさい遺跡いせきとされているが[1]、『太平たいへい』など鎌倉かまくら滅亡めつぼうどき史料しりょうにはあさえびす奈方めん鎌倉かまくら北東ほくとう)の戦闘せんとう状況じょうきょうやその存在そんざいしめ記録きろくがなく[17][注釈ちゅうしゃく 1]城郭じょうかく断定だんていしうる遺構いこうすくないことから疑問ぎもんしめされている[18]

またおかは、「鎌倉かまくらじょう」の記述きじゅつうけたまわ寿ことぶきひさし史料しりょうにのみられることから、当時とうじ京都きょうとにいて、鎌倉かまくらたことの公家くげたちのかんがえる城郭じょうかくかん軍事ぐんじしょくつよ空間くうかん)が反映はんえいされた言葉ことばとする中澤なかざわ克昭かつあき上智大学じょうちだいがく教授きょうじゅ[19])のせつ[20]引用いんようして、この戦乱せんらんみなもと頼朝よりとも本拠ほんきょとした場所ばしょ理念りねんてきした表現ひょうげんではないかと推論すいろんする[18]すくなくとも軍事ぐんじ要塞ようさいてきイメージがおおきくなりすぎた「鎌倉かまくらじょうぞうさい検討けんとうしたほうよいと指摘してきする[21]

なお「おさるばたけだい切岸きりぎし」について、鎌倉かまくらがわ現在げんざいも「切岸きりぎし」との位置付いちづけで[22]石切場いしきりば確認かくにんした逗子ずしがわは、丘陵きゅうりょうそぎひらたしきらず尾根おねのこっているのは、鎌倉かまくらまも防壁ぼうへきとする意図いともあったのかもしれないと、推測すいそくいきとしてべる[15]

齋藤さいとう慎一しんいちは、『たま』など中世ちゅうせい前期ぜんき史料しりょう使つかわれる「しろ」のかたりは、用例ようれいなどから、非常時ひじょうじ戦時せんじ)における軍事ぐんじてき要塞ようさいしめす「城郭じょうかく」「要害ようがい」とは区別くべつされていると指摘してきし、三浦みうら衣笠きぬがさじょうひとしの「しろ事例じれいと、発掘はっくつ調査ちょうさ成果せいかふくめた分析ぶんせきから地勢ちせいてき空間くうかんろんてき視点してんで「しろ」のかたり実像じつぞう考察こうさつした。そして中世ちゅうせい前期ぜんき段階だんかいの「しろ」とは、武家ぶけ自身じしん屋敷やしき一族いちぞく墓地ぼち寺社じしゃ庶子しょし屋敷やしきなどをかまえて日常にちじょう生活せいかつとした「本拠地ほんきょち」をあらわ概念がいねんであり、『たま』の「鎌倉かまくらじょう」とは、防御ぼうぎょ施設しせつの「城郭じょうかく」ではなく、1180ねんうけたまわ4ねん)に鎌倉かまくらりしたみなもと頼朝よりともが、現在げんざい鎌倉かまくら市内しないろくうらどう付近ふきん構築こうちくした「武家ぶけ本拠地ほんきょち」のかいした[23]

西にしまた総生ふそうも、この当時とうじ古代こだいまつから中世ちゅうせい初期しょき)の史料しりょうえる「しろ」「城郭じょうかく」は「謀反むほんじんアジト」のような意味いみ使つかわれるれいおおく、また『吾妻あづまきょう』にえる「しろ」「城郭じょうかく」も、つね幕府ばくふがわから討伐とうばつ対象たいしょう施設しせつたいして使つかわれていることから、京都きょうとにいるきゅうじょうけんが、鎌倉かまくら頼朝よりともたちをうけたまわ寿ことぶきひさしらん勃発ぼっぱつ当初とうしょ反乱はんらん勢力せいりょく謀反むほんじん)となし、その本拠地ほんきょち鎌倉かまくらを「鎌倉かまくらじょう」と表現ひょうげんしたのではないかとした[24][注釈ちゅうしゃく 2]

中澤なかざわ克昭かつあきは、齋藤さいとう慎一しんいちが「鎌倉かまくらじょう」=「日常にちじょう空間くうかんふくめた武家ぶけ本拠地ほんきょち」という解釈かいしゃく提示ていじしたしょ論文ろんぶんや、諸氏しょし先行せんこう研究けんきゅう批判ひはんてき分析ぶんせきしたうえで「鎌倉かまくらじょう」の解釈かいしゃく検討けんとうした[26]

中澤なかざわは、日本にっぽんにおける「しろ」の字義じぎについて、

  • しろa:都市としかこかべ
  • しろb:城壁じょうへきめぐらした
  • しろc:城壁じょうへき有無うむ関係かんけいなく、みや

という、古来こらい日本にっぽん列島れっとうつたわってから近代きんだいまでもちいられている字義じぎくわえ、日本にっぽん列島れっとう固有こゆう歴史れきし過程かてい独自どくじ派生はせい成立せいりつした字義じぎとして、

  • しろe:古代こだい東北とうほくでのだてぐん先立さきだってむら地域ちいき設定せっていされた「臨時りんじてき軍政ぐんせい

存在そんざいすることを指摘してきし、「しろd・しろe」は、あるむら地域ちいき政庁せいちょう・また寺社じしゃなどが、戦乱せんらん状態じょうたいさいしてへい軍備ぐんび動員どういんされ軍事ぐんじてき機能きのうびた場合ばあいに「しろ」とばれている事例じれいであるとした(おとこ勝村かつむら雄勝おがつじょうきも沢之さわの胆沢いさわしろなど)。またこの「しろd・しろe」につうそこする「しろ」=「軍事ぐんじてき機能きのう空間くうかん」という観念かんねんが、古代こだい以来いらい京都きょうと公家くげたちがつづけている城郭じょうかくかんであるとした[27]

この理解りかいうえで「鎌倉かまくらじょう」を検討けんとうした場合ばあい現状げんじょうでこのかたり九条くじょうけんの『たま以外いがい史料しりょうでは確認かくにんされず、また『たま寿ことぶきひさし2ねん(1183ねん)10がつ25にちじょうはじまってもとこよみ元年がんねん1184ねん)8がつ21にちじょう最後さいごえなくなり、すなわちうけたまわ寿ことぶきひさしらん期間きかんにだけ使つかわれていることから、頼朝よりともぐん発動はつどうして坂東ばんどう争乱そうらん状態じょうたいとなったことをきゅうじょうけん伝聞でんぶんり、頼朝よりとも本拠ほんきょたる鎌倉かまくら軍事ぐんじてき機能きのうびた空間くうかん認識にんしきして「鎌倉かまくらじょう」とんだと解釈かいしゃくし、これはさきげた「しろd」の用例ようれいならないとした。そして、うけたまわ寿ことぶきひさしらん終息しゅうそくして以降いこう都市としとして発展はってんした鎌倉かまくらは「鎌倉かまくらじょう」とはばれなくなったとした[28][注釈ちゅうしゃく 3]

このように中澤なかざわは、当時とうじの「しろ」は、戦乱せんらん状態じょうたいさいして使つかわれるかたりであって、齋藤さいとう慎一しんいちく「鎌倉かまくらじょう」=「日常にちじょう空間くうかんふくめた武家ぶけ頼朝よりとも)の本拠地ほんきょち」という解釈かいしゃくや、竹井たけい英文ひでふみく「鎌倉かまくらじょう」=「都市とし鎌倉かまくらという空間くうかんす」という解釈かいしゃく成立せいりつしがたいとしている[30]

埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞうの「鎌倉かまくらじょう[編集へんしゅう]

現在げんざい行政ぎょうせいじょう埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞう遺跡いせき)としても「鎌倉かまくらじょう」は存在そんざいし、鎌倉かまくら策定さくていする遺跡いせき一覧いちらんひょうでは「鎌倉かまくらNo.87 鎌倉かまくらじょう」とばんされているが、特定とくてい住所じゅうしょ記載きさいされていない[1]。また、遺跡いせき地図ちずでは市街しがい中心ちゅうしん鎌倉かまくら地域ちいき一帯いったい)はほぼ全域ぜんいき埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞうしているが、No.87(鎌倉かまくらじょう)は丘陵きゅうりょう周辺しゅうへんなど市内しない広範囲こうはんい設定せっていされ[31]固有こゆう遺跡いせき番号ばんごう遺跡いせきめいあたえられた遺跡いせき同士どうしあいだめるように分布ぶんぷしており、山海さんかいかこまれた都市とし全域ぜんいきしろなす赤星あかほしただしただし以来いらい理解りかいちか分布ぶんぷとなっている[2]

鎌倉かまくら御成おなりまち位置いちする「鎌倉かまくらじょう」(御成おなりまち39ばん36地点ちてん)の発掘はっくつ調査ちょうさでは、ふるくから「無量寺むりょうじ」という寺院じいんがあったつたえられており、2005ねん平成へいせい17ねん)-2006ねん平成へいせい18ねん)の発掘はっくつ調査ちょうさでは、方丈ほうじょうられる礎石そせき建物たてものあと庫裏くりられる掘立柱ほったてばしら建物たてものあと検出けんしゅつされ、寺院じいんであることが確認かくにんされた[32]。このほかも数ヵ所すうかしょで「鎌倉かまくらじょう」の発掘はっくつ調査ちょうさされた地点ちてんがあるが、発掘はっくつ結果けっかはか(やぐら)[33]用途ようと不明ふめい平場ひらばなどで[34]、「鎌倉かまくらじょう」のかんしつつ城郭じょうかく遺構いこう検出けんしゅつされていない地点ちてんおおい。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 太平たいへい』において新田にった義貞よしさだぐんは、極楽寺ごくらくじざか化粧けしょうざか稲村ヶ崎いなむらがさきなど、あさえびす奈方めんとはぎゃく鎌倉かまくら北西ほくせい西部せいぶ方面ほうめんから侵攻しんこう突入とつにゅうしている。
  2. ^ なお西にしまたは、鎌倉かまくら文化庁ぶんかちょう発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかで13世紀せいき後半こうはんから14世紀せいき前半ぜんはん城郭じょうかくなした鎌倉かまくら極楽寺ごくらくじ地区ちくいちしょう遺跡いせきについて、本来ほんらい寺院じいんなどであった区画くかくを、15世紀せいきごろ臨時りんじ城郭じょうかくしたものではないかとしている。また、近隣きんりん存在そんざいするごう遺跡いせきについては、寺院じいん遺構いこうであり城郭じょうかくではないのではないかとし、鎌倉かまくら周囲しゅうい山稜さんりょうにある防御ぼうぎょ施設しせつかたについて慎重しんちょう見解けんかいしめしている[25]
  3. ^ 中澤なかざわは、「鎌倉かまくらじょう」を戦時せんじ軍事ぐんじてき状況じょうきょうからはなし「都城みやこのじょう」のイメージで理解りかいするせつについても、当時とうじ鎌倉かまくら空間くうかん構造こうぞう都城みやこのじょうのそれとはことなっていることや、(けんふくめた)当時とうじ公家くげたちが「都城みやこのじょう」となしているのは京都きょうと平安京へいあんきょう)のみであったとする先行せんこう研究けんきゅうもとに、かんがえにくいとする[29]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 鎌倉かまくら周知しゅうち埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞう一覧いちらん鎌倉かまくら公式こうしきHP
  2. ^ a b c 鎌倉かまくら遺跡いせき地図ちずについて」鎌倉かまくら公式こうしきHP
  3. ^ おか 2004 pp.43-44
  4. ^ a b c d おか 2004 pp.45-50
  5. ^ 鳥羽とば 1937
  6. ^ おか 2004 p.45
  7. ^ 赤星あかほし 1972
  8. ^ 石丸いしまる 1978・1994など
  9. ^ 平井ひらいほか 1980 pp.262-263
  10. ^ 平井ひらいほか 1980 pp.335-336
  11. ^ 齋藤さいとう 2006 pp.7-9
  12. ^ おか陽一郎よういちろうresearchmap公式こうしきHP
  13. ^ おか 2004 pp.51-57
  14. ^ おか 2004 pp.56-57
  15. ^ a b くに指定してい史跡しせき 名越なごし切通きりとおし逗子ずし公式こうしきHP
  16. ^ 鎌倉かまくら教育きょういく委員いいんかい 2003 pp.11-12
  17. ^ 兵藤ひょうどう 2015
  18. ^ a b おか 2004 p.44
  19. ^ 中澤なかざわ克昭かつあきresearchmap公式こうしきHP
  20. ^ 中澤なかざわ 1999
  21. ^ おか 2004 pp.58-62
  22. ^ 「20.切岸きりぎし鎌倉かまくら公式こうしきHP
  23. ^ 齋藤さいとう 2006 pp.184-185
  24. ^ 西にしまた 2015 pp.70-73
  25. ^ 西にしまた 2015 pp.89-91
  26. ^ 中澤なかざわ 2017 pp.159-188
  27. ^ 中澤なかざわ 2017 pp.167-168
  28. ^ 中澤なかざわ 2017 p.169
  29. ^ 中澤なかざわ 2017 pp.169-170
  30. ^ 中澤なかざわ 2017 p.184
  31. ^ おか 2004 pp.59
  32. ^ 鎌倉かまくら教育きょういく委員いいんかい 2008 pp.7-8
  33. ^ 財団ざいだん法人ほうじんかながわ考古学こうこがく財団ざいだん 1999など
  34. ^ 財団ざいだん法人ほうじんかながわ考古学こうこがく財団ざいだん 2005

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]