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鎌倉かまくらたたか

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鎌倉かまくらたたか
戦争せんそう元弘もとひろらん
年月日ねんがっぴ:(旧暦きゅうれき元弘もとひろ3ねん5月18にち - 同年どうねん5月22にち
ユリウスれき1333ねん6月30にち - 同年どうねん7がつ4にち
場所ばしょ相模さがみこく鎌倉かまくら現在げんざい鎌倉かまくら
結果けっか官軍かんぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
後醍醐天皇ごだいごてんのう勢力せいりょく 鎌倉かまくら幕府ばくふ
指導しどうしゃ指揮しきかん
新田にった義貞よしさだ
足利あしかが義詮よしあきら
北条ほうじょうだか
北条ほうじょう守時もりとき 
長崎ながさきだか 
戦力せんりょく
不明ふめい一説いっせつでは25まん。(『太平たいへい』では60まん7,000余人よにん[1] 不明ふめい推定すいていでは55,000にん[2]
損害そんがい
不明ふめい 壊滅かいめつ
元弘もとひろらん

鎌倉かまくらたたか(かまくらのたたかい)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき元弘もとひろ3ねん5月18にち-5月22にちユリウスれき1333ねん6月30にち-7がつ4にち)に、相模さがみこく鎌倉かまくら現在げんざい鎌倉かまくら)において、北条ほうじょうだかひきいる鎌倉かまくら幕府ばくふいきおい新田にった義貞よしさだひきいるはん幕府ばくふぜい新田にったぜい)とのあいだおこなわれた合戦かっせん。 なお、この元弘もとひろらん鎌倉かまくらにおけるたたかいの名称めいしょうは、いわゆる歴史れきし用語ようごとしては一定いっていではない。後世こうせい史料しりょうじょうには「元弘もとひろさんねん動乱どうらん[3]のようにえる場合ばあいもある。通称つうしょうでは「新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくら」「鎌倉かまくらめ」「鎌倉かまくら防衛ぼうえいせん」などとばれている。ほんこうでは5月18にちより北条ほうじょうだか自害じがいの5がつ22にちまでの鎌倉かまくらにおけるたたかいを「鎌倉かまくらたたか」という便宜べんぎじょう名称めいしょう記述きじゅつする。

背景はいけい

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元弘もとひろ3ねん5月8にち(1333ねん6がつ20日はつか)、新田にった義貞よしさだ上野うえのこく生品なましな明神みょうじん鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとうへいげた。鎌倉かまくら幕府ばくふ迎撃げいげきへいけたものの、小手指こてさしばらたたか久米川くめかわたたか、そして分倍河原ぶばいがわらたたかで、新田にったぜい敗北はいぼくした。鎌倉かまくら幕府ばくふ守勢しゅせいてんじ、鎌倉かまくら守備しゅびかためた。分倍河原ぶばいがわらたたかいののち関東かんとう各地かくちからの援軍えんぐんくわえて20まん大軍たいぐんふくがった新田しんでんぜいは、怒涛どとういきおいで一気いっき鎌倉かまくら進撃しんげきした。

経過けいか

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5月18にち新田にったぜい軍勢ぐんぜいみっつにけ、きょぶくりょざか極楽寺ごくらくじざか、そして化粧けしょうざかさんぽうから攻撃こうげき開始かいしした。左翼さよくきょぶくりょざか方面ほうめんには堀口ほりぐちさだみつる大島おおしま守之もりゆきらをけ、右翼うよく極楽寺ごくらくじざか方面ほうめんにはだいたてはじめ江田えだ行義ゆきよしらをけ、そして中央ちゅうおう化粧けしょうざか方面ほうめんには新田にった義貞よしさだおとうと脇屋わきや義助よしすけ主力しゅりょくひきいて攻撃こうげきした。新田しんでんぜい兵力へいりょく優勢ゆうせいであったものの、丘陵きゅうりょうかこまれた鎌倉かまくらまもりはかたく、混戦こんせんつづいた。

太平たいへい』によると、新田にったぐん義貞よしさだひきいるぐんが50まん7000堀口ほりぐちさだみつるひきいる軍勢ぐんぜいが10まん総勢そうぜい60まん7000だい軍勢ぐんぜいであったとするが[1]、これはあきらかな誇張こちょうである。

小袋こぶくろざか(きょぶくりょざか)

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洲崎すざき古戦場こせんじょう

きょぶくりょざかは、北条ほうじょう一門いちもん執権しっけん赤橋あかばし守時もりときひきいる3まん幕府ばくふぜいまもりをかためた。赤橋あかばし守時もりときいもうと登子たかこ足利尊氏あしかがたかうじつまであったことから、北条ほうじょうだかうたがわれるのをじて、覚悟かくごしてこのたたかいにのぞんだと『太平たいへい』はつたえる。新田しんでんかた武将ぶしょう堀口ほりぐちさだみつる大島おおしま守之もりゆきで、5月18にちあさ守時もりとききょぶくりょざかから出撃しゅつげき、『太平たいへい』によればいちにちに65かいもの突撃とつげきかえし、新田にったぜい激戦げきせんひろげ、化粧けしょうざか攻撃こうげき義貞よしさだぐん背後はいご洲崎すざき現在げんざい神奈川かながわけん鎌倉かまくら深沢ふかさわ地域ちいき周辺しゅうへん)までせまった(洲崎すざき合戦かっせん)。しかし逃亡とうぼうする兵士へいし続出ぞくしゅつしたことにくわえて、激戦げきせんかえされたためもり軍勢ぐんぜい洲崎すざき到達とうたつした時点じてん兵力へいりょくだい多数たすううしなっており、守時もりとき侍大将さむらいだいしょう南条なんじょう高直たかなおきゅうじゅうめい洲崎すさき自刃じじんした。新田しんでんぜい攻撃こうげきつづ山ノ内やまのうち鎌倉かまくら山ノ内やまのうち付近ふきん)までむが、幕府ばくふぜいまもりはかたく、きょぶくりょざか突破とっぱはできなかった。

極楽寺ごくらくじざか

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極楽寺ごくらくじざか極楽寺ごくらくじ切通きりどおし)では幕府ばくふかた大仏だいぶつさだただしじん守備しゅびしていた。しかし、幕府ばくふぐんまもりはかたく、さか突破とっぱ難航なんこうしたため、18にち未明みめいだいたてはじめひきいる新田しんでんぜい一部いちぶ稲村ヶ崎いなむらがさき波打なみうぎわとおって鎌倉かまくら突入とつにゅうした。しかし長崎ながさき幕府ばくふぜい包囲ほうい攻撃こうげきにあい、稲瀬いなせがわ付近ふきんだいたてはじめじゅういちにん戦死せんしのこったへい退却たいきゃくし、そう子息しそくあきら指揮しきり、南方なんぽう霊山れいざんてこもったとされている。『太平たいへい』ではそう戦死せんしは、大仏だいぶつさだじき近習きんじゅ本間ほんま山城やましろ左衛門さえもん突撃とつげきのためとされている。複数ふくすう史料しりょうそう稲村ヶ崎いなむらがさき突破とっぱいており、また、稲村ガ崎いなむらがさきじゅういちにんづかつたわるそう戦死せんしかんする伝承でんしょうなどからも、『太平たいへい』の記述きじゅつには検討けんとう余地よちがあるとするせつがある。

化粧けしょうざか

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新田にった義貞よしさだ脇屋わきや義助よしすけ主力しゅりょくひきいる化粧けしょう(けわい)さか攻防こうぼうせん幕府ばくふ金沢かなざわさだしょうまもりがかたく、義貞よしさだぐんはこの方面ほうめん難渋なんじゅうした。20日はつか攻撃こうげき化粧けしょうざかやぶられることがなかったため、義貞よしさだはこの方面ほうめんでのたたかいを実弟じってい脇屋わきや義助よしすけまかせ、自身じしんよく21にち侍大将さむらいだいしょうだいたてはじめ戦死せんしした極楽寺ごくらくじへと転戦てんせんした。

稲村ヶ崎いなむらがさき攻防こうぼうせん

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稲村ヶ崎いなむらがさき案内あんない石碑せきひ大正たいしょう6ねん(1917ねん建立こんりゅう

だいたてはじめ戦死せんしほうけた新田にった義貞よしさだは、10まん援軍えんぐんひきいて極楽寺ごくらくじざかかった。5月21にちよる義貞よしさだしおじょう鎌倉かまくら西方せいほう稲村ヶ崎いなむらがさき突破とっぱし、鎌倉かまくら市内しないはいった。古典こてん太平たいへい』には、義貞よしさだしおくのをねんじてうみけんとうじると、そのしおいたのでみさきみなみから鎌倉かまくらはいった、としるされている。

この義貞よしさだ徒渉としょう突破とっぱせつ史料しりょうとしては太平たいへいのみが記述きじゅつしており、『梅松うめまつろん複数ふくすう史料しりょうには極楽寺ごくらくじざかでの突破とっぱえるものもある。考古こうこ遺跡いせき発掘はっくつにより徒渉としょう突破とっぱせつはいまだ検討けんとう余地よちがあるが、『太平たいへい』の記述きじゅつもとづけば、義貞よしさだ防御ぼうぎょかた極楽寺ごくらくじざかでの突破とっぱあきらめ、18にちだいたてはじめおなじく干潮かんちょう利用りようして稲村ヶ崎いなむらがさき突破とっぱしたということになる[4]

この稲村ヶ崎いなむらがさきでの突破とっぱ起点きてんとなり、さんぽうくちやぶられ、新田にったぜい10まん一気いっき鎌倉かまくら突入とつにゅうした。

最後さいご市街しがいせん

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鎌倉かまくら市内しないでは激戦げきせんつづき、稲瀬いなせがわより由比ガ浜ゆいがはま家々いえいえ新田しんでんぜいはなったため、鎌倉かまくら市内しない火災かさいけむりおおわれた。このとき大仏だいぶつさだじき金沢かなざわさだしょうなど幕府ばくふかた有力ゆうりょく武将ぶしょう相次あいついでにしている。現在げんざいたから戒寺鎌倉かまくら小町こまち)にある北条ほうじょう執権しっけんていにもせまったため、北条ほうじょうだか北条ほうじょう一門いちもん最期さいごであることをさとり、菩提寺ぼだいじである葛西かさいだにひがししょうてらあつまった。5月22にち北条ほうじょうだか北条ほうじょう一門いちもん自害じがいし、滅亡めつぼうした(ひがししょうてら合戦かっせん[5]

鎌倉かまくらたたかいの戦死せんししゃ

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九品寺くほんじ本堂ほんどう

1953ねん由比ガ浜ゆいがはまにある鎌倉かまくら簡易かんい裁判所さいばんしょ用地ようち大量たいりょう人骨じんこつ発見はっけんされ、1955ねんまで調査ちょうさおこなわれ、900たい以上いじょう人骨じんこつ発見はっけんされた。これらの人骨じんこつはほとんどが青年せいねん壮年そうねん男性だんせいのもので、年齢ねんれい性別せいべつ関係かんけいなくたたかいのものとおもわれるかたなはじめとげはじめ打撲だぼくそう散見さんけんされた。また一部いちぶほねには動物どうぶつにかじられた痕跡こんせきもあり、また経文きょうもんらしき漢字かんじ墨書ぼくしょされた頭骨とうこつもあった。これらによって新田にった義貞よしさだによる掃討そうとう作戦さくせんのちに、死体したい放置ほうちされ、それを野犬やけんした闘犬とうけんによりにくらされた、またそれを僧侶そうりょ埋葬まいそうした、という事実じじつかびがる[6]

鎌倉かまくら材木座ざいもくざにある浄土宗じょうどしゅう九品寺くほんじは、鎌倉かまくらめによるてき味方みかた双方そうほう戦死せんししゃとむらうために新田にった義貞よしさだが、鎌倉かまくら小町こまちにある北条ほうじょう執権しっけんていあとにある天台宗てんだいしゅうたから戒寺後醍醐天皇ごだいごてんのう足利尊氏あしかがたかうじめいじててたてらである。

鎌倉かまくら地方ちほう特有とくゆう墳墓ふんぼやぐらには、このときたたかいの戦死せんししゃ北条ほうじょうだかくびづかつたえるものがおおい。

影響えいきょう

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新田にった義貞よしさだは、挙兵きょへいからわずか15にち鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうみちびいた。ろく探題たんだいつづき、鎌倉かまくら幕府ばくふ本拠ほんきょである鎌倉かまくら陥落かんらくしたことにより、元弘もとひろらん後醍醐天皇ごだいごてんのうかた勝利しょうりとして収束しゅうそくかう。名目めいもくじょう幕府ばくふちょうであった将軍しょうぐんまもりくに親王しんのう鎌倉かまくら陥落かんらくとも将軍しょうぐんしょくして出家しゅっけ[7]鎌倉かまくら時代じだい終結しゅうけつし、たてたけし新政しんせいはじまりをむかえる。

たたかいののち新田しんでんぜいによる残党ざんとうりがつづくが、北条ほうじょうぎょう一部いちぶ北条ほうじょう一族いちぞく鎌倉かまくら脱出だっしゅつし、のちちゅう先代せんだいらんこすこととなる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 太平たいへいまきじゅう鎌倉かまくら合戦かっせんごと
  2. ^ Turnbull, Stephen (1987). Battles of the Samurai. Arms and Armour Press. pp. 27–28. ISBN 0853688265 
  3. ^ 益田ますだけんしょうじょうたてたけし2ねん7がつ17にち本文ほんぶんは「元弘もとひろさんねんがつじゅうさんにち動乱どうらんとき」となっており、文中ぶんちゅう人物じんぶつ死去しきょである5がつ23にちとなっているが、動乱どうらん自体じたい鎌倉かまくらでのたたかいをしているものとられる。
  4. ^ 天文てんもん計算けいさんによれば、当時とうじの5がつ18にち干潮かんちょうにあたり、21にちとした『太平たいへい』の日付ひづけ記述きじゅつあやまりである、とする指摘してきもある(石井いしいすすむせつ細井ほそい浩志ひろし古代こだい天文てんもん異変いへん史書ししょ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 978-4-642-02462-4 P22)。
  5. ^ 太平たいへいまきじゅうこうなみ一門以下於東勝寺自害事」
  6. ^ 黒田くろだ俊雄としお日本にっぽん歴史れきし 8 こうむ襲来しゅうらい』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2004ねんISBN 4-12-204466-9 鎌倉かまくら最期さいご 材木座ざいもくざ人骨じんこつ p540~542
  7. ^ 日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい監修かんしゅう細川ほそかわ重男しげおへん鎌倉かまくら将軍しょうぐん執権しっけん連署れんしょ列伝れつでん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねん)P176

史料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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