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小手指こてさしばらたたか

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小手こて指原さすはら古戦場こせんじょういしぶみ(2008ねん10がつ

小手指こてさしばらたたか(こてさしがはらのたたかい、小手指こてさしばらたたか小手こてばらたたかとも)は、南北なんぼくあさ時代じだい武蔵むさしこく入間いるまぐん小手こて指原さすはら現在げんざい埼玉さいたまけん所沢ところざわ北野きたの)でおこなわれた合戦かっせんである。国木田独歩くにきだどっぽ武蔵野むさしの』の冒頭ぼうとう部分ぶぶんれられていることでられている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

小手指こてさしばらたたかいは2かいおこなわれており、ほん記事きじでは1にかんして説明せつめいする。

  1. 元弘もとひろ3ねん1333ねん5月11にちおこなわれた新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくら幕府ばくふとのたたかい。
  2. 正平しょうへい7ねん/文和ふみかず元年がんねん1352ねんうるう2がつ28にちおこなわれた足利尊氏あしかがたかうじ新田にった義宗よしむねとのたたかいについては、武蔵野むさしの合戦かっせん参照さんしょうのこと。

また、たてたけし2ねん1335ねん)にきた鎌倉かまくらかた残党ざんとう北条ほうじょうぎょう足利尊氏あしかがたかうじおとうとである足利あしかが直義ただよしたたかい(ちゅう先代せんだいらん)でも、小手指こてさしばら戦場せんじょうひとつとなった。

経過けいか[編集へんしゅう]

5月8にち新田にった義貞よしさだ生品なましな神社じんじゃ挙兵きょへいしたのち、11にちあさ入間川いりまがわわたって小手こて指原さすはら埼玉さいたまけん所沢ところざわ小手指こてさしまち付近ふきん)にたっし、桜田さくらださだこくそう大将たいしょう長崎ながさき高重たかしげ長崎ながさきまごよんろう左衛門さえもん加治かじ二郎じろう左衛門さえもん副将ふくしょうとする3まん幕府ばくふぐん衝突しょうとつした[1]幕府ばくふぐん義貞よしさだ入間川いりまがわわたりきるまえ迎撃げいげきする算段さんだんであったが、義貞よしさだほううごきが迅速じんそくであった[2]

両者りょうしゃ遭遇そうぐうせんかたち合戦かっせんおよび、布陣ふじん余裕よゆうはなかった。戦闘せんとうは30かいえる激戦げきせんとなった[1]へいすう幕府ばくふぐんほうっていたが、同様どうよう幕府ばくふ不満ふまんつのらせていたかわこし武蔵むさし御家人ごけにん援護えんご新田しんでんぐん次第しだい有利ゆうりとなっていった。日没にちぼつまでに新田しんでんぐんは300、幕府ばくふぐんは500ほどの戦死せんししゃし、りょうぐんども疲弊ひへいし、義貞よしさだ入間川いるまがわまで幕府ばくふぐん久米川くめがわまで一旦いったん撤退てったいして軍勢ぐんぜいなおした[1]

翌日よくじつあさ義貞よしさだ軍勢ぐんぜい久米川くめかわ布陣ふじんする幕府ばくふぐん奇襲きしゅう仕掛しかけたことで再度さいど戦闘せんとう発生はっせいした(久米川くめかわたたか[1]

現在げんざい[編集へんしゅう]

新田にったぐん本陣ほんじんにした白旗しらはたづかのこる。また周辺しゅうへんには新田しんでんぐんちかいをてた誓詞せいしきょう新田にったぐんせいぞろいした、いきおいそろいきょうなど合戦かっせん名残なごりられる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 峰岸みねぎし・57ぺーじ
  2. ^ 奥富おくとみ・98ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 奥富おくとみ敬之たかゆきうえしゅう 新田にった一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねん8がつISBN 978-4-40-401224-1 
  • 峰岸みねぎし純夫すみお新田にった義貞よしさだ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2005ねん5がつ10日とおかISBN 4642052321 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

ボードゲーム

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]