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新田にった義宗よしむね

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新田にった 義宗よしむね
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん もととく3ねん/元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)?(諸説しょせつあり)
死没しぼつ 正平しょうへい23ねん/おうやす元年がんねん7がつ21にち1368ねん9月3にち
別名べつめい 太郎たろう通称つうしょう
戒名かいみょう きむりゅうてらだい幢良かつ
墓所はかしょ 群馬ぐんまけん沼田ぬまた白沢しらさわまち高平たかひら雲谷うんこくてら?
官位かんい ひだり兵衛ひょうえひだり近衛このえけん少将しょうしょう武蔵むさしもりせいよんしたおくしたがえさん
氏族しぞく 新田にった
父母ちちはは ちち新田にった義貞よしさだはは小田おだ真知まちむすめ[1]
兄弟きょうだい あらわ義興よしおき義宗よしむね千葉ちばかいたねつま、その
つま 世良田せらだ政義まさよしむすめ
貞方さだかた岩松いわまつみつるじゅん[2]横瀬よこせさだ[2]
そうちかし[3]しん[3]まご千代丸ちよまる義則よしのり[4]岩松いわまつみつるこくしつ
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新田にった 義宗よしむね(にった よしむね)は、南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう新田にった義貞よしさだ三男さんなん

生母せいぼ義貞よしさだ正室せいしつ小田おだ真知まちむすめ[1]生年せいねん諸説しょせつがある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

6さい昇殿しょうでんゆるされる。ちち義貞よしさだ戦死せんし越後えちご新田にった一族いちぞくかくまわれて成長せいちょうしたとおもわれる。長兄ちょうけいあらわちち先立さきだ戦死せんしし、次兄じけい義興よしおき生母せいぼ上野うえのこく一宮いちのみや抜鉾神社じんじゃ神主かんぬしむすめ身分みぶんひくかったため、義宗よしむね嫡子ちゃくしとしてあつかわれる。

新田にった足利あしかが両家りょうけ系図けいず』によると正平しょうへい6ねん/かんおう2ねん1351ねん)のふゆ由良ゆらしんおもね挙兵きょへいうながしたさいには、義興よしおき従弟じゅうてい脇屋わきや義治よしはる挙兵きょへい肯定こうていてきであったのにたいして、義宗よしむねへいすう足利尊氏あしかがたかうじ義貞よしさだとむらったことを理由りゆういちことわったという。しかし、2人ふたり説得せっとくおうじて挙兵きょへいするところとなった。

正平しょうへい7ねん/かんおう3ねん1352ねんうるう2がつ正平しょうへい一統いっとうくずれると、宮方みやかたかんおう擾乱じょうらん足利あしかが直義ただよしかた足利尊氏あしかがたかうじ敵対てきたいした武士ぶしをあわせ、同年どうねんうるう2がつ15にち上野うえの挙兵きょへいする。武蔵むさしこく金井かないげん東京とうきょう小金井こがねい)などでみこと合戦かっせんする。三浦みうら支援しえんけ、義興よしおき迂回うかいして鎌倉かまくら突入とつにゅうし、たかし基氏もとうじ敗走はいそうさせ、鎌倉かまくら奪還だっかんたす。はじめ武蔵むさしこく石浜いしはま東京とうきょう台東たいとう)で義宗よしむね対陣たいじんしていたたかし合流ごうりゅうし、義宗よしむねやぶる。義宗よしむね退しりぞいて笛吹峠ふえふきとうげ埼玉さいたまけん嵐山あらしやままち)にじんき、足利あしかがぐんむかった。直義ただよしかただった上杉うえすぎ憲顕のりあきさんじんけたが、足利あしかがぐん敗北はいぼく越後えちごびた。義興よしおきは3がつ2にち鎌倉かまくら脱出だっしゅつし、関東かんとうみなみ朝方あさがた挙兵きょへい鎮圧ちんあつされた。これら一連いちれんたたかいを総称そうしょうして「武蔵野むさしの合戦かっせん」という。

正平しょうへい13ねん/のべぶん3ねん1358ねん)、たかしぼっしたのを機会きかい関東かんとう決起けっきはか東国とうごくみなみとうはたらきかけるが、義興よしおき武蔵むさしこく矢口やこうわたりはじめかた謀殺ぼうさつされたため頓挫とんざ。その義治よしはるとも越後えちご中心ちゅうしん散発さんぱつてき行動こうどうするが、みなみ朝方あさがた劣勢れっせいすばかりで組織そしきてき蜂起ほうきはできなかった。

正平しょうへい23ねん/おうやす元年がんねん1368ねん)、足利あしかが義詮よしあきらはじめ病死びょうししたのを武蔵むさしでのかわこしただしじゅうらの武蔵むさしひら一揆いっき呼応こおうして越後えちご義治よしはる挙兵きょへいしたが、上野うえの沼田ぬまたそう敗北はいぼく義宗よしむね戦死せんしし、義治よしはる出羽でわのがれた。

異説いせつとして、義宗よしむね武蔵むさしこく所沢ところざわ薬王寺やくおうじのがれ、再起さいきうかがっていたが、やがて出家しゅっけし、戦死せんしした一族郎党いちぞくろうとう菩提ぼだいとむらいながらおうひさし16ねん7がつ14にち1409ねん8がつ24にちまたおうなが20ねん1413ねん)に死亡しぼうしたというせつ、また、義治よしはるとともに阿波あわびたというせつもある。

明治めいじ42ねん1909ねん)、したがえさん追贈ついぞうされた[5]

しろ佐波さば神社じんじゃ(うつぶしのもり
ウィキメディア・コモンズには、しろ佐波さば神社じんじゃ(うつぶしのもりかんするカテゴリがあります。

群馬ぐんまけん沼田ぬまたしろ佐波さば神社じんじゃには新田にった義宗よしむねといわれる木像もくぞうつたわる。また、そのちかくの雲谷うんこくてらには、義宗よしむね執事しつじであった船田ふなだ長門ながとまもるけいせい義貞よしさだ執事しつじ船田ふなだ善昌よしまさ)がてたといわれる義宗よしむねはかがある。

画像がぞうしゅう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 鑁阿てら新田にった足利あしかが両氏りょうし系図けいず』による。「小田おだ真知まち」なる人物じんぶつ常陸ひたち小田おだしろ城主じょうしゅ八田はった下野げやこく守護しゅご宇都宮うつのみや一門いちもん)の一族いちぞくであったとされているが、この時期じきどうしろ城主じょうしゅ小田おだ治久はるひさはつめい高知こうち)であり、小田おだ系図けいずにその名前なまえ自体じたいられないことから、とくあやまりがなければ真知まち治久はるひさのことをしている可能かのうせいがある。
  2. ^ a b それぞれ岩松いわまつ横瀬よこせ由良ゆら)の養子ようし両氏りょうしとも明治めいじ義貞よしさだ後裔こうえいみとめられ、岩松いわまつ男爵だんしゃくをさずけられた。
  3. ^ a b 鑁阿てら新田にった足利あしかが両氏りょうし系図けいず』による。なおそうちかし新田本しんでんほん宗家そうけとしてつづいたとする
  4. ^ 浅田あさだ晃彦あきひこ児島こじま高徳たかのり新田にった一族いちぞく』では脇屋わきや義治よしはる嫡子ちゃくしとする。
  5. ^ 官報かんぽうだい7867ごう明治めいじ42ねん9がつ13にち、p.199.NDLJP:2951217/1

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
新田にった義貞よしさだ
新田にっただい9だい当主とうしゅ
1338ねん - 1368ねん
次代じだい
新田にった貞方さだかた