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脇屋わきや義治よしはる

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脇屋わきや義治よしはる
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん げんとおる3ねん1323ねん
死没しぼつ しょう
官位かんい おくせいよん(1915ねん
氏族しぞく 脇屋わきや
父母ちちはは ちち脇屋わきや義助よしすけ
つま 児島こじま高徳たかのりむすめ
義則よしのりふゆ中澤なかざわしげるきよし
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脇屋わきや 義治よしはる(わきや よしはる)は、南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう脇屋わきや義助よしすけ新田にった義貞よしさだおい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

元弘もとひろ3ねん1333ねん)、ちち義助よしすけ義貞よしさだ挙兵きょへい参加さんかして活躍かつやくした。義治よしはるはまだおさなく、ちち所領しょりょうである新田にったそう脇屋わきやさと残留ざんりゅうしたとられる。その上洛じょうらくしたとられ、たてたけし2ねん1335ねん)、伯父おじ義貞よしさだたてたけし政権せいけん反旗はんきひるがえした足利尊氏あしかがたかうじへの追討ついとうれいくだされると、ちち義助よしすけともにそのぐんくわわった。箱根はこねたけしたたたかではちち義助よしすけ大手おおてぐんぞくし、足柄峠あしがらとうげ目指めざした。戦闘せんとうでは大友おおとも貞載さだとし塩冶えんや高貞たかさだらの寝返ねがえりにより、宮方みやかた敗北はいぼくし、きょう敗退はいたいした。そのちち伯父おじともきょうをめぐる戦闘せんとうや、播磨はりま赤松あかまつ円心えんしんめ、湊川みなとがわたたか参加さんかする。

たてたけし3ねん1336ねん)、後醍醐天皇ごだいごてんのう足利尊氏あしかがたかうじ和議わぎむすび、義貞よしさだつねりょう親王しんのうみことりょう親王しんのうほうじて北陸ほくりくくだると、ちち義助よしすけとも越前えちぜん金ヶ崎かねがさきしろはいる。義治よしはる瓜生うりゅう杣山そまやまじょうはいり、諸氏しょしへのはたらきかけをおこなったまもなく金ヶ崎かねがさきじょう高師泰こうのもろやす斯波しば高経たかつね包囲ほういされる。瓜生うりゅうたもつ義治よしはる援軍えんぐん組織そしき救援きゅうえんかうが失敗しっぱいする。義貞よしさだ義助よしすけ兄弟きょうだい援軍えんぐん組織そしきするために金ヶ崎かねがさきじょうからし、瓜生うりゅうしたせる。義貞よしさだ援軍えんぐん組織そしき包囲ほういぐん攻撃こうげきをかけるが、救援きゅうえん失敗しっぱいし、金ヶ崎かねがさきじょうたてたけし4ねん1337ねん)3がつ6にち落城らくじょうした。同年どうねんなつごろ義貞よしさだいきおいをかえし、斯波しば高経たかつね越前えちぜん北部ほくぶめた。よくけん5ねん1338ねんうるう7がつ2にち義貞よしさだ不慮ふりょ戦死せんしげると、北陸ほくりく宮方みやかたそう指揮しき義助よしすけることとなる。義治よしはる義助よしすけとも北陸ほくりく経営けいえいおこなうが、徐々じょじょ斯波しば高経たかつねいきおいをかえ興国こうこく2ねん1341ねんなつには杣山そまやまじょう陥落かんらくし、越前えちぜん宮方みやかた駆逐くちくされた。脇屋わきや父子ふし美濃みの尾張おわり落延おちのび、吉野よしのはいる。

興国こうこく3ねん1342ねん)に義助よしすけとも中国ちゅうごく四国しこく宮方みやかた指揮しきるために下向げこうする。しかし、下向げこう直後ちょくごの5がつ11にち義助よしすけ突然とつぜん発病はつびょうによりぼっした。

義治よしはる里見さとみ所領しょりょうがある越後えちご波多はた岐荘や妻有つまありそうかい、義貞よしさだ次男じなん義興よしおき三男さんなん義宗よしむねらと合流ごうりゅうして東国とうごく活動かつどうするようになる。

こうさとし國師こくし語録ごろく』や『参考さんこう太平たいへい』によると、興国こうこく5ねん1344ねん)4がつ4にち義治よしはる児島こじま高徳たかのりようされ、京都きょうと挙兵きょへいしようとするもそれが発覚はっかくしてたれたため、信濃しなのこくのがれたという。

正平しょうへい7ねん1352ねん)、かんおう擾乱じょうらん正平しょうへい一統いっとう混乱こんらんする室町むろまち幕府ばくふたいし、南朝なんちょう一斉いっせい蜂起ほうきした。畿内きないでは北畠きたばたけ顕信あきのぶ千種ちくさあらわけい楠木くすのき正儀まさよし直義ただよし残党ざんとう糾合きゅうごうし、足利あしかが義詮よしあきらやぶり、きょう奪還だっかんした。それに呼応こおうして義宗よしむね義興よしおき義治よしはる宗良親王むねながしんのうほうじて上野うえのこく挙兵きょへいした。同時どうじ信濃しなのでは征夷大将軍せいいたいしょうぐん宗良親王むねながしんのう挙兵きょへいし、一斉いっせい鎌倉かまくら目指めざして進撃しんげきする。宮方みやかたには北条ほうじょうぎょうほか直義ただよし残党ざんとう上杉うえすぎ憲顕のりあきくわわり、鎌倉かまくら一時いちじてき占拠せんきょするが、結局けっきょくやぶれ、宗良親王むねながしんのう信濃しなのに、義宗よしむね義興よしおき義治よしはるらは越後えちごへそれぞれのがれたが、北条ほうじょうぎょう捕縛ほばくされて処刑しょけいされた(武蔵野むさしの合戦かっせん)。

市河いちかわ文書ぶんしょ」には、義治よしはるおもわれる人物じんぶつが、正平しょうへい11ねん1368ねん12月に、きゅう直義ただよしとう市河いちかわ備前びぜん権守ごんもりけいだかに「10がつ21にち義治よしはる高井たかいぐん陣取じんどったさいに、けいだかてきかしたこと」や「同月どうげつ23にち小菅こすがてらでの合戦かっせん従軍じゅうぐんしたこと」、「同月どうげつ28にち平林ひらばやしげん: 長野ながのけん下高井しもたかいぐん野沢温泉のざわおんせんむら平林ひらばやし)での合戦かっせん従軍じゅうぐんしたこと」にたいして感謝かんしゃべたという記録きろくのこされており、みなみしん大河原おおがわらだけでなく、北信ほくしんにもみなみ朝方あさがた拠点きょてんきずこうとしたことがわかる[1]

正平しょうへい23ねん1368ねん)に足利あしかが義詮よしあきら基氏もとうじ相次あいついでぼっすると、義宗よしむね義治よしはる再度さいど上野うえの越後えちご国境こっきょう周辺しゅうへん挙兵きょへいするが、上野うえの沼田ぬまたそうやぶれ、義宗よしむね戦死せんしし、義治よしはる出羽でわ逃走とうそうした。

市河いちかわ文書ぶんしょ」には、義治よしはるおもわれる人物じんぶつが、「のべぶん5ねん1360ねん」に、市河いちかわ十郎左衛門じゅうろうざえもんじょうという人物じんぶつたいしておくった軍勢ぐんぜい催促さいそくじょうのこされている。「のべぶん」という元号げんごうからもわかるように、このころには市河いちかわきた朝方あさがた帰順きじゅんしており、みなみ朝方あさがた距離きょり出来できてしまっていたとかんがえられる[1]

その消息しょうそくについては不明ふめいであるが、伊予いよこく温泉おんせんぐんのがれたとの伝承でんしょうや、明徳めいとく年間ねんかん(1390~94)丹波たんばのがれたとの伝承でんしょう陸奥みちのく伊達だてむねおうひさし21ねん1413ねん)に挙兵きょへいしたさい義治よしはるてて稲村いなむら篠川ささがわりょう御所ごしょ襲撃しゅうげきしたとのせつもある。しかし、1370年代ねんだいから義治よしはる義則よしのり単独たんどく活動かつどうをするため、そのころにはぼっしていたとられる。

没年ぼつねんかんしては、建徳けんとく2ねん1371ねん)6がつ13にち死去しきょ享年きょうねん45)とするせつ天授てんじゅ3ねん1377ねん死去しきょ享年きょうねん51)とするせつおうなが14ねん1407ねん死去しきょ享年きょうねん85)とするせつなどがある[2]

大正たいしょう4ねん1915ねん)、せいよん追贈ついぞうされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 中根なかね正人まさと信濃しなのにおける脇屋わきや義治よしはる活動かつどう : 市河いちかわ文書ぶんしょ人名じんめい比定ひていつうじて」
  2. ^ 群馬ぐんまけんだい1かん