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吉野よしの

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吉野よしの地方ちほうのデータ
くに 日本にっぽん
地方ちほう 近畿きんき地方ちほう
面積めんせき 2,346.83km2
そう人口じんこう 92,070ひと
(2006ねん3がつ31にち

吉野よしの(よしの)は、大和やまとこく南部なんぶ現在げんざい奈良ならけん南部なんぶ一帯いったい地名ちめいとく吉野山よしのやまから大峰山おおみねさんにかけての山岳さんがく地帯ちたいをいう。大峰おおみね山々やまやま熊野くまのまでつらなり、大峰おおみねへのみち修験しゅげんしゃによって熊野くまのからひらかれた。吉野よしのくち吉野よしのおく吉野よしのかれる。なお、吉野よしの吉野山よしのやまあるいは吉野よしのみや宮滝みやたき遺跡いせき)を場合ばあいもある。

地理ちり

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はる吉野山よしのやま

紀伊きい半島はんとう中部ちゅうぶ位置いちし、奈良盆地ならぼんちみなみ位置いちする。高地こうち盆地ぼんち山岳さんがく地帯ちたい並存へいそんする。面積めんせき神奈川かながわけん佐賀さがけん匹敵ひってきする。くち吉野よしの吉野川よしのがわ流域りゅういきおく吉野よしの十津川とつかわ北山川きたやまがわ流域りゅういきである。吉野川よしのがわ紀ノ川きのかわとなって紀伊きい水道すいどうへとながくだり、十津川とつかわ北山川きたやまがわ熊野川くまのがわとなって熊野灘くまのなだそそいでいる。

日本書紀にほんしょき』のかみ武紀たけのり応神おうしんおさむでは大和やまとじんことなる生活せいかつ様式ようしきをもつ国栖くずひと居住きょじゅうとしてえがかれているが、蛮夷ばんいとしてではなくむしろ畏敬いけいねんをもって表現ひょうげんされている[1]柿本人麻呂かきのもとのひとまろ万葉集まんようしゅうまき1-36)で吉野よしのを「くに」と表現ひょうげんするなど、大和やまとこく一部いちぶながら国中くになか宇陀うだとはべつ盆地ぼんちじょう独立どくりつした地域ちいきとしてとらえられていたとされる[1]。このようなことから吉野よしのには吉野よしのみや造営ぞうえいされたほか、奈良なら時代じだいにはくにぐん中間ちゅうかん行政ぎょうせい単位たんいかんかれたことがある(芳野よしのかん[1]。また、古人こじん大兄たいけい皇子おうじ大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのう)がびたとなり、また後醍醐天皇ごだいごてんのう南朝なんちょうひらいたとなったのも吉野よしの地形ちけいてき特徴とくちょう背景はいけいにあるとかんがえられている[1]

さくら満開まんかい吉野山よしのやま金峯山こんごうざんてら

熊野くまの地方ちほう三重みえけん南部なんぶから和歌山わかやまけん南東なんとうまで)となら多雨たう地帯ちたいであり、台風たいふう銀座ぎんざでもある。吉野よしのすぎ秋田あきたすぎ木曽きそひのきならんで日本にっぽんさん大美おおみりんひとつとされ、日本にっぽん有数ゆうすう林業りんぎょう地帯ちたいとなっている。

サクラ名所めいしょとしてもられるが、おおくは吉野よしのかんしたソメイヨシノではなく、ヤマザクラるいである。

2004ねんには、吉野よしの大嶺おおみねふく紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどうが、ユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。

歴史れきし

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先史せんし

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吉野川よしのがわ流域りゅういきからは、縄文じょうもん時代じだいから弥生やよい時代じだいにかけての土器どき遺跡いせき発掘はっくつされており、この時代じだいから人々ひとびと居住きょじゅうしていた。現在げんざいのところいちばん上流じょうりゅう発見はっけんされている遺跡いせき川上かわかみむらみやひら遺跡いせきである。

みやひら遺跡いせき - 川上かわかみむら丹生川上にゅうがわかみ神社じんじゃ上社かみやしろが、大滝おおたきダム建設けんせつともな水没すいぼつするため、境内けいだい発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれた。本殿ほんでんあとでは11世紀せいきまつさかのぼ自然しぜんせきならべた祭壇さいだんあと出土しゅつどし、周辺しゅうへんからは縄文じょうもん時代じだい中期ちゅうきから後半こうはんにかけての祭祀さいし遺跡いせきられる、環状かんじょうはいせき遺構いこう出土しゅつどしている。

また吉野川よしのがわ流域りゅういきにも多数たすう古墳こふんつくられているが、完全かんぜんかたちのこっているものはすくない。現在げんざいけん史跡しせきとして保存ほぞんされているものとしては、以下いか古墳こふんがある。

  • 五條ごじょう南阿田みなみあだ大塚山おおつかやま古墳こふん
  • 下市しもいちまちおかほう古墳こふん

古代こだい

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吉野よしの芳野よしの表記ひょうきされることもあり吉野川よしのがわつづ河岸かわぎし段丘だんきゅう美称びしょう由来ゆらいするとされている[1]

記紀ききではまず『日本書紀にほんしょき』の神武じんむぜんに「天皇てんのうよく省一しょういち吉野よしのこれ」(天皇てんのう吉野よしのはぶけたまはむとして)とのけんがあり、その記述きじゅつから五條ごじょうおもねふとから吉野よしのまち国栖くずにかけての吉野川よしのがわ流域りゅういきのことであるとされている[1]。さらに人文じんぶん地理ちりがくでの「」とばれる地形ちけい考察こうさつから、吉野川よしのがわ右岸うがん比曽ひそてら周辺しゅうへん呼称こしょうかんがえられている[1]

一方いっぽう、『古事記こじき』では「吉野よしのかわかわしり」「吉野よしのくびとう(おびとら)の(おや)」「吉野よしのくに(くづ)の(おや)」が登場とうじょうする。

吉野よしのかわかわしり - かわしりとはしも流域りゅういき河口かこう付近ふきんすが、そうなると和歌山わかやまけん紀ノ川きのかわ吉野川よしのがわ河口かこうとなる。そのため江戸えど時代じだい国学こくがくしゃほんきょ宣長のりながが『古事記こじきでん』で「かわしり」は「川上かわかみ現在げんざい川上かわかみむら)」の間違まちがいだとしている。また吉野よしのかわかわしりで「おもね陀のやしなえ」にったとあり、このおもね陀が現在げんざい五條ごじょう南阿田みなみあだではないかともかんがえられている(南阿田みなみあだにはおもね陀比うり神社じんじゃがある)。

また、「」はしばしば遊猟ゆうりょう場所ばしょ意味いみし、娯楽ごらくだけでなく山野さんや精霊せいれい呪力じゅりょくける儀礼ぎれいてき意味いみもあった[1]

以下いか吉野よしのおとずれた天皇てんのう貴族きぞく列記れっきする。

  • 応神天皇おうじんてんのう - 吉野よしのみや行幸ぎょうこう。このときくに人々ひとびとさけ天皇てんのうおくり、歌舞かぶせた。また応神天皇おうじんてんのう行幸ぎょうこう日本書紀にほんしょきにおける「吉野よしのみや」のはつになる。(『日本書紀にほんしょきまきだいじゅう〇 応神天皇おうじんてんのういちきゅうねんふゆじゅうがつ
  • 雄略天皇ゆうりゃくてんのう - 吉野よしのみや行幸ぎょうこうりをたのしんだ。(『日本書紀にほんしょきまきだいじゅうよん 雄略天皇ゆうりゃくてんのうねんふゆじゅうがつ
  • ひとし明天めいてんすめらぎ - ひとし明天めいてんすめらぎ2ねん(656ねん)に離宮りきゅうとして吉野よしのみやつくった。
  • 古人こじん大兄たいけい皇子おうじ - 大化たいか改新かいしんのち吉野よしの隠棲いんせいするが、吉備きびかさたれ密告みっこくにより殺害さつがいされた。
  • 大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのう
    吉野よしのみや隠棲いんせいする。天智天皇てんぢてんのう崩御ほうぎょののちに、このから挙兵きょへいする(みずのえさるらん)。(『日本書紀にほんしょきまきだい廿にじゅうはち
    また天武天皇てんむてんのうとなったあとの天武天皇てんむてんのう8ねん(679ねん)にも吉野よしの行幸ぎょうこうし、皇后こうごうの鸕野たたえ皇女おうじょとのあいだにもうけた草壁皇子くさかべのおうじ次期じき天皇てんのうであると宣言せんげん後継こうけいしゃあらそわないことをちかわせた(吉野よしの盟約めいやく)。(『日本書紀にほんしょきまきだい廿にじゅうきゅう
  • もちすべ天皇てんのう(鸕野たたえ皇女おうじょ) - 頻繁ひんぱん吉野よしのみや行幸ぎょうこうしている。そのかずぜんの1かいふくめて32かいおよぶ。(『日本書紀にほんしょきまきだい卅〇)
  • 文武ぶんぶ天皇てんのう - 吉野よしの行幸ぎょうこうしたときうたんでいる。
    「み吉野よしのの やまあらしの さむけくに はたや今夜こんやも ひとむ」(『万葉集まんようしゅう』1-74)
  • 元正がんしょう天皇てんのう聖武天皇しょうむてんのう芳野よしの吉野よしの雅称がしょう)へ行幸ぎょうこうしたときうた笠金村かさのかなむらつく万葉集まんようしゅうおさめられている。(元正がんしょう天皇てんのう行幸ぎょうこうは、万葉集まんようしゅう6-907から6-909、聖武天皇しょうむてんのう行幸ぎょうこう万葉集まんようしゅう6-920から6-922)。

ほかにも万葉集まんようしゅうには吉野よしの題材だいざいとしたうた数多かずおおまれている。また現存げんそんする最古さいこ日本にっぽんかん詩集ししゅうふところふう』にも吉野よしの題材だいざいとしたものが登場とうじょうする。以下いか吉野よしのんだおも歌人かじん列記れっきする。

先述せんじゅつのように柿本人麻呂かきのもとのひとまろ吉野よしのを「くに」とむなど大和やまとこく一部いちぶながら盆地ぼんちじょうひとつの独立どくりつした地域ちいきとしてとらえられていたとされ、奈良なら時代じだいには当時とうじ吉野よしの地方ちほう芳野よしのかんという特別とくべつ行政ぎょうせい機関きかんかれていたこともある[1]

古代こだい吉野よしの信仰しんこう

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仏教ぶっきょう伝来でんらいする以前いぜん日本にっぽんでは、自然しぜん崇拝すうはい精霊せいれい崇拝すうはい中心ちゅうしんとする神道しんとう信仰しんこう中心ちゅうしんであった。吉野よしのでも、みやひら遺跡いせき祭壇さいだんられる環状かんじょうはいせき遺構いこう発見はっけんされており、また竜門山りゅうもんざん史書ししょにおけるはつかみ仙境せんきょうとして登場とうじょうしている。

587ねん蘇我馬子そがのうまこはいふつ物部守屋もののべのもりやほろぼした丁未ていみらんののち、推古天皇すいこてんのう2ねん(594ねん)に仏教ぶっきょう三宝さんぽう興隆こうりゅうみことのりはっせられて以降いこう各地かくち寺院じいんてられるようになったが、吉野よしのにおいても多数たすう寺院じいんてられている。一方いっぽうで、やく小角おがく金峰山きんぷさん吉野山よしのやま大峰山おおみねさん)で蔵王ざおう権現ごんげん感得かんとくし、従来じゅうらい山岳さんがく信仰しんこう仏教ぶっきょう習合しゅうごうした日本にっぽん独自どくじ修験しゅげんどうひらき、発達はったつしていくことになる。

また859ねんさだかん元年がんねん)には、五穀豊穣ごこくほうじょうねがうために陰陽いんようしげる岳川たけがわじん吉野よしのぐん高山こうざんで、虫害ちゅうがい除去じょきょ祭祀さいしおこなっている(さんだい実録じつろくまきさん)。

以下いか現在げんざい吉野よしの地方ちほう五條ごじょうふくむ)にある創建そうけん時期じき奈良なら時代じだい(9世紀せいき以前いぜんつたえられる寺院じいんと、『延喜えんぎしきかみめいちょう』(延長えんちょう5ねん(927ねん)にまとめられた『延喜えんぎしき』のまききゅうじゅう)に記載きさいされている神社じんじゃ列記れっきする。

寺院じいん
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  • 金峯山こんごうざんてら
    吉野よしのぐん吉野よしのまち吉野山よしのやまにある寺院じいん正確せいかく創建そうけん時期じき不明ふめいであるが、開基かいきやく小角おがくつたえる。その一時いちじ途絶とだえていたが、平安へいあん時代じだいせいたから再興さいこうして以来いらい吉野山よしのやまには多数たすう寺院じいん宝塔ほうとうてられ、神社じんじゃなども修験しゅげんどう修行しゅぎょうじょうとして、神仏しんぶつ習合しゅうごうおこなわれていた。明治めいじ神仏しんぶつ分離ぶんり多数たすう寺院じいんこわされ、修行しゅぎょうじょうとなっていた神社じんじゃ金峯山こんごうざんてらより独立どくりつして今日きょういたる。(くわしくは金峯山こんごうざんてらまたは修験しゅげんどう参照さんしょう)。
  • 大澤おおさわてら(だいたくじ)
    五條ごじょう大沢おおさわまちにある寺院じいん正確せいかく創建そうけん時期じき不明ふめいであるが、やく小角おがく開基かいきした密教みっきょう霊場れいじょうとして白鳳はくほう時代じだい創建そうけんつたわる。南北なんぼくあさ時代じだい直前ちょくぜんげんとおる年間ねんかん(1321-1323)に後醍醐天皇ごだいごてんのう勅願ちょくがんしょとなるが、そのは、衰退すいたい江戸えど時代じだいには荒廃こうはいして明治めいじには無住むじゅうとなって一時いちじ廃寺はいじとなっていた。(くわしくは大澤おおさわてら参照さんしょう)。
  • てら
    吉野よしのぐん大淀おおよどまち比曽ひそにあった寺院じいん吉野よしのてらともばれる。聖徳太子しょうとくたいし建立こんりゅうしたてらひとつとつたえられるが、くわしい創建そうけん時期じき由来ゆらい不明ふめい伽藍がらん配置はいち出土しゅつどしたかわらなどから、すくなくとも飛鳥あすか時代ときよ(7世紀せいき後半こうはん)には存在そんざいしていたようである。また本尊ほんぞん由来ゆらいが『日本書紀にほんしょき』に登場とうじょうしている。ふるくはから吉野よしのはいみち途中とちゅうにあり天皇てんのう貴族きぞくらがおおっている。江戸えど時代じだい伽藍がらん縮小しゅくしょう整備せいびし、世尊せそんてらとなり現在げんざいいたる。かつてのてらいき史跡しせき比曽ひそ寺跡てらあと」に指定していされている。(くわしくは世尊せそんてら (奈良ならけん大淀おおよどまち)参照さんしょう)。
  • りゅうもんてら
    吉野よしのぐん吉野よしのまち山口やまぐちにあった寺院じいん醍醐だいご寺本てらもとしょてら縁起えんぎしゅう』におさめる「りゅうもんてら縁起えんぎ」によれば、7世紀せいき後半こうはんふちが「りゅうぶたてら(=岡寺おかでら)」ととも国家こっかりゅうやすしふじさかえあきらのために建立こんりゅうしたとつたえられている。龍門山りゅうもんざんふるくはかみ仙境せんきょうとして史書ししょ登場とうじょうしており、このりゅうもんてらには仙人せんにんがいたとつたわる。室町むろまち時代じだいごろ廃寺はいじとなった。(くわしくはりゅうもん寺跡てらあと参照さんしょう)。
神社じんじゃ
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宇智ぐん 11しょう11

  • 宇智神社じんじゃ五條ごじょう今井いまいまち
  • おもね陀比うり神社じんじゃ五條ごじょう市原いちはらまち) - 創立そうりつたかしかみ天皇てんのう15ねんつたわる。
  • 荒木あらき神社じんじゃ五條ごじょう今井いまいまち
  • 丹生川にゅうかわ神社じんじゃ五條ごじょう丹原たんばらまち
  • 二見ふたみ神社じんじゃ五條ごじょう二見ふたみまち
  • 宮前みやまえ霹靂へきれき神社じんじゃ五條ごじょう西久留野にしくるのまち
  • 雷神らいじんしゃ五條ごじょう御山おんやままち)- 創立そうりつのべれき19ねん(800ねん)とつたわる。
  • 落杣神社じんじゃ五條ごじょう黒駒くろこままち) - 現在げんざい霊神れいじん社内しゃない
  • 高天山たかてんやまふと神社じんじゃ五條ごじょう大沢おおさわまち
  • 高天こうてん岸野きしの神社じんじゃ五條ごじょう北山きたやままち
  • 一尾いちお神社じんじゃ五條ごじょう北山きたやままち

吉野よしのぐん 10 だい5 しょう5

  • 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ吉野よしのぐん吉野よしのまち吉野山よしのやま子守こもり
    大和やまとこくよん水分すいぶんしゃひとつ。『ぞく日本にっぽん』によれば、文武ぶんぶ天皇てんのう2ねん(698ねん)4がつつちのえうま29にちじょうに、「芳野よしの水分すいぶんみねかみ」にくろたてまつって、あめいのったとある(『ぞく日本にっぽんまきだいいち)。これが現在げんざい吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ源流げんりゅうであるとかんがえられている。このとき現在げんざい神社じんじゃがある吉野山よしのやま子守こもりではなく、分水嶺ぶんすいれいである青根あおねほう付近ふきん位置いちしていたとされる。現在げんざい場所ばしょ遷座せんざしたのは、大同だいどう元年がんねん(806ねんごろかんがえられる(神社じんじゃ寺院じいんふうについて列記れっきした『しんしょうかくみことのりしょう』に吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃいちとある)。その「ミクマリ」「ミコモリ」さらに「コモリ」と転訛てんかして、みずかみからどもをさづけるかみ子守こもり明神みょうじん」として平安へいあん時代じだいごろから信仰しんこうされるようになった。
  • 吉野よしの山口やまぐち神社じんじゃ吉野よしのぐん吉野よしのまち山口やまぐち) - さだかん元年がんねん(859ねん正月しょうがつ27にちせいさんだい実録じつろく)。
  • 大名だいみょう神社じんじゃ吉野よしのぐん吉野よしのまち河原屋かわはらや) - さだかん元年がんねん(859ねん正月しょうがつ27にちせいいちさんだい実録じつろく)。
  • 丹生川上にゅうがわかみ神社じんじゃ
    丹生川上にゅうがわかみ神社じんじゃ中社なかやしろ吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむらしょう
    丹生川上にゅうがわかみ神社じんじゃ上社かみやしろ吉野よしのぐん川上かわかみむらはさま
    丹生川上にゅうがわかみ神社じんじゃ下社しもしゃ吉野よしのぐん下市しもいちまち長谷ながたに
  • きむみね神社じんじゃ吉野よしのぐん吉野よしのまち吉野山よしのやま
  • こう桙神しゃ吉野よしのぐん吉野よしのまち山口やまぐち
    もと竜門岳りゅうもんがだけ山頂さんちょう鎮座ちんざしていたが、正中せいちゅう年間ねんかん(1324-26)に山麓さんろくに。ぶんかめ3ねん(1503ねん)に現在げんざい吉野よしの山口やまぐち神社じんじゃ境内けいだい東北とうほく遷宮せんぐう
  • 川上かわかみ鹿塩かしお神社じんじゃ
    式内しきない川上かわかみ鹿塩かしお神社じんじゃ奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち樫尾かしお
    大蔵おおくら神社じんじゃ吉野よしのぐん吉野よしのまちこく樔)
  • 伊波いは神社じんじゃ吉野よしのぐん天川あまかわむら和田わだ
  • なみ寶神ほうじんしゃ五條ごじょう西吉野にしよしのまち夜中よなか
  • なみうり神社じんじゃ吉野よしのぐん下市しもいちまち栃原とちはら

平安へいあん時代じだい

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平安へいあん時代じだいはいると天皇てんのう吉野よしのへの行幸ぎょうこう途絶とだえたが、879ねんもとけい3ねん)に清和せいわ上皇じょうこう名山めいざんふつりゅう巡礼じゅんれいりゅうもんてらを、宇多うた上皇じょうこう山寺やまでら巡礼じゅんれい898ねんあきらたい元年がんねん)にりゅうもんてらを、900ねんあきらたい3ねん)に金峯山こんごうざんてらおとずれている。

またやく小角おがくひらいた修験しゅげんどうは、一時いちじ途絶とだえていたが、平安へいあん時代じだい前期ぜんき弘法大師こうぼうだいし空海くうかい孫弟子まごでしにあたる真言宗しんごんしゅうそうせいたからてんちょう9ねん(832ねん) - 延喜えんぎ9ねん(909ねん))が、大峯山おおみねさん修行しゅぎょうおこな同地どうち修験しゅげんどう再興さいこうしている。せいたからは、吉野川よしのがわ六田むだわたしをつくり、参詣さんけい整備せいびし、おどうて、如意輪観音にょいりんかんのん多聞天たもんてんきむつよし蔵王ざおう菩薩ぼさつ安置あんちしたという。このころから金峯山こんごうざん山岳さんがく信仰しんこう密教みっきょう末法まっぽう思想しそう浄土じょうど信仰しんこうなどが融合ゆうごうして、おおくの人々ひとびと信仰しんこうあつめることとなった。

この大峯山おおみねさんは、中国ちゅうごくこうしゅう時代じだい(951ねん- 960ねん)にかれた『すわえろくじょう』にも登場とうじょうし、女人にょにん禁制きんせいなどの記述きじゅつがある。

その1007ねん寛弘かんこう4ねん)8がつ藤原ふじわら道長みちながいちぎょう金峯山こんごうざん参詣さんけいして以来いらい皇族こうぞく貴族きぞくそう金峯山こんごうざんへの参詣さんけいさかんにおこなわれるようになる。う「御嶽おんたけまい(みたけもうで)」とばれるもので、ぜんくだりとしてじゅうにちまたはひゃくにちおよぶ「御嶽みたけ精進しょうじん(みたけそうじ)」をおこなってから金峯山こんごうざん(=ごく)に参詣さんけいするならわしである。以下いか金峯山こんごうざんてらまたは金峯山こんごうざん参詣さんけいした人物じんぶつ列記れっきする。

中世ちゅうせい

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修験しゅげんどう発展はってん

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大峯おおみね修験しゅげんどう平安へいあん時代じだい前期ぜんき再興さいこうされて以来いらい中世ちゅうせいにかけておおきく発展はってんする。とくに「当山とうざん」と「本山ほんざん」の2つのたがいにきそ修験しゅげん隆盛りゅうせいさせた。

  • 当山とうざん - 真言宗しんごんしゅうけい醍醐寺だいごじ三宝さんぼういんせいたから開祖かいそとする。さきべたように、せいたから参詣さんけい整備せいびし、おどうて、如意輪観音にょいりんかんのん多聞天たもんてんきむつよし蔵王ざおう菩薩ぼさつ安置あんちしたという。また小篠こしの(おざさ) に伽藍がらん建立こんりゅうし、鳥住とりすみ吉野よしのぐん下市しもいちまち)におおとりかくてらてたとつたわる。当山とうざんでは、おくみちぎゃくみね吉野よしの大峯おおみね熊野くまの)をとおる。

大峯おおみね修験しゅげんどうでは、蔵王ざおう権現ごんげん信仰しんこう根本こんぽんであったが、地主じぬししんかねみね神社じんじゃ吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ吉野よしの山口やまぐち神社じんじゃさんしきないしゃたいする信仰しんこうあつ神仏しんぶつ習合しゅうごうおこなわれていた。また「山上さんじょう一体いったい山下やましたさんたい蔵王ざおう」といわれ、山上さんじょう一体いったい山下やましたさんたい蔵王ざおう権現ごんげんまつられていた。衆徒しゅとはるなつには山上さんじょうがりしゃどう守護しゅごし、ふゆ吉野山よしのやまくだってあんむすんだ。『金峯山こんごうざん古今ここん雑記ざっき』によれば、1534ねん天文てんもん3ねん)に一向いっこう衆徒しゅとちにあうまで、山上さんじょうにあっては山上さんじょう蔵王ざおうどうほかさんろくぼうがあったという。また山下やましたにも大小だいしょう多数たすう100をえるいんぼうがあったとされる。これらは時代じだいによって多少たしょう増減ぞうげんはあるが、当時とうじ興隆こうりゅうぶりをつたえている。

この大峯おおみね修験しゅげんどうささえたのは、全国ぜんこく信者しんじゃたちで、かれらはそれぞれこう組織そしきし、夏季かきには先達せんだつひきいられて山上さんじょうへとのぼった。現在げんざいでも金峯山こんごうざんてらおこなわれているはなきょう懺法会式えしきにも各地かくちひがし関東かんとうから西にし中国ちゅうごく地方ちほう四国しこく)からおおくの修験しゅげんしゃたちがあつまり信仰しんこうささえた。また11世紀せいきごろから、有力ゆうりょく社寺しゃじ田地でんち寄進きしんするうごきが活発かっぱつとなり、金峯山こんごうざんてら大峯おおみね山系さんけい周辺しゅうへん以外いがいにも多数たすう寺領じりょうゆうすることになる(くわしくは荘園しょうえん (日本にっぽん)または寄進きしんけい荘園しょうえん参照さんしょう)。

古代こだいから中世ちゅうせいにかけて寺社じしゃでは、僧兵そうへいかかえていたが、金峯山こんごうざんてらでも同様どうよう吉野よしの大衆たいしゅうばれる僧兵そうへいかかえている。山法師やまほうし延暦寺えんりゃくじ)、奈良なら法師ほうし興福寺こうふくじ)ほどの勢力せいりょくではなかったが、史上しじょう時折ときおり登場とうじょうしている。ふるいところで1028ねんながもと元年がんねん)に、大和やまとまもる藤原ふじわら保昌やすまさ圧政あっせいうったえて上洛じょうらくしている(日本にっぽんりゃくひだりけい)。吉野よしの大衆たいしゅうことれば、勝手かって神社じんじゃ御輿みこしかついで、示威じい行動こうどうをもって強訴ごうそのために出向でむいた。また寺社じしゃ同様どうよう領地りょうちてき勢力せいりょく拡大かくだいするなかで、軍事ぐんじ組織そしきとしても機能きのうしてくことになる。

周辺しゅうへん勢力せいりょくとの関係かんけい

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平安へいあん時代じだい以降いこうから鎌倉かまくら時代じだい後期こうきにかけての周辺しゅうへん勢力せいりょくとの関係かんけい

興福寺こうふくじ
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吉野よしのりゅうもんてらは、りゅうぶたてら(=岡寺おかでら)とともに、興福寺こうふくじそうてら別当べっとう兼務けんむし、興福寺こうふくじ末寺まつじとなっていた。その興福寺こうふくじ別当べっとうりゅうもんてら別当べっとうをも兼務けんむすることになり、りゅうもんてら周辺しゅうへん興福寺こうふくじ寺領じりょうとなっている。

金峯山こんごうざん検校けんぎょうしょくには興福寺こうふくじ関係かんけい僧侶そうりょはいり、金峯山こんごうざんてらはその傘下さんかはいったが、完全かんぜん支配しはいはいったわけではなく、時折ときおり金峯山こんごうざんてら興福寺こうふくじとのあいだあらそいごとがこっている。1114ねん永久えいきゅう2ねん)3がつ30にちには、興福寺こうふくじ大衆たいしゅう金峯山こんごうざん別当べっとうのことであらそ神木しんぼくようして京師けいしじょうろうとしたので、関白かんぱく藤原ふじわら忠実ちゅうじつ長者ちょうじゃせんくだし、これを慰諭してことなきをている(『ちゅう右記うき』)。しかし、これが起因きいんしたことかは不明ふめいだが、1126ねん大治おおはる元年がんねん)には、金峯山こんごうざんてら衆徒しゅと蜂起ほうきし、また1145ねん久安ひさやす元年がんねん)には興福こうふく寺僧じそう金峯山こんごうざんてらりょうてら僧徒そうとたたかったことが『たい』にてくる。

多武峰とうのみね
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みねてら現在げんざいだん山神さんじんしゃ)は、てらでんによると藤原鎌足ふじわらのかまたり死後しご天武天皇てんむてんのう7ねん(678ねん)、長男ちょうなんそうていめぐみとうからの帰国きこくに、ちちはか摂津せっつ安威あいから大和やまとうつし、じゅうさんじゅうとう造立ぞうりゅうしたのが発祥はっしょうつたえられる。以後いご講堂こうどう現在げんざい拝殿はいでん)、祠堂しどう現在げんざい本殿ほんでん)が建立こんりゅうされ聖霊せいれいいんごうした。その藤原ふじわら繁栄はんえいとも発展はってんげたが、平安へいあん時代じだい天台てんだいそうぞうむかえたことから、おな大和やまとこく藤原ふじわらえん寺院じいんでありながら、宗派しゅうはちが興福寺こうふくじとはあらそいがえなかった。(くわしくはだん山神さんじんしゃ参照さんしょう)。吉野よしのぐんとは、龍門岳りゅうもんがだけ(または音羽おとわ三山さんざん)から西にしへとびる稜線りょうせんきたえた位置いちにあり、ほそとうげ現在げんざい奈良ならけんどう37号線ごうせん鹿路ろくろトンネル付近ふきん)またはりゅうざいとうげつうじてむすばれていた。

みねてら上記じょうき理由りゆう興福寺こうふくじあらそっていたが、金峯山こんごうざんてらとのあいだでもあらそいがあり、1208ねんうけたまわもと2ねん)に金峯山こんごうざん衆徒しゅと多武峰とうのみねてらおそい、堂舎どうしゃ僧坊そうぼうはらがまあし影像えいぞうまで焼失しょうしつしたという(『いのししくま関白かんぱく日記にっき』)。

高野山こうのやま
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紀伊きい半島はんとう南部なんぶは、重畳ちょうじょう(ちょうじょう)たる山岳さんがく地帯ちたいであり、近世きんせいいたるまで、大和やまとこく紀伊きいこく伊勢いせこくとの国境こっきょう明白めいはくでなかった。一方いっぽう吉野山よしのやま金峯山こんごうざんてら勢力せいりょく拡大かくだいしてなかで、西にし位置いち紀伊きいこくにある高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじとも寺領じりょうめぐあらそいがこっている。

1141ねん永治えいじ元年がんねん)に、金峯山こんごうざんてら金剛峯寺こんごうぶじたいして「金峯山こんごうざん寺領じりょうとお津川つがわきょう中津川なかつがわむら」の利権りけん侵害しんがいしたとして抗議こうぎしている。この中津川なかつがわむらは、現在げんざい野迫川のせがわむら中津なかつがわで、とお津川つがわきょう十津川とつかわむらおもわれるが、この当時とうじ現在げんざい十津川とつかわむら地域ちいきまで発展はってんしておらず、いま大塔だいとうむら現在げんざい五條ごじょう大塔だいとうまち)、野迫川のせがわむらあたりが、ここでいう「とお津川つがわきょう」であったようである。とお津川つがわきょう金峯山こんごうざんてら寺領じりょうであったのはたしかだったが、とお津川つがわきょう高野山こうのやまりょうとの境界きょうかい明確めいかくでなく、その地域ちいき杣人そまびと(そまびと)がはいみ、あたらしく中津川なかつがわむら出来できたので、その所属しょぞくめぐあらそいがこったようである。そのにも吉野よしの執行しっこうはるけんらが、高野山こうのやまりょうをかすめて境界きょうかいしるべ高野たかの山奥やまおくいんちかくにて、ここでの鹿しかりをしたり、とお津川つがわさとじん高野山こうのやまりょう大滝おおたきむら高野たかの山奥やまおくいんよりみなみへ4kmほど)・花園はなぞのむら現在げんざいかつらぎまち大字だいじ花園はなぞの)にまではい牓示て、十津川とつかわきょう公事こうじつとめるよう強制きょうせいするなどして、堪忍かんにん出来できなくなった高野たかの山側やまがわ1218ねんけん6ねん)に朝廷ちょうていうったているが、明確めいかく決着けっちゃくられなかった(高野山こうのやま文書ぶんしょ高野たかの春秋しゅんじゅう)。

その1267ねんぶんなが4ねん)の「十津川十八郷庄司等起請文案」(高野山こうのやま文書ぶんしょ)では、野川のがわ中津なかつがわやまみん今後こんご高野山こうのやまりょうおかさないこと、狩猟しゅりょうをしないこと、もし制止せいししてききいれないためにころされても遺恨いこんおもわないことをちかわせている。(ここで野川のがわ中津なかつがわ今日きょう野迫川のせがわむらのうちであるとおもわれるが、十津川とつかわじゅうはちさとふくまれるかは不明ふめい)。そのも、このあたりの大和やまとこく紀伊きいこく境界きょうかい決定けっていのまま入会地いりあいちとして近世きんせいまでつづくことになる。

大和やまとはじめ
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大和やまとはじめ源流げんりゅうであるみなもとよりゆきおやは、藤原ふじわら道長みちながつかえるさむらいで、11世紀せいきはじめに大和やまともりにんぜられた。だが、当時とうじ大和やまとこく大和やまと平野へいや奈良盆地ならぼんち北部ほくぶ興福寺こうふくじ勢力せいりょくにあり、よりゆきおや拠点きょてん大和やまと平野ひらの南部なんぶ中心ちゅうしんとなった。国府こくふ高市たかいちぐんうちにあったとされる。一方いっぽう大和やまとこく南部なんぶといっても吉野川よしのがわ紀ノ川きのかわ)よりみなみ修験しゅげんどう根本こんぽんであったため、よりゆきおや勢力せいりょく高市たかいちぐんから宇智ぐん範囲はんいかぎられた。よりゆきおや高市たかいちぐんと宇智ぐんわたしりょうもうけている(『前田まえだほん右記うき』)が、この高市たかいちぐん越智おちしょうと宇智ぐん宇野うのしょうがのちの越智おち宇野うの起源きげんとなる。なお、みなもとよりゆきおや頼房よりふさ加賀かがまもる)は興福寺こうふくじあらそよりゆきおや土佐とさこくに、頼房よりふさ隠岐おきこくながされている(『扶桑ふそう略記りゃっき』)。

頼房よりふさよりゆきしゅん陸奥むつまもる)は、摂政せっしょう要職ようしょくにあり延久のべひさ蝦夷えぞ合戦かっせん活躍かつやくした。よりゆきしゅん栄山さかえやま寺領じりょうおかし、その所領しょりょうを宇智ぐんからかずら上郡かみごおりひろげ、そのであるよりゆきは、大和やまとこく居住きょじゅうし宇智ぐん中心ちゅうしん一族いちぞく土着どちゃくがはじまった。さらにたよまごおや名乗なのりは「宇野うの七郎しちろうしん」)は、もとらん顛末てんまつえがいた軍記物語ぐんきものがたりもと物語ものがたり』に登場とうじょうする。

みなもとよりゆきしゅん外孫そとまごで、みなもとにんちちみなもと)という武士ぶしが宇智ぐん所領しょりょうゆうしていたが、にんよりゆきしゅんからゆずられた所領しょりょう興福寺こうふくじ寄進きしんした。しかし、興福寺こうふくじやくきびしく、あらためて金峯山こんごうざんてら寄進きしんするというじゅう寄進きしん結果けっかになった。このころ興福寺こうふくじ金峯山こんごうざんてらあらそっており、憤慨ふんがいした興福寺こうふくじ僧兵そうへいが、金峯山こんごうざんてらめた。にん金峯山こんごうざんくだり、宇智ぐん潜伏せんぷくするが、これをった金峯山こんごうざんてら衆徒しゅとは、にんらえようと、1146ねん久安ひさやす2ねん)に宇智ぐん乱入らんにゅうし、郡司ぐんじ藤原ふじわらよりゆききんたたかったとされる(『本朝ほんちょう世紀せいき』)。こののち動静どうせいあきらかではないが、金峯山こんごうざんてら勢力せいりょくが宇智ぐん浸透しんとうし、栄山さかえやま寺領じりょうをも横領おうりょうしていた例証れいしょうのこっている(『さかえ山寺やまでら文書ぶんしょ』)。

1180ねんうけたまわ4ねん)に以仁王もちひとおう源頼政みなもとのよりまさ打倒だとうたいらのための挙兵きょへい計画けいかくし、諸国しょこく源氏げんじだい寺社じしゃ蜂起ほうきうなが令旨れいしはっしたが、準備じゅんび不足ふそくのために露見ろけんし、追討ついとう以仁王もちひとおう頼政よりまさ宇治うじ平等院びょうどういんたたかいではい早期そうき鎮圧ちんあつされた(くわしくは以仁王もちひとおう挙兵きょへい参照さんしょう)。このとき金峯山こんごうざんてらみなもと味方みかたしている。またしんである宇野うの宇野うの太郎たろうゆう次郎じろう清治きよじ三郎さぶろう義治よしはる四郎しろうぎょうらがみなもと味方みかたした(『源平げんぺい盛衰せいすい』)。やぶれた頼政よりまさいちとう一部いちぶ吉野よしののがれたが、平清盛たいらのきよもりによる頼政よりまさいちとう捜索そうさくはきびしく、相次あいついでらえられている。

なお、宇野うの宇野うのよりゆきもとおやよんなん)のころ最盛さいせいむかえるが、宇野うの一族いちぞく同士どうしあらそいもあり鎌倉かまくら時代じだいなかばには衰退すいたいする。また、こののち金峯山こんごうざんてら宇野うのしょうとの関係かんけい複雑ふくざつつづいていくことになる。

義経よしつね吉野よしの

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うけたまわ寿ことぶきひさしらん1180ねんうけたまわ4ねん)から1185ねん文治ぶんじ元年がんねん))ののちあにみなもと頼朝よりとも対立たいりつした源義経みなもとのよしつねは、きょうちて九州きゅうしゅうきをはかる。1185ねん文治ぶんじ元年がんねん)11月6にちには摂津せっつこく大物おおものはまから九州きゅうしゅう船出ふなでしようとしたが、途中とちゅう暴風ぼうふう難破なんぱ軍兵ぐんびょうのほとんどと離散りさんし、義経よしつね摂津せっつもどされてしまう。義経よしつね郎党ろうとう愛妾あいしょう静御前しずかごぜんらは頼朝よりとも捜索そうさくもうをくぐりけ、吉野山よしのやまかくしたが、ここでも追討ついとう義経よしつね静御前しずかごぜんわかれて、義経よしつねらは東国とうごくへとだっした(『吾妻あづまきょう』)。(吉野山よしのやまでの出来事できごと静御前しずかごぜん参照さんしょう)。

この逸話いつわ後世こうせい江戸えど時代じだい中期ちゅうきに「義経よしつね千本せんぼんさくら」として劇作げきさくされた(くわしくは義経よしつね千本せんぼんさくら参照さんしょう)。また義経よしつねえんには、様々さまざま伝承でんしょうのこしている。そのひとつとして、義経よしつねうしわかまるしょうした幼少ようしょうときに、平治へいじらんやぶれて、ちち源義朝みなもとのよしともひがし敗走はいそうした。このときぎゅうわかまる生母せいぼ常盤御前ときわごぜんいだかれて、ははさとなるりゅうもんきょうまき現在げんざい宇陀うだ大宇陀おおうだまき)にしばしばびたという伝承でんしょうがある。

平家へいけ落人おちうど吉野よしの

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平家へいけ落人おちうどは、うけたまわ寿ことぶきひさしらんにおいて敗北はいぼくし、平家ひらか一門いちもんおよびその郎党ろうとう、またえんのあるものらが、僻地へきちのがいたとされる伝承でんしょうであるが、現在げんざい吉野よしのぐんにも、それらの伝承でんしょうのこっている。

野迫川のせがわむらたいら(たいら)は、平維盛たいらのこれもりがその生涯しょうがいえた場所ばしょとされ、また十津川とつかわむら五百瀬いもぜには維盛のはかつたえられるほこらがある(くわしくは平維盛たいらのこれもり参照さんしょう)。

また上北山かみきたやまむら始祖しそは、たいらすえぞくだったといいつたえられ、むらないにはたいらえんのある寺院じいん多数たすうあり、一門いちもんのこした仏像ぶつぞう古文書こもんじょ所蔵しょぞうされている。そのてらひとけいとくてら毎年まいとし1がつ8にちおこなわれている弓矢ゆみやまつり(けん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい)は、平家ひらか一門いちもん再興さいこうねがい、ねりしきおこなっていたことにちなむものである。このほか隣接りんせつする下北山しもきたやまむら和歌山わかやまけん北山きたやまむらなどにも平家ひらか伝説でんせつつたわる。

なお上北山かみきたやまむら下北山しもきたやまむらは、もと紀伊きいこく牟婁むろぐん一部いちぶであったが、のち吉野よしのぐん編入へんにゅうされた。[2]

鎌倉かまくら時代じだいから江戸えど時代じだいまで

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鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきには、後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじである護良親王もりよししんのう吉野山よしのやま倒幕とうばくへいげる。吉野よしのじょうでは幕府ばくふぐんとのはげしいたたかいがおこなわれ、村上むらかみ義光よしみつ壮絶そうぜつげている(吉野よしのじょうたたか[3]

後醍醐天皇ごだいごてんのう幕府ばくふ滅亡めつぼう京都きょうとたてたけし新政しんせいひらくが、南北なんぼくあさ時代じだいには吉野よしのうつり、皇居こうきょ行政ぎょうせい機関きかんいて吉野よしの朝廷ちょうてい南朝なんちょう)が成立せいりつした[4]南朝なんちょう吉野よしのまち吉野山よしのやま中心ちゅうしんとするが、きゅう西吉野にしよしのむらには行宮あんぐうとしての賀名かななま皇居こうきょがあった。川上かわかみむらにも伝承でんしょうがある。南北なんぼくあさ統一とういつ室町むろまち時代ときよにもこう南朝なんちょう勢力せいりょく活動かつどうとなった。

戦国せんごく時代じだい天文てんもん年間ねんかんには、伊勢いせこく北畠きたばたけはる大和やまと進出しんしゅつし、吉野よしの支配しはいれている。だが、これにより大和やまともろ国人くにびととの対立たいりつ発生はっせいし、筒井つつい越智おち十市といち久世くぜらと合戦かっせんおよんでいる。

江戸えど時代じだい初期しょきには、1614ねん徳川とくがわ家康いえやす顧問こもんつとめた天海てんかい支配しはいとなった。なお、1706ねん宝永ほうえいねん3)刊行かんこうの『風俗ふうぞく文選ぶんせん』(森川もりかわ許六きょろくせん)には「芳野よしの」のこうがあり、吉野よしのかんする名所めいしょ短歌たんかなどが記載きさいされている[5]

交通こうつう

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鉄道てつどう

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近畿日本鉄道きんきにほんてつどう

道路どうろ

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吉野よしのさくら

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さくら名所めいしょとしてられヤマザクラおお[6]花札はなふだ絵柄えがらのひとつ「さくらあかたん」には、この地域ちいきをさす「みよしの」の文字もじえがかれている。

なお、ソメイヨシノ江戸えど時代じだい江戸えど染井そめいむらから「吉野桜よしのざくら」としてひろまったものの、明治めいじ時代じだい吉野よしのさくらとはことなることがあきらかになってあらたに命名めいめいされたものである[6]

備考びこう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i 香西こうざい克彦かつひこ吉野よしの風景ふうけい : 「藤原ふじわらみや御井みい」にみる風景ふうけい構造こうぞう II」『[日本にっぽん建築けんちく学会がっかい計画けいかくけいろん文集ぶんしゅう』63かん511ごう、217-222ぺーじ、1998ねんdoi:10.3130/aija.63.217_5
  2. ^ 下北山しもきたやまむら 奈良ならけん下北山しもきたやまむらオフィシャルサイト
  3. ^ 太平たいへいまきなな吉野よしのじょう軍事ぐんじ
  4. ^ 吉野よしの」『日本にっぽん地名ちめいがわかる事典じてん
  5. ^ 風俗ふうぞく文選ぶんせん森川もりかわ許六きょろく せん)・和漢わかんぶんみさお各務かがみ支考しこう へん)・うずらころも横井よこい也有やゆう ちょ)』藤井ふじい紫影しえいたけかささんしょ 校訂こうてい有朋ありともどう書店しょてん有朋ありともどう文庫ぶんこ)1918ねん大正たいしょう7ねん)32ぺーじ
  6. ^ a b さくらめぐりマップ サクラ保存ほぞんりん 多摩たま森林しんりん科学かがくえん、2020ねん7がつ13にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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