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以仁王もちひとおう挙兵きょへい

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以仁王もちひとおう挙兵きょへい

宇治うじ平等院びょうどういん
戦争せんそううけたまわ寿ことぶきひさしらん
年月日ねんがっぴうけたまわ4ねん5月26にち
1180ねん6がつ20日はつか
場所ばしょ山城やましろこく宇治うじげん宇治うじ
結果けっかたいらぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
みなもと たいら
指導しどうしゃ指揮しきかん
以仁王もちひとおう 
源頼政みなもとのよりまさ  
平重衡たいらのしげひら平維盛たいらのこれもり
(『たま』)
戦力せんりょく
1,000
平家ひらか物語ものがたり
28,000
平家ひらか物語ものがたり
損害そんがい
以仁王もちひとおう源頼政みなもとのよりまさおも武将ぶしょうに。 不明ふめい
うけたまわ寿ことぶきひさしらん

以仁王もちひとおう挙兵きょへい(もちひとおうのきょへい)は、うけたまわ4ねん1180ねん)に高倉天皇たかくらてんのうあにみやである以仁王もちひとおう源頼政みなもとのよりまさが、平家ひらか打倒だとうのための挙兵きょへい計画けいかくし、諸国しょこくみなもとだい寺社じしゃ蜂起ほうきうなが令旨れいしはっした事件じけん

計画けいかく準備じゅんび不足ふそくのために露見ろけんして追討ついとうけ、以仁王もちひとおう頼政よりまさ宇治うじ平等院びょうどういんたたかいではい早期そうき鎮圧ちんあつされた。しかしこれを契機けいき諸国しょこくはん平家へいけ勢力せいりょくへいげ、全国ぜんこくてき動乱どうらんであるうけたまわ寿ことぶきひさしらんはじまる。以仁王もちひとおうらん源頼政みなもとのよりまさ挙兵きょへいともばれる。

背景はいけい

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もとらん平治へいじらん平清盛たいらのきよもり台頭たいとうし、たいら政権せいけん形成けいせいされた。じんやす2ねん1167ねん)には清盛きよもり太政大臣だじょうだいじんにまでのぼりつめる。うけたまわやす元年がんねん1171ねん)、清盛きよもりむすめ徳子とくこ高倉天皇たかくらてんのう入内じゅだいさせた。平家ひらか一門いちもん知行ちぎょうこく支配しはいにちそう貿易ぼうえきざいし、10すうめい公卿くぎょう殿上人てんじょうびと30すうめいめるにいたる。『平家ひらか物語ものがたり』にう、「平家へいけにあらずんばひとず」の全盛期ぜんせいきとなった。

これには朝廷ちょうてい内部ないぶでも不満ふまんつものがおおく、よしみおう2ねん1170ねん)には摂政せっしょうまつ殿どのもとぼう平重盛たいらのしげもりとのあいだ暴力ぼうりょく沙汰ざた発展はってんした紛争ふんそうきている(殿下でんか乗合のりあい事件じけん)。うけたまわ元年がんねん1177ねん)には鹿しかだに陰謀いんぼうき、藤原ふじわらしげるおや平康頼たいらのやすより西光さいこう俊寛しゅんかんいん近臣きんしん多数たすう処罰しょばつされ、こう白河しらかわ法皇ほうおう事件じけんへの関与かんようたがわれた。

うけたまわ2ねん1178ねん)11月、中宮なかみや徳子とくこげんじん親王しんのうみ、ただちに立太子りったいしされた。

うけたまわ3ねん1179ねん)11月、近衛このえ所領しょりょう継承けいしょう問題もんだいはしはっし、ついに清盛きよもりへいひきいてきょう乱入らんにゅうしてクーデター断行だんこう法皇ほうおう鳥羽とば殿どの幽閉ゆうへいされ、関白かんぱくもとぼう解任かいにん配流はいるいん近臣きんしん39めいかいかんされた(うけたまわさんねん政変せいへん)。

そしてうけたまわ4ねん1180ねん)2がつ高倉天皇たかくらてんのう譲位じょういし、中宮なかみや徳子とくこんだげんじん親王しんのう即位そくいした(安徳天皇あんとくてんのう)。

大衆たいしゅう(だいしゅ)の両院りょういん誘拐ゆうかい計画けいかく

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安徳あんとく即位そくい直後ちょくごの3がつに1つの事件じけん発生はっせいしている。それは、園城寺おんじょうじ大衆たいしゅう延暦寺えんりゃくじ興福寺こうふくじ大衆たいしゅうびかけてこう白河しらかわ高倉たかくら両院りょういん誘拐ゆうかいして寺院じいんないかこみ、朝廷ちょうていたいしてのち白河しらかわ法皇ほうおうぜん関白かんぱくもとぼう解放かいほう、そして平家へいけ討伐とうばつ命令めいれい要求ようきゅうしようとした。摂関せっかん政治せいじ解体かいたい以後いご太政官だじょうかん最高さいこう意思いし決定けってい機関きかんとしての機能きのう喪失そうしつし、安徳天皇あんとくてんのうも3さいであったことからこう白河しらかわ法皇ほうおう高倉たかくら上皇じょうこうのどちらかがてんきみとして院政いんせい必要ひつようがあった。その両院りょういんがいなくなれば朝廷ちょうてい機能きのう停止ていしおちいるが、当時とうじは「仏罰ぶつばつ」の存在そんざい武士ぶしたちからもしんじられていた時代じだいであり、寺院じいん攻撃こうげき一種いっしゅ禁忌きんきとなっていた(鹿しかだに陰謀いんぼう自体じたいが、清盛きよもりへの延暦寺えんりゃくじ攻撃こうげき命令めいれいたいする平家へいけがわ報復ほうふくとするせつもある[1])。このため、公卿くぎょうたちには要求ようきゅうみとめるしか選択肢せんたくしくなるだろうという計画けいかくであった。

実際じっさい興福寺こうふくじ同意どういおや平家へいけおお延暦寺えんりゃくじでもはん平家へいけめぐみこうぼうちんけい集団しゅうだん参加さんか意思いししめした。決行けっこう高倉たかくら上皇じょうこう厳島いつくしま行幸ぎょうこうかう3がつ17にち決定けっていしたが、前代未聞ぜんだいみもん計画けいかくであったため、興福寺こうふくじ使者ししゃ鳥羽とば殿どの幽閉ゆうへいちゅうのち白河しらかわ法皇ほうおうけたところ、おどろいたのち白河しらかわ法皇ほうおう平宗盛たいらのむねもりこと次第しだいげたために、高倉たかくら上皇じょうこう出発しゅっぱつが19にち変更へんこうされて失敗しっぱいわった。だが、これを高倉たかくら上皇じょうこう清盛きよもりあいだこう白河しらかわ法皇ほうおう安全あんぜん理由りゆう幽閉ゆうへい場所ばしょ鳥羽とば殿どのから京都きょうとちゅう移動いどうさせることについて協議きょうぎされた。5月14にち深夜しんやこう白河しらかわ法皇ほうおう鳥羽とば殿どのから八条坊門はちじょうぼうもん烏丸からすまていに遷った(『百錬ひゃくれんしょう』は藤原ふじわらしゅんもりてい、『たま』は藤原ふじわらのうやしきとする)。つづ高倉たかくら上皇じょうこう院政いんせいることになったものの、幽閉ゆうへい生活せいかつから解放かいほうされることになった。以仁王もちひとおう園城寺おんじょうじ興福寺こうふくじたよりにした背景はいけいにはこの出来事できごと存在そんざい背景はいけいにあったとおもわれる。

以仁王もちひとおう源頼政みなもとのよりまさ

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以仁王像 源頼政像
以仁王もちひとおうぞう
源頼政みなもとのよりまさぞう

微妙びみょう立場たちばにあったのがこう白河しらかわ法皇ほうおうだいさん皇子おうじ以仁王もちひとおうであった。かれ学芸がくげいすぐれた才人さいじんだったが、たいら政権せいけん圧力あつりょくで30さいちか壮年そうねんでなお親王しんのう宣下せんげけられずにいた。それでも、莫大ばくだい荘園しょうえんをもつはちじょういん暲子内親王ないしんのう白河しらかわ法皇ほうおう異母いぼいもうと)をうしたてに、彼女かのじょ猶子ゆうしとなって、出家しゅっけせずに皇位こういのぞみをつないでいた。だが、安徳天皇あんとくてんのう即位そくいによってそののぞみもたれ、経済けいざい基盤きばんである荘園しょうえん一部いちぶ没収ぼっしゅうされた。

源頼政みなもとのよりまさ源頼光みなもとのよりみつ系譜けいふつらなる摂津せっつ源氏げんじで、畿内きない近国きんごく基盤きばんきょう武士たけしとして大内おおうち守護しゅごにんじられていた。もとらんでは勝者しょうしゃ天皇てんのうかたにつき、平治へいじらんではおも美福門院びふくもんいん意向いこうみながら形勢けいせい観望かんぼうして藤原ふじわら信頼しんらいくみしなかった。摂津せっつ源氏げんじ頼政よりまさはその地味じみながら軍事ぐんじ貴族きぞく一員いちいんとしてごしていた。

平家ひらか全盛ぜんせいなかみなもと頼政よりまさ地味じみ立場たちばでありつづけたが、うけたまわ2ねん(1178ねん)に清盛きよもり推挙すいきょによりしたがえさん昇進しょうしんした。『平家ひらか物語ものがたり』では、不遇ふぐうなげ和歌わかみ、それをった清盛きよもりが、「頼政よりまさわすれていた」と推挙すいきょしたことになっている。九条くじょうけん日記にっきたま』に「だいいちこれ珍事ちんじ也」としるしているように、たいら以外いがい武士ぶし公卿くぎょうしたがえさん)となるのは異例いれいであった。

頼政よりまさはこのとき70だいなかばをえた老齢ろうれいで、念願ねんがんさん叙位じょいかなった翌年よくねんには出家しゅっけして、家督かとく嫡男ちゃくなんなかつなゆずった。

挙兵きょへい動機どうき

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以仁王もちひとおう頼政よりまさはん平家へいけとなえた挙兵きょへい意思いしかためた経緯けいい動機どうきには諸説しょせつある。

平家ひらか物語ものがたり』では、挙兵きょへい動機どうきは、頼政よりまさ嫡男ちゃくなんなかつな平宗盛たいらのむねもり清盛きよもり三男さんなん)のうまをめぐる軋轢あつれきということになっている。そうもりなかつな愛馬あいばした(このした)”をしがった。なかつなことわったが、そうもりたいら権勢けんせいかさにしつこく要求ようきゅうし、頼政よりまささとされて、なかつなはしぶしぶ“した”をゆずった。そうもりはすぐにゆずらなかったことがらず、“した”のを“なかつな”とあらためて焼印やきいんし、「なかつななかつな」とんでまわしたり鞭打むちうったりした。この屈辱くつじょく恥辱ちじょくが、頼政よりまさなかつな父子ふし謀反むほん決意けついさせた。平家ひらか物語ものがたりによると、頼政よりまさは、息子むすこなかつなとも東日本ひがしにっぽん以仁王もちひとおう令旨れいしおくり、伊豆いず頼朝よりとも木曽きそ義仲よしなか甲斐かいはじめおくり、平家ひらかによる東国とうごく源氏げんじ討伐とうばつうごかし、穴場あなばになったきょう頼政よりまさめとる予定よていだったが、みなもとこう令旨れいし熊野くまのつたえてから東国とうごくかったので、情報じょうほうれてしまい、検非違使けびいし頼政よりまさ三男さんなんけんつなにより、令旨れいしれ、あわてて以仁王もちひとおうとも園城寺おんじょうじげたとかれている。この事件じけん事実じじつがどうかはともかく、平家ひらか一門いちもん専横せんおうみなもとへの日頃ひごろ軽侮けいぶたいする長年ながねん不満ふまん爆発ばくはつは、理由りゆうとしてげられている[2]

一方いっぽうで、『平家ひらか物語ものがたり』では頼政よりまさ夜半やはん不遇ふぐう以仁王もちひとおうやしきおとずれ、謀反むほんちかけたことになっているが、そもそも軍記物語ぐんきものがたりである『平家ひらか物語ものがたり』のエピソードはしんがたく、当時とうじ頼政よりまさは77さいという高齢こうれいであり、清盛きよもり推挙すいきょによって破格はかくしたがえさんにまでなってこうめいげ、清盛きよもりうらみもない頼政よりまさ謀反むほんかんがえる理由りゆう見当みあたらないことから、皇位こういへのみちたれて不満ふまんっていた以仁王もちひとおうほうから頼政よりまさ挙兵きょへいちかけたという見方みかたもある[3]

に、頼政よりまさ摂津せっつ源氏げんじ鳥羽とば上皇じょうこう直系ちょっけい近衛天皇このえてんのう二条天皇にじょうてんのうつかえる大内おおうち守護しゅごにんにあったことから、べつ系統けいとう高倉たかくら安徳天皇あんとくてんのう即位そくい反発はんぱつしたというせつもある[4]

もっとも、頼政よりまさ以仁王もちひとおう挙兵きょへい以前いぜん関係かんけいゆうしていたことをしめ証拠しょうこが、どう時代じだい貴族きぞく日記にっきなどの史料しりょうには存在そんざいせず、脚色きゃくしょくはい余地よちがある『平家ひらか物語ものがたり』とそこから派生はせいした書物しょもつにしかもとめられないことなどを理由りゆうはじめから謀議ぼうぎなどはなかったという見方みかたもある。その見方みかたによれば頼政よりまさ離反りはん原因げんいんとしてかれあつ仏教ぶっきょう信仰しんこう背景はいけいとしてげられ、頼政よりまさ以前いぜんにもかれ配流はいるのために護送ごそうしていた天台座主てんだいざしゅあかりくも延暦寺えんりゃくじ大衆たいしゅう奪還だっかんしにさい抵抗ていこうせずにうばわれている前例ぜんれいがあること、今回こんかい検非違使けびいしとして以仁王もちひとおうがしたけんつな責任せきにんわれている状況じょうきょうにおいてすで出家しゅっけしていた頼政よりまさ以仁王もちひとおうかくま園城寺おんじょうじ寺院じいん僧侶そうりょへの攻撃こうげき拒絶きょぜつしたために、今度こんど頼政よりまさ親子おやこ命令めいれい違反いはんらえられる可能かのうせい浮上ふじょうし、められた頼政よりまさ親子おやこがやむなく以仁王もちひとおうがわについて敵対てきたいするにいたったとする[5]

以仁王もちひとおう令旨れいし

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うけたまわ4ねん(1180ねん)4がつ9にちみなもと頼政よりまさはかった以仁王もちひとおうは、「さいかち親王しんのう」としょうし、諸国しょこく源氏げんじだい寺社じしゃたいら追討ついとう令旨れいしくだした。皇太子こうたいしどころか親王しんのうですらなく、おうぎないかれ奉書ほうしょ形式けいしき命令めいれいしょは、本来ほんらい御教書みぎょうしょばねばならないが、身分みぶんおかしてこうしょうした。

原文げんぶんは『吾妻あづまきょう』やほんけい平家ひらか物語ものがたり』におさめられているが、令旨れいしとしての形式けいしき不備ふびがありかん宣旨せんじちかく、史料しりょうによって文言もんごん異同いどうがある。内容ないようみずからをみずのえさるらん天武天皇てんむてんのうになぞらえ、皇位こういをだまし平家へいけって皇位こういくべきことを宣言せんげんするものであった。

平家ひらか物語ものがたり』には、挙兵きょへいびかける諸国しょこく源氏げんじ列挙れっきょされている。みなもと光信みつのぶ美濃みのはじめ)、多田ただこうつな多田ただはじめ)、山本やまもと義経よしつね近江おうみはじめ)、武田たけだ信義のぶよし一条いちじょう忠頼ただより安田やすだよしじょう甲斐かいはじめ)、伊豆いずみなもと頼朝よりとも陸奥みちのく源義経みなもとのよしつねなどのがあるが、当時とうじ重要じゅうよう人物じんぶつ欠落けつらく錯誤さくごおおく、後世こうせい創作そうさくかんがえられている[6]。その一方いっぽうで、以仁王もちひとおう園城寺おんじょうじ退去たいきょ以後いごに1つう文書ぶんしょ作成さくせいしており、これが令旨れいしであった可能かのうせい指摘してきされている。これは『かんしょう』に以仁王もちひとおう滞在たいざいしているあいだに「みや宣旨せんじというもの」がされたというもので、『平家ひらか物語ものがたり』においては5月19にちみなもとこう伊勢神宮いせじんぐうおさめたとされる願文がんもんにも「さいかち親王しんのうみことのり」というものが登場とうじょうし、4がつ9にち令旨れいし類似るいじする部分ぶぶんもあるものの、5月15にち園城寺おんじょうじのがれたけんまで引用いんようされている。つまり、園城寺おんじょうじのがれた直後ちょくご作成さくせいされたもので、くだりが(4がつ9にち令旨れいしではなく)これにもとづいて活動かつどうしているというものである。せんしゃみなもとなかつな頼政よりまさ)になっており作成さくせい頼政よりまさらが合流ごうりゅうした22にち以後いごになるという矛盾むじゅんはあるものの、「さいかち親王しんのうせん」「一院いちいんだいさん親王しんのうせん」という命令めいれいしょされておう没後ぼつご流布るふしていたことが『たま』や『明月めいげつ』にも登場とうじょうすること(ただし、りょうしょとも以仁王もちひとおう生存せいぞんせつにかこつけた偽書ぎしょ推測すいそくしているが、両者りょうしゃとも実物じつぶつていない)から、4がつ9にち令旨れいし創作そうさくとしても、園城寺おんじょうじはいったのちに「以仁王もちひとおう令旨れいし」とばれるのに相応ふさわしい文書ぶんしょ作成さくせいされ、『吾妻あづまきょう』に先行せんこうして成立せいりつしたとみられる『平家ひらか物語ものがたり』がそれをモデルとした可能かのうせいかんがえられる[7]

この令旨れいし伝達でんたつする使者ししゃには、熊野くまのかくんでいたみなもとこう源為義みなもとのためよし末子まっし)が起用きようされた。くだりはちじょういん蔵人くろうどで、以仁王もちひとおうちか関係かんけいにあった。くだり令旨れいし日付ひづけおなじ4がつ9にちきょうち、諸国しょこくまわった。4月27にちには、山伏やまぶし姿すがたくだり伊豆いず北条ほうじょうかんおとずれ、みなもと頼朝よりとも令旨れいしつたえたという。

挙兵きょへい露見ろけん

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園城寺おんじょうじ

くだりは4がつから5がつにかけて東国とうごくまわったが、5がつはじめには計画けいかく露見ろけんした。『平家ひらか物語ものがたり』によると、密告みっこくしたのは熊野くまの別当べっとうたたえぞうである。令旨れいしによって熊野くまの勢力せいりょくふたつにれて争乱そうらん発展はってんしたため、たたえぞう平家へいけ以仁王もちひとおう謀反むほん注進ちゅうしんしたのである。

5月15にちたいら以仁王もちひとおう臣籍しんせき降下こうかさせ、「みなもと以光」とあらためたうえで、土佐とさこくへの配流はいる決定けっていした。検非違使けびいし別当べっとう平時忠たいらのときただは、300ひきいて以仁王もちひとおう三条さんじょう高倉たかくらていかった。このなか頼政よりまさ次男じなんけんつなくわわっていたことから、平家ひらか頼政よりまさ関与かんよ察知さっちしていなかったようである。

なかつなかららせをけた以仁王もちひとおうは、女装じょそうしてやしき脱出だっしゅつ御所ごしょでは長谷部はせべ信連しんれん検非違使けびいしたたかって時間じかんかせぎ、以仁王もちひとおう園城寺おんじょうじのがれた。

16にちたいら園城寺おんじょうじ以仁王もちひとおうわたしをもとめたが、園城寺おんじょうじ大衆たいしゅうはこれを拒否きょひした。以仁王もちひとおう興福寺こうふくじ延暦寺えんりゃくじにも協力きょうりょくびかけた。だい寺社じしゃ相手あいてではたいら容易よういにはせず、数日すうじつぎた。

21にち平頼盛たいらのよりもりきょうもりけいもり以上いじょう清盛きよもりおとうと)、もりじゅう以上いじょう清盛きよもり)、維盛もりきよしけい以上いじょう重盛しげもり)、そして源頼政みなもとのよりまさ大将たいしょうとする園城寺おんじょうじ攻撃こうげき編成へんせいさだめられた(『たまうけたまわ4ねん5がつ21じょう)。この時点じてんでもまだ頼政よりまさ関与かんよ露見ろけんしていなかったのである。

そのよる頼政よりまさ自邸じていき、50ひきいて園城寺おんじょうじはいり、以仁王もちひとおう合流ごうりゅうした。

はし合戦かっせん

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はし合戦かっせん歌川うたがわ貞秀さだひで
頼政よりまさ自刃じじんつたえられている平等院びょうどういん境内けいだいおうぎしば

23にち園城寺おんじょうじ衆議しゅうぎおこなわれ、ろく平家へいけ本拠ほんきょ夜討ようち提案ていあんされたが、平家へいけしんせるもの[8]議論ぎろん長引ながびかせ、夜討ようちえとなった。このあいだ平家へいけ調しらべりゃくおこない、延暦寺えんりゃくじ大衆たいしゅうくずした。園城寺おんじょうじ危険きけんになったため、25にちよる頼政よりまさ以仁王もちひとおうは1000ひきいて園城寺おんじょうじ脱出だっしゅつし、南都なんと興福寺こうふくじかった。

平家ひらか物語ものがたり』ではもりじゅう衡を大将たいしょうとするたいらは2まん8000でこれをったとするが、このかず誇張こちょうで、『たま』によれば、26にち平家へいけ家人かじんである藤原ふじわらけいだか飛騨ひだもりけい嫡男ちゃくなん)・どう忠綱ただつな先発せんぱつたいとして300ひきいて出動しゅつどうし、平等院びょうどういん頼政よりまさ以仁王もちひとおういて南都なんとりをはばんでいる。って大将軍だいしょうぐんとして平重衡たいらのしげひら平維盛たいらのこれもり宇治うじ派遣はけんされた。南都なんと防御ぼうぎょあいだあたえず直進ちょくしんしようといつのるじゅう衡・維盛にたいし、同行どうこうした維盛の乳母うばちち藤原ふじわら忠清ただきよは「わかひと軍陣ぐんじん子細しさいらず」と諫めて制止せいししている(『やまえんじゅ』5がつ26にちじょう)。頼政よりまさへいは、わずか50であったという。夜間やかん行軍こうぐんつかれた以仁王もちひとおう幾度いくど落馬らくばし、やむなく宇治橋うじばし橋板はしいたはずして宇治うじ平等院びょうどういん休息きゅうそくることになった。

26にち宇治川うじがわはさんでりょうぐん対峙たいじした。『平家ひらか物語ものがたり』のこの場面ばめんは「はし合戦かっせん」とばれる。頼政よりまさぐん宇治橋うじばし橋板はしいたとしてかまえ、かわはさんでのせんとなった。『平家ひらか物語ものがたり』には、頼政よりまさかた五智ごちいん但馬たじまきよしみょう明秀あきひでいちらい法師ほうしといった強力きょうりょく僧兵そうへいたちの奮戦ふんせんえがかれ、めあぐねた平家へいけ家人かじん藤原ふじわら忠清ただきよは、もり河内かわうちみちへの迂回うかい進言しんげんした。下野げやこく武士ぶし足利あしかがしゅんつな忠綱ただつな父子ふしはこれに反対はんたいし、「騎馬きば武者むしゃ馬筏うまいかだ堤防ていぼうつくれば渡河とか可能かのう」と主張しゅちょうした。17さい忠綱ただつな宇治川うじがわ急流きゅうりゅううまれると、坂東ばんどう武者むしゃ300がこれにつづいたという。渡河とかゆるしたため、頼政よりまさ宇治橋うじばしてて平等びょうどういんまで退しりぞき、以仁王もちひとおうにがそうと防戦ぼうせんした。頼政よりまさかた次第しだい人数にんずうり、けんつなたれ、なかつな重傷じゅうしょう自害じがいした。頼政よりまさはもはやこれまでと念仏ねんぶつをとなえ、渡辺わたなべ介錯かいしゃくはらった。なかつな嫡男ちゃくなんそうつな頼政よりまさ養子ようし仲家なかいえ木曽きそ義仲よしなか異母いぼけい)、そのなかひかりらも、相次あいついで戦死せんし自害じがいげた。

たま』(『うけたまわ4ねん5がつ26にちじょう』)によれば、先発せんぱつたい合流ごうりゅうした平家へいけぐん藤原ふじわらけいだか部隊ぶたい橋桁はしげたつたって攻撃こうげきをしかけ、藤原ふじわら忠清ただきよ部隊ぶたいかわ浅瀬あさせからうまれて宇治川うじがわわたった。平等院びょうどういん頼政よりまさぐん戦闘せんとうとなり、みなもとかた少数しょうすうへいかえりみず奮戦ふんせんし、とく頼政よりまさ養子ようしけんつなたたかいぶりは、あたかも八幡やはた太郎たろうのようであったという。

以仁王もちひとおうは30まもられてかろうじて平等院びょうどういんから脱出だっしゅつしたが、藤原ふじわらけいだか軍勢ぐんぜいいつかれ、山城やましろこく相楽さがらぐん光明山こうみょうさん鳥居とりいまえで、てきたって落馬らくばしたところをられた(『吾妻あづまきょう』)。

いん御所ごしょ議定ぎてい

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27にちいん御所ごしょ議定ぎていひらかれ、謀反むほんこした園城寺おんじょうじ興福寺こうふくじたいする措置そち議論ぎろんされた(『たま』『やまえんじゅ同日どうじつじょう)。議定ぎていはじまるまえそうもりただし藤原ふじわらたかし藤原ふじわらくにつなあつまり、高倉たかくら上皇じょうこう御前ごぜんで「内議ないぎ」をおこなっている。

議定ぎていにおいてみなもととおるおやりゅうは「園城寺おんじょうじ衆徒しゅと退散たいさんしたので張本人ちょうほんにんらえるだけでい。しかし、興福寺こうふくじ謀反むほん同意どういしたつみかるくない。すみやかに官軍かんぐん派遣はけんして攻撃こうげきし、末寺まつじ荘園しょうえん没収ぼっしゅうするべきである」と主張しゅちょうした。その公卿くぎょうは「張本人ちょうほんにんすように要求ようきゅうして、拒否きょひされてから官軍かんぐん派遣はけんするべきだ」と慎重しんちょうろんとなえ、右大臣うだいじんけん左大臣さだいじんけいむねもこれに同意どういした。

けいむねひだりしょうべん藤原ふじわらこうたかしんで、高倉たかくら上皇じょうこう議定ぎてい意見いけん奏聞そうもんしようとしたところ、りゅうは「興福寺こうふくじ別当べっとうけん別当べっとう衆徒しゅと制止せいしできないとっているのに、どうして使者ししゃ派遣はけんする必要ひつようがあるのか。どのみちとおってだれ下達かたつするつもりなのか」と抗弁こうべんした。けんが「いちむね磨滅まめつしてなんえきがあるのか」と反論はんろんしたため、りゅう不快ふかいいろせた。その奏聞そうもんからもどってきたくだりたかし以仁王もちひとおう誅伐ちゅうばつ情報じょうほうつたえたため、興福寺こうふくじ即時そくじ追討ついとうろん退しりぞけられた。

けんじつは、りゅうつうおやさるじょうを「権門けんもん清盛きよもり)の素意そいさっし、朝家ちょうかきょがいらず」とはげしく非難ひなんしている。

なお、28にち高倉たかくら上皇じょうこうひそかに清盛きよもりてい梟首きょうしゅされていた以仁王もちひとおう源頼政みなもとのよりまさ首級しゅきゅうき(『百錬ひゃくれんしょう』)、皇位こうい退しりぞいたとは太上天皇だじょうてんのうけがれである首級しゅきゅう行為こうい当時とうじ貴族きぞくあいだ批判ひはん対象たいしょうとなっていたことを後日ごじつになってたかし藤原ふじわらけいぼうかたっている(『きち養和ようわ元年がんねん8がつ20日はつかじょう[9]

戦後せんご

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そのしばらくのあいだ以仁王もちひとおう生存せいぞんせつうわさされ、またそれがはん平家へいけ運動うんどう利用りようされた。園城寺おんじょうじ興福寺こうふくじふたた平家へいけへの反抗はんこううごきをせ、その結果けっか12がつ11にち堂塔どうとうなどの宗教しゅうきょうてき要素ようそ部分ぶぶんにはれないことを条件じょうけんとして日本にっぽん史上しじょう最初さいしょ仏教ぶっきょう寺院じいんへの本格ほんかくてき武力ぶりょく行使こうしとなる園城寺おんじょうじ攻撃こうげきおこなわれた。たいら中心ちゅうしんとした官軍かんぐん攻撃こうげき慎重しんちょうし、金堂こんどううつったさいには戦闘せんとう中断ちゅうだんして鎮火ちんかつとめたという(『たま』・『やまえんじゅ』12月12にちじょう。なお、『ひゃくねりしょう』・『平家ひらか物語ものがたり』・『吾妻あづまきょう』は大半たいはんあるいは全域ぜんいき炎上えんじょうしたとするが、日記にっきなどのどう時代じだい史料しりょうにこうした記述きじゅつはない)。だが、12月28にち平重衡たいらのしげひららのへいによって興福寺こうふくじほか南都なんと寺院じいんちにあっている(ただし、これは連絡れんらくミスによる失火しっかかんがえられている(南都なんと焼討やきうち))。

以仁王もちひとおう頼政よりまさ挙兵きょへい短期間たんきかん失敗しっぱいしたが、その影響えいきょうおおきく、以仁王もちひとおう令旨れいしほうじたみなもと頼朝よりとも源義仲みなもとのよしなか甲斐かいはじめ近江おうみはじめなどが各地かくち蜂起ほうきし、うけたまわ寿ことぶきひさしらんまくけることになる。

はちじょういん御所ごしょにいた以仁王もちひとおう子供こどもたちは、平頼盛たいらのよりもり連行れんこうして出家しゅっけさせた。そのうちの一人ひとり北陸ほくりくのがれて源義仲みなもとのよしなかたすけられる。義仲よしなかはその皇子おうじを「北陸ほくりくみや」と名付なづけて、上洛じょうらくにこれをててたいらとともに西にしそうした安徳天皇あんとくてんのうわって皇位こういけようと画策かくさくするが、かつて以仁王もちひとおう勝手かって親王しんのうしょうして令旨れいし発行はっこうしたことを不快ふかいおもっていたのち白河しらかわ法皇ほうおうによって退しりぞけられたという。

以仁王もちひとおう死後しご頼朝よりともみずからの関東かんとう支配しはい大義名分たいぎめいぶんとして以仁王もちひとおうの「令旨れいし」をかかげ、寿ことぶきひさし改元かいげんうけたまわ年号ねんごう文書ぶんしょ発給はっきゅうしている。しかし、寿ことぶきひさし2ねん1183ねん白河しらかわ法皇ほうおうから『寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじ』によって実質じっしつじょう関東かんとう支配しはい公認こうにんされると、以仁王もちひとおう令旨れいし」は効力こうりょくうしない、頼朝よりとも寿ことぶき永年えいねんごう使用しようするようになる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 河内かわうちさち輔『日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』p124-150
  2. ^ 竹内たけうちさん日本にっぽん歴史れきし6 武士ぶし登場とうじょう』p454。多賀たがはじめはやぶさ人物じんぶつ叢書そうしょ 源頼政みなもとのよりまさ』p131-133
  3. ^ うえ横手よこてまさたかし平家ひらか物語ものがたり虚構きょこう真実しんじつ講談社こうだんしゃ、1973ねん上杉うえすぎ和彦かずひこ戦争せんそう日本にっぽん6 源平げんぺい争乱そうらん』p24-25
  4. ^ せき幸彦さちひこ合戦かっせん地図ちず源平げんぺい争乱そうらん』p44。上杉うえすぎ和彦かずひこ戦争せんそう日本にっぽん6 源平げんぺい争乱そうらん』p24-25
  5. ^ 河内かわうちさち輔『日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』p189-198・204-207
  6. ^ 上杉うえすぎ和彦かずひこ戦争せんそう日本にっぽん6 源平げんぺい争乱そうらん』p27-28
  7. ^ 河内かわうちさち輔『日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』p195-198
  8. ^ 河内かわうちさち輔は園城寺おんじょうじアジールとしての立場たちばから以仁王もちひとおう個人こじんかくまいこれに賛同さんどうしたとする立場たちばから、みなもと頼政よりまさおよ武士ぶし集団しゅうだん寝返ねがえりがかえって大衆たいしゅう分裂ぶんれつさせたとするせつる。河内かわうちさち輔『日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』p207-208
  9. ^ 戸川とがわてん軍記物語ぐんきものがたり死刑しけい梟首きょうしゅ」(初出しょしゅつ:『歴史れきし評論ひょうろん』637ごう(2003ねん)/所収しょしゅう:戸川とがわ平安へいあん時代じだい政治せいじ秩序ちつじょ』(どうなりしゃ、2018ねん)) 2018ねん、P98-100.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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