(Translated by https://www.hiragana.jp/)
養和の北陸出兵 - Wikipedia コンテンツにスキップ

養和ようわ北陸ほくりく出兵しゅっぺい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
養和ようわ北陸ほくりく出兵しゅっぺい
戦争せんそううけたまわ寿ことぶきひさしらん
年月日ねんがっぴ養和ようわ元年がんねん1181ねん)7がつから11がつまで
場所ばしょ加賀かがこく能登のとこく越前えちぜんこく北陸ほくりく地方ちほう
結果けっかたいら撤退てったいにより膠着こうちゃく
交戦こうせん勢力せいりょく
たいら 北陸ほくりく豪族ごうぞく
衆徒しゅと神人しんじん
指導しどうしゃ指揮しきかん
平通ひらどおりもり
平経正たいらのつねまさ
越前えちぜん加賀かが国人くにびと
損害そんがい
つうもりろうしたがえ80めい 不明ふめい
うけたまわ寿ことぶきひさしらん

養和ようわ北陸ほくりく出兵しゅっぺい(ようわのほくりくしゅっぺい)とは、養和ようわ元年がんねん1181ねん)7がつごろから活発かっぱつした北陸ほくりく反乱はんらん勢力せいりょくたいする平家ひらか追討ついとう活動かつどうのことである(養和ようわ元年がんねん11がつまで)。

経過けいか

[編集へんしゅう]

うけたまわ5ねん1181ねん)6がつ横田よこた河原かわはらたたかにおいて源義仲みなもとのよしなか平家へいけかた越後えちごゆうしろしょくやぶると、その直後ちょくごから加賀かが能登のと若狭わかさ北陸ほくりく豪族ごうぞくたち反乱はんらん活動かつどう開始かいしする。うけたまわ寿ことぶきひさしらん以前いぜんから北陸ほくりく各地かくちでは、延暦寺えんりゃくじ末寺まつじである白山しろやま神社じんじゃ衆徒しゅと神人しんじんたちと国衙こくが勢力せいりょくとのあいだ対立たいりつられており(白山はくさん事件じけん)、国衙こくがかたされる平家へいけには以前いぜんから在地ざいち反感はんかん土壌どじょうがあった[1]。また、うけたまわ4ねん11月の近江おうみはじめ蜂起ほうき若狭わかさ国人くにびと同意どういするうごきがあるなどの反乱はんらん萌芽ほうががみられていた。

養和ようわ元年がんねん1181ねん)7がつ後半こうはんごろ加賀かが能登のと反乱はんらんうごきがこり、それは越前えちぜんへと波及はきゅうした。これにたいして平家ひらかしろしょく越後えちごもりにんじる。ついで、8がつ平通ひらどおりもり平経正たいらのつねまさ追討ついとう使として北陸ほくりく出陣しゅつじんする(『きち』)。つうもり越前えちぜんこく国府こくふはいるが、越前えちぜん加賀かが住人じゅうにんしたがわず、9月6にち水津すいつにて反乱はんらん勢力せいりょくつうもりとのあいだ戦闘せんとうおこなわれ、やぶれたつうもり越前えちぜん国府こくふわれて敦賀つるがじょう退却たいきゃくすることになる。

さらにつうもり敦賀つるがじょうをもわれる。このとき若狭わかさ平経正たいらのつねまさ滞在たいざいしていたがけいせい援軍えんぐんはなかった。

10月には北陸ほくりく援兵えんぺい計画けいかくられるが実際じっさいには援軍えんぐん派遣はけんされなかった(『たま』)。

11月2にち平通ひらどおりもり北陸ほくりく遠征えんせいなん実績じっせきげることもできずに帰京ききょうする(『きち』)。その平家へいけによって北陸ほくりくへの遠征えんせい計画けいかくがされるが大嘗祭だいじょうさい準備じゅんび名目めいもくよく養和ようわ2ねん1182ねん)の出兵しゅっぺい見送みおくられ、寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)にだい遠征えんせい開始かいしされるまで北陸ほくりく出兵しゅっぺい見送みおくられることになる。

当時とうじ東海道とうかいどう東山ひがしやまみち反乱はんらん勢力せいりょく制圧せいあつされていたが、北陸ほくりく平家へいけ兵糧ひょうろう補給ほきゅうとして大切たいせつ地域ちいきとの認識にんしきがあり、鎮西ちんぜいならんで平家へいけ反乱はんらん早急そうきゅう鎮圧ちんあつしなければならない地域ちいきであった。そのため、北陸ほくりくへの出兵しゅっぺいさい重要じゅうようされていた[2]

なお、後年こうねん編纂へんさんぶつである『吾妻あづまきょう』などには一連いちれん北陸ほくりく出兵しゅっぺいが「義仲よしなか討伐とうばつため」としるされているが、当時とうじ記録きろくには、『たま寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)5がつ16にちじょうまで義仲よしなか名前なまえ記載きさいされていない。この養和ようわ出兵しゅっぺいならびに寿ことぶきひさし出兵しゅっぺい義仲よしなか討伐とうばつという名目めいもくではなくあくまでも北陸ほくりく反乱はんらん勢力せいりょく討伐とうばつであり、北陸ほくりく反乱はんらんしょ勢力せいりょく養和ようわ出兵しゅっぺいころから義仲よしなか配下はいかにいたわけではないのである[3]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 菱沼ひしぬま一憲かずのり源義経みなもとのよしつね合戦かっせん戦略せんりゃく
  2. ^ 宮田みやた敬三けいぞうじゅう世紀せいきまつ内乱ないらん軍制ぐんせい ーへい粮米問題もんだい中心ちゅうしんとして」
  3. ^ 上杉うえすぎ和彦かずひこ戦争せんそう日本にっぽん 6 源平げんぺい争乱そうらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 上杉うえすぎ和彦かずひこ 『戦争せんそう日本にっぽん 6 源平げんぺい争乱そうらん』 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねん
  • 菱沼ひしぬま一憲かずのり 『源義経みなもとのよしつね合戦かっせん戦略せんりゃく その伝説でんせつ虚像きょぞう』 角川かどかわ選書せんしょ、2005ねん
  • 宮田みやた敬三けいぞうじゅう世紀せいきまつ内乱ないらん軍制ぐんせい ーへい粮米問題もんだい中心ちゅうしんとして」(『日本にっぽん研究けんきゅう』501ごう