(Translated by https://www.hiragana.jp/)
結城浜の戦い - Wikipedia コンテンツにスキップ

結城ゆうきはまたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
結城ゆうきはまたたか
戦争せんそううけたまわ寿ことぶきひさしらん
年月日ねんがっぴうけたまわ4ねん9月4にち1180ねん9月24にち
場所ばしょ下総しもうさこく結城ゆうきはま千葉ちばけん千葉ちば中央ちゅうおう
結果けっかみなもとかた勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
みなもと 藤原ふじわら
指導しどうしゃ指揮しきかん
千葉ちばしげるたね
千葉ちば常胤つねたね
藤原ふじわらちかしただしせい
うけたまわ寿ことぶきひさしらん

結城ゆうきはまたたか(ゆうきはまのたたかい)は、うけたまわ4ねん9月4にち1180ねん9月24にち)に下総しもうさこくであったとされる合戦かっせんであるが、『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』にある説話せつわである。千葉ちば常胤つねたね一族いちぞく千田せんだそう領家りょうけ藤原ふじわらちかしただしせいあいだ合戦かっせんで、千葉ちば千田せんだ合戦かっせんともばれる。

背景はいけい

[編集へんしゅう]

千葉ちば千葉ちばつねじゅうは、たいら常晴つねはるから相馬そうまぐんゆずられて相馬そうま郡司ぐんじとなり、大治おおはる5ねん1130ねん6月11にち伊勢神宮いせじんぐう寄進きしん相馬そうま御厨みくりや成立せいりつする。しかし、のべ2ねん1136ねん)には、かんぶつすすむ理由りゆう下総しもうさまもる藤原ふじわらちかしどおりげられ、さら康治こうじ2ねん1143ねん)には源義朝みなもとのよしとも介入かいにゅうがあり、えいれき2ねん1161ねん)には、藤原ふじわらちかしどおりしんもりから入手にゅうしゅした新券しんけん理由りゆう佐竹さたけ義宗よしむねうばられるなど、従来じゅうらいからの下総しもうさ在地ざいち豪族ごうぞくだった千葉ちばと、ためこうながれ藤原ふじわら佐竹さたけとの相馬そうまくりやたちばなそうなどの荘園しょうえんめぐ軋轢あつれきうまれていた。

そして、おやもり親政しんせいは、千田せんだそうりょうとして下総しもうさ匝瑳そうさぐん進出しんしゅつりょうそう常陸ひたち武士ぶしだんひきいていた。親政しんせいは、千田せんだそう本家ほんけであるすめらぎ嘉門かもんいん判官ほうがんだいでもあり、本家ほんけ勿論もちろんりょう中央ちゅうおうるのが通例つうれいにもかかわらず、すめらぎ嘉門かもんいんとそれにつらなる摂関せっかん威光いこう背景はいけいにした下総しもうさ進出しんしゅつであった。また、親政しんせいたいら政権せいけんきずいた伊勢いせたいらとは、忠盛ただもり婿むこでありかつもり伯父おじというじゅう姻戚いんせき関係かんけいにあった。このため、下総しもうさにおける千葉ちば立場たちばは、うけたまわころには危機ききてき状況じょうきょうまれていた。石橋いしばしさんたたかやぶ安房あわこくのがれたみなもと頼朝よりとも加担かたんしたのは、こうした状況じょうきょう打破だはするための千葉ちば常胤つねたね起死回生きしかいせいけだったともされる。

経過けいか

[編集へんしゅう]

うけたまわ4ねん(1180ねん)にはじまるうけたまわ寿ことぶきひさしらんなかで、以仁王もちひとおう挙兵きょへいつづき、みなもと頼朝よりとも同年どうねん8がつ23にち伊豆いずこく挙兵きょへいした。緒戦しょせん石橋いしばしさんたたかにおいて敗北はいぼくきっした頼朝よりともは、真鶴まなづるから海路かいろ安房あわこくのがれ、上総かずさこくから下総しもうさこくむかう。そして下総しもふさこく千葉ちば常胤つねたねまごなりたねが、平家ひらか総帥そうすい清盛きよもりあね婿むこ藤原ふじわら親政しんせいやぶるという快挙かいきょげ、坂東ばんどう武士ぶしだんがこぞって頼朝よりともぐん合流ごうりゅう関東かんとうにおける頼朝よりとも軍事ぐんじりょく平家へいけかた勢力せいりょくおおきく上回うわまわり、一転いってんして武蔵むさしこくから鎌倉かまくら目指めざした。

このあいだ顛末てんまつについて『吾妻あづまきょう』は、頼朝よりともしょ豪族ごうぞく動向どうこう逐一ちくいち日毎ひごと記述きじゅつし、親政しんせいとの合戦かっせん前日ぜんじつうけたまわ4ねん9がつ13にちじょうで、上総かずさ広常ひろつね遅参ちさんと、千葉ちば常胤つねたね一族いちぞく頼朝よりともぐんへのさんじんおよびそれに先立さきだ下総しもうさ目代もくだい殺害さつがいいてれ、

安房あわこくて、上総かずさこくおもむかしめたまう。ところしたがえ精兵せいびょうさんひゃくおよぶ。しかるに廣常ひろつねぐんとうを聚めるのあいだなお遅参ちさんすと。今日きょう千葉ちばかい常胤つねたね子息しそく親類しんるいあいし、みなもとまいらんとほっす。爰にひがし六郎大夫胤頼父にだんりてうんく、とうくに目代もくだい平家へいけほうにんなり。われとういちぞくことごとさかいみなもとまいらば、さだめてきょうがいを插むべし。ずこれをちゅうすべきかと。常胤つねたねはやむか追討ついとうこれむね下知げじう。仍てたねよりゆき并びにおい小太郎こたろうなりたねろうしたがえとうあいかれところきそおそう。目代もくだいもとゆうぜいものなり。かずじゅうもとりのやからをして防戰ぼうせんせしむ。とき北風きたかぜしきりにあおぐのあいだなりたねぼくしたがえとうたてうしろまわらせて放火ほうかせしむ。家屋かおく燒亡しょうぼうし、目代もくだい火難かなんのがれんがためすで防戰ぼうせんを忘る。かんたねたよくびたり。」

とし、合戦かっせん当日とうじつうけたまわ4ねん9がつ14にちじょうは、

下総しもふさこく千田庄領家判官代親政は、刑部おさかべきょう忠盛ただもり朝臣あそんむこなり。ひら相国しょうこくぜんごうこころざしつうずるのあいだ目代もくだいちゅうせらるのよしき、軍兵ぐんびょうひきつねたねおそわんとほっす。これって、常胤つねたね孫子まごこ小太郎こたろうなりたねしょうたたかう。つい親政しんせいなまとりこり訖んぬ。」

しるすのみで、戦場せんじょうがどこかの指摘してきはなく、その千葉ちば常胤つねたね一族いちぞく頼朝よりとも9月17にち下総しもうさ国府こくふはじめて対面たいめんし、そのさいなりたねなまとりこにした藤原ふじわら親政しんせい囚人しゅうじんとしてされている。

ところが、『平家ひらか物語ものがたり』の異本いほんである『源平げんぺい闘諍とうじょうろくだい5かん 1,2,3だんには、これとはまった矛盾むじゅんする説話せつわ収録しゅうろくされている。頼朝よりともうけたまわ4ねん9がつ4にち安房あわこくち、結城ゆうきはま藤原ふじわらちかしただしせい)をやぶって、よく9月5にち下総しもうさ国府こくふはいり、その9月12にち武蔵むさしこくむかった、とするものである。以下いか源平げんぺい闘諍とうじょうろく』にある「結城ゆうきはまたたかい」ついてしるす。

結城ゆうきはまたたか

[編集へんしゅう]
だいかんいちだん
  • 兵衛ひょうえ坂東ばんどういきおいもよおこと

うけたまわ4ねん9がつ4にちみぎ兵衛ひょうえ頼朝よりとも白旗はっきしてせんへいひき上総かずさから下総しもうさかい、千葉ちば常胤つねたねおよ上総かずさ広常ひろつね軍勢ぐんぜいがこれをむかえる[1]。ここで、上総かずさ下総しもうさだい部隊ぶたいひきいた広常ひろつね先陣せんじんのぞむが、常胤つねたねがこれを阻止そしまごなどのさんひゃくひきいて先陣せんじんをつとめた。

ここに、上総かずさ広常ひろつね[2]ひきいる武士ぶしだんは、臼井うすい四郎しろうなりつね五郎ごろう久常ひさつね相馬そうま九郎くろうつねきよし[3]天羽あもう庄司しょうじしげるつね金田かねだ小太郎こたろうかんつねしょう権守ごんもりつねあきら[4]匝瑳そうさ次郎じろうじょつね長南ちょうなん太郎たろうじゅうつねしるし東別とうべつとうたねつねよんろうつねきた庄司しょうじつねなか次郎じろう常明つねあき太夫たゆう太郎たろう常信つねのぶ小太夫こだゆうつね佐是さぜよんろう禅師ぜんじとうはじめとするいちせんとされる。また、常胤つねたねしたがったのは、しんかいたねしょう[5]次男じなんつね以下いか田辺たなべよんろうたねしん[6]国分こくぶ五郎ごろう胤通たねみち[7]六郎ろくろうたねよりゆきまごさかい平次へいじつねしゅう武石たけいし次郎じろうたねおも[8]のうこう禅師ぜんじとうはじめとするさんひゃくとされる[9]

だいかんだん
  • 曾利の冠者かんじゃ千田せんだ判官ほうがんだいおやせい合戦かっせんすること

頼朝よりともむかえるため常胤つねたね上総かずさかった留守るすに、平家へいけかたじん千田せんだ判官ほうがんだい藤原ふじわらおやただし[10]みぎ兵衛ひょうえ謀叛ぼうほんいて、「われとうくにりながら、頼朝よりともずしてはうに甲斐かいし。京都きょうときこえもおそり。且うははじなり」とて、赤旗あかはたして白馬はくばって、匝瑳そうさ北条ほうじょう内山うちやまかん[11]より、みぎ兵衛ひょうえほうむかおうとした[12]鴨根かもねつねぼうまごはら十郎じゅうろう太夫たゆうつねつぎ、その子平しへいつねあさおなじく五郎太ごろたおっとせいつね六郎ろくろう常直じょうちょくしたがえちち金原かなはら庄司しょうじつねのう、その五郎ごろうもりつねあわ飯原いいはらほそ五郎ごろうつね、そのけんふとしもとつねおなじく次郎じろうあきらつねとうはじめとするいちせん軍勢ぐんぜいひきい、たけしゃ横路よこみち[13]え、白井しらい馬渡まわたりはし[14]わたって千葉ちば結城ゆうきおそう。

そのとき常胤つねたねまご曾利冠者かんじゃなりたね[15]は、養子ようしであったがため父祖ふそとともに上総かずさへはむかわず、千葉ちばとどまって祖母そぼ葬送そうそうにあたっていた[16]おやせい襲撃しゅうげきらせをいたなりたねは「父祖ふそあいつべけれども、てきまえださずは、ながらひとず。あに勇士ゆうしみちらんや」とななひきしんせいぐんかい、「柏原かしわばら天皇てんのうきさきたねひら親王しんのう将門まさかどじゅうだい末葉まつよう千葉ちば小太郎こたろうなりたね生年せいねんじゅうななさいまかる」[17]名乗なのりをあげ、四角よつかどはちぽうやぶ活躍かつやくせるが、多勢たぜい無勢ぶぜい両国りょうこくさかいかわ[18]いつめられる。するとそこへ僮姿の童子どうじあらわれ、てき空中くうちゅうなりたねぜいにはたらない。やがて頼朝よりともむかえた上総かずさ広常ひろつねつねたね軍勢ぐんぜい戦場せんじょうく。

りょうぐんみだれての戦闘せんとうのなか、はら六郎ろくろう常直じょうちょくうま天羽あもう庄司しょうじしげるつねによってたおされ、はら平次へいじつねあさ五郎太ごろたおっときよしつねが、手負ておいの六郎ろくろう常直じょうちょくけようとするがかなわず、またあわ飯原いいはらけんふとしもとつね戦死せんしし、おやせい形勢けいせい不利ふりとなり千田せんだそう次浦つぎうらかん[19]退しりぞいた。

だいかんさんだん
  • 妙見みょうけんだい菩薩ぼさつ本地ほんじこと

北条ほうじょう四郎しろう[20]はじめとして、人々ひとびと詮議せんぎすえ大庭おおば三郎さぶろう景親かげちか畠山はたけやま次郎じろう重忠しげただつことのほう大切たいせつとされ、千田せんだそう次浦つぎうらかん退しりぞいたおやせいについては小者こものとし追討ついとうはしないことになった[21]

そして、詮議せんぎを「もっとしかるべし」とし、みぎ兵衛ひょうえおおせるには「さむらいどもうけたまわるべし。今度こんど千葉ちば小太郎こたろうなりたねはつぐんさきけつることがたし、頼朝よりともわか日本にっぽんこくずいえたならば、千葉ちばにはきたみなみを以って妙見みょうけんだい菩薩ぼさつ寄進きしんたてまつるべし[22]そもそも妙見みょうけんだい菩薩ぼさつは、うんなににして千葉ちば崇敬すうけいせられたまいけるにや。またほんからだなん仏菩薩ぶつぼさつにて御座ぎょざしけるにや」と。

それにこたえて、常胤つねたねもうげた[23]

「此の妙見みょうけんだい菩薩ぼさつもうすは、うけたまわひら5ねん8がつ上旬じょうじゅんのころ、相馬そうま小次郎こじろう将門まさかど上総かずさ介良けらけん伯父おじおい不快ふかいあいだ常陸ひたちにおいて合戦かっせんくわだてつるほどに、良兼りょうけん多勢たせすすむもん無勢ぶぜいなり。かいこ飼河のほとりいつめられて、はしせんおもねぎらところ小童こわっぱたりて『わたさん』とぐ。将門まさかどはこれをいてかいこ飼河をわたり、かわへだててたたかほど矢種やだねきかけるときかれわらわちたるひろりて将門まさかどあたこれけり。将門まさかどつかれにおよとき将門まさかどゆみってじゅうを矯げててきるに、ひとつもそらかりけり。これをけん只事ただごとず。てんはからいなり』とおもいながらかれところ退しりぞく。

勝利しょうり将門まさかどが『そもそもくんなになるひとにてすぞや』とわらわうと、こたえてうんわく『われ妙見みょうけんだい菩薩ぼさつなり。なんじまさしくなおつよしなるがゆえなんじまもらんため来臨らいりんするところなり。われ上野うえの花園はなぞのというてらり。なんじわかこころざしらばすみやかにむかえるべし。われじゅう一面観いちめんかんおん垂迹すいじゃくにして、ほしなかには北辰ほくしん三光さんこう天子てんし後身こうしんなり。なんじ東北とうほくかくかいて、名号みょうごううたうべし。自今じこん以後いご将門まさかど旗印はたじるしにはせん九曜くようはたいまにはつきぼしごうするなり)をすべし』といながら何処どこともなくえた。

仍て将門まさかど使者ししゃ花園はなぞのつかわしてこれをむかまつり、信心しんじんをして崇敬すうけいした。しかしその年間ねんかんのうちにひがしはちヶ国かこくずいえ、下総しもうさ相馬そうまぐんきょう将門まさかど親王しんのうごうする。しかりながらも、神慮しんりょおそれずあさにもはばからずふつしん田地でんちうばりぬ。ゆえ妙見みょうけんだい菩薩ぼさつ将門まさかどいえでて村岡むらおか五郎ごろう良文よしふみもとわたりたまいぬ。おい将門まさかど養子ようしるにつて、流石さすが他門たもんにはかず、わたられたまいししょなり。

将門まさかど妙見みょうけんてられ、てんけい3ねん正月しょうがつ22にち天台座主てんだいざしゅほうせいぼうみことよこかわにおいてだい威徳いとくほうおこないて、将門まさかど親王しんのう調伏ちょうぶくせしむるに、べにほうせいぼうおこなところ壇上だんじょうはしながれにけり。爰にみこといそぎ悉地成就じょうじゅよし奏上そうじょうせしかば、すなわ法務ほうむ大僧正だいそうじょうされにけり。

しか妙見みょうけんだい菩薩ぼさつは、良文よしふみより忠頼ただよりわたりたまい、嫡々ちゃくちゃく相伝そうでんつねたねいたりてはななだいとなり」と。

みぎ兵衛ひょうえこれをいて「じつ目出度めでたたくおぼそうろう。しからば、いささか頼朝よりとももとへもわたたてまつらんとおもう。いかがるべきや」

つねたねこたえるには「此の妙見みょうけんだい菩薩ぼさつふつしんにもず、てんあきら大神だいじん三種さんしゅ神器じんぎ国王こくおうおなじくたまいてこそ代々だいだい御門みかどまもりたまうがごとし。此の妙見みょうけんだい菩薩ぼさつも、将門まさかど以来いらい嫡々ちゃくちゃく相伝そうでんわり、寝殿しんでんうち安置あんちまつりていま別家べっけうつたてまつらず。もの恠しき不祥ふしょうきたらんときは、宮殿きゅうでんうち騒動そうどうしてことしめし、示現じげんして氏子うじこまも霊神れいじんなり。一族いちぞくりといえどもほんからだなが末子まっしもとへはわたられず。なにきょう他人たにんにおいてをや。かいずる常胤つねたねくん御方おかたまいこうつてつかえたるを、ひとえ妙見みょうけんだい菩薩ぼさつわたるとおもえしょくさるべくそうろう」ともうした。みぎ兵衛ひょうえあたまかたむけて渇仰かつごういたしたまいしかば、さむらいたちはけんおもいであった。

解説かいせつ

[編集へんしゅう]

だい5かん 1,2,3だんは、てき空中くうちゅうめ、いつめられたなりたねたすけた僮姿の童子どうじ妙見みょうけん菩薩ぼさつであり、良文よしふみ将門まさかど養子ようしとし、良兼りょうけんいつめられた将門まさかどたすけた妙見みょうけん菩薩ぼさつが、その子孫しそんである千葉ちば加護かごし、頼朝よりともまもったものだとする千葉ちば独自どくじ妙見みょうけん信仰しんこうがここにみられ、『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』の『平家ひらか物語ものがたり』や異本いほんとのちがいの根幹こんかん部分ぶぶんである。

この妙見みょうけん信仰しんこうふるくからつたわる房総ぼうそうたいら共通きょうつう伝承でんしょうではなく、千葉ちば嫡流ちゃくりゅう信仰しんこうした千葉ちば妙見みょうけんしゃ独自どくじのものであることから、たからおさむ合戦かっせんなりたねおいしゅうたねたれおさな当主とうしゅかか危機ききおちいった千葉ちばが、なりたね子孫しそん千葉ちばかいいえ中心ちゅうしん一族いちぞくさい結集けっしゅうはかることを目的もくてきとして述作じゅっさくされた説話せつわであるとし、よりゆきたね叔父おじでありしゅうとである千田せんだやすしたね関与かんよ想定そうていするかんがえもある。14世紀せいき初頭しょとう成立せいりつしたとされる『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』は、この説話せつわかくに、千葉ちば将門まさかど養子ようしである良文よしふみ子孫しそんとし、その正当せいとうせい主張しゅちょうするためかれたものとされている。

あきらかな虚構きょこうられ史実しじつ反映はんえいしたものとはがたいが、たとえば藤原ふじわらちかしただしせい)・千葉ちば常胤つねたね上総かずさ広常ひろつねひきいられた軍勢ぐんぜいせており、『吾妻あづまきょう』が広常ひろつね軍勢ぐんぜいを2まんとするなど誇張こちょういちじるしいこともあって、歴史れきし史料しりょうとして検討けんとうする価値かち充分じゅうぶんある。

吾妻あづまきょう』は、りょうとう上陸じょうりくながせまつねとも襲撃しゅうげき退しりぞけ、洲崎すざき神社じんじゃ参拝さんぱいまる御厨みくりや巡検じゅんけんしてからのちのことはなにつたえておらず、下総しもうさ国府こくふ千葉ちば常胤つねたね一族いちぞく対面たいめんするまでの頼朝よりともしょ勢力せいりょく動向どうこうについては不明ふめいなことがおおいのが実情じつじょうである。『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』このくだりは、『吾妻あづまきょう』の欠落けつらく部分ぶぶんおぎなうものとして貴重きちょうであり、たとえば山本やまもと隆志たかしは、藤原ふじわらちかしただしせい)は当初とうしょ頼朝よりともがいる上総かずさ方面ほうめんかおうとしたものの、亥鼻いのはなじょうなら千葉ちば拠点きょてんであった大椎おおじじょう千葉ちばみどり)を千葉ちば頼朝よりとも陣営じんえいおさえられており、上総かずさへの直接ちょくせつ南下なんか困難こんなんになったために千葉ちば方面ほうめん進路しんろえたとし、分析ぶんせき一助いちじょとしている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 吾妻あづまきょう』が、9月4にち参上さんじょうしたのは安西あんざいけいえきのみであり広常ひろつねところへはくべきではないとしているのにたいし、『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』では、広常ひろつね当初とうしょよりまいりじんしていたようになっている。また、このあいだ頼朝よりとも行動こうどうしょ豪族ごうぞく動向どうこうについてはまったれておらず、それ以前いぜん石橋いしばしさんたたかいについての記述きじゅつもない。
  2. ^ 吾妻あづまきょう』の広常ひろつねぞうには曲筆きょくひつこんじるとされるので、『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』の記述きじゅつ貴重きちょうである。
  3. ^ のち千葉ちば常胤つねたね次男じなんつね相馬そうま御厨みくりやりょうし、その相馬そうまとなるが、この時点じてんでは平常へいじょうきよしつねきよし相馬そうま名乗なのっている。
  4. ^ しょうけんかいあやまりで、つねあらわ上総かずさ広常ひろつね
  5. ^ 常胤つねたね嫡男ちゃくなんで「たねせい」とも。しんかいとあるので下総しもうさけんかい地位ちいゆずられ、このときすでに千葉ちば当主とうしゅであったものとかんがえられる。
  6. ^ のちたねしんは、現在げんざい成田なりたきゅう大須賀おおすかむら付近ふきんりょう大須賀おおすがとされることになるが、ここでは千葉ちば荘内そうないいちむらきょうである田辺たなべ田部田たべた)を名乗なのっている。
  7. ^ 国分こくぶ現在げんざい市川いちかわ国分こくぶで、たねどおりのみ千葉ちばそう以外いがい地名ちめい名乗なのっている。下総しもうさ国府こくふちかい「国分こくぶ」に下総しもうさけんかいとしての千葉ちば屋敷やしきがあったという想定そうてい可能かのうである。
  8. ^ 常胤つねたね三男さんなんたねもり、「武石たけいし」は現在げんざい千葉ちば花見川はなみがわ武石たけいしまち比定ひていされる。武石たけいしのち東北とうほく地方ちほうひろ勢力せいりょく拡大かくだいするが(亘理わたり)、この時期じきには千葉ちば荘内そうないむらきょう領主りょうしゅぎなかった。
  9. ^ つねたねしたがった武士ぶしたちはまごであり、その名字みょうじはほとんど千葉ちばそううち限定げんていされむらきょうきゅうしょう領主りょうしゅぎず、上総かずさ武士ぶしだんとの規模きぼ相違そういおおきいことがわかる。
  10. ^ 吾妻あづまきょううけたまわ4ねん9がつ14にちじょうは「千田庄領家判官代親政」、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく藤原ふじわらためこうおおやけりゅうでは「おやみやび」(阿波あわもりすめらぎ嘉門かもんいん判官ほうがんだいごうさとし判官ほうがんだい)とする。
  11. ^ 現在げんざい匝瑳そうさ北部ほくぶに「内山うちやま」がある。
  12. ^ 吾妻あづまきょう』は、千葉ちば一族いちぞく頼朝よりともぐんへのさんじんさいし、たねよりゆき主張しゅちょうによりこうねがいうれいをつため下総しもうさ目代もくだい殺害さつがいしたことがしるされ、藤原ふじわら親政しんせい来襲らいしゅうはその報復ほうふくとされているが、『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』には下総しもうさ目代もくだいについての記述きじゅつはない。
  13. ^ たけしゃは、下総しもうさ匝瑳そうさぐん隣接りんせつする古代こだい以来いらい上総かずさぐんめいで、南郷なんごうむら現在げんざい山武さんぶ上横地かみよこじ下横地しもよこじ地名ちめいがある。
  14. ^ 千田せんだそうからたけしゃぐんとおせんようけるとすると鹿島川かしまがわわたらなければならないが、鹿島川かしまがわ流域りゅういき現在げんざい八街やまち千葉ちば東部とうぶ佐倉さくら一部いちぶ白井しらいそうがあった。「馬渡まわたり」の地名ちめい現在げんざい佐倉さくらにあり鹿島川かしまがわ渡河とかてんである。
  15. ^ なりたね千葉ちば荘内そうないむらきょうである「曾利」を名乗なのっている。
  16. ^ 吾妻あづまきょう』によれば、祖母そぼたねつねつま秩父ちちぶ重弘しげひろむすめ)は寿ことぶきひさし元年がんねん(1182ねん)になお健在けんざいであり、なりたね養子ようしとする所伝しょでんにも確証かくしょうはない。養子ようしであるから祖母そぼ葬送そうそうのことにあたったというこの文章ぶんしょう論理ろんりがわからず、また正統せいとうせい主張しゅちょうするには不利ふり養子ようしせつえてられることも注目ちゅうもくあたいする。このあたりには説話せつわ構成こうせいしゃ作意さくいかんじられるが、その作意さくいなに目的もくてきにしたものであるかについては様々さまざま推測すいそくされている。なお、ちちたねせいたてひとし3ねん(1203ねん)に63さいぼっしており、当時とうじとしては年齢ねんれいおおきいのでがないためなりたね養子ようしむかえたが、その実子じっしつねしゅうまれたという可能かのうせい否定ひていできない。
  17. ^ 千葉大ちばだい系図けいず』によればなりたね久寿きゅうじゅ2ねん(1155ねんまれで、ときに25さいとなるが『せんがくしゅうしょう』では17さいとする。
  18. ^ 下総しもうさ上総かずささかいかわ千葉ちばそう上総かずさへだてる村田川むらたがわと、千田せんだそう上総かずさへだてる栗山川くりやまがわがあるが、合戦かっせん千葉ちばそうであったとすれば村田川むらたがわであろう。
  19. ^ 現在げんざい多古たこまちに「次浦つぎうら」の地名ちめいがある。千田せんだそう上総かずさへだてる栗山川くりやまがわ下総しもふさがわ位置いちする。
  20. ^ 北条ほうじょう時政ときまさあるいはそのすものとかんがえられるが、の『平家ひらか物語ものがたり』などでは、時政ときまさ親子おやこ頼朝よりともわか甲斐がいむかったとしており、『源平げんぺい闘諍とうじょうろく独自どくじのものである。
  21. ^ 吾妻あづまきょう』では安房あわった頼朝よりともは、下総しもうさ国府こくふ千葉ちば一族いちぞく対面たいめんするので千葉ちばぐんはなく、千葉ちばとおったかかも不明ふめいである。また下総しもうさ国府こくふでの対面たいめんさい藤原ふじわら親政しんせい囚人しゅうじんとしてされたとしており、追討ついとうはしないとするてんことなる。
  22. ^ 千葉ちばそう妙見みょうけんしゃ寄進きしんするという意味いみととらえられるが、千葉ちばそうりょうはちじょういんりょうであり、頼朝よりとも荘園しょうえん勝手かって寄進きしんするのは簒奪さんだつしゃ政権せいけんとしてまれた東国とうごく政権せいけん性格せいかく如実にょじつしめすもので、事実じじつとすればそのはや事例じれいとなる。
  23. ^ 以下いかなりたね親政しんせい合戦かっせんに僮姿の妙見みょうけん菩薩ぼさつげんじたことについて、千葉ちば妙見みょうけん菩薩ぼさつとの関係かんけい将門まさかど合戦かっせんさかのぼることをかたったとするくだりは、の『平家ひらか物語ものがたり』の異本いほんにはないもので『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』の『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』たる所以ゆえんである。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 福田ふくだ豊彦とよひこ 服部はっとりみゆきづくり源平げんぺい闘諍とうじょうろくした〉』講談社こうだんしゃ、2000ねんISBN 4-06-159398-6だい5かん 1,2,3だん
  • 福田ふくだ豊彦とよひこせき幸彦さちひこ源平げんぺい合戦かっせん事典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねんISBN 4-642-01435-7、7,8ぺーじ千葉ちば千田せんだ合戦かっせん説話せつわ」のこう
  • 野口のぐちみのる源氏げんじ坂東ばんどう武士たけし吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 978-4-642-05634-2、162ぺーじ千葉ちばしょう結城ゆうきはま合戦かっせん」のこう
  • 山本やまもと隆志たかし東国とうごくにおける武士ぶし勢力せいりょく成立せいりつせんよう中心ちゅうしんに-」(初出しょしゅつ:『ふみさかいだい61ごう歴史れきし人類じんるい学会がっかい、2010ねん改題かいだい所収しょしゅう:山本やまもと東国とうごくにおける武士ぶし勢力せいりょく成立せいりつ発展はってん』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねんISBN 9784784216017 だいしょうだいせつ千葉ちば常胤つねたね社会しゃかい権力けんりょく

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
  • 早川はやかわあつしいち源平げんぺい闘諍とうじょうろくぜんしゃくはちまきいちじょう(8)(いちさんオ4~いちオ2))」『名古屋学院大学なごやがくいんだいがく論集ろんしゅう 言語げんご文化ぶんかへんだい24かんだい2ごう名古屋学院大学なごやがくいんだいがく総合そうごう研究所けんきゅうじょ、2013ねん3がつ、306-318ぺーじdoi:10.15012/00000484ISSN 1344-364XCRID 1390572174702831232 
  • 源平げんぺい闘諍とうじょうろくくだ漢字かんじ仮名がなじりばん