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平忠盛たいらのただもり

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たいら 忠盛ただもり
平忠盛たいらのただもり江戸えど時代じだい菊池きくち容斎ようさい
時代じだい 平安へいあん時代じだい後期こうき-末期まっき
生誕せいたん 永長ながおさ元年がんねん1096ねん
死没しぼつ 仁平にだいら3ねん1がつ15にち1153ねん2がつ10日とおか
官位かんい せいよんじょう刑部おさかべきょう
主君しゅくん 白河天皇しらかわてんのう堀河ほりかわ天皇てんのう鳥羽天皇とばてんのう崇徳天皇すとくてんのう近衛天皇このえてんのう
氏族しぞく 桓武かんむたいら維衡ながれ坂東ばんどうたいらけい伊勢いせたいら
父母ちちはは ちち平正盛たいらのまさもり
兄弟きょうだい 忠盛ただもりさだただし忠正ただまさときもりはんのべみなもと義忠よしただしつ藤原ふじわら清隆きよたかしつ平政子たいらのまさこ若狭わかさきょく)、大和やまと肥後ひご
つま 祇園女御ぎおんのにょうごいもうと?(清盛きよもり生母せいぼ?)、源信みなもとのまことみやびむすめ
藤原家隆ふじわらのいえたかむすめ藤原ふじわらためただしむすめ、(りょう岑高なりむすめ)、
正室せいしつ藤原ふじわら宗子むねこ池禅尼いけのぜんに
清盛きよもり白河しらかわいん猶子ゆうし?)いえもりけいもりきょうもりよりゆきもりちゅう、その[注釈ちゅうしゃく 1]
藤原ふじわら親政しんせいしつみなもとゆうぼうしつ
藤原ふじわらたかしきょうしつ藤原ふじわらあらわときしつみなもとまさしげるしつ[注釈ちゅうしゃく 2]
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たいら 忠盛ただもり(たいら の ただもり)は、平安へいあん時代じだい後期こうきから末期まっき武将ぶしょう平清盛たいらのきよもりちち烏帽子えぼしおや義兄ぎけいみなもと義忠よしただ[注釈ちゅうしゃく 3]

伊勢いせたいらはじめて昇殿しょうでんゆるされた。北面ほくめん武士ぶし追討ついとう使として白河しらかわ院政いんせい鳥羽とば院政いんせい武力ぶりょくてき支柱しちゅう役割やくわりたすとともに、諸国しょこく受領じゅりょう歴任れきにんし、にちそう貿易ぼうえきにも従事じゅうじして莫大ばくだいとみたくわえた。その武力ぶりょく財力ざいりょく次代じだいがれ、たいら政権せいけんいしずえとなった。歌人かじんとしてもられ、家集かしゅう平忠盛たいらのただもりしゅう』がある。

生涯しょうがい

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白河しらかわ院政いんせい

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ちちせいもり白河しらかわ法皇ほうおう北面ほくめん武士ぶしとしてつかえ、みなもと義親よしちか追討ついとう武名ぶめいげた。一方いっぽうみなもと義忠よしただ息女そくじょめとわせるなど、先行せんこう軍事ぐんじ貴族きぞくである河内かわうちはじめとも連携れんけいはかり、義忠よしただ忠盛ただもり烏帽子えぼしおやとなっている。義忠よしただ河内かわうちはじめ衰退すいたいするのとわるように、伊勢いせたいらみなもと与党よとうしたがわせつつ勢力せいりょくばしていった。

てんひとし元年がんねん1108ねん)、忠盛ただもりは13さい左衛門さえもん少尉しょういとなり、てんひさし2ねん1111ねん)には検非違使けびいし兼帯けんたいして、きょう治安ちあん維持いじ従事じゅうじした。てんなが4ねん1113ねん)には盗賊とうぞく夏焼なつやき大夫たいふついしたこうしたがえじょされる[1]同年どうねん永久えいきゅう強訴ごうそではちちとともに宇治うじ出動しゅつどうして興福寺こうふくじ大衆たいしゅう入京にゅうきょう阻止そししている。永久えいきゅう2ねん1114ねん)、白河しらかわいんちょう祇園女御ぎおんのにょうごに鮮鳥を献上けんじょうし、ちちつづいてこの女御にょうごつかえた。その検非違使けびいしにんはな伯耆ほうきもりとなり、みぎけんあたま兼任けんにんする。

永久えいきゅう5ねん1117ねん)、鳥羽天皇とばてんのう入内じゅだいした藤原ふじわら璋子あきこまちけんもんいん)の政所まんどころ別当べっとうとなる。別当べっとうには藤原ふじわらちょうみのる藤原ふじわらあらわたかしなど白河しらかわ法皇ほうおう有力ゆうりょく近臣きんしんつらねており、法皇ほうおう信頼しんらいあつさがうかがえる。元永もとなが2ねん1119ねん)11月14にち賀茂かも臨時りんじさいではしんまいじんえらばれ、そのはなやかなよそおいは「みちひかりはなほどこし、万事ばんじ耳目じもくおどろかす。まこと希代きたいかちごとなり」と周囲しゅうい驚嘆きょうたんさせた[2]保安ほあん元年がんねん1120ねん)に越前えちぜんまもる転任てんにんするが、在任ざいにんちゅう越前えちぜんこく敦賀つるがぐん殺人さつじん事件じけんこり、犯人はんにん日吉ひよししゃ神人しんじん逮捕たいほして検非違使けびいしわた途中とちゅうで、延暦寺えんりゃくじ悪僧あくそう犯人はんにん身柄みがら奪取だっしゅするという事件じけん発生はっせいする。朝廷ちょうてい悪僧あくそうらえたことで延暦寺えんりゃくじ強訴ごうそ発展はってんするが、白河しらかわ法皇ほうおう忠盛ただもり擁護ようごした。このころいん昇殿しょうでんゆるされ、藤原ふじわら宗子むねこ池禅尼いけのぜんに)を正室せいしつとする。

大治おおはる2ねん1127ねん)、したがえよんじょされ、備前びぜんもりとなる。さらにひだりけんあたま兼任けんにんし、いん牛馬ぎゅうば管理かんりおこないん御厩みまやとなった。うまりょういん御厩みまや職務しょくむ内容ないよう共通きょうつうするため兼任けんにん自然しぜんなことであったが、戦闘せんとうにおける騎馬きば重要じゅうようせい観点かんてんからすれば、軍事ぐんじ貴族きぞくである忠盛ただもりにとってはおおいに意義いぎのあるものだった。大治おおはる4ねん1129ねん)3がつ忠盛ただもり山陽さんようどう南海なんかいどう海賊かいぞく追討ついとう使抜擢ばってきされる[3]。これは、正式せいしき宣旨せんじではなく院宣いんぜん検非違使けびいし別当べっとうせん別当べっとうまちけんもんいんあに三条さんじょう実行じっこう)によるものであり、白河しらかわ法皇ほうおう強引ごういんてだったとかんがえられる。それからもなくの7がつ7にち白河しらかわ法皇ほうおうが77さい崩御ほうぎょした。忠盛ただもり法皇ほうおう葬儀そうぎ近臣きんしんとともに入棺にゅうかんやくつとめ、やまさくしょ火葬かそうじょう)の設営せつえい担当たんとうした。

鳥羽とば院政いんせい

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鳥羽とば上皇じょうこう院政いんせい開始かいしすると、忠盛ただもりきゅうによりせいよんじょされる。白河しらかわいん近臣きんしんおおくは鳥羽とっぱいん近臣きんしん横滑よこすべりし、忠盛ただもり鳥羽とば上皇じょうこうおよびまちけんもんいん北面ほくめんとなる。いん御厩みまや職務しょくむもそのまま継続けいぞくみとめられた。白河しらかわ法皇ほうおう崩御ほうぎょしてほどなく、んだとおもわれていたみなもと義親よしちか名乗なのものきょう出現しゅつげんして藤原ふじわら忠実ちゅうじつやしき保護ほごされていたが、何者なにものかに襲撃しゅうげきされ殺害さつがいされるという事件じけんこる。忠盛ただもりにも嫌疑けんぎがかけられたが、真犯人しんはんにん美濃みのはじめみなもと光信みつのぶ判明はんめいしたことでこときをた。

てんうけたまわ2ねん1132ねん)、上皇じょうこう勅願ちょくがん観音かんのんどうであるとく長寿ちょうじゅいん造営ぞうえい落慶らっけい供養くようさいして、せんたい観音かんのん寄進きしんする。その功績こうせきによりうち昇殿しょうでん許可きょかされた。『平家ひらか物語ものがたり』では武士ぶしである忠盛ただもり殿上人てんじょうびととなったことをにくんだ公卿くぎょうたちによる闇討やみうちちがくわだてられるが、忠盛ただもり銀箔ぎんぱく木刀ぼくとうによって公卿くぎょうたちをおど機転きてんによってふせぎ、鳥羽とば上皇じょうこうからしょうされる(殿上てんじょう闇討やみうち)。また、鳥羽とば上皇じょうこうまえまい披露ひろうしたさい忠盛ただもり斜視しゃし(すがめ)だったことから、公卿くぎょうたちに伊勢いせ特産とくさんひんびん瓶子へいじ」とはやてられたが、見事みごと舞踏ぶとうえんじてぎゃくしょうされたというはなしのこっている。なお、うち昇殿しょうでん武士ぶしでは摂関せっかん源頼光みなもとのよりみつれいがあるものの、この当時とうじでは破格はかく待遇たいぐうだった。中御門なかみかど宗忠むねただは「このひと昇殿しょうでんなお未曾有みぞうことなり」[4]ひょうした。

やがて鳥羽とば法皇ほうおう寵愛ちょうあい藤原ふじわら得子とくこ美福門院びふくもんいん)にうつ藤原ふじわらなりいん近臣きんしん筆頭ひっとう地位ちい確立かくりつすると、忠盛ただもりつま宗子むねこいえなり従兄弟いとこであったことから親密しんみつ関係かんけいきずいていく。鳥羽とば院政いんせいになると荘園しょうえん整理せいりまった実施じっしされなくなったため、各地かくち荘園しょうえん爆発ばくはつてき増加ぞうかした。忠盛ただもり受領じゅりょうとして荘園しょうえん設立せつりつ関与かんよし、いんりょう荘園しょうえん管理かんりまかされるようになった。肥前ひぜんこく神埼かんざきそうあずかところとなった忠盛ただもりは、ながうけたまわ2ねん1133ねんそうじんしゅうしんふね来航らいこうすると院宣いんぜんしょうして、荘園しょうえんないでの大宰府だざいふ臨検りんけん排除はいじょしようとした[5]にちそう貿易ぼうえき民間みんかん活発かっぱつおこなわれ博多はかたにはそうじん居住きょじゅうし、越前えちぜんこく敦賀つるがまでそうせん来航らいこうすることもあった。忠盛ただもり越前えちぜんまもる在任ざいにんちゅうにちそう貿易ぼうえき巨利きょりけ、西国さいごく方面ほうめんへの進出しんしゅつ指向しこうするようになったとおもわれる。

のべ元年がんねん1135ねん)、中務なかつかさ大輔だいすけにんじられる。このころにちそう貿易ぼうえきにつながる海上かいじょう交通こうつうルート・瀬戸内海せとないかいは、海賊かいぞく跋扈ばっこおおきな問題もんだいとなっていた。これらの海賊かいぞくは、有力ゆうりょく在地ざいち領主りょうしゅ神人しんじん供御くごじん特権とっけん沿岸えんがん住民じゅうみんなどが経済けいざい活動かつどう合間あいま略奪りゃくだつしているケースがおおく、国衙こくがちからだけでは追討ついとう困難こんなんだった。4月8にち西海にしうみ海賊かいぞく追討ついとうについて忠盛ただもり源為義みなもとのためよしのどちらが適当てきとう議論ぎろんとなったが、備前びぜんもりつとめた経験けいけんわれ、「西海さいかいゆうぜいこえあり」という理由りゆう忠盛ただもり追討ついとう使にんじられる[6]。8月には日高ひだか禅師ぜんじ首領しゅりょうとする70めい海賊かいぞく連行れんこうしてきょう凱旋がいせんした。もっともそのおおくは忠盛ただもり家人かじんでないものぞく仕立したてていたという[7]忠盛ただもり降伏ごうぶくした海賊かいぞく在地ざいち領主りょうしゅ)をみずからの家人かじん組織そしきした。

その美作みさくまもるにんじられる。のべ5ねん1139ねん)、別当べっとうりゅうさとしとまにんもとめて興福寺こうふくじ衆徒しゅと強訴ごうそこすと、宇治うじ出動しゅつどうして入京にゅうきょう阻止そしした。てんやしなえ元年がんねん1144ねん)、せいよんじょうじょされ尾張おわりもりとなった。忠盛ただもり鳥羽とっぱいんちょうよん別当べっとうとしても活動かつどうした。同僚どうりょう藤原ふじわらただしたかし貴族きぞくでありながら乗馬じょうば達人たつじん意気投合いきとうごうするところがあったのか、ただしたかしりゅうきょう忠盛ただもりむすめつまむかえている。なお、ただしたかしつま栄子えいこたかしとく上皇じょうこう乳母うばであり、忠盛ただもりつま宗子むねこたかしとく上皇じょうこうじゅうじん親王しんのう乳母うばだった。鳥羽とば法皇ほうおう和歌わか熱心ねっしんでなかったことから、当時とうじ歌壇かだんたかしとく上皇じょうこう中心ちゅうしん展開てんかいしていた。忠盛ただもり自身じしん和歌わかつうじ、たびたびたかしとく主催しゅさい歌会うたかい参加さんかした。たかしとくにとって忠盛ただもりはもっともたよりにできる人物じんぶつだった。

久安ひさやす2ねん1146ねん)、忠盛ただもり播磨はりままもるにんじられる。播磨はりままもる受領じゅりょう最高峰さいこうほうといえる地位ちいであり、受領じゅりょうから公卿くぎょうへの昇進しょうしん間近まぢかとなった。ところが、よくひさやす3ねん1147ねん)6がつ15にち清盛きよもり郎党ろうとう祇園ぎおんしゃ神人しんじん小競こぜいとなり、多数たすう負傷ふしょうしゃさわぎとなる(祇園ぎおんたたかえらん事件じけん)。忠盛ただもりはすぐに下手人げしゅにん検非違使けびいしちょうわたすが、祇園ぎおんしゃ本寺ほんじである延暦寺えんりゃくじ納得なっとくせず、忠盛ただもり清盛きよもり配流はいるもとめて強訴ごうそこした。忠盛ただもりにとってはおおきな危機ききだったが、鳥羽とば法皇ほうおう忠盛ただもりゆうする軍事ぐんじてき経済けいざいてき実力じつりょく重視じゅうしして延暦寺えんりゃくじ要求ようきゅうしりぞけた。事件じけん忠盛ただもり伊勢いせりょう祇園ぎおんしゃ寄進きしんして関係かんけい修復しゅうふくはかっている。

久安ひさやす4ねん1148ねん)、藤原ふじわらただしたかし公卿くぎょう昇進しょうしんすると忠盛ただもりよんさい上位じょういしゃとなり、よくひさやす5ねん1149ねん)にはちゅうたかし後任こうにんとして内蔵ないぞうあたまとなった。同年どうねん3がつ熊野くまのまい途中とちゅう次男じなんいえもり急逝きゅうせいするという不幸ふこう見舞みまわれる。忠盛ただもりいえもりなげき、哀傷あいしょうのこしている。仁平にだいら元年がんねん1151ねん)、刑部おさかべきょうとなる。このとき鳥羽とば法皇ほうおう意見いけんもとめられた藤原ふじわらよりゆきちょうは「まれはいやしいものの、せいよんじょう内蔵ないぞうあたま播磨はりままもる歴任れきにんしているので問題もんだいはない」という見解けんかいしめした[8]

仁平にだいら3ねん1153ねん)、忠盛ただもり公卿くぎょう昇進しょうしん目前もくぜんとしながら58さい死去しきょする。よりゆきちょうは『宇槐しょう』にて「かずこくの吏をとみ巨万きょまんるいね、奴僕どぼくこくち、武威ぶいじんにすぐ。ひととなり恭倹きょうけん、いまだかつて奢侈しゃしおこないあらず、時人じじんこれをしむ」とそのいたんだ。

経歴けいれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

宮崎みやざき康充やすみつ国司こくし補任ほにん』(つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい)や『ちゅう右記うきとう参照さんしょう

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ
ラジオドラマ
人形にんぎょうげき

画像がぞうしゅう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 源平げんぺい盛衰せいすい』によると、ちゅうのすぐじょうあにであるろくなん忠重ただしげがいたとべている。
  2. ^ 母親ははおや藤原ふじわらためちゅうむすめちゅう同母どうぼ姉妹しまい
  3. ^ ただし」の義忠よしただからあたえられたへんいみなかんがえられる。

出典しゅってん

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  1. ^ ちょうあき』3がつ14にちじょう
  2. ^ ちゅう右記うき』11月19にちじょう
  3. ^ 朝野ちょうやぐんまき11
  4. ^ ちゅう右記うき』3がつ22にちじょう
  5. ^ ちょうあき』8がつ13にちじょう
  6. ^ ちゅう右記うき』『ちょうあき同日どうじつじょう
  7. ^ ちゅう右記うき』『ちょうあき』8がつ19にちじょう
  8. ^ たい別記べっき

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 五味ごみ文彦ふみひこ平清盛たいらのきよもり吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1998ねん 
  • 高橋たかはし昌明まさあき清盛きよもり以前いぜん伊勢いせたいら興隆こうりゅう-』(増補ぞうほ改訂かいてい文理ぶんりかく、2004ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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