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平忠正たいらのただまさ

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平忠正たいらのただまさ
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ もと元年がんねん7がつ28にち1156ねん8がつ15にち
官位かんい みぎすけ
主君しゅくん 白河しらかわいん鳥羽とばいん藤原ふじわらよりゆきちょう
氏族しぞく 桓武かんむたいら維衡ながれ伊勢いせたいら
父母ちちはは ちち平正盛たいらのまさもり
兄弟きょうだい 忠盛ただもりさだただし忠正ただまさどきもりみなもと義忠よしただしつ
ちょうもり忠綱ただつなせいつなつうただし維盛安岡やすおか忠重ただしげ中根なかねただし?
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たいら 忠正ただまさ(たいら の ただまさ)は、平安へいあん時代じだい末期まっき伊勢いせたいら武将ぶしょう平正盛たいらのまさもり忠盛ただもりおとうと平清盛たいらのきよもり叔父おじにあたる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

当初とうしょちちせいもりおなじく白河しらかわ法皇ほうおうつかえ、元永もとなが2ねん1119ねん)、まれたばかりのあらわじん親王しんのう崇徳天皇すとくてんのう)のかんにんじられた(『ちゅう右記うき』6がつ19にちじょう)。そのうまりょう次官じかんであるみぎすけとなるが、ながうけたまわ2ねん1133ねん)、鳥羽とば上皇じょうこうにより勘当かんどうされる(『ちょうあき』9がつ20日はつかじょう)。

以後いご官職かんしょくくこともいん軍事ぐんじ動員どういんけることもなく、のべ2ねん1136ねん)に藤原ふじわらよりゆきちょうくるま郎党ろうとうひきいて警護けいごするなど(『たい』11月24にちじょう)、摂関せっかん家人かじんとして活動かつどうすることになる。仁平にだいら2ねん1152ねん)にはよりゆきちょういえしょくごとつとめていた(『へいはん』8がつ14にちじょう)。鳥羽とば上皇じょうこう信任しんにんあつ忠盛ただもりやその清盛きよもりとは、はやくから不和ふわであったとつたわる。

もとらんでは手勢てぜいひきいてよりゆきちょうとも宇治うじから上洛じょうらくし、たかしとく上皇じょうこうかた拠点きょてんである白河しらかわきた殿どのてこもるが、後白河天皇ごしらかわてんのうかた敗北はいぼくして伊勢いせ逃亡とうぼうする。しばらくの潜伏せんぷくのちおい清盛きよもりたよって息子むすこちょうもり忠綱ただつなせいつなつうただしともな投降とうこうしたが、27にち罪名ざいめい宣旨せんじくだり、よく28にちろく清盛きよもりによって処刑しょけいされた。なお『へいはん』では27にち以降いこう名前なまえ表記ひょうきが「ただしさだ」になっているが、これは「忠正ただまさ」がけん中納言ちゅうなごん藤原ふじわらただしみやび同音どうおんであることをはばかったためとられる。

もと物語ものがたり』では、みなもと勢力せいりょく減退げんたい目論もくろ清盛きよもり信西しんぜいはかり、自分じぶんすすんで叔父おじ忠正ただまさ処刑しょけいすることで、おなじく罪人ざいにんとなった源為義みなもとのためよしをそのあさらざるをないよう仕向しむけたとしている。

忠正ただまさ所領しょりょう没収ぼっしゅうされいんりょう編入へんにゅうされたが、その所領しょりょう小規模しょうきぼ散在さんざい田畠たばた集積しゅうせきしたものだった(『へいはんもと2ねん3がつ29にちじょう)。受領じゅりょう歴任れきにんしてきょまんとみたくわえた忠盛ただもりくらべ、その勢力せいりょくきわめて弱小じゃくしょうであったことがうかがえる。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

子孫しそん[編集へんしゅう]

後年こうねん服部はっとり戸沢とざわ中根なかね忠正ただまさ子孫しそん自称じしょうしている[1]。また、長男ちょうなんちょうもりむすめ宇都宮うつのみやぎょうつなとつ頼綱よりつなははとなり、そのつたえている(『系図けいず纂要』)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]