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後白河天皇ごしらかわてんのう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
後白河天皇ごしらかわてんのう
天子てんし摂関せっかん御影みかげ』より「白河しらかわいん
藤原ふじわら為信ためのぶ

即位そくいれい 1155ねん11月22にち久寿きゅうじゅ2ねん10月26にち
大嘗祭だいじょうさい 1155ねん12月19にち久寿きゅうじゅ2ねん11月23にち
元号げんごう 久寿きゅうじゅ
もと
時代じだい 平安へいあん時代じだい
先代せんだい 近衛天皇このえてんのう
次代じだい 二条天皇にじょうてんのう

誕生たんじょう 1127ねん10月18にち大治おおはる2ねん9月11にち
崩御ほうぎょ 1192ねん4がつ26にちたてひさ3ねん3月13にち
ろくじょう殿どの
大喪たいそう 1192ねん5月2にちたてひさ3ねん3月19にち
りょうしょ ほうじゅうてらりょう
追号ついごう こう白河しらかわいん
後白河天皇ごしらかわてんのう
いみな まさひとし
別称べっしょう くだり法皇ほうおう
元服げんぷく 1140ねん1がつ18にちのべ5ねん12月27にち
父親ちちおや 鳥羽天皇とばてんのう
母親ははおや 藤原ふじわら璋子あきこ
中宮なかみや 藤原ふじわら忻子
女御にょうご 藤原ふじわら琮子
平滋子たいらのしげこ
子女しじょ 二条天皇にじょうてんのう
亮子あきこ内親王ないしんのう
好子よしこ内親王ないしんのう
式子内親王しきしないしんのう
まもりさとし法親王ほうしんのう
以仁王もちひとおう
まどかめぐみ法親王ほうしんのう
ていめぐみ法親王ほうしんのう
きゅう内親王ないしんのう
惇子あつこ内親王ないしんのう
つねめぐみ
高倉天皇たかくらてんのう
静恵しずえ法親王ほうしんのう
みちほう法親王ほうしんのう
うけたまわじん法親王ほうしんのう
ただし
覲子内親王ないしんのう
皇居こうきょ 平安へいあんみや
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後白河天皇ごしらかわてんのう(ごしらかわてんのう、1127ねん10月18にち大治おおはる2ねん9月11にち[1] - 1192ねん4がつ26にちたてひさ3ねん3月13にち[2])は、日本にっぽんだい77だい天皇てんのう在位ざいい: 1155ねん8がつ23にち久寿きゅうじゅ2ねん7がつ24にち〉- 1158ねん9月5にちもと3ねん8がつ11にち〉)。いみなまさひとし(まさひと)。

鳥羽天皇とばてんのうだいよん皇子おうじとしてまれ、異母弟いぼてい近衛天皇このえてんのう急死きゅうしにより皇位こういぎ、譲位じょういは34ねんにわたり院政いんせいおこなった。その治世ちせいもとらん平治へいじらんうけたまわ寿ことぶきひさしらん戦乱せんらん相次あいつぎ、二条天皇にじょうてんのう平清盛たいらのきよもり木曾きそ義仲よしなかとの対立たいりつにより、幾度いくどとなく幽閉ゆうへい院政いんせい停止ていしまれるがそのたびに復権ふっけんたした。政治せいじてきには定見ていけんがなくその時々ときどき情勢じょうせい翻弄ほんろうされた印象いんしょうつよいが、新興しんこう鎌倉かまくら幕府ばくふとはおおくの軋轢あつれきかかえながらも協調きょうちょうして、その公武こうぶ関係かんけい枠組わくぐみを構築こうちくした。南都なんと北嶺きたみねといった寺社じしゃ勢力せいりょくにはきびしい態度たいどのぞ反面はんめん仏教ぶっきょうあつ信奉しんぽうして晩年ばんねん東大寺とうだいじ大仏だいぶつ再建さいけん積極せっきょくてきんだ。和歌わか不得手ふえてだったが、今様いまよう愛好あいこうして『梁塵りょうじんしょう』をせんするなど文化ぶんかめんにもおおきな足跡あしあとのこした。

生涯しょうがい

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親王しんのう時代じだい

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大治おおはる2ねん(1127ねん)9がつ11にち鳥羽とば上皇じょうこう中宮ちゅうぐう藤原ふじわら璋子あきこだいよん皇子おうじとしてまれる。中御門なかみかど宗忠むねただは「きさき一腹いっぷく皇子おうじ4にんは、むかしから希有けうれいだ」とひょうした[注釈ちゅうしゃく 1]

11月14にち親王しんのう宣下せんげけて「まさひとし」と命名めいめいされる[3]。2ねん曾祖父そうそふ白河しらかわ法皇ほうおうくなり、鳥羽とば上皇じょうこうによる院政いんせい開始かいしされた。のべ5ねん(1139ねん)12月27にち、12さい元服げんぷくしてひんじょせられる。院政いんせい開始かいし鳥羽とば上皇じょうこう藤原ふじわら得子とくこ寵愛ちょうあいして、永治えいじ元年がんねん(1141ねん)12月7にち崇徳天皇すとくてんのう譲位じょういせまり、得子とくこ所生しょせいからだじん親王しんのう即位そくいさせた(近衛天皇このえてんのう)。からだじん親王しんのうたかしとくみかど中宮ちゅうぐう藤原ふじわら聖子せいこ養子ようしであり「皇太子こうたいし」のはずだったが、譲位じょうい宣命せんみょうには「すめらぎふとしおとうと」としるされていた[4]天皇てんのうおとうとでは将来しょうらい院政いんせい不可能ふかのうであり、たかしとくみかどにとってこの譲位じょういおおきな遺恨いこんとなった。

一方いっぽう皇位こうい継承けいしょうとは無縁むえん気楽きらく立場たちばにあったまさひとし親王しんのうは「イタクサタダシクゆうビナドアリ」[4]と、遊興ゆうきょうれる生活せいかつおくっていた。このころ田楽でんがく猿楽さるがくなどの庶民しょみんざつげい上流じょうりゅう貴族きぞく生活せいかつにもはいみ、催馬たのし朗詠ろうえいくらべて自由じゆう表現ひょうげんをする今様いまよう民謡みんよう流行りゅうこう)がさかんとなっていた。まさひとしとく今様いまよう愛好あいこうし、熱心ねっしん研究けんきゅうしていた。後年こうねん梁塵りょうじんしょう口伝くでんしゅう』に「10さいあまりのときから今様いまよう愛好あいこうして、稽古けいこなまけることはなかった。ひるいちにちちゅううたらし、よるいちばんちゅううたかした。こえなくなったことは3かいあり、そのうち2かいのどれてみずとおすのもつらいほどだった。まちけんもんいんくなって50にちぎたころ崇徳院すとくいんおな御所ごしょむようにおおせられた。あまりにちかくで遠慮えんりょもあったが、今様いまようきでたまらなかったのでまえおなじように毎夜まいようたった。鳥羽とば殿どのにいたころは50にちほどうたかし、東三条ひがしさんじょう殿どのではふねってひとあつめて40にちあまり、まで毎夜まいよ音楽おんがくあそびをした」とみずかしるしている。

その没頭ぼっとうぶりは周囲しゅういからは常軌じょうきいっしたものとうつったらしく、鳥羽とば上皇じょうこうは「即位そくい器量きりょうではない」とみなしていた[4]今様いまようあそ相手あいてにはみなもとけん藤原ふじわらけんがいたが、ほかにもきょう男女だんじょはししゃ(はしたもの)、雑仕ぞうし(ぞうし)、江口えぐち神崎かんざき遊女ゆうじょ傀儡かいらい(くぐつ)など幅広はばひろ階層かいそうおよんだ。まさひとし最初さいしょみなもとゆうひとし養女ようじょ懿子だったが、康治こうじ2ねん1143ねん)、まもりじん親王しんのう二条天皇にじょうてんのう)をんで急死きゅうしする。つぎとなったのは藤原ふじわらなりおんな成子しげこで、2なん4じょむが、終生しゅうせいおもんじられることはなかった。

もとらん平治へいじらん

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久寿きゅうじゅ2ねん(1155ねん)、近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょすると、自身じしんだいいち皇子おうじであり、美福門院びふくもんいん得子とくこ)の養子ようしとなっていたまもりじん親王しんのう即位そくいするまでの中継なかつぎとして、立太子りったいしないまま29さい即位そくいした。まもりじんはまだ年少ねんしょうであり、存命ぞんめいちゅうである実父じっぷまさひとしえての即位そくい如何いかなものかとのこえがったためだった[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]本来ほんらい新帝しんてい践祚せんそ即位そくい立太子りったいしじゅんおこなわれるものが、新帝しんてい即位そくいしき以前いぜん同年どうねん9がつ鳥羽とば法皇ほうおう主導しゅどうによってまもりじん立太子りったいしおこなわれたことが、後白河天皇ごしらかわてんのう即位そくい性格せいかくしめしている。10月に藤原ふじわらこうのうむすめである藤原ふじわら忻子入内じゅだいし、その翌年よくねんには皇子おうじむことなく中宮ちゅうぐうてられているが、たかしとく上皇じょうこう後白河天皇ごしらかわてんのうにとっておおやけのう母方ははかた従兄弟いとこにあたり、たかしとく上皇じょうこう好意こういてきとみられてきたおおやけのうまちけんもんいん璋子あきこ)の一族いちぞく徳大寺とくだいじ)を新帝しんていうしたてにする意味いみがあった。もと元年がんねん1156ねん)、鳥羽とば法皇ほうおう崩御ほうぎょするともとらん発生はっせいした。このたたかいでは後見こうけん信西しんぜい主導しゅどうけんにぎり、こう白河しらかわみかど形式けいしきてき存在そんざいだった。らん信西しんぜい政権せいけん強化きょうか尽力じんりょくし、もと新制しんせいはっして荘園しょうえん整理せいりだい寺社じしゃ統制とうせい内裏だいり再建さいけんなどをおこなう。

もと3ねん1158ねん)、まもりじん二条天皇にじょうてんのう)に譲位じょういし、太上天皇だじょうてんのうとなる。これは当初とうしょ予定よていどおりであり「ふつふつとの評定ひょうじょう[7]、すなわち美福門院びふくもんいん信西しんぜい協議きょうぎによるものだった。ちち所領しょりょうだい部分ぶぶんは、美福門院びふくもんいん暲子内親王ないしんのうゆずられたため、こう白河しらかわ上皇じょうこう藤原ふじわらよりゆきちょうから没収ぼっしゅうした所領しょりょうこういんりょうにして経済けいざい基盤きばんとした。また、配流はいるとなったたかしとく上皇じょうこうのぞいたまちけんもんいん所生しょせい兄弟きょうだい関係かんけいつよめるためにわずか1さいしかちがわない同母どうぼあね統子もとこ内親王ないしんのう自分じぶんじゅんははははわり)として、のち上西かみにしもんいん女院にょいんごうあたえている。

二条天皇にじょうてんのう即位そくいにより、こう白河しらかわ院政いんせいじょう親政しんせい対立たいりつはじまり、こう白河しらかわ院政いんせい内部ないぶでも信西しんぜい藤原ふじわら信頼しんらいあいだ反目はんもくしょうじるなど、朝廷ちょうていないどもえ対立たいりつ様相ようそうせるようになった。

この対立たいりつ平治へいじ元年がんねん1159ねん)に頂点ちょうてんたっし、平治へいじらん勃発ぼっぱつする。12月9にちよるいん御所ごしょ三条さんじょう殿どの藤原ふじわら信頼しんらい源義朝みなもとのよしとも軍勢ぐんぜいによって襲撃しゅうげきされ、内裏だいり一本いっぽんしょしょ幽閉ゆうへいされる。結果けっか信西しんぜい殺害さつがいされ信頼しんらい政権せいけん掌握しょうあくするが、二条にじょうちかし政派せいはむすんだ平清盛たいらのきよもり武力ぶりょく信頼しんらいらを撃破げきはこう白河しらかわ院政いんせい壊滅かいめつする。こう白河しらかわいんらん最中さいちゅう幽閉ゆうへいさき自力じりき脱出だっしゅつして仁和寺にんなじ避難ひなんしていた。このとき争奪そうだつ対象たいしょうになったのは二条天皇にじょうてんのうであり、こう白河しらかわいん信西しんぜい殺害さつがいされ政治せいじりょくうしなっていたことから、ほとんどかえりみられていなかった[注釈ちゅうしゃく 4]

らんこう白河しらかわいんじょう親政しんせい中心ちゅうしんだった大炊おおい御門みかどけいむねしつおもんみかた逮捕たいほ清盛きよもりめいじる[注釈ちゅうしゃく 5]けいむねおもんみかたは、藤原ふじわら信頼しんらいとともに信西しんぜい殺害さつがい首謀しゅぼうしゃであり、その責任せきにん追及ついきゅうされたものと推測すいそくされる。これ以降いこうこう白河しらかわ院政いんせいじょう親政しんせい対立たいりつ膠着こうちゃく状態じょうたいとなる。

とう政治せいじほうじゅうてら殿どの造営ぞうえい

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こう白河しらかわ院政いんせいじょう親政しんせい対立たいりつは、双方そうほう有力ゆうりょく近臣きんしん共倒ともだおれになったことで小康しょうこう状態じょうたいとなり、「いんないさるあいツツどうしんニテ」とう政治せいじおこなわれた[4]蔵人くろうどあたま中山なかやまただしおやの『やまえんじゅ』によると、国政こくせい案件あんけんこう白河しらかわいんじょうみかど奏上そうじょうされ、まえ関白かんぱく藤原ふじわらただしどおり諮問しもんこたえるかたち処理しょりされていた。ながれき元年がんねん1160ねん)10がつになると、こう白河しらかわいん焼失しょうしつした三条さんじょう殿どのわるあらたな院政いんせい拠点きょてんとして、ほうじゅうてら殿どの造営ぞうえいかる。ろくみなみひがしななじょうまつには、摂関せっかん藤原ふじわらためこうほうじゅうてら創建そうけんしたがはやくに衰退すいたいし、信西しんぜいやしき平治へいじらん焼失しょうしつ)や藤原ふじわら清隆きよたか紀伊きい御堂みどうなどがならんでいた。造営ぞうえい播磨はりまもり重任じゅうにんした藤原ふじわらあきら担当たんとうし、藤原ふじわら信頼しんらいやしき移築いちくすることですすめられた。10まち土地とちかこみ、大小だいしょう80あまりどうこわしたことから、おおくの人々ひとびとうらみをったという[9]

10月16にちこう白河しらかわいんほうじゅうてら殿どの鎮守ちんじゅとして日吉ひよししゃ熊野くまのしゃ勧請かんじょうする。これについて『こんかがみ』は「神仏しんぶつ御事おんこと、かたがたおこしたてまつらせきゅうへる、かしこきこころざしなるべし」としている。新日吉しんひよししゃは、競馬けいば流鏑馬やぶさめなど武士ぶし武芸ぶげい開催かいさいされるとなり、しん熊野くまのしゃは、熊野くまのまい出発しゅっぱつするまえ精進しょうじん参籠さんろうとなった。17にち早速さっそく勧請かんじょうしたばかりのしん熊野くまのしゃ参籠さんろうして、23にちはじめての熊野くまのまい出発しゅっぱつする。この参詣さんけいには清盛きよもり同行どうこうしている。熊野くまのまい以後いご34かいにもおよんだ(実際じっさい記録きろく確認かくにんできるのは28かい)。熊野くまのまい最中さいちゅうの11月23にち美福門院びふくもんいん崩御ほうぎょした[10]即位そくい以来いらい美福門院びふくもんいんとの協調きょうちょう神経しんけいっていたのち白河しらかわにとっては束縛そくばくからの解放かいほうであり、じょうおさえて政治せいじ主導しゅどうけんにぎることもゆめではなくなった。ほうじゅうてら殿どの造営ぞうえい順調じゅんちょうすすみ、えいれき2ねん1161ねん)4がつ13にち完成かんせいした御所ごしょうつんだ[10]

二条にじょうちかし政派せいはにとって、うしたて美福門院びふくもんいんうしなったことはおおきな打撃だげきだった。一方いっぽう清盛きよもりモタレモこころニハ、コノ白河しらかわいん御世みよニテヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、こう白河しらかわいん政務せいむることに不安ふあんいだき、否定ひていてき見解けんかいをするものすくなくなかった。こう白河しらかわいんには芸能げいのう堪能かんのう側近そっきんおお反面はんめん鳥羽とば院政いんせい以来いらい伝統でんとうてき貴族きぞく実務じつむ官僚かんりょうとのつながりは希薄きはくで、その支持しじ基盤きばんかならずしも強固きょうこなものではなかった。こう白河しらかわいん寵愛ちょうあいは、もっぱら上西かみにしもんいん女房にょうぼうしょうべんきょく平滋子たいらのしげこ)にあり、皇后こうごう忻子女御にょうご・琮子はまった無視むしされていた。三条さんじょうこうきょう(琮子のちち)・徳大寺とくだいじこうのう(忻子のちち)も相次あいついで死去しきょしており、こう白河しらかわいん閑院りゅう関係かんけい疎遠そえんになっていたとかんがえられる。この時期じき状況じょうきょうとして『平家ひらか物語ものがたり』には「いん近習きんじゅしゃをば、うちよりいましめあり。うち近習きんじゅしゃをば、いんよりいましめらるるのあいだ上下じょうげおそれをののいて、やすいしんなし。ただ深淵しんえんにのぞむで、薄氷はくひょうをふむにおなじ」とあり、両派りょうは緊張きんちょう関係かんけいがうかがえる。

じょう親政しんせい確立かくりつ

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9月3にち滋子しげここう白河しらかわいんだいなな皇子おうじ憲仁のりひと親王しんのう高倉天皇たかくらてんのう)を出産しゅっさんするが、その誕生たんじょうには「世上せじょう嗷々のせつ不満ふまん批判ひはん)」があった[11]。15にち憲仁のりひと立太子りったいし陰謀いんぼう発覚はっかくし、院政いんせい平時忠たいらのときただ平教盛たいらののりもりたいらはじめもり藤原ふじわらしげるおや藤原ふじわら信隆のぶたからがじょうみかどによりかいかんされる。これ以降いこうこう白河しらかわいん政治せいじ決定けっていから排除はいじょされ、国政こくせいじょうみかど藤原ふじわらただしどおり合議ごうぎにより運営うんえいされることになる。

12月17にち藤原ふじわら育子いくこ入内じゅだいする。育子いくこは閑院流出りゅうしゅつ徳大寺とくだいじ実能さねよしおんな)で藤原ふじわらただしどおり養女ようじょだった。おう2ねん(1162ねん)2がつ19にち育子いくこ中宮ちゅうぐう冊立さくりつされると閑院りゅう藤原ふじわらみのるちょう中宮ちゅうぐうけん大夫たいふとなり(大夫たいふ九条くじょうけんは14さい名目めいもくのみ)、清盛きよもり内裏だいり警護けいごしてじょう支持しじ姿勢しせい明確めいかくにしたため、こう白河しらかわ院政いんせい逼塞ひっそく余儀よぎなくされる。3月には配流はいるされていた大炊おおい御門みかどけいむね帰京ききょうゆるされ、わるように6月23にちちょう密告みっこくによりじょうみかど呪詛じゅそ容疑ようぎみなもとけん平時忠たいらのときただ流罪るざいとなった。鳥羽とば院政いんせいささえていた貴族きぞく認識にんしきではじょうみかど正統せいとう後継こうけいしゃであり、こう白河しらかわいんはあくまで暫定ざんていという位置いちづけだった。

院政いんせい停止ていしされたのち白河しらかわいんは、信仰しんこう世界せかいにのめりむ。おう2ねん(1162ねん正月しょうがつ熊野くまのもうでは、千手観音せんじゅかんのんけいせんかんんでいたとき神体しんたいかがみかがやいたので、「まんふつねがいよりもせんちかいぞたのもしき、れたる草木くさきもたちまちにはなじつなるとせつひたまふ(おおくのふつねがいよりも、千手観音せんじゅかんのん誓願せいがんたよりにおもわれる。一度いちどせんにおすがりすれば、れた草木くさきさえもよみがえってはなこなせる、とおきになられている)」と今様いまよううたい、千手観音せんじゅかんのんへの信仰しんこうふかくしている[12]

ちょうひろし2ねん1164ねん)12月17にちこう白河しらかわいん多年たねん宿願しゅくがんにより、せんたい観音堂かんのんどう蓮華れんげおういん造営ぞうえいする。造営ぞうえい清盛きよもり備前びぜんこく知行ちぎょうしてった。こう白河しらかわいん落慶らっけい供養くように、二条にじょうみかど行幸ぎょうこうてらへの功労こうろうしょうのぞんだが、二条にじょうみかどまった関心かんしんしめさなかったため「ヤヤ、ナンノニクサニ」となげいたという[4]蓮華れんげおういん新日吉しんひよししゃしん熊野くまのしゃには荘園しょうえん寄進きしんされ、こう白河しらかわいん経済けいざい基盤きばん強化きょうかされる。二条にじょうみかどこう白河しらかわいんうごきに警戒けいかいかんつのらせていたが、えいよろず元年がんねん(1165ねん)6がつ25にち病状びょうじょう悪化あっかじゅんじん親王しんのうろくじょう天皇てんのう)に譲位じょうい、7がつ28にち崩御ほうぎょした。

二条にじょうちかし政派せいは瓦解がかい憲仁のりひと親王しんのう擁立ようりつ

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ろくじょう天皇てんのうはは身分みぶんひくいことから中宮ちゅうぐう育子いくこ養母ようぼとなり、摂政せっしょう近衛このえはじめ中心ちゅうしんにして体制たいせい維持いじはかられた。しかし政権せいけん不安定ふあんていで、こう白河しらかわ院政いんせいはしだいにいきかえしていく。12月25にちこう白河しらかわいん憲仁のりひと親王しんのう宣下せんげおこない、清盛きよもり親王しんのうみことのり別当べっとうとする。院政いんせい親王しんのう宣下せんげされるのは原則げんそくとして正妃せいひ所生しょせい皇子おうじのみであり、憲仁のりひと皇位こうい継承けいしょうゆう資格しかくしゃとして位置いちづけられた。ながまん2ねん(1166ねん)7がつ26にちもと急死きゅうしすると、嫡子ちゃくし近衛このえはじめどおり幼少ようしょうのため、まつ殿どのもとぼうあらたに摂政せっしょう長者ちょうじゃにんじられた。このとき清盛きよもりは、殿下でんかわたりりょうのぞ摂関せっかんりょうじつむすめもとじつ後家ごけ盛子もりこ相続そうぞくさせているが、こう白河しらかわいんはこの措置そち容認ようにんしていたとかんがえられる。しゅはしらであった摂関せっかんたいらこう白河しらかわ院政いんせい鞍替くらがえしたことで、二条にじょうちかし政派せいは完全かんぜん瓦解がかいした。

こう白河しらかわいんじょう親政しんせいくずすと同時どうじに、勢力せいりょく拡大かくだい強力きょうりょくすすめる。7月にみなもとけん参議さんぎされたのを皮切かわきりに、8がつには藤原ふじわらしげるおや藤原ふじわら光隆みつたか参議さんぎ藤原ふじわらしげるはん平頼盛たいらのよりもりしたがえさんとなるなど、いん近臣きんしん次々つぎつぎ公卿くぎょう昇進しょうしんした。一方いっぽう外戚がいせきでありながら離反りはんした閑院りゅうたいしては冷淡れいたん態度たいどをとり、けん大納言だいなごん徳大寺とくだいじ実定さねさだ藤原ふじわらみのるちょう辞任じにんしている。実定じってい安元やすもと3ねん1177ねん)にようやくかえにんするが、ちょうなま涯散のままかれた。

10がつ10日とおかこう白河しらかわいん清盛きよもり協力きょうりょくて、憲仁のりひと親王しんのう立太子りったいし実現じつげんする。立太子りったいし儀式ぎしき摂関せっかんせいてい東三条ひがしさんじょう殿でん盛大せいだいおこなわれ、九条くじょうけん東宮とうぐうでん(とうぐうのふ)、清盛きよもり春宮とうぐう大夫たいふとなり、摂関せっかんたいら憲仁のりひとささえていることを誇示こじするものとなった。11月、こう白河しらかわいん清盛きよもり内大臣ないだいじんとする。いん近臣きんしん昇進しょうしん大納言だいなごん限界げんかいであり、近衛このえ大将たいしょうねずに大臣だいじんになったことはきわめて異例いれいで、破格はかく人事じんじだった。さらに藤原ふじわらみのるちょう辞任じにんしたのちけん大納言だいなごんには、藤原ふじわら師長もろなが抜擢ばってきする。師長もろながもとらん配流はいるされたが琵琶びわ才能さいのうみとめられ、日和見ひよりみてき傾向けいこうつよ上流じょうりゅう貴族きぞくなかではもっと白河しらかわいん忠実ちゅうじつ人物じんぶつだった。

院政いんせい開始かいし出家しゅっけ

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後白河天皇ごしらかわてんのうぞう京都きょうと妙法みょうほういんくら

こう白河しらかわいん人事じんじ刷新さっしんませると、御所ごしょ拡張かくちょう軍事ぐんじりょく整備せいびした。ほうじゅうてら南殿なんでん信頼しんらい邸宅ていたく移築いちくしたものだったが、手狭てぜま儀式ぎしき対応たいおうしにくいことから、じんやす2ねん(1167ねん正月しょうがつ19にちあたらしくえられた。ほうじゅうてら殿どのは、儀式ぎしきようほうじゅうてら南殿なんでん憲仁のりひとななじょうじょう御所ごしょこう白河しらかわいん滋子しげこななじょう御所ごしょなどに区分くぶんされ、政治せいじ中枢ちゅうすうとして機能きのうする。28にちにはろくじょう天皇てんのうあさ行幸ぎょうこうがあり、叙位じょい除目じもくおこなわれた。

5がつ10日とおかこう白河しらかわいん清盛きよもり長男ちょうなん平重盛たいらのしげもりたいして東山ひがしやま東海とうかい山陽さんよう南海なんかいどう山賊さんぞく海賊かいぞく追討ついとう宣旨せんじくだ[13]。これにより、重盛しげもり国家こっかてき軍事ぐんじ警察けいさつけん正式せいしき委任いにんされた。重盛しげもり憲仁のりひと親王しんのう立太子りったいし儀式ぎしきこう白河しらかわいん警護けいごたり、9月の熊野くまのまいきょうをするなど、たいら一門いちもんなかではこう白河しらかわいんちか立場たちばにあった。清盛きよもり家督かとく重盛しげもりゆずっても、依然いぜんとしておおきな発言はつげんりょくゆうしていたが、じんやす3ねん(1168ねん)2がつやまいたおれる。こう白河しらかわいん熊野くまのまいからもど途中とちゅうだったが、日程にっていはやめて浄衣じょうえのままろく見舞みまいにけつけており、その狼狽ろうばいぶりがうかがえる。九条くじょうけんじつは「ぜんだい相国しょうこく所労しょろう天下てんか大事だいじただ此のことる也。このひとの夭亡ののちわたるもっおとろえへいか」[14]政情せいじょう不安ふあん危惧きぐしている。摂関せっかん以外いがい臣下しんかやまいでは異例いれい大赦たいしゃおこなわれ、19にち反対はんたいうごきをふうじるためにまつ殿どのもとぼうの閑院ていにおいてろくじょう天皇てんのうから憲仁のりひと親王しんのう高倉天皇たかくらてんのう)への譲位じょういあわただしくおこなわれた。やまいえた清盛きよもり政界せいかいからき、福原ふくはら別荘べっそう造営ぞうえいして退ずさかくれする。

9月くがつ23にちこう白河しらかわいんめいじて平清盛たいらのきよもり圓教寺えんきょうじ登山とざんし、一切経いっさいきょうせんかんほどこせいれ。これによって一切経いっさいきょうかいはじめられた。

だい嘗会などの即位そくい行事ぎょうじ一段落いちだんらくして、としけたじんやす4ねん(1169ねん正月しょうがつこう白河しらかわは12度目どめ熊野くまのまいかう。2月29にちには賀茂かもしゃにももうでるが、これらは出家しゅっけひまいのためであったという[12]。3月13にちには高野山こうのやまもうで、帰路きろ途中とちゅう20日はつか福原ふくはら清盛きよもり別荘べっそうる。このときおこなわれた千僧せんぞ供養くようは、以後いご恒例こうれい行事ぎょうじとなった。帰京ききょうしてよしみおう改元かいげんされた4がつ滋子しげこ建春門院けんしゅんもん院号いんごう宣下せんげし、6月17にちほうじゅうてら殿どのにおいて出家しゅっけ法皇ほうおうとなる。出家しゅっけの戒師など8にん役僧やくそうは、すべ園城寺おんじょうじ門徒もんとだった。11月25にち新帝しんてい八十嶋やそじまさいおこなわれ、平重盛たいらのしげもりしつ経子けいこ勅使ちょくしやくとして公卿くぎょうれてろくから出立しゅったつする。こう白河しらかわいん滋子しげことともにななじょう殿どの桟敷さじき行列ぎょうれつ見送みおくっており、たいらとの協力きょうりょく体制たいせい磐石ばんじゃくなものにえた。

政権せいけん分裂ぶんれつ徳子とくこ入内じゅだい

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よしみおう元年がんねん(1169ねん)12月23にち延暦寺えんりゃくじ藤原ふじわらしげるおや配流はいる要求ようきゅうして強訴ごうそする(よしみおう強訴ごうそ)。こう白河しらかわいんなりおや擁護ようごしたのにたいして、延暦寺えんりゃくじ友好ゆうこう関係かんけいにあるたいら協力きょうりょくてき態度たいどり、事態じたい紛糾ふんきゅうする。よしみおう2ねん(1170ねん)2がつには終息しゅうそくしたものの、双方そうほう政治せいじ路線ろせんちがいがりとなった。4月19にちこう白河しらかわいん東大寺とうだいじ受戒じゅかいするために奈良なら御幸みゆきする。清盛きよもり合流ごうりゅうしてよく20にちならんで受戒じゅかいするが、これは康治こうじ元年がんねん(1142ねん)の鳥羽とば法皇ほうおう藤原ふじわら忠実ちゅうじつ同時どうじ受戒じゅかいれいならったものだった[15]御幸みゆきからもどった21にちこう白河しらかわいん平重盛たいらのしげもりけん大納言だいなごんなりおやけん中納言ちゅうなごん検非違使けびいし別当べっとうにんじる。こう白河しらかわいんたいらあいだまれたみぞはひとまず解消かいしょうし、高倉天皇たかくらてんのう元服げんぷく儀式ぎしきけて準備じゅんびすすめられていった。

しかし10がつ21にち参内さんだい途中とちゅう摂政せっしょうまつ殿どのもとぼうくるま平重盛たいらのしげもり配下はいか武士ぶし襲撃しゅうげきする事件じけん殿下でんか乗合のりあい事件じけん)がこり、元服げんぷくじょう延期えんきとなってしまう。盛子もりこ摂関せっかんりょう相続そうぞくして以来いらいもとぼうたいらおおきな不満ふまんいていたが、この事件じけんによりさらなる関係かんけい悪化あっか懸念けねんされた。30にちこう白河しらかわいん近臣きんしん藤原ふじわらひかりのう福原ふくはらつかわしている[16]九条くじょうけんじつは「何事なにごとなるかをらず」とするが、殿下でんか乗合のりあい事件じけん処理しょりについて清盛きよもり協議きょうぎするためだった可能かのうせいたかい。12月9にちもとぼう太政大臣だじょうだいじんとなったのは、事件じけん被害ひがいけたことへの慰撫いぶかんがえられる。よしみおう3ねん(1171ねん正月しょうがつ3にち摂政せっしょう大臣だいじん公卿くぎょうたいら一門いちもん臨席りんせきするなか天皇てんのう元服げんぷく儀式ぎしきおこなわれた。

こう白河しらかわ院政いんせい内部ないぶ利害りがいことなるしょ勢力せいりょく包摂ほうせつしていたため、つね分裂ぶんれつ危機ききをはらんでいた。前年ぜんねんのような混乱こんらんけるためには政権せいけん内部ないぶ結束けっそく不可欠ふかけつだったが、そのようななか政権せいけん強化きょうか安定あんていさくとして浮上ふじょうしたのが、高倉たかくらみかど清盛きよもりむすめ徳子とくこ婚姻こんいんである。うけたまわやす元年がんねん(1171ねん)7がつ26にちこう白河しらかわいん清盛きよもりからひつじ5とう麝(じゃ)1とうおくられる[11]。10月23にちには滋子しげことともに福原ふくはらまねかれて歓待かんたいけるが、これらは清盛きよもりによる徳子とくこ入内じゅだいはたらきかけとられる。こう白河しらかわいんにとって、院政いんせい確立かくりつのためにたいら支援しえん必要ひつようだったが、たいら発言はつげんりょく増大ぞうだいして主導しゅどうけんうばわれることはけたかったものと推測すいそくされる。

12月2にちにゅう内定ないていほうじゅうてら殿どのおこなわれ、徳子とくここう白河しらかわいん猶子ゆうしとして入内じゅだいすることになった[15]白河しらかわ法皇ほうおう養女ようじょとして鳥羽天皇とばてんのう入内じゅだいしたまちけんもんいんれいもちいられたが、「かのれいすこぶあいかのうはざるよしもってこれをかたむく」[17]周囲しゅういからは疑問ぎもんこえがった。九条くじょうけんじつは「法皇ほうおう養女ようじょでは天皇てんのう姉妹しまい関係かんけいになり、むべきものだ」[18]非難ひなんしている。徳子とくこ入内じゅだいへの反発はんぱつおおきかったが、この措置そちこう白河しらかわいん徳子とくこ自己じこ影響えいきょうみ、発言はつげんりょく確保かくほすることができた。14にち徳子とくこほうじゅうてら殿どの参上さんじょうして滋子しげこによりちゃくおこない、大内裏だいだいりへとかった。

けて、うけたまわやす2ねん(1172ねん)2がつ10日とおか二条天皇にじょうてんのう中宮ちゅうぐうにしてろくじょう天皇てんのう養母ようぼとされていた藤原ふじわら育子いくこ皇后こうごうとし、これをけて徳子とくこ立后りっこうされて中宮ちゅうぐうとなった。

にちそう貿易ぼうえき寺社じしゃ統制とうせい

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こう白河しらかわいん清盛きよもりあいだには、政治せいじ路線ろせんちがいなど解消かいしょうできない対立たいりつ存在そんざいしたが、両者りょうしゃには旧来きゅうらいのしきたりや偏見へんけんにとらわれず目新めあたらしいものをこのむという共通きょうつうてんがあった。こう白河しらかわいん清盛きよもりすすめるにちそう貿易ぼうえき理解りかいしめし、貴族きぞく反対はんたいおさえてその拡大かくだいんだ。

よしみおう2ねん(1170ねん)9がつ20日はつかこう白河しらかわいん福原ふくはら御幸みゆきしてそうひと[19]にちそう貿易ぼうえき民間みんかん活発かっぱつおこなわれ博多はかたにはそうじん居住きょじゅうし、越前えちぜんこく敦賀つるがまでそうせん来航らいこうすることがあった。しかし畿内きないまでそうじんることは異例いれいであり、天皇てんのう外国がいこくじんとの接見せっけん宇多天皇うだてんのう遺戒いかい以来いらいタブーとされた行為こうい認識にんしきされていたことから、九条くじょうけんじつは「あさ延喜えんぎ以来いらいゆうことなり。天魔てんま所為せいか」と仰天ぎょうてんした[注釈ちゅうしゃく 6]たいら代々だいだい博多はかた大輪田おおわだはくをつなぐ瀬戸内海せとないかい航路こうろ整備せいび掌握しょうあくちかられていたが、清盛きよもりちからだけでそうせん畿内きないまで入港にゅうこうさせることは困難こんなんであり、こう白河しらかわいん助力じょりょく必要ひつようだった。同年どうねん5がつ25にち藤原秀衡ふじわらのひでひら鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんにんじられているのは、にちそう貿易ぼうえきにおける重要じゅうよう輸出ゆしゅつひんであるかねみつげおさめさせるねらいがあったとみられる。前述ぜんじゅつしたように清盛きよもりうけたまわやす元年がんねんにおいてのち白河しらかわひつじと麝を献上けんじょうしているが、いずれも日本にっぽんには生息せいそくしない動物どうぶつであり、にちそう貿易ぼうえきによってもたらされたものとおもわれる。

うけたまわやす2ねん(1172ねん)9がつになると、そうからこう白河しらかわいん清盛きよもり供物くもつとどけられた。そのおくぶんには「日本にっぽん国王こくおうたまもの物色ぶっしょく太政大臣だじょうだいじんおく物色ぶっしょく」としるされていた。「日本にっぽん国王こくおう」はこう白河しらかわいんを、「太政大臣だじょうだいじん」は清盛きよもりしていたが、「国王こくおう」は中国ちゅうごく皇帝こうてい周辺しゅうへん諸国しょこくさづける臣下しんか称号しょうごうで「たまものふ」というのも日本にっぽん見下みくだした文言もんごんであり、「すこぶかい」であると非難ひなんこえがった。また供物くもつおくったのが皇帝こうていこうむねではなく皇帝こうていあにあきらしゅう刺史ししであったちょうはくけいだったこともあり、貴族きぞく相互そうご差別さべつのない外交がいこうはんするとして、品物しなものらずかえし牒もすべきではないと反発はんぱつした[21]

しかし、うけたまわやす3ねん(1173ねん)3がつ3にち左大臣さだいじん大炊おおい御門みかどけいむねけいらいでかえし牒がされ、こたえ進物しんもつおくられることになった。かえし牒は藤原ふじわらひさしはん草案そうあん作成さくせいし、藤原ふじわらきょうちょう清書せいしょした。内容ないよう進物しんもつ美麗びれい珍重ちんちょうめたもので、こう白河しらかわ蒔絵まきえ厨子ずしれたいろかわ30まい蒔絵まきえ手箱てばこおさめた砂金さきんひゃくりょう清盛きよもりけんいちこしものよろい)をおくった[22]。これ以降いこうにちそう貿易ぼうえき公的こうてき性格せいかくびて本格ほんかくしていく。輸入ゆにゅうひんであるそうぜに国内こくない大量たいりょう流入りゅうにゅうして、重要じゅうよう交換こうかん手段しゅだんとなった。

こう白河しらかわいんにちそう貿易ぼうえきならんで、積極せっきょくてきんだのが寺社じしゃ統制とうせいである。有力ゆうりょく寺社じしゃはこの時期じき荘園しょうえん領主りょうしゅとして発展はってんし、各地かくち国司こくし紛争ふんそうこしていたが、そのなかとく強大きょうだいだったのが「南都なんと北嶺きたみね」とならしょうされた南都なんと興福寺こうふくじ比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじだった。興福寺こうふくじ延暦寺えんりゃくじは、藤原鎌足ふじわらのかまたりはかがありながら天台宗てんだいしゅうであるみね帰属きぞくめぐってするど対立たいりつ関係かんけいにあったが、うけたまわやす3ねん(1173ねん)6がつこうそう激化げきかして「むかしより以降いこう南北なんぼく大衆たいしゅう蜂起ほうきなか今度こんどよりまさること莫し」という情勢じょうせいとなった[23]

こう白河しらかわいん紛争ふんそう調停ちょうていし、りょうてら大衆たいしゅう蜂起ほうき停止ていし厳命げんめいしていたが、6月25にち興福寺こうふくじみね襲撃しゅうげきして、かまあし御影堂ごえどうはらった。さらに張本ちょうほんし・そうつな召還しょうかん命令めいれいたいしては「さんせん衆徒しゅと張本ちょうほんなり」[24]おうじなかったため、こう白河しらかわいん法勝寺ほっしょうじ八講はっこうへの興福こうふく寺僧じそうおおやけ請を停止ていしし、興福寺こうふくじ別当べっとうひろはんらを解任かいにんした[25]

その興福寺こうふくじ処分しょぶん撤回てっかいもとめていたが、10月29にち張本ちょうほんさとしきょう配流はいるされたため、11月3にち強訴ごうそ延暦寺えんりゃくじ攻撃こうげき方針ほうしんかためて宇治うじかい、天台座主てんだいざしゅ配流はいるさとしきょう召還しょうかんなな大寺おおてら所領しょりょう奪取だっしゅはか延暦寺えんりゃくじそう禁獄きんごく要求ようきゅうした。こう白河しらかわいんかんへい出動しゅつどうさせて入京にゅうきょう阻止そしする一方いっぽう使者ししゃつかわして大衆たいしゅう説得せっとくこころみるが交渉こうしょう平行へいこうせんをたどり、7にち春日しゅんじつさい延引えんいんとなり、11にち予定よていされていた熊野くまのまい進発しんぱつあやぶまれる事態じたいとなった。ここにいたってこう白河しらかわいんかん宣旨せんじはっし、東大寺とうだいじ興福寺こうふくじ以下いか南都なんと15大寺おおてらならびに諸国しょこく末寺まつじ荘園しょうえんぼつかんという前例ぜんれいにないきびしい処罰しょばつくだ[26]南都なんと15だい寺領じりょうは2ヵ月かげつ返還へんかんされるが、こう白河しらかわいん強硬きょうこう政治せいじ姿勢しせい寺社じしゃつよ衝撃しょうげきあたえた。たいら大和やまとこくくにけん盛子もりこ摂関せっかんりょう相続そうぞく興福寺こうふくじとは対立たいりつ関係かんけいにあったため、この強訴ごうそではこう白河しらかわいん同調どうちょうして迅速じんそく行動こうどうしたようである。

厳島いつくしま御幸みゆき安元やすもと

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うけたまわやす2ねん(1172ねん)、ほうじゅうてら殿どのみなみ滋子しげこ御願ごがんしん御堂みどうてられることになり、2がつ3にち上棟じょうとうしきおこなわれた[19]。これに先立さきだよしみおう2ねん(1170ねん)4がつ19にちこう白河しらかわいん東大寺とうだいじ受戒じゅかいするため奈良ならかう途中とちゅう宇治うじ平等院びょうどういんり、本堂ほんどう見取みと閲覧えつらんしている[27]うけたまわやす元年がんねん(1171ねん)11月にも滋子しげこれて再訪さいほうしているので[28]平等院びょうどういんをモデルに造営ぞうえいする計画けいかくだったとおもわれる。しかし、諸国しょこくからは御願ごがんてら造営ぞうえいおも賦課ふかせられたといううったえが相次あいつぎ、工事こうじ難航なんこうした。うけたまわやす3ねん(1173ねん)10がつ21にち御堂みどう完成かんせい供養くようおこなわれ、さい勝光かつみついん名付なづけられる[19]。その華麗かれい先例せんれいえるもので[29]、「土木どぼくそううらら荘厳しょうごん華美かび天下てんかだい一之かずゆきふつかく[30]しょうされるほどだい規模きぼなものだった。

うけたまわやす4ねん1174ねん)3がつ16にちこう白河しらかわいん滋子しげこともなって安芸あきこく厳島いつくしま神社じんじゃ参詣さんけいするため京都きょうと出発しゅっぱつ福原ふくはら経由けいゆして26にち到着とうちゃくした。交通こうつう手段しゅだん福原ふくはら清盛きよもり用意よういしたそうせんであった可能かのうせいたかい。天皇てんのうもしくはいん后妃こうひれて海路かいろわたり、遠方えんぽうまで旅行りょこうすることは前代未聞ぜんだいみもんであり、吉田よしだけいぼうは「やめさきぶんまわし希代きたいごと歟、かぜ波路なみじ其難、上下じょうげ雖奇おどろき是非ぜひ[31]驚愕きょうがくした。厳島いつくしま参詣さんけいには清盛きよもりたいする政治せいじてき配慮はいりょめんもあるが、単純たんじゅん滋子しげこれて霊験れいけん殊勝しゅしょう厳島いつくしま神社じんじゃ見物けんぶつしたいという願望がんぼう好奇心こうきしんおおきな動機どうきだったとかんがえられる。こう白河しらかわいんには后妃こうひ何人なんにんかいたが、遠方えんぽうれてったり、桟敷さじきともならんで行列ぎょうれつ見物けんぶつしたりするのは、滋子しげこかぎられていた。

厳島いつくしま神社じんじゃでは回廊かいろうしたなみやまみどりといった風景ふうけいたのしみ、内侍ないし巫女ふじょまいて「伎楽ぎがく菩薩ぼさつまいそでをひるがえすのも、このようであったろうか」と感嘆かんたんする。やがて巫女ふじょが「もうすことはかならかなうであろう、後世こうせいのことをもうすのは感心かんしんである。今様いまようきたい」と託宣たくせんげたので、「よん大声おおごえいかばかり、よろこよりもあまるらん、われらは後世こうせいふつぞと、たしかにきつる今日きょうなればよんだい声聞しょうもん方々かたがたはどれほどあまよろこびをかんじただろう、釈尊しゃくそんから後世こうせいにおいてふつると、たしかに保証ほしょう言葉ことばいた今日きょうであるから)」と今様いまよううたう。こう白河しらかわいん感極かんきわまってなみだおさえられなくなり、清盛きよもりは「このかみ後世こうせいねがいをもうすことをおよろこびになります」と説明せつめいした[12]

建春門院けんしゅんもん平滋子たいらのしげこ)とともに厳島いつくしま神社じんじゃ参詣さんけい帰途きとがつにち書寫しょしゃさん行幸ぎょうこうことぶきりょういん御所ごしょ如意にょいどうななにち参籠さんろうされひらきとびらみことのりじょうり。開祖かいそせいそら造立ぞうりゅう秘佛ひぶつ生木なまきろくひじ如意にょい観世音菩薩かんぜおんぼさつじか参拝さんぱいした。またこれより以後いご統括とうかつしゃであるいち和尚おしょうをもってちょうあらたしょうすべきみことのりじょうり。如意にょいどう殿どのごうさづけた。

帰京ききょうの7がつ8にち久我くが雅通まさみちみぎ大将たいしょう辞任じにんする。後任こうにん人事じんじでは平重盛たいらのしげもり花山院かさんのいんけんみやび候補こうほがるが、「禅門ぜんもんしん重盛しげもりにあり」と清盛きよもり意向いこうおおきく作用さようした結果けっか重盛しげもりにんじられた[32]安元やすもと元年がんねん(1175ねん)2がつみやびどおり死去しきょして内大臣ないだいじん空席くうせきとなる。こう白河しらかわいんたいらあいだ調整ちょうせいおこなわれたためか後任こうにんはすぐにまらず、11月10にちになってようやく藤原ふじわら師長もろながにんじられることが決定けっていした[16]師長もろなが後任こうにん大納言だいなごんには重盛しげもりが、重盛しげもり後任こうにんけん大納言だいなごんには藤原ふじわらしげるおや昇格しょうかくしている。いん近臣きんしんたいら対立たいりつ抑止よくしのためには、たがいの勢力せいりょく均衡きんこうたもつことが重要じゅうようだった。

安元やすもと2ねん(1176ねん)にこう白河しらかわいんは50さいむかえ、3月4にちから6にちにかけてほうじゅうてら殿どの賀宴がえんもよおされた[33]。この時期じき天皇てんのういん短命たんめいで50さいたっすることはまれであり、白河しらかわ法皇ほうおうかんかずれいならって盛大せいだいおこなわれた。うたげにはこう白河しらかわいん滋子しげこ高倉たかくらみかど徳子とくこ上西かみにしもんいんまもりさとし法親王ほうしんのう関白かんぱく大臣だいじん公卿くぎょうたいら一門いちもん出席しゅっせきし、初日しょにちまいらく披露ひろうされ、翌日よくじつにはふねかべて、管弦かんげん蹴鞠けまりおこなわれた。最終さいしゅうのちうたげでは高倉たかくらふえき、人々ひとびと感嘆かんたんさせた。賀宴がえん無事ぶじわると、こう白河しらかわ四条しじょうたかし使者ししゃとして「此度のに、一家いっか上達部かんだちめ殿上人てんじょうびと行事ぎょうじにつけても、ことにすぐれたることおほし。朝家ちょうかかざりとゆるぞ」と清盛きよもり院宣いんぜんくだす。清盛きよもりかねひゃくりょうれた白銀はくぎんはこ返礼へんれいとしておくった[34]皮肉ひにくにもこの賀宴がえんは、こう白河しらかわいんたいら協力きょうりょく関係かんけい誇示こじする最後さいご行事ぎょうじとなった。

賀宴がえんの3がつ9にちこう白河しらかわいん滋子しげこれて摂津せっつこく有馬ありま温泉おんせん御幸みゆきする[11]。4月27にちには比叡山ひえいざんのぼり、天台座主てんだいざしゅあかりくもから天台てんだいの戒をけ、延暦寺えんりゃくじとの関係かんけい修復しゅうふくはかった。しかし、6がつ滋子しげこ突然とつぜんやまいたおれ、看護かんご甲斐かいもなく7がつ8にち薨去こうきょした。あい前後ぜんごして高松たかまついん六条ろくじょう上皇じょうこうきゅうじょういん死去しきょしており、賀宴がえんはなやいだ空気くうき一変いっぺんして政局せいきょく混迷こんめいかうことになる。

安元やすもと強訴ごうそ鹿しかだに陰謀いんぼう

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滋子しげこ死去しきょによって、こう白河しらかわいんたいら関係かんけい悪化あっかきざしをはじめる。10月23にち四条しじょう隆房たかふさこう白河しらかわいんだいきゅう皇子おうじみちほう法親王ほうしんのう)をかかえて参内さんだい、11月2にちには平時忠たいらのときただだいじゅう皇子おうじうけたまわじん法親王ほうしんのう)をれて参内さんだいし、2人ふたりとも高倉たかくらみかど猶子ゆうしとなった。九条くじょうけんじつは「もうか皇太子こうたいし)たるべきのうつわか」[35]憶測おくそくしているが、これはこう白河しらかわいんによる高倉たかくらみかど退位たいい工作こうさく一環いっかんかんがえられる。成人せいじん天皇てんのう退位たいい自体じたい白河しらかわ鳥羽とば院政いんせいにもあったことでめずらしくはなかったが、たいらにとって徳子とくこ皇子おうじまれるまえ退位たいい絶対ぜったいみとめられるものではなかった。また、あくまでも高倉たかくらみかど男子だんしがいなかったためにまんいちのための措置そちというかんがかたもある。たしかに建春門院けんしゅんもん崩御ほうぎょ高倉たかくらみかど同母どうぼおとうとまれる可能かのうせいがなくなった以上いじょう皇位こうい継承けいしょう安定あんていはかるのはてん役割やくわりの1つであって、実際じっさい高倉たかくらみかど男子だんしまれると2人ふたり皇子おうじ出家しゅっけすみやかにおこなわれていることから、こう白河しらかわいん立場たちばからすればなん不自然ふしぜんなものではない。一方いっぽうで、たいらかられば、ははいんである建春門院けんしゅんもん崩御ほうぎょ直後ちょくごおこなわれたことや高倉たかくらみかどがまだ16さいであることという時期じきてき問題もんだいこう白河しらかわいん平家ひらか以外いがいあらたな要素ようそ勢力せいりょく)が高倉たかくらみかど退位たいい実現じつげんさせた場合ばあい高倉たかくらみかど政治せいじてき立場たちばきわめて不安定ふあんていになる(かつての崇徳院すとくいんちか状況じょうきょうかれる)可能かのうせいがあることから、こう白河しらかわいん対応たいおう不信ふしんかんいだかせるものであった[36]2人ふたり皇子おうじ高倉たかくらみかど猶子ゆうしとなったのは、こう白河しらかわいんたいら対立たいりつ回避かいひするための妥協だきょうさくおもわれるが、これは問題もんだいさきばしにぎず、両者りょうしゃ対立たいりつ徐々じょじょふかまっていく。

12月5にち除目じもくおこなわれ、いん近臣きんしん藤原ふじわらしげるはん平頼盛たいらのよりもりけん中納言ちゅうなごんとなる。空席くうせきとなった参議さんぎには蔵人くろうどあたま西園寺さいおんじみのるむね藤原ふじわら長方おさかた昇任しょうにんしたため、後任こうにん蔵人くろうどあたま人事じんじ焦点しょうてんとなった。ここでこう白河しらかわいんは、いん近臣きんしん藤原ふじわらじょうのう藤原ふじわらひかりのうんだ。ていのうみちつなりゅうひかりのう御子みこひだり出身しゅっしんなが公卿くぎょうしていない家系かけいであり、位階いかい上臈じょうろう藤原ふじわらみやびちょう平知盛たいらのとももりえたことについて、九条くじょうけんじつは「希代きたい」とひょうしている[16]一方いっぽう安元やすもと3ねん(1177ねん正月しょうがつ14にちにはたいらによるかえしがあり、平重盛たいらのしげもりそうもりがそれぞれひだり大将たいしょうみぎ大将たいしょうとなり、りょう大将たいしょうたいら独占どくせんした。ただしむねもり滋子しげこ猶子ゆうしで、こう白河しらかわいんとの関係かんけい良好りょうこうだった。2月3にちむねもり拝賀はいがには殿上人てんじょうびと蔵人くろうど前駆ぜんくとしてつかわしている。3月14にちには福原ふくはら御幸みゆき千僧せんぞ供養くよう参加さんかして滋子しげこ菩提ぼだいとむらった。

たいらとの関係かんけい修復しゅうふくされたかにえたが、ここであらたな要素ようそとして延暦寺えんりゃくじ登場とうじょうする。加賀かがこく目代もくだい藤原ふじわらけい白山はくさん末寺まつじいたことが発端ほったんで、当初とうしょ目代もくだい現地げんち寺社じしゃによるありふれた紛争ふんそうにすぎなかったが、白山はくさん本寺ほんじ延暦寺えんりゃくじであり、けいとそのあにである加賀かがまもる藤原ふじわらだかちちいん近臣きんしん西光さいこうだったため、中央ちゅうおう波及はきゅうして延暦寺えんりゃくじいん勢力せいりょくとの全面ぜんめん衝突しょうとつ発展はってんした。3月28にちこう白河しらかわいんけい備後びんごこく配流はいるするが、延暦寺えんりゃくじ大衆たいしゅうはあくまでだか配流はいるもとめ、4がつ13にち神輿しんよほうじて内裏だいりかった。こう白河しらかわいん大衆たいしゅう行動こうどうを「大衆たいしゅうすで謀叛ぼうほんいたす」[37]、「訴訟そしょうにあらず。すで謀叛ぼうほんおなじ」[38]だんじて、平重盛たいらのしげもり防御ぼうぎょめいじる。ところが重盛しげもり軍兵ぐんびょう神輿しんよてるという失態しったいおかしたため、情勢じょうせい一挙いっきょ不利ふりとなった。14にち高倉たかくらみかど徳子とくこ内裏だいりからほうじゅうてら殿どの脱出だっしゅつするが、その様子ようすは「禁中きんちゅう周章しゅうしょう上下じょうげ男女だんじょの奔波、ひとえ内裏だいり炎上えんじょうときごと[16]であったという。

いん御所ごしょ議定ぎていでは、内侍所ないしどころ神鏡しんきょうほうじゅうてら殿どのうつすべきか議論ぎろんされたが「内侍所ないしどころ洛外らくがいれいはない」と反対はんたい意見いけんたため沙汰止さたやみとなった。こう白河しらかわいん内侍所ないしどころ守護しゅご平経盛たいらのつねもりめいじるが、けいもりは「左右さゆう入道にゅうどうゆるしにあり」とわず、そうもりも「けいもりいちしょ天皇てんのう)にこうすべきのよし入道にゅうどうもうところなり」と弁護べんごしたため、やむなく源頼政みなもとのよりまさ内裏だいり派遣はけんした[39]こう白河しらかわいん神輿しんよ責任せきにんみとめ、20日はつか藤原ふじわらだか尾張おわりこくへの配流はいる神輿しんよ平重盛たいらのしげもり家人かじん禁獄きんごく宣旨せんじくだされた。

4がつ28にち安元やすもと大火たいかこり、大内裏だいだいりきょうちゅうおおくをくした。5月4にちこう白河しらかわいん天台座主てんだいざしゅあきらくも逮捕たいほし、5月5にちには座主ざす地位ちいから解任かいにんする。5月11にちになると、よしみおう強訴ごうそ今回こんかい事件じけんあかりくも首謀しゅぼうしゃであり、「朝家ちょうかの愁敵」「叡山えいざん悪魔あくま」と糾弾きゅうだんして法家ほうか罪名ざいめいかんもうさせるとともに、所領しょりょうすべ没収ぼっしゅうする[16]後任こうにん天台座主てんだいざしゅにはさとしかい法親王ほうしんのうにんじた。この措置そちたいして延暦寺えんりゃくじ蜂起ほうきするという情報じょうほうながれ、「洛中らくちゅうおどろきひとえ軍陣ぐんじんごとし」と緊迫きんぱくした情勢じょうせいとなる[40]事態じたい急転きゅうてん背景はいけいには、藤原ふじわらだか配流はいるなげ西光さいこう讒言ざんげんがあったとされる。

15にち延暦寺えんりゃくじそうつなほうじゅうてら殿どの参上さんじょうして、座主ざす配流はいるれいはないことを理由りゆう宥免ゆうめんうったえるが、こう白河しらかわいん拒絶きょぜつする。法家ほうかが、謀叛ぼうほんつみによりつみ一等いっとうげんじて流罪るざいかんもうしたのをけて、20日はつかあきらくも罪名ざいめいについて公卿くぎょう議定ぎていひらかれた。藤原ふじわら長方おさかたは「衆徒しゅと訴訟そしょうによりさんじんくわだてあい禦るるあいだ自然しぜん合戦かっせんおよぶ。へん謀叛ぼうほんいいふべからず」として還俗げんぞく流罪るざい宥免ゆうめん主張しゅちょうし、公卿くぎょう同調どうちょうした[16]。しかしこう白河しらかわいん議定ぎてい決定けっていを「ときかのうはず」と一蹴いっしゅうして、21にちあかりくも伊豆いずこく配流はいるした[41]

23にち大衆たいしゅう配流はいる途上とじょうあかりくも身柄みがら奪還だっかんする。こう白河しらかわ伊豆いずこく知行ちぎょう国主こくしゅ配流はいる責任せきにんしゃだった源頼政みなもとのよりまさ譴責けんせきし、延暦寺えんりゃくじ武力ぶりょく攻撃こうげき決意けついかためる。ところがへいひきいる平重盛たいらのしげもりそうもりが「清盛きよもり指示しじがなければうごかない」と出動しゅつどう拒否きょひしたため、ごうやしたのち白河しらかわいんは、福原ふくはらから清盛きよもりして攻撃こうげき要請ようせいする。28にち会談かいだん清盛きよもり出兵しゅっぺい承諾しょうだくするが、内心ないしんよろこばなかったという。29にち武器ぶき携帯けいたいしてきょうちゅう往来おうらいするやから捕縛ほばくしょ国司こくしへの延暦寺えんりゃくじ末寺まつじ荘園しょうえん注進ちゅうしん近江おうみ越前えちぜん美濃みの国内こくない武士ぶし動員どういんおこなわれた[42]うけたまわやす3ねん(1173ねん)の興福寺こうふくじとき同様どうように、延暦寺えんりゃくじりょう荘園しょうえんとまはい意図いとしていたとられる。

しかし、6月1にち多田ただこうつなが、西光さいこう藤原ふじわらしげるおやらがくだりつなさそたいら打倒だとう謀議ぼうぎたくらんでいたことを清盛きよもり密告みっこくしたことで状況じょうきょう激変げきへんする。延暦寺えんりゃくじ攻撃こうげき中止ちゅうし西光さいこうらえられて斬首ざんしゅ藤原ふじわらしげるおや配流はいるいん近臣きんしん一網打尽いちもうだじんにされた(鹿しかだに陰謀いんぼう)。5にちにはあかりくも召還しょうかんされ、9にちには藤原ふじわらだか清盛きよもり家人かじん襲撃しゅうげきけて惨殺ざんさつされる。この事件じけんによりのち白河しらかわいん有力ゆうりょく近臣きんしんうしない、政治せいじてき地位ちい低下ていか余儀よぎなくされる。7月29にち天下てんか物騒ぶっそうもとらん怨霊おんりょうによるものとされ、鎮魂ちんこんのために讃岐さぬきいん院号いんごう崇徳院すとくいんあらため、藤原ふじわらよりゆきちょうには太政大臣だじょうだいじんせいいちおくられた[19]

鹿しかだに陰謀いんぼう情勢じょうせい

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鹿しかだに陰謀いんぼうにより、高倉たかくらみかど退位たいい工作こうさく延暦寺えんりゃくじ攻撃こうげきんだ。失意しついのち白河しらかわいんにさらなるちとなったのが、滋子しげこいち周忌しゅうきにおける法華ほっけはちこう挙行きょこうめぐ紛糾ふんきゅうである。高倉たかくらみかどは閑院をさと内裏だいりとしていたが、清盛きよもり意向いこうはちじょう殿どの行幸ぎょうこうしていた。こう白河しらかわいんは閑院にもどって法華ほっけはちこうおこなうことをめいじるが、けんていおとずれた日野ひの兼光かねみつは「無断むだんで閑院にもどると清盛きよもり内心ないしんどうおもうかからない。はちじょう殿どの挙行きょこうしても問題もんだいはない」とかたり、決定けっていさきばしにされた[43]こう白河しらかわいんつま冥福めいふくいの仏事ぶつじ場所ばしょすら自由じゆうめられなくなっていた。

こう白河しらかわいん政治せいじりょく低下ていか反比例はんぴれいするように、17さいとなった高倉たかくらみかど政治せいじてき自立じりつ傾向けいこうはじめる。「今度こんどじょしょ一向いっこううち御沙汰ごさたたるべし。いんろししょくすべからざるのよしこれをもうさると云々うんぬん[44]こう白河しらかわいんまった政務せいむ関与かんよしないこともあった。もっとも弱体じゃくたいしたとはいえ院政いんせい継続けいぞくしていたため、かつての二条天皇にじょうてんのうときおなじくとう政治せいじとなった。

うけたまわ2ねん(1178ねん正月しょうがつこう白河しらかわいん園城寺おんじょうじけん僧正そうじょうおおやけあらわから伝法でんぼう灌頂けることを計画けいかくするが、灌頂のしょうにより園城寺おんじょうじ戒壇かいだん設立せつりつされることをおそれる延暦寺えんりゃくじは、末寺まつじ荘園しょうえん兵士へいし動員どういんして蜂起ほうき園城寺おんじょうじはらかまえをせる[45]こう白河しらかわいんそうつな派遣はけんして延暦寺えんりゃくじ譴責けんせきするとともに、平宗盛たいらのむねもり福原ふくはらかわせて清盛きよもりす。しかし清盛きよもりしにおうじず、こう白河しらかわいん園城寺おんじょうじ御幸みゆきと灌頂を断念だんねんせざるをなかった[46]。この事件じけんおおきな遺恨いこんとなり、5月になるとこう白河しらかわいん報復ほうふく措置そちとして最勝講さいすこへの延暦寺えんりゃくじそうおおやけ請を停止ていしする[47]延暦寺えんりゃくじとの衝突しょうとつのぞまない高倉たかくらみかどから再三さいさんのとりなしがあったが、こう白河しらかわいんは灌頂を阻止そしした罪科つみとがによるとしてみみさなかった。

このように院政いんせい親政しんせい並立へいりつ困難こんなんで、とう政治せいじはやくもまる。歴代れきだいてんきみようみかど擁立ようりつすることでじゅう権力けんりょくとなることを回避かいひしていたが、たいら支援しえんけている高倉たかくらみかど退位たいいさせることは、こう白河しらかわいんにはもはや不可能ふかのうだった。たいら意図いと高倉たかくらみかど親政しんせいすみやかに移行いこうすることで、こう白河しらかわいん政界せいかいから引退いんたいさせることにあったと推測すいそくされる。

5月24にち平時忠たいらのときただ高倉たかくらみかど徳子とくこ懐妊かいにんつたえる[10]後継こうけいしゃ不在ふざい高倉たかくらみかどよわみだっただけに皇子おうじ誕生たんじょう期待きたいたかまり、朝廷ちょうてい出産しゅっさんのための祈祷きとうれた。こう白河しらかわいん徳子とくこ養女ようじょとしていたことから、たいらへのわだかまりをひとまずいて安産あんざん祈願きがん参加さんかし、11月12にち高倉たかくらみかどだい1皇子おうじ無事ぶじ誕生たんじょうする。清盛きよもりからの立太子りったいし要請ようせいけて、こう白河しらかわいんきゅうじょうけんじつ年内ねんない立太子りったいし是非ぜひ諮問しもんした。けんじつは「2さい・3さい立太子りったいしれいくなく、4さいまでつのはおそい」と奏上そうじょうし、年内ねんない立太子りったいし決定けっていされる[17]。12月9にち皇子おうじ親王しんのう宣旨せんじくだり「げんじん」と命名めいめい、15にち立太子りったいしするが、立太子りったいし儀式ぎしきろく挙行きょこうされ、春宮とうぐうぼうたいら一門いちもんかためられた。皇太子こうたいし周辺しゅうへんから排除はいじょされるかたちとなったのち白河しらかわいんは、ふたたたいらへの不満ふまん警戒けいかいつよめることになる。それでもうけたまわ3ねん(1179ねん)3がつ段階だんかいでは、こう白河しらかわいん厳島いつくしま巫女ふじょ内侍ないしまいるため清盛きよもり西八条にしはちじょうてい御幸みゆき翌日よくじつにもいん御所ごしょななじょう殿どのおなまいおこなわれるなど両者りょうしゃ交流こうりゅうかろうじてたもたれていた[48]

院政いんせい停止ていし

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6月21にちこう白河しらかわいん小松こまつ殿どの御幸みゆきし、重病じゅうびょう平重盛たいらのしげもり見舞みまった[10]重盛しげもりたいら一門いちもんではおや院政いんせいであり、清盛きよもりとの対立たいりつおさえる最後さいご歯止はどめだった。それに先立さきだつ17にち清盛きよもりむすめ白河しらかわ殿どの盛子もりこ死去しきょしている。盛子もりこによる摂関せっかんりょう帰属きぞく問題もんだいは、こう白河しらかわいん清盛きよもり全面ぜんめん衝突しょうとつ惹起じゃっきすることになる。

ぜん関白かんぱく近衛このえはじめじつ没後ぼつご摂関せっかんりょう後家ごけ盛子もりこ管理かんりしていたが、これはあくまで嫡男ちゃくなんもとどおり成人せいじんするまでの一時いちじてきなものだった。盛子もりこはやすぎるは、もとどおりへの継承けいしょうという清盛きよもり既定きてい路線ろせんおおきくくるわせることになる。この時点じてん参議さんぎみぎ中将ちゅうじょうぎないもとどおりが、関白かんぱく長者ちょうじゃまつ殿どのもとぼういてのこりょうすべ相続そうぞくすることには無理むりがあった。そこでたいらった方策ほうさくが、盛子もりこじゅんははとなっていた高倉天皇たかくらてんのうへのつてりょうである。盛子もりこ死去しきょしてわずか2にちの19にちには、平時忠たいらのときただ中山なかやまただしおやに「荘園しょうえん一向いっこう主上しゅじょう附属ふぞくたてまつられりょうはんぬ」と通告つうこく[10]20日はつかにはきゅうじょうけんも「白川しらかわ殿どの所領しょりょうやめことみなことごとうち御沙汰ごさたあるべし」という情報じょうほう入手にゅうしゅしている[16]。この措置そちは、もとどおり成長せいちょうして関白かんぱく長者ちょうじゃになるまでの時間じかんかせぎとられる。

この措置そち不満ふまんつのらせたまつ殿どのもとぼうは、長者ちょうじゃとしてのこりょう相続そうぞく権利けんりがあることをこう白河しらかわいんうったえる。『かんしょう』には「白川しらかわ殿どのウセテいちしょいえりょう文書ぶんしょことナドまつ殿どのさるサルルむねアリ。いんモヤウヤウ御沙汰ごさたドモアリケリ」とあり、もとぼううったえをいたのち白河しらかわいんのこりょう問題もんだい介入かいにゅうしたとする。やがて「うち御沙汰ごさた」となったはずの盛子もりこのこりょうは、いん近臣きんしん藤原ふじわらけんもり白河しらかわ殿どのくらあずかにんじられてこう白河しらかわいん管理かんりはいった。これは高倉天皇たかくらてんのうりょうたいして、皇統こうとうちょう権限けんげん行使こうししたものとかんがえられる。この時期じき在位ざいいちゅう天皇てんのう所領しょりょう管理かんりこういんおこなっており、皇統こうとうちょうであるおさむてんきみこういん掌握しょうあくしていた。

こう白河しらかわいんまつ殿どのもとぼう清盛きよもり対立たいりつは、10月9にち除目じもく決定的けっていてきなものとなる。じんやす元年がんねん(1166ねん以来いらい平重盛たいらのしげもり知行ちぎょうこく越前えちぜんが「入道にゅうどうニモトカクノおおせセモナク」[4]没収ぼっしゅうされていんぶんこくとなるが、それにもして衝撃しょうげきだったのが清盛きよもり推挙すいきょする20さい近衛このえはじめどおり無視むしして、もとぼうでわずか8さいまつ殿どの師家しかけん中納言ちゅうなごんにんじられたことである。この人事じんじ師家しかがいずれ長者ちょうじゃとなり、こう白河しらかわいん管理かんりはいった摂関せっかんりょう継承けいしょうすることを意味いみした。この強引ごういん措置そちは、摂関せっかん出身しゅっしんきゅうじょうけんでさえも「法皇ほうおう過怠かたい」「ひろしりく罪科つみとが」であり国政こくせいみだすものと批判ひはんしている[49]。さらにこう白河しらかわいんもとぼう平家ひらか党類とうるいほろぼす密謀みつぼうっているという情報じょうほうながれた[50]

これにたいして清盛きよもりは、11月14にち政変せいへんこす(うけたまわさんねん政変せいへん)。まつ殿どのもとぼう師家しか父子ふしはただちに罷免ひめんされるが、これは天皇てんのう公式こうしき命令めいれいである宣命せんみょう詔書しょうしょによって執行しっこうされた。院政いんせい天皇てんのう後見こうけんであることを権力けんりょく源泉げんせんとしていたため、天皇てんのうがわ独自どくじ支持しじ勢力せいりょく背景はいけい攻撃こうげき仕掛しかけてくると抵抗ていこうできないという構造こうぞうてき弱点じゃくてんかかえていた。清盛きよもり強硬きょうこう姿勢しせいおどろいたのち白河しらかわいんせいけん派遣はけんして「自今じこん以後いごまんくちいれるべからざる今後こんご二度にど政務せいむ介入かいにゅうしない)」[50]ことをもうれるが、20日はつかれたほうじゅうてら殿どのかららくみなみ鳥羽とば殿どの連行れんこうされて幽閉ゆうへいとなった。ここにこう白河しらかわ院政いんせい完全かんぜん停止ていしされた。

寺社じしゃ勢力せいりょく反発はんぱつ

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こう白河しらかわいん鳥羽とば殿どのきびしい監視かんしかれ、藤原ふじわらしげるはんおさむはんしずけん(いずれも信西しんぜい)や女房にょうぼう2・3にん以外いがい御所ごしょへの出入でいりはきんじられた。幽閉ゆうへいの11月21にち清盛きよもりいんちょうとしあずか中原なかはら宗家そうけいんりょう目録もくろくさせ、12月にはこういんちょう設置せっちされる[11]。これらはこう白河しらかわいんからいんりょう没収ぼっしゅうして、高倉天皇たかくらてんのうりょうむために必要ひつよう措置そちだった。うけたまわ4ねん(1180ねん)2がつ21にち高倉たかくらみかど譲位じょういこういんちょういん藤原ふじわらたかし吉田よしだけいぼう藤原ふじわら長方おさかた)はそのまま高倉たかくらいんちょう別当べっとう異動いどうして、高倉たかくら院政いんせい発足ほっそくする。幽閉ゆうへい生活せいかつのち白河しらかわいん正月しょうがつ下旬げじゅんより病気びょうき憔悴しょうすい状態じょうたいとなり、平宗盛たいらのむねもり許可きょか診察しんさつおもむいた典薬てんやくあたま和気わけじょうなりに「もう一度いちど熊野くまのまいきたい」となみだながらにうったえたという[51]

3がつになると高倉たかくら上皇じょうこう清盛きよもりつよ要請ようせいにより、厳島いつくしま神社じんじゃへの参詣さんけい計画けいかくする。しかし上皇じょうこう最初さいしょ参詣さんけいは、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう賀茂かもしゃ春日しゅんじつしゃ日吉ひよししゃのいずれかでおこなうことが慣例かんれいだったため、宗教しゅうきょうてき地位ちい低下ていかおそれる延暦寺えんりゃくじ園城寺おんじょうじ興福寺こうふくじ猛然もうぜん反発はんぱつした。三寺みつでら大衆たいしゅう連合れんごうして高倉たかくらいんこう白河しらかわいん身柄みがら奪取だっしゅするくわだてがひそかに進行しんこうしていたが、こう白河しらかわいん平宗盛たいらのむねもり大衆たいしゅううごきをつたえたことで露顕ろけんする[52]そうもり平通ひらどおりもり平経正たいらのつねまさ鳥羽とば殿どのに、平知盛たいらのとももり高倉たかくら御所ごしょ派遣はけんして警護けいごきびしくすると、福原ふくはら清盛きよもり今後こんご指示しじあおいだ。清盛きよもりこう白河しらかわいん協力きょうりょくてき姿勢しせい幾分いくぶん態度たいど軟化なんかさせたらしく、女房にょうぼう2にん京極きょうごくきょく丹後局たんごのつぼね)の伺候しこうみとめた[53]らくみなみ鳥羽とば殿どの洛中らくちゅうからとお警備けいび不安ふあんがあったため、こう白河しらかわいん五条ごじょう大宮おおみや藤原ふじわらためぎょうていうつすことになったが、そうもりが「日次にちじ(ひなみ)よろしからず」と判断はんだんして延引えんいんとなった[54]

動乱どうらんはじまり

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5がつ10日とおか清盛きよもり上洛じょうらくして武士ぶし洛中らくちゅう充満じゅうまんする。14にちこう白河しらかわいん武士ぶし300警護けいごにより八条坊門はちじょうぼうもん烏丸からすまていに遷った[注釈ちゅうしゃく 7]。これらのうごきは以仁王もちひとおう謀叛ぼうほん発覚はっかくしたことによるものだった。以仁王もちひとおう挙兵きょへい短期間たんきかん鎮圧ちんあつされるが、その背後はいごには暲子内親王ないしんのうはちじょういん)の存在そんざいがあり、こう白河しらかわいん密接みっせつ関係かんけいにある園城寺おんじょうじ関白かんぱく配流はいる反発はんぱつする興福寺こうふくじあずかどうしたことは、成立せいりつしたばかりの高倉たかくら院政いんせいにとっておおきな脅威きょういとなった。6月2にち清盛きよもり敵対てきたい勢力せいりょくかこまれて地勢ちせいてき不利ふり京都きょうと放棄ほうきし、たいら本拠地ほんきょち福原ふくはらへの行幸ぎょうこう強行きょうこうする。こう白河しらかわいん強制きょうせいてき同行どうこうさせられ、福原ふくはら平教盛たいらののりもりていはいった。

福原ふくはらでの新都しんと建設けんせつ準備じゅんび不足ふそくのため難航なんこうし、貴族きぞくだけでなくたいら一門いちもん高倉たかくら上皇じょうこう延暦寺えんりゃくじからも反対はんたいこえがった。そして10がつ富士川ふじかわたたか大敗たいはい軍事ぐんじ情勢じょうせい極度きょくど悪化あっかしたことから、清盛きよもりかえ同意どういせざるをなくなる。11月23にち福原ふくはら出発しゅっぱつしたいちぎょうは、26にち京都きょうと到着とうちゃくこう白河しらかわいんろくいずみ殿どのはいった[10]。30にち東国とうごくぎゃくらんについての公卿くぎょう議定ぎていひらかれるが、その席上せきじょう藤原ふじわら長方おさかたこう白河しらかわ院政いんせい再開さいかいまつ殿どのもとぼう召還しょうかん主張しゅちょうする[10]。この発言はつげんは「長方おさかたきょう善言ぜんげんく」[55]、「時勢じせいに諛はず、直言ちょくげんく」[56]貴族きぞくから広範こうはん支持しじあつめたらしい。その効果こうかによるものか、16にちよるもとぼう配流はいるさき備前びぜんこくから帰京ききょうし、18にちには清盛きよもりが「法皇ほうおう天下でんかせいしょくすべきよし」をこう白河しらかわいん再三さいさんもうれる。こう白河しらかわいん当初とうしょ辞退じたいしていたが最後さいごには承諾しょうだくして、讃岐さぬき美濃みのいんぶんこくとすることもまった[57]

この時期じき高倉たかくら上皇じょうこう病状びょうじょうが「いまにおいてはあがきゅうのうはず」[58]というほど悪化あっかしていたことが、清盛きよもり譲歩じょうほした要因よういんひとつとしてかんがえられる。高倉たかくらいん崩御ほうぎょすれば幼児ようじ安徳天皇あんとくてんのう政務せいむれない以上いじょうこう白河しらかわいん院政いんせい再開さいかいしかみちのこされていなかった。清盛きよもりこう白河しらかわいん院政いんせい無条件むじょうけんみとめるつもりはなく、園城寺おんじょうじ興福寺こうふくじはらう(近江おうみ攻防こうぼう南都なんと焼討やきうち)とともに、うけたまわ5ねん1181ねん)には東大寺とうだいじ興福寺こうふくじそうつな以下いかにんいて寺領じりょう荘園しょうえん没収ぼっしゅう[59]いん近臣きんしんたいらともやすし大江おおえこうあさ甲斐かいはじめ武田たけだゆうよしなどの危険きけん分子ぶんしかいかんするなど[60]可能かのうかぎ白河しらかわいん勢力せいりょく基盤きばん削減さくげんはかった。

高倉たかくら上皇じょうこう清盛きよもり

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正月しょうがつ12にちには高倉たかくら上皇じょうこう危篤きとく状態じょうたいとなるが、ここで高倉たかくらいん崩御ほうぎょ中宮ちゅうぐう徳子とくこ法皇ほうおう後宮こうきゅうおさめるという破天荒はてんこうあんし、清盛きよもり時子ときこ夫妻ふさい承諾しょうだくしたという情報じょうほうながれ、見舞みまいにけつけたきゅうじょうけんじつは「およそ言語げんごおよところにあらざるものなり」と呆然ぼうぜんとした[61]こう白河しらかわいんは、このたいら策謀さくぼう辟易へきえきとしたらしく「たいらもっ辞退じたい」する。徳子とくこ身代みがわりとして、清盛きよもりべつむすめ御子みこ姫君ひめぎみ法皇ほうおう猶子ゆうしとして後宮こうきゅうはいるが、「ただづけおんなごとくなり」とまったかえりみられることはなかった[62]

14にち高倉たかくら上皇じょうこう崩御ほうぎょしたため、「天下てんかまん法皇ほうおうもとごときこしょくす」ことになり白河しらかわいん院政いんせい再開さいかいされる[63]高倉たかくらいん崩御ほうぎょたいらうごきはあわただしくなり、16にち高倉たかくらいんのこみことのりにより畿内きないそう官職かんしょく設置せっちされる。これによりたいらは、こう白河しらかわ院政いんせい軍事ぐんじてき権限けんげん行使こうしすることができるようになった。さらに2がつ4にちには、高松たかまついんりょうがやはり高倉たかくらいん遺言ゆいごんにより中宮ちゅうぐう徳子とくこでんりょうされる。これは高倉たかくらいんちょう別当べっとう中宮なかみや大夫たいふ平時忠たいらのときただ強引ごういん処理しょりしたもので、こう白河しらかわいん内心ないしんよろこばなかったという[16]院政いんせい再開さいかいによりうけたまわさんねん政変せいへんこう白河しらかわいんから没収ぼっしゅうしたいんりょう返還へんかんしなければならず、皇位こうい付随ふずいするのちいんりょうこう白河しらかわいん管理かんりはいることはえていた。徳子とくこへのつてりょうは、王家おうけりょうこう白河しらかわいん流出りゅうしゅつすることをめるための防衛ぼうえいさくであったとかんがえられる。

2がつ7にち丹波たんばこくしょ荘園しょうえんそう下司げすしょく設置せっちされ、よくうるう2がつ関東かんとうへの追討ついとう使として平宗盛たいらのむねもりみずか出馬しゅつばして「一族いちぞく武士ぶし大略たいりゃく下向げこう」することがまり[64]反撃はんげき準備じゅんびととのえられていった。しかし、清盛きよもりやまいが「じゅうきゅうはその憑みし」という状況じょうきょうとなり、派兵はへい延期えんきとなる[65]うるう2がつ4にち清盛きよもりこう白河しらかわいんに「愚僧ぐそう早世そうせいのち万事ばんじそうもりおおせつけりょうはんぬ。まいことおおあわせ、けいらひぎょうはるべきなり」ともうれる。しかしこう白河しらかわ明確めいかく返答へんとうけたため、清盛きよもりうらみをふくいろせ「天下てんかことひとえぜん幕下まくしたさいなり。異論いろんあるべからず」といいのこして死去しきょした[66][注釈ちゅうしゃく 8]

このよるこう白河しらかわいんみや武士ぶし群集ぐんしゅうしているという風聞ふうぶんがあり、人々ひとびとこう白河しらかわいん平宗盛たいらのむねもり変異へんいしんいたのではないかと憶測おくそくした。『平家ひらか物語ものがたり』「築島つきしま」には、ろくみなみほうじゅうてら殿どの)から2、30にんの「うれしやみず、なるはたきみず[注釈ちゅうしゃく 9]おどり、どっとわらこえこえたというはなししるされている。『百錬ひゃくれんしょううるう2がつ4にちじょうにも「八日ようか葬礼そうれいくるまよせするのあいだ東方とうほう今様いまよう乱舞らんぶこえさんじゅうにんもとりのこえり。ひとをもってこれをせしむ。さい勝光かつみついんなかに聞ゆ」とある。こう白河しらかわいんは2がつ2にちさい勝光かつみついんに遷っているので[16]今様いまよう乱舞らんぶなかにいたことはまず間違まちがいない。こう白河しらかわいんにとって清盛きよもりは、えず存在そんざいした重圧じゅうあつからの解放かいほうだった。

院政いんせい再開さいかい

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清盛きよもり死後しご平宗盛たいらのむねもりは「入道にゅうどう所行しょぎょうとうかなわざるのこととうありと雖も、諫争するのうはず。ただかれいのちまもりてまかぐるしょなり。いまいては、万事ばんじへん院宣いんぜんおもむきもっぞんおこなうべくこう[68]表明ひょうめいして、こう白河しらかわいん恭順きょうじゅんする姿勢しせいしめした。そうもり発言はつげんけて、こう白河しらかわいん公卿くぎょう議定ぎていひらいて追討ついとう中断ちゅうだん決定けっていする。せいけんそうもり議定ぎてい決定けっていつたえると、そうもり追討ついとう使として平重衡たいらのしげひら下向げこうさせることを理由りゆうに、追討ついとうのためのいんちょうぶん発給はっきゅうすることを要求ようきゅうした。せいけんが「それでははなしちがう」と抗議こうぎすると、そうもりは「よりゆきもりきょうもりとうきょうまねしょうし、かさねてもうさしむべし」と返答へんとうした[69]

おやたいら四条しじょうたかし中山なかやまただしおやは、平宗盛たいらのむねもり意向いこう沿ったいんちょうぶん草案そうあん作成さくせいする[70]こう白河しらかわいん草案そうあんて「まったところがなく、しかるべからざる内容ないようだ」と反発はんぱつしたが、結局けっきょくそうもり圧力あつりょくくっして追討ついとういんちょうぶん発給はっきゅうすることになった。このように軍事ぐんじ問題もんだいかんしてはたいら主導しゅどうけんにぎり、こう白河しらかわいん意向いこう反映はんえいされることはなかった。こう白河しらかわいん東国とうごく追討ついとうについて融和ゆうわさくかんがえていたらしく、みなもと頼朝よりともからの密奏みっそうけてそうもり和平わへい打診だしんする。和平わへいあん内容ないようは「古昔こせきごとく、源氏げんじたいらしょうならび、使つかいふべきなり」とたいら立場たちばにも配慮はいりょしたものだったが、そうもり拒絶きょぜつにより調停ちょうてい失敗しっぱいわる[71]

この時期じきのち白河しらかわいんたいら圧力あつりょく対抗たいこうするため、はちじょういん緊密きんみつ連携れんけいっていた[注釈ちゅうしゃく 10]。さらに、4がつ10日とおか安徳天皇あんとくてんのうはちじょうよりゆきもりていから閑院にうつ[72]、11月25にち徳子とくこ院号いんごう宣下せんげけると殿上人てんじょうびとみずかきよしせんしている[73]天皇てんのう母后ぼこうたいらからはなねらいがあったとられる。養和ようわ2ねん1182ねん)3がつには、藤原ふじわらじょうのう藤原ふじわらひかりのう高階たかしなやすしけいかえまかして「うけたまわさんねんかいかん人々ひとびとふゆ今春こんしゅん除目じもく過半かはんかえ[74]となる。壊滅かいめつ状態じょうたいだった院政いんせいいきかえしたことで、たいらこう白河しらかわいんうごきに警戒けいかいしんつよめていく。4月15にちこう白河しらかわいん比叡山ひえいざん御幸みゆきしたときには、大衆たいしゅう不穏ふおんうごきをしているといううわさながれ、平重衡たいらのしげひらへいひきいて出動しゅつどうするさわぎとなった[26]

ただし、九条くじょうけんじつ代表だいひょうされる貴族きぞくそう日和見ひよりみてき態度たいどったため、こう白河しらかわいん一挙いっきょ主導しゅどうけんにぎることはできなかった。こう白河しらかわいんたいら協力きょうりょくてき姿勢しせいしめし、諸国しょこく荘園しょうえん院宣いんぜんくだしてへい粮米を徴収ちょうしゅうする[75]。しかし養和ようわ飢饉ききん影響えいきょう徴収ちょうしゅうおもうようにすすまず、吉田よしだけいぼうは「万民ばんみんうれい、一天いってんついえ、ただこのことにあるか」と慨嘆がいたんしている。

8がつ14にちこう白河しらかわいんだいいち皇女おうじょ亮子あきこ内親王ないしんのうあらたに安徳天皇あんとくてんのうじゅんははとしておく皇后こうごうとする[76]安徳天皇あんとくてんのうじゅんははには、それまでは清盛きよもり後押あとおしで近衛このえ通子みちこもとむすめ)がえらばれていた。じゅんはは禁中きんちゅう伺候しこうし、行幸ぎょうこうさいようみかどどう輿こしするなど重要じゅうよう機能きのうゆうしていたため、政治せいじ主導しゅどうけん奪還だっかんするために必要ひつよう措置そちだったと推測すいそくされる。9月にはだい嘗会の準備じゅんびのため、院宣いんぜんにより追討ついとう停止ていしされた[77]

叡山えいざん潜幸せんこう

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寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)2がつ21にち安徳天皇あんとくてんのうはじめて白河しらかわいんへのあさ行幸ぎょうこうおこな[78]こう白河しらかわいん逆修ぎゃくしゅ生前せいぜん死後しご冥福めいふくいの仏事ぶつじ)と日程にっていかさなることから延期えんき希望きぼうしていたが、平宗盛たいらのむねもりつよ要望ようぼう予定よていどおりにおこなわれた。そうもりは3がつ追討ついとう使発向はっこうさせる準備じゅんびすすめていたため、日程にってい変更へんこうする余裕よゆうはなかった。追討ついとう使発向はっこうおくれ、4がつ9にちにようやく北陸ほくりく征討せいとう伊勢神宮いせじんぐう以下いか16しゃ祈願きがんされ[29]、4がつ17にち平維盛たいらのこれもりそう大将たいしょうとする10まんといわれる大軍たいぐん北陸ほくりくどう下向げこうする[11]。しかし、たいら総力そうりょく結集けっしゅうしておくんだ追討ついとうぐんは5月11にち倶利伽羅峠くりからとうげたたか[79]と、6月1にち篠原しのはらたたか壊滅かいめつし、これまで維持いじされてきた軍事ぐんじ均衡きんこう完全かんぜん崩壊ほうかいした。7月22にちには延暦寺えんりゃくじそうつな下山げざんして、木曾きそ義仲よしなかぐんひがしとう惣持そうじいん城郭じょうかくかまえたことをあきらかにした[72]

24にち安徳あんとくみかどほうじゅうてら殿どの行幸ぎょうこうするが、すでに「遷都せんとるべきの出来でき[80]といううわさながれており、たいらこう白河しらかわいん安徳あんとくみかどようして西国さいこく退去たいきょする方針ほうしん決定けっていしていたとおもわれる。よるになるとこう白河しらかわいん平宗盛たいらのむねもりしょおくり、「わか火急かきゅうおよばば何様なにさまぞんしまさしむべきか。のぞんでさだめて周章しゅうしょうせしめんか。仔細しさいもうさるべし」とさぐりをれた。そうもりの「左右さゆう参入さんにゅう御所ごしょこうふべし」という返事へんじいて都落みやこおちの意図いと察知さっちすると、25にち未明みめいみなもとたいらともやすしだけをれて輿こしほうじゅうてら殿どの脱出だっしゅつ鞍馬あんば横川よこかわ比叡山ひえいざんのぼり、ひがしとう円融えんゆうぼうした[81]こう白河しらかわいん脱出だっしゅつったそうもりろくはなち、安徳あんとくみかど建礼門院けんれいもんいん近衛このえはじめどおりたいら一族いちぞくれて周章しゅうしょうした。

26にちには公卿くぎょう殿上人てんじょうびと続々ぞくぞくこう白河しらかわいんしたあつまり、円融えんゆうぼうはさながらいん御所ごしょ様相ようそうていした。27にちこう白河しらかわいん錦部にしきべ冠者かんじゃ山本やまもと義経よしつね)と悪僧あくそうちんけい前駆ぜんくとして下山げざんし、蓮華れんげおういんはいる。28にち公卿くぎょう議定ぎていひらかれ、たいら追討ついとう安徳天皇あんとくてんのう帰京ききょう神器じんぎ返還へんかん議論ぎろんされた。中山なかやまただしおや藤原ふじわら長方おさかた追討ついとうよりも神器じんぎ返還へんかん優先ゆうせんすべきと主張しゅちょうするが、木曾きそ義仲よしなかみなもとこうぐん占拠せんきょしており、天皇てんのう神器じんぎ回復かいふく目処めどたないことから、「ぜん内大臣ないだいじん幼主ようしゅまつり、神鏡しんきょうけんった」としてたいら追討ついとう宣旨せんじくだ[78]。ここにたいら賊軍ぞくぐん転落てんらくし、義仲よしなかぎょうぐん官軍かんぐんとして京都きょうと守護しゅごすることになった。

新帝しんてい擁立ようりつじゅうがつ宣旨せんじ

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7がつ28にちこう白河しらかわいん木曾きそ義仲よしなかみなもとこうたいら追討ついとう宣旨せんじくだすと同時どうじに、いんちょうちょうかん中原なかはらやすしじょう関東かんとう派遣はけんした。こう白河しらかわいんにとってたいら安徳あんとくみかどれてげていったのは不幸ふこうちゅうさいわいであり、8がつ6にちたいら一門いちもん党類とうるい200余人よにんかいかんすると[82]、16にちには天皇てんのう不在ふざいなかいん殿上てんじょう除目じもく強行きょうこうして、たいらめていた官職かんしょく受領じゅりょうのポストに次々つぎつぎいん近臣きんしんおくんだ。いん殿上てんじょう除目じもく反対はんたいしていたきゅうじょうけんじつは「異議いぎなし」と屈服くっぷくし、「にんじんからだほとんぶつきょういいふべし。かなしむべしかなしむべし」[83]憤慨ふんがいしている。

こう白河しらかわいん平時忠たいらのときただどう上平かみひら官職かんしょくかずに天皇てんのう神器じんぎ返還へんかんもとめたが、交渉こうしょう不調ふちょうわる[84]。やむをず、のこっている高倉たかくらいん皇子おうじ2にんなかからしん天皇てんのう擁立ようりつすることにめるが、ここで木曾きそ義仲よしなか突如とつじょとして以仁王もちひとおう北陸ほくりくみや即位そくい主張しゅちょうする。九条くじょうけんが「王者おうじゃ沙汰さたいたりては、人臣じんしんさいにあらず」[85]うように、この介入かいにゅうてんきみ権限けんげん侵犯しんぱんだった。義仲よしなか異議いぎおさえるためにぼくおこなわれ、20日はつか四宮しのみやみことなり親王しんのう後鳥羽ごとば天皇てんのう)が践祚せんそする[注釈ちゅうしゃく 11]こう白河しらかわいん義仲よしなか傲慢ごうまん態度たいどいきどおっていたとおもわれるが[注釈ちゅうしゃく 12]たいら追討ついとうのためには義仲よしなか武力ぶりょくたよらざるをず、義仲よしなか平家ひらかぼつかんりょう140箇所かしょあたえた[87]

木曾きそ義仲よしなか期待きたいされた役割やくわりは、たいら追討ついとうよりもむしろきょうちゅう治安ちあん回復かいふくだったが、9月になると略奪りゃくだつ横行おうこうする。たまりかねたのち白河しらかわいんは19にち義仲よしなかし、「天下てんかしずかならず。またたいら放逸ほういつまいこと不便ふべんなり」[88]めた。義仲よしなかがすぐにたいら追討ついとうかうことを奏上そうじょうしたため、こう白河しらかわいんみずかけんあた出陣しゅつじんさせている。

木曾きそ義仲よしなか出陣しゅつじんわるように、関東かんとう派遣はけんされていた使者ししゃ中原なかはらやすしじょう帰京ききょうする。かんじょうつたえた頼朝よりともさるじょうは、「平家ひらか横領おうりょう神社じんじゃ仏寺ぶつじりょう本社ほんしゃへの返還へんかん」「平家ひらか横領おうりょういんみや諸家しょかりょうほんぬしへの返還へんかん」「降伏ごうぶくしゃ斬罪ざんざいにしない」というもので、「一々いちいちさるじょう義仲よしなかとうひとししからず」[89]朝廷ちょうていおおいによろこばせるものであった。10月9にちこう白河しらかわいん頼朝よりとも本位ほんいふくして赦免しゃめん、14にちには寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじくだして、東海とうかい東山ひがしやま両道りょうどう諸国しょこく事実じじつじょう支配しはいけんあたえる[11]。ただし、こう白河しらかわいん北陸ほくりくどう宣旨せんじ対象たいしょう地域ちいきからのぞき、上野うえの信濃しなの義仲よしなか勢力せいりょくけんみとめて、頼朝よりとも義仲よしなかとの和平わへいめいじた[90]高階たかしなやすしけいが「頼朝よりともおそれるべしと雖もとおさかいにあり。義仲よしなか当時とうじきょうにあり」[91]かたるように、京都きょうと義仲よしなか軍事ぐんじ制圧せいあつにある状況じょうきょう義仲よしなか功績こうせきすべ否定ひていすることは不可能ふかのうだったが、頼朝よりともはあくまで義仲よしなか排除はいじょ要求ようきゅうした。

ほうじゅうてら合戦かっせん

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こう白河しらかわいん頼朝よりとも交渉こうしょう容易ようい妥結だけつしないなかうるう10がつ15にち木曾きそ義仲よしなか帰京ききょうする。人々ひとびと動揺どうようおおきく「いんちゅう男女だんじょ上下じょうげ周章しゅうしょうきわし。あたか戦場せんじょうに交るがごとし」[92]であったという。20日はつか義仲よしなか頼朝よりとも上洛じょうらくうながしたこと、頼朝よりとも宣旨せんじくだしたことを「生涯しょうがい遺恨いこん」と抗議こうぎ[16]頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじないし御教書みぎょうしょ発給はっきゅう[93]志田しだ義広よしひろたいら追討ついとう使への起用きよう要求ようきゅうするが、こう白河しらかわいん拒絶きょぜつした。

11月4にち源義経みなもとのよしつねぐん不破ふわせきにまでたっした。この情報じょうほうちからのち白河しらかわいんは、7にち木曾きそ義仲よしなかのぞみなもとこう以下いか源氏げんじしょしょういん御所ごしょ警護けいごさせる。10日とおかから16にちまではあらわみつ諸宗しょしゅうそうらがいん主催しゅさい法会ほうえ動員どういんされ、怨敵おんてき調伏ちょうぶく修法しゅほうおこなっている。その模様もよう記録きろくした「蓮華れんげおういんひゃくだんだい威徳いとくきょう[94]末尾まつびには「どうさんねん正月しょうがつ廿にじゅう義仲よしなか滅亡めつぼうがつななにちたいら悉被、以ゆうほうけん已上いじょう」としるされており、調伏ちょうぶく対象たいしょう義仲よしなかふくまれていたことが裏付うらづけられる。16にちには、延暦寺えんりゃくじ園城寺おんじょうじ協力きょうりょくをとりつけて僧兵そうへい石投いしなぎ浮浪ふろうみんなどをかきあつめ、ほりしがらみをめぐらせほうじゅうてら殿どの武装ぶそうすすめた。くだりたいら追討ついとうのため不在ふざいだったが、こう白河しらかわいん圧倒的あっとうてき優位ゆういったと判断はんだんし、義仲よしなかたいして最後さいご通牒つうちょうおこなう。その内容ないようは「ただちにたいら追討ついとうのため西下さいかせよ。院宣いんぜんそむいて頼朝よりともぐんたたかうのであれば、宣旨せんじによらず義仲よしなか一身いっしん資格しかくおこなえ。もし京都きょうと逗留とうりゅうするのなら、謀反むほんみとめる」というものだった[95]義仲よしなかから「きみそむくつもりはまったくない」という弁明べんめいがあったが、17にちよるはちじょういん、18にち上西かみにしもんいん亮子あきこ内親王ないしんのう御所ごしょり、わるように後鳥羽ごとば天皇てんのうまもりさとし法親王ほうしんのうまどかめぐみ法親王ほうしんのうあきらくも御所ごしょはいっていることから、義仲よしなかへの武力ぶりょく攻撃こうげき決意けついかためたとおもわれる。

19にちほうじゅうてら殿どの木曾きそ義仲よしなかぐん襲撃しゅうげきける。いんがわみなもと光長みつながひかりけい父子ふし奮戦ふんせんしたものの完膚かんぷなきまでに大敗たいはいし、こう白河しらかわいんほうじゅうてら殿どのからの脱出だっしゅつはかるがらえられ、摂政せっしょう近衛このえはじめどおり五条ごじょう東洞とうどういんてい幽閉ゆうへいされた。このたたかいであかりくもまどかめぐみ法親王ほうしんのう藤原ふじわら信行のぶゆき清原きよはらちかしぎょうらが戦死せんしし、院政いんせい象徴しょうちょうだったほうじゅうてら殿どの炎上えんじょうした(ほうじゅうてら合戦かっせん)。義仲よしなかとの対決たいけつ惨憺さんたんたる結果けっかわったが、こう白河しらかわいんに「歎息たんそく」はなかったという[96]五条ごじょう殿どの警備けいびは「近日きんじつらいに陪し、おんなしゃいたるまで検知けんちふ」[97]という厳重げんじゅうなものだったが、12月10にち怪異かいいのためという理由りゆうで、六条ろくじょう西洞院にしのとういんたいらぎょうただしやしきうつされた[98]同日どうじつこう白河しらかわ義仲よしなか恫喝どうかつにより、頼朝よりとも追討ついとういんちょうぶん発給はっきゅうしている。

たいら追討ついとう

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寿ことぶきひさし3ねん1184ねん正月しょうがつ20にち源範頼みなもとののりより義経よしつねぐん攻撃こうげき木曾きそ義仲よしなかはいした。解放かいほうされたのち白河しらかわいんはすぐに摂政せっしょうまつ殿どの師家しか解任かいにんし、よく21にち公卿くぎょう議定ぎていひらく。最大さいだい議題ぎだいは、勢力せいりょくかえ福原ふくはらまで進出しんしゅつしていたたいらへの対応たいおうだった。この席上せきじょう大炊おおい御門みかどけいむね徳大寺とくだいじ実定さねさだは、こう白河しらかわいん叡慮えいりょにより追討ついとう主張しゅちょうする[99]出席しゅっせきしゃおおくは神鏡しんきょうけん璽の安全あんぜんのため使者ししゃ派遣はけんすべきという意見いけんだったが、いん近臣きんしん藤原ふじわら朝方あさがた水無瀬みなせおやしんひらおやむねも「へん征伐せいばつせらるべし」と主張しゅちょうした。それは「法皇ほうおう素懐そかい」であったという[100]結果けっか、26にち平宗盛たいらのむねもり追討ついとう宣旨せんじ、29にち義仲よしなか残党ざんとうおい宣旨せんじくだされることになる[101]こう白河しらかわいんにすれば、たいら政権せいけん復帰ふっきするとふたた院政いんせい停止ていし幽閉ゆうへいとなるおそれがあり、和平わへいはありえなかった。

2がつ7にち源範頼みなもとののりより義経よしつねぐん一ノ谷いちのやたたかたいらぐん壊滅かいめつさせる。こう白河しらかわいん捕虜ほりょとなった平重衡たいらのしげひらかいして、平宗盛たいらのむねもり神器じんぎ返還へんかんもとめた[102]。これにたいするそうもり返書へんしょには「6にち修理しゅうりけん大夫たいふ修理しゅうり大夫たいふとすれば、藤原ふじわらちかししん)から和平わへい交渉こうしょうおこなうという書状しょじょうとどいた。合戦かっせんしてはならないという院宣いんぜんまも使者ししゃ下向げこうっていたが、7にち源氏げんじ不意打ふいうちがあった」という内容ないようしるされている[103]事実じじつとすれば、こう白河しらかわいん謀略ぼうりゃく戦局せんきょくおおきな影響えいきょうあたえたことになる。

2がつ25にち頼朝よりともたいら追討ついとう東国とうごく安定あんていのため、こう白河しらかわいんに「東海とうかい東山ひがしやま北陸ほくりくどう諸国しょこくへの国司こくし補任ほにん」「畿内きない近国きんごくからの軍事ぐんじ動員どういん」をもうれる[104]。しかし前年ぜんねんからのたいら木曾きそ義仲よしなかによる度重たびかさなる軍事ぐんじ動員どういんへい粮米徴収ちょうしゅうで、もはや京都きょうと疲弊ひへい限界げんかいたっしていた。関東かんとうつの武士ぶし狼藉ろうぜき頻発ひんぱつしたことから、武士ぶし狼藉ろうぜき停止ていしへい粮米停止ていし宣旨せんじくだ[105]、29にちには義経よしつね西国さいこく下向げこう延引えんいんとなった[16]

たいら残党ざんとう蜂起ほうき

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たいら追討ついとう一時いちじ中断ちゅうだんとなり、遠征えんせいぐん大半たいはん鎌倉かまくら帰還きかんする。義経よしつね頼朝よりとも代官だいかんとして京都きょうとのこり、播磨はりま美作みさく梶原かじはら景時かげとき備前びぜん備中びっちゅう備後びんご土肥どい実平さねひら伊賀いがこく大内おおうち惟義これよし伊勢いせこく大井おおいみのるはる山内やまうち首藤しゅどうけいしゅん紀伊きいこく豊島としまゆうけいらが配置はいちされて、たいら木曾きそ義仲よしなか残党ざんとうついへい粮米の確保かくほ従事じゅうじした。

この時期じきこう白河しらかわいんは「もし頼朝よりとも上洛じょうらくしないのなら、東国とうごく臨幸りんこうする」とまでいいだすなど[106]頼朝よりともへの期待きたいおおきいものがあった。頼朝よりとも上西かみにしもんいん蔵人くろうどであったことも、両者りょうしゃ関係かんけい影響えいきょうおよぼしたとかんがえられる。3月27にち除目じもくで、こう白河しらかわいん頼朝よりともしたがえから一挙いっきょせいよんじょ[107]、6月5にちにはおや鎌倉かまくら平頼盛たいらのよりもりけん大納言だいなごんかえまかさせ、たいら知行ちぎょうこくだった三河みかわ駿河するが武蔵むさし頼朝よりとも知行ちぎょうこく関東かんとうぶんこく)とした[108]

7がつ準備じゅんび期間きかんていよいよたいら追討ついとう再開さいかいされようとした矢先やさきに、伊賀いが伊勢いせにおいてたいら残党ざんとうによるだい規模きぼ蜂起ほうきこった(さんにちたいららん)。義経よしつね平信へいしんけんやしきして誅殺ちゅうさつすると、反乱はんらん鎮圧ちんあつのため伊勢いせ下向げこうした[109]。その直前ちょくぜんの8がつ6にちこう白河しらかわいん義経よしつねを、京都きょうと治安ちあん維持いじ任務にんむとする検非違使けびいし左衛門さえもん少尉しょういにんじている。頼朝よりともはこの人事じんじにすこぶる機嫌きげんそこねたという([110][注釈ちゅうしゃく 13])。京都きょうとはなれられなくなった義経よしつねわり、鎌倉かまくらもどっていたはんよりゆきふたた西国さいこく下向げこうした[113]

こう白河しらかわいん頼朝よりともたいら追討ついとうというてんでは一致いっちしていたが、個々ここ人事じんじになると双方そうほう思惑おもわくがあった。頼朝よりとも平頼盛たいらのよりもりかいして、九条くじょうけん摂政せっしょうにするようはたらきかけていたが、こう白河しらかわいんけん朝廷ちょうていにほとんど出仕しゅっしせず、諮問しもんにも明確めいかく返答へんとうけるなど協力きょうりょくてき態度たいど目立めだつことから、みとめようとはしなかった。こう白河しらかわいん近衛このえはじめどおり擁護ようごし、頼朝よりとも上洛じょうらくおりにはもとどおり頼朝よりとも女婿じょせいとする計画けいかくてていたらしい[114]。9月18にち除目じもくでは「中納言ちゅうなごんじゅうにんれい不吉ふきつ」というこえ無視むしして、藤原ふじわら朝方あさがた藤原ふじわらじょうのう吉田よしだけいぼうけん中納言ちゅうなごんにんじている。さらに義経よしつねたいしては、治安ちあん回復かいふくさせた功績こうせきにより検非違使けびいしのままじょし、いん昇殿しょうでんうち昇殿しょうでんゆるすなど厚遇こうぐうしめした[115]

たいら滅亡めつぼう

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白河しらかわ法皇ほうおうひつ文覚もんがくよんじゅう箇条かじょう起請文きしょうもんばつ白河しらかわ法皇ほうおう自筆じひついん(1185ねん

西国さいこく下向げこうした源範頼みなもとののりよりぐんだったが、へい粮の欠乏けつぼう水軍すいぐんりょく不足ふそくたいらぐん抵抗ていこうにより追討ついとう長期ちょうき様相ようそうていした。としけたもとこよみ2ねん1185ねん正月しょうがつ8にち危機ききかんいた義経よしつねこう白河しらかわいん四国しこく出撃しゅつげきすることを奏上そうじょうする[116]当初とうしょこう白河しらかわいん京都きょうと警備けいび手薄てうすになることを危惧きぐして義経よしつねだしきょう反対はんたいするが、義経よしつねは「はんたのもし引帰さば、かんこく武士ぶしとうなお平家へいけぞくし、いよいよ大事だいじおよぶか」と反論はんろんし、吉田よしだけいぼうも「義経よしつね発向はっこうさせて雌雄しゆうけっするべきだ」と主張しゅちょうした。こう白河しらかわいん最終さいしゅうてきには義経よしつね奏上そうじょうみとめたらしく、正月しょうがつ10にち義経よしつね出陣しゅつじんする。ところが2がつ16にちに、こう白河しらかわいん高階たかしなやすしけい摂津せっつこく渡辺わたなべ派遣はけんして「きょうちゅう武士ぶしきに用心ようじんのため」という理由りゆうにより、義経よしつね発向はっこう制止せいしするという行動こうどうている[16]こう白河しらかわいん対応たいおう一貫いっかんしていないが、木曾きそ義仲よしなか再三さいさんにわたり西国さいごく下向げこうめいじていたのとは対照たいしょうてきに、義経よしつね京都きょうと治安ちあん責任せきにんしゃとして信頼しんらいしていたことがうかがえる。義経よしつねたいけい制止せいしって四国しこくわたると、たいら本拠地ほんきょち屋島やしま攻略こうりゃく、3月24にちには壇ノ浦だんのうらたたかたいらほろぼした。ここに5ねんちかくにおよんだうけたまわ寿ことぶきひさしらん終結しゅうけつした。

4がつ4にち義経よしつねより京都きょうとたいら討滅の報告ほうこくとどいた[117]こう白河しらかわいん高階たかしなやすしけいかいして使者ししゃ関東かんとうおくり、「追討ついとう無為むいはひとへに兵法ひょうほうこうによつてなり」と頼朝よりとも功績こうせき称賛しょうさんした。これにたいして頼朝よりともは「ことに謹悦」したという[118]。21にち左大臣さだいじんけいむね以下いか公卿くぎょうじゅう余人よにんあつまり議定ぎていひらかれた。議題ぎだいとなったのは神器じんぎ入洛にゅうらく捕虜ほりょ処遇しょぐう頼朝よりとも恩賞おんしょうであり、天皇てんのう宝剣ほうけんうしなわれたことがとく問題もんだいとなった様子ようすはない。25にち神器じんぎ京都きょうとにおよそ2ねんぶりにもどり、26にち平宗盛たいらのむねもりちゅうらの捕虜ほりょ見物人けんぶつにんれをなかくるま大路おおじわたされた。27にちこう白河しらかわいん頼朝よりともせいよんからしたがえじょ[119]せいさん清盛きよもりれいしたがえさんは「したるこうい」源頼政みなもとのよりまされいかさなるため、忌避きひされたという[120]同日どうじつこう白河しらかわいん追討ついとう指揮しきかんである義経よしつねいん御厩みまやにんじている[121][注釈ちゅうしゃく 14]

5月7にち平宗盛たいらのむねもりせいはじめ鎌倉かまくらおくられた[122]九条くじょうけんじつは「配流はいるにあらず」としており、死罪しざい決定けっていしていたとおもわれる。20日はつか捕虜ほりょとなった貴族きぞく僧侶そうりょ罪名ざいめい宣下せんげされ、平時忠たいらのときただ平時へいじ平信へいしんもと藤原ふじわらいんあきら良弘よしひろぜんしんちゅうこころよのうえんくだりいのちの9めい流罪るざいとなった。武士ぶしたいする処罰しょばつきびしく、6月21にち平宗盛たいらのむねもりせいはじめ、23にち平重衡たいらのしげひら斬首ざんしゅされた。23にちそうもり父子ふしくび検非違使けびいしちょうわたされて梟首きょうしゅされ、こう白河しらかわいん三条さんじょう東洞とうどういんそうもり父子ふしくび見物けんぶつしている[123]

東大寺とうだいじ大仏だいぶつ開眼かいがん供養くよう

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もとこよみ2ねん(1185ねん)7がつ9にち京都きょうとだい地震じしんおそい、おおくの建物たてもの倒壊とうかいした。その余震よしんつづいたことから、8がつ14にち改元かいげんおこなわれる(文治ぶんじ地震じしん)。改元かいげんじょうでは「たてひさ」のごうにほぼ決定けっていしていたが、摂政せっしょうもとどおりが「近日きんじつもっ天下てんかたいらげらる、ぶんもっむるはよろしきにるか」[124]主張しゅちょうして、「文治ぶんじ」のごう採用さいようされた。

8がつ27にちこう白河しらかわいん大仏だいぶつ開眼かいがん供養くようのため、はちじょういん公卿くぎょう殿上人てんじょうびとれて東大寺とうだいじ御幸みゆきする。28にち供養くよう多数たすう群集ぐんしゅうあつまり、盛大せいだいおこなわれた。鍍金めっきされていたのはかおだけで完成かんせいだったが[125]こう白河しらかわいんせいくらいんから天平てんぴょう開眼かいがんふですと、はしらをよじのぼってみずからの開眼かいがんおこなった[126]

法皇ほうおうみずか開眼かいがんおこなった経緯けいいについてはつぎのようにつたわっている。8月21にち左大臣さだいじん大炊おおい御門みかどけいしゅううえきょう中御門なかみかど宗家そうけ式次第しきしだいさだめたさいには、仏師ぶっし開眼かいがんおこなうことになっていた。ところが、開眼かいがん供養くよう直前ちょくぜんになって急遽きゅうきょ法皇ほうおうふでることとなった。『東大寺とうだいじぞく要録ようろく』によれば、前夜ぜんやせいくらいんみことのりふうくらけさせてふでしたとつたえられている。一方いっぽうやまえんじゅ』によれば、筆者ひっしゃ中山なかやまただしおや吉田よしだけいぼうからいたはなしとして、しき当日とうじつあさじゅうみなもとすすめで決意けついしたという。法皇ほうおう同行どうこうしていたけいむねおどろいて地震じしんこればいのち危険きけんがあると反対はんたい意見いけんたが、こう白河しらかわいんは「開眼かいがんさい余震よしんきて足場あしば階段かいだんこわれていのちうしなったとしても後悔こうかいはしない」とべてききいれなかった[127]こう白河しらかわいん大仏だいぶつ再建さいけんにかける意気込いきごみがかんじられる。こまてた廷臣ていしんたちは足場あしばんでよこばんわたしたうえいん近臣きんしんさきがって安全あんぜん確認かくにんしたうえ法皇ほうおう登壇とうだんさせた。そのため、したから開眼かいがん様子ようすのぞこうとした参列さんれつしゃよこばんさえぎられて開眼かいがん瞬間しゅんかんられなかったという[128]。なお、当日とうじつ京都きょうとにいたきゅうじょうけんじつ翌日よくじつになってこと次第しだいき、「(式次第しきしだいには仏師ぶっし開眼かいがんするとあるから)さながら法皇ほうおう仏師ぶっしになったことになる。これはいかなる前例ぜんれいによるのか?」[129]あきかえっている[130]

頼朝よりとも政治せいじ介入かいにゅう

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文治ぶんじ」のごう大仏だいぶつ開眼かいがんには平和へいわ到来とうらいへのねがいがめられていたが、10月になると源義経みなもとのよしつねぎょう頼朝よりともたいする謀叛ぼうほん露顕ろけんする[131]こう白河しらかわいん義経よしつね制止せいししようとするが、義経よしつね頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじ発給はっきゅうせまり、大炊おおい御門みかどけいむねも「当時とうじ在京ざいきょう武士ぶしただ義経よしつね一人ひとりなり。かれさるじょうに乖かれわか大事だいじ出来できときだれにん敵対てきたいすべけんや。しからば申請しんせいまかせて沙汰さたあるべきなり」[132]進言しんげんしたことから、やむを頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじくだした。

しかし宣旨せんじくだされたもののへいおもうようにあつまらず、11月3にち義経よしつね京都きょうと退去たいきょした[16]。その関東かんとうから武士ぶし上洛じょうらくして「ひん忿怒ふんどおもむき」をつた[133]藤原ふじわらはんが「法皇ほうおうあたりこときわめてもっ不吉ふきつ[134]かたるなど、いん周辺しゅうへん頼朝よりとも報復ほうふくおびえて戦々恐々せんせんきょうきょうとなった。いん近臣きんしん高階たかしなやすしけい院宣いんぜんしたのは「天魔てんま所為しょい」であり、義経よしつね院宣いんぜんさなければ宮中きゅうちゅう自殺じさつすると脅迫きょうはくしたためであるという弁解べんかい書状しょじょう鎌倉かまくらおくった。頼朝よりともはこれにたいする返書へんしょ朝敵ちょうてきほろぼし政務せいむいんかえしたという功績こうせきがあったのに、どうして追討ついとう院宣いんぜんすのかと反発はんぱつし、義経よしつねくだり追討ついとう諸国しょこく疲弊ひへいして人民じんみん滅亡めつぼうするならば「日本にっぽんこくだいいちだい天狗てんぐは、さらものにあらずこうふか」と難詰なんきつし、きびしく糾弾きゅうだんした[135][注釈ちゅうしゃく 15]頼朝よりともにすれば義経よしつね恫喝どうかつによる追討ついとう宣旨せんじはまだしも、義経よしつねくだりをそれぞれきゅうこく四国しこく地頭じとう補任ほにんしたことは看過かんかできなかった[140]

11月24にち北条ほうじょう時政ときまさせんへいひきいて入京にゅうきょうする。28にちには「守護しゅご地頭じとう[注釈ちゅうしゃく 16]設置せっち奏請そうせいされ[143]、12月6にちには「天下てんか草創そうそう」としてけんへの内覧ないらん宣下せんげそう公卿くぎょう10めいによる朝政ちょうせい運営うんえい、「くだり義経よしつね同意どういして天下てんかみださんとするきょうしん」であるひらおやむね高階たかしなやすしけいたいらぎょうただし難波なんばよりゆきけい葉室はむろこうみやび一条いちじょう能成よしなり藤原ふじわらしんもりら14めい配流はいるかいかん内容ないようとする廟堂びょうどう改革かいかく要求ようきゅうきつけられる[140][135]

あさまく交渉こうしょう

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頼朝よりとも圧力あつりょくおそれていたほど苛烈かれつなものではないとのち白河しらかわいんは、文治ぶんじ2ねん1186ねん)になるとかえしにてんじた。2月には熊野くまのまい費用ひよう捻出ねんしゅつするよう北条ほうじょう時政ときまさ院宣いんぜんくだ[144]、3月には平家へいけぼつかんりょうである丹波たんばこく五箇ごかそういんりょうにするようめいじた。また頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじ奉行ぶぎょうしてかいかんとなった葉室はむろこうみやび朝廷ちょうてい復帰ふっきし、高階たかしなやすしけいこう白河しらかわいん宥免ゆうめん要請ようせいにより配流はいるされた[145]。この時期じき北条ほうじょう時政ときまさは「ななヶ国かこく地頭じとう」の辞任じにん表明ひょうめい[146]諸国しょこくへい粮米の徴収ちょうしゅう停止ていしとなっている[147]

摂政せっしょう長者ちょうじゃ人事じんじについては、九条くじょうけん摂政せっしょう就任しゅうにんもとめる頼朝よりともたいしてのち白河しらかわいん近衛このえはじめどおり擁護ようご姿勢しせいつらぬいたため、摂政せっしょう内覧ないらん並立へいりつする異常いじょう事態じたいとなっていた。3月12にちにようやくけんじつ摂政せっしょうみことのり長者ちょうじゃ宣旨せんじくだされたが[16]、ここで摂関せっかんりょう継承けいしょう問題もんだいとなる。頼朝よりとも摂政せっしょう長者ちょうじゃ地位ちいとももとどおりいえりょうけんじつあたえることを主張しゅちょうしたが[148]もとどおり引渡ひきわたしをこばみ、こう白河しらかわいんもとどおりうったえをみとめたため、双方そうほうのいいぶんこうから対立たいりつすることになった。4月になると、頼朝よりとも摂関せっかんりょうのうち「京極きょうごく殿どのりょう」をけんじつに、「こういんりょう」をもとどおり配分はいぶんするという妥協だきょうあん[注釈ちゅうしゃく 17]しめすがこう白河しらかわいん拒絶きょぜつし、もとどおり源義経みなもとのよしつねぎょうめいじてけんじつ夜襲やしゅうをかけるといううわさった[149]緊迫きんぱくした空気くうきただよなか、7がつ大江広元おおえのひろもと上洛じょうらくする[150]いんがわ丹後局たんごのつぼね折衝せっしょうかさねられたが妥協だきょうてん見出みだせず[151]結局けっきょく頼朝よりともこう白河しらかわいん要求ようきゅう全面ぜんめんてきみ、もとどおりいえりょうだい部分ぶぶん継承けいしょうすることで決着けっちゃくいた。ここに摂関せっかんりょう分割ぶんかつ確定かくていし、近衛このえきゅうじょう名実めいじつども成立せいりつする。こう白河しらかわいんねばづよたい幕府ばくふ交渉こうしょうにより、前年ぜんねん頼朝よりとも改革かいかく要求ようきゅうだい部分ぶぶん事実じじつじょう無効むこうされることになった。

頼朝よりとも前年ぜんねん強硬きょうこう姿勢しせいから一転いってんしてこう白河しらかわいん要求ようきゅうみとめた背景はいけいには、各地かくち武士ぶし謀叛ぼうほんじん所領しょりょうけて神社じんじゃ仏寺ぶつじ所領しょりょうを押領したり、本家ほんけ領家りょうけへの年貢ねんぐ納入のうにゅうしないなどのほう行為こうい多発たはつしていたことが要因よういんとしてかんがえられる。荘園しょうえん領主りょうしゅによるうったえが殺到さっとうした結果けっか頼朝よりともしもぶん一挙いっきょに252まいすなど紛争ふんそう処理しょり忙殺ぼうさつされることになった[152]頼朝よりとも自身じしん関東かんとう御領ごりょう関東かんとうぶんこく荘園しょうえん領主りょうしゅ知行ちぎょう国主こくしゅであり、荘園しょうえんこうりょうせい崩壊ほうかいのぞむところではなく、武士ぶしめにさざるをなかった。10月には謀叛ぼうほん人跡じんせき以外いがい地頭じとうしょく設置せっち停止ていしされた[153]

戦後せんご復興ふっこう奥州おうしゅう合戦かっせん

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地頭じとうしょく設置せっち範囲はんい摂関せっかんりょう分割ぶんかつ合意ごういたっしたことで、あさまく関係かんけい文治ぶんじ3ねん1187ねん)になると改善かいぜんけてうごした。皇居こうきょである閑院内裏だいりもとこよみ2ねん(1185ねん)のだい地震じしん破損はそんいちじるしく、大江広元おおえのひろもと上洛じょうらくして幕府ばくふ全面ぜんめんてき支援しえんにより修理しゅうり作業さぎょうおこなわれた[154]修理しゅうりは10月25にち完了かんりょう[155]、11月13にち後鳥羽ごとば天皇てんのう遷幸せんこう実現じつげんする[16]おなごろ京都きょうとでは群盗ぐんとう出没しゅつぼつおおきな問題もんだいとなっていた。検非違使けびいしちょう機能きのう低下ていかもあり、こう白河しらかわいん治安ちあん回復かいふくのため京都きょうと守護しゅご一条いちじょうのうに「勇士ゆうしとうし、こと警衛けいえいする」ことをめいじた[156]のう報告ほうこくけた頼朝よりともは、ただちに千葉ちば常胤つねたね下河辺しもこうべ行平こうへい上洛じょうらくさせて、群盗ぐんとう鎮圧ちんあつ任務にんむたらせている[157]

文治ぶんじ4ねん1188ねん)4がつ13にちいん御所ごしょろくじょう殿どの焼失しょうしつする[158]六条ろくじょう殿どの院政いんせい拠点きょてんであり、いんぶんこく公卿くぎょう知行ちぎょうこく幕府ばくふ分担ぶんたんして再建さいけん工事こうじすすめられた。もとろくじょう殿どのたいらぎょうちゅう邸宅ていたくよんぶんいちまち手狭てぜまだったが、新造しんぞう御所ごしょいちまち拡張かくちょうされた壮大そうだいなものとなり、院政いんせい威信いしんしめした。頼朝よりともところ々はとく丁寧ていねいであり、こう白河しらかわいんおおいによろこばせた[159]各地かくち農業のうぎょう生産せいさんも「万民ばんみんよろこびなり、今年ことしそうべてだいいち豊作ほうさくなり」[32]回復かいふくきざしをはじめ、荒廃こうはいした京都きょうと戦乱せんらん地震じしん打撃だげきから徐々じょじょ復興ふっこうしていった。

あさ幕間まくあいのこされた懸案けんあん義経よしつね動向どうこうだったが、文治ぶんじ4ねん(1188ねん)2がつ義経よしつね奥州おうしゅうにいることが確実かくじつであるという情報じょうほう頼朝よりともから朝廷ちょうていつたえられた[160]頼朝よりともは「ほろびははのため五重ごじゅうとう造営ぞうえいすること」「じゅうやくのため殺生せっしょう禁断きんだんすること」を理由りゆう年内ねんない軍事ぐんじ行動こうどうはしないことを表明ひょうめいし、藤原秀衡ふじわらのひでひら義経よしつね追討ついとう宣旨せんじくだすことを要請ようせいした。頼朝よりとも申請しんせいけて、2月と10がつ藤原ふじわらはじめなりたい義経よしつね追討ついとう宣旨せんじくだされている[161]

文治ぶんじ5ねん1189ねんうるう4がつ30にち頼朝よりとも圧迫あっぱくけたやすし衡は義経よしつね襲撃しゅうげきして自害じがいむ。こう白河しらかわいんはこれで問題もんだい解決かいけつしたと判断はんだんして「かれ滅亡めつぼうあいだくにちゅうさだめて静謐せいひつせしむるか。いまにおいては弓箭きゅうせんをふくろにすべし[162]頼朝よりともつたえる。しかし、頼朝よりとも目的もくてき背後はいごおどかしつづけていた奥州おうしゅう藤原ふじわら殲滅せんめつにあり、6月25にちたい追討ついとう宣旨せんじもとめた[163]。7月19にち頼朝よりとも宣旨せんじとどかないままみずかぐんひきいて奥州おうしゅう発向はっこうし、9月には奥州おうしゅう藤原ふじわらほろぼした(奥州おうしゅう合戦かっせん)。これは朝廷ちょうていいのちによらないわたしせんだったが、こう白河しらかわは7がつ19にちけのたい追討ついとう宣旨せんじくだして頼朝よりとも軍事ぐんじ行動こうどう追認ついにん[164]、10月には「時日じじつめぐらさずついばっするのじょう古今ここん比類ひるいなきことか。かえがえかんおぼしめす」と院宣いんぜんくだした[165]。12月、上洛じょうらくもとめるのち白河しらかわたいして、頼朝よりともは「明年みょうねんのぞみてまいりらくすべし」と奏上そうじょうした[166]

頼朝よりともとの対面たいめん

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たてひさ元年がんねん1190ねん)11月7にち頼朝よりともせん軍勢ぐんぜいひきいて上洛じょうらくし、かつてのたいら本拠地ほんきょちろく新造しんぞうされた邸宅ていたくはいった。東国とうごくへいるためにおおくの人々ひとびとあつまり、こう白河しらかわいんくるましてひそかに見物けんぶつした[167]

9にちこう白河しらかわいん頼朝よりともいん御所ごしょろくじょう殿どのはじめての対面たいめんたす。両者りょうしゃ他者たしゃまじえず、日暮ひぐれまで会談かいだんした。くわしい内容ないようあきらかでないが『かんしょう』によると、頼朝よりともこう白河しらかわいんに「きみ御事おんことわたしナクニカヘテおもえこう法皇ほうおうこと自分じぶんえても大切たいせつおもっています)」と表明ひょうめいし、その証拠しょうことして朝廷ちょうていかるんじる発言はつげんをした功臣こうしん上総かずさ広常ひろつね粛清しゅくせいしたことをかたったという。このこう白河しらかわいん参議さんぎ中納言ちゅうなごんばして頼朝よりともけん大納言だいなごんにんじた。

13にち頼朝よりともこう白河しらかわいん砂金さきん800りょうわし2ひつ御馬おんま100疋を進上しんじょう、19にちと23にちには「対面たいめん数刻すうこくおよぶ」「終日しゅうじつ御前ごぜんこうぜしめたまふ」と長時間ちょうじかん会談かいだんがあった[155]。24にちこう白河しらかわいん花山院かさんのいんけんみやびみぎ近衛このえ大将たいしょう地位ちいげて、頼朝よりともあたえる。12月1にちみぎ大将たいしょう拝賀はいが儀式ぎしきは、こう白河しらかわいんくるま装束しょうぞく調達ちょうたつし、前駆ぜんく10めいうち8めい北面ほくめん武士ぶしからつかわされておこなわれた。頼朝よりともは3にちけん大納言だいなごんみぎ大将たいしょうりょうかん辞任じにんするが、翌年よくねん正月しょうがつぜんみぎ大将たいしょう家政かせいしょきちしょはじめおこない、ぜんみぎ大将たいしょうしもぶん発給はっきゅうするなど、みぎ大将たいしょう任官にんかん事実じじつ活用かつようしてみずからの権威けんい高揚こうようはかった。

14にち頼朝よりとも京都きょうと鎌倉かまくらもどる。頼朝よりとも在京ざいきょうはおよそ40日間にちかんだったが、こう白河しらかわいんとの対面たいめんは8かいかぞえ、双方そうほうのわだかまりを払拭ふっしょくしてあさまく関係かんけいあらたな局面きょくめんひらいた。けんひさ2ねん1191ねん)3がつ22にちに17かじょう新制しんせい発布はっぷされるが、その16じょうには「海陸かいりく盗賊とうぞく放火ほうか」について「自今じこんやめ、たしかにぜんみぎ近衛このえ大将たいしょうげん朝臣あそんならびに京畿けいき諸国しょこく所部ところぶかんとうおおせ、けんやからからめまいらしめよ[168]しるされ、頼朝よりとも諸国しょこく守護しゅごけん公式こうしきみとめられた。ここに武家ぶけ朝廷ちょうてい守護しゅごする鎌倉かまくら時代じだい政治せいじ体制たいせい確立かくりつすることになる。

崩御ほうぎょ

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たてひさ2ねん(1191ねん)、幕府ばくふ支援しえんにより戦乱せんらん地震じしん荒廃こうはいしていたほうじゅうてら殿どの再建さいけん工事こうじはじまった[169]ほうじゅうてら殿どのこう白河しらかわいんにとって、滋子しげこ日々ひびごしたなつかしい御所ごしょであり、再建さいけん悲願ひがんだったとおもわれる。12月16にちこう白河しらかわいん完成かんせいした御所ごしょうつ[16]造営ぞうえい担当たんとうした中原なかはらちかしのう大江おおえ広元ひろもとけん下賜かし[170]丹後局たんごのつぼね吉田よしだけいぼう頼朝よりともに「ほうじゅうてら殿どの修理しゅうりつくさるること」を感謝かんしゃする書状しょじょうおくった[171]

ところがほうじゅうてら殿どのもどってすぐに、こう白河しらかわいんは「しょく」「ぞうあり。またあしきゅうふ」と体調たいちょうくず[172]。その長講ちょうこうどう供養くようのためろくじょう殿どの御幸みゆきするなど快方かいほうかうかにえたが[173]うるう12がつふたた発症はっしょうしてやまいゆかについた[174]平癒へいゆいのって非常ひじょう大赦たいしゃされ[175]たかしとく上皇じょうこうびょう藤原ふじわらよりゆきちょうはかへの奉幣ほうへい安徳天皇あんとくてんのう御堂みどう建立こんりゅうなどもおこなわれるが[176]容態ようだい日増ひましにおもくなっていった。

たてひさ3ねん1192ねん)2がつ18にちあめなか後鳥羽ごとば天皇てんのう見舞みまいのためろくじょう殿どの行幸ぎょうこうする[16]こう白河しらかわいんは「ことそと辛苦しんくきゅうふ」という病状びょうじょうだったが[177]おおいによろこんで、後鳥羽ごとばふえわせて今様いまよううたっている。後鳥羽ごとばみかど還御かんぎょすると、こう白河しらかわいん丹後局たんごのつぼね使者ししゃとしてのこみことのりつたえた。その内容ないようは、ほうじゅうてら殿どの蓮華れんげおういんろくしょうてら鳥羽とば殿どのなど主要しゅよう部分ぶぶん天皇てんのうりょうに、いんりょう皇女おうじょ亮子あきこ式子しょくし好子よしこ・覲子にそれぞれ分与ぶんよするというもので[178]こう白河しらかわいん批判ひはんてききゅうじょうけんも「処分しょぶんからだまこと穏便おんびんなり」としている。

前年ぜんねん、「きさきにあらず、ははにあらず、院号いんごうこうむむるれい今度こんどはじめなり」[179]先例せんれいやぶって女院にょいんとなった覲子内親王ないしんのうせんもんいん)には、いんりょうなかでも最大さいだい規模きぼ長講ちょうこうどうりょうゆずられた。さらにこう白河しらかわいんは、覲子についてとく配慮はいりょするよう後鳥羽ごとばみかどねんしている。おそまれたである覲子を溺愛できあいし、にかけていた様子ようすがうかがえる。覲子のはは丹後局たんごのつぼねはすでにゆずられていた21かしょ領地りょうち荘園しょうえんについて、あらためて「公事こうじ免除めんじょ」のいんちょうぶんあたえられた[180]一方いっぽう丹後局たんごのつぼねいん近臣きんしんいん生前せいぜん権益けんえき保持ほじしようと、きそってあらたな荘園しょうえんてたが、のちきゅうじょうけんによってほとんど停止ていしされている[181]

後事こうじたくしたのち白河しらかわいんは、3月13にちとらこく午前ごぜん4ごろ)、ろくじょう殿どのにおいて宝算ほうさん66で崩御ほうぎょした。

評価ひょうか

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どう時代じだい評価ひょうか

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  • たま寿ことぶきひさし3ねん(1184ねん)3がつ16にちじょうしるされた信西しんぜいのち白河しらかわいんひょうは「和漢わかんあいだ比類ひるいすくなきの暗主あんしゅ」。その暗君あんくんのわずかなとくとして「もしあきらこころたしげんとほっすることあらば、あえてひとせいほうにかかわらず、かならずこれをとげぐ」(一旦いったんやろうとめたことはひと制止せいしするのもかず、かならずやりげる)、「みずかきこしょくところことこと忘却ぼうきゃくなし。年月としつき遷ると雖も心底しんそこわすきゅうはず」(いちいたこと年月としつきぎてもけっしてわすれない)としている。ただし、これはきゅうじょうけん清原きよはらよりゆきぎょうからいたはなしとしてきとめたもので、信西しんぜい本当ほんとうにそうったかはさだかでない。
  • 九条くじょうけんじつは「鳥羽とば法皇ほうおう普通ふつうきみであるが、処分しょぶんについては遺憾いかんであり、すべてを美福門院びふくもんいんあたえられた。いまのち白河しらかわ法皇ほうおう処分しょぶんかんするかぎはるかに鳥羽とば法皇ほうおうよりすぐれている。ひと賢愚けんぐなど、簡単かんたん評価ひょうかできないものだ」とし、その死去しきょにあたっては「法皇ほうおう度量どりょうひろ慈悲じひふか人柄ひとがらであられた。仏教ぶっきょう帰依きえされた様子ようすは、そのためにくにほろぼした南朝なんちょうはりたけみかど以上いじょうであり、ただ延喜えんぎてんれきふるきよき政治せいじかぜうしなわれたのは残念ざんねんである。いまご逝去せいきょほうせっし、天下てんかはみなかなしんでいるが、朝夕ちょうせき法皇ほうおうとくれ、法皇ほうおうおんによって名利みょうりやからはなおさらである」と形式けいしきてきかなしみの言葉ことば使つかいながらも、過度かど仏教ぶっきょう帰依きえ非難ひなんし、近臣きんしんかなしみを嘲笑ちょうしょうしている[182]
  • もと物語ものがたり』では、「ぶんにもあらずにもあらぬ、よんみや(=こう白河しらかわ)」がじゅうじん親王しんのういて即位そくいしたことが遺恨いこんであるとたかしとく上皇じょうこうかたったとされている[183]なお、『平治へいじ物語ものがたり』では藤原ふじわら信頼しんらいして「ぶんにもあらず、たけにもあらず、のうもなく、またげいもなし、ただ朝恩ちょうおんのみにほこりて」と類似るいじ表現ひょうげんもちいられている[184]

研究けんきゅうしゃ評価ひょうか

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こう白河しらかわ評価ひょうかについては、安田やすだ元久もとひさ代表だいひょうされる「武士ぶし台頭たいとう翻弄ほんろうされる古代こだい最後さいごおう」という見方みかたと、加藤かとう周一しゅういち代表だいひょうされる「権謀術数けんぼうじゅっすうをゲームのようにおこな人物じんぶつ」であるという評価ひょうか存在そんざいしていた[185]棚橋たなはし光男みつお文化ぶんかめんにおけるのち白河しらかわ役割やくわり主張しゅちょうし、文化ぶんかになとしての中世ちゅうせい王権おうけん確立かくりつしゃであるという評価ひょうかひろまるきっかけとなった[185]河内かわうちさちこう白河しらかわいん非常ひじょうとらえどころのない人物じんぶつであると評価ひょうかし、『かんしょう』や『たま』をはじめとするおおくの公家くげ日記にっきから問題もんだいおお人物じんぶつであったことは間違まちがいなく、「権謀術数けんぼうじゅっすうけていたとする評価ひょうかまった見当けんとうちがい」であるとする。その一方いっぽうで、人間にんげん関係かんけいには意外いがい淡泊たんぱくでかつて敵対てきたいした人物じんぶつでもてば重用じゅうようすることもあったことを指摘してきし、平清盛たいらのきよもりたいしてもうけたまわさんねん政変せいへんのちでさえ敵視てきししていたと断言だんげんすることは出来できないとべている[186]

人物じんぶつ

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  • たい仁平にだいら3ねん1153ねん9月23にちじょうによると、関白かんぱく藤原ふじわらただしどおり近衛天皇このえてんのう跡継あとつぎとしてまさひとし親王しんのうばして、まもりじん親王しんのう二条天皇にじょうてんのう)を即位そくいさせる提案ていあん鳥羽とば法皇ほうおうったことにたいし、ちち藤原ふじわら忠実ちゅうじつは「此のことあんずるに、関白かんぱくきょうへるか。かれわらわまもりじん即位そくいせば、またまさひとし親王しんのうなおり。親王しんのうごとしくはせいせんらにせん。あに関白かんぱくをして執権しっけんせしめんや」とまさひとし親王しんのう権力けんりょく志向しこうつよさを指摘してきしている。これは不仲ふなかになっていたちゅうどおりへの悪意あくいふく発言はつげんであった可能かのうせいもあるが、のちちゅうどおりいん近臣きんしん藤原ふじわら信頼しんらいあらそったすえこう白河しらかわいかりをって閉門へいもん処分しょぶんけた事実じじつ[187]かんがえると、忠実ちゅうじつ予測よそくたっていたことになる。
  • 院政いんせいには、朝廷ちょうていない序列じょれつ慣例かんれい実務じつむ能力のうりょく無視むししていん近臣きんしん優遇ゆうぐうする傾向けいこうがあったが、こう白河しらかわ法皇ほうおうはそれが顕著けんちょであった。清盛きよもりいかりをった師家しか中納言ちゅうなごん任官にんかんほかにも、師長もろなが太政大臣だじょうだいじん左大臣さだいじんけいむね右大臣うだいじんけんえての任官にんかんであった。また大納言だいなごんけんちち参議さんぎまりであり、けん家系かけいでは平安へいあん中期ちゅうき以来いらいやく180ねんぶりの大納言だいなごん任官にんかんであった。師長もろなが琵琶びわそうけんふえ和琴わごん・郢曲の当代とうだいいち名手めいしゅわれており、今様いまよう熱中ねっちゅうしていたのち白河しらかわにとっては、政務せいむはともかく趣味しゅみめん必要ひつよう人材じんざいであった[注釈ちゅうしゃく 18]
  • 一旦いったん使つかてた相手あいて対立たいりつした相手あいてでも、ときぎればそれをれる度量どりょうゆうしており、藤原ふじわらよりゆきちょう師長もろなが太政大臣だじょうだいじんとなり、信西しんぜい子供こどもたち公卿くぎょう近臣きんしんたてて、二条にじょうちかし政派せいはとしてばっした大炊おおい御門みかどけいむねはその左大臣さだいじんを20ねん以上いじょうつとめ、いちはないがしろにした近衛このえはじめどおりおとこおとこなかとなり、いち流刑りゅうけいにして「叡山えいざん悪魔あくま」とまでののしり、前代未聞ぜんだいみもん比叡山ひえいざん攻撃こうげき計画けいかくさせる原因げんいんつくった天台座主てんだいざしゅあきらくも最後さいごこう白河しらかわのためにほうじゅうてら合戦かっせん討死うちじにするほどの親密しんみつ関係かんけいになっている。
  • 平清盛たいらのきよもり対立たいりつしたのち誕生たんじょうしたばかりのげんじん親王しんのう立太子りったいし同意どういするなど、清盛きよもりとの和解わかいはかったきもある。
  • こう白河しらかわいんみなもと頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじくだしたのち高階たかしなやすしけいに「もと以来いらい乱逆らんぎゃく相次あいつぎ、玉体ぎょくたいまっとうするためにこのような処置しょちをとってきたが、今後こんご乱逆らんぎゃくえないだろうから治世ちせいからきたい」[189]心情しんじょう吐露とろしている。しかし貴族きぞく政権せいけんりまとめるものがいなかったことも事実じじつであり、最期さいごまで政治せいじ実権じっけんにぎつづけた。頼朝よりともとの悪化あっかした関係かんけいたてひさ元年がんねん1190ねん)の頼朝よりとも上洛じょうらくにより修復しゅうふくされ、このとき成立せいりつした朝廷ちょうてい鎌倉かまくら幕府ばくふ協調きょうちょう関係かんけいは、承久じょうきゅうらんまでやく30年間ねんかんたもたれることになった。
  • ぞく古事ふるごとだん』にははんさんといひけるひとけい慢して、「にやくりさん、きさんさん、よくさん、むことりさん」とべたというはなしがある。
  • 京都きょうと妙法みょうほういんには袈裟けさをつけ、右手みぎて念珠ねんじゅ左手ひだりて絵巻えまき重要じゅうよう文化財ぶんかざいのち白河しらかわ法皇ほうおうぞうがある(鳥羽天皇とばてんのうぞうとするせつもある)[190]

系譜けいふ

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後白河天皇ごしらかわてんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. だい71だい 後三条ごさんじょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
8. だい72だい 白河天皇しらかわてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 藤原ふじわら茂子しげこ
 
 
 
 
 
 
 
4. だい73だい 堀河ほりかわ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. みなもと顕房あきふさ
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原ふじわら賢子さとこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. みなもと隆子たかこ
 
 
 
 
 
 
 
2. だい74だい 鳥羽天皇とばてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 藤原ふじわらこうなり(=24)
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原ふじわら実季みき(=12)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 藤原ふじわらじょうおんな(=25)
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原ふじわら苡子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原ふじわらけいひらた(=26)
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原ふじわら睦子むつこ(=13)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. だい77だい 後白河天皇ごしらかわてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原ふじわらこうなり(=20)
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原ふじわら実季みき(=10)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 藤原ふじわらじょうおんな (=21)
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原ふじわらこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 藤原ふじわらけいひらた(=22)
 
 
 
 
 
 
 
13. 藤原ふじわら睦子むつこ(=11)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 藤原ふじわら璋子あきこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原ふじわら隆光たかみつ
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原ふじわらたかしかた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. みなもとこくきょおんな
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原ふじわら光子みつこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図けいず

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71 後三条ごさんじょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
72 白河天皇しらかわてんのう
 
じつじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輔仁親王しんのう
 
篤子あつこ内親王ないしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
73 堀河ほりかわ天皇てんのう
 
さとしぎょう法親王ほうしんのう
 
さとしほう法親王ほうしんのう
 
媞子内親王ないしんのう
(いくよしもんいん)
 
みなもとゆうひとし
(ゆう仁王におう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
74 鳥羽天皇とばてんのう
 
さいくも法親王ほうしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
75 崇徳天皇すとくてんのう
 
77 後白河天皇ごしらかわてんのう
 
76 近衛天皇このえてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
77 後白河天皇ごしらかわてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
78 二条天皇にじょうてんのう
 
以仁王もちひとおう
 
80 高倉天皇たかくらてんのう
 
亮子あきこ内親王ないしんのう
いんとみもんいん
 
式子内親王しきしないしんのう
 
覲子内親王ないしんのう
せんもんいん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
79 ろくじょう天皇てんのう
 
ぼうおう
北陸ほくりくみや
 
81 安徳天皇あんとくてんのう
 
まもりさだ親王しんのう
高倉たかくらいん
 
82 後鳥羽ごとば天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
86 こう堀河ほりかわ天皇てんのう
 
83 土御門天皇つちみかどてんのう
 
84 順徳天皇じゅんとくてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
87 四条しじょう天皇てんのう
 
88 こう嵯峨天皇さがてんのう
 
85 仲恭天皇ちゅうきょうてんのう
 
ちゅうなりおう
岩倉いわくらみや
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃こうひ皇子おうじおんな

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在位ざいいちゅう元号げんごう

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諡号しごう追号ついごう

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ほうじゅうてらりょう
  • こう白河しらかわいん - 譲位じょうい院政いんせい住居じゅうきょ名称めいしょうによる追号ついごう白河しらかわいんつぎたるという意味いみちなむ)。明治めいじ年間ねんかん以降いこう正式せいしき後白河天皇ごしらかわてんのうおくりなされる。
  • くだり法皇ほうおう - 退位たいい出家しゅっけもちいた戒名かいみょう

りょう霊廟れいびょう

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ほうじゅうてらりょう
宮内庁くないちょうによる掲示けいじ

りょう(みささぎ)は、宮内庁くないちょうにより京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま三十三間堂廻さんじゅうさんげんどうまわまちにあるほうじゅうてらりょう(ほうじゅうじのみささぎ)に治定じじょうされている。宮内庁くないちょうじょう形式けいしき方形ほうけいどう

また皇居こうきょでは、皇霊こうれい殿どの宮中きゅうちゅうさん殿どのの1つ)においてほか歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくとともに天皇てんのうれいまつられている。

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
戯曲ぎきょく
テレビドラマ
テレビアニメ
人形にんぎょうげき

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 宇多天皇うだてんのう女御にょうご藤原ふじわらたね三条さんじょう天皇てんのう皇后こうごう藤原ふじわら娍子以来いらい
  2. ^ そんちちきながら、即位そくいれいなし」[5]
  3. ^ 佐伯さえき智広ともひろまさひとし親王しんのうつぎ天皇てんのうえらばれた理由りゆうとして、①まさひとし親王しんのうばしてもりじん親王しんのう即位そくいさせた場合ばあいまもりじん成人せいじんまえ鳥羽とば法皇ほうおう崩御ほうぎょするとたかしとく上皇じょうこうてんになる可能かのうせい浮上ふじょうして幼少ようしょうまもりじんでは上皇じょうこう対抗たいこうすることが困難こんなんになること。②もりじん将来しょうらいまさひとし後白河天皇ごしらかわてんのう)の」として即位そくいすればまさひとしかいしてまちけんもんいん璋子あきこ)からその所生しょせい子女しじょわたった皇室こうしつりょう継承けいしょうできるが、「鳥羽とば法皇ほうおう(と美福門院びふくもんいん)」のとして即位そくいすれば、まちけんもんいんまさひとし親王しんのうとの血縁けつえん関係かんけい否認ひにんすることになるため、その所領しょりょう継承けいしょうする可能かのうせいうしなうこと(天皇てんのうへの皇室こうしつりょう回復かいふく困難こんなん)になる。以上いじょうの2てんから、まもりじん地位ちい安定あんていのためにちちであるまさひとし即位そくい必要ひつようとしたとする[6]
  4. ^ ただし、河内かわうちさちのように平治へいじらんこう白河しらかわ了解りょうかいした藤原ふじわら信頼しんらいいん近臣きんしん鳥羽とば法皇ほうおう意向いこう執行しっこうしゃであった信西しんぜい排除はいじょして名実めいじつともにてん権限けんげん獲得かくとくしようとしたものであったが、三条さんじょうこうきょうらによってくずされたけいむねおもんみかたらが離反りはんしたことにより、ろく退避たいひしたじょう中心ちゅうしんとした一種いっしゅの「ぎゃくクーデター」が発生はっせいした結果けっか信頼しんらいらはたれて失敗しっぱいわったとする見解けんかいがある[8]
  5. ^ かんしょう』には「ナクナクおおせゆうケレバ(いてたのんだ)」とあり、実際じっさいには平身低頭へいしんていとうちかかったとおもわれる。
  6. ^ 寛平かんぺい遺誡いかいには「そとしげるこれにん必可召見しゃざい簾中れんちゅうこれ不可ふかちょくたいみみたまきちんやめしつ。(異国いこくものとき直接ちょくせつってはならず、かなら御簾みすなかからるようにしなさい。直接ちょくせつ会話かいわしてはならない。たまきったことはちんあやまりであった)」とあり、厳密げんみつには外国がいこくじんとの面会めんかいそのものをきんじた文言もんごんではない。ただし、平安へいあん時代じだい後期こうき以降いこうには宇多うたである醍醐天皇だいごてんのうが、こううららうらな宮中きゅうちゅうれてうらなわせたというはなしひろまっており、『古事ふるごとだん』ではこのさい醍醐天皇だいごてんのうこえちいさいことを国情こくじょううとひょうされたという逸話いつわとされている。このため宇多うた遺誡いかい宮中きゅうちゅう外国がいこくじんれること自体じたいきんじたものとされていた[20]
  7. ^ 百錬ひゃくれんしょう』は藤原ふじわらしゅんもりてい、『たま』は藤原ふじわらのうやしきとする
  8. ^ これはひだりだいしょうけやきたかししょくひだりしょうべん藤原ふじわらこうたかしからいた内密ないみつはなしを、たかししょくけんやしき訪問ほうもんしたさいかたったものである。「天下てんかことひとえぜん幕下まくしたさいなり。異論いろんあるべからず」は清盛きよもり発言はつげんとするのが一般いっぱんてき解釈かいしゃくであるが、この発言はつげんまえに「くだりたかしおおせてうんはく」という記述きじゅつがある。その丁寧ていねい語法ごほうから、くだりたかししてこの発言はつげんをしたのはこう白河しらかわであるというせつがある[67]
  9. ^ 梁塵りょうじんしょう』「よん神歌しんか」に「たきおおかれどうれしやとぞおもふ、たきみずるともえでとうたへ、やれことつとう(たきおおいけれどもうれしいとおもうよ、りとどろくこのたきて。たとえりつけてもみずながれはきない。ヤレコトットウ)」という祝言しゅうげんがある。
  10. ^ 明月めいげつ』3がつ15にちじょうに「今日きょうはじめていん并にはちじょういんさんず。はちじょう殿どのにおはします」、どう12がつ13にちじょうに「上皇じょうこう新造しんぞう御所ごしょ移徙わたまし八条はちじょういんおなじくわたりおはします」としるされている。
  11. ^ たま』8がつ18にちじょうには丹後局たんごのつぼね意見いけんによるとされる。三宮さんのみやおもんみあきら親王しんのう)がまどかめぐみ法親王ほうしんのうらをんだ坊門ぼうもんきょくめいまご姉妹しまい外孫そとまご)であったことも影響えいきょうした可能かのうせいがある。
  12. ^ 義仲よしなか動向どうこうにするはちじょういんに、こう白河しらかわは「木曾きそなんとかはらん(木曾きそなど問題もんだいではない)」[86]かたっている。
  13. ^ 吾妻あづまきょうもとこよみ元年がんねん8がつ17にちじょうは、自由じゆう任官にんかん問題もんだいにより頼朝よりとも義経よしつね関係かんけい悪化あっかしたという記事きじだが、「義経よしつね勝手かって検非違使けびいし任官にんかんしたため、頼朝よりとも激怒げきどして追討ついとう使からはずした」と説明せつめいするのはこの記事きじだけで、どう時代じだい記録きろくにはられず、『平家ひらか物語ものがたりしょほんでも「のべけいほん」「長門ながとほん」「よんほん」では、たんはんよりゆき義経よしつね任官にんかん記事きじ一括いっかつ記載きさいするのみで、義経よしつね自由じゆう任官にんかんをしたといているのは『源平げんぺい盛衰せいすい』しかないことから、その信憑しんぴょうせい疑問ぎもんげかけられている[111]義経よしつね京都きょうとまることを余儀よぎなくされたため、追討ついとう計画けいかく変更へんこうせまられたことが、頼朝よりとも機嫌きげんそこねた原因げんいんであるというせつもある[112]
  14. ^ いん御厩みまや牛馬ぎゅうば管理かんり御幸みゆき警護けいごおこないん武力ぶりょく組織そしき中核ちゅうかくであり、いん親衛隊しんえいたいちょうともいえる地位ちいだった。頼朝よりとも国家こっかてき武力ぶりょく独占どくせんすることを志向しこうしており、義経よしつねいん御厩みまや就任しゅうにん警戒けいかいしんいたのではないかというせつもある[112]
  15. ^ 該当がいとう表現ひょうげんは『たま文治ぶんじ元年がんねん11がつ26にちじょう、『吾妻あづまきょう文治ぶんじ元年がんねん11がつ15にちじょう頼朝よりとも高階たかしなやすしけい書状しょじょう文面ぶんめんられる。「だい天狗てんぐ」は頼朝よりともこう白河しらかわひょうした言葉ことばとして理解りかいされてきたが、河内かわうちさちとおじょう悦子えつこらは、この書状しょじょう院宣いんぜんではなくたいけい私信ししんたいする返書へんしょであることを理由りゆうに「だい天狗てんぐ」はたいけいすとし[136]五味ごみ文彦ふみひこ保立ほたて道久みちひさらも賛同さんどうした。しかしいん意向いこうらせるほか書状しょじょうたいけい私信ししん形式けいしきっていること、書状しょじょうとどけた使者ししゃたいけい私邸していではなくいん御所ごしょたずねていること、たいけい個人こじんへのたんなる私信ししんにしては言葉ことばづかいが丁寧ていねいすぎること、書状しょじょう内容ないようをよくむと頼朝よりとも反論はんろん論理ろんり構成こうせいからたいけいを「だい天狗てんぐ」とんでいるとは解釈かいしゃくできないことなどから、やはりこの表現ひょうげんたいけい個人こじんではなくのち白河しらかわひょうしたものであろうという反論はんろん川合かわいやすしなどからている。なお永井ながい路子みちこは「だい天狗てんぐ」とは頼朝よりともたいするいんがわ評語ひょうご天魔てんま所為しょい」にたいする頼朝よりともがわ対抗たいこうてき揶揄やゆであろうとし、橋本はしもと義彦よしひこがりの近臣きんしんたいけいを「日本にっぽんこくだいいちだい天狗てんぐ」とするのはいかぶりであり、こう白河しらかわしたとするのが自然しぜんであるとした[137]。また菱沼ひしぬま一憲かずのりは「だい天狗てんぐ」をくだり義経よしつねとみなすせつ提唱ていしょうした[138]が、これについてもこう白河しらかわ弁明べんめいは「くだり義経よしつね謀反むほんは、人間にんげん(こののもの)には責任せきにんがない」というものだからりたないとの批判ひはんがある[139]
  16. ^ この「守護しゅご地頭じとう」については、石母田いしもたただしが「いちこく地頭じとうしょく」の概念がいねん[141]提唱ていしょうしてからおおくの議論ぎろん展開てんかいされ、現在げんざいではこの「守護しゅご地頭じとう」は鎌倉かまくら時代じだい一般いっぱんてきだっただいはんさんヶ条かじょう職務しょくむとする守護しゅご荘園しょうえんおおやけりょう設置せっちされた地頭じとうではなく、段別たんべつしょうへい粮米の徴収ちょうしゅう田地でんち知行ちぎょうけん国内こくない武士ぶし動員どういんけんなど強大きょうだい権限けんげんつ「くに地頭じとう」であるとするせつ有力ゆうりょくとなっている[142]
  17. ^ 京極きょうごく殿どのりょうこういんりょうについては藤原ふじわら忠実ちゅうじつ参照さんしょうのこと。
  18. ^ 藤原ふじわら師長もろながについては、かれちちよりゆきちょうわってちゅうどおりりゅう近衛このえはじめみのるまつ殿どのもとぼう九条くじょうけんら)から摂関せっかん地位ちいもどそうと暗躍あんやくしており、こう白河しらかわ法皇ほうおうはその野心やしん断念だんねんさせるために太政大臣だじょうだいじん任命にんめいしたという政治せいじてき理由りゆう研究けんきゅうしゃもいる[188]
  19. ^ 本朝ほんちょうすめらぎたね紹運ろく』では平信へいしんぎょうおんなとするが、平信へいしんぎょうのべ4ねん(1138ねんまれであるためあやまり。
  20. ^ 後三条ごさんじょう天皇てんのうだいさん皇子おうじ輔仁親王しんのう
  21. ^ たま寿ことぶきひさし3ねん2がつ2にちじょう記載きさいされる人物じんぶつで、伯耆ほうきこくにおいてはんたいら軍事ぐんじ行動こうどう展開てんかいし、のち白河しらかわいんよりたいら追討ついとういのちけたともされる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
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  2. ^ 美川みかわけい 2015, p. 229.
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  22. ^ 百錬ひゃくれんしょう』3がつ3にちじょう、『たま』3がつ13にちじょう
  23. ^ たま』6がつ23にちじょう
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  27. ^ へいはん同日どうじつじょう
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  31. ^ きち』3がつ16にちじょう
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  33. ^ 百錬ひゃくれんしょう』『たま』『安元やすもと
  34. ^ 安元やすもと
  35. ^ たま』10がつ29にちじょう
  36. ^ 松薗まつぞのひとし中世ちゅうせい王家おうけ宮家みやけ : 皇子おうじたちの中世ちゅうせい臨川りんせん書店しょてん王朝おうちょう時代じだい実像じつぞう 15〉、2023ねん、pp. 28-30。ISBN 978-4-653-04715-5
  37. ^ たま』4がつ14にちじょう
  38. ^ たま』4がつ17にちじょう
  39. ^ たま』19にちじょう
  40. ^ 百錬ひゃくれんしょう』5がつ13にちじょう
  41. ^ 百錬ひゃくれんしょう同日どうじつじょう、『たま』22にちじょう
  42. ^ たま』29にちじょう
  43. ^ たま安元やすもと3ねん6がつ21にちじょう
  44. ^ たまうけたまわ元年がんねん11がつ15にちじょう
  45. ^ たま』『やまえんじゅ正月しょうがつ20日はつかじょう
  46. ^ やまえんじゅ正月しょうがつ25にちじょう、『百錬ひゃくれんしょう』2がつ1にちじょう、『たま』2がつ5にちじょう
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  48. ^ やまえんじゅ』3がつ17にち、18にちじょう
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  51. ^ やまえんじゅ』2がつ27にちじょう
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  59. ^ 百錬ひゃくれんしょう正月しょうがつ4にちじょう
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  96. ^ たま』11月25にちじょう
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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