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はち咫鏡

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はち咫鏡(イメージ)写真しゃしん大型おおがたないぎょうはなぶんきょう

はち咫鏡(やたのかがみ)は、三種さんしゅ神器じんぎひとつ。年代ねんだいしょう。『古事記こじき』では、はちしゃくきょう(やたかがみ)としるされている[1]

伊勢神宮いせじんぐうにある神体しんたいと、皇居こうきょにある伊勢神宮いせじんぐう神体しんたいをかたどってつくったという形代かたしろふたつがある。いずれも一般いっぱん公開こうかいはされていない。

概要がいよう

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古事記こじき』では、高天原たかまがはらはちひゃくまんかみ々がてんやすかわあつまって、川上かわかみけんせき(かたしは)を金敷かなしきにして、金山かなやまてつもちいてつくらせた」としるされている。

日本書紀にほんしょき』には、べつ真経さねつねきょう(まふつの かがみ)ともいうとしるされている。たん神鏡しんきょう(しんきょう)またはたからきょう(ほうきょう)とよばれることもおおいが「神鏡しんきょう」や「たからきょう」という言葉ことば普通ふつう名詞めいしであり、はち咫鏡だけをさすとはかぎらないので注意ちゅうい必要ひつようである。

一般いっぱんに「はち咫(やた)」は「はちじゅうまんかみ」「八尋やひろ大熊おおくまわに」「はち咫烏」とう同様どうようたんおおきい・おおいという形容けいようであり具体ぐたいてき数値すうちではない、とされているが、(あた)を円周えんしゅう単位たんいかんがえてみち1しゃくえん円周えんしゅうを4咫(0.8しゃく×4)として「はち咫鏡は直径ちょっけい2しゃく(46センチメートル (cm) 前後ぜんこう)、円周えんしゅうやく147cmのえんきょう意味いみする」というせつ存在そんざいする[2]

こうかん学者がくしゃもとまきの『せつぶんかい』には、

咫、ちゅう婦人ふじん手長てながはちすんいい咫、しゅうじゃく也 (咫、ふつうの婦人ふじんながはちすんで、これを咫という、しゅうじゃくなり)

とあり、戦国せんごくこうかん初期しょきしゃくでは一寸ちょっと2.31cm×8すん×8咫=やく147cmとなる。

平原ひらはら遺跡いせき出土しゅつどの「大型おおがたないぎょうはなぶんきょううちゆきはなぶんはちようきょう)」は直径ちょっけい46.5cm、円周えんしゅうは46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生やよい時代じだい後期こうきから晩期ばんきにこのサイズのかがみ存在そんざいしたことはたしかとなった(考古こうこ遺物いぶつふし参照さんしょう)が、現存げんそんするおけだい神体しんたいもの)のおおきさから推察すいさつされる神器じんぎかがみはもっとちいさい。

いずれにせよ、その特大とくだいおおきさから、のち三種さんしゅ神器じんぎひとつであるかがみ固有名詞こゆうめいしになったとかんがえられている。

伊勢神宮いせじんぐうはち咫鏡

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天照大御神あまてらすおおみかみの「神体しんたい」としての「はち咫鏡」は神宮じんぐう内宮ないくう奉安ほうあんされている。

神道しんとうしょ類聚るいじゅうしん祗本げんひとしによれば、この「はち咫鏡」の見分けんぶん記録きろくには「八頭花崎八葉形也」、「はちよう中有ちゅうう方円ほうえんぞうてんあきら大神おおがみ御霊みたまきょう也」とある。この「はち咫鏡」は、明治めいじ初年しょねん明治天皇めいじてんのう天覧てんらんしたのち、あらためて内宮ないくう奥深おくふかくに奉納ほうのう安置あんちされたことになっている。

この「神宮じんぐうはち咫鏡」の「最初さいしょ姿すがたおおきさ」は、考古こうこ学者がくしゃ原田はらだだいろくによれば、福岡ふくおかけん糸島いとしまにある「平原ひらはら遺跡いせき出土しゅつど大型おおがたないぎょうはなぶんきょううちゆきはなぶんはちようきょう)と、おな形状けいじょうおなおおきさのものではなかったか」と考察こうさつして、それを著書ちょしょしるしている。これは『延喜えんぎしき伊勢大いせおお神宮じんぐうしき、『すめらぎふと神宮じんぐう儀式ぎしきちょう』において、かがみれるおけだい内径ないけいが「いちしゃくろくすんさんふん」(やく49cm)としており、46.5cmの大型おおがたないぎょうはなぶんきょうおさめるにはちょうどおおきさであることから。原田はらだによれば「鎮座ちんざ伝記でんきいてみると、やくさんかいほど内宮ないくう火災かさいがあり、このいずれかに焼失しょうしつしてしまい(いちだけとはかぎらないかも、とも)、そのときあらたにつくなおされたはち咫鏡は、現在げんざいのこおけだい神体しんたいもの)のおおきさから推定すいていして、直径ちょっけい46.5cmのおおきさではなくなっている」という。また、「ぞう実際じっさい模写もしゃするべくもないであろうから、これも変化へんかしているだろう」という[3]

宮中きゅうちゅう賢所かしこどころはち咫鏡

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皇居こうきょはち咫鏡は、賢所かしこどころたてまつおけされていたことから、そのかがみして賢所かしこどころ(かしこどころ)ともいう。そのため、あえて賢所かしこどころのことをいう場合ばあいにはこれを「けんしょ」とぶか、またはその通称つうしょうである「内侍所ないしどころ」とんで、これをけたという。しかし後世こうせいになると、内侍所ないしどころ神鏡しんきょうのことを言葉ことばとなった。

内侍所ないしどころ神鏡しんきょう実態じったいについては公卿くぎょうたちも十分じゅうぶん把握はあくしていなかったが、天徳てんとく4ねん960ねん)にこった火災かさいによって内侍所ないしどころ神鏡しんきょうが3まい存在そんざいすることが判明はんめいした。これらは、それぞれ伊勢いせ紀伊きいこく日前ひくまどうくにかかしゃ神鏡しんきょうということにされたが、寛弘かんこう2ねん1005ねん)にこった火災かさいによりうち2まい焼失しょうしつのこった1まい伊勢いせ神鏡しんきょうはち咫鏡の形代かたしろ)ということにされた。それもちょうこよみ4ねん1040ねん)にこった内裏だいり火災かさいにより完全かんぜん破損はそんしてしまった。寛弘かんこうさい改鋳かいちゅう新造しんぞう議論ぎろんされたが[ちゅう 1]、このさい議論ぎろんされず、結局けっきょく神鏡しんきょう破片はへん金属きんぞくつぶ神鏡しんきょうとして安置あんちされることになった[5]

平安へいあん時代じだい末期まっき平家ひらか都落みやこおちとともに西にしうつし、寿ことぶきひさし4ねん3がつ24にち(1185ねん4がつ25にち)、壇ノ浦だんのうらたたかさい安徳天皇あんとくてんのうとともに海中かいちゅうしずみ、それを源義経みなもとのよしつねはちしゃく瓊勾だまとともに回収かいしゅうした。

南北なんぼくあさ時代じだいには、天皇てんのう2人ふたり存在そんざいする状況じょうきょうで、両朝りょうちょうあいだ神器じんぎをめぐる主張しゅちょうちがいがしょうじている。たてたけし3ねん1336ねん)に後醍醐天皇ごだいごてんのう光明こうみょう天皇てんのう三種さんしゅ神器じんぎゆずったが、南朝なんちょうがわは、これは偽物にせものであり本物ほんもの南朝なんちょう保有ほゆうしていると主張しゅちょうした。もっとも、南朝なんちょう主張しゅちょう絶対ぜったい信頼しんらいくことはできないとされ、実際じっさい正平しょうへい一統いっとうにて南朝なんちょう北朝ほくちょう神器じんぎ接収せっしゅうしている。なお、そのためその北朝ほくちょうには三種さんしゅ神器じんぎ存在そんざいせず、後光ごこうげん天皇てんのう以降いこうは「内侍所ないしどころからしひつ」を神鏡しんきょう代用だいようとしていた。こう小松こまつ天皇てんのうだいである明徳めいとく3ねん1392ねん)に南朝なんちょうから神器じんぎが「還御かんぎょ」した[6]

室町むろまち時代ときよ嘉吉よしきち3ねん9がつ23にち1443ねん10月16にち)にこった禁闕きんけつへんで、こう南朝なんちょう勢力せいりょく宮中きゅうちゅう襲撃しゅうげきしたさい三種さんしゅ神器じんぎのうち宝剣ほうけん神璽しんじうばわれたが、神鏡しんきょうのみはなんのがれ、翌日よくじつ近衛このえ殿どのうつされた。

近世きんせい内侍所ないしどころでは2つのからしひつ奉安ほうあんされており[7]村田むらたただしこころざしによれば延徳えんとく3ねん(1491ねん)のいにしえからもその事実じじつ確認かくにんでき、元弘もとひろ新造しんぞうからしひつ明徳めいとくに「還御かんぎょ」したからしひつであるとも、後光ごこうげん天皇てんのう以降いこう北朝ほくちょうからしひつ明徳めいとくに「還御かんぎょ」したからしひつであるともいわれている[8]

宗像むなかた大社たいしゃ津宮つのみやはち咫鏡

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筑前ちくぜんこく風土記ふどき現存げんそんしないが、逸文いつぶん明確めいかく記述きじゅつされる。古代こだい記録きろくでははち咫鏡をだいとするのは、神社じんじゃでは伊勢神宮いせじんぐう宗像むなかた大社たいしゃあたり津宮つのみやだけであるとされる。

神話しんわ

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記紀きき神話しんわによれば、天照大御神あまてらすおおみかみ岩戸いわとがくさい天津てんしんあさ斯許うりいのちつくったとされ、『日本書紀にほんしょき』にはてんあきら大神おおがみかたどってつくられたことや、ためしににちぞうきょうにちほこ鋳造ちゅうぞうしたことがつたわる。てん宇受うりいのちおどぐるい、かみ々が大笑おおわらいすることを不審ふしんおもった天照大御神あまてらすおおみかみ岩戸いわとほそめにけたとき、このかがみ天照大御神あまてらすおおみかみ自身じしんうつして、興味きょうみたせ、てん手力てじから男神おかみによってそとした。そしてふたた高天原たかまがはら葦原よしわら中国ちゅうごくあかるくなった、という。

天孫てんそん降臨こうりんさい天照大御神あまてらすおおみかみから邇邇げいいのちさづけられ、このかがみ天照大御神あまてらすおおみかみ自身じしんだとおもってまつるようにとのかみみことのりたからきょうたてまつときかみみことのり)がくだされた、という。

神武じんむ東征とうせいでは神器じんぎ同様どうようはち咫鏡についてもまった言及げんきゅうされていない。

考古こうこ遺物いぶつ

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福岡ふくおかけん糸島いとしまにある遺跡いせき平原ひらはら遺跡いせき」において出土しゅつどした国宝こくほう指定していされている直径ちょっけい46.5cmの大型おおがたないぎょうはなぶんきょううちゆきはなぶんはちようきょう)4めんのちに5めん修正しゅうせい)は原田はらだだいろくによるとはち咫鏡そのものという[3][9]。 この「大型おおがたないぎょうはなぶんきょう」は、ぞうのみの大型おおがた青銅せいどうきょうである。つまり、文字もじかみじゅうなどの図柄ずがらい。 また、『鎮座ちんざ伝記でんき』に「はち咫鏡」のかたちは「八頭やつがしら花崎はなざきはちようがた」とあり、この「八頭花崎八葉形也」のぞう考古こうこ遺物いぶつ現在げんざいのところ、この「大型おおがたないぎょうはなぶんきょう」のみである。

このかがみのうち4めん伊都いとこく歴史れきし博物館はくぶつかんで、また1めん九州きゅうしゅう国立こくりつ博物館はくぶつかん常時じょうじ展示てんじされており、実物じつぶつることができる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 焼失しょうしつ直後ちょくごからかがみ改鋳かいちゅうする議論ぎろんがり、諸道しょどうかんぶん提出ていしゅつさせた。よく寛弘かんこう3ねん7がつには一条天皇いちじょうてんのう御前ごぜん公卿くぎょう会議かいぎおこなわれ、左大臣さだいじん藤原ふじわら道長みちなが改鋳かいちゅう支持しじしたものの、公卿くぎょう大半たいはん反対はんたいしたため改鋳かいちゅうおこなわれなかった[4]

出典しゅってん

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  1. ^ 倉野くらの憲司けんじ武田たけだ祐吉ゆうきち『『古事記こじき 祝詞のりと』』 1かん岩波書店いわなみしょてん日本にっぽん古典こてん文學ぶんがく体系たいけい〉、1958ねん 
  2. ^ 三原みはら邦夫くにおはち咫のかがみについて」『月刊げっかんしにか』2000ねん2がつごう(120ごう)、大修館書店たいしゅうかんしょてん、2000ねん 
  3. ^ a b 原田はらだだいろく平原ひらはら弥生やよい古墳こふん 大日だいにち孁貴のはか
  4. ^ 大津おおつとおる道長みちなが宮廷きゅうてい社会しゃかい 日本にっぽん歴史れきし06」講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ (2009ねん) ISBN 978-4062919067、215-216p
  5. ^ 斎木さいき涼子りょうこ内侍所ないしどころ神鏡しんきょうをめぐる儀礼ぎれい」『らくきた史学しがく』19(0)、pp.24-41、2017ねん
  6. ^ 村田むらたただしこころざし南北なんぼくあさ史論しろん』1971ねん、pp.70-71。
  7. ^ 野村のむらげん近世きんせいにおける天皇てんのう地位ちい正統せいとうせい」『大阪大学おおさかだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう紀要きよう』57、2017ねん、pp.16-19。
  8. ^ 村田むらたただしこころざし南北なんぼくあさ史論しろん』1971ねん、pp.72-73。
  9. ^ 原田はらだだいろく実在じつざいした神話しんわ

関連かんれん項目こうもく

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