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一条天皇いちじょうてんのう

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一条天皇いちじょうてんのう
一条天皇いちじょうてんのうぞう真正極楽寺しんせいごくらくじくら

即位そくいれい 986ねん8がつ29にち寛和ひろかず2ねん7がつ22にち
大嘗祭だいじょうさい 986ねん12月18にち寛和ひろかず2ねん11月15にち
元号げんごう 寛和ひろかず
えいのべ
えい
せいこよみ
ちょういさお
長保ながほ
寛弘かんこう
時代じだい 平安へいあん時代じだい
先代せんだい 花山はなやま天皇てんのう
次代じだい 三条さんじょう天皇てんのう

誕生たんじょう 980ねん7がつ15にち天元てんげん3ねん6月1にち[1]
東三条ひがしさんじょうだい
崩御ほうぎょ 1011ねん7がつ25にち寛弘かんこう8ねん6月22にち[2]
一条院いちじょういん中殿ちゅうでん[2]
大喪たいそう 1011ねん8がつ9にち寛弘かんこう8ねん7がつ8にち
りょうしょ 円融寺えんゆうじきたりょう
追号ついごう 一条院いちじょういん
一条天皇いちじょうてんのう
いみな ふところひとし
別称べっしょう えいのべみかど
精進しょうじんさとしみょうさとし法名ほうみょう
父親ちちおや 円融天皇えんゆうてんのう
母親ははおや 藤原ふじわらかい
皇后こうごう 藤原ふじわら定子さだこ
中宮なかみや 藤原ふじわら彰子あきこ
女御にょうご 藤原ふじわら義子よしこ
藤原ふじわら元子もとこ
藤原ふじわら尊子たかこ
子女しじょ おさむ内親王ないしんのう
あつしかん親王しんのう
媄子内親王ないしんのう
後一条天皇ごいちじょうてんのう
こう朱雀すざく天皇てんのう
皇居こうきょ 平安へいあんみや一条院いちじょういん東三条ひがしさんじょういん枇杷びわ殿どの
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一条天皇いちじょうてんのう(いちじょう てんのう、きゅう字体じたい一條天皇いちじょうてんのう980ねん7がつ15にち天元てんげん3ねん6月1にち〉- 1011ねん7がつ25にち寛弘かんこう8ねん6月22にち[2])は、日本にっぽんだい66だい天皇てんのう在位ざいい:986ねん8がつ1にち寛和ひろかず2ねん6月23にち〉- 1011ねん7がつ16にち寛弘かんこう8ねん6月13にち〉)。いみなふところひとし(やすひと)[注釈ちゅうしゃく 1]

円融天皇えんゆうてんのうだい1皇子おうじ[4]はは藤原ふじわらかい藤原ふじわらけんむすめ)。兄弟きょうだい姉妹しまいはおらず、従兄弟いとこぜんみかど花山はなやま天皇てんのうみかど三条さんじょう天皇てんのうがいる。

略歴りゃくれき

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永観えいかん2ねん984ねん8がつ27にち花山はなやま天皇てんのう皇位こういいだとき皇嗣こうしてられる。寛和ひろかず2ねん986ねん6月23にち8がつ1にち)、花山はなやま天皇てんのう内裏だいりして出家しゅっけしたため、かぞどし7さい即位そくいした。これはまご早期そうき即位そくいねらった藤原ふじわらけん陰謀いんぼうといわれる(寛和ひろかずへん)。皇太子こうたいしには従兄じゅうけいにあたるきょさだ親王しんのう三条さんじょう天皇てんのう)をて、摂政せっしょうけん就任しゅうにんした(のち関白かんぱく)。

7がつ22にち大極殿たいきょくでんにおいて即位そくいおこなわれた。このとき大極殿たいきょくでんきたひさしひがし幔内に摂政せっしょう伺候しこうすることが確立かくりつしたとされ、それは天皇てんのう摂関せっかんとのあらたな関係かんけいしめすものであった[5]。『だいかがみ』によると、一条天皇いちじょうてんのう即位そくいしき大極殿たいきょくでん高御座たかみくらかみいた生首なまくびころがっていた「かみつきたるものの、あたまの、うちつきたる」がかれていたという説話せつわえる[6]実際じっさいにこのようなことがあったとはおもえないが、一条いちじょう即位そくいこころよおもわない勢力せいりょくがあったことをうかがわせる逸話いつわである[6]

えい祚2ねん(990ねん正月しょうがつ太政大臣だじょうだいじんとなったけん加冠かかんにより元服げんぷくおこなわれるが、ほどなくけん病死びょうしする。けん死後しご長男ちょうなん道隆みちたかつづ外戚がいせきとして関白かんぱくつとめ、一条天皇いちじょうてんのう皇后こうごうむすめ定子さだこれ、中宮なかみやごうさせるが、ちょういさお元年がんねん995ねん)に病没びょうぼつわりにおとうとみちけん関白かんぱく就任しゅうにんするがわずか7にちぼっし、道隆みちたかしゅうとのあらそいに勝利しょうりした道隆みちたかみちけんおとうと道長みちながが、あね天皇てんのう生母せいぼかい推挙すいきょけ、内覧ないらんとなって実権じっけん掌握しょうあくした。道長みちながさき中宮ちゅうぐうごうしていた定子さだこ皇后こうごうみやごうし、むすめ彰子あきこ皇后こうごうてて中宮ちゅうぐうごうさせることいちみかどきさき先例せんれいひらいた。

一条天皇いちじょうてんのう時代じだい道隆みちたか道長みちなが兄弟きょうだいのもとで藤原ふじわら権勢けんせい最盛さいせいたっし、皇后こうごう定子さだこつかえる清少納言せいしょうなごん中宮なかみや彰子あきこつかえる紫式部むらさきしきぶ和泉式部いずみしきぶらによって平安へいあん女流じょりゅう文学ぶんがく花開はなひらいた。天皇てんのう自身じしん文芸ぶんげいふか関心かんしんしめし、『本朝ほんちょうぶんいき』などに詩文しぶんのこしている。音楽おんがくにも堪能かんのうで、ふえくしたという。また、さむよるにはわざと直垂ひたたれいでいた。彰子あきこがそのわけをくと、いちじょうは「日本にっぽんこく人民じんみんさむかるらむに、われ、かくてあたたかにてたのしくたるが不憫ふびんなれば」とこたえたとされる[7]。いかにも気配きくばりの一条いちじょうらしい説話せつわだが、じつはこのはなし中国ちゅうごく孝子こうしでん原拠げんきょつものである[8]

また道長みちなが内覧ないらんとどまったのは、当時とうじ閣議かくぎられないまりがあった摂政せっしょう関白かんぱくよりも、内覧ないらんねたままいちじょうかくいん首座しゅざ)として実権じっけん掌握しょうあくしようとしたためとられるが、天皇てんのう自身じしんちょうずるにつれ祖父そふ醍醐天皇だいごてんのう祖父そふ村上むらかみ天皇てんのうのような親政しんせいこころざしたとされる。道長みちなが天皇てんのう協調きょうちょうし、これによりのち大江匡房おおえのまさふさが『ぞく本朝ほんちょう往生おうじょうでん』で藤原ふじわらみのる藤原ふじわらこうなりひとし有能ゆうのう人材じんざい輩出はいしゅつしたととなえたほど、有為ゆうい政治せいじ体制たいせい確立かくりつした。とくに、長保ながほ元年がんねん7がつ27にち999ねん9月9にち)に発布はっぷされた「長保ながほもと年令ねんれい」は、新制しんせい基本きほんとして公家くげ社会しゃかいおもんじられ、中世ちゅうせい公家くげほうたいしてもつよ影響えいきょうあたえていた。

一方いっぽう天皇てんのう道長みちなが彰子あきこ関係かんけいけっして良好りょうこうではなかったとせつもある。藤原ふじわらこうなり日記にっきけん』には、晩年ばんねん定子さだこんだあつしかん親王しんのう次期じき東宮とうぐうのぞんでいたが、くだりなり道長みちなが意向いこう尊重そんちょうし、あつしなり親王しんのう東宮とうぐうにするよう天皇てんのう進言しんげんしたことが記述きじゅつされている。1220ねんころ成立せいりつした『かんしょう』には天皇てんのう崩御ほうぎょ道長みちなが彰子あきこ天皇てんのう遺品いひん整理せいりちゅういちつう手紙てがみ発見はっけんし、そのなかには「さん光明こうみょうならんとほっし、じゅうくもくつがえひてだいせいくらし」とかれていて、これを「道長みちなが一族いちぞく専横せんおうによってくにみだれている」という意味いみかいした道長みちながはそのぶんてたといういちけんがある。おなごろ成立せいりつした『古事ふるごとだん』にもたようなはなし記載きさいされている。

かねてより譲位じょうい意向いこう道長みちながつたえていたが、慰留いりゅうされるうちに寛弘かんこう8ねん1011ねん)5がつまつごろにはやまいおもくなり[9]同年どうねん6がつ13にち皇太子こうたいしきょさだ親王しんのう三条さんじょう天皇てんのう)に譲位じょうい太上天皇だじょうてんのうとなり、19にち出家しゅっけするものの、その3にちの22にち崩御ほうぎょする。宝算ほうさん32。7月8にちよる火葬かそうされたという[10]

辞世じせいうたは『御堂みどう関白かんぱく』によれば「の くさ宿やどりに きみをおきて ちりでぬる ことをこそおもへ」。ただし『けん』では「ことかなしき」でむすび、はつは『しん古今ここんしゅうまきだいはち哀傷あいしょう収録しゅうろくでは「秋風あきかぜの 宿やどりに」となっている。

人物じんぶつ

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ちょういさお寛弘かんこう年間ねんかん日記にっきをつけていたことがわかっている[注釈ちゅうしゃく 2]ちょういさお平安へいあん末期まっきにはすでにうしなわれ[12]寛弘かんこうおうひさしころまでつてそんられる[13]。その中世ちゅうせい戦乱せんらんにまぎれてしっしたとおもわれ、『北山きたやましょう』・『はしらしょう』・『たてたけし年中ねんじゅう行事ぎょうじ』・『からだげんしょう』などに逸文いつぶんのこるのみである[注釈ちゅうしゃく 3]

大変たいへんあいねこいえであり、内裏だいりまれたねこのために儀式ぎしきおこない、人間にんげん乳母うばをつけたというはなしが『しょう右記うき』に記述きじゅつされている。このねこは「命婦みょうぶのおとど(おもと)」と名付なづけられ、叙爵じょしゃくされていたことが『枕草子まくらのそうし』に記述きじゅつされている。

系譜けいふ

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一条天皇いちじょうてんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. だい59だい 宇多天皇うだてんのう
 
 
 
 
 
 
 
8. だい60だい 醍醐天皇だいごてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 藤原ふじわらたね
 
 
 
 
 
 
 
4. だい62だい 村上むらかみ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原基経ふじわらのもとつね
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原ふじわら穏子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. ひとやすし親王しんのうおんな
 
 
 
 
 
 
 
2. だい64だい 円融天皇えんゆうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 藤原ふじわら忠平ちゅうへい(=24)
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原ふじわら(=12)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. みなもと昭子あきこ(=25)
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原ふじわら安子やすこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原ふじわらけいくに(=26)
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原ふじわら盛子もりこ(=13)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. だい66だい 一条天皇いちじょうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原ふじわら忠平ちゅうへい(=20)
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原ふじわら(=10)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. みなもと昭子あきこ(=21)
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原ふじわらけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 藤原ふじわらけいくに(=22)
 
 
 
 
 
 
 
13. 藤原ふじわら盛子もりこ(=11)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 藤原ふじわらかい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原ふじわら山蔭やまかげ
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原ふじわら中正ちゅうせい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 筑前ちくぜんかいゆう孝女こうじょ
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原ふじわらひめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. たちばなきよしきよし
 
 
 
 
 
 
 
15. たちばないわお
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図けいず

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60 醍醐天皇だいごてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
61 朱雀すざく天皇てんのう
 
62 村上むらかみ天皇てんのう
 
兼明親王かねあきらしんのう
 
みなもと高明こうめい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広平ひろへい親王しんのう
 
63 冷泉れいせん天皇てんのう
 
致平親王しんのう
 
為平親王ためひらしんのう
 
64 円融天皇えんゆうてんのう
 
昭平しょうへい親王しんのう
 
具平親王ともひらしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
65 花山はなやま天皇てんのう
 
67 三条さんじょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
66 一条天皇いちじょうてんのう
 
 
 
 
 
みなもとぼう
村上むらかみはじめへ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あつしあきら親王しんのう
(小一条こいちじょういん)
 
禎子さだこ内親王ないしんのう
陽明ようめいもんいん)
 
68 後一条天皇ごいちじょうてんのう
 
69 こう朱雀すざく天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
70 後冷泉天皇ごれいぜいてんのう
 
71 後三条ごさんじょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ははである藤原ふじわらかいは、たちばなかいして弘文天皇こうぶんてんのうとそのつま飛鳥あすか時代ときよ天武天皇てんむてんのう皇女おうじょじゅう皇女おうじょの11せいまごにあたる。天武天皇てんむてんのう男系だんけい皇統こうとう途切とぎれてしまうものの、女系じょけい一条天皇いちじょうてんのうかいしてとくひとしたる現在げんざい皇室こうしつおよきゅう皇族こうぞくつたわっている また、皇后こうごう定子さだこ中宮ちゅうぐう彰子あきこ女御にょうご尊子たかこ弘文こうぶん十市とおいち夫妻ふさい後裔こうえいである。[14][15]一条天皇いちじょうてんのう乳母うば長女ちょうじょおさむ内親王ないしんのうにおいてかみやくつとめたのもたちばな徳子とくこ受領じゅりょう藤原ふじわらゆうこくつま)である。

后妃こうひ皇子おうじおんな

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追号ついごう異名いみょう

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在位ざいいちゅうさと内裏だいり名称めいしょうにより「一条院いちじょういん」と追号ついごうされた。崩御ほうぎょしばらくは「大宮おおみやいん」ともばれていた[16]明治めいじ以後いご「〜いん」の追号ついごう廃止はいしされ「一条天皇いちじょうてんのう」となる。

在位ざいいちゅう元号げんごう

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りょう霊廟れいびょう

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りょう(みささぎ)は、宮内庁くないちょうにより京都きょうと京都きょうと右京うきょう竜安寺朱山りょうあんじしゅうやま龍安寺りゅうあんじうちにある圓融寺えんゆうじきたりょう円融寺えんゆうじきたりょう:えんゆうじのきたのみささぎ)に治定じじょうされている。宮内庁くないちょうじょう形式けいしきえんおか

天皇てんのう生前せいぜんちち円融えんゆういんとなり土葬どそうされることをのぞみ、近臣きんしん熟知じゅくちするところであったが、道長みちながいん荼毘だびしてからそのことをおもし、遺骨いこつ東山ひがしやま円成寺えんじょうじ安置あんちされた。希望きぼうどおり円融えんゆうりょう北山きたやましゅやまにある火葬かそうづかか)のがわほうむられたのは、きゅうねんった寛仁かんじん4ねん1020ねん)6がつ16にちのことであった。

なお、一条天皇いちじょうてんのう大喪たいそうにおけるそうほうあやまりについてろんじた論文ろんぶんがあり、それによれば淳和天皇じゅんなてんのう以降いこう在位ざいいちゅう天皇てんのう葬儀そうぎ土葬どそう太上天皇だじょうてんのう葬儀そうぎ火葬かそうという慣例かんれいがあったが、退位たいい直後ちょくご次代じだい天皇てんのうから太上天皇だじょうてんのうとしての称号しょうごうたてまつじょうけずに崩御ほうぎょした醍醐天皇だいごてんのう天皇てんのうれいとして土葬どそうおこなわれた。一条天皇いちじょうてんのう場合ばあい天皇てんのう意思いしだけでなく醍醐天皇だいごてんのう先例せんれいならえば土葬どそうおこなわれるべきであるが、道長みちなが以下いか廷臣ていしん太上天皇だじょうてんのうれいならって火葬かそうおこなったことになる。このあやまりが本当ほんとう勘違かんちがいによるものか意図いとてきなものかは不明ふめいであるが、つぎ在位ざいいちゅう崩御ほうぎょした息子むすこ後一条天皇ごいちじょうてんのうさいには崩御ほうぎょ事実じじつかくして譲位じょうい儀式ぎしきおこなったうえ太上天皇だじょうてんのうとして火葬かそうにされ、それ以後いご在位ざいいちゅう天皇てんのう崩御ほうぎょそのものがかくされる慣例かんれい確立かくりつされていることから、一条天皇いちじょうてんのう大喪たいそうにおけるあやまりは天皇てんのう大喪たいそうにおける観念かんねん変化へんか在位ざいいちゅう天皇てんのう崩御ほうぎょならびにそれを前提ぜんていとした土葬どそう否定ひてい)の過渡かと発生はっせいした出来事できごととする評価ひょうかがされている[17]

また皇居こうきょでは、皇霊こうれい殿どの宮中きゅうちゅうさん殿どのの1つ)においてほか歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくとともに天皇てんのうれいまつられている。

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ
テレビアニメ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 中世ちゅうせいには「かねひと」というくん存在そんざいした。卜部うらべ兼好けんこう先祖せんぞ卜部うらべけんのべが、一条院いちじょういん宸筆しんぴつによってへんいみなの「ふところ(かね)」とつうずる「けん」のいち下賜かしされ、以後いご卜部うらべつうとなったというはなしがある[3]
  2. ^ 鎌倉かまくら寛弘かんこう年間ねんかん(1004~1011)のななかん持明院じみょういんみつるのち伏見ふしみ上皇じょうこうから花園はなぞの天皇てんのう譲渡ゆずりわたされた記録きろくがある[11]花園天皇はなぞのてんのう後冷泉天皇ごれいぜいてんのう一緒いっしょこう伏見ふしみ上皇じょうこうからたまわった)。
  3. ^ 寛弘かんこうななねん(1010)ぶん

出典しゅってん

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  1. ^ 倉本くらもと 2003, p. 1.
  2. ^ a b c 倉本くらもと 2003, p. 202.
  3. ^ 尊卑そんぴぶん注記ちゅうき
  4. ^ 倉本くらもと 2003, p. 4.
  5. ^ 末松すえまつつよし即位そくいしきにおける摂関せっかん母后ぼこう登壇とうだん」(『日本にっぽん研究けんきゅう』447ごう、1999ねん
  6. ^ a b 倉本くらもと 2003, p. 14.
  7. ^ 倉本くらもと 2003, p. 235.
  8. ^ 倉本くらもと 2003, p. 236.
  9. ^ 御堂みどう関白かんぱく寛弘かんこう8ねん5がつ23にちじょう
  10. ^ 栄花物語えいがものがたり』「いはかげ」のまき
  11. ^ 花園天皇はなぞのてんのう宸記』正和しょうわねん(1313)2がつ3にちじょう
  12. ^ たい
  13. ^ 薩戒
  14. ^ 天武天皇てんむてんのうから今上きんじょう天皇てんのうまでの系譜けいふ
  15. ^ 天武天皇てんむてんのう今上きんじょう天皇てんのう直系ちょっけい祖先そせん
  16. ^ しょう右記うき
  17. ^ 谷川たにがわあい平安へいあん時代じだいにおける天皇てんのう太上天皇だじょうてんのうそう儀礼ぎれい」『国史こくしがく』169ごう、1999ねん/所収しょしゅう:倉本くらもと一宏かずひろ へん王朝おうちょう時代じだい実像じつぞう1 王朝おうちょう再読さいどく臨川りんせん書店しょてん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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