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つぎたい天皇てんのう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
つぎたい天皇てんのう
足羽山あすわやまつぎたい天皇てんのうぞう福井ふくいけん福井ふくい

在位ざいい期間きかん
507ねん3月3にち? - 531ねん3がつ10日とおか?
つぎたい天皇てんのう元年がんねん2がつ4にち - つぎたい天皇てんのう25ねん2がつ7にち
時代じだい 古墳こふん時代じだい
先代せんだい たけれつ天皇てんのう
次代じだい 安閑天皇あんかんてんのう

誕生たんじょう 450ねん?
近江おうみこく高嶋たかしまさと三尾野みおの
げん滋賀しがけん高島たかしま
崩御ほうぎょ 531ねん3がつ10日とおか?
りょうしょ 三島みしまあいりょう
かんふう諡号しごう つぎたい天皇てんのう
いみな おとこだい迹(ヲホド)
別称べっしょう 袁本いのちおとこだい迹王
彦太みこと
雄大ゆうだい天皇てんのう
乎富とう大公たいこうおう
父親ちちおや 彦主じんおう応神天皇おうじんてんのう玄孫げんそん
母親ははおや ひめたれじん天皇てんのう7せいまご
皇后こうごう しろ皇女おうじょ仁賢天皇にんけんてんのう皇女おうじょ雄略天皇ゆうりゃくてんのう外孫そとまご
夫人ふじん 尾張おわりひめほか
子女しじょ 安閑天皇あんかんてんのう
せん天皇てんのう
欽明天皇てんのう
多数たすう
皇居こうきょ 樟葉くずはみや
筒城つつきみや
弟国おうぐにみや
いわあまり玉穂たまほみや
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つぎたい天皇てんのう(けいたいてんのう、きゅう字体じたいつぎたい天皇てんのう450ねん?〈允恭天皇いんぎょうてんのう39ねん〉 - 531ねん3がつ10日とおか?〈つぎたい天皇てんのう25ねん2がつ7にち〉)は、日本にっぽんだい26だい天皇てんのう[1]在位ざいい507ねん3月3にち?〈つぎたい天皇てんのう元年がんねん2がつ4にち〉 - 531ねん3がつ10日とおか?〈つぎたい天皇てんのう25ねん2がつ7にち〉)。

もとヲホドノオウ[2]漢字かんじでは、おとこだい迹王や乎富とうおうなど[2]

日本書紀にほんしょき』ではおとこだい迹王(をほどのおおきみ)、『古事記こじき』では袁本いのち(をほどのみこと)としるされる。また、『筑後ちくごこく風土記ふどき逸文いつぶんに「雄大ゆうだい天皇てんのう(をほどのすめらみこと)」、『上宮かみみや逸文いつぶん乎富とう大公たいこうおう(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田すみた(すだ)八幡やはた神社じんじゃ和歌山わかやまけん橋本はしもとぞう人物じんぶつ画像がぞうきょうめいえる「まことおとうとおうおとこおとうとおう?)」はつぎたい天皇てんのうすとするせつがある(後述こうじゅつ)。別名べつめいとして、『日本書紀にほんしょき』に彦太みこと(ひこふとのみこと)とある。かんふう諡号しごうつぎたい天皇てんのう」は代々だいだい天皇てんのうとともに淡海三船おうみのみふねにより、熟語じゅくごの「つぎたいもちみつる」からつぎたい名付なづけられたという。 朝鮮半島ちょうせんはんとう百済くだらこくとの関係かんけいふかたけやすしおうとは従兄弟いとこ関係かんけいであるというせつ隅田すみた八幡神社人物画象鏡の銘文めいぶん)もある。 たけやすしおう天皇てんのう関係かんけいせいには「桓武かんむ天皇てんのう生母せいぼ百済くだらたけやすしおう子孫しそんであると,ぞく日本にっぽんしるされていることに,韓国かんこくとのゆかりをかんじています」との上皇じょうこう明仁あきひと言葉ことばにあるとお血縁けつえん関係かんけい史実しじつとして存在そんざいする。

概略がいりゃく

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記紀ききによれば、応神天皇おうじんてんのう5せいらいまごであり、『日本書紀にほんしょき』の記事きじでは越前えちぜんこく、『古事記こじき』の記事きじでは近江おうみこくおさめていた。本来ほんらい皇位こうい立場たちばではなかったが、よん従兄弟いとこにあたるだい25だいたけれつ天皇てんのう後嗣こうしのこさずして崩御ほうぎょしたため、大伴金村おおとものかなむら物部麁鹿火もののべのあらかびなどの推戴すいたいけて即位そくいしたとしている。先帝せんていとは4親等しんとう以上いじょうはなれて[ちゅう 1]いる。太平洋戦争たいへいようせんそうのち応神天皇おうじんてんのう5せいというその特異とくい出自しゅつじ議論ぎろん対象たいしょうになった。ヤマト王権おうけんとは無関係むかんけい地方ちほう豪族ごうぞく実力じつりょくだい王位おうい簒奪さんだつし、げん皇室こうしつにまでつらなるしん王朝おうちょう創始そうししたとする王朝おうちょう交替こうたいせつと、それ以前いぜん大王だいおういえ血縁けつえん関係かんけいのある傍系ぼうけい王族おうぞく皇族こうぞく)の出身しゅっしんであるという『記紀きき』の記述きじゅつ支持しじするせつがあり、それまでの大王だいおうとの血縁けつえん関係かんけいについては現在げんざい議論ぎろんがある(後述こうじゅつ)。

生涯しょうがい

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記紀ききともつぎたい天皇てんのう応神天皇おうじんてんのうの5せい子孫しそんらいまご)としるしている。また、『日本書紀にほんしょき』はこれにくわえてつぎたいたれじん天皇てんのう女系じょけいの8せい子孫しそんくもまご)ともしるしている。『日本書紀にほんしょき』によれば、450ねんごろ[ちゅう 2]近江おうみこく高島たかしまさと三尾野みおの[ちゅう 3]現在げんざい滋賀しがけん高島たかしま近辺きんぺん)で誕生たんじょうしたが、おさなときちち彦主じんおうくしたため、ははひめは、自分じぶん故郷こきょうである越前えちぜんこく高向たこう(たかむく、げん福井ふくいけん坂井さかい丸岡まるおかまち高椋たかむく)にかえり、そこでそだてられ、「おとこだい迹王」として5世紀せいきまつ越前えちぜん地方ちほう統治とうちしていた。記紀ききつたえるおとこだい迹王の記録きろくは、出生しゅっしょうから幼少ようしょうころひめ越前えちぜんこくかえるまでは詳細しょうさいにあるが、つぎ記録きろくは57さいころになっており、そのやく50年間ねんかんおとこだい迹王およひめ記録きろくはない。

おとこだい迹王は越前えちぜんにとどまっておらず、父親ちちおやの彦主じんおう故郷こきょう近江おうみしていたか、近江おうみ拠点きょてんにしていた可能かのうせいもある[ちゅう 4]。その根拠こんきょとして水谷みずたに千秋ちあきは『日本書紀にほんしょき』では、越前えちぜんからむかえたとあるが、『古事記こじき』では越前えちぜん名前なまえまったず「近江おうみ」からむかえたとあること指摘してきしている[4]

日本書紀にほんしょき』によれば、506ねん大変たいへん暴君ぼうくん[ちゅう 5]つたえられるたけれつ天皇てんのう後嗣こうしさだめずに崩御ほうぎょしたため、大連たいれん大伴金村おおとものかなむら物部麁鹿火もののべのあらかび大臣だいじん巨勢こせおとこじん有力ゆうりょく豪族ごうぞく協議きょうぎし、まず丹波たんばこく桑田くわたぐんげん京都きょうと亀岡かめおか)にいた14だい仲哀ちゅうせつ天皇てんのうの5せいまごであるやまと彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴すいたいしようとしたが、やまと彦王はむかえのへいおそれをなしてやまなかかくれ、行方ゆくえれずとなってしまった。

つぎ大伴金村おおとものかなむらが「おとこだい迹王、せい慈仁こうじゅんうけたまわてんいとぐち。(おとこだい迹王、せい慈仁ありて、こうじゅんふ。てんいとぐちうけたまわへつべし。おとこだい迹王は、いつくしみふか孝行こうこうあつ人格じんかくである。皇位こういいでいただこう。)[5]」とい、群臣ぐんしん越前えちぜん国三くにぞうこくげん福井ふくいけん坂井さかい三国みくにまちあたり)(『古事記こじき』では近江おうみからむかえたとある)にいた応神天皇おうじんてんのうの5せいまごおとこだい迹王をむかえようとした。しんれんたちがふしはたって御輿みこしそなえてむかえにくと、おとこだい迹王には大王だいおう品格ひんかくがあり、群臣ぐんしんはかしこまり、忠誠ちゅうせいをつくそうとした。しかし、おとこだい迹王は群臣ぐんしんのことをうたがっており、大王だいおう即位そくいすることを承知しょうちしなかった。群臣ぐんしんなかに、おとこだい迹王の知人ちじんである河内かわうち馬飼まかいくびあらかごがいた。あらかごひそかに使者ししゃをおくり、大臣だいじん大連たいれんらがおとこだい迹王をむかれる本意ほんい詳細しょうさい説明せつめいさせた。使者ししゃは3にちかけて説得せっとくし、そのかいあっておとこだい迹王は即位そくい決意けついし、大倭おおやまとけて出発しゅっぱつしたという[6]。そのも、おとこだい迹王は自分じぶんはそのにんではないとってなん即位そくい辞退じたいするが、大伴金村おおとものかなむららの度重たびかさなる説得せっとくけて、翌年よくねん507ねん、58さいにして河内かわうちこく樟葉くずはみや(くすはのみや、げん大阪おおさか枚方ひらかた)において即位そくいし、たけれつ天皇てんのうあねにあたるしろ皇女おうじょ仁賢天皇にんけんてんのう皇女おうじょ雄略天皇ゆうりゃくてんのう外孫そとまご)を皇后こうごうとした。つぎたいだいやまとではなく樟葉くずはにおいて即位そくいしたのは、樟葉くずは近江おうみから瀬戸内海せとないかいむす淀川よどがわなかでもとく重要じゅうよう交通こうつう要衝ようしょうであったからであるとかんがえられている[7]。 その19年間ねんかん大倭おおやまとりせず、511ねん筒城つつきみや(つつきのみや、げん京都きょうと京田辺きょうたなべ)、518ねん弟国おうぐにみや(おとくにのみや、げん京都きょうと長岡京ながおかきょう)を526ねんいわあまり玉穂たまほみや(いわれのたまほのみや、げん奈良ならけん桜井さくらい)に遷った。 翌年よくねん百済くだらからわれて救援きゅうえんぐん九州きゅうしゅう北部ほくぶおくったものの、しんつうじた筑紫つくしくん磐井いわいによって反乱はんらんこり、その平定へいてい苦心くしんしている(詳細しょうさい磐井いわいらん参照さんしょう)。

くずしねんかんしては『日本書紀にほんしょき』によれば、531ねん皇子おうじの勾大けい安閑天皇あんかんてんのう)に譲位じょうい記録きろくじょう最初さいしょ譲位じょういれい)し、その即位そくい同日どうじつ崩御ほうぎょした。『古事記こじき』では、つぎたい没年ぼつねん527ねんとしている。ぼつ年齢ねんれいは『日本書紀にほんしょき』では82さい。『古事記こじき』では43さいにいた期間きかんは、『日本書紀にほんしょき』では5年間ねんかん。『古事記こじき』では、1年間ねんかんほどである。

対外たいがい関係かんけいとしては、百済くだら上述じょうじゅつのようにしん高句麗こうくりからの脅威きょうい対抗たいこうするために、たびたび倭国わのくに軍事ぐんじ支援しえん要請ようせいし、それにおうじている。また、『日本書紀にほんしょき』によれば、つぎたい6ねん(513ねん)に百済くだらからにんよんけん[ちゅう 6]割譲かつじょうねが使者ししゃおとずれたとある。倭国わのくに大伴金村おおとものかなむら意見いけんによってこれを決定けっていした[ちゅう 7]

つぎからだ勾大けい皇子おうじ金村かなむら軍事ぐんじてき外交がいこうおこなった。にん百済くだらしんからの軍事ぐんじてきあつりょくたいしてやまと軍事ぐんじりょくたより、つぎからだらはそれをまえてすきがあればしん百済くだらとうとしていた。現在げんざい博多はかた存在そんざいしたかんはその兵站へいたん基地きちであった。安閑天皇あんかんてんのうせん天皇てんのうたむろくら設置せっちも、兵站へいたんとしての役割やくわり期待きたいされてのものであったとかんがえられる。

なま没年ぼつねん

[編集へんしゅう]
  • 推定すいてい生年せいねん:『古事記こじき』には485ねん、『日本書紀にほんしょき』には允恭天皇いんぎょうてんのう39ねん(450ねん?)。
  • 推定すいてい没年ぼつねん:『古事記こじき』には丁未ていみ4がつ9にち527ねん5月26にち?)、『日本書紀にほんしょき』にはからし2がつ7にち(531ねん3がつ10日とおか?)またはきのえとら534ねん?)とされる。

日本書紀にほんしょき』では、注釈ちゅうしゃくとして『百済くだらほん』(散逸さんいつ)のからしとし天皇てんのうおよ太子たいし皇子おうじ同時どうじくなったという記述きじゅつ(「百濟本記爲文 其文うん 大歳おおとしからしさんがつ ぐんしんいたり于安 營乞乇城 これがつ 高麗こうらい弑其おうやす また日本にっぽん天皇てんのう太子たいし皇子おうじ 倶崩薨 よし此而げん からしとし とう廿にじゅうねん矣」)を引用いんようして政変せいへんつぎたい以下いか殺害さつがいされた可能かのうせい示唆しさしており、このことからつぎたい本来ほんらい後継こうけいしゃであった安閑あんかんせんと、即位そくい世子せいしとされた欽明とのあいだあらそいがこったとするせつがある。ただし「天皇てんのう」とはだれすのか不明ふめいであり、本来ほんらいひゃくずみのことを歴史れきししょ記述きじゅつにどれほどの信頼しんらいいてよいかという疑問ぎもんもある(詳細しょうさいつぎたい・欽明あさ内乱ないらん参照さんしょう)。

上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』(ひろしひとし年間ねんかん成立せいりつ)と『元興寺がんごうじ伽藍がらん縁起えんぎ幷流資材しざいちょう』(天平てんぺい19ねん成立せいりつ)によると、「欽明天皇てんのう7ねんつちのえうまとし」に百済くだらせい明王みょうおうによって仏教ぶっきょうつたえられたとしるされているが、『しょ』のとしによればこのとしせん天皇てんのう3ねん(538ねん)であり、欽明あさつちのえうまねん存在そんざいしない。しかしかりつぎたい崩御ほうぎょ翌年よくねんに欽明が即位そくいしたとするとちょうど7ねんつちのえうまねんたることとなり、あるいはこの仮説かせつうらづける傍証ぼうしょうとなりうる[9]。また、しんつぎからだりょうされるこん城塚じょうつか古墳こふんにはさん種類しゅるい石棺せっかん埋葬まいそうされていたと推測すいそくされている(つぎたいとその皇子おうじ安閑あんかんせん石棺せっかんか)(後述こうじゅつ[10]

一方いっぽうで、このからしとしとは531ねんではなく60ねんまえの471ねんとするせつもある。『記紀きき』によれば干支えといちまわむかしからしとしには20だい安康天皇あんこうてんのう皇后こうごうであるまゆおう殺害さつがいされる事件じけんがあり、混乱こんらんじょうじた21だい雄略天皇ゆうりゃくてんのうあに八釣やつりしろ皇子おうじ従兄弟いとこ市辺いちのべ押磐皇子おうじころしてだい王位おういそくいている。「からしとし日本にっぽん天皇てんのうおよ太子たいし皇子おうじ同時どうじくなった」という伝聞でんぶん情報じょうほうのみをっていた『百済くだらほん』の編纂へんさんしゃあやまって531ねんのことと解釈かいしゃくし、『日本書紀にほんしょき』の編纂へんさんしゃ安康あんこうにまつわるはなしであることにづかずに(「天皇てんのう」は安康あんこう、「太子たいし」は後継こうけいしゃしていた従兄弟いとこ市辺いちのべ押磐皇子おうじ、「皇子おうじ」はまままゆおうか)つぎたいてはめたともかんがえられる[11]

后妃こうひ皇子おうじおんな

[編集へんしゅう]
天皇てんのう系図けいず 15~26だい
天皇てんのう系図けいず 26~37だい

皇后こうごうは21だい雄略天皇ゆうりゃくてんのう孫娘まごむすめで、24だい仁賢天皇にんけんてんのう皇女おうじょであり、たけれつ天皇てんのういもうとあねとのせつもある)のしろ皇女おうじょである。つぎたいには大和やまとはい以前いぜん複数ふくすうがいたものの、即位そくいには先帝せんていいもうと皇后こうごうとしてむかえた。これは、大和やまとけいしろ皇女おうじょ皇后こうごうにすることにより、はい婿むこというかたちおうみつる継続けいぞくせい主張しゅちょうしようとしたとかんがえられる[12]つぎたいにはすでにおおくのがいたが、しろ皇女おうじょとのあいだまれた天国てんごくはいひらけこうにわみこと(29だい欽明天皇てんのう)を嫡男ちゃくなんとした。欽明天皇てんのうもまたしろ皇女おうじょ姉妹しまいたちばななか皇女おうじょははせん天皇てんのう皇女おうじょいしひめ皇女おうじょ皇后こうごうむかえ、30だいさとしたち天皇てんのうをもうけた。そのは、欽明天皇てんのう血筋ちすじ現在げんざい皇室こうしついたるまでつづいている。

系図けいず

[編集へんしゅう]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10 たかしかみ天皇てんのう
 
彦坐おう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城とよきにゅう彦命
 
11 たれじん天皇てんのう
 
丹波たんばみち主命しゅうめい
 
山代やましろ大筒おおづつわかおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
うえ
下毛しもげ
 
12 けいぎょう天皇てんのう
 
やまとひめいのち
 
迦邇まいかみなりおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本にっぽんたけたかし
 
13 なりつとむ天皇てんのう
 
いきちょう宿禰すくねおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう
 
 
 
 
 
神功じんぐう皇后こうごう
仲哀ちゅうせつたかし皇后こうごう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇おうじんてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇にんとくてんのう
 
うさぎどうやや郎子いらつこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やや野毛のげ皇子おうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇りちゅうてんのう
 
18 はんせい天皇てんのう
 
19 允恭天皇いんぎょうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とみとみおう
 
しのぶ坂大ばんだい中姫なかひめ
允恭天皇いんぎょうてんのうきさき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺いちのべ押磐皇子おうじ
 
木梨軽皇子きなしのかるのみこ
 
20 安康天皇あんこうてんのう
 
21 雄略天皇ゆうりゃくてんのう
 
 
 
 
 
乎非おう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ
 
24 仁賢天皇にんけんてんのう
 
23 顕宗けんそう天皇てんのう
 
22 せいやすし天皇てんのう
 
春日かすがだいむすめ皇女おうじょ
仁賢天皇にんけんてんのうきさき
 
彦主じんおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しろ皇女おうじょ
つぎたい天皇てんのうきさき
 
25 たけれつ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 つぎたい天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27 安閑天皇あんかんてんのう
 
28 せん天皇てんのう
 
29 欽明天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いしひめ皇女おうじょ
(欽明天皇てんのうきさき)
 
うえふえ皇子おうじ
 
30 さとしたち天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31 よう明天めいてんすめらぎ
 
33 推古天皇すいこてんのう
 
32 たかしたかし天皇てんのう
 
あなあいだじん皇女おうじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大河内おおこうちややひめ
せん天皇てんのうきさき
 
じゅうおう
 
押坂彦人大兄たいけい皇子おうじ
 
春日しゅんじつ皇子おうじ
 
だい皇子おうじ
 
難波なんば皇子おうじ
 
聖徳太子しょうとくたいし
厩戸皇子うまやどのおうじ)
 
皇子おうじ
 
当麻とうま皇子おうじ
 
殖栗うえぐり皇子おうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火焔かえん皇子おうじ
 
多治比たじひいにしえおう
 
 
 
 
 
 
かや渟王
 
 
 
 
 
ぐりくまおう
 
やま大兄たいけいおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多治比たじひしま
多治比たじひ
 
 
 
 
 
 
35 すめらぎごく天皇てんのう
37 ひとし明天めいてんすめらぎ
 
36 孝徳天皇こうとくてんのう
 
つとむおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有間皇子ありまのおうじ
 
橘諸兄たちばなのもろえ
葛城王かつらぎおう
たちばな


母方ははかたりゃく系図けいず

[編集へんしゅう]

出典しゅってん:『上宮かみみや』(『つぎたい大王だいおう尾張おわりひめ』)[15]

ひさ牟尼大王だいおう
たれじん天皇てんのう
 
 
伊波いは久和くわのぞみ
 
 
えらさとし和希かずき
 
 
伊波いはおのれさと和気わき
 
 
あさかずかい
 
 
おもね加波かばさとしくん
 
 
乎波さとしくん
 
やつしん
おもねなんじわたる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やつ牟斯いのちぬのわたるいのち
 
汙斯おう
 
 
 
 
乎富とう大公たいこうおう
つぎたい天皇てんのう

つぎたい天皇てんのう祖母そぼおもねなんじわたるあなにひみ出身しゅっしんやつしんよぬのおみについて、石川いしかわけん小松こまつかまから土器どきに「与野よのひょう」としるされており、これはのちの江沼えぬまぐんとなるヨヌということがかった[16]。また、奈良なら時代じだいには、このを「よんぬまヨヌ」とんでいた[17]。これらのことから、つぎたい天皇てんのう背景はいけいには、はは出身しゅっしんだけでなく、祖母そぼ出身しゅっしんもあり、ひめちちだいから北陸ほくりく豪族ごうぞく婚姻こんいん関係かんけいむすばれ、地域ちいきてき勢力せいりょく形成けいせいされていたことがわかる[18]

出自しゅつじめぐ議論ぎろん

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つぎたい天皇てんのう出自しゅつじ系図けいず

日本書紀にほんしょき』によれば応神天皇おうじんてんのう5せいまご曾孫そうそんまご)でちち彦主じんおうははは11だいたれじん天皇てんのう7せいまごひめである。ただし、おうしんからつぎたいいたなかあいだ4だい系譜けいふについて『記紀きき』では省略しょうりゃくされており、鎌倉かまくら時代ときよの『しゃく日本にっぽん』(『日本書紀にほんしょき』の注釈ちゅうしゃくしょ)に引用いんようされた『上宮かみみや』の逸文いつぶんによってることが出来できる。これによると、男子だんし直系ちょっけいは「凡牟都和つわまれおう(ほむた(つ)わけのおおきみ・応神天皇おうじんてんのう[ちゅう 8]わか野毛のげ二俣ふたまたおうだい郎子いらつこいちめいとみとみとうおう) ─ 乎非おう汙斯おう(=彦主じんおう) ─ 乎富とう大公たいこうおう(=つぎたい天皇てんのう)」とされる。

上宮かみみや逸文いつぶん近年きんねん文体ぶんたい分析ぶんせきによって推古あさ遺文いぶんであることが判明はんめいし、『記紀きき以前いぜんはらみかど』の編纂へんさんどう時期じき(6世紀せいき中葉ちゅうようか)に系譜けいふ伝承でんしょう成立せいりつしたものとかんがえられる[20]

出自しゅつじめぐ議論ぎろん経緯けいい

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つぎたい王朝おうちょうしん王朝おうちょうせつは、戦後せんごの1952ねん刊行かんこうされた水野みずのゆうぞうてい日本にっぽん古代こだい王朝おうちょう史論しろん序説じょせつ」が嚆矢こうしである[21][22]。その直木なおき孝次郎こうじろうつぎたいあさ動乱どうらん神武じんむ伝説でんせつ」が1958ねん発表はっぴょうされた。そのつぎたい王朝おうちょうしん王朝おうちょうせつ井上いのうえ光貞みつさだ藤間とうまなまだいらの支持しじて、古代こだい学会がっかい席捲せっけんした[23]

しかし、1960年代ねんだいはいると、つぎたいしん王朝おうちょうせつたい疑問ぎもんていされはじめた。1961ねん坂本さかもと太郎たろうの「つぎたい史料しりょう批判ひはん」では、「しゃく日本にっぽん」のく「上宮かみみやいちつて」の系譜けいふげるなど、有力ゆうりょく反論はんろんおこなわれ、笠井かさい倭人わじん三品みしな彰英あきひでらに支持しじされた[24]。そしてまゆずみ弘道ひろみちは、「上宮かみみやいちつて」の用字ようじほう藤原ふじわらみや出土しゅつど木簡もっかんよりもふるいことをあきらかにした[25]。また山尾やまお幸久ゆきひさは、隅田すみた八幡やはた神社じんじゃ人物じんぶつ画像がぞうきょう銘文めいぶんから、即位そくいまえつぎたい大和やまとしのぶざかみやにあり、次期じき王位おうい目指めざしていたこと、たけやすしおうとの交流こうりゅう解明かいめいし、しん王朝おうちょうせつ王位おうい簒奪さんだつせつ反論はんろんした(「隅田すだ八幡やはたきょうめいによるつぎたい天皇てんのう即位そくい事情じじょう考察こうさつ」「日本にっぽん史学しがく」1966)。なお、山尾やまおはそのせつ一部いちぶ変更へんこうした[26]

1970年代ねんだいになると、しん王朝おうちょうせつふたた登場とうじょうした。吉井よしいいわお応神天皇おうじんてんのう実在じつざいせい疑問ぎもんていした一連いちれんせつである(「天皇てんのう系譜けいふ神話しんわ」、はなわ書房しょぼう、1976ねん[27]。これをけて岡田おかだきよしいきちょうぞくせつとな[28](「つぎたい天皇てんのう出自しゅつじとその背景はいけい」)、薗田そのだかおるとおる塚口つかぐち義信よしのぶらが支持しじした[29]

1970年代ねんだい後半こうはんからは、川口かわぐち勝康かつやす東京都立大学とうきょうとりつだいがく教授きょうじゅ)が、大王だいおうみっつのおうみつるいきちょう統合とうごうしたとするせつ(「在地ざいち首長しゅちょうせい日本にっぽん古代こだい国家こっか」「歴史れきしがく研究けんきゅう別冊べっさつ 、1975ねん)、平野ひらの邦雄くにおそうけいてき観点かんてんからいきちょう出自しゅつじつぎたい簒奪さんだつしゃではないとするせつ(「6世紀せいき・ヤマト王権おうけん性格せいかく」1977ねん)、山尾やまお幸久ゆきひさ婿入むこいせつ(「日本にっぽん古代こだい王権おうけん形成けいせいろん」)など、複数ふくすうあたらしいせつとなえられはじめた。

1980年代ねんだいには、大橋おおはし信弥しんやいきちょう朝廷ちょうていへの関与かんよ天武てんむちょう以降いこうであり、いきちょうつぎたい出身しゅっしん氏族しぞくでも擁立ようりつ勢力せいりょくでもなくつぎたい近江おうみ高島たかしまから越前えちぜん進出しんしゅつした傍系ぼうけい王族おうぞくであるとあきらかになったとした(「日本にっぽん古代こだい国家こっか成立せいりついきちょう」「近江おうみにおけるいきちょう勢力せいりょくについて」)[30]。そのせつけた小柴こしば秀樹ひできは、いきちょう系譜けいふつぎたいながれをくむ皇室こうしつ要請ようせいによってじょうされたとし、大和やまとしのぶざか本拠ほんきょをおく王族おうぞくつぎたいが、近江おうみ坂田さかた豪族ごうぞく婚姻こんいん関係かんけいむすんだことがいきちょうのをんだとするせつ(「いきちょう系譜けいふ形成けいせいしゃ」「いきちょう研究けんきゅう動向どうこう課題かだい」)。篠原しのはら幸久ゆきひさつぎたい大和やまと政権せいけん成立せいりつ以来いらい主要しゅよう構成こうせいいんである摂津せっつ在地ざいち首長しゅちょうとするせつ(「つぎからだおうけいいきちょう伝承でんしょうについて」)が発表はっぴょうされた。が、つぎたいおうみつるとはつながらない地方ちほう豪族ごうぞくであったのか、世紀せいき大王だいおうとなんらかの血縁けつえんでつながる「王族おうぞく」であったかは依然いぜんとしてろんかれるところとなっている[31]が、近年きんねん加藤かとう謙吉けんきちのように雄略ゆうりゃくあさ軍事ぐんじてき王権おうけん確立かくりつしそれががれ、つぎたい即位そくい大伴おおとも物部ものべにより承認しょうにんされ平和へいわうら継承けいしょうされたものであり、皇位こうい簒奪さんだつはないとするなどおおきな政治せいじじょう転機てんきみとめない見解けんかいおおくだされている[32]

近年きんねんつぎたい王朝おうちょうろんしん王朝おうちょうかという問題もんだいえてあたらしい視点してんによるせつ活発かっぱつ議論ぎろんされている状態じょうたいである。

なおつぎたい天皇てんのう出自しゅつじかんする各論かくろんについては「つぎたいしん王朝おうちょうろん」/「つぎたい天皇てんのう王族おうぞくせつ」を参照さんしょう

つぎたい初代しょだいとした場合ばあいでも、げん皇室こうしつは1500ねん歴史れきしち、現存げんそんする王朝おうちょうなかでは世界せかい最古さいこである[ちゅう 9]。それ以前いぜん系譜けいふ参考さんこうないしはべつけいとするなどして「実在じつざい系譜けいふあきらかな期間きかんかぎっても」という条件下じょうけんかにおいてもこのように定義ていぎ認定にんていされることから、皇室こうしつ歴史れきしたたえるさいなどに、つぎたい天皇てんのう名前なまえいにされることもおおい。

つぎたい天皇てんのう支持しじ基盤きばん中央ちゅうおう進出しんしゅつ

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后妃こうひからおとこだい迹王の支持しじ基盤きばん

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おとこだい迹王の勢力せいりょく基盤きばんについて、現存げんそんする最古さいこ正史せいしである『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』の記事きじによれば、おとこだい迹王は婚姻こんいんによる豪族ごうぞくとのむすびつきによって勢力せいりょく拡大かくだいをしたことが記述きじゅつされている。

記紀きき』によれば、おとこだい迹王の出生しゅっしょうである近江おうみ北西ほくせい琵琶湖びわこをはさんだ反対はんたいがわ近江おうみ北東ほくとう近江おうみ出身しゅっしんきさき最多さいた合計ごうけい5にんで、近江おうみ豪族ごうぞくともっとも密接みっせつ関係かんけいち、「古事記こじき」の記述きじゅつどお近江おうみこくとく近江おうみ北部ほくぶ本拠地ほんきょちにしていたとかんがえられる。それにくわえ、つぎたい祖父そふだい乎非おう牟義国造くにのみやつこ岐阜ぎふけん南部なんぶ)である牟良くんおんな久留くるうりいのちめとった[33]とあり、母親ははおやであるひめ出身しゅっしん越前えちぜんこく福井ふくいけん)であるため、おとこだい迹王の時代じだいには、すで美濃みのこく越前えちぜん勢力せいりょくけんはいっていたとおもわれ、そこから拡大かくだい尾張おわりれんめとったとかんがえられる。つまり、おとこだい迹王は近江おうみ北部ほくぶ中心ちゅうしんにして、越前えちぜん近江おうみ北部ほくぶ美濃みの尾張おわりとベルトじょう勢力せいりょく基盤きばん拡大かくだいしていった。

この時期じき尾張おわり大型おおがた古墳こふんぐん出現しゅつげんしておりつぎたい天皇てんのう尾張おわり同盟どうめい関係かんけいしめ婚姻こんいん関係かんけいは5世紀せいき以降いこう大和やまと政権せいけん経済けいざいてき軍事ぐんじてき基盤きばんとなった「東国とうごく」をさえるうえでおおきな意義いぎをもっていたことを考慮こうりょすべきであろう。

畿内きないだい豪族ごうぞくかず邇氏河内かわちいばられんと、どのように接触せっしょくしたのかは不明ふめいである。

おとこだい迹王は婚姻こんいんによって近江おうみ北部ほくぶ本拠地ほんきょちとすることにより、近江おうみ北部ほくぶとおっている越前えちぜんへつながる北陸ほくりくどう尾張おわり美濃みのへつながる東山ひがしやまみち掌握しょうあくし、つよ勢力せいりょくったのである[ちゅう 10]

おとこだい迹王がひとつの氏族しぞくからにんものめとっているのは三尾みおからだけであり、「古事記こじき」では「三尾君等祖若比売(わかひめ)」(「日本書紀にほんしょき」では「三尾みお角折つのおりくんいもうとややひめ」としるされている)がなか筆頭ひっとう記載きさいされており、三尾みおおおきな影響えいきょうっていたことがうかがえる。

おとこだい迹王の父親ちちおやの「彦主じんおう」も近江おうみこく高島たかしまぐんさん拠点きょてんにしていたと「上宮かみみや」、「日本書紀にほんしょき」の記事きじえるので、すくなくとも親子おやこだいわたって高島たかしま拠点きょてんにしていたことがかる。

彦主じんおう高島たかしま拠点きょてんきずいた理由りゆうとして、近江おうみ北部ほくぶから産出さんしゅつする鉄鉱てっこうせきと、越前えちぜん若狭わかさから産出さんしゅつするしお入手にゅうしゅするためだったというせつがある[34]

近江おうみこく高島たかしまぐん三尾みおは、おとこだい迹王の天皇てんのう即位そくい中央ちゅうおう進出しんしゅつ以後いごは「日本書紀にほんしょき」や「古事記こじき」、それ以降いこう史料しりょうにも記事きじがみえなくなった。

日本書紀にほんしょき』672ねん7がつ22にちみずのえさるらん大海人皇子おおあまのおうじかたおとされた三尾みおしろおも三尾みお仮定かていするせつがある[35]

考古学こうこがくてき考証こうしょう

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  • おとこだい迹王の出生しゅっしょうである「近江おうみこく高島たかしまぐんさん日本書紀にほんしょき彦主じんおう居住きょじゅうした「わたる乎国高嶋たかしまみや(みおのくにのたかしまのみや)」上宮かみみや場所ばしょは、現在げんざいの「高島たかしま安曇川あどがわまち三尾里みおざと周辺しゅうへん有力ゆうりょくされている(水谷みずたに|2013|P72)『にちつぎらすおうつぎたい大王だいおう出現しゅつげん』(滋賀しが県立けんりつ安土あづちじょう考古こうこ博物館はくぶつかん、2003ねん)。この地域ちいき遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくによると、渡来とらいじん渡来とらいけい技術ぎじゅつが彦主じんおうおとこだい迹王の勢力せいりょくささえていたことが示唆しさされている。
  • おとこだい迹王を説得せっとくした河内かわうち馬飼まかいあらかご乗馬じょうば飼育しいくなどの渡来とらい技術ぎじゅつった渡来とらいけい氏族しぞく[36][37]であり、その勢力せいりょくかわ内国ないこくたたえぐん四條畷しじょうなわて周辺しゅうへん)である。四條畷しじょうなわてあいだ北方ほっぽう遺跡いせきから韓式かんしき土器どき蔀屋しとみやきた遺跡いせきからはうまほね馬具ばぐなどが発掘はっくつされている。

福岡ふくおか猛志たけし和田わだしん王朝おうちょうせつちながらも「日本書紀にほんしょき」のつぎたいこまかい年数ねんすうちがいや潤色じゅんしょくとうはあるが、基本きほんてき信頼しんらいできるものであり、つぎたい即位そくいかかわる記述きじゅつ磐井いわい内乱ないらんるとやはり当時とうじから伝承でんしょうされている物語ものがたり史実しじつがかなり反映はんえいされていて、到底とうてい日本書紀にほんしょき編纂へんさん段階だんかいつくったようなものではない、つぎたいきさきたちの出身しゅっしん氏族しぞく問題もんだいなども、かく地域ちいき古墳こふん動向どうこう合致がっちしていることからつぎたい史実しじつ反映はんえいしているとべている[38]。 また和田わだ萃はやまと彦王についてもつぎたい天皇てんのう擁立ようりつげきのあった時期じき丹波たんば桑田くわたけんのある亀岡かめおか千歳ちとせ車塚くるまづか古墳こふんがあり、その埴輪はにわ新池しんいけ埴輪はにわかまから供給きょうきゅうされていることから桑田くわたけん当時とうじ大和やまと王権おうけんおう継承けいしょうしゃたりえる人物じんぶつがいたとして、やまと彦王の実在じつざい可能かのうせいをもべている[39]

近江おうみ製鉄せいてつ遺跡いせき

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考古学こうこがくでの、おとこだい迹王の勢力せいりょくけん拡大かくだい理由りゆうには、てつ資源しげん渡来とらい技術ぎじゅつ存在そんざい指摘してきされている(山尾やまお幸久ゆきひさせつ[40]近江おうみは59箇所かしょ製鉄せいてつ遺跡いせき古代こだいにおいて近畿きんきけん最大さいだいてつ産地さんち[41]であり、とりわけ湖西こさい高島たかしま古代こだいにおけるもっと有力ゆうりょく製鉄せいてつ地帯ちたいとされている。[ちゅう 11] 『ぞく日本にっぽん』のまき3、大宝たいほう3ねん(703ねん)「よんひん志紀しき親王しんのう近江おうみこくてつあなてつ鉱山こうざん)をたまう。」とあるのが、近江おうみてつかんする最初さいしょ記事きじで、(近江おうみ何処どこ地域ちいきかは不明ふめい近江おうみ北部ほくぶてつ関連かんれん記事きじは まき24、天平てんぴょうたから6ねん(762ねん)「藤原ふじわら恵美押勝えみのおしかつ近江おうみこく浅井あさい浅井あさいぐん)・高嶋たかしま高島たかしまぐんぐんてつあなかくいちしょたまう。」とあるのがはつである。高島たかしま考古学こうこがくてき調査ちょうさにより、つぎたい生存せいぞんしていた5世紀せいきだい製鉄せいてつおこなわれていた可能かのうせい指摘してきされている[42][43]もり浩一こういち高島たかしま古墳こふん時代じだい製鉄せいてつおこなわれていたと推察すいさつしている。[44]

おとこだい迹王が勢力せいりょくいた近江おうみ北部ほくぶから北西ほくせいにかけての製鉄せいてつ遺跡いせき年代ねんだいじゅん

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古橋ふるはし遺跡いせき長浜ながはま木之本きのもとまち古橋ふるはし[45]

東谷ひがしたに遺跡いせき高島たかしま今津いまづまち大供だいく)2002ねん発掘はっくつ調査ちょうさし、磁気じき探査たんさはいかすじょう範囲はんい製鉄せいてつ位置いち推定すいていした [46]

きた牧野ぼくや製鉄せいてつ遺跡いせき高島たかしまマキノまち牧野まきの):昭和しょうわ42ねん(1967ねん)に発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしされた遺跡いせきである [47]

南市みなみいちひがし遺跡いせき高島たかしま安曇川あどがわまち西万木にしゆるぎ[48]

した五反田ごたんだ遺跡いせき高島たかしま安曇川あどがわまち田中たなか[49]

天神てんじんはたけうえ御殿ごてん遺跡いせき高島たかしま安曇川あどがわまち三尾里みおざと[50][51]

摂津せっつ三島みしま古墳こふんぐん

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摂津せっつ三島みしま大阪おおさか三島みしまぐん)の最古さいこ古墳こふんは「あおりゅうさんねんきょう出土しゅつどした3世紀せいき安満やすしつ宮山みややま古墳こふんである。つづいて3世紀せいき後半こうはん~5世紀せいき弁天山べんてんさん古墳こふんぐん三島みしま地域ちいき首長しゅちょう系譜けいふとらえられている。この弁天べんてん古墳こふんぐん時代じだいるにつれてだんだんちいさくなりやがて途絶とだえたのち突如とつじょ出現しゅつげんする大型おおがた古墳こふん太田おおた茶臼山ちゃうすやま古墳こふん宮内庁くないちょう比定ひていつぎたい天皇陵てんのうりょう)とこん城塚じょうつか古墳こふん歴史れきしがく考古学こうこがくつぎたい天皇陵てんのうりょう間違まちがいないと確定かくてい)で、このだい古墳こふんかんしてはそのよく出現しゅつげん仕方しかたから本来ほんらい三島みしまほんぬきとしてこなかった中央ちゅうおう勢力せいりょくはか推定すいていされる。こん城塚じょうつか古墳こふんについてはおおくの学者がくしゃつぎたい天皇陵てんのうりょう間違まちがいないと発言はつげんしている。太田おおた茶臼山ちゃうすやま古墳こふんについてはつぎたい天皇てんのう曾祖父そうそふオホホドおう推定すいていされている[52]太田おおた茶臼山ちゃうすやま古墳こふんこん城塚じょうつか古墳こふんやまと彦王はか推定すいていされる千歳ちとせ車塚くるまづか古墳こふん宇治うじ二子塚ふたごづか古墳こふんしんしろ皇女おうじょはかといわれる西山にしやまづか古墳こふんはともに新池しんいけ埴輪はにわかまから埴輪はにわ供給きょうきゅうされていることが判明はんめいしており、やはりこのつぎたい天皇てんのう勢力せいりょく範囲はんいであった可能かのうせい物語ものがたっている[53]摂津せっつ三島みしまに5世紀せいきなかばごろと6世紀せいき前半ぜんはん巨大きょだい前方後円墳ぜんぽうこうえんふん所在しょざいすることはこの有力ゆうりょくな「王族おうぞく」の本拠地ほんきょちであったことをしめし、つぎたい一族いちぞく本拠ほんきょさんとうであったことをしめしている[54]

こん城塚じょうつか古墳こふん

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こん城塚じょうつか古墳こふん兵士へいし埴輪はにわぐん

今城いましろ古墳こふんは6世紀せいきぜんごろでは最大さいだい古墳こふんでその内容ないよう大王だいおうふんとして間違まちがいなく、その外形がいけい中期ちゅうき大王だいおうふんそのものであり、被葬ひそうしゃは「記紀きき」にでてくるつぎたい大王だいおう可能かのうせいがきわめてたかい。

またこん城塚じょうつか古墳こふんには竜山たつやませきせい二上ふたかみ山石やまいしせい阿蘇あそピンクせきせいいえがた石棺せっかんおさめられており、中期ちゅうき王権おうけんでは最高さいこうかんであった長持ながもちがた石棺せっかん竜山たつやまいしせいであり、石棺せっかんはこ段階だんかいおおくのひとにさらされ被葬ひそうしゃ政治せいじてき社会しゃかいてき位置いちしめ重要じゅうようなものであることからも被葬ひそうしゃ中期ちゅうきだい王位おうい正当せいとう継承けいしょうしゃであることをしめしているという[55]

近江おうみ高島たかしまぐんかも稲荷山いなりやま古墳こふん

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つぎたい天皇てんのう父親ちちおや彦主じんおう拠点きょてんとしたとされる「さん別業べつぎょう」が近江おうみ高島たかしまぐんさん地域ちいきである。かも稲荷山いなりやま古墳こふん明治めいじ35ねん発見はっけんされ、金製きんせい飾付かざりつけ耳飾みみかざ金銅かなどうせいそう凰環あたま太刀たち柄頭つかがしら金銅かなどうせいこうおびやましきかんむり金銅かなどうせいかざりくつ出土しゅつど石棺せっかん奈良ならけん大阪おおさかにまたがる二上山にじょうざんさん判明はんめい石棺せっかん内部ないぶしゅられており、斑鳩いかる藤ノ木ふじのき古墳こふんのようであったろうとわれている[56]発掘はっくつ当時とうじから彦主じんおうはかではないかとわれていたが、みや内省ないせいあわてて田中たなか王塚おうつかのほうを彦主じんおう陵墓りょうぼ比定ひていしたという[57]

西谷にしたにただしは、つぎたい天皇てんのう摂津せっつ三島みしまにゆかりのある人物じんぶつかんがえ、よん世紀せいき以降いこう首長しゅちょうつぎたい天皇てんのう先祖せんぞではないかと推測すいそくし、つぎたい天皇てんのうちちの彦主じんおうのみが「さん別業べつぎょう」である近江おうみさんついてしまいそのほうむられ、そのおうかも稲荷山いなりやま古墳こふんであるとのせつとなえた[58]かも稲荷山いなりやま古墳こふんは6世紀せいき前半ぜんはんのため彦人ぬしおうより時期じきくだるとおもわれるが、もり浩一こういち早良親王さわらしんのうれいげて、つぎたい大王だいおうになったのちちちはかつくなおしたという可能かのうせいいている[59]

高島たかしま歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん三尾みおはかとしており[60]従来じゅうらい三尾みお首長しゅちょうとするせつおおかったが、豪華ごうかすぎる副葬品ふくそうひん上山うえやま白石はくせきいえがた石棺せっかん畿内きないがた円筒えんとう埴輪はにわ導入どうにゅうから「畿内きない王権おうけんとより直接的ちょくせつてき関係かんけいにあった」人物じんぶつ想定そうていされるようになり、つぎたい天皇てんのう皇子おうじ被葬ひそうしゃであるという可能かのうせい提言ていげんされている[61]

越前えちぜんさんこく

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つぎたい天皇てんのうははひめ出身しゅっしんである越前えちぜんさんこくには福井平野ふくいへいやに8だい首長しゅちょうられる松岡まつおかに4丸岡まるおかに2大型おおがた前方後円墳ぜんぽうこうえんふんがある。つぎたい天皇てんのう出現しゅつげん前夜ぜんや位置いちする5世紀せいき後半こうはんほん松山まつやま古墳こふん石棺せっかんからきんメッキとぎんメッキのふたつのかんむり出土しゅつどし、「上宮かみみや」にあるひめ系統けいとうさんこくいのち系譜けいふにある首長しゅちょうはかではないかと推測すいそくされている[62]

隅田すみた八幡やはた神社じんじゃ人物じんぶつ画像がぞうきょう

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隅田すみた八幡やはた神社じんじゃ所蔵しょぞう[ちゅう 12]国宝こくほう人物じんぶつ画像がぞうきょう」の銘文めいぶんみずのととし八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣ひらきちゅうちょくけがれじんいましゅうとぎ二人等取白上同二百旱作此竟』みずのとひつじとしはちがつじゅうにちおとこおとうとおうしばすなみやにいますとき、斯麻が長寿ちょうじゅねんじて河内かわうちただしけがれじんいましゅうとぎ二人ふたりらをつかわして白上しらかみどうひゃくひでりってこのかがみつくる」とある(判読はんどく解釈かいしゃくには諸説しょせつあり)。

隅田すみた八幡やはた神社じんじゃ859ねん設立せつりつであるが、人物じんぶつ画像がぞうきょう出土しゅつど場所ばしょ出土しゅつど年代ねんだいあきらかにされておらず、「みずのとひつじ」については443ねんせつ503ねんせつなど論争ろんそうがある。 八幡やはた人物じんぶつ画像がぞうきょう銘文めいぶんである「おとこおとうと」のみは厳密げんみつには「ヲオト」であり、つぎたいの「ヲホド」とは微妙びみょうことなり(詳細しょうさいぎょうてんよびおん唇音しんおん退化たいか参照さんしょう)、「おとこおとうとおう」をつぎたいてるには、音韻おんいんじょうなんがある[63]。このことから、「おとこおとうとおう」を「大王だいおうおとうと王族おうぞく」と解釈かいしゃくし、いもうとしのぶ坂大ばんだい中姫なかひめ允恭天皇いんぎょうてんのう入内じゅだいしたとみとみおうであるとかんがえるせつもある[ちゅう 13]。その場合ばあいみずのとひつじ」は443ねんとなり、かがみつくらせた「斯麻」をたけやすしおうではなく三嶋みしまけんぬしとなる。つぎたい三嶋みしま対岸たいがん位置いちする樟葉くずはみや即位そくいしていることから、祖父そふであるとみとみおうともふか親交しんこうがあったとしても不自然ふしぜんではない[64]

つぎたい天皇てんのう百済くだらたけやすしおう密接みっせつ同盟どうめい関係かんけいにありそれを示唆しさするどう時代じだい資料しりょうがこの隅田すみた八幡宮はちまんぐう人物じんぶつ画像がぞうきょうだともわれる[65]

みずのとひつじ」を503ねん、「おとこおとうとおう」を(おおと)=おとこだい迹王つまりつぎたい天皇てんのう解釈かいしゃくすると、つぎたいみずのとたけれつ天皇てんのう5ねん8がつ10日とおか(503ねん9月18にち)の時点じてんでは、大和やまとしばすなみやにんざかみやにいたとする仮説かせつつ。このせつただしければ、つぎたい畿内きない勢力せいりょく抵抗ていこうって長期ちょうきわたって奈良盆地ならぼんちれなかったとするせつくずれる。503ねんせつただしければ、かがみつくらせて長寿ちょうじゅいのった「斯麻」は、当時とうじ倭国わのくに同盟どうめい関係かんけいにあった百済くだらたけやすしおう別名べつめい斯麻おう)であろう。(「斯麻」はしょ本文ほんぶん、「百済くだら新撰しんせん」さらにたけやすしおう本人ほんにん墓誌ぼしからもたけやすしおうのことである可能かのうせいきわめてたか[66][67])。この場合ばあいつぎたいがすでに仁賢天皇にんけんてんのう在位ざいいちゅうの503ねん大和やまとにんざか本拠ほんきょをかまえ、大王だいおう後継こうけいしゃとしてたい百済くだら外交がいこう担当たんとうしていたことになる[68]。この場合ばあい記紀きき」にしるされたつぎたい即位そくい事情じじょうはドラマティックに潤色じゅんしょくされた物語ものがたりたんえよう[69]

近年きんねんでは複数ふくすう学者がくしゃが、文献ぶんけん史学しがく考古学こうこがくともに503ねんせつ有力ゆうりょくであるとしている[70][71][72] [73][74][75]

伝承でんしょう

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稲荷山いなりやま古墳こふん (高島たかしま)のぜん天球てんきゅう画像がぞう
360°インタラクティブパノラマで

つぎたい天皇てんのう出生しゅっしょうである近江おうみこく高島たかしまぐんさん現在げんざい滋賀しがけん高島たかしま)の三尾みお別業べつぎょう(みおのなりどころ)は、ちち彦主じんおう拠点きょてんひとつとされる[76]

この「さん」のについては、水尾みずお神社じんじゃや「三尾里みおざと」や「三尾山みおやま」の地名ちめいのこっていることから、高島たかしま安曇川あどがわ以南いなんいき一帯いったい地名ちめいとされる[76]現在げんざい同地どうちにはつぎたい天皇てんのう出生しゅっしょうかんする数々かずかず伝承でんしょうのこっている。

かも稲荷山いなりやま古墳こふん増築ぞうちく時期じきは6世紀せいき前半ぜんはんであり、つぎたい天皇てんのう即位そくいため石棺せっかん上山かみのやまさんいしもちいたり、出土しゅつどひん豪華ごうかなのは当然とうぜんえる[78]

つぎたい天皇てんのうゆかりのである越前えちぜんはかつて湿原しつげんひろがり農耕のうこう居住きょじゅうてきさない土地とちであった。おとこだい迹王(おおとのみこ、のちのつぎたい天皇てんのう)はこのおさめると、まず足羽山あすわやま社殿しゃでん大宮地おおみやじれい(おおみやどころのみたま)をまつりこの守護神しゅごじんとした。これが現在げんざい足羽あすわ神社じんじゃである。

つぎ地形ちけい調査ちょうさのうえ、だい規模きぼ治水ちすいおこな九頭竜川くずりゅうがわ足羽川あすわがわ日野川ひのかわさんだい河川かせんつくることで湿原しつげん干拓かんたく成功せいこうした。このため越前えちぜん平野へいやみのゆたかな土地とちとなり人々ひとびと定住ていじゅうできるようになった。つづいてみなとひら水運すいうん発展はってんさせ稲作いなさく養蚕ようさん採石さいせき製紙せいしなど様々さまざま産業さんぎょう発達はったつさせた。

天皇てんのう即位そくいのため越前えちぜんはなれることになると、このあんじてみずからの生霊いきりょう足羽あすわ神社じんじゃしずめて御子みこうまらい皇女おうじょ(うまくだのひめみこ)を斎主さいしゅとしてあとをたくしたという。このような伝承でんしょうから越前えちぜん開闢かいびゃく祖神そしんとされている。

のうの「花筐はながたみ」に登場とうじょうする。あらすじ:つぎたいみかどたけれつみかど後継こうけいしゃえらばれ、寵愛ちょうあい照日てるひ(シテ)に手紙てがみ花篭はなかご形見かたみとしておくって上京じょうきょうした。照日てるひきみしたい、侍女じじょとともに狂女きょうじょ姿すがたとなってう。紅葉こうよう見物けんぶつ行幸ぎょうこうれつまえあらわれた照日てるひは、みかど従者じゅうしゃ(ワキ)にかごおとされてくるい、かんたけみかど夫人ふじん物語ものがたりう。やがてみかど以前いぜん照日てるひわたした花篭はなかごであるとづき、ふたたされてかえった。のち二人ふたりあい安閑天皇あんかんてんのうとなる。

つぎたい天皇てんのう皇子おうじまご椿井つばい文書ぶんしょ

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京田辺きょうたなべ飯岡いいおかには、「十塚とづかなな井戸いど」といわれるほどおおくの古墳こふんがあり、これらのおおくはつぎたい天皇てんのうまご古墳こふんであるとする江戸えど時代じだい絵図えず存在そんざいする。しかし、これらは椿井つばい政隆まさたか作成さくせいしたにせ文書ぶんしょ・「椿井つばい文書ぶんしょ」を由来ゆらいとするいつわりの伝承でんしょうであるとするせつ有力ゆうりょくである[79][80]

つぎたいは、近江おうみ越前えちぜんのどちらからたのか?

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水谷みずたに千秋ちあきは、「みかど」にもとづくとかんがえられる『古事記こじき』の記事きじると、そこには、はっきりと「きん淡海たんかいこく近江おうみこく)よりのぼりまさしめて」といてある。 一方いっぽう、『日本書紀にほんしょき』には、 つぎたいちちである彦主じんおう近江おうみこくにいて、そこで越前えちぜんにいたひめせて結婚けっこんした。彦主じんおうはやくなったのでひめおさなつぎたいれて実家じっかのある越前えちぜんかえった。これ以降いこう、ずっとつぎたいじゅうななさいになるまで越前えちぜんらしていたというふうにいてある。「上宮かみみやいちうん」もおなじような記事きじになっている。はなしをまとめると、『古事記こじき』は「近江おうみ」としかいていない。「上宮かみみやいちうん」 と『日本書紀にほんしょき』の記事きじは、父方ちちかた近江おうみ母方ははかた越前えちぜんというふうにも解釈かいしゃくできる。 福井ふくい足羽山あすわやま公園こうえんという公園こうえんがあり、そのなかつぎたい天皇てんのう石像せきぞうっているが、これは明治めいじ時代じだいにできたもので歴史れきしがくてき根拠こんきょはない。

越前えちぜんよりは近江おうみほうが、有力ゆうりょくである理由りゆうは、「上宮かみみやいちうん」には越前えちぜんかえったといてあるが、 「上宮かみみやいちうん」という史料しりょうは、越前えちぜんやつしん、すなわち江沼えぬましん作成さくせい関与かんよした部分ぶぶんおおいのではないか? とうたがわれる。 つぎたいおさなころ越前えちぜんったいうこの所伝しょでんも、やつしん伝承でんしょうしたものである可能かのうせいたかい。 そうなると、『古事記こじき』には、はっきりと近江おうみいていて、越前えちぜんとはまったいていない。この記述きじゅつ重視じゅうしすべきで近江おうみからたとかんがえるべき。としている[81]

皇居こうきょ

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※『日本書紀にほんしょき』にる。
  • 507ねん2がつ?、樟葉くずはみや(くすはのみや、大阪おおさか枚方ひらかた)で即位そくい
  • 511ねん10月?、筒城つつきみや(つつきのみや、現在げんざい京都きょうと京田辺きょうたなべか)にうつす。
  • 518ねん3月?、弟国おうぐにみや(おとくにのみや、現在げんざい京都きょうと長岡京ながおかきょう今里いまさと付近ふきんか)にうつす。ほんきょ宣長のりなが古事記こじきでん」に「乃内むら今里いまさとむらあたりなり」とあるが,本来ほんらい古事記こじきには弟国おうぐにみやてこない。またはつまくせん地誌ちし日本にっぽん輿地よちどおりこころざし 畿内きない 山城やましろこく」の「弟國おうぐにこうに「弟國おうぐにうんわたるうえ井内いない及上上野うえのとうゆう地名ちめい西京にしぎょう白井しろいむらゆう地名ちめい垣本かきもと  つぎたい天皇てんのう じゅうねんさんがつ遷都せんと弟國おうぐに」とある。白井しろいむら明治めいじ合併がっぺい向日むこう森本もりもとまち編入へんにゅうされた。
  • 526ねん9月?、いわあまり玉穂たまほみや(いわれのたまほのみや、現在げんざい奈良ならけん桜井さくらい池之内いけのうちか)にうつす。

うえじょ遷都せんと政治せいじじょう重大じゅうだい変革へんかくがあったためとするせつもある[よう出典しゅってん][だれによって?]。が、憶測おくそくいきない。ただし、この記録きろく事実じじつとすると、つぎたい大和やまとにいたのは晩年ばんねんの5ねんのみである。

枚方ひらかた交野かたの天神てんじんしゃには、当地とうち樟葉くずはみや跡地あとちであるとする石碑せきひ存在そんざいするが、『畿内きないこころざし』、『河内かわうち名所めいしょ図会ずえ』、『淀川よどがわりょうきし一覧いちらん』などには交野かたの天神てんじんしゃ樟葉くずはみや跡地あとちであるとする伝承でんしょう文書ぶんしょ記録きろくされていないため、うま隆弘たかひろは「明治めいじ7ねんかた埜神しゃ交野かたの天神てんじんしゃから由緒ゆいしょうばってさかいけん報告ほうこくし、それにけない由緒ゆいしょ交野かたの天神てんじんしゃ必要ひつようになったため、明治めいじ20ねんいたってからつぎたい天皇てんのうとの関係かんけい主張しゅちょうした伝承でんしょうである」と指摘してきしている[82]

りょう霊廟れいびょう

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こん城塚じょうつか古墳こふん大阪おおさか高槻たかつき

天皇陵てんのうりょうは、宮内庁くないちょうのウェブサイトでは、三嶋みしまあいりょうみしまのあいののみささぎ大阪おおさか茨木いばらぎ太田おおた3丁目ちょうめ)となっている[83]りょうがた前方後円ぜんぽうこうえん[83]遺跡いせきめいは「太田おおた茶臼山ちゃうすやま古墳こふん」で、墳丘ふんきゅうちょう227メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである。しかし、ほん古墳こふん築造ちくぞう時期じきは5世紀せいき中頃なかごろとみられている。

一方いっぽう大阪おおさか高槻たかつき郡家新ぐんげしんまちこん城塚じょうつか古墳こふん前方後円墳ぜんぽうこうえんふん墳丘ふんきゅうちょう190m)は淀川よどがわ流域りゅういき最大さいだい前方後円墳ぜんぽうこうえんふんで、6世紀せいき前半ぜんはん最大さいだい規模きぼ古墳こふんかんがえられることから、歴史れきし学界がっかい考古こうこ学会がっかいともどう古墳こふんしんつぎたい天皇陵てんのうりょうとするのが定説ていせつとなっている。この古墳こふん被葬ひそうしゃ生前せいぜんからつくられはじめた寿ことぶきりょうであるとかんがえられている[84]。この古墳こふん宮内庁くないちょうによる治定じじょう変更へんこうおこなわれていないためにりがみとめられ、1997ねんからは発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれ前例ぜんれいのないかず埴輪はにわ王家おうけ関係かんけいあるとおもわれる石棺せっかん破片はへんなどが発掘はっくつされている。2011ねん4がつ1にちには高槻たかつき教育きょういく委員いいんかいにて史跡しせき公園こうえんとして整備せいびされ、埴輪はにわ祭祀さいしじょうとうには埴輪はにわがレプリカで復元ふくげんされた。隣接りんせつするこん城塚じょうつか古代こだい歴史れきしかんでは、日本にっぽん最大さいだいきゅういえがた埴輪はにわとう復元ふくげん展示てんじされている。

こん城塚じょうつか古墳こふん軍馬ぐんば埴輪はにわぐん

どう古墳こふんではこれまでいえがた石棺せっかん破片はへんられるいしへんさん種類しゅるい確認かくにんされている。その内訳うちわけは、熊本くまもとけん宇土うと近辺きんぺん阿蘇あそ溶結凝灰岩ぎょうかいがんピンクせき奈良ならけん大阪おおさかさかい位置いちする二上山にじょうざんの溶結凝灰岩ぎょうかいがん白石しらいし兵庫ひょうごけん高砂たかさご竜山たつやませきで、すくなくともさん石棺せっかん安置あんちされていたことが推測すいそくできる。このうち、竜山たつやませき大王だいおうかんざいとしておおもちいられたものである[85]。これらの石棺せっかんは、16世紀せいきまつ伏見ふしみだい地震じしんにより破壊はかいされたとられる[86]。2016ねんには、過去かこ付近ふきん石橋いしばし使つかわれていた石材せきざいこん城塚じょうつか古墳こふん石棺せっかん一部いちぶであった可能かのうせい発表はっぴょうされた[87]

また、皇居こうきょ皇霊こうれい殿どの宮中きゅうちゅうさん殿どのの1つ)においてほか歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくとともに御霊みたままつられている。

日本書紀にほんしょき古事記こじきにおけるつぎたい天皇てんのう記事きじ相違そうい

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記事きじ共通きょうつうてん

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共通きょうつうてんはおおよそつぎとおりである。

  • つぎたい天皇てんのうは、とおくの地方ちほう(畿外の北東ほくとう)からやってきた。
  • つぎたい天皇てんのうは、とお傍系ぼうけい血筋ちすじである(応神おうしんせいまご)。
  • 応神天皇おうじんてんのうからつぎたい天皇てんのうまでの系譜けいふ不明ふめいである[ちゅう 14]

記事きじ相違そういてん

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たけれつ天皇てんのうについて
日本書紀にほんしょき』ではたけれつ悪行あくぎょう数多かずおお詳細しょうさいしるされ、暴君ぼうくんとしてかれ、つぎたい立派りっぱ名君めいくんとしてかれている。
古事記こじき』ではたけれつ悪行あくぎょう記事きじく、たけれつ行政ぎょうせいおこなった記事きじなどもい。
系図けいずについて
日本書紀にほんしょき』にはつぎたいくわしい系図けいずしるされていないものの、まゆずみ弘道ひろみち指摘してきしているように、『日本書紀にほんしょき』には天皇てんのう系図けいずいちかんえられていたため、編纂へんさんしゃ天皇てんのう系図けいずらなかったということはありない。
古事記こじき』にはつぎたい系図けいずしるされていないため、編纂へんさんしゃつぎたい系図けいず認知にんちしていたかは不明ふめいである。
出身しゅっしんについて
日本書紀にほんしょき』では生誕せいたん近江おうみだが、おさなころ父親ちちおや彦主じんおうくなったので、母親ははおやひめ実家じっかである越前えちぜんそだち、所在しょざい越前えちぜんである。
古事記こじき』では生誕せいたん所在しょざい近江おうみである(越前えちぜんてこない)。
後継こうけい候補者こうほしゃについて
日本書紀にほんしょき』ではつぎたい天皇てんのうよりも有力ゆうりょく候補者こうほしゃだい14だい仲哀ちゅうせつ天皇てんのうせいまごやまと彦王登場とうじょうするが、むかえに軍隊ぐんたいて、して行方ゆくえ不明ふめいになる。
古事記こじき』ではやまと彦王自体じたい記事きじも、候補者こうほしゃ記事きじい。
天皇てんのう即位そくいについて
日本書紀にほんしょき』では、最初さいしょ天皇てんのう即位そくい拒否きょひし、しょ豪族ごうぞく河内かわうち馬飼まかいくびあらかごなん説得せっとくし、即位そくいおうじている。
古事記こじき』では、即位そくい拒否きょひした記事きじ河内かわうち馬飼まかいくびあらかご記事きじい。
みや位置いち
日本書紀にほんしょき』では樟葉くずはみや筒城つつきみや弟国おうぐにみやいわあまり玉穂たまほみやの4箇所かしょしるされている。
古事記こじき』ではいわあまり玉穂たまほみや天下てんかおさめたという記事きじのみ。
磐井いわいらんについて
日本書紀にほんしょき』では、しん筑紫つくし磐井いわい賄賂わいろおくり、大和やまと朝廷ちょうてい反旗はんきひるがえしている。
古事記こじき』では、磐井いわい天皇てんのういのちしたがわないのでころした。
誕生たんじょうねんくずしねんくずし年齢ねんれいちが
日本書紀にほんしょき』では、生年せいねんは450ねんくずしねんは531ねん宝算ほうさんは82さいとされる。
古事記こじき』では、生年せいねんは485ねんくずしねんは527ねん宝算ほうさんは43さいとされる。

仁徳にんとく系統けいとう断絶だんぜつについて

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日本書紀にほんしょき』、『古事記こじき』、とも仁徳にんとく系統けいとう断絶だんぜつ強調きょうちょうしている。本当ほんとう仁徳にんとく系統けいとう男子だんし絶滅ぜつめつしたのであれば、応神おうしん系統けいとうおとこだい迹王の即位そくいは、血統けっとううえからも正当せいとうされる。しかし、仁徳天皇にんとくてんのうにはにん男子だんし履中天皇りちゅうてんのう住吉すみよしなか皇子おうじはんせい天皇てんのう允恭天皇いんぎょうてんのう大草おおくさかおり皇子おうじ)がいたと『記紀きき』にはしるされている。仁徳じんとくからたけれつまで世代せだいでいうと、よん世代せだいにもなる。

事実じじつ記紀きき』の記事きじむと、つぎたいあさ以後いご生存せいぞんしていた可能かのうせいのある仁徳じんとく系統けいとうたちばなおうえる[ちゅう 16]

ひろしけい天皇てんのう顕宗けんそう天皇てんのう)は、大兄たいけい去来きょらいべつ天皇てんのう履中天皇りちゅうてんのう)のまご也。

市辺いちのべ押磐皇子おうじ也。 はは荑媛と曰す。 譜第ふだいいわく、市辺いちのべ押磐皇子おうじありしんおんな荑媛をめとりて、つい三男さんなん二女じじょむ。 いちきょなつひめと曰ふ。 おくけいおう仁賢天皇にんけんてんのう)と曰ふ。さらしまややさら大石おおいしたかしさんひろしけいおう顕宗けんそう天皇てんのう)と曰ふ。さらややよん飯豊いいで女王じょおう飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ)と曰ふ。またしのぶ海部かいふ女王じょおう、「たちばなおう」と曰ふ。」

日本書紀にほんしょき』「顕宗けんそう即位そくいぜん

この記事きじによると、仁賢天皇にんけんてんのう顕宗けんそう天皇てんのうおとうとたちばなおうというおとこおうたことがわかる。 たけれつ天皇てんのう叔父おじたる人物じんぶつで、おとこだい迹王よりも、血統けっとうてきには正当せいとう後継こうけいしゃである。

しかし、たちばなおうおとこだい迹王よりも、さらに正当せいとう皇位こうい継承けいしょうしゃる。

古事記こじき』「仁賢にんけん」に仁賢にんけんで「たけれつ天皇てんのうおとうと」としてみえるわかおうである。

天皇てんのう(仁賢にんけん)、大長谷おおながたにわかけん天皇てんのう(雄略天皇ゆうりゃくてんのう)の御子みこ春日かすがだい郎女いらつめめとりてめる御子みこ

高木たかぎ郎女いらつめつぎざい郎女いらつめつぎひさ須毘郎女いらつめつぎ白髮はくはつ郎女いらつめしろ皇女おうじょ)。 つぎ小長谷こながやわかすずめいのち(たけれつ天皇てんのう)。 つぎ、「わかおう」。」

古事記こじき』「仁賢にんけん

日本書紀にほんしょき』「仁賢にんけんおさむ」にはわかおうえないが、これに相当そうとうするとして仁賢にんけん皇女おうじょやや皇女おうじょとして「女性じょせい」としている。この人物じんぶつかんして『記紀きき』のあいだ所伝しょでんちがいがみとめられる。これにかんして、水谷みずたに千秋ちあきは、「仁賢にんけんおさむ」は仁徳にんとく系統けいとう男子だんし断絶だんぜつ強調きょうちょうするために、意図いとてき皇女おうじょ改竄かいざんした可能かのうせいもあるとしている。これらの人物じんぶつは、実在じつざいすれば5世紀せいきまつから6世紀せいき初頭しょとう在世ざいせい年代ねんだい比定ひていしうるたけれつくずし生存せいぞんしていた可能かのうせいがある仁徳じんとく系統けいとうおとこおうである。

また、おなじく水谷みずたには、かれらはたけれつくずし生存せいぞんしていた可能かのうせい十分じゅうぶんあり、また、こうした所伝しょでんそんすること自体じたいが、たけれつによって仁徳にんとくけいおうみつる男子だんし絶滅ぜつめつした所伝しょでんうたがいをいだかしめるものである。仁徳にんとく断絶だんぜつ説話せつわは、応神おうしん後裔こうえいつぎたい即位そくい正当せいとうするための造作ぞうさくでないか、とうたがっている[88]

つぎたい天皇てんのう実在じつざいせいについて

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だい26だいつぎたい天皇てんのうは、前代ぜんだいだい25だいたけれつ天皇てんのうなど実在じつざいうたがわれる人物じんぶつとはちがい、実在じつざい間違まちがいないとされる天皇てんのうである。

これ以降いこう天皇てんのう系譜けいふでは、実在じつざいせいうたがわれる人物じんぶつがおらず、つぎたい天皇てんのうからほぼ間違まちがいなく現在げんざい皇室こうしつまでつながっているとされている。このてんにおいてつぎたい天皇てんのう始祖しそとするしん王朝おうちょうせつ歴史れきし学術がくじゅつかいでの主流しゅりゅうである。

神武じんむ天皇てんのうのモデルせつ

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直木なおき孝次郎こうじろうは、記紀きき神武じんむ東征とうせい神話しんわは、史実しじつとしてのつぎたい天皇てんのう大和やまとりをモデルとして形成けいせいされたものあると指摘してきしている[ちゅう 17]

近江おうみこく高島たかしまぐんさんについて

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古代こだいにおいて、高島たかしまぐんさん(『上宮かみみや』における「わたる乎国(みおのくに)」)をかんするものに、古代こだい北陸ほくりくどうにあった三尾みおえき三尾みおきょう三尾みおしろさん尾崎おざき三尾みおしん三尾川みおがわ三尾山みおやまとうられている。

万葉集まんようしゅう』に「だい御船みふね はくててさもらふ 高島たかしまの 三尾みお勝野かつのの なぎさおもえほゆ」とあり、ここから高島たかしまのうちにさんがあり、三尾みおのうちに勝野かつのがあるということがわかる。 『日本書紀にほんしょき』のみずのえさるらん(672ねん)の記載きさいには「三尾みおじょう」のがみえ、『ぞく日本にっぽん』の恵美押勝えみのおしかつらん藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ(764ねん)のさいには「高島たかしまぐん三尾みお埼」、平安へいあん時代じだいちょうとく2ねん(996ねん)、越前えちぜんかうちち藤原ふじわらため同行どうこうした紫式部むらさきしきぶ高島たかしまとおったときんだうたで「さんうみに 網引あびきみんの てまもなく 立居たちいにつけて こいしも」とあり、これらのさんとは、しろひげ神社じんじゃ鎮座ちんざする明神崎みょうかんざき付近ふきんかんがえられている。

ぞく日本にっぽんのべれき3ねん(784ねん)8がつじょうに「近江おうみこく高島たかしまぐん三尾みおしん」をしたがえじょしたという記事きじがあり、この「三尾みおしん」は『延喜えんぎしき』の「水尾みずお神社じんじゃ」とみられ、名神めいしんさい月次げつじさい新嘗祭にいなめさいあずかる神社じんじゃであるが、現在げんざい高島たかしま拝戸はいど水尾みずお神社じんじゃ比定ひていされている。

弘安ひろやす3ねん(1280ねん)の『比良びらそう絵図えず』には、「三尾川みおがわ」がえがかれており、「三尾川みおがわ」とは安曇川あどがわ南部なんぶながれる「鴨川かもがわ」に比定ひていされている。

このようなことからさん範囲はんいは、きたのこしょう地名ちめいのこ高島たかしま安曇川あどがわまち三尾里みおざと付近ふきんから、みなみ高島たかしまさい南部なんぶ明神崎みょうかんざき付近ふきんまでの高島たかしま市内しない安曇川あどがわ南部なんぶ全域ぜんいきすとかんがえられる。

つぎたい天皇てんのうちちあせ斯王がいた「わたる乎国だか島宮しまみや」は、近江おうみこく高島たかしまぐん三尾みおきょう所在しょざいしていたのがさっせられる。 同郷どうきょうは、式内しきないしゃとされる水尾みずお神社じんじゃ鎮座ちんざする高島たかしま拝戸はいど付近ふきん比定ひていされる。 留意りゅういすべきは、拝戸はいど北東ほくとう宮野みやの滋賀しがけん高島たかしま宮野みやの)という地名ちめい見受みうけられるてんである。 それは、平安へいあん時代じだいにまでさかのぼふる地名ちめいであって、「わたる乎国だか島宮しまみや」に由来ゆらいする可能かのうせい十分じゅうぶんそんするのである[90]

高島たかしまかも稲荷山いなりやま古墳こふんかも稲荷山いなりやま古墳こふん)からは明治めいじ時代じだい金銅かなどうせいかんむりくつなどが発掘はっくつされており、また石棺せっかん奈良ならけん上山かみのやまさんいし使用しようするなど6世紀せいき前半ぜんはんのこの地域ちいき中央ちゅうおう政権せいけん密接みっせつ関係かんけいにあったことをしめ考古学こうこがくてき資料しりょう出土しゅつどしている。

石碑せきひ

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1847ねん飛騨高山ひだたかやま国学こくがくしゃ田中たなか大秀おおひで起案きあんけて門弟もんていたちばな曙覧あけみ池田いけだたけしまん山口やまぐちはるむら足羽あすわ神社じんじゃ神主かんぬしうまらい田善でんぜんつつみらによりつぎたい天皇てんのう御世みよけい足羽あすわ神社じんじゃ境内けいだい建立こんりゅうされている。この碑文ひぶんには、大秀おおひで研究けんきゅうによる応神天皇おうじんてんのうからつぎたい天皇てんのうまでの系図けいずまれている。

これには「玉穂たまほみや天皇てんのうだい御世みよけい」とあり、そのしたに「しな和気わきいのちおくりな おうじん天皇てんのう) ─ わかぬま俣王 ─ だい郎子いらつこまためい ほんおう) ─ 宇斐おう ─ 汙斯おう書記しょきうん 彦主じんおう)─ 袁本いのち書記しょきうん さらめい 彦太とうと おくりな つぎたい天皇てんのう)」とまれている。

また足羽あすわ神社じんじゃちかくにある足羽山あすわやま公園こうえんにはつぎたい天皇てんのうした巨大きょだい石像せきぞう坂井さかい見下みおろすようにっており、観光かんこうスポットとなっている。

在位ざいいねん西暦せいれきとの対照たいしょうひょう

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つぎたい天皇てんのう題材だいざいにした作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 先帝せんていとは2親等しんとう以上いじょうはなれて即位そくいした最初さいしょ天皇てんのう仲哀ちゅうせつ天皇てんのう先帝せんてい叔父おじなりつとむ天皇てんのうちち日本にっぽんたけたかしおとうと))とされている。
  2. ^ 古事記こじき』では485ねん
  3. ^ 上宮かみみやでは、わたる乎國高嶋たかしまみや(みをのくにのたかしまのみや)。
  4. ^ 天皇てんのうたけれつすでくずれりまして、にちぞくらすべきおうかりき。しなふとし応神おうしん天皇てんのうせいまご、袁本(をほど)いのちきん淡海たんかい(ちかつおうみ)こくよりのぼしめて、白髪はくはつ(たしらか)いのちわせて、天下てんかさづまつりき。」[3]
  5. ^ 日本書紀にほんしょき』によれば、「にんはらいて胎児たいじた」、「ひとのぼらせて弓矢ゆみやとした」、「いけひとれてほことっころした」などすうおおくの悪行あくぎょうかれており、「しきりに諸悪しょあくみやつこし、いちぜんおさめたまはず(わることばかりをおこない、ひとつもいことをおこなわなかった)」とひょうされている。
  6. ^ うえ哆唎(おこしたり)、しも哆唎(あるしたり)、しゃば陀(さた)、牟婁むろ(むろ)のよんけん。これが現代げんだいのどの地方ちほうたるかについては、全羅南道ぜんらなんどうにほぼ相当そうとうするというせつと、南東なんとうであるというせつ存在そんざいする[8]
  7. ^ の欽明あさ初期しょきにこのよんけん割譲かつじょう問題もんだいとなり、責任せきにんわれた金村かなむら失脚しっきゃくしている。
  8. ^ この「凡牟都和つわまれおう」を「ホムツワケ」とんで、応神天皇おうじんてんのうではなくたれじん天皇てんのうだいいち皇子おうじであるほまれ別命べつめい(ほむつわけのみこと)とするせつもある。しかし系譜けいふじょう始祖しそには天皇てんのうえるのが普通ふつうであり、母系ぼけい始祖しそにはたれじんえているにもかかわらず父系ふけいにはかないというのは不可解ふかかいである。また父母ちちははとも世代せだいことなるたれじん子孫しそんということになるため、やはり不自然ふしぜんといえる[19]
  9. ^ 現在げんざい断絶だんぜつしている王朝おうちょう、および伝説でんせつふくめるのであれば、メネリク1せいからハイレ・セラシエ1せいいたエチオピアすめらぎちょうが3000ねんつづいたとされる。
  10. ^ つぎたい天皇てんのうは、ちち彦主じんおう同様どうよう三尾みお勢力せいりょくけんである湖西こさい高島たかしま基盤きばんき、ここをとお北陸ほくりくどうかいして越前えちぜんさんこくにも勢力せいりょくった。 湖東ことういきちょう勢力せいりょくけんから東山ひがしやまどうかいして東国とうごく尾張おわりむすいた。 つぎたいは、応神天皇おうじんてんのうせいまごとして皇統こうとうからはとお存在そんざいではあったが、代々だいだい近江おうみ勢力せいりょく基盤きばんとし、東国とうごく·北陸ほくりく勢力せいりょく背後はいごつことで、畿内きない勢力せいりょく対抗たいこうして即位そくいできたのである。 近江おうみ地名ちめい その由来ゆらい変遷へんせん(淡海たんかい文庫ぶんこ)2020/6/30京都きょうと地名ちめい研究けんきゅうかいP47
  11. ^ つぎたい天皇てんのうちち、彦主じんおう近江おうみ高島たかしまさん豪族ごうぞくであった。 それでは、近江おうみ高島たかしまぐんとはどのような場所ばしょであろうか。 琵琶湖びわこ北西ほくせい安曇川あどがわ流域りゅういきにあたり、湖西こせいではひろ水田すいでん地域ちいきである。それにしても、みずうみ山地さんちはさまれたささやかな地域ちいきであって、この農業のうぎょう生産せいさんをもって天皇てんのうになれるほどのちからてたとは、とうていかんがえられない。この地域ちいきがそれほどの重要じゅうようせいてたことの唯一ゆいいつ可能かのう説明せつめいは、この地域ちいき古代こだいにおけるもっと有力ゆうりょく製鉄せいてつ地帯ちたいだったことである。近畿きんき地方ちほうにおける最古さいこ製鉄せいてつ遺跡いせきはち世紀せいきくだるが、それは滋賀しがけん高島たかしまぐんマキノ製鉄せいてつ遺跡いせきぐんである。 (『日本にっぽん民俗みんぞく文化ぶんか体系たいけい3 いねてつもり浩一こういちいねてつ渡来とらいをめぐって」)。 もり浩一こういちは、ふる時代じだい製鉄せいてつ遺跡いせき自体じたいみとめられなくとも、農業のうぎょう生産せいさんとしてはとるにらない山間さんかん製鉄せいてつ遺跡いせき地帯ちたいに、ろくなな世紀せいきだい群集ぐんしゅうふんがあるので、その経済けいざいてき基盤きばんとして製鉄せいてつかんがえざるをないという。近畿きんき地方ちほうにおける製鉄せいてつは、ろく世紀せいきはじまるともりかんがえている。 このろく世紀せいき初頭しょとうこそ、つぎたい天皇てんのう出現しゅつげんした時期じきにあたる。」聖徳太子しょうとくたいしてつ王朝おうちょう 角川かどかわ選書せんしょ 1995/7/1 上垣うえがいがい 憲一けんいち P16 からの引用いんようぶん
  12. ^ 銅鏡どうきょう長年ながねん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたくされているが、所有しょゆうしゃ隅田すだ八幡やはた神社じんじゃである。
  13. ^ おとこおとうとおう」のかたりは『こころざし倭人わじんでん』にもられ、邪馬台国やまたいこく女王じょおう卑弥呼ひみこなおしたおとうとすために使つかわれている。とみとみおうしのぶ坂大ばんだい中姫なかひめあにだが、まこときょうよりは年下とししたなのでこうしるしたとかんがえる。
  14. ^ 日本書紀にほんしょき』は、父親ちちおやの彦主じんおう誉田ほんだ天皇てんのう応神おうしんよんせいまごとしている。しかし、その系譜けいふについてはなにしるしていない。 『古事記こじき』は、つぎたいを「しなふとし天皇てんのう応神おうしんせいまご」とつたえているが、同様どうようにそれ以外いがい系譜けいふまった不明ふめいである。 『しゃく日本にっぽん』に逸文いつぶんのこす『上宮かみみや』の系譜けいふでは、「凡牟都和つわまれおう応神天皇おうじんてんのう)─ わか野毛のげ二俣ふたまたおうだい郎子いらつこ ─ 乎非おう ─ 汙斯おう(彦主じんおう) ─ 乎富とう大公たいこうおうつぎたい天皇てんのう)」とされ、『水鏡みずかがみ』、『かみすめらぎ正統せいとう』、『かんしょう』では、応神おうしんはやぶさ総別そうべつ皇子おうじおとこだい迹王 ─ わたし斐王 ─ 彦主じんおうつぎたいと、しゃく日本にっぽん系譜けいふとは、たがいにことなる内容ないようになっているが、記紀ききでは、系譜けいふまったしるされておらず、不明ふめい状態じょうたいとなっている。
  15. ^ 日本書紀にほんしょき』、『古事記こじき』ともに、きゅう王家おうけ皇女おうじょしろ皇女おうじょめとったとしるしている。 先代せんだい天皇てんのう血縁けつえん非常ひじょうとおつぎたい天皇てんのうは、先代せんだい天皇てんのう同母どうぼあねであるしろ皇女おうじょ皇后こうごうにすることにより、はい婿むこというかたち正統せいとうせい獲得かくとくした。 そのため、つぎたい天皇てんのう大和やまとはい以前いぜん複数ふくすうをもち、沢山たくさん安閑天皇あんかんてんのうせん天皇てんのう)がいたにもかかわらず、しろ皇女おうじょとの皇子おうじである天国てんごくはいひらけこうにわみこと欽明天皇てんのう)が正式せいしき継承けいしょうしゃとなった。 『古事記こじき』は、「ごう於手白髮はくはついのち、授奉天下でんか也」(白髪はくはついのちめとらせて、天下てんかさづけた。)とあるが、天皇てんのう記事きじは、「小長谷こながやわかすずめいのちたけれつ天皇てんのう)、すわ長谷ながたにれつ木宮きのみや天下でんか」「白髮はくはつ大倭おおやまと根子ねっこいのちせいやすし天皇てんのう)、すわ伊波いはあや栗宮くりみや天下でんか也」 など「天下てんかおさめた」という表現ひょうげんになっており、「天下てんかさづけた」という表現ひょうげん使つかっているのは、つぎたい天皇てんのうたいしてのみである。
  16. ^ 日本書紀にほんしょき』「顕宗けんそう即位そくいぜん」にみえる
  17. ^ 神武じんむ天皇てんのう東征とうせい途中とちゅう筑紫つくし岡田おかだみやおもね岐の祁理みや吉備きび高島たかしまみや滞在たいざいしたことは、ろく世紀せいきはじめ、越前えちぜん(福井ふくいけん)からあらわれて皇位こういいだつぎたい天皇てんのうが、大和やまとはいるまでに、河内かわうち樟葉くずはやま筒城つつきおなじくやま弟国おうぐにすうねんずつ滞在たいざいしたことと関係かんけいがあるとおもわれる。 『日本書紀にほんしょき』によると、つぎたい天皇てんのう筒城つつきななねん弟国おうぐにはちねん滞在たいざいしているが、『古事記こじき』にみえる神武じんむ天皇てんのう祁理みやななねん高島たかしまみやはちねん滞在たいざいする。 この一致いっち偶然ぐうぜんとはおもわれない。 神武じんむ天皇てんのう大阪平野おおさかへいやから直接ちょくせつ大和やまとはいらず、熊野くまの迂回うかいするのは、つぎたい天皇てんのう越前えちぜん出発しゅっぱつしてから大和やまとはいるのに、大変たいへん手間取てまどっていること影響えいきょうされたのではあるまいか。 古代こだい歴史れきし物語ものがたりである「きゅう」がはじめてまとめられたのは、このつぎたい天皇てんのうから欽明天皇てんのうころ(ろく世紀せいき前半ぜんはんないし中葉ちゅうよう)であろうということは、津田つだ左右吉そうきち研究けんきゅう以来いらい学界がっかい定説ていせつであるが、神武じんむ天皇てんのう物語ものがたり骨組ほねぐみもこのころ大体だいたい出来上できあがったとおもわれる。[89]

出典しゅってん

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  45. ^ : 昭和しょうわ60ねん(1985)の調査ちょうさ製鉄せいてつが1検出けんしゅつされた。
    そこおおうように堆積たいせきした褐黒しょくそうから6世紀せいきまつ~7世紀せいき初頭しょとう須恵すえひらびん出土しゅつどした。
    滋賀しが県内けんない最古さいこせいである可能かのうせいたかい(谷口たにぐち義介ぎすけみや成良なりながたすくきた近江おうみ遺跡いせき』(サンブライト出版しゅっぱん、1986ねん)P175。
  46. ^ : 出土しゅつど木炭もくたんのC14年代ねんだい測定そくていから7世紀せいき後半こうはん前後ぜんごする年代ねんだいられている。
    古墳こふん時代じだい後期こうきから操業そうぎょうしてる可能かのうせいがある。
    ながさ3.6メートル、はば2.1メートル、あつさ0.4メートルの滋賀しが県内けんない最大さいだいてつかす発見はっけんされ、高島たかしま展示てんじされている。2021ねん現在げんざい高島たかしま市立しりつ今津いまづ図書館としょかんまえ説明せつめいぶんとも展示てんじされている。滋賀しがけん教育きょういく委員いいんかい滋賀しがけん文化財ぶんかざい保護ほご協会きょうかい 大道おおみち和人かずとほか『東谷ひがしたに遺跡いせき』( 2004ねん)。
  47. ^ : 調査ちょうさしゃもり浩一こういちは、隣接りんせつする上開田かみかいで集落しゅうらく称念寺しょうねんじ薬師如来やくしにょらいかれた結縁けちえんじん漢人かんどふくまれていることから、渡来とらいけい技術ぎじゅつしゃ存在そんざい指摘してきしている。
    操業そうぎょう時期じき出土しゅつどした須恵すえへんから8世紀せいきかんがえられるが、古墳こふんぐん近接きんせつしており古墳こふん時代じだい後期こうきから操業そうぎょうしてる可能かのうせいがある。もり浩一こういち若狭わかさ近江おうみ讃岐さぬき阿波あわにおける古代こだい生産せいさん遺跡いせき調査ちょうさ」『滋賀しがけんきた牧野ぼくや製鉄せいてつ遺跡いせき調査ちょうさ報告ほうこく』(同志社大学どうししゃだいがく文学部ぶんがくぶ文化ぶんか学科がっか、1971ねん)。
  48. ^ :5世紀せいき中葉ちゅうよう朝鮮半島ちょうせんはんとうせい土器どきや、当時とうじでは渡来とらい技術ぎじゅつであるカマドを使用しようした建物たてものあとなどが確認かくにんされ、渡来とらいけい住民じゅうみん居住きょじゅうしていたか、もしくは交流こうりゅうがあったとしている(『高島たかしま歴史れきし散歩さんぽ』(高島たかしま教育きょういく委員いいんかい、2017ねん)P8)(水谷みずたに 2013 P73)。
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  • 川口かわぐち勝康かつやす巨大きょだい古墳こふんやまとおう 世紀せいき大王だいおうおうみつるさぐる』青木あおき書店しょてん、1981ねん11月。ISBN 4-250-81026-7 
  • 山尾やまお幸久ゆきひさ古代こだい近江おうみ: 史的してき探究たんきゅう』サンライズ出版しゅっぱん、2016ねん5がつISBN 978-4883255924 
  • 枚方ひらかた文化財ぶんかざい研究けんきゅう調査ちょうさかいつぎたい大王だいおうとその時代じだい和泉いずみ書院しょいん、2000ねん5がつISBN 978-4757600362 
  • 山尾やまお幸久ゆきひさ古代こだい王権おうけんはらぞう ひがしアジア史上しじょう古墳こふん時代じだい學生がくせいしゃ、02003-08。ISBN 978-4311202704 
  • 吉村よしむら武彦たけひこ古代こだい天皇てんのう誕生たんじょう角川かどかわソフィア文庫ぶんこ [1998]れい元年がんねん6がつ25にち ISBN 978‐4‐04‐400471‐2
  • 大橋おおはし信弥しんやつぎたい天皇てんのう即位そくいなぞ新装しんそうばん 吉川弘文館よしかわこうぶんかん [2007‐12‐20] 2020‐3‐1。ISBN 978-4-642-08379-9
  • 大橋おおはし信弥しんやつぎたい天皇てんのう即位そくいなぞ 新装しんそうばん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2020ねん3がつ1にち 
  • 枚方ひらかた文化財ぶんかざい研究けんきゅう調査ちょうさかいつぎたい大王だいおうとその時代じだい和泉いずみ選書せんしょ、2000ねん5がつISBN 978-4757600362 
  • 竹田たけだひさしやすし天皇てんのう国史こくし株式会社かぶしきがいしゃPHP研究所けんきゅうじょ 2020ねん11月19にち ISBN978‐4‐569‐84360‐5[信頼しんらいせいよう検証けんしょう]
  • 南原なんばら次男つぐおつぎたい天皇てんのうしん王朝おうちょうではない』ー古代こだい日本にっぽん統一とういつ株式会社かぶしきがいしゃ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 平成へいせい5ねん7がつ30にち[信頼しんらいせいよう検証けんしょう]
  • しん古代こだいかい人物じんぶつまな日本にっぽん古代こだい 1: 古墳こふん飛鳥あすか時代じだいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2022ねん8がつISBN 978-4642068741 
  • たきおんのう日本にっぽん古代こだい ヤマト王権おうけん宝島社たからじましゃ、2015ねん5がつISBN 978-4800241184 
  • 百田ひゃくだ尚樹なおき『[新版しんぱん]日本国にっぽんこくうえ〉』幻冬舎げんとうしゃ文庫ぶんこ、2021ねん11月。ISBN 978-4344431270 [信頼しんらいせいよう検証けんしょう]
  • さかやすし『ヤマト王権おうけん古代こだいがく 「おおやまと」のおうから倭国わのくにおうへ』新泉しんいずみしゃ、2020ねん2がつISBN 978-4787720023 
  • 水谷みずたに千秋ちあきつぎたい天皇てんのう朝鮮半島ちょうせんはんとうなぞ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん新書しんしょ〉、2013ねん7がつ20日はつか 

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