評
『
概要
[ところが、『
しかし、
その
ただし、
また、
さらに、
なお、
評 制 の実施
[「
宣 化 天皇 3年 (538年 )、大伴 磐 は大伴金村 の子 で、任 那 を救援 した後 、甲斐 国 山梨 評 山 前 邑に任地 (『古代 豪族 系図 辞典 』)。永昌 元年 (689年 )、那須 国造 で評 督 に任 ぜられた那須 直 葦 提 の事績 を息子 の意志 麻呂 らが顕彰 するために碑 を建 て、国宝 那須 国造 碑 として現存 する。藤原 京 (694~710年 )から「上 毛 野 国 車 評 桃井 里 大 贄 鮎 」と記 された荷札 として付 けられた木簡 が見 つかっている[12]。九州 でも評 制 が施行 された。「筑前 国 糟屋 評 」はのちの糟屋 郡 (かすやぐん、文武 2年 京都 妙心寺 鐘 銘 )、「衣 評 」は後 の薩摩 国 頴娃 郡 (えいぐん、『続 日本 紀 』文武 4年 六 月 庚 辰 条 )か、「久 須評」はのちの豊後 国 玖珠 郡 (くすぐん、大宰府 政庁 跡 出土 木簡 )、「日向 国久 湯 評 」は後 の児湯 郡 (こゆぐん、藤原 京 跡 出土 木簡 )等 の、後 の郡 と繋 がる評 名 が知 られる。「山部 評 」「豊 評 」(福岡 市 井尻 B遺跡 出土 瓦 )などの後 の史料 に現 れない郡 レベルの行政 単位 が記 されたものも見 つかっている。評 に関 する最古 の史料 は法隆寺 旧 蔵 金剛 観音 菩薩 像 の銘文 である。その銘文 中 に、辛 亥年 (651年 )笠 評 君 大古 のために造 像 した旨 が記 されている。奈良 県 明日香 村 石神 遺跡 で平成 14年 (2002年 )に第 15次 調査 が行 われた。7世紀 後半 の池 状 遺構 や東西 大溝 から他 の遺物 とともに木簡 も出土 した。その木簡 の中 に、乙 丑 年 (天智 4年 ・665年 )に国 -評 -五 十 戸 (五 十 戸 は「さと」と読 み、「里 」と同 じ意味 )の地方 行政 組織 が全国 に行 き渡 っていたことを示 すものがあった。藤原 宮 跡 や出雲 国 庁 跡 出土 の木簡 によると、出雲 評 ・楯 縫 評 ・大原 評 などの存在 が知 られる。『日本書紀 』斉 明 五 年 (659年 )に「於友郡 」(おうぐん)とあるが、意宇 郡 の前身 としての於友評 のことで、評 制度 が7世紀 半 ばの早 い段階 に置 かれていたことが分 かる。出雲 国 国 庁 跡 と推定 されている松江 市 大草 町 にある六 所 神社 周辺 の発掘 で、多数 の遺構 ・遺物 とともに「大原 評 □磯部 安 □」と記 された木簡 が出土 している。奈良 県 明日香 村 の飛鳥 池 遺跡 から出土 した木簡 に「吉備 道 中国 加 夜 評 /葦 守 里 俵 六 □」と記 されていた。この木簡 には年紀 がないが、伴 出 遺物 から7世紀 末 のものと推測 される。そして「加 毛 評 柞原 里 」と記 された木簡 が出土 している。山陽 地方 にも評 里 制 が実施 されていたことが分 かる。隠岐 国 の評 については、飛鳥 や藤原 ・平城京 に送 られた海産物 などに付 けた評 ・郷 ・里名 、負担 者 名 、物品 名 などの木簡 が多量 に発見 されている。島前 に知夫 利 (ちぶり)評 ・海 評 、島後 に次 (すき)評 ・衣 地 (えち)評 が置 かれた。知夫 利 評 (郡 )を例 にとると、評 制 (~701年 )では、知夫 利 評 -由 羅 五 十 戸 、三田 里 、郡 里 制 (701~717年 )では、知夫 利 郡 -由良 里 、郡 郷里 制 (717~740年 )では、知夫 郡 -宇良 郷 -白浜 里 、由良 郷 、美 多 郷 -美祢 里 、大 結 郷 -前野 里 、安吉 里 、郡 郷 制 (740~年 )では、宇良 郷 ・由良 郷 ・美 多 郷 ・大井 郷 、- 『
和名 抄 』では宇良 郷 ・由良 郷 ・三田 郷
- のような
編成 だった[13]。
- 「
加 毛 評 柞原 里 」(かもひょう みはらのり)と記 された木簡 が奈良 県 飛鳥 池 遺跡 から出土 し、山陽 地方 にも評 制 や里 制 が実施 されていたことが分 かる。この評 里 制 にやや遅 れて、7世紀 末 には安芸 国 ・備後 国 も誕生 した。 藤原 ・平城 の宮 跡 で調 の貢 進 時 に付 けた木簡 がたくさん出土 している。そのなかに山口 県 の「熊毛 評 」と記 された木簡 がみつかっている[14]。飛鳥 池 遺跡 からの出土 木簡 に伊予 国 の湯 評 (「湯 評 伊波 田人 葛木 部 鳥 」)・久米 評 ・藤原 宮 出土 木簡 に宇和 評 (「宇和 評 小 □代 熟 」)などと記 されていた[15]。- 1999
年 (平成 11年 )11月、大阪 市 中央 区 前期 難波 宮 跡 から「戊 申 年 」(648年 )の紀年 銘 木簡 の他 に「秦 人 国 評 」などの木簡 が出土 している。この時期 に評 が建 て始 められたと考 えられる[16]。 - 699
年 (文武 3年 )、衣 評 督 (えのこおりのかみ)衣 君 県 らが肥 人 (ひひと、九州 西部 の島嶼 部 の人々 )を従 えて覓国使 (べっこくし、南 九州 に令 制 国 設置 と南島 路 の開拓 を進 めるための朝廷 からの使 い)を剽 却(ひょうきょう)する事件 が起 こった。このことから7世紀 末 には南 九州 に衣 評 という評 が設定 されていることが分 かる[17]。 - 『
播磨 国 風土記 』「穴 禾郡比治 里 」(しそうぐんひじのさと)の条 に難波 長柄 豊 前 天皇 (孝徳天皇 )の御代 に揖保 郡 と穴 禾郡とを分 けたとの記事 がある。「郡 」ではなく「評 」である。また、天智天皇 の庚午 年 (670年 )や持 統 天皇 の庚 寅 年 (690年 )に戸籍 や里 が整備 されていったと記 されている。国 評 里 の制度 が次第 に整備 されていったことが分 かる。飛鳥 池 遺跡 や藤原 宮 跡 などから丹波 国 の多紀 郡 を「多 貴 評 」、播磨 国 の飾磨 郡 を「志 加 麻 評 」、穴 栗 郡 を「穴 栗 評 」、神埼 郡 を「神前 評 」、揖保 郡 を「粒 評 」と記 している木簡 が見 つかっている[18]。
評 の一覧
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脚注
[注釈
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名称 不明 の六 人 部連 系図 に記載 。
出典
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昭和 42年 (1967年 )12月、藤原 京 の北面 外濠 から「己 亥 年 十 月 上 捄国阿波 評 松里 □」(己 亥年 は西暦 699年 )と書 かれた木簡 が掘 り出 された。これにより、それまでの郡 評論 争 に決着 が付 けられたとともに、改新 の詔 の文書 は『日本書紀 』を編纂 した奈良 時代 に書 き替 えられたことが明白 になった。「藤原 京 出土 の木簡 が、郡 評論 争 を決着 させる」木下 正史 著 『藤原 京 』中央公論 新 社 2003年 64ページ - ^
伊勢神宮 の維持 ・運営 担当 者 が伊勢大 神 宮司 で、その官吏 としての前身 は、「神 庤」(かんだち)と呼 ばれていた。それが孝徳天皇 の時代 に「御厨 」(みくりや)と改 められたという。神郡 行政 の拠点 的 施設 を御厨 と呼 んだ。伊勢 皇 太 神宮 (内宮 )の起源 ・組織 ・祭祀 」などを記 した書 。延 暦 23年 (804年 )撰 。永原 慶 二 監修 石上 英一 他 編 『岩波 日本 歴史 辞典 』岩波書店 1999年 同 項 から - ^ 「
難波 朝廷 (孝徳 朝 )が天下 に評 を立 てられたとき、(この地域 では)まず10郷 を分 け、度会 の山田原 に「屯 倉 を立 て、新家 連 阿久 多 (にいのみのむらじあくた)と磯 連 牟良(いそのむらじむろ)をそれぞれ督 領 と助 督 とした。また残 る10郷 をもって、竹村 に同 じく「屯 倉 」を立 て、麻 続 連 広 背 (おえのむらじ ひろせ)を督 領 に、磯部 真夜 手 (いそべの まやて)をじょとくにつけた。」という記事 は度会 ・多岐 両 評 の創設 の事情 を述 べると同時 に、孝徳 朝 における全国 的 な立 評 の実施 を語 っている。駒田 利治 「古代 の伊勢 ・伊賀 ・志摩 」稲本 紀昭 ・駒田 利治 ・勝山 清次 ・飯田 良一 ・上野 秀治 ・西川 洋 『三重 県 の歴史 』山川 出版 社 2000年 42ページ - ^ 「
尾張 氏 」『諸 系譜 』 - ^ 「
千家 北島 両家 」『諸 系譜 』第 二 冊 - ^ 『
静岡 県 史 資料 編 古代 』 - ^
新井 白石 『東 雅 』1717年 。巻 3・郡 「郡 をコホリといひしは韓国 の言 に出 しなり。即今 も朝鮮 の俗 、郡 をも県 をも并にコホルといふは即 コホリの転 語 なり。」 - ^
本 居 宣長 『古事記 伝 』1798年 。「許 富 理 と云 は古 よりありし名 には非 ず。新井 氏 云 く『こほりは韓 語 より出 たり』と云 り。『今 の朝鮮 語 に郡 県 をこほると云 』と云 り。此説さもあるべし。書 紀 継 体 の巻 に韓国 の地名 に熊 備己富里 また背 評 と云 あり。評 は彼 国 の方言 にて郡 を云 。故 コホリと訓 り。漢籍 梁 史 にも『新 羅 俗 、其邑在 内 曰啄評 』と云 ることあり。」 - ^
白鳥庫吉 「朝鮮 古代 諸国 名称 考 」『史学 雑誌 』第 6.7号 、1895年 。 - ^
金沢 庄三郎 「郡村 の語原 に就 いて」『国語 の研究 』同文 館 、1910年 、95-102頁 。 - ^
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