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ひょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原ふじわらみやあと出土しゅつど木簡もっかん複製ふくせい
うえ捄国阿波あわひょう松里まつざと」の表記ひょうきられる。奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ附属ふぞく博物館はくぶつかん展示てんじ

ひょう(こおり、ひょう)とは、古代こだい朝鮮ちょうせんおよび古代こだい日本にっぽんでの行政ぎょうせい区域くいき単位たんいである。日本にっぽんでは7世紀せいき後半こうはん各地かくちかれたが、701ねん以降いこうは「ぐん」にあらためられた。

日本書紀にほんしょき』は大化たいか改新かいしん(645ねん)のときぐん成立せいりつしたとしるすが、実際じっさいぐんもちいられるのは大宝たいほう律令りつりょう(701ねん制定せいてい以降いこうであり、それ以前いぜんひょう使つかっていた文書ぶんしょ木簡もっかんるい)がつかっている[1]

概要がいよう

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平安へいあん時代じだいかれた『すめらぎふと神宮じんぐう儀式ぎしきちょう[2]に「難波なんばちょう天下でんかりつひょう」という文言もんごん[3]があり、大化たいか改新かいしん直後ちょくご孝徳天皇こうとくてんのう時代じだいに「ひょう」という制度せいど導入どうにゅうされたとしるされており、発掘はっくつされた金石かねいしあやにも「ひょう」を使つかっているものがあることから、こうした事実じじつふるくからられてはいた。

ところが、『日本書紀にほんしょき』には一貫いっかんして「ぐん」と表記ひょうきされていた。これについて昭和しょうわ26ねん1951ねん)に井上いのうえ光貞みつさだ大化たいか改新かいしん導入どうにゅうされたのは「ひょう」だったというせつとなえ、これにたいして坂本さかもと太郎たろう日本書紀にほんしょきしるす「ぐん」こそが正式せいしき名称めいしょうで「ひょう」は字体じたいぎないとしてこれを否定ひていした。この両者りょうしゃによる論争ろんそう改新かいしんみことのり記事きじ信憑しんぴょうせいや『日本書紀にほんしょき編纂へんさん修飾しゅうしょくせつ原典げんてん史料しりょう表現ひょうげん編纂へんさん当時とうじ表現ひょうげんあらためた部分ぶぶんがあるという見解けんかい)などとからんでながあいだ議論ぎろんされてきた。

しかし、藤原ふじわらみやなどの発掘はっくつによって大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい以前いぜんかれた木簡もっかん表現ひょうげんすべて「ひょう」としるされており、ぎゃくに「ぐん表記ひょうきのものが存在そんざいしないことがあきらかとなった。このため、今日きょうでは大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい以前いぜんは「ひょう」と表現ひょうげんされる地方ちほう行政ぎょうせい組織そしき存在そんざいしたとかんがえられている。

その大宝たいほう律令りつりょう制定せいていによって「ひょう」は「ぐん」にあらためられることになるが、たん名前なまえわっただけではなく、そのさい統合とうごう分割ぶんかつなどのさい編成へんせいおこなわれていたともかんがえられている。

ただし、史料しりょうすくなく、その実態じったいについては諸説しょせつかれている。まず「たてひょう」(ひょう設置せっち時期じきについては『常陸ひたちこく風土記ふどき』のせつにより大化たいか5ねん649ねん)あるいはしろ4ねん653ねん)とかんがえられているが、全国ぜんこく一斉いっせいおこなわれたものなのか、地域ちいきがあったのかについて意見いけんかれている。因幡いなばこく豪族ごうぞく伊福部いふくべつたわる『伊福部いふくべ系図けいず』には、大化たいか2ねん646ねん)にはじめてみずひょう設置せっちされたという記述きじゅつ存在そんざいする。和気わけ系図けいずかず邇部系図けいず田島たじま系図けいず阿蘇あそ系図けいず金刺かなざし系図けいず尾張おわり系図けいず[4]千家せんげ系図けいず[5]土方ひじかたくん系図けいず[6]ひょうとく記述きじゅつがある。

また、従来じゅうらい国造くにのみやつこ廃止はいしあるいはそのままひょう移行いこうされたのか、それとも国造くにのみやつこなどの支配しはいぞくしていない朝廷ちょうてい支配しはい対象たいしょうとして導入どうにゅうされたのかについても意見いけんかれている。

さらに、木簡もっかん金石かねいしあやなどからひょう長官ちょうかんひょうとく(ひょうとく、こおりのかみ)・次官じかんじょとく(じょとく、こおりのすけ)をき、そのしたひょう(ひょうし、こおりのふひと)などの実務じつむかんがいたというかんがえが有力ゆうりょくだが、これとはべつに『常陸ひたちこく風土記ふどき』などにはひょうづくり(ひょうぞう、こおりのみやつこ)という呼称こしょう登場とうじょうする。これをひょうとくじょとく関連かんれんづけるせつ前身ぜんしんせつ総称そうしょうせつじょとくかれない小規模しょうきぼひょう長官ちょうかんしょくせつなど)や既存きそん国造くにのみやつこ関連かんれんづけるせつ後身こうしんせつひょうとく国造くにのみやつこ以外いがい有力ゆうりょく豪族ごうぞくせつなど)があり、統一とういつした見解けんかいされていない。

なお、中国ちゅうごく正史せいしには、高句麗こうくりに「うちひょうそとひょう」(『きた』・『ずいしょ』)、しんに「みがくひょう」(『はりしょ』)という地方ちほう行政ぎょうせい組織そしきがあったことがしるされており、『日本書紀にほんしょきつぎたい天皇てんのう24ねん530ねんじょうにもにんに「ひょう(せこおり)」という地名ちめい登場とうじょうすることから、新井あらい白石はくせき[7]ほんきょ宣長のりなが[8]白鳥庫吉しらとりくらきち[9]らは、「ひょう」というや「こほり(こおり)」というかた古代こだい朝鮮ちょうせん由来ゆらいするというせつとなえていた。また金沢かなざわ庄三郎しょうざぶろう日本語にほんご朝鮮ちょうせん同系どうけいであるとかんがえて「こおり」を「おおきなむら」という意味いみ古代こだい日本語にほんごというせつとなえている[10]。なお、さん国史こくし地名ちめい一覧いちらんには「ひょう」の地名ちめいはなく、高句麗こうくりの「ゆるがせ」が「こおり」にちかいとかんがえられている。

発掘はっくつ結果けっかから「ひょう」と表現ひょうげんされる地方ちほう行政ぎょうせい組織そしき存在そんざいしたとは確実かくじつであるが、『日本書紀にほんしょき』や『万葉集まんようしゅう』では一貫いっかんして「ぐん」となっており「ひょう」については一切いっさいしるされていない。『日本書紀にほんしょき』や『万葉集まんようしゅう』では故意こいに「ひょう」を「ぐん」にえてあることがあきらかになったがその目的もくてき理由りゆうについてはわかっていない。

八木やぎたかしは、飛鳥あすかきよしはられいひょうぐんとすることがさだまったが、きよしはられい一律いちりつ実施じっしされたものではない不完全ふかんぜんなものだったため、『万葉集まんようしゅう』に天皇てんのうを「大王だいおう」と表記ひょうきするれいられるのとおなじように、大宝たいほう律令りつりょうころまでひょう表記ひょうきのこったと主張しゅちょうした[11]

ひょうせい実施じっし

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ひょう」は、国造くにのみやつこのクニを分割ぶんかつ再編さいへんしながら、大化たいかしろ雉年あいだ(645~654ねんごろ)に全国ぜんこくてき実施じっしされたと推測すいそくされている。それまで国造くにのみやつこけんぬしだったり、部民ぶみんたむろくら管理かんりしていた地方ちほう豪族ごうぞくのうち、有力ゆうりょくしゃひょう(こおりのみやけ)をて、ひょうかんじんひょうづくりひょうとくじょとく)となった。

  • せん天皇てんのう3ねん(538ねん)、大伴おおともいわお大伴金村おおとものかなむらで、にん救援きゅうえんしたのち甲斐かいこく山梨やまなしひょうやまぜん邑に任地にんち(『古代こだい豪族ごうぞく系図けいず辞典じてん』)。
  • 永昌えいしょう元年がんねん(689ねん)、那須なす国造くにのみやつこひょうとくにんぜられた那須なすただしあしひさげ事績じせき息子むすこ意志いし麻呂まろらが顕彰けんしょうするためにいしぶみて、国宝こくほう那須なす国造くにのみやつことして現存げんそんする。
  • 藤原ふじわらきょう(694~710ねん)から「うえこくしゃひょう桃井ももいさとだいにえあゆ」としるされた荷札にふだとしてけられた木簡もっかんつかっている[12]
  • 九州きゅうしゅうでもひょうせい施行しこうされた。「筑前ちくぜんこく糟屋かすやひょう」はのちの糟屋かすやぐん(かすやぐん、文武ぶんぶ2ねん京都きょうと妙心寺みょうしんじかねめい)、「ころもひょう」は薩摩さつまこく頴娃えいぐん(えいぐん、『ぞく日本にっぽん文武ぶんぶ4ねんろくがつかのえたつじょう)か、「ひさ須評」はのちの豊後ぶんごこく玖珠くすぐん(くすぐん、大宰府だざいふ政庁せいちょうあと出土しゅつど木簡もっかん)、「日向ひゅうが国久くにひさひょう」は児湯こゆぐん(こゆぐん、藤原ふじわらきょうあと出土しゅつど木簡もっかんとうの、ぐんつながるひょうめいられる。「山部やまべひょう」「ゆたかひょう」(福岡ふくおか井尻いじりB遺跡いせき出土しゅつどかわら)などののち史料しりょうあらわれないぐんレベルの行政ぎょうせい単位たんいしるされたものもつかっている。
  • ひょうかんする最古さいこ史料しりょう法隆寺ほうりゅうじきゅうぞう金剛こんごう観音かんのん菩薩ぼさつぞう銘文めいぶんである。その銘文めいぶんちゅうに、からし亥年いどし(651ねんかさひょうくん大古おおこのためにみやつこぞうしたむねしるされている。
  • 奈良ならけん明日香あすかむら石神いしがみ遺跡いせき平成へいせい14ねん(2002ねん)にだい15調査ちょうさおこなわれた。7世紀せいき後半こうはんいけじょう遺構いこう東西とうざい大溝おおみぞから遺物いぶつとともに木簡もっかん出土しゅつどした。その木簡もっかんなかに、おつうしねん天智てんじ4ねん・665ねん)にくに - ひょう - じゅうじゅうは「さと」とみ、「さと」とおな意味いみ)の地方ちほう行政ぎょうせい組織そしき全国ぜんこくわたっていたことをしめすものがあった。
  • 藤原ふじわらみやあと出雲いずもこくちょうあと出土しゅつど木簡もっかんによると、出雲いずもひょうだてぬいひょう大原おおはらひょうなどの存在そんざいられる。『日本書紀にほんしょきひとしあかりねん(659ねん)に「於友ぐん」(おうぐん)とあるが、意宇いうぐん前身ぜんしんとしての於友ひょうのことで、ひょう制度せいど7世紀せいきなかばのはや段階だんかいかれていたことがかる。
  • 出雲いずもこくこくちょうあと推定すいていされている松江まつえ大草おおくさまちにあるろくしょ神社じんじゃ周辺しゅうへん発掘はっくつで、多数たすう遺構いこう遺物いぶつとともに「大原おおはらひょう磯部いそべやすし□」としるされた木簡もっかん出土しゅつどしている。
  • 奈良ならけん明日香あすかむら飛鳥ひちょう遺跡いせきから出土しゅつどした木簡もっかんに「吉備きびどう中国ちゅうごくよるひょうあしもりさとたわらろく□」としるされていた。この木簡もっかんには年紀としのりがないが、ばんいずる遺物いぶつから7世紀せいきまつのものと推測すいそくされる。そして「ひょう柞原くばらさと」としるされた木簡もっかん出土しゅつどしている。山陽さんよう地方ちほうにもひょうさとせい実施じっしされていたことがかる。
  • 隠岐おきこくひょうについては、飛鳥ひちょう藤原ふじわら平城京へいじょうきょうおくられた海産物かいさんぶつなどにけたひょうさと里名さとみょう負担ふたんしゃめい物品ぶっぴんめいなどの木簡もっかん多量たりょう発見はっけんされている。島前どうぜん知夫ちぶ(ちぶり)ひょううみひょう島後どうごつぎ(すき)ひょうころも(えち)ひょうかれた。
    • 知夫ちぶひょうぐん)をれいにとると、
      • ひょうせい(~701ねん)では、知夫ちぶひょう - ゆかりじゅう三田みたさと
      • ぐんさとせい(701~717ねん)では、知夫ちぶとぎぐん - 由良ゆらさと
      • ぐん郷里きょうりせい(717~740ねん)では、知夫ちぶぐん - 宇良うらきょう - 白浜しらはまさと由良ゆらきょうよしさと - 美祢みねさとだいゆいきょう - 前野まえのさと安吉やすよしさと
      • ぐんきょうせい(740~ねん)では、宇良うらきょう由良ゆらきょうよしさと大井おおいきょう
      • 和名わみょうしょう』では宇良うらきょう由良ゆらきょう三田みたきょう
のような編成へんせいだった[13]
  • ひょう柞原くばらさと」(かもひょう みはらのり)としるされた木簡もっかん奈良ならけん飛鳥あすか遺跡いせきから出土しゅつどし、山陽さんよう地方ちほうにもひょうせいさとせい実施じっしされていたことがかる。このひょうさとせいにややおくれて、7世紀せいきまつには安芸あきこく備後びんごこく誕生たんじょうした。
  • 藤原ふじわら平城ひらじろみやあと調しらべみつぎしんけた木簡もっかんがたくさん出土しゅつどしている。そのなかに山口やまぐちけんの「熊毛くまげひょう」としるされた木簡もっかんがみつかっている[14]
  • 飛鳥あすかいけ遺跡いせきからの出土しゅつど木簡もっかん伊予いよこくひょう(「ひょう伊波いは田人たびと葛木かつらぎとり」)・久米くめひょう藤原ふじわらみや出土しゅつど木簡もっかん宇和うわひょう(「宇和うわひょうしょうだいじゅく」)などとしるされていた[15]
  • 1999ねん平成へいせい11ねん)11月、大阪おおさか中央ちゅうおう前期ぜんき難波なんばみやあとから「つちのえさるねん」(648ねん)の紀年きねんめい木簡もっかんほかに「しんじんこくひょう」などの木簡もっかん出土しゅつどしている。この時期じきひょうはじめられたとかんがえられる[16]
  • 699ねん文武ぶんぶ3ねん)、ころもひょうとく(えのこおりのかみ)ころもくんけんらがこえじん(ひひと、九州きゅうしゅう西部せいぶ島嶼とうしょ人々ひとびと)をしたがえて覓国使(べっこくし、みなみ九州きゅうしゅうれいせいこく設置せっち南島なんとう開拓かいたくすすめるための朝廷ちょうていからの使つかい)をひょうげ却(ひょうきょう)する事件じけんこった。このことから7世紀せいきまつにはみなみ九州きゅうしゅうころもひょうというひょう設定せっていされていることがかる[17]
  • 播磨はりまこく風土記ふどき』「あな禾郡比治ひじさと」(しそうぐんひじのさと)のじょう難波なんば長柄ながらゆたかぜん天皇てんのう孝徳天皇こうとくてんのう)の御代みよ揖保いぼぐんあな禾郡とをけたとの記事きじがある。「ぐん」ではなく「ひょう」である。また、天智天皇てんぢてんのう庚午こうごねん(670ねん)やもちすべ天皇てんのうかのえとらねん(690ねん)に戸籍こせきさと整備せいびされていったとしるされている。くにひょうさと制度せいど次第しだい整備せいびされていったことがかる。飛鳥あすかいけ遺跡いせき藤原ふじわらみやあとなどから丹波たんばこく多紀たきぐんを「ひょう」、播磨はりまこく飾磨しかまぐんを「しむらあさひょう」、あなくりぐんを「あなぐりひょう」、神埼かんざきぐんを「神前しんぜんひょう」、揖保いぼぐんを「つぶひょう」としるしている木簡もっかんつかっている[18]

ひょう一覧いちらん

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木簡もっかん文献ぶんけん出土しゅつどかわらなどにおいて存在そんざい確認かくにんできるおもひょう以下いかにまとめる。

  • くにひょうぐん名称めいしょう表記ひょうきは、木簡もっかん文献ぶんけんによってことなることがある。
  • 国名こくめいおよぐんせい施行しこうぐんめいは、おおむ木簡もっかん奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ)にった。
  • 国名こくめいべつ表記ひょうきられる場合ばあい括弧かっこないしめした。
国名こくめい ひょうめい ぐんせい施行しこうぐんめい 備考びこう 典拠てんきょ
だい倭国わのくに倭国わのくに ところぬのひょう 添上そえかみぐん添下ぐん [1]
忍海おしみひょう 忍海おしみぐん [2]
高市たかいちひょう 高市たかいちぐん 富士大ふじだい宮司ぐうじ系図けいず
葛城かつらぎひょう かずら上郡かみごおり葛下かつしもぐん 望月もちづき系図けいず』『かみべつ系譜けいふ
阿久あく奈弥ひょう 「飽波ひょう」とも。平群へぐりぐん飽波きょう[19] せいくらいん絁幡残片ざんぺん墨書ぼくしょ[19]
法隆寺ほうりゅうじはためい[19]
やまこく 弟国おうぐにひょう 乙訓おとくにぐん 乙訓おとくにひょう」とも[注釈ちゅうしゃく 1] [3]
川内せんだいこく 川内かわうちひょう 河内かわちぐん [4]
石川いしかわひょう 石川いしかわぐん すめらぎたねこころざし
高安たかやすひょう 高安たかやすぐん [5]
丹比たんぴひょう 丹比たんぴぐん [6]
志貴しきひょう 志紀しきぐん 金剛こんごうじょう陀羅尼だらにけい写経しゃきょう
飛鳥あすかひょう 安宿やすやどぐん 鳥坂とりさか寺跡てらあと出土しゅつどせんこくひらかわら[20]
津国つのくに 三島みしまうえひょう 島上しまがみぐん 寺井てらい系図けいず
伊賀いがこく 奈波ひょう 名張なばりぐん [7]
伊勢いせこく 朝明あさけひょう 朝明あさけぐん あさ」の欠損けっそん [8]
やすいかひょう 安濃あのうぐん [9]
飯高いいたかひょう 飯高ひだかぐん [10]
いのししめいひょう 員弁いなべぐん [11]
河曲かまがりひょう 河曲かまがりぐん かわ」の欠損けっそん [12]
三重みえひょう 三重みえぐん [13]
飯野いいのひょう 飯野いいのぐん 大同だいどうほん逸文いつぶん
多気たきひょう 多気たきぐん 大同だいどうほん逸文いつぶん
度会わたらいひょう 度会わたらいぐん 大同だいどうほん逸文いつぶん
三川みかわこく あおひょう 碧海あおみぐん [14]
飽海あくみひょう 渥美あつみぐん [15]
かもひょう 賀茂かもぐん [16]
かくひょう 額田ぬかたぐん [17]
波豆はずひょう 幡豆はずぐん [18]
ひょう 宝飯ほいぐん [19]
尾張おわりこく治国ちこく うみひょう 海部かいふぐん [20]
としさかなひょう あいさとしぐん 尾張おわり宿やど田島たじま系譜けいふ
春部はるべひょう 春部はるべぐん [21]
尓破ひょう 丹羽たんばぐん 「尓皮ひょう」「ちかしなみひょう」とも。 [22][23]

鷲津わしづ系図けいず

知多ちたひょう さとしおおぐん 知田ちたひょう」とも。 [24][25]
羽栗はぐりひょう 葉栗はぐりぐん [26]
山田やまだひょう 山田やまだぐん [27]
とお水海みずうみこく あらたまひょう 麁玉ぐん [28]
ふちひょう じきさとしぐん [29]
長田ながたひょう 長上ちょうじょうぐん [30]
しろ飼評 しろ飼郡 きのかぶとひょう」とも。 土方ひじかた系図けいず
駿河するがこく たまりゅうかわひょう 駿河するがぐん [31]
伊豆いずこく かもひょう 賀茂かもぐん [32]
うれひょう 那賀なかぐん入間いるまきょううりりょうさと[21] [33]
甲斐かいこく 山梨やまなしひょう 山梨やまなしぐん 古屋ふるや系譜けいふ』『つじ文書ぶんしょ
无耶こころざしこく(无射こころざしこく たまひょう 多摩たまぐん 卜部うらべ系図けいず
なかひょう 那珂なかぐん [34]
横見よこみひょう 横見よこみぐん [35]
大里おおさとひょう 大里おおさとぐん 藤原ふじわらみやあと出土しゅつどかわらへん[22]
ぜんたまひょう 埼玉さいたまぐん まえ」の一部いちぶ欠損けっそん 藤原ふじわらみやあと出土しゅつどかわらへん[22]
荏原えばらひょう 荏原えばらぐん 无射こころざしこく荏原えばらひょうめい文字もじかわら[23]
うえ捄国 阿波あわひょう 安房あわぐん [36]
うまらいひょう もち陀郡 [37]
しも捄国 しるしひょう 印旛いんばぐん しるし国造くにのみやつこ系図けいず』『もん山家やまが系図けいず
常陸ひたちこく 石城せきじょうひょう 石城せきじょうぐん 常陸ひたちこく風土記ふどき
きん淡海たんかいこく 浅井あさいひょう 浅井あさいぐん 阿佐あさためひょう」とも。 [38][39]
伊香いかひょう 伊香いかぐん [40]
ころもともひょう あいさとしぐん [41]
栗太くりたひょう 栗太くりたぐん 小槻おおづく宿やど祢系
坂田さかたひょう 坂田さかたぐん [42]
やすひょう 野洲やすぐん [43]
三野みのこく 厚見あつみひょう 厚見あつみぐん [44]
安八あんぱちあさひょう 安八あんぱちぐん [45]
かたなささえひょう 土岐ときぐん [46]
大野おおのひょう 大野おおのぐん [47]
かく牟評 各務かがみぐん [48]
尓評 可児かにぐん [49]
ひょう 賀茂かもぐん [50]
不破ふわひょう 不破ふわぐん [51]
ひょう 武芸ぶげいぐん 「ム」は「牟」の異体いたい [52]
山方やまがたひょう 山県やまがたぐん [53]
こく 伊那いなひょう 伊那いなぐん 伊奈いなひょう」とも。 [54][55]
諏訪すわひょう 諏訪すわぐん 金刺かなざし系図けいず
うえこく くるまひょう 群馬ぐんまぐん [56]
大荒おおあらじょうひょう 邑楽おうらぐん 飛騨ひだこくあらぐすくぐんとのせつあり。 [57]
うすひょう 碓氷うすいぐん [58]
ひょう ぐん ためひょう」とも。 [59]うえ朝臣あそんせいせいがた家系かけい
下毛しもげこく かおるむべひょう 芳賀はがぐん [60]
奈須なすひょう 那須なすぐん [61]
若狭わかさこく 三方みかたひょう 三方みかたぐん さんかたちひょう」とも。 [62][63]
しょうひょう 遠敷おにゅうぐん [64]
えつこく高志こうしこく 与野よのひょう 江沼えぬまぐん 那谷なた金比羅山こんぴらさんかまあとぐん出土しゅつど須恵すえひらびんこくしょめい[24]
利波となみひょう 砺波となみぐん なみひょう」とも。 越中えっちゅう石黒いしぐろ系図けいず[65]
新川しんかわひょう 新川しんかわぐん [66]
にゅうひょう 丹生にゅうぐん [67]
だんなみこく わがひょう なに鹿しかぐん [68]
竹野たけのひょう 竹野たかのぐん [69]
加佐かさひょう 加佐かさぐん [70]
熊野くまのひょう 熊野くまのぐん [71]
あずかひょう 与謝よさぐん [72]
ひょう 多紀たきぐん [73]
二方ふたかたひょう 二方ふたかたぐん 但馬たじまこく所属しょぞく可能かのうせいあり。 [74]
因幡いなばこく みずひょう ほうぐん邑美ぐん のちこうくさひょう分割ぶんかつ 因幡いなばこく伊福部いふくべしん古志こし
こうくさひょう こうくさぐん [75]
なみはく吉国よしくに 川村かわむらひょう 河村かわむらぐん [76]
出雲いずもこく 出雲いずもひょう 出雲いずもぐん [77]
だてぬいひょう だてぬいぐん [78]
大原おおはらひょう 大原おおはらぐん [79]
神門ごうどひょう 神門ごうどぐん 木簡もっかん一部いちぶ欠損けっそん [80]
隠岐おきこく ひょう かくれぐん [81]
つぎひょう 周吉しゅうきちぐん [82]
うみひょう 海部かいふぐん [83]
知夫ちぶひょう 知夫ちぶぐん [84]
播磨はりまこく つぶひょう 揖保いぼぐん [85]
神前しんぜんひょう 神埼かんざきぐん [86]
宍粟しそうひょう 宍粟しさわぐん [87]
こころざしあさひょう 飾磨しかまぐん [88]
よしひょう 佐用さようぐん [89]
ひょう 賀茂かもぐん [90]
備前びぜんこく だいはくひょう 邑久おくぐん [91]
吉備きびどう中国ちゅうごく たまものひょう よるぐん ひょう」とも。 [92][93]
浅口あさくちひょう 浅口あさくちぐん [94]
小田おだひょう 小田おだぐん [95]
下道げどうひょう 下道げどうぐん [96]
こうひょう 後月しつきぐん [97]
備後びんごこく 神石じんせきひょう 神石じんせきぐん [98]
しゅうかたこく 佐波さわひょう 佐波さばぐん [99]
熊毛くまげひょう 熊毛くまげぐん 大隅おおすみこく熊毛くまげぐん可能かのうせいあり。 [100]
讃岐さぬきこく ひょう 多度たどぐん [101]
紀伊きいこく 氷高ひだかひょう 日高ひだかぐん ぞく日本にっぽん
阿波あわこく 板野いたのひょう 板野いたのぐん [102]
ちょうひょう 那賀なかぐん [103]
さんあいだひょう 美馬みまぐん [104]
あさふえひょう あさふえぐん [105]
伊予いよこくあまりこく 宇和うわひょう 宇和うわぐん 「汙和ひょう」とも。 [106][107]
風早かざはやひょう 風早かざはやぐん [108]
久米くめひょう 久米くめぐん [109]
ひょう 温泉おんせんぐん [110]
小市こいちひょう 越智おちぐん しょうせんひょう」とも。 河野こうの
竺志まえこく しまひょう 志麻しまぐん [111]
糟屋かすやひょう 糟屋かすやぐん 京都きょうと妙心寺みょうしんじかねめい[25]
よるひょう 夜須やすぐん [112]
豊後ぶんごこく ひさ須評 たまたまぐん [113]
日向ひなたこく ひさひょう 児湯こゆぐん [114]
ころもひょう 頴娃えいぐん ぞく日本にっぽん
肥後ひごこく 阿蘇あそひょう 阿蘇あそぐん 阿蘇あそ系図けいず
所属しょぞくこく不明ふめい かさひょう 丹後たんごこく加佐かさぐんもしくは備中びっちゅうこくかさ国造くにのみやつこ関連かんれん[26] 法隆寺ほうりゅうじきゅうぞう弥勒菩薩みろくぼさつぞうめい[26]
三野みのひょう 讃岐さぬきこく三野みのぐん石見いわみこく美濃みのぐん備前びぜんこくぐん候補こうほとなる。 [115]
やまひょう 「ア」は「」の異体いたい 福岡ふくおか井尻いじりB遺跡いせき出土しゅつどかわら[27]
ゆたかひょう 福岡ふくおか井尻いじりB遺跡いせき出土しゅつどかわら[27]
だいひょう [116]
えきひょう 駅家えきや前身ぜんしんすか。 [117]
うまひょう 伊予いよこく宇摩うまぐんあるいはえきひょう同義どうぎ駅家えきや前身ぜんしんか。 [118]
岡山おかやま県立けんりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう須恵すえ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 名称めいしょう不明ふめいろくにん部連ぶれん系図けいず記載きさい

出典しゅってん

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  1. ^ 昭和しょうわ42ねん1967ねん)12月、藤原ふじわらきょう北面ほくめん外濠そとぼりから「おのれとしじゅうがつうえ捄国阿波あわひょう松里まつざと□」(おのれ亥年いどし西暦せいれき699ねん)とかれた木簡もっかんされた。これにより、それまでのぐん評論ひょうろんそう決着けっちゃくけられたとともに、改新かいしんみことのり文書ぶんしょは『日本書紀にほんしょき』を編纂へんさんした奈良なら時代じだいえられたことが明白めいはくになった。「藤原ふじわらきょう出土しゅつど木簡もっかんが、ぐん評論ひょうろんそう決着けっちゃくさせる」木下きのした正史せいしちょ藤原ふじわらきょう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ 2003ねん 64ページ
  2. ^ 伊勢神宮いせじんぐう維持いじ運営うんえい担当たんとうしゃ伊勢大いせおおしん宮司ぐうじで、その官吏かんりとしての前身ぜんしんは、「かみ庤」(かんだち)とばれていた。それが孝徳天皇こうとくてんのう時代じだいに「御厨みくりや」(みくりや)とあらためられたという。神郡かんごおり行政ぎょうせい拠点きょてんてき施設しせつ御厨みくりやんだ。伊勢いせすめらぎふと神宮じんぐう内宮ないくう)の起源きげん組織そしき祭祀さいし」などをしるしたしょのべれき23ねん804ねんせん永原ながはらけい監修かんしゅう石上いしがみ英一ひでかずへん岩波いわなみ日本にっぽん歴史れきし辞典じてん岩波書店いわなみしょてん 1999ねん どうこうから
  3. ^ 難波なんば朝廷ちょうてい孝徳たかのりあさ)が天下てんかひょうてられたとき、(この地域ちいきでは)まず10さとけ、度会わたらい山田原やまだはらに「たむろくらて、新家にいのみれん阿久あく(にいのみのむらじあくた)といそれん牟良(いそのむらじむろ)をそれぞれとくりょうじょとくとした。またのこる10さとをもって、竹村たけむらおなじく「たむろくら」をて、あさぞくれんこう(おえのむらじ ひろせ)をとくりょうに、磯部いそべ真夜まよしゅ(いそべの まやて)をじょとくにつけた。」という記事きじ度会わたらい多岐たきりょうひょう創設そうせつ事情じじょうべると同時どうじに、孝徳たかのりあさにおける全国ぜんこくてきたてひょう実施じっしかたっている。駒田こまだ利治としはる古代こだい伊勢いせ伊賀いが志摩しま」 稲本いなもと紀昭のりあき駒田こまだ利治としはる勝山かつやま清次せいじ飯田いいだ良一りょういち上野うえの秀治しゅうじ西川にしかわひろし三重みえけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2000ねん 42ページ
  4. ^ 尾張おわり」『しょ系譜けいふ
  5. ^ 千家せんげ北島きたじま両家りょうけ」『しょ系譜けいふだいさつ
  6. ^ 静岡しずおかけん 資料しりょうへん 古代こだい
  7. ^ 新井あらい白石はくせきあずまみやび』1717ねん  まき3・ぐんぐんをコホリといひしは韓国かんこくげんしなり。即今そっこん朝鮮ちょうせんぞくぐんをもけんをも并にコホルといふはそくコホリのてんなり。」
  8. ^ ほんきょ宣長のりなが古事記こじきでん』1798ねん。「もととみうんいにしえよりありしにはず。新井あらいうんく『こほりはかんよりたり』とうんり。『いま朝鮮ちょうせんぐんけんをこほるとうん』とうんり。此説さもあるべし。しょつぎたいまき韓国かんこく地名ちめいくま備己富里とみさとまたひょううんあり。ひょうかれこく方言ほうげんにてぐんうんコホリとくんり。漢籍かんせきはりにも『しんぞく、其邑ざいない曰啄ひょう』とうんることあり。」 
  9. ^ 白鳥庫吉しらとりくらきち朝鮮ちょうせん古代こだい諸国しょこく名称めいしょうこう」『史学しがく雑誌ざっしだい6.7ごう、1895ねん 
  10. ^ 金沢かなざわ庄三郎しょうざぶろう郡村こおりむら語原ごげんいて」『国語こくご研究けんきゅう同文どうぶんかん、1910ねん、95-102ぺーじ 
  11. ^ 日本書紀にほんしょき研究けんきゅうかいへん日本書紀にほんしょき研究けんきゅう だい28さつ』(はなわ書房しょぼう、2013ねん
  12. ^ 松田まつだたけし関口せきぐち功一こういち国分寺こくぶんじのいらか 1 上野うえのこく誕生たんじょう西垣にしがきはる山本やまもと隆志たかしうし幸男ゆきおへん群馬ぐんまけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2003ねん11月 34ページ
  13. ^ 大日方おびなた克己かつみ古代こだい国家こっか展開てんかい出雲いずも石見いわみ隠岐おきさんこく」 松尾まつお寿ひさし田中たなか義昭よしあき渡辺わたなべ貞幸さだゆき大日方おびなた克己かつみ井上いのうえひろしたけえい三男みつお島根しまねけん歴史れきし』2005ねん 87ページのひょう
  14. ^ くらじゅう靖彦やすひこ古代こだいぼうちょう地方ちほう」 小川おがわ国治くにはるへん山口やまぐちけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1998ねん 66ページ
  15. ^ 寺内てらうちひろし古代こだい国家こっか伊予いよこく」 内田うちだ九州きゅうしゅうおとこ寺内てらうちひろしかわおかつとむ矢野やの達雄たつお愛媛えひめけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2003ねん 42ページ
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  17. ^ 永山ながやま修一しゅういち隼人はやと南島なんとう世界せかい 2律令りつりょう国家こっか隼人はやと南島なんとう」 原口はらぐちいずみ永山ながやま修一しゅういちにちくませいもり長尾ながお千歳ちとせみなむら武一たけいち鹿児島かごしまけん歴史れきし』2002ねん2がつ 42-43ページ
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参考さんこう資料しりょう

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  • 永原ながはらけい 監修かんしゅう岩波いわなみ日本にっぽん辞典じてん岩波書店いわなみしょてん、1999ねんISBN 4-00-080093-0
  • 稲本いなもと紀昭のりあき ちょ三重みえけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねんISBN 4-634-32240-4
  • 西垣にしがきはる ちょ群馬ぐんまけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねんISBN 4-634-32100-9
  • 松尾まつお寿ひさし ちょ島根しまねけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2005ねんISBN 4-634-32320-6
  • 小川おがわ国治くにはる へん山口やまぐちけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1998ねんISBN 4-634-32350-8
  • 内田うちだ九州きゅうしゅうおとこ ちょ愛媛えひめけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2003ねんISBN 4-634-32380-X
  • 石井いしいすすむ へん千葉ちばけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねんISBN 4-634-32120-3
  • 原口はらぐちいずみ ちょ鹿児島かごしまけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねんISBN 4-634-32460-1
  • 今井いまい修平しゅうへい へん兵庫ひょうごけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2004ねんISBN 4-634-32280-3

関連かんれん項目こうもく

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