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けんぬし

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けんぬし(あがたぬし)は、律令制りつりょうせい導入どうにゅうされる以前いぜんヤマト王権おうけん職種しょくしゅせい(かばね)のひとつである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

けんぬしは、国造くにのみやつこ(くにのみやつこ)やともづくり(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりもふるい「ヌシ」の称号しょうごうをもち、名代なだいだいせいよりもふるめかしい奉仕ほうし形態けいたいをとることから、3 - 4世紀せいき古墳こふん時代じだい初期しょき)に成立せいりつしたとかんがえられている[ちゅう 1]。「くに」が日本にっぽん氏姓しせいせい古代こだい国家こっか行政ぎょうせい目的もくてきつくられた行政ぎょうせい制度せいどであるのにたいし、「けん」は発生はっせい発展はってんがもっと自然しぜん性格せいかくをもつ[3]

記紀ききによると、神武じんむ東征とうせいにおいて神武じんむ天皇てんのう帰順きじゅんしたおとうと磯城しき磯城しきけんおもにんじたとえる(かみ武紀たけのり2ねん2がつおつじょう)。磯城しきけんは「延喜えんぎしきかみめいじょう磯城しき瑞籬みずがきみやげん桜井さくらい金屋かなや比定ひてい)を中心ちゅうしんとして設定せっていされたとかんがえられる。磯城しきけんぬし大王だいおうとの婚姻こんいん関係かんけいむすび、綏靖天皇てんのう以下いか6だいすめらぎれたとつたえられる。

こころざし倭人わじんでんあらわれる倭国わのくに国名こくめいのうち、北九州きたきゅうしゅうなどすくなくとも一部いちぶけんぬし比定ひていされるが関連かんれん不明ふめい

ヤマト王権おうけん直轄ちょっかつする地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんひとつにけん(あがた)があり、けん(あがた)は、くに下部かぶった行政ぎょうせい区分くぶんわれている。ただし、ふるくはくにけん同列どうれつあつかっていたとするせつもあり[ちゅう 2]ふるくはその地方ちほう豪族ごうぞくおさめていたしょう国家こっか範囲はんいであったとかんがえられる[ちゅう 3]。しかしながらその詳細しょうさい律令りつりょうこく整備せいびされるまえ行政ぎょうせい区分くぶんであるためはっきりとはしていない部分ぶぶんおおい。

けんぬしは、西日本にしにほん集中しゅうちゅうし、東日本ひがしにっぽんには比較的ひかくてきすくなかった[ちゅう 4]西日本にしにほんけんぬしおお設置せっちされた理由りゆうとして、ヤマト王権おうけん支配しはい確立かくりつする時期じきやまとけんいのち東征とうせい時代じだいおそかった東日本ひがしにっぽんたいし、ヤマト王権おうけん早期そうきであるたかしかみ天皇てんのうあさおおくの国造くにのみやつこ設置せっちした西日本にしにほんでは、豪族ごうぞく支配しはい地域ちいきをヤマト王権おうけん掌握しょうあくする支配しはい体制たいせい整備せいびはやくからおこなわれたためかんがえられる。なお畿内きないけんぬしたち神武じんむ天皇てんのうあさ早期そうきから設置せっちされたが、磯城しきけんぬし三輪みわぞく)、かずら城主じょうしゅ殿どのけんぬしかも)、うさぎ田縣たがたぬしのように先住せんじゅう氏族しぞくけんぬし任命にんめいしたものと、春日かすがけんぬし曾布けんぬしちゅうしん)のように神武じんむ東征とうせい随行ずいこうしゃけんぬし任命にんめいしたものがある。

はちしょくせい導入どうにゅう律令りつりょう制度せいど導入どうにゅうされたのちせい自体じたい存続そんぞくしていた。

近代きんだいでもけんぬし使つかわれているれいがあり、主要しゅようれい賀茂かも神社じんじゃ賀茂かもけんぬしなどがある。

語源ごげんせつ[編集へんしゅう]

  • 西岡にしおか秀雄ひでおアイヌ酋長しゅうちょうを「コタヌシパ」ということから、鼻音びおんとすと「アコタヌシ」となり、それがなまった結果けっかとして、アガタヌシがしょうじたというせつとなえている[6]
  • 語源ごげんがくではふるくから(後述こうじゅつしょ p.5)「上田うえだせつと「われせつ、つまり、「高所こうしょ」と「勢力せいりょくけん」のりょうせつがあるが、楠原くすはら佑介ゆうすけによれば、アガタの「タ」はではなく、「しょ=ト」のてんであるとかんがえられるとする[7]

備考びこう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ けんぬしせい成立せいりつ時期じき伝承でんしょううえ位置いちづけようとした場合ばあいたかしかみ天皇てんのう治世ちせい妥当だとうとみられ、祭政さいせい分離ぶんり時期じきであり、王権おうけん機構きこうととのえられていく過程かていけんぬし大和やまと豪族ごうぞくたち寄与きよされたとかんがえられる[1]上田うえだただしあきらは、3世紀せいき後半こうはんからけんせい大和やまと王権おうけん拡大かくだい過程かていの5、6世紀せいきにかけ、国造くにのみやつこせいわり、けん実質じっしつてき意味いみうしない、遺制いせいとなったとする[2]
  2. ^ 初期しょき主張しゅちょうとして、岩崎いわさき小弥太こやたの『みやつここう』のなかにおいて、けんぬし国造くにのみやつこ同様どうよう地方ちほうしょう領主りょうしゅで、明確めいかくではないとし、けん地方ちほうしょうくんちょう領域りょういきしめかたりであると規定きてい[4]井上いのうえ光貞みつさだも『国造くにのみやつこせい成立せいりつ』において、くに同列どうれつとした。
  3. ^ 井上いのうえ光貞みつさだの『国造くにのみやつこせい成立せいりつ』によれば、かつてはくに同列どうれつであったものが、のちにいずれかのくに編入へんにゅうされ、けん呼称こしょうされるにいたり、1、2世紀せいき時点じてんでは独立どくりつこくであったとする[3]
  4. ^ けんひがしげんは、関東かんとうから北陸ほくりくまでであり、東国とうごく経営けいえいが5世紀せいきはいってからさかんになることをかんがえれば、3世紀せいき後半こうはんから5世紀せいきにかけて大和やまと王権おうけん拡大かくだい過程かてい反映はんえいかんがえられる[5]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 新野しんの直吉なおきち 1974, p. 43.
  2. ^ 新野しんの直吉なおきち 1974, pp. 20–21.
  3. ^ a b 新野しんの直吉なおきち 1974, p. 28.
  4. ^ 新野しんの直吉なおきち 1974, p. 25.
  5. ^ 新野しんの直吉なおきち 1974, p. 30.
  6. ^ 大田おおた区立くりつ郷土きょうど博物館はくぶつかん 1995, p. 100.
  7. ^ 楠原くすはら佑介ゆうすけ古代こだい地名ちめい語源ごげん辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1981ねん。p.5.
  8. ^ 新野しんの直吉なおきち 1974, p. 17.
  9. ^ 楠原くすはら佑介ゆうすけ古代こだい地名ちめい語源ごげん辞典じてん』。p.5.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 井上いのうえ光貞みつさだ国造くにのみやつこせい成立せいりつ」『史学しがく雑誌ざっし』1951ねん11月。ISSN 00182478 
  • 大田おおた区立くりつ郷土きょうど博物館はくぶつかん へん武蔵むさし国造くにのみやつこらん : 考古学こうこがくむ『日本書紀にほんしょき』』東京とうきょう美術びじゅつ、1995ねんISBN 4-8087-0621-0 
  • 新野しんの直吉なおきち国造くにのみやつこ吉川弘文館よしかわこうぶんかん研究けんきゅう〉、1974ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73009133 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]