県 主
概要 [編集 ]
ヤマト
語源 説 [編集 ]
西岡 秀雄 はアイヌ語 で酋長 を「アンコタンヌシパ」ということから、鼻音 を落 とすと「アコタヌシ」となり、それが訛 った結果 として、アガタヌシが生 じたという説 を唱 えている[6]。語源 学 では古 くから(後述 書 p.5)「上田 」説 と「吾 田 」説 、つまり、「高所 の意 」と「勢力 圏 の意 」の両 説 があるが、楠原 佑介 によれば、アガタの「タ」は田 ではなく、「処 =ト」の転 であると考 えられるとする[7]。
備考 [編集 ]
新野 直吉 は「ミヤツコは朝廷 の官職 だが県 主 は違 う」という説 を唱 えた[8]。県 主 に関連 した地名 ・職名 として、「県守 (あがたもり)」があり、『和名 類聚 抄 』武蔵 国 橘 樹 郡 の郷 名 や『日本書紀 』仁徳天皇 67年 条 の吉備 中国 の川 鴨 河 県守 淵 に地名 起源 伝説 が記載 されている[9]。
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
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県 主 制 の成立 時期 を伝承 の上 に位置 づけようとした場合 、崇 神 天皇 の治世 が妥当 とみられ、祭政 分離 の時期 であり、王権 の機構 が整 えられていく過程 で県 主 が大和 の豪族 達 に寄与 されたと考 えられる[1]。上田 正 昭 は、3世紀 後半 から県 制 、大和 王権 の拡大 過程 の5、6世紀 にかけ、国造 制 に代 わり、県 は実質 的 な意味 を失 い、遺制 となったとする[2]。 - ^
初期 の主張 として、岩崎 小弥太 の『二 造 考 』の中 において、県 主 と国造 が同様 の地方 小 領主 で、差 は明確 ではないとし、県 を地方 小 君 長 の領域 を示 す語 であると規定 し[4]、井上 光貞 も『国造 制 の成立 』において、国 と同列 とした。 - ^
井上 光貞 の『国造 制 の成立 』によれば、かつては国 と同列 であったものが、後 にいずれかの国 に編入 され、県 と呼称 されるに至 り、1、2世紀 の時点 では独立 国 であったとする[3]。 - ^
県 の東 限 は、関東 から北陸 までであり、東国 経営 が5世紀 に入 ってから盛 んになることを考 えれば、3世紀 後半 から5世紀 にかけて大和 王権 拡大 の過程 の反映 と考 えられる[5]。
出典 [編集 ]
参考 文献 [編集 ]
井上 光貞 「国造 制 の成立 」『史学 雑誌 』1951年 11月。ISSN 00182478。大田 区立 郷土 博物館 編 『武蔵 国造 の乱 :考古学 で読 む『日本書紀 』』東京 美術 、1995年 。ISBN 4-8087-0621-0。新野 直吉 『国造 』吉川弘文館 〈研究 史 〉、1974年 。全国 書誌 番号 :73009133。