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上田うえだただしあきら

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上田うえだ ただしあきらうえだ まさあき
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1927-04-29) 1927ねん4がつ29にち
日本の旗 日本にっぽん兵庫ひょうごけん城崎きのさきぐん
死没しぼつ (2016-03-13) 2016ねん3月13にち(88さいぼつ
出身しゅっしんこう 國學院大學こくがくいんだいがく京都きょうと帝国ていこく大学だいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 歴史れきしがく(日本にっぽん古代こだい)
研究けんきゅう機関きかん 京都大学きょうとだいがく大阪女子大学おおさかじょしだいがく
指導しどう教員きょういん 折口おりぐち信夫しのぶ
おも受賞じゅしょうれき くんとう瑞宝章ずいほうしょう
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上田うえだ ただしあきら(うえだ まさあき、1927ねん4がつ29にち - 2016ねん3月13にち[1])は、日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ小幡おばた神社じんじゃ宮司ぐうじ歌人かじん専攻せんこう日本にっぽん古代こだい京都大学きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ大阪女子大学おおさかじょしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ西北せいほく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅくんとう瑞宝章ずいほうしょう修交しゅうこう勲章くんしょうたかしれいあきら韓国かんこく)、したがえよん[2]

経歴けいれき

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出生しゅっしょうから学生がくせい時代じだい

1927ねん兵庫ひょうごけん城崎きのさきぐん城崎きのさきまちげん豊岡とよおか)でまれた[1]中学生ちゅうがくせいに、小幡おばた神社じんじゃ京都きょうと亀岡かめおか)の社家しゃけ上田うえだ養子ようしとなり、ながじて大学だいがく時代じだいからどう神社じんじゃ宮司ぐうじつとめた[3]

中学ちゅうがく2年生ねんせいのとき、発売はつばい禁止きんしになっていた津田つだ左右吉そうきちの『古事記こじきおよ日本書紀にほんしょきしん研究けんきゅう』を教師きょうしからり、学校がっこうなら上代じょうだい学問がくもんとのちがいをかんじた[4]太平洋戦争たいへいようせんそうなかの1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ國學院大學こくがくいんだいがく専門せんもんはいり、折口おりぐち信夫しのぶらに師事しじした。在学ざいがくちゅう古書こしょてんから津田つだ著書ちょしょ入手にゅうしゅし、『古事記こじき』・『日本書紀にほんしょき』にたいする文献ぶんけん批判ひはん衝撃しょうげきけた。津田つだ実際じっさいうことはなかったが、つよ影響えいきょうけたという[5]終戦しゅうせんまで学徒がくと動員どういん東京とうきょう石川いしかわとう造船ぞうせんしょ[6]などではたらいた[7]

1947ねん総合そうごうてき文化ぶんかとなえた西田にしだただし二郎じろうあこがれて京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ史学しがく[8]入学にゅうがく。しかし、西田にしだ戦時せんじちゅう戦争せんそう協力きょうりょく理由りゆう公職こうしょく追放ついほうけて退職たいしょくしたため、指導しどうけることはできなかった[9]。1950ねん3がつ京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ史学しがく卒業そつぎょう卒業そつぎょう論文ろんぶんは「日本にっぽん古代こだいける氏族しぞく系譜けいふ成立せいりついて」であった。

大学だいがく卒業そつぎょう

卒業そつぎょうは、高等こうとう学校がっこう教員きょういんて、1963ねん10月に京都大学きょうとだいがく教養きょうよう助教授じょきょうじゅとなった[3]。 1971ねん3がつ京都きょうと大学だいがく教養きょうよう教授きょうじゅ昇格しょうかく[3]。1978ねん4がつより教養きょうよう部長ぶちょう(~1979ねん3がつ)、1983ねん4がつより京都大学きょうとだいがく埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい研究けんきゅうセンターちょう(~1985ねん4がつ)をつとめた。京都きょうと大学だいがく定年ていねん退職たいしょくし、名誉めいよ教授きょうじゅとなった。その大阪女子大学おおさかじょしだいがく教授きょうじゅとなり、1991ねんから1997ねんには大阪女子大学おおさかじょしだいがく学長がくちょうつとめた[3]

歌人かじんとしては、2001ねん歌会うたかいはじめ召人つとめた[3]2016ねん3月13にち死去しきょ

学外がくがいにおける役職やくしょく

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受賞じゅしょう栄典えいてん

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研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき

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日本にっぽん古代こだい第一人者だいいちにんしゃであり、その学問がくもん特徴とくちょうは、神話しんわがく民俗みんぞくがくなどに視野しやれ、ひろひがしアジアてき視野しやてんから歴史れきし究明きゅうめいするところにあった。

古代こだい日本にっぽんわたってた「渡来とらいじん」がこの名称めいしょう教科書きょうかしょ記載きさいされるようになったのは上田うえだ影響えいきょうである[3]上田うえだは1965ねん昭和しょうわ40ねんかん中公新書ちゅうこうしんしょ帰化きかじん』で、「帰化きか」は『日本書紀にほんしょき』の用語ようごで、『古事記こじき』『風土記ふどき』は「渡来とらい」あるいはおな意味いみで「らい」としるすことを指摘してきし、当時とうじ呼称こしょう実態じったいからは帰化きかじんではなく渡来とらいじんほうがよいと提唱ていしょうした[13]。このことで右翼うよくからの脅迫きょうはくけたこともあったが、渡来とらいじん用語ようご理解りかい急速きゅうそく定着ていちゃくした。読者どくしゃなかには当時とうじ皇太子こうたいしだったのち明仁あきひと上皇じょうこうもいた[14]。さらにこの上田うえだろんともに、「渡来とらいじん」に戦後せんご在日ざいにち朝鮮ちょうせんじんのイメージを投影とうえいするきむいたる寿ことぶき主張しゅちょうひろまったが、こうした上田うえだらによる「帰化きかじん」から「渡来とらいじん」へのいいかえについて、古代こだい学者がくしゃせきあきらは、「渡来とらい」ではただたん日本にっぽんただけという意味いみになり、帰化きか日本人にっぽんじん一員いちいんとなったという意味合いみあいがくなってしまうため学術がくじゅつ用語ようごとして不適切ふてきせつであることを指摘してきし、疑問ぎもんげかけ批判ひはんした[15]

朝鮮ちょうせん関連かんれん発言はつげん

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  • 朝鮮ちょうせん新報しんぽうによれば、明仁あきひと天皇てんのうが「桓武かんむ天皇てんのう生母せいぼ百済くだらたけやすしおう子孫しそんであるとぞく日本にっぽんしるされていることに韓国かんこくとのゆかりをかんじます」と2001ねん12月にべたことが話題わだいとなったが、すで1965ねん著書ちょしょでその可能かのうせいについて指摘してきしていた。当時とうじ右翼うよく団体だんたいにより「ちか天誅てんちゅうくわえる」「国賊こくぞく上田うえだ京大きょうだいれ」などの電話でんわ手紙てがみによるいやがらせをけた[16]
  • 歴史れきし教科書きょうかしょへの竹島たけしま記述きじゅつについて「するべきでない」とし、歴史れきし事実じじつ正確せいかく記述きじゅつすることが重要じゅうようで、理念りねんもとづいて歴史れきしかなくてはならないと主張しゅちょうした[17]
  • 八木やぎ晃介こうすけ水野みずの直樹なおきらと一緒いっしょに「朝鮮ちょうせん学校がっこうささえるかい」のびかけにんとなっている[18]
  • 2010ねん韓国かんこく国立こくりつ中央ちゅうおう博物館はくぶつかんで「だんくん建国けんこく神話しんわは、日本にっぽん建国けんこく神話しんわ母胎ぼたい」とだいした学術がくじゅつ会議かいぎまえ論文ろんぶん事前じぜん公開こうかいされたさいに、にちかん天孫てんそん文化ぶんかには、山頂さんちょう降臨こうりんするてんなどをはじめ、共通きょうつうてん類似るいじてんおおいとし、さまざまな事実じじつ検証けんしょうした結果けっか百済くだらかみ存在そんざいが、日本にっぽん継続けいぞくてき命脈めいみゃくいできたという結論けつろんいたったと主張しゅちょうした[19]。また、天孫てんそん降臨こうりんしたみねのクシフルは明確めいかく古代こだい朝鮮ちょうせん関連かんれんがあり、ソホリほう朝鮮ちょうせんのソウル、ソフル、ソブルなど王道おうどう名称めいしょうから由来ゆらいしたとし、日本語にほんご成立せいりつ全部ぜんぶ朝鮮ちょうせんから解釈かいしゃくしようとする見解けんかいには賛成さんせいできないが、天孫てんそん降臨こうりん神話しんわ朝鮮ちょうせん神話しんわ共通きょうつう要素ようそがあることはだれでもみとめざるをえないと主張しゅちょうした[20]
  • 1974ねんこうふとしおう拓本たくほん北京ぺきん入手にゅうしゅし、改竄かいざんあといとべる。
  • 従来じゅうらい大陸たいりく文化ぶんか九州きゅうしゅうから日本にっぽんはいったとかんがえられてきたが、日本海にほんかいがわかく地域ちいき独自どくじ朝鮮半島ちょうせんはんとうとの交易こうえきルートがあり、出雲いずも若狭わかさ能登のとなどとの多元たげん往来おうらいろんとなえる。

人物じんぶつ交遊こうゆう

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門下生もんかせい

著作ちょさく

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著書ちょしょ
  1. だい1かん古代こだい国家こっかろん
  2. だい2かん古代こだい国家こっかひがしアジア』
  3. だい3かん古代こだい国家こっか宗教しゅうきょう
  4. だい4かん日本にっぽん神話しんわろん
  5. だい5かんひがしアジアと海上かいじょうみち
  6. だい6かん人権じんけん文化ぶんか創造そうぞう
  7. だい7かん歴史れきし人物じんぶつ
  8. だい8かん古代こだいがく展開てんかい
  • 論究ろんきゅう古代こだいひがしアジア』岩波書店いわなみしょてん 1998
  • こうがく・アジアのなか日本にっぽん古代こだい朝日あさひ選書せんしょ 1999
  • 歌集かしゅう 共生きょうせい大和やまと書房しょぼう 2001
  • 半島はんとう列島れっとう接点せってん探求たんきゅうあおたかし文化ぶんかしゃ 2002
  • 古代こだい日本にっぽんかがやき』思文閣出版しぶんかくしゅっぱん 2003
  • 日本にっぽん文化ぶんか基層きそう研究けんきゅう学生がくせいしゃ 2003
  • 歴史れきしのなかの人権じんけん明石書店あかししょてん 2006
  • 歴史れきしまなぶ』学生がくせいしゃ 2006
  • 古代こだい日本にっぽんのこころとかたち』角川かどかわ叢書そうしょ 2006
  • 歌集かしゅう 鎮魂ちんこん大和やまと書房しょぼう 2006
  • 日本人にっぽんじんの“たましい”の起源きげん情報じょうほうセンター出版しゅっぱんきょく 2008
  • 日本人にっぽんじんのこころ』学生がくせいしゃ 2008
  • 歴史れきし人間にんげんさい発見はっけん藤原ふじわら書店しょてん 2009
  • たましい!! めざめよ!』学生がくせいしゃ 2009
  • ひがしアジアのなか日本にっぽん思文閣出版しぶんかくしゅっぱん 2009
  • 大和やまとたび角川かどかわ選書せんしょ 2010
  • 古代こだい国家こっかひがしアジア やまとおうから平城京へいじょうきょう平安京へいあんきょうへ』角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん 2010
  • 倭国わのくにから日本にっぽんこく天武てんむもちすべあさぶんえいどう[しん古代こだい検証けんしょう日本にっぽんこく誕生たんじょう5] 2010
  • 雨森あめのもり芳洲ほうしゅう かたみあざむかず真実しんじつもっまじこうミネルみねるァ書房ぁしょぼう日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉2011
  • 『アジアのなかの日本にっぽんさい発見はっけんミネルみねるァ書房ぁしょぼう:シリーズ「自伝じでん」2011
  • をみつめてきる 日本人にっぽんじん自然しぜんかん死生しせいかん角川かどかわ選書せんしょ 2012
  • わたし日本にっぽん古代こだい じょう 天皇てんのうとはなにものか-縄文じょうもんからやまとおうまで』新潮しんちょう選書せんしょ 2012
  • わたし日本にっぽん古代こだい 古事記こじき』は偽書ぎしょか-つぎたいあさから律令りつりょう国家こっか成立せいりつまで』新潮しんちょう選書せんしょ 2012
  • 渡来とらい古代こだい こくのかたちをつくったのはだれか』角川かどかわ選書せんしょ 2013
  • 古社ふるやしろ巡拝じゅんぱい: わたしのこころのかみ々』学生がくせいしゃ 2013
  • もりかみ日本人にっぽんじん藤原ふじわら書店しょてん 2013
  • 『「大和魂やまとだましい」のさい発見はっけん 日本にっぽんひがしアジアの共生きょうせい藤原ふじわら書店しょてん 2014
  • 日本にっぽん古代こだいをいかにまなぶか』新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう選書せんしょ〉、2014ねん 
  • 『「ともみ」の思想しそう--人権じんけん世紀せいきをめざして』明石書店あかししょてん 2015
  • 古代こだい日本にっぽんひがしアジアのしん研究けんきゅう藤原ふじわら書店しょてん 2015[23]
  • 古代こだい研究けんきゅうななじゅうねん背景はいけい藤原ふじわら書店しょてん 2016(遺著いちょ
共著きょうちょ編著へんちょ
CD
記念きねん論集ろんしゅう
  • 古代こだい探究たんきゅう上田うえだただしあきら先生せんせい華甲かこう記念きねんかいへん, 学生がくせいしゃ 1988

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 訃報ふほう 上田うえだただしあきらさん88さい京都大きょうとだい名誉めいよ教授きょうじゅ歴史れきし学者がくしゃ 毎日新聞まいにちしんぶん 2016ねん3がつ13にち
  2. ^ 平成へいせい28ねん4がつ18にち官報かんぽう
  3. ^ a b c d e f g 上田うえだただしあきら死去しきょ 88さい古代こだい研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃ(2016ねん3がつ13にち)、日本経済新聞にほんけいざいしんぶん、2016ねん3がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ 日本にっぽん古代こだいをいかにまなぶか』, p. 9.
  5. ^ 日本にっぽん古代こだいをいかにまなぶか』, p. 10.
  6. ^ IHI前身ぜんしんひとつ。
  7. ^ 日本にっぽん古代こだいをいかにまなぶか』, p. 238.
  8. ^ 同年どうねん10がつ京都大学きょうとだいがく改称かいしょうした。
  9. ^ 日本にっぽん古代こだいをいかにまなぶか』, pp. 10, 38–39.
  10. ^ 古代こだい学者がくしゃ上田うえだただしあきらさん死去しきょ 京大きょうだい名誉めいよ教授きょうじゅ. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル. (2016ねん3がつ13にち). https://www.asahi.com/articles/ASJ3F61W7J3FPTFC006.html 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん  アーカイブ 2016ねん3がつ14にち - ウェイバックマシン
  11. ^ だい1かいだい10かい南方みなかた熊楠くまぐすしょう受賞じゅしょうしゃ”. 南方みなかた熊楠くまぐす顕彰けんしょうかん. 2022ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  12. ^ 亀岡かめおか名誉めいよ市民しみんのご紹介しょうかい”. 亀岡かめおか. 2022ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  13. ^ 日本にっぽん古代こだいをいかにまなぶか』, p. 188.
  14. ^ 日本にっぽん古代こだいをいかにまなぶか』, p. 189.
  15. ^ 国史こくしだい辞典じてん』「帰化きかじん」のこう執筆しっぴつしゃ せきあきら
  16. ^ 平和へいわをつむぐ人々ひとびと-歴史れきしねがい-(1)〉朝鮮ちょうせんかんをゆがめたのはだれ”. 朝鮮ちょうせん新報しんぽう (2008ねん5がつ30にち). 2022ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  17. ^ 天皇てんのう過去かこ戦争せんそうについて反省はんせいしている」(2)”. 中央日報ちゅうおうにっぽう(2010.01.11の魚拓ぎょたく). 2010ねん10がつ3にち閲覧えつらん
  18. ^ 朝鮮ちょうせん学校がっこうささえるかい京滋けいじ”. サロン吉田山よしだやま. 2010ねん10がつ3にち閲覧えつらん[リンク]
  19. ^ 日本にっぽん神話しんわ韓国かんこく起源きげん日本にっぽん学者がくしゃみとめた!―韓国かんこくメディア”. サーチナ(魚拓ぎょたく). 2010ねん10がつ3にち閲覧えつらん
  20. ^ 내달 4일 한ㆍ일 개국신화 국제학술회의”. 2010ねん10がつ3にち閲覧えつらん
  21. ^ 上田うえだただしあきら高麗こうらい美術館びじゅつかん開催かいさいのご案内あんない 高麗こうらい美術館びじゅつかん、2017ねん3がつ26にち
  22. ^ a b 早瀬はやせ圭一けいいち (2007). 大本おおもと襲撃しゅうげき 出口いでぐちすみとその時代じだい. 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ. pp. 244-5, 252-4 
  23. ^ 遺作いさく論文ろんぶんとなった。