山本やまもと達雄たつお (政治せいじ)

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山本やまもと達雄たつお
山本やまもと達雄たつお(1929ねんごろ
生年月日せいねんがっぴ (1856-04-07) 1856ねん4がつ7にち
出生しゅっしょう 豊後ぶんごこく海部かいふぐん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1947-11-12) 1947ねん11月12にち(91さいぼつ
出身しゅっしんこう 三菱みつびし商業しょうぎょう学校がっこう
ぜんしょく 銀行ぎんこういえ
所属しょぞく政党せいとう 立憲りっけん政友せいゆうかい政友せいゆうほんとう立憲りっけん民政みんせいとう
称号しょうごう せい勲一等くんいっとう男爵だんしゃく
配偶はいぐうしゃ たから

内閣ないかく だい2西園寺さいおんじ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1911ねん8がつ30にち - 1912ねん12月21にち

内閣ないかく だい1山本やまもと内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1913ねん2がつ20日はつか - 1914ねん4がつ16にち

大日本帝国の旗 だい28だいのう商務しょうむ大臣だいじん
内閣ないかく 原内はらうちかく
高橋たかはし内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1918ねん9月29にち - 1922ねん6月12にち

内閣ないかく 齋藤さいとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1932ねん5月26にち - 1934ねん7がつ8にち

大日本帝国の旗 だい5だい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい
在任ざいにん期間きかん 1898ねん10がつ20日はつか - 1903ねん10月19にち

その職歴しょくれき
大日本帝国の旗 貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん
1903ねん11月20にち - 1947ねん5月2にち
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勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう佩用はいようした山本やまもと達雄たつお

山本やまもと 達雄たつお(やまもと たつお、安政あんせい3ねん3月3にち1856ねん4がつ7にち) - 1947ねん昭和しょうわ22ねん11月12にち)は、明治めいじ後期こうきから戦前せんぜん昭和しょうわ日本にっぽん銀行ぎんこういえ政治せいじ。43さいだい5だい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい就任しゅうにん政界せいかいてんじて貴族きぞくいん議員ぎいん日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう総裁そうさい大蔵おおくら大臣だいじんのう商務しょうむ大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん立憲りっけん民政みんせいとう最高さいこう顧問こもん歴任れきにんした。政界せいかい長老ちょうろうてき存在そんざい[1]

位階いかいせい勲等くんとう勲一等くんいっとう爵位しゃくい男爵だんしゃくごうたけけい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

豊後ぶんごこく臼杵うすき藩士はんし山本やまもとかく次男じなんとして現在げんざい大分おおいたけん臼杵きゅうしょまれる。藩校はんこうがく古館ふるたてまな文武ぶんぶひいで13さい宗家そうけ養嗣子ようししとなるが、実家じっか養家ようかともにまずしく、内職ないしょく家計かけいささえた。さら廃藩置県はいはんちけんちをかけることとなる。17さい大阪おおさかて3年間ねんかん小学校しょうがっこう教師きょうしをしながら学資がくしかせぎ、東京とうきょう慶應義塾けいおうぎじゅく福澤ふくさわ諭吉ゆきちまなぶが、月謝げっしゃはらうことが出来できなかったため慶應義塾けいおうぎじゅくまなんだ期間きかんみじかかった[2]。そこで当時とうじ三菱みつびし財閥ざいばつ経営けいえいしていた明治めいじじゅく三菱みつびし商業しょうぎょう学校がっこう)に転校てんこうし、じょきょうつとめながら学資がくしかせぎ、かろうじて卒業そつぎょうした[3]卒業そつぎょう岡山おかやま県立けんりつ商法しょうほう講習こうしゅうしょ教頭きょうとうになったが、政治せいじ批判ひはんかいなどを開催かいさい問題もんだいこし、大阪おおさか商業しょうぎょう講習こうしゅうしょ教頭きょうとう転任てんにんせざるをえなくなり、そこで教頭きょうとうとして1ねんつとめたがここでも問題もんだいこし、三菱みつびし商業しょうぎょう学校がっこう卒業そつぎょうした関係かんけいから1883ねん明治めいじ16ねん)に郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃ日本郵船にっぽんゆうせん)にはいった[3]。 そこで川田かわた小一郎こいちろうより才能さいのうみとめられて幹部かんぶ候補こうほせいとなって各地かくち支店してんふく支配人しはいにん歴任れきにんする[4]

1890ねん明治めいじ23ねん)、当時とうじ総裁そうさいであった川田かわた要請ようせいによって35さい日本銀行にっぽんぎんこう入行にゅうこうする。1895ねん明治めいじ28ねん)には、川田かわたいのちにより横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう取締役とりしまりやくおくまれた。さら1896ねん明治めいじ29ねん)4がつには金本位きんほんいせい実施じっしのための準備じゅんびのためにロンドン派遣はけんされ、さら翌年よくねんにはロンドン滞在たいざいちゅうのまま、日本銀行にっぽんぎんこう理事りじ任命にんめいされた。ところが、1898ねん明治めいじ31ねん)10がつ日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい岩崎いわさき弥之助やのすけ辞任じにんすると、山本やまもと突如とつじょ日本にっぽんもどされてだい5だい総裁そうさいにんじられたのである。日本にっぽん銀行ぎんこうはいってから8ねんの43さいのことであった。

総裁そうさい就任しゅうにんした山本やまもとは、当時とうじ日本にっぽん経済けいざい過熱かねつ気味ぎみ正貨せいか流出りゅうしゅつ危惧きぐがあり、また政府せいふから日本銀行にっぽんぎんこうたいする融資ゆうし要請ようせい相次あいついだために、山本やまもと金融きんゆう引締ひきしめと政府せいふ赤字あかじ財政ざいせい体質たいしつ改善かいぜん要求ようきゅうして政府せいふはげしい反発はんぱつった。政府せいふ山本やまもと圧力あつりょくくわえたが、山本やまもとは「日本銀行にっぽんぎんこう主体性しゅたいせい」をとなえてこれをこばんだ。だが、私学しがく出身しゅっしん中途ちゅうと採用さいよう入行にゅうこう8ねん山本やまもと総裁そうさい誕生たんじょうたいする日銀にちぎん内部ないぶ反感はんかん根強ねづよく、また山本やまもと自身じしん一徹いってつしゃであったために就任しゅうにんからわずか4ヶ月かげつ幹部かんぶにあたる支店してんちょう局長きょくちょう理事りじ大半たいはんにあたる11めい辞表じひょう提出ていしゅつして山本やまもと失脚しっきゃくくわだてた。だが、山本やまもとはすぐに辞表じひょう受理じゅりしてただちに人事じんじ刷新さっしんはかった。これには内外ないがい騒然そうぜんとしたが、伊藤いとう博文ひろぶみ山縣やまがた有朋ありともらは山本やまもと方針ほうしんみとめたために、山本やまもとはそのまま任期にんきれをむかえる1903ねん明治めいじ36ねん)まで総裁そうさい続投ぞくとうした[5]日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい退任たいにんの1903ねん11月20にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんとなり[6]1909ねん明治めいじ42ねん)には日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう総裁そうさい就任しゅうにんした。

その運命うんめいおおきくえたのが、1911ねん明治めいじ44ねん)に成立せいりつしただい2西園寺さいおんじ内閣ないかくにおいて西園寺さいおんじ公望きんもち総理そうりわれて、財界ざいかいからのはつ大蔵おおくら大臣だいじんとして入閣にゅうかくしたことであった。健全けんぜん財政ざいせい主義しゅぎほうじてにち戦争せんそう財政ざいせいなおしを持論じろんとしていた山本やまもと当時とうじ軍部ぐんぶによる軍拡ぐんかく批判ひはんてきであり、師団しだん増設ぞうせつ問題もんだいめぐって陸軍りくぐん衝突しょうとつして内閣ないかくそう辞職じしょく原因げんいんつくった。だが、以後いご山本やまもと西園寺さいおんじ立憲りっけん政友せいゆうかいとの関係かんけいつよめ、大正たいしょう政変せいへんだい1山本やまもと内閣ないかくでは政友せいゆうかい推挙すいきょのう商務しょうむ大臣だいじん就任しゅうにんして、山本やまもとの2だい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさいであった高橋たかはし是清これきよ大蔵おおくら大臣だいじんとともに財政ざいせい再建さいけんにあたるが、シーメンス事件じけんこころざしなかばで挫折ざせつする。こののう商務しょうむ大臣だいじん在任ざいにんちゅう正式せいしき政友せいゆうかい入党にゅうとうした。政友せいゆうかいによる本格ほんかくてき政党せいとうないかくである原内はらうちかくにおいても再度さいどのう商務しょうむ大臣だいじんつとめた。ところが、このころより積極せっきょく財政ざいせい主義しゅぎ高橋たかはし健全けんぜん財政ざいせい主義しゅぎ山本やまもとあいだ意見いけん対立たいりつ目立めだつようになった。この傾向けいこうはらたかし総理そうり暗殺あんさつされて閣僚かくりょうはそのままで高橋たかはし政友せいゆうかい総裁そうさいとして高橋たかはし内閣ないかくひきいるようになってから一層いっそう拍車はくしゃをかけた。そのころはら後継こうけいしゃとして台頭たいとうしてきたのは横田よこたせんこれすけ床次とこなみ竹二郎たけじろう2人ふたりであったが、横田よこた高橋たかはしささえる路線ろせんったため、これに不満ふまんいだ山本やまもと床次とこなみ自然しぜん接近せっきんするようになる。

1925ねん大正たいしょう14ねん)、だい2護憲ごけん運動うんどうへの政友せいゆうかい参加さんか問題もんだいめぐって、参加さんか反対はんたいする床次とこなみ政友せいゆうかい離脱りだつした。山本やまもともこれに同調どうちょうし、中橋なかはし徳五郎とくごろう元田もとだはじめ鳩山はとやま一郎いちろうらもくわわって政友せいゆうほんとう結成けっせいした。だが、政友せいゆうほんとう国民こくみん支持しじられずに勢力せいりょく減退げんたい、また路線ろせん対立たいりつから中橋なかはし鳩山はとやま元田げんだらは次々つぎつぎ政友せいゆうかい復帰ふっきした。昭和しょうわ2ねん1927ねん)、政友せいゆうほんとう憲政けんせいかい合同ごうどうして立憲りっけん民政みんせいとう結成けっせい山本やまもと床次とこなみとともに最高さいこう顧問こもん就任しゅうにんした。だが、床次とこなみもまた政友せいゆうかいふくとうしてしまい、きゅう政友せいゆうほんとう幹部かんぶ山本やまもとだけが民政みんせいとうのこされることになったが、山本やまもと1940ねん昭和しょうわ15ねん)の大政たいせい翼賛よくさんかい結成けっせいによる民政みんせいとう解党かいとうまでどうとうぞくすることになった。

濱口はまぐち雄幸ゆうこう遭難そうなん事件じけんには、仙石せんごくみつぐ濱口はまぐちと3にん会談かいだんち、濱口はまぐちから総裁そうさい後任こうにんけること、場合ばあいによっては総理そうり大臣だいじん大命たいめいはいすることを懇請こんせいされた。しかし山本やまもとはこれを固辞こじして承諾しょうだくせず、江木えぎつばさ安達あだち謙蔵けんぞう相談そうだんうえ若槻わかつき禮次郎れいじろうふたた総理そうり大臣だいじんとなった。いち事件じけんのち成立せいりつした斎藤さいとう内閣ないかくでは、民政みんせいとう代表だいひょうするかたち内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんした。よく1933ねん昭和しょうわ8ねん)にはゴーストップ事件じけん発生はっせいし、陸軍りくぐん内務省ないむしょう対立たいりつ発展はってんしたが、山本やまもといちゆずらなかった。

山本やまもともと警視総監けいしそうかん東京とうきょう市長しちょう伊沢いさわ多喜男たきお進言しんげんしたがって官僚かんりょう身分みぶん保障ほしょう規定きてい文官ぶんかん任用にんようれい11じょう)の復活ふっかつおこなって政党せいとう内務ないむ官僚かんりょう関係かんけいろうとした。だが、内務ないむ官僚かんりょう出身しゅっしん農林のうりん大臣だいじん後藤ごとう文夫ふみお画策かくさくする選挙せんきょ粛正しゅくせい運動うんどうには政務次官せいむじかん斎藤さいとう隆夫たかお前述ぜんじゅつ伊沢いさわとともにつよ反対はんたいした。だが、軍部ぐんぶ政治せいじ介入かいにゅう進行しんこう民政みんせいとう解党かいとうによって政治せいじてき基盤きばんうしなった山本やまもと政治せいじてき発言はつげんりょく次第しだいうしなわれていき、太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんとそれにつづ日本国にっぽんこく憲法けんぽう公布こうふともな貴族きぞくいん爵位しゃくい廃止はいしといったながれを「政界せいかい長老ちょうろう」としてをこまねいてているだけであった。貴族きぞくいん議員ぎいん地位ちいうしなって半年はんとしに92さい死亡しぼうした。墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1ロ-1-6-4)

昭和しょうわ4ねんから昭和しょうわ16ねんまで慶應義塾けいおうぎじゅく評議ひょうぎいんかい会長かいちょうつとめた。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 山本やまもと達雄たつお(やまもと たつお)とは - コトバンク
  2. ^ 吉野よしの俊彦としひこ歴代れきだい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさいろん
  3. ^ a b 吉野よしの俊彦としひこ歴代れきだい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさいろん
  4. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、506ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  5. ^ 日銀にちぎん幹部かんぶストライキ事件じけん」にかんしては「植村うえむら俊平しゅんぺい」の項目こうもく参照さんしょう
  6. ^ 官報かんぽうだい6118ごう明治めいじ36ねん11月21にち
  7. ^ 官報かんぽうだい5077ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん6がつ7にち
  8. ^ 官報かんぽうだい8462ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん9がつ4にち
  9. ^ 官報かんぽうだい396ごう叙任じょにん及辞れい」1913ねん11月22にち
  10. ^ 官報かんぽうだい5295ごう叙任じょにん及辞れい」1944ねん9がつ6にち
  11. ^ 官報かんぽうだい5848ごう叙任じょにん及辞れい」1902ねん12月29にち
  12. ^ 官報かんぽうだい124ごう叙任じょにん及辞れい」1912ねん12月27にち
  13. ^ 官報かんぽうだい1218ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん8がつ21にち
  14. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅう勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん(戦前せんぜん)
  15. ^ a b 官報かんぽうだい2431ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1920ねん9がつ8にち
  16. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい」1922ねん2がつ14にち
  17. ^ 官報かんぽうだい3717ごう宮廷きゅうていろくごと - 恩賜おんし」1925ねん1がつ15にち
  18. ^ 官報かんぽうだい2879ごう叙任じょにん及辞れい」1936ねん8がつ6にち
  19. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1938ねん2がつ11にち
  20. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  21. ^ 官報かんぽうだい5398ごう宮廷きゅうていろくごと」1945ねん1がつ16にち
  22. ^ 官報かんぽうだい506ごう叙任じょにん及辞れい」1914ねん4がつ9にち
  23. ^ かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかんかすみ会館かいかん、1996ねん、428ぺーじ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
鈴木すずき喜三郎きさぶろう
大日本帝国の旗 内務ないむ大臣だいじん
だい52だい:1932 - 1934
次代じだい
後藤ごとう文夫ふみお
先代せんだい
なか小路しょうじれん
なか小路しょうじれん
大日本帝国の旗 のう商務しょうむ大臣だいじん
だい25だい:1913 - 1914
だい29だい:1918 - 1922
次代じだい
大浦おおうら兼武かねたけ
荒井あらい賢太郎けんたろう
先代せんだい
かつら太郎たろう
大日本帝国の旗 大蔵おおくら大臣だいじん
だい14だい:1911 - 1912
次代じだい
若槻わかつき禮次郎れいじろう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
山本やまもと達雄たつお初代しょだい
1920ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし