デジタル大辞泉だいじせん 「山本やまもと達雄たつお」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご やまもと‐たつお〔‐タツを〕【山本やまもと達雄たつお】 [1856~1947]実業じつぎょう家か・政治せいじ家か。豊後ぶんごぶんごの人ひと。川田かわた小一郎こいちろうに招まねかれ日本銀行にっぽんぎんこうに入行にゅうこう。金本位きんほんい制度せいど実施じっしなどに尽力じんりょくし、のち総裁そうさいに就任しゅうにん。退任たいにん後ごは大蔵おおくら大臣だいじん・農のう商務しょうむ大臣だいじん・内務ないむ大臣だいじんなどを歴任れきにんした。 出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「山本やまもと達雄たつお」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 山本やまもと達雄たつおやまもとたつお(1856―1947) 実業じつぎょう家か、政治せいじ家か。豊後ぶんご(ぶんご)(大分おおいた県けん)臼杵うすき(うすき)藩士はんし山本やまもと確かくの二男じなん。1880年ねん(明治めいじ13)三菱みつびし(みつびし)商業しょうぎょう学校がっこう卒業そつぎょう後ご、教員きょういんを勤つとめたが、1883年ねんには三菱みつびし会社かいしゃに入社にゅうしゃし、同社どうしゃ幹部かんぶ川田かわた小一郎こいちろうの知遇ちぐうを得えた。川田かわたの招まねきで1890年ねんに日本銀行にっぽんぎんこうに入はいり、1898年ねんには第だい5代だい総裁そうさいに就任しゅうにんした。1903年ねん(明治めいじ36)退官たいかん後ごは、貴族きぞく院いん議員ぎいん、日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう総裁そうさいを経へて、1911年ねん第だい二に次じ西園寺さいおんじ公望きんもち(さいおんじきんもち)内閣ないかくの蔵相ぞうしょうに就任しゅうにんし、財政ざいせいの健全けんぜん化かの立場たちばから陸海りくかい軍ぐんと対決たいけつするなど注目ちゅうもくを集あつめた。その後ごも農のう商務しょうむ、内務ないむなどの各かく大臣だいじんを歴任れきにんした。この間あいだ1913年ねん(大正たいしょう2)には政友せいゆう会かいに入党にゅうとう、脱党だっとう後ご政友せいゆう本ほん党とうを結成けっせいし、さらに1926年ねんに立憲りっけん民政みんせい党とうの結成けっせい時じにはその最高さいこう顧問こもんに就任しゅうにんした。[西村にしむらはつ]『小坂こさか順じゅん造みやつこ編へん『山本やまもと達雄たつお』(1951・同どう伝記でんき編纂へんさん会かい)』[参照さんしょう項目こうもく] | 政友せいゆう本ほん党とう | 立憲りっけん民政みんせい党とう 山本やまもと達雄たつお 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてん 「山本やまもと達雄たつお」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 山本やまもと達雄たつおやまもとたつお [生せい]安政あんせい3(1856).3.3. 豊後ぶんご[没ぼつ]1947.11.12. 神奈川かながわ,鎌倉かまくら政治せいじ家か,実業じつぎょう家か。5代目だいめ日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい。豊後ぶんご臼杵きゅうしょ藩士はんし山本やまもと確かくの二男じなん。大阪おおさかの小学校しょうがっこう教員きょういんを経へて上京じょうきょう,慶應義塾けいおうぎじゅく,三菱みつびし商業しょうぎょう学校がっこうに学まなび,卒業そつぎょう後ご商業しょうぎょう学校がっこうの教員きょういんとなったが,1883年ねん三菱みつびし会社かいしゃ横浜よこはま支店してんへ入社にゅうしゃ,のち日本郵船にっぽんゆうせん東京とうきょう支店してん副ふく支配人しはいにんとなった。 1890年ねん日銀にちぎんへ入はいり,1898~1903年ねん4代目だいめ岩崎いわさき弥之助やのすけの後任こうにんとして同どう総裁そうさいに就任しゅうにん。 1903年ねん貴族きぞく院いん議員ぎいんに勅みことのり選せんされ,1909年ねん日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう総裁そうさい。 1911年ねんには第だい2次じ西園寺さいおんじ公望きんもち内閣ないかくの大蔵おおくら大臣だいじんとして緊縮きんしゅく財政ざいせいを打うち出だし,海軍かいぐん拡張かくちょう案あんおよび「陸軍りくぐん二箇にか師団しだん問題もんだい」などで,軍部ぐんぶと対立たいりつした。 1913年ねん山本やまもと権兵衛ごんべえ内閣ないかくの農のう商務しょうむ相しょうを歴任れきにんする一方いっぽう,政友せいゆう本ほん党とう,立憲りっけん民政みんせい党とうの最高さいこう幹部かんぶとして活動かつどうした。その後ご一いち時じ政界せいかいを退しりぞいたが,1932年ねん斎藤さいとう実みのる内閣ないかくの内相ないしょうとして復帰ふっき,財政ざいせい問題もんだいの専門せんもん家か,長老ちょうろうとして指導しどう的てき位置いちにあった。 1920年ねん男爵だんしゃく。著書ちょしょに『新撰しんせん実地じっち商業しょうぎょう算ざん』 (1881) ,伝記でんきに『山本やまもと達雄たつお』 (1951) がある。 出典しゅってん ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう
改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん 「山本やまもと達雄たつお」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 山本やまもと達雄たつお (やまもとたつお)生なま没年ぼつねん:1856-1947(安政あんせい3-昭和しょうわ22) 大正たいしょう・昭和しょうわ初期しょきの銀行ぎんこう家か,政治せいじ家か。豊後ぶんご国こく臼杵きゅうしょ藩士はんしの家いえに生うまれ,三菱みつびし商業しょうぎょう学校がっこう卒業そつぎょう。郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃ(のち日本郵船にっぽんゆうせん)を経へて,1890年ねん三菱みつびし系けいの川田かわた小一郎こいちろう総裁そうさいに請こわれ日本にっぽん銀行ぎんこうに入はいり,98年ねん第だい5代だい総裁そうさいとなる。日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう総裁そうさいなどを経へ,1911年ねん西園寺さいおんじ公望きんもち内閣ないかく蔵相ぞうしょうとなり,緊縮きんしゅく財政ざいせいをうちだす。13年ねん山本やまもと権兵衛ごんべえ内閣ないかく農のう商務しょうむ相しょうのとき立憲りっけん政友せいゆう会かいに入党にゅうとう,原はら敬たかし内閣ないかく農のう商務しょうむ相しょうなどを歴任れきにん,24年ねん床次とこなみ(とこなみ)竹二郎たけじろうとともに政友せいゆう本ほん党とうを組織そしきし,のち民政みんせい党とうに合同ごうどう。32年ねん斎藤さいとう実みのる内閣ないかく内相ないしょう。政界せいかいの長老ちょうろうとして晩年ばんねんを送おくる。執筆しっぴつ者しゃ:伊藤いとう 之の雄ゆう 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん」改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう
デジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plus 「山本やまもと達雄たつお」の解説かいせつ 山本やまもと達雄たつお やまもと-たつお 1856-1947 明治めいじ-昭和しょうわ時代じだい前期ぜんきの銀行ぎんこう家か,政治せいじ家か。安政あんせい3年ねん3月がつ3日にち生うまれ。郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃ(のちの日本郵船にっぽんゆうせん)に入社にゅうしゃ。日銀にちぎんにうつり,明治めいじ31年ねん総裁そうさい。貴族きぞく院いん議員ぎいんとなり,第だい2次じ西園寺さいおんじ内閣ないかくの蔵相ぞうしょう,第だい1次じ山本やまもと・原はら・高橋たかはし各かく内閣ないかくの農のう商務しょうむ相しょう,斎藤さいとう内閣ないかくの内相ないしょうを歴任れきにん。この間あいだ政友せいゆう会かいをへて政友せいゆう本ほん党とう,民政みんせい党とう結成けっせいに参加さんかした。昭和しょうわ22年ねん11月12日にち死去しきょ。92歳さい。豊後ぶんご(ぶんご)(大分おおいた県けん)出身しゅっしん。三菱みつびし商業しょうぎょう卒そつ。 出典しゅってん 講談社こうだんしゃデジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plusについて 情報じょうほう | 凡例はんれい