安井やすい英二えいじ

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安井やすい英二えいじ

安井やすい 英二えいじ(やすい えいじ、1890ねん明治めいじ23ねん9月18にち - 1982ねん昭和しょうわ57ねん1がつ9にち)は、日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう政治せいじ岡山おかやま県知事けんちじ大阪おおさか府知事ふちじ文部もんぶ大臣だいじんだい1近衛このえないかく)・内務ないむ大臣だいじんけん厚生こうせい大臣だいじんだい2近衛このえないかく)・神祇じんぎいん総裁そうさい貴族きぞくいん議員ぎいんなどを歴任れきにんする。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

判事はんじ安井やすいしげるさん次男じなんとして東京とうきょうまれる。はは小原おはらちゅう上家うわやまれ玉置たまきたてまつえつ医師いし養女ようじょとなった芳野よしの宇都宮うつのみや中学ちゅうがく愛知あいち県立けんりつ松山まつやま中学校ちゅうがっこういちだかて、1916ねん大正たいしょう5ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう内務省ないむしょう入省にゅうしょう。1918ねん大正たいしょう7ねん警保きょく事務じむかんとなり、南原なんばらしげるとともに労働ろうどう組合くみあいほう草案そうあんづくりをおこない、1923ねん大正たいしょう12ねん)から1年間ねんかんドイツ調査ちょうさおこなった。その内務ないむ大臣だいじん秘書官ひしょかん大臣だいじん官房かんぼう文書ぶんしょ課長かちょう兼務けんむ)、地方ちほうきょく行政ぎょうせい課長かちょうとして地方ちほう自治じち改革かいかくにあたる。この課程かてい政党せいとうないかく政権せいけん維持いじのために知事ちじ交替こうたい頻繁ひんぱんおこな選挙せんきょ有利ゆうりにしようとする「とうへい問題もんだいかべにあたって以後いごつよ政党せいとう批判ひはんいだくようになり、以後いご内務省ないむしょう革新かくしん官僚かんりょう先駆せんくてき存在そんざい1人ひとりとして安倍あべみなもとはじめなど次世代じせだい内務ないむ官僚かんりょうにも影響えいきょうあたえた。1929ねん昭和しょうわ4ねん)7がつに警保きょく保安ほあん課長かちょう就任しゅうにんして[1]思想しそうはん取締とりしまり強化きょうかする一方いっぽう拷問ごうもん使用しようきびしくきんじてかれらの体制たいせいがわへの転向てんこううなが方針ほうしんった。その岡山おかやま県知事けんちじ社会しゃかいきょく労働ろうどう局長きょくちょうて、1932ねん昭和しょうわ7ねん)に地方ちほう局長きょくちょう就任しゅうにんして選挙せんきょ粛正しゅくせい運動うんどう推進すいしんにあたる。それを評価ひょうかされて1935ねん昭和しょうわ10ねん)に大阪おおさか府知事ふちじ任命にんめいされる。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)には近衛このえ文麿ふみまろより文部もんぶ大臣だいじん任命にんめいされた。当時とうじ内務ないむ大臣だいじんには軍部ぐんぶ推挙すいきょにより馬場ばば鍈一起用きようされていたが、大蔵省おおくらしょう出身しゅっしん馬場ばばたいする不安ふあんぬぐえなかった近衛このえ平泉ひらいずみきよし小倉おぐら正恒まさつねらの推挙すいきょけて馬場ばば補佐ほささせる目的もくてき安井やすい任命にんめいしたとわれている。ところが、文部省もんぶしょうにおいては、安井やすい内務ないむ官僚かんりょう出向しゅっこうさせて幹部かんぶにんじたこと反発はんぱつい、さら二・二六事件ににろくじけん関係かんけいしゃへの恩赦おんしゃ主張しゅちょうして近衛このえとも対立たいりつふかめたこと、近衛このえ政権せいけん基盤きばん強化きょうかのために木戸きど幸一こういち入閣にゅうかく希望きぼうしたことによって、4ヶ月かげつには病気びょうき理由りゆうとして辞任じにんすることになった。だが、つづいて馬場ばば病気びょうき辞任じにんして、後任こうにん末次すえつぐ信正のぶまさ予備よびやく海軍かいぐん中将ちゅうじょう)の就任しゅうにんしにもどってしまったために再度さいど安井やすい内務省ないむしょう幹部かんぶ推挙すいきょ依頼いらいされ、馬場ばば末次すえつぐりょう内相ないしょう幹部かんぶ人事じんじ安井やすい推挙すいきょ革新かくしんかためられることになった。だが、末次すえつぐ内相ないしょう幹部かんぶ統制とうせい失敗しっぱいしたためにしょう政治せいじりょく低下ていかまねき、末次すえつぐ後見人こうけんにんられた安井やすいからは内務ないむ官僚かんりょう信頼しんらいはなれていくことになる。1938ねん昭和しょうわ13ねん)12月9にち安井やすい貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりまかされた[2]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)、しん体制たいせい運動うんどう完成かんせいして再度さいど組閣そかくのぞんだ近衛このえ安井やすい内務ないむ大臣だいじんとして起用きよう当初とうしょ後任こうにんさだまらなかった厚生こうせい大臣だいじん兼務けんむした。しかし末次すえつぐ内相ないしょう時代じだいいちけん以来いらい内務省ないむしょうにおける安井やすい人望じんぼう低下ていかしており、その一方いっぽう省内しょうないでは湯澤ゆざわ三千男みちお大達おおだち茂雄しげおうごきもあらわれ、かつては安井やすいとみなされた官僚かんりょうからも幹部かんぶ就任しゅうにん拒絶きょぜつされる。このはなし昭和しょうわ天皇てんのうにもつたわり内大臣ないだいじん木戸きど幸一こういち憂慮ゆうりょねんしめしている[3]安井やすい翼賛よくさん選挙せんきょにつながる大政たいせい翼賛よくさんかいによる候補者こうほしゃ推薦すいせんせい導入どうにゅうなど、内務省ないむしょう意向いこうれた政策せいさく提言ていげんするが、大政たいせい翼賛よくさんかい位置付いちづけをめぐって挟間はざましげる内務ないむ次官じかん対立たいりつし、さらしん体制たいせい運動うんどうそのものにたいする反感はんかんから内務省ないむしょうないでの安井やすい排斥はいせきうごきはおさまらず、これに国体こくたい明徴めいちょう声明せいめいとの関連かんれんから運動うんどう批判ひはんてき平沼ひらぬま騏一郎きいちろう既存きそん右翼うよくくわわった。一方いっぽう近衛このえしん体制たいせい運動うんどうからの撤退てったいかんがえるようになり、安井やすい更迭こうてつ考慮こうりょするようになる。だが、木戸きど幸一こういち田辺たなべおさむどおり勝田かつた主計かずえといった後任こうにん候補者こうほしゃからは辞退じたいされ、最終さいしゅうてき平沼ひらぬま後継こうけい内相ないしょうとなることが確定かくていしたためにわずか半年はんとし更迭こうてつされることとなった。

その1945ねん昭和しょうわ20ねん)には本土ほんど決戦けっせんそなえて大阪おおさか府知事ふちじ再任さいにんされ、近畿きんき地方ちほうそうかん兼務けんむするが、もなく終戦しゅうせん戦後せんごの1946ねん昭和しょうわ21ねん)3がつ18にち貴族きぞくいん議員ぎいん辞任じにん[4]公職こうしょく追放ついほうとなった。その1958ねん昭和しょうわ33ねん)に国家こっか公安こうあん委員いいん就任しゅうにんしている。墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

栄典えいてん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい758ごう昭和しょうわ4ねん7がつ10日とおか
  2. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、46ぺーじ
  3. ^ 木戸きど幸一こういち日記にっき』1940ねん7がつ21にちじょう
  4. ^ 官報かんぽうだい5754ごう昭和しょうわ21ねん3がつ22にち
  5. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい大正たいしょう10ねん2がつ14にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 古川ふるかわ隆久たかひさ昭和しょうわ戦中せんちゅう議会ぎかい行政ぎょうせい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2005ねんISBN 4642037713

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]


公職こうしょく
先代せんだい
児玉こだま秀雄ひでお
日本の旗 内務ないむ大臣だいじん
だい61だい:1940ねん
次代じだい
平沼ひらぬま騏一郎きいちろう
先代せんだい
吉田よしだしげる
日本の旗 厚生こうせい大臣だいじん
だい6だい:1940ねん
次代じだい
金光かねみつ庸夫みちお
先代せんだい
はやしずくじゅうろう
日本の旗 文部もんぶ大臣だいじん
だい47だい:1937ねん
次代じだい
木戸きど幸一こういち