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神田 博(かんだ ひろし、1903年12月25日 – 1977年6月30日)は、日本の政治家。位階は正三位。厚生大臣(第29、30、41、42代)、衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。
来歴・人物[編集]
現在の新潟県東蒲原郡阿賀町に生まれる。1928年法政大学専門部法律科を卒業した後内務省に入る。同省地方局から静岡県属となり、水産、人事、秘書、商工の各課長を務める。その後、理研軽金属工業静岡工場長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に自由党から旧静岡1区にて立候補し当選を果たす。以後当選8回。村上勇とともに、大野伴睦の最も早い時期からの側近であった。
理研アルマイト工業で技術改善や品質向上に努め関係団体要職に就いて業界の指導に当たり発展に寄与したとして1963年、藍綬褒章受章[1]。
豪快な性格でガラッパチと呼ばれ、いかにも浪花節の大野派らしい野人的な党人派政治家であった。また厚生行政に詳しく、1956年に石橋内閣にて、および1964年第3次池田改造内閣でそれぞれ厚生大臣として入閣。1965年1月9日付けで、同年1年1日に遡って9.5%の診療報酬引き上げる「職権告示」を行い、医療行政を混乱させた責任を問われ、同年6月2日付けで、厚生事務次官の大山正と保険局長の小山進次郎を更迭したあと自らも辞任し、翌日3日付けで就任した鈴木善幸に後始末をさせた。1965年には従来支給額5000円であった厚生年金を1万円に引き上げる「一万円年金」法案を可決に導いた。
1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選。1974年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲六等からの昇叙)[2]。同年の第10回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し当選する。1977年6月30日、心不全のため東京都新宿区の国立病院医療センターで現職のまま死去、73歳[3]。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正六位から正三位に叙される[4]。
衆議院商工委員長 (1955 年-1957 年) |
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第1回 (定数100) |
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†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。 |
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