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寺尾てらおゆたか

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寺尾てらお ゆたか
てらお ゆたか 
生年月日せいねんがっぴ 1898ねん1がつ23にち
出生しゅっしょう 高知こうちけん高岡たかおかぐん須崎すさきまちげん須崎すさき
ぼつ年月日ねんがっぴ (1972-11-27) 1972ねん11月27にち(74さいぼつ
出身しゅっしんこう 立正大学りっしょうだいがく高等こうとう師範しはん
ぜんしょく 高知こうち造船ぞうせん社長しゃちょう
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん自由党じゆうとう→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう

内閣ないかく だい2きし内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1958ねん6月12にち - 1959ねん6月18にち

在任ざいにん期間きかん 1956ねん5月9にち - 1958ねん6月12にち

選挙せんきょ全国ぜんこく→)
高知こうちけん地方区ちほうく
当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1947ねん5月3にち - 1971ねん7がつ3にち

選挙せんきょ 高知こうち全県ぜんけん
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1946ねん - 1947ねん
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寺尾てらお ゆたか(てらお ゆたか、1898ねん明治めいじ31ねん1がつ23にち1972ねん昭和しょうわ47ねん11月27にち)は、昭和しょうわ政治せいじ実業じつぎょう位階いかいせいさん

郵政ゆうせい大臣だいじんだい13だい)、参議院さんぎいんふく議長ぎちょうだい5-6だい)、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(1)、参議院さんぎいん議員ぎいん(5)。財団ざいだん法人ほうじん板垣いたがきかいだい13だい会長かいちょう板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい顕彰けんしょうかい初代しょだい会長かいちょう[1]

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

青年せいねん[編集へんしゅう]

白石しらいしじゅんなり三男さんなんとして、高知こうちけん高岡たかおかぐん須崎すさきまちげん須崎すさき)にまれる。のち寺尾てらお英吉えいきち養子ようしとなる。私立しりつ高知こうち工業こうぎょう学校がっこう卒業そつぎょう職工しょっこう上京じょうきょうする。

1929ねん昭和しょうわ4ねん)3がつ立正大学りっしょうだいがく高等こうとう師範しはん卒業そつぎょう[2]1934ねん昭和しょうわ9ねん)に関東かんとうせい設立せつりつ代表だいひょう取締役とりしまりやく就任しゅうにん戦時せんじちゅうは、おな高知こうちけん出身しゅっしん軍人ぐんじん永野ながの修身しゅうしん仲介ちゅうかいにより、日本にっぽん海軍かいぐん魚雷ぎょらいようジャイロスコープ納入のうにゅう。のち、高知こうち造船ぞうせん社長しゃちょうとなり、中小ちゅうしょうがた船舶せんぱく生産せいさん。これらが成功せいこうしてざいした[2]

政治せいじとして[編集へんしゅう]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)、だい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ日本にっぽん自由党じゆうとうから高知こうち全県ぜんけんにて立候補りっこうほ当選とうせん[2]よく1947ねん昭和しょうわ22ねん)のそう選挙せんきょでは吉田よしだしげる地盤じばんゆずるため、自身じしん同年どうねんだい1かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ全国ぜんこく鞍替くらが出馬しゅつばして当選とうせんした(3ねん議員ぎいんとして2かい当選とうせん[2]。その1953ねん昭和しょうわ28ねん)のだい3かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょから高知こうちけん選挙せんきょうつり、以後いご参議院さんぎいん当選とうせん通算つうさん5かいかぞえた[3]

参議院さんぎいんでは松野まつのづるひらた側近そっきんとなる。快活かいかつ温厚おんこう人柄ひとがらで、野党やとうとの調整ちょうせい能力のうりょくがあった。参議院さんぎいん議院ぎいん運営うんえい委員いいんちょうだい2吉田よしだ内閣ないかく地方ちほう財政ざいせい政務次官せいむじかんつとめる[2]1956ねん昭和しょうわ31ねん参議院さんぎいんふく議長ぎちょう1958ねん昭和しょうわ33ねんだい2きし内閣ないかくでは郵政ゆうせい大臣だいじんとして入閣にゅうかく[2]在任ざいにんちゅう資材しざい購入こうにゅうめぐ電電でんでん公社こうしゃのおいえ騒動そうどう遭遇そうぐうしたが、当時とうじ総裁そうさい梶井かじいつよしふく総裁そうさい靱勉、技師ぎしちょう中尾なかおとおる一挙いっきょ更迭こうてつするという荒療治あらりょうじほどこ解決かいけつみちびいた。その参院さんいん予算よさん委員いいんちょう外務がいむかく委員いいんちょうなどを歴任れきにん[2]皇室こうしつ会議かいぎ議員ぎいん自由民主党じゆうみんしゅとう国対こくたい委員いいんちょうなどをつとめた[2]1968ねん昭和しょうわ43ねんはる叙勲じょくん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう

文化ぶんか事業じぎょう活動かつどう[編集へんしゅう]

板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい顕彰けんしょう佐藤さとう栄作えいさくしょ
同上どうじょう石碑せきひいしぶみかげ板垣いたがき退助たいすけじゅう回忌かいき建立こんりゅう

1968ねん昭和しょうわ43ねん)は、明治維新めいじいしんひゃくねんかつ、自由民主党じゆうみんしゅとう源流げんりゅうとなる愛国あいこく公党こうとうならびに自由党じゆうとう創設そうせつした板垣いたがき退助たいすけ薨去こうきょ50回忌かいきむかえることになるため、自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい佐藤さとう栄作えいさくけ、7がつ自身じしん会長かいちょうつとめる「財団ざいだん法人ほうじん板垣いたがきかい高知こうちけん)」や「東京とうきょう高知こうちけんじんかい」などを母体ぼたいとして有志ゆうしつのり「板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい顕彰けんしょうかい」を設立せつりつ名誉めいよ総裁そうさい佐藤さとう栄作えいさく名誉めいよ会長かいちょう溝渕みぞぶちぞう最高さいこう顧問こもん山内やまうち豊秋とよあき[1]同年どうねん12月8にち東京とうきょう品川しながわで「明治維新めいじいしんひゃくねん板垣いたがき退助たいすけ先生せんせいじゅう回忌かいき墓前ぼぜんさい」を挙行きょこう自由民主党じゆうみんしゅとう結党けっとう精神せいしんたっとび、退助たいすけ子孫しそんらをまねき、参議院さんぎいん議員ぎいん塩見しおみ俊二しゅんじらととも退助たいすけ墓前ぼぜんに「板垣いたがきすとも自由じゆうせず」の石碑せきひ佐藤さとう栄作えいさく揮毫きごう高知こうちけんさん岩石がんせき使用しよう)を建立こんりゅうした[1]。さらにどう12月22にち、「吉村よしむら虎太郎とらたろう先生せんせい銅像どうぞう建設けんせつ期成きせい同盟どうめいかい」によって「吉村よしむら虎太郎とらたろう先生せんせいぞう[4]」が建立こんりゅうされることとなり寺尾てらお題字だいじ揮毫きごうおこなった[5]

翌年よくねん昭和しょうわ44ねん4がつ6にち板垣いたがき退助たいすけ岐阜ぎふ遭難そうなん記念きねんして、高知こうちけん高知こうち薊野あぞうの板垣いたがきさん)のいぬい歴代れきだい墓所はかしょに、板垣いたがき退助たいすけ分骨ぶんこつ建立こんりゅう。さらに板垣いたがき退助たいすけ遺著いちょ立國りっこく大本おおもと』を復刻ふっこく出版しゅっぱんし、板垣いたがき精神せいしん顕彰けんしょうんだ[1]

政界せいかい引退いんたい以降いこう[編集へんしゅう]

1971ねん昭和しょうわ46ねん政界せいかい引退いんたい

1972ねん昭和しょうわ47ねん11月27にち脳出血のうしゅっけつのため死去しきょ、74さい[6]死没しぼつをもって勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう追贈ついぞうせいはちからせいさんじょされる[7]

選挙せんきょれき[編集へんしゅう]

当落とうらく 選挙せんきょ 施行しこう 選挙せんきょ 政党せいとう 得票とくひょうすう 得票とくひょうりつ 得票とくひょう順位じゅんい
/候補者こうほしゃすう
比例ひれい 比例ひれい順位じゅんい
/候補者こうほしゃすう
とう だい1かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ 1947ねん10がつ7にち 全国ぜんこく 日本にっぽん自由党じゆうとう 116,027 57/258 - -
とう だい2かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ 1950ねん6がつ4にち 全国ぜんこく 自由党じゆうとう 144,524 56/? - -
とう だい3かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ 1953ねん4がつ24にち 高知こうちけん地方区ちほうく 自由党じゆうとう 196,580 59.5 1/2 - -
とう だい5かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ 1959ねん6がつ2にち 高知こうちけん地方区ちほうく 自由民主党じゆうみんしゅとう 231,637 62.5 1/2 - -
とう だい7かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ 1965ねん7がつ4にち 高知こうちけん地方区ちほうく 自由民主党じゆうみんしゅとう 227,309 60.2 1/3 - -
当選とうせん回数かいすう5かい参議院さんぎいん議員ぎいん5)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 板垣いたがき精神せいしん -明治維新めいじいしんひゃくじゅうねん板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい薨去こうきょひゃく回忌かいき記念きねん-』”. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい顕彰けんしょうかい (2019ねん2がつ11にち). 2020ねん8がつ13にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h 『20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん日外にちがいアソシエーツ、2004ねん
  3. ^ しんてい政治せいじ家人かじんめい事典じてん
  4. ^ 所在地しょざいち高知こうちけん高岡たかおかぐん東津野ひがしつのむら新田にった
  5. ^ 土佐とさじん銅像どうぞうあるく』岩崎いわさき義郎よしおちょ土佐とさ史談しだんかい2003ねん
  6. ^ 『367にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん日外にちがいアソシエーツ
  7. ^ 官報かんぽうだい13782ごう10-11ぺーじ 昭和しょうわ48ねん12月1にちごう
公職こうしょく
先代せんだい
田中たなか角栄かくえい
日本の旗 郵政ゆうせい大臣だいじん
だい13だい:1958ねん - 1959ねん
次代じだい
植竹うえたけ春彦はるひこ
議会ぎかい
先代せんだい
小柳こやなぎまきまもる
日本の旗 参議院さんぎいん外務がいむ委員いいんちょう
1965ねん
次代じだい
木内きうち四郎しろう
先代せんだい
太田おおたただしこう
日本の旗 参議院さんぎいん予算よさん委員いいんちょう
1964ねん - 1965ねん
次代じだい
平島ひらしま敏夫としお
先代せんだい
じゅうそう雄三ゆうぞう
日本の旗 参議院さんぎいんふく議長ぎちょう
だい5・6だい:1956ねん - 1958ねん
次代じだい
平井ひらい太郎たろう
先代せんだい
草葉くさばたかしえん
川村かわむら松助まつすけ
日本の旗 参議院さんぎいん議院ぎいん運営うんえい委員いいんちょう
だい12だい:1954ねん - 1955ねん
だい10代:1952ねん - 1953ねん
次代じだい
こおり祐一ゆういち
草葉くさばたかしえん
先代せんだい
松野まつの喜内きない
日本の旗 参議院さんぎいん電気でんき通信つうしん委員いいんちょう
1950ねん - 1951ねん
次代じだい
鈴木すずき恭一きょういち