美濃部みのべ亮吉りょうきち

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美濃部みのべ 亮吉りょうきち
みのべ りょうきち
アサヒグラフ』1967ねん4がつ28にちごうより
生年月日せいねんがっぴ 1904ねん2がつ5にち
出生しゅっしょう 日本の旗 東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごうげん東京とうきょう文京ぶんきょう
ぼつ年月日ねんがっぴ (1984-12-24) 1984ねん12月24にち(80さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 東京とうきょう渋谷しぶや
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく経済学部けいざいがくぶ
ぜんしょく 大学だいがく教授きょうじゅ
行政管理庁ぎょうせいかんりちょう官僚かんりょう
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく
配偶はいぐうしゃ 美濃部みのべ百合子ゆりこ
親族しんぞく 美濃部みのべ達吉たつきちちち

当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1967ねん4がつ23にち - 1979ねん4がつ22にち

選挙せんきょ 全国ぜんこく
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1980ねん7がつ8にち - 1984ねん12月24にち
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美濃部みのべ亮吉りょうきち
マルクス経済けいざいがく労農ろうのう
生誕せいたん 1904ねん2がつ5にち
死没しぼつ (1984-12-24) 1984ねん12月24にち(80さいぼつ
研究けんきゅう分野ぶんや 後期こうき資本しほん主義しゅぎ危機ききてき状況じょうきょうしょ現象げんしょう
影響えいきょう
けた人物じんぶつ
大内おおうち兵衛ひょうえ
影響えいきょう
あたえた人物じんぶつ
わらわかど冬二ふゆじ
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美濃部みのべ 亮吉りょうきち(みのべ りょうきち、1904ねん2がつ5にち - 1984ねん12月24にち)は、日本にっぽんマルクス経済けいざい学者がくしゃ政治せいじ教育きょういくもの東京とうきょう都知事とちじだい6・7・8だい)、参議院さんぎいん議員ぎいん全国ぜんこく、1)を歴任れきにん

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

両親りょうしんとともに(1906ねん
東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこう2年生ねんせいのころ

美濃部みのべ達吉たつきち多美子たみこ夫妻ふさい長男ちょうなんとして東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごうまれた。ちち達吉たつきち天皇てんのう機関きかんせつられる憲法けんぽう学者がくしゃである。はは多美子たみこは、数学すうがくしゃ教育きょういくしゃ政治せいじとして活躍かつやくした菊池きくち大麓だいろく長女ちょうじょであり、亮吉りょうきち箕作みつくり阮甫げんぽ玄孫げんそんにあたる。

東京とうきょうだか附属ふぞくしょうげん筑波大つくばだい附属ふぞくしょう)、どう附属ふぞくちゅうげん筑波大つくばだい附属ふぞくちゅうこう)を卒業そつぎょうする。附属ふぞく中学ちゅうがく同級生どうきゅうせいには、正田しょうだ英三郎えいざぶろう日清製粉にっしんせいふん名誉めいよ会長かいちょううえ皇后こうごう美智子みちこちち)、岸本きしもと英夫ひでお東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)、芳賀はがまゆみドイツ文学ぶんがくしゃ)、諸井もろい三郎さぶろう作曲さっきょく)などがいる。旧制きゅうせいだかげん東北大学とうほくだいがく)をて、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくすすむ。

東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶでは、マルクス経済けいざい学者がくしゃ大内おおうち兵衛ひょうえ師事しじし、後期こうき資本しほん主義しゅぎ危機ききてき状況じょうきょうしょ現象げんしょうとくインフレーションについて研究けんきゅうした。助手じょしゅとなるが、マルクス主義まるくすしゅぎ処世しょせい両立りょうりつ安易あんいしんじているような態度たいど挨拶あいさつったことがはんマルクス河合かわい栄治郎えいじろういかりをい、母校ぼこう経済学部けいざいがくぶ講師こうしとしてのこることが不可能ふかのうになる。そのため法政大学ほうせいだいがく経済学部けいざいがくぶ転出てんしゅつし、以後いごマルクス経済けいざい学者がくしゃとして教鞭きょうべんるう。大内おおうち兵衛ひょうえ有沢ありさわひろともに、労農ろうのうマルクス経済けいざいがくからの内閣ないかく総理そうり大臣だいじん池田いけだ勇人はやと当時とうじ)のブレーンの一人ひとりでもあった。

戦後せんご毎日新聞まいにちしんぶん論説ろんせつ委員いいん内閣ないかく統計とうけい委員いいんかい委員いいんけん事務じむ局長きょくちょう持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい委員いいんとなる。1948ねん11月、持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい委員いいん時代じだい昭和電工しょうわでんこうかんする問題もんだいかんし、衆議院しゅうぎいん不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんかい証人しょうにん喚問かんもんされた[1]

1960ねんから1962ねんまでNHK教育きょういくテレビ放送ほうそうされていた『やさしい経済けいざい教室きょうしつ』で、経済けいざい問題もんだいをやさしく解説かいせつする「おとうさん」やくとして出演しゅつえんしており、都知事とちじせん出馬しゅつばまえにはちゃあいだ名前なまえれていた[2]

1967ねん昭和しょうわ42ねん)から1979ねん昭和しょうわ54ねん)まで東京とうきょう都知事とちじを312ねんつとめた。

1980ねん昭和しょうわ55ねん)6がつだい12かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょに、日本にっぽん社会党しゃかいとう東京とうきょう本部ほんぶなどの推薦すいせんけて無所属むしょぞく全国ぜんこくから立候補りっこうほ当選とうせんした。革新かくしん自由じゆう連合れんごう所属しょぞく中山なかやま千夏ちなつひきいる院内いんない会派かいはいちかい」に所属しょぞくし、のちだい二院にいんクラブらの議員ぎいんとの統一とういつ会派かいは無党派むとうはクラブ」「参議院さんぎいんかい代表だいひょうつとめた。

晩年ばんねん病気びょうきがちとなり、任期にんき途中とちゅう1984ねん昭和しょうわ59ねん)12月24にち自宅じたく書斎しょさい心筋梗塞しんきんこうそくのため[3]死去しきょ。80さいぼつはか多磨たま霊園れいえんにある。

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

東京教育大学とうきょうきょういくだいがく研究けんきゅうしつにて(1967ねん

家族かぞく[編集へんしゅう]

信濃しなの毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ社長しゃちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん貴族きぞくいん議員ぎいんつとめた小坂こさかじゅんづくり長女ちょうじょ百合子ゆりこ自由民主党じゆうみんしゅとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん小坂こさか善太郎ぜんたろう自由民主党じゆうみんしゅとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん小坂こさか徳三郎とくさぶろうあね)と結婚けっこんし、長男ちょうなん次男じなん三男さんなんをもうけたが、都知事とちじ就任しゅうにんまえ離婚りこん子供こども3にん小坂こさかられた。都知事とちじ就任しゅうにんにはすで再婚さいこんしており、後妻ごさいとのあいだ長女ちょうじょをもうけている。1984ねん昭和しょうわ59ねん)12月の死去しきょさいしては後妻ごさい喪主もしゅつとめている。

長男ちょうなん自由民主党じゆうみんしゅとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんのち参議院さんぎいん議員ぎいん小坂こさか憲次けんじ善太郎ぜんたろう)の秘書ひしょつとめた。また次男じなん僧侶そうりょとなってオーストラリアわたり、三男さんなん信越化学工業しんえつかがくこうぎょう勤務きんむした。いずれも小坂こさかせい名乗なのっている。

東京とうきょう都知事とちじ[編集へんしゅう]

都知事とちじせんでの街宣がいせん活動かつどう(1967ねん
都知事とちじせんはつ当選とうせん直後ちょくご新聞しんぶん掲載けいさいされた『週刊しゅうかん新潮しんちょう』1967ねん4がつ29にちごう広告こうこく

1967ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょ出馬しゅつばし、220まん389ひょう得票とくひょうして当選とうせん[2]松下まつしたただし寿ことぶき得票とくひょうとはわずか14まんひょう僅差きんさであった[2][4]革新かくしん統一とういつによる知事ちじとしてられ、「ミノベ・スマイル」などのイメージ戦略せんりゃくによりマスコミや都民とみん支持しじけて就任しゅうにん個性こせいてき政策せいさく展開てんかいした[2]

選挙せんきょせんでは「青空あおぞらバッジ」70まんって選挙せんきょ資金しきん確保かくほするなど独自どくじ選挙せんきょじゅつ展開てんかいした。

日本にっぽん社会党しゃかいとう日本にっぽん共産党きょうさんとう支持しじ基盤きばんとする革新かくしん知事ちじとして、1979ねん昭和しょうわ54ねん)までの12年間ねんかん(3)にわたり東京とうきょう都知事とちじつとめた。1967ねん就任しゅうにんから建築けんちく浅田あさだたかしをブレーンに、岩波書店いわなみしょてん社長しゃちょうとなる安江やすえ良介りょうすけ特別とくべつ秘書ひしょとして「広場ひろば青空あおぞら東京とうきょう構想こうそう」をかかげた。

1971ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょでは361まん5299ひょう獲得かくとく自民党じみんとう擁立ようりつした秦野はたのあきら大差たいさをつけて再選さいせんされた[2]。これは個人こじん獲得かくとくした得票とくひょうすうとしては当時とうじ史上しじょう最高さいこう得票とくひょう記録きろくであった。

1975ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょにあたっては部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいめぐり、解放かいほう同盟どうめい支持しじ基盤きばんとする日本にっぽん社会党しゃかいとうと、解放かいほう同盟どうめい対立たいりつする日本にっぽん共産党きょうさんとうあいだ不和ふわしょうしゃども共闘きょうとう崩壊ほうかいした。美濃部みのべ一時いちじしゃども対立たいりつ理由りゆう出馬しゅつば表明ひょうめいしたものの「石原いしはら慎太郎しんたろう出馬しゅつばによるファシズム復活ふっかつ阻止そしする」という理由りゆうで3選出せんしゅつった。これにたいする反発はんぱつおおきかったものの、石原いしはら辛勝しんしょうし3せんした[2]

社会党しゃかいとう系列けいれつ知事ちじであったため、議会ぎかい対策たいさくねて任期にんき途中とちゅう公明党こうめいとうとのあいだ政策せいさく協定きょうていむすぶなど、共産党きょうさんとうへの牽制けんせいすくなからずおこなっている。

都知事とちじとしてのおも政策せいさく[編集へんしゅう]

革新かくしん都政とせいでのこう福祉ふくし公共こうきょうサービス無料むりょう公営こうえいギャンブル廃止はいしといった政策せいさく都民とみんから支持しじあつめたものの、税収ぜいしゅう低下ていかにより財政ざいせい赤字あかじをもたらした。おりしも1974ねんオイルショックこり、高度こうど経済けいざい成長せいちょう次第しだい鈍化どんかしつつある時代じだいであった。

また美濃部みのべ都政とせいでは職員しょくいんかずやし、人件じんけん国家こっか公務員こうむいんを18.3%も上回うわまわり、給与きゅうよ水準すいじゅん当時とうじ全国ぜんこく最高さいこうであった[13][14][15]

財政ざいせい問題もんだい直面ちょくめんした美濃部みのべ都政とせいまりをせ、美濃部みのべ独自どくじ税源ぜいげんやそうとしたが、そのことが自治省じちしょういかりをかって革新かくしん自治体じちたいバッシングに発展はってんした[16]。「バラマキ福祉ふくしによる財政ざいせい破綻はたん」といったイメージが浸透しんとうするにれ、当初とうしょとはぎゃく美濃部みのべはマスコミからの批判ひはんにさらされることとなる[2]

老人ろうじん医療いりょう無料むりょう[編集へんしゅう]

1969ねん昭和しょうわ44ねん)、東京とうきょうでは高齢こうれいしゃ医療いりょう健康けんこう保険ほけん個人こじん負担ふたんぶん肩代かたがわりする政策せいさく全国ぜんこく先駆さきがけてし、都民とみんからおおきな支持しじた。これにたいして政府せいふ厚生省こうせいしょう自民党じみんとうは「みずをやる政策せいさく」と反対はんたいし、「個人こじん負担ふたんぶん肩代かたがわりは健康けんこう保険ほけんほう違反いはん実施じっし不可能ふかのう」などと反発はんぱつし、少数しょうすう与党よとう一旦いったん頓挫とんざした。しかし厚生省こうせいしょうに「健康けんこう保険ほけんほう違反いはん」の見解けんかい撤回てっかいさせ、独自どくじ高齢こうれいしゃ医療いりょう無料むりょう実施じっしした。この東京とうきょう老人ろうじん医療いりょう無料むりょう都民とみん支持しじされたため、将来しょうらい持続じぞくせいから反対はんたいしていた自民党じみんとう地方ちほう選挙せんきょ敗北はいぼくかさねることになる。

これをけた田中たなか角栄かくえい首相しゅしょうけん自民党じみんとう総裁そうさい)が、財源ざいげんしに無償むしょう福祉ふくし不可能ふかのうだと反対はんたいする官庁かんちょうおさえて1972ねん老人ろうじん福祉ふくしほう改定かいていした。

田中たなか内閣ないかくは「福祉ふくし元年がんねん」と銘打めいうち、1973ねん昭和しょうわ48ねん)1がつ全国ぜんこく老人ろうじん医療いりょう無料むりょう施行しこう[17]全国ぜんこくの70さい以上いじょう高齢こうれいしゃ医療いりょう無料むりょうした[18]

同年どうねん7がつ東京とうきょうはさらに老人ろうじん医療いりょう無料むりょうを65さいまでげた[17]。しかし同年どうねん10がつにはオイルショック発生はっせいし、東京とうきょうくに財政ざいせい悪化あっかしてゆくことになる[17]

その1980年代ねんだい行財政ぎょうざいせい改革かいかくながれのなかで、1981ねん昭和しょうわ56ねん)には土光どこう敏夫としおひきいるだい臨時りんじ行政ぎょうせい調査ちょうさかい老人ろうじん健康けんこう保険ほけん制度せいど提案ていあんされ[17]よく1982ねん昭和しょうわ57ねん)には老人ろうじん保健ほけんほう1983ねん昭和しょうわ58ねん)には老人ろうじん健康けんこう保険ほけん制度せいど施行しこうされた[17]。そのほう改正かいせい後期こうき高齢こうれいしゃ医療いりょう制度せいどいた[17]

さかえ(オ・セヨン、韓国かんこく圓光えんこうだい学校がっこう[19])は、田中たなか角栄かくえいが「福祉ふくし元年がんねん」として1973ねん全国ぜんこく導入どうにゅうした老人ろうじん医療いりょう無料むりょう制度せいどについて「国民こくみん医療いりょう増加ぞうか根本こんぽんてきおよ構造こうぞうてき原因げんいん提供ていきょうし、1980年代ねんだいはいってからはじまった強力きょうりょく医療いりょう抑制よくせい政策せいさく契機けいきとなった」とべている[20]

高齢こうれいしゃ医療いりょう無料むりょうについて、NHK教育きょういくテレビ福祉ふくし情報じょうほう番組ばんぐみハートネットTV』では「くるま両輪りょうりんであった予防よぼう健康けんこう管理かんりりにされたことで、この政策せいさくは、医療いりょう必要ひつようとしない高齢こうれいしゃ病院びょういん入院にゅういんするなど、いわゆる”社会しゃかいてき入院にゅういん”の問題もんだいこし、高齢こうれいしゃ医療いりょう増大ぞうだいまねくことになっていきました」と報道ほうどうしている[21]

公営こうえいギャンブル廃止はいし[編集へんしゅう]

公営こうえい競技きょうぎ廃止はいし政治せいじ公約こうやくとして前面ぜんめんし、美濃部みのべ都知事とちじ就任しゅうにん公約こうやく実行じっこうというかたちで、東京とうきょうはそれまでっていた競輪けいりん地方ちほう競馬けいば競艇きょうていオートレースと、すべての公営こうえい競技きょうぎ事業じぎょうから撤退てったいしている。

大井おおい競馬けいばでは東京とうきょう撤退てったいしたぶん特別とくべつ肩代かたがわりした[22]東京とうきょう単独たんどく主催しゅさいじょうであった大井おおいオートレースじょう後楽園こうらくえん競輪けいりんじょう閉鎖へいさされた。

このほかにも、東京とうきょう都内とない設置せっちされている公営こうえい競技きょうぎじょう存在そんざいしているが、このうち東京競馬場とうきょうけいばじょうは、くに中央ちゅうおう省庁しょうちょうである農林水産省のうりんすいさんしょう管轄かんかつ外郭がいかく団体だんたい特殊とくしゅ法人ほうじん)である日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい運営うんえいであるため、東京とうきょう一切いっさい関与かんよしておらず、この公約こうやく実行じっこうとは無関係むかんけいだったため、廃止はいしまぬか存続そんぞくした。また、江戸川えどがわ競艇きょうていじょう平和へいわとう競艇きょうていじょう多摩川競艇場たまがわきょうていじょう大井おおい競馬けいばじょう京王けいおうかく競輪けいりんじょう立川たちかわ競輪けいりんじょうは、東京とうきょうとはべつ市町村しちょうそん東京とうきょう都区とく主催しゅさいけんっていたため、閉鎖へいさ廃止はいしにならず、東京とうきょう主催しゅさいしていた開催かいさいわくについては、各々おのおの公営こうえい競技きょうぎ主催しゅさいけん移行いこうおこなわれた。

道路どうろ空港くうこう整備せいび反対はんたい[編集へんしゅう]

東京とうきょうがいたまき自動車じどうしゃどうそとたまきどう)や首都高しゅとこうそく中央ちゅうおう環状かんじょうせんでの道路どうろ建設けんせつ工事こうじについて、フランツ・ファノンの「ひとつのはし建設けんせつがもしそこにはたらひとびとの意識いしきゆたかにしないものならば、はし建設けんせつされぬがよい、市民しみん従前じゅうぜんどおり、およぐかわたぶねるかして、かわわたっていればよい。はしそらからってくものであってはならない、社会しゃかい全景ぜんけいデウス・エクス・マキーナすくいのかみ〕によってしつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民しみん筋肉きんにく頭脳ずのうとからまれるべきものだ」を引用いんよう[23][24]社会しゃかいてき少数しょうすう極端きょくたん重視じゅうしする姿勢しせいから「一人ひとりでも反対はんたいがあったらはしけない」という「はし哲学てつがく」にもとづき[23]道路どうろ工事こうじ反対はんたい住民じゅうみん運動うんどうがわち、道路どうろ建設けんせつ軒並のきな凍結とうけつ[25][26]東京湾横断道路とうきょうわんおうだんどうろ建設けんせつ目指めざしていた12けん構成こうせいされる東京とうきょうわん総合そうごう開発かいはつ協議きょうぎかいからも脱退だったいし、活動かつどう停止ていしんでいる[27][28]。また、成田なりた新幹線しんかんせん整備せいび東京とうきょう国際こくさい空港くうこう羽田空港はねだくうこう拡張かくちょうにも反対はんたいとなえた。

都立とりつ高校こうこう学校がっこうぐん制度せいど継承けいしょう[編集へんしゅう]

学校がっこうぐん制度せいどによる東京とうきょう都立とりつ高校こうこう入試にゅうし1967ねん昭和しょうわ42年度ねんど入学にゅうがくしゃから1981ねん昭和しょうわ56年度ねんど入学にゅうがくしゃまでの15かいで、うち12かい美濃部みのべ都政とせい1968ねん昭和しょうわ43ねん)から1979ねん昭和しょうわ54ねん)まで実施じっしされた。

都立とりつ高校こうこう進学しんがく実績じっせき低下ていか発端ほったんとなったことがしばしば指摘してきされる学校がっこうぐん制度せいど[29][30][31]もっと実施じっし回数かいすうおおくかつ一貫いっかんして実施じっしされた美濃部みのべ都政とせいのイメージがつよいものの[32]導入どうにゅうそのものはぜん都知事とちじあずま龍太郎りゅうたろう時代じだい末期まっきになされたものであり、だい1かい入試にゅうしひがし都政とせい1967ねん3がつ実施じっしされている(美濃部みのべ都知事とちじはつ当選とうせん同年どうねん4がつ15にち統一とういつ地方ちほうせん)。

北朝鮮きたちょうせんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

たい北朝鮮きたちょうせん在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん関連かんれんでは全国ぜんこく都道府県とどうふけんなか先駆さきがけて在日本朝鮮人総聯合会ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい朝鮮総連ちょうせんそうれん)など、朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)にちか立場たちば関連かんれん施設しせつ固定こてい資産しさんぜい免税めんぜいにしているほか、朝鮮大学校ちょうせんだいがっこう各種かくしゅ学校がっこうとして認可にんかしている。

1968ねんには、文部省もんぶしょうが「北朝鮮きたちょうせんけい在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん基幹きかん教育きょういく機関きかん」として認可にんか懸念けねんしめしていた朝鮮大学校ちょうせんだいがっこうについて各種かくしゅ学校がっこうとして全国ぜんこくはじめて認可にんかした。以降いこう全国ぜんこく地方自治体ちほうじちたい朝鮮ちょうせん学校がっこうへの補助ほじょきん支給しきゅうするうごきがひろがった。

1971ねんには平壌ぴょんやん訪問ほうもんし、北朝鮮きたちょうせん首相しゅしょうきむ日成いるそんとも会談かいだんした[33]。これは「都市とし外交がいこう一環いっかん」を名目めいもくとしたもので、現職げんしょく都道府県とどうふけん知事ちじとしては唯一ゆいいつ北朝鮮きたちょうせん訪問ほうもんである[34]

産経新聞さんけいしんぶん(2016ねん5がつ7にちづけ)の報道ほうどうによれば、美濃部みのべは1971ねんきむ日成いるそんとの会談かいだんにおいて「わたしは1925ねん大学だいがく卒業そつぎょうして以来いらいやく40年間ねんかんマルクス経済けいざいがく勉強べんきょうしてまいりました。それゆえわたし社会しゃかい主義しゅぎしゃであり、社会しゃかい主義しゅぎ実現じつげん理想りそうとする人間にんげんです。きむ日成いるそん元帥げんすいがなされたような活動かつどう出来できませんでしたが、日本にっぽん国内こくないわたしのなしることはやりました。・・このような立場たちばにたっているわたしとしては、貴国きこくすすめられている社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつはやいテンポには非常ひじょう尊敬そんけいねんいてきました」と発言はつげんし、社会しゃかい主義しゅぎ平壌ぴょんやん現状げんじょういに「資本しほん主義しゅぎけはあきらかである」とだんじた[34]産経新聞さんけいしんぶんはその記事きじちゅうで「朝鮮大学校ちょうせんだいがっこう認可にんかは、きむ日成いるそん訪問ほうもん手土産てみやげであった」とほうじている [34]

中国ちゅうごくとの関係かんけい[編集へんしゅう]

1971ねん11月に中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもんし、当時とうじ自由民主党じゆうみんしゅとう幹事かんじちょうだった保利ほりしげるからぞくに「保利ほり書簡しょかん」とばれるしゅう恩来おんらいあて書簡しょかんたくされる[35]

美濃部みのべ都政とせい東京とうきょう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく首都しゅと北京ぺきん1979ねん3月から姉妹しまい都市としとなり[36]よく4がつ都知事とちじ就任しゅうにんした鈴木すずき俊一しゅんいち都政とせいでも東京とうきょう北京ぺきん交流こうりゅう関係かんけいつづくことになった[37]

美濃部みのべ都政とせいへの批判ひはん[編集へんしゅう]

  • のち東京とうきょう都知事とちじとなる石原いしはら慎太郎しんたろうは、美濃部みのべ都政とせいたいして以下いかのようにはげしく批判ひはんした。
    • 石原いしはら自著じちょ歴史れきし十字路じゅうじろって 戦後せんごななじゅうねん回顧かいこ』において、美濃部みのべ都政とせい時代じだいに「増税ぞうぜいなきバラマキ政策せいさくおこなったことで、東京とうきょうまた日本にっぽん無償むしょう福祉ふくしポピュリズムというしき影響えいきょうあたえた」「東京とうきょう都政とせいはつ財政ざいせい赤字あかじ自治体じちたいになったことはまけ遺産いさんになった」と批判ひはんした[13]
    • 美濃部みのべ都政とせい公営こうえいギャンブル廃止はいしたいしても、石原いしはら財源ざいげん確保かくほめんから批判ひはんしており、パチンコ業界ぎょうかい反射はんしゃてき利益りえきあたえた政策せいさく主張しゅちょうしている[13]
    • 石原いしはら美濃部みのべたい北朝鮮きたちょうせん政策せいさくについて「日本にっぽん保守ほしゅ支持しじする韓国かんこくよりも北朝鮮きたちょうせん正統せいとう国家こっかとする美濃部みのべなど革新かくしん思想しそう背景はいけいにある、当時とうじから外部がいぶ人間にんげんかんなど移動いどう制限せいげんおこな訪朝ほうちょうしたことで北朝鮮きたちょうせん異常いじょうさもからないはずもなく、理解りかいしたのち支援しえんしていたのだろう」と批判ひはんした[13]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ だい3かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいん 不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんかい だい12ごう 昭和しょうわ23ねん11月15にち
  2. ^ a b c d e f g せいだか, 近藤こんどう (2017ねん4がつ15にち). “存知ぞんじですか? 4がつ15にち美濃部みのべ亮吉りょうきち都知事とちじ誕生たんじょうしたです”. 文春ぶんしゅんオンライン. 2020ねん2がつ21にち閲覧えつらん
  3. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」27ぺーじ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん
  4. ^ 中川なかがわみぎかい (2016ねん7がつ18にち). “一気いっきにわかる都知事とちじせん歴史れきし意外いがいな「勝利しょうり法則ほうそく”. 現代げんだいビジネス. 2020ねん2がつ21にち閲覧えつらん
  5. ^ 近江おうみ宣彦のぶひこ東京とうきょう美濃部みのべ都政とせいにおける保育ほいく政策せいさくかんする先行せんこう研究けんきゅう検討けんとう長崎純心大学ながさきじゅんしんだいがくじゅんしん人文じんぶん研究けんきゅうだい9ごう、2003ねん
  6. ^ 来月らいげつから都内とないぜんバス お年寄としよ無料むりょうに」『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ49ねん(1974ねん)10がつ16にち朝刊ちょうかん、13はん、22めん
  7. ^ 全国ぜんこく社会しゃかい福祉ふくし協議きょうぎかい戦後せんご保育ほいくしょ歴史れきし』1978ねん
  8. ^ 日比野ひびののぼる美濃部みのべ都政とせい福祉ふくし政策せいさく日本にっぽん経済けいざい評論ひょうろんしゃ、2002ねん
  9. ^ 佐島さじまぐん木谷きたに要治ようじ小沢おざわ紀美子きみこちょ環境かんきょう教育きょういく指導しどう事典じてん』75ぺーじ国土こくどしゃ、1996ねん9がつ
  10. ^ 写真しゃしんその (5) 東京とうきょう環境かんきょうきょく
  11. ^ 浅井あさいけんなんじみちみちがわかる辞典じてん』(初版しょはん日本にっぽん実業じつぎょう出版しゅっぱんしゃ、2001ねん11がつ10日とおか、138ぺーじISBN 4-534-03315-X 
  12. ^ ロム・インターナショナル(へん)『道路どうろ地図ちず びっくり!博学はくがく知識ちしき河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ〈KAWADEゆめ文庫ぶんこ〉、2005ねん2がつ1にち、209ぺーじISBN 4-309-49566-4 
  13. ^ a b c d 石原いしはら慎太郎しんたろう. 歴史れきし十字路じゅうじろって 戦後せんごななじゅうねん回顧かいこ. PHP研究所けんきゅうじょ 
  14. ^ 柿澤かきざわ弘治こうじ霞ケ関かすみがせきさん丁目ちょうめ大蔵おおくら官僚かんりょうはメガネをかけたドブネズミといわれる挫折ざせつかんなやすごいエリートたちから』学陽書房がくようしょぼう、1981ねんISBN 4-31383011-1
  15. ^ 香山かやま健一けんいち「『革新かくしん自治体じちたい時代じだいおわり」『月刊げっかん自由じゆう民主みんしゅ』1975ねん3がつ、24〜37ぺーじ
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
あずま龍太郎りゅうたろう
東京都の旗 東京とうきょう都知事とちじ
公選こうせんだい6・7・8だい:1967ねん - 1979ねん
次代じだい
鈴木すずき俊一しゅんいち