水口みずぐちひろしさん

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水口みずぐちひろしさん
みなくち こうぞう
生年月日せいねんがっぴ 1914ねん7がつ21にち
出生しゅっしょう 東京とうきょう本郷ほんごう本郷ほんごう
ぼつ年月日ねんがっぴ (1973-03-01) 1973ねん3月1にち(58さいぼつ
死没しぼつ 東京とうきょう千代田ちよだ永田町ながたちょう
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ
ぜんしょく 国家こっか公務員こうむいん農林省のうりんしょう
所属しょぞく政党せいとう 日本にっぽん社会党しゃかいとう
称号しょうごう したがえ
くんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう

当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1971ねん7がつ4にち - 1973ねん3月1にち
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水口みずぐち ひろしさん(みなくち こうぞう、1914ねん大正たいしょう3ねん7がつ21にち - 1973ねん昭和しょうわ48ねん3月1にち)は、日本にっぽん農林のうりん官僚かんりょう政治せいじ参議院さんぎいん議員ぎいん(1)。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう本郷ほんごう現在げんざい東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごうまれ。東京とうきょう府立ふりつ高等こうとう学校がっこうて、1938ねん昭和しょうわ13ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ卒業そつぎょう農林省のうりんしょう入省にゅうしょう1942ねん-1943ねん昭和しょうわ17-18ねん企画きかくいん出向しゅっこう[1]戦後せんご供米きょうまい制度せいど反対はんたい1946ねん昭和しょうわ21ねん)、ぜん農林のうりん職員しょくいん労働ろうどう組合くみあい結成けっせいして初代しょだい委員いいんちょう選出せんしゅつ官公庁かんこうちょう民主みんしゅ運動うんどう前面ぜんめん人事じんじへの発言はつげんけんることに尽力じんりょくぜん官公庁かんこうちょう共同きょうどう闘争とうそう委員いいんかい議長ぎちょうにもなった[1]。そのぜん官公かんこう職員しょくいん労働ろうどう組合くみあい初代しょだい委員いいんちょう就任しゅうにん1947ねん昭和しょうわ22ねん)のいちゼネストでは、中心ちゅうしん指導しどうしゃとなる。1952ねん昭和しょうわ27ねん)、農林省のうりんしょう食品しょくひん課長かちょうで、退官たいかん[2]

その農林のうりん事情じじょう研究けんきゅうかい結成けっせいして農村のうそん問題もんだい[2]1954ねん昭和しょうわ29ねん)、憲法けんぽう擁護ようご国民こくみん連合れんごう事務じむ局長きょくちょう1959ねん昭和しょうわ34ねん)、安保あんぽ改定かいてい阻止そし国民こくみん会議かいぎ事務じむ局長きょくちょう1960ねん昭和しょうわ35ねん)、安保あんぽ闘争とうそうかく団体だんたい意見いけん集約しゅうやくはか[1]1962ねん昭和しょうわ37ねん)、内閣ないかく臨時りんじ行政ぎょうせい調査ちょうさかい専門せんもん委員いいん[2]

1971ねん昭和しょうわ46ねん)、だい9かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ全国ぜんこくで、日本にっぽん社会党しゃかいとうから出馬しゅつばし、はつ当選とうせん1973ねん昭和しょうわ48ねん3月1にち参議院さんぎいん議員ぎいん面会めんかいしょまえたお[2]院内いんないで、心筋梗塞しんきんこうそくのため死去しきょ、58さい[3]死没しぼつをもってくんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう追贈ついぞうしたがえななからしたがえじょされた[4]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 安保あんぽ闘争とうそう―ひとつの運動うんどうろんてき総括そうかつ』(社会新報しゃかいしんぽう1968ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 水口みずぐち ひろしさん. コトバンクより2023ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d だい71かい国会こっかい 参議院さんぎいん ほん会議かいぎ だい8ごう 昭和しょうわ48ねん3がつ7にち
  3. ^ だい71かい国会こっかい 参議院さんぎいん 議院ぎいん運営うんえい委員いいんかい だい8ごう 昭和しょうわ48ねん3がつ7にち
  4. ^ 官報かんぽうだい13879ごう10ぺーじ 昭和しょうわ48ねん4がつ2にちごう