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中野なかの重治しげはる

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中野なかの 重治しげはる
(なかの しげはる)
誕生たんじょう 1902ねん1がつ25にち
日本の旗 日本にっぽん福井ふくいけん坂井さかいぐん高椋たかむくむらげん坂井さかい
死没しぼつ (1979-08-24) 1979ねん8がつ24にち(77さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう新宿しんじゅく河田こうだまち
墓地ぼち 福井ふくいけん坂井さかい丸岡まるおかまち太閤たいこうざんまい
職業しょくぎょう 小説しょうせつ詩人しじん評論ひょうろん政治せいじ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 学士がくし文学ぶんがく
最終さいしゅう学歴がくれき 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくどく文科ぶんか
ジャンル 小説しょうせつ評論ひょうろん
文学ぶんがく活動かつどう プロレタリア文学ぶんがく戦旗せんき
転向てんこう文学ぶんがく
代表だいひょうさく中野なかの重治しげはる詩集ししゅう』(1935ねん
むらいえ』(1935ねん
うたのわかれ』(1939ねん
斎藤さいとう茂吉しげよしノオト』(1940ねん - 1941ねん評論ひょうろん
『むらぎも』(1954ねん
なしはな』(1959ねん
甲乙こうおつへいひのと』(1969ねん
おも受賞じゅしょうれき 毎日まいにち出版しゅっぱん文化ぶんかしょう(1955ねん
読売よみうり文学ぶんがくしょう(1960ねん
野間のま文芸ぶんげいしょう(1969ねん
配偶はいぐうしゃ 原泉げんせん(1930ねん - 1979ねん
親族しんぞく 中野なかの鈴子すずこいもうと
ウィキポータル 文学ぶんがく
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中野なかの重治しげはる
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん共産党きょうさんとう→)
日本にっぽんのこえ

選挙せんきょ 全国ぜんこく
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1947ねん5月3にち - 1950ねん5月2にち
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中野なかの 重治しげはる(なかの しげはる、1902ねん明治めいじ35ねん1がつ25にち - 1979ねん昭和しょうわ54ねん8がつ24にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ詩人しじん評論ひょうろん政治せいじ代表だいひょうさく小説しょうせつうたのわかれ』『むらぎも』『なしはな』『甲乙こうおつへいひのと』、評論ひょうろん斎藤さいとう茂吉しげよしノオト』、詩集ししゅう中野なかの重治しげはる詩集ししゅう』など。詩人しじん中野なかの鈴子すずこ実妹じつまい女優じょゆう原泉げんせんつま

福井ふくいけん坂井さかい出身しゅっしん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶどく文科ぶんかそつよんだか時代じだい窪川くぼかわ鶴次郎つるじろうらをり、短歌たんか小説しょうせつ発表はっぴょうするようになる。東大とうだい入学にゅうがく窪川くぼかわほり辰雄たつおらと『驢馬ろば』を創刊そうかん一方いっぽうマルクス主義まるくすしゅぎプロレタリア文学ぶんがく運動うんどう参加さんかし、「ナップ」や「コップ」を結成けっせい。このあいだおおくの作品さくひん発表はっぴょうした。1931ねん日本にっぽん共産党きょうさんとうはいったが、検挙けんきょされ1934ねん転向てんこうする。

戦後せんごふたた日本にっぽん共産党きょうさんとうはいり、また『しん日本にっぽん文学ぶんがく』の創刊そうかんくわわった。平野ひらのけんあら正人まさとらと「政治せいじ文学ぶんがく論争ろんそう」をこし、戦後せんご文学ぶんがく中心ちゅうしんしゃであった。1947ねんから50ねんまで日本にっぽん共産党きょうさんとう参議院さんぎいん議員ぎいんつとめる。だが1964ねん日本にっぽん共産党きょうさんとう政治せいじ理論りろん対立たいりつし、除名じょめいされた。1969ねん神山かみやま茂夫しげお共編きょうへんで『日本にっぽん共産党きょうさんとう批判ひはん』を出版しゅっぱんしている。

経歴けいれき

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中野なかのは1902ねん1がつ25にち坂井さかいぐん高椋たかむくむら現在げんざい坂井さかい丸岡まるおかまちいち本田ほんだまれた。ちちふじさくはははとら。あに一人ひとりいもうとさんにんいた。中野なかのちち大蔵省おおくらしょう煙草たばこ専売せんばいきょく勤務きんむしていたので、神奈川かながわけん平塚ひらつかまち秦野はだのまちんでいたときもあった。ちち鹿児島かごしま転勤てんきんさいに、一本田いっぽんでんもどり、祖父母そふぼそだてられる。

1908ねんだいさん高椋たかむく小学校しょうがっこう入学にゅうがくする(卒業そつぎょうには高椋たかむく西小学校にししょうがっこう改称かいしょうされている)。1914ねん福井ふくい県立けんりつ福井ふくい中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく在学ざいがくちゅう興宗寺こうしゅうじ下宿げしゅくしていた)、同年どうねん祖母そぼのみわがぼっした。1919ねん卒業そつぎょう当時とうじ導入どうにゅうされていた全国ぜんこく試験しけん首席しゅせきになるが、第一高等学校だいちこうとうがっこうではなく、金沢かなざわだいよん高等こうとう学校がっこう文科ぶんかおつるい入学にゅうがくする。なお、8がつ中野なかのあに耕一こういち勤務きんむさき朝鮮ちょうせん銀行ぎんこう客死かくししている。在学ざいがくちゅう窪川くぼかわ鶴次郎つるじろうらをり、短歌たんかなどを発表はっぴょうする。1923ねん関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさい金沢かなざわ避難ひなん生活せいかつおくっていた室生むろう犀星さいせいのもとをはじめてたずね、以後いご師事しじした。

1924ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく独逸どいつ文学ぶんがく入学にゅうがく。5月に祖父そふ兵衛ひょうえ死没しぼつした。1925ねん富山とやま同人どうじん雑誌ざっし『ふるさと』の後継こうけいとして『裸像らぞう』を大間知おおまち篤三とくぞう深田ふかた久弥ひさや舟木ふなき重彦しげひこらとともに創刊そうかんし、『しらなみ』『なみ』などを発表はっぴょうし、大間知おおまちはやし房雄ふさお紹介しょうかい東京大学とうきょうだいがく新人しんじんかいはいった。また、はやし久板ひさいた栄二郎えいじろう鹿地かじわたるらとともに社会しゃかい文芸ぶんげい研究けんきゅうかいを、1926ねん鹿地かじらとともにマルクス主義まるくすしゅぎ芸術げいじゅつ研究けんきゅうかい(マルげい)を設置せっちする。さらに室生むろうもとった大学だいがくいちねん後輩こうはいであるほりらや窪川くぼかわともに、同人どうじん雑誌ざっし驢馬ろば』を創刊そうかんし『夜明よあまえのさよなら』『うた』などの発表はっぴょう芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけにも評価ひょうかされた。同年どうねんにマルげい会員かいいんとともに日本にっぽんプロレタリア芸術げいじゅつ連盟れんめい(プロげい)へはいり、中央ちゅうおう委員いいんとなる。プロレタリア文学ぶんがく運動うんどう参加さんかし、抒情じょじょうせい戦闘せんとうせいをあわせもった作品さくひん有名ゆうめいになった。1928ねんには全日本ぜんにほん無産むさんしゃ芸術げいじゅつ連盟れんめい(ナップ)や日本にっぽんプロレタリア文化ぶんか連盟れんめい(コップ)の結成けっせいにも参加さんかしている。このあいだ作品さくひんに『芸術げいじゅつかんするはしてきおぼがき』(評論ひょうろん)『てつはなし』(小説しょうせつ)など。1930ねんには女優じょゆう原泉げんせん結婚けっこんする。1932ねんにコップへの弾圧だんあつつよくなり検挙けんきょされたが、1934ねん転向てんこう条件じょうけん出獄しゅつごくした。以後いご中野なかの文学ぶんがくしゃとして抵抗ていこう継続けいぞくし、転向てんこう小説しょうせつさく(「だいいちしょう」「鈴木すずき みやこさん 八十島やそじま」「むらいえ」「ひとつのちいさい記録きろく」「小説しょうせつけぬ小説しょうせつ」)や『論議ろんぎ小品しょうひん』などによって時流じりゅう批判ひはんつづけたため、1937ねん中野なかの宮本みやもと百合子ゆりこ戸坂とさかじゅんおか邦雄くにおらとともに執筆しっぴつ禁止きんし処分しょぶんけている。

太平洋戦争たいへいようせんそう開始かいし中野なかの父親ちちおや死去しきょによる帰省きせいちゅうだったために検挙けんきょをまぬがれた。中野なかの戦時せんじも『斎藤さいとう茂吉しげよしノオト』などの作品さくひん発表はっぴょうした。文芸ぶんげい協会きょうかい日本にっぽん文学ぶんがくほう国会こっかいへの改組かいそにあたって、自分じぶん過去かこ経歴けいれき左翼さよく活動かつどう)のために入会にゅうかいこばまれるのではないかという不安ふあんにおそわれて、菊池きくちひろし入会にゅうかい懇請こんせい手紙てがみおくっていた(のちに、手紙てがみ保管ほかんしていた平野ひらのけんによって暴露ばくろされた)。積極せっきょくてき戦争せんそう加担かたんする作品さくひん発表はっぴょうしたり、戦争せんそうあお運動うんどうおこなったりはしなかったものの、戦争せんそう反対はんたいする活動かつどうおこなわないまま学徒がくと出陣しゅつじんおおくの学生がくせいまなべなかばで特攻とっこう玉砕ぎょくさいしていく様子ようす尻目しりめ終戦しゅうせんむかえた。この時期じき手紙てがみが『いとしきしゃ上下じょうげ日記にっきが『敗戦はいせんぜん日記にっき』としてかく中央公論社ちゅうおうこうろんしゃで、また中野なかの文集ぶんしゅう中野なかの重治しげはる画帖がじょう』(新潮社しんちょうしゃ、1995ねん)が刊行かんこうされている。

終戦しゅうせん直後ちょくご1945ねん11月、中野なかの日本にっぽん共産党きょうさんとうさい入党にゅうとうした。中野なかのはまた、あたらしい文学ぶんがく出発しゅっぱつねが宮本みやもと蔵原くらはらおもんみじんたちとともにしん日本にっぽん文学ぶんがくかい創立そうりつし、民主みんしゅ主義しゅぎ文学ぶんがく発展はってんのために精力せいりょくてき活動かつどう開始かいしする。『近代きんだい文学ぶんがく』の平野へいやあら正人まさとを、「しん日本にっぽん文学ぶんがく」を中心ちゅうしんとして『批評ひひょう人間にんげんせい』をいて批判ひはんし、「政治せいじ文学ぶんがく論争ろんそう」をこした。その批判ひはんは、政治せいじ主義しゅぎてきであったとの評価ひょうかのち中野なかのによってなされている。1947ねんから3年間ねんかん参議院さんぎいん議員ぎいん全国ぜんこく選出せんしゅつ)をつとめた。とう1950ねんコミンフォルム批判ひはん問題もんだい分裂ぶんれつしたさいには国際こくさいぞくした。1958ねん日本にっぽん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいん選出せんしゅつされた。しかし、そのころのしん日本にっぽんぶん学会がっかいないアヴァンギャルドてき方法ほうほう探究たんきゅうしようとする花田はなた清輝きよてる武井たけい昭夫あきおたちが、日本にっぽん共産党きょうさんとう政治せいじ理論りろん対立たいりつしていくなかで、武井たけいたちの方向ほうこう支持しじするようになり、1964ねん部分ぶぶんかくとま条約じょうやく批准ひじゅんをめぐる意見いけん相違そういのなかで、とう決定けっていにそむいて、志賀しが義雄よしお神山かみやま茂夫しげお鈴木すずき市蔵いちぞうらとともに「日本にっぽんのこえ旗揚はたあげした。この〈日本にっぽんのこえ〉の命名めいめいをしたとつたえられており、その結果けっか、1964ねん日本にっぽん共産党きょうさんとう除名じょめいされた。また、しん日本にっぽん文学ぶんがくかい内部ないぶでも、部分ぶぶんかくとま条約じょうやく評価ひょうかをめぐって異論いろんをもち、しん日本にっぽん文学ぶんがくかい大会たいかい意見いけん相違そうい保留ほりゅうする対案たいあん提出ていしゅつしようとした江口えぐちきよししも正次まさつぐたちの除籍じょせき賛成さんせいし、かれらは日本にっぽん民主みんしゅ主義しゅぎ文学ぶんがく同盟どうめい結成けっせいするにいたった。

中野なかの1967ねんに「日本にっぽんのこえ」を離脱りだつし、志賀しがとはたもとかつことになったが、神山かみやまと『日本にっぽん共産党きょうさんとう批判ひはん』を出版しゅっぱん終生しゅうせい左翼さよく運動うんどう文学ぶんがく運動うんどう活動かつどうした。1978ねんに「小説しょうせつ評論ひょうろんなど多年たねんにわたる文学ぶんがくじょう業績ぎょうせき」により朝日あさひしょう受賞じゅしょうした。

中野なかのは1979ねん6がつ白内障はくないしょう手術しゅじゅつのため都立とりつ駒込こまごみ病院びょういん入院にゅういん術後じゅつご退院たいいんしたが7がつ東京女子医科大学とうきょうじょしいかだいがく病院びょういんさい入院にゅういんする。そして8がつ24にち1721ふんたんのうがんのために死去しきょした。

全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼうで3刊行かんこう最初さいしょ全集ぜんしゅうは1959-63ねんぜん19かん別巻べっかん1)、だい2は1976-80ねんぜん28かん)、だい3だい2ばん増補ぞうほ改訂かいてい)は1996-98ねん出版しゅっぱんぜん28かん別巻べっかん1[書簡しょかん書誌しょし索引さくいん])。

中野なかの没後ぼつご中野なかの生誕せいたん丸岡まるおかまちげん 坂井さかい)にて「中野なかの重治しげはる記念きねん文学ぶんがく奨励しょうれいしょう 全国ぜんこく高校生こうこうせいのコンクール」がおこなわれていたが、市町村しちょうそん合併がっぺい中止ちゅうしされた。

命日めいにちの8がつ24にちあいしたはなにちなみ「くちなし」とばれ、毎年まいとし8がつ坂井さかい丸岡まるおかまち生家せいかあとしのぶイベントが開催かいさいされている[1]

エピソード

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おも作品さくひん

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  • 藝術げいじゅつかんするはししょてきおぼがき改造かいぞうしゃ 1929、岩波いわなみ文庫ぶんこ 1978 
  • 夜明よあまえのさよなら』改造かいぞうしゃ 1930 (新鋭しんえい文学ぶんがく叢書そうしょ)
  • てつはなし戦旗せんきしゃ 1930 (日本にっぽんプロレタリア作家さっか叢書そうしょ)
  • 子供こどもはな 随筆ずいひつ評論ひょうろん沙羅さら書店しょてん 1935 
  • 論議ろんぎ小品しょうひん現代げんだい文化ぶんかしゃ 1935 
  • 中野なかの重治しげはる詩集ししゅうナウカしゃ 1935、のち新潮しんちょう文庫ぶんこ岩波いわなみ文庫ぶんこ思潮しちょうしゃ現代げんだい詩文しぶんほか
  • ハイネ人生じんせい読本とくほん六芸りくげいしゃ 1936 人生じんせい読本とくほん叢書そうしょ 
  • 小説しょうせつけぬ小説しょうせつ竹村たけむら書房しょぼう 1937 
  • 空想くうそうとシナリオ』改造かいぞうしゃ 1939 のち角川かどかわ文庫ぶんこ 
  • うたのわかれ新潮社しんちょうしゃ 1940 のち新潮しんちょう文庫ぶんこ角川かどかわ文庫ぶんこ。「むらいえ」ほか 
  • 汽車きしゃかんき』小山こやま書店しょてん 1940 のち角川かどかわ文庫ぶんこ
  • 齋藤さいとう茂吉しげよしノオト』筑摩書房ちくましょぼう 1941、のち筑摩ちくま叢書そうしょ、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 
  • 日本にっぽん文学ぶんがくしょ問題もんだい新生しんせいしゃ 1946
  • たのしき雑談ざつだんぜん4かん 筑摩書房ちくましょぼう 1947-49  
  • 文学ぶんがくのこと 文学ぶんがく以前いぜんのこと』解放かいほうしゃ 1947
  • ゆきした那珂なか書店しょてん 1948
  • 中野なかの重治しげはる選集せんしゅうぜん10かん 筑摩書房ちくましょぼう 1948-49
  • はなしよっつ・つけたりひと戦後せんご短篇たんぺんしゅうしん日本にっぽん文学ぶんがくかい 1949
  • 中野なかの重治しげはる国会こっかい演説えんぜつしゅう八雲やくも書店しょてん 1949
  • 批評ひひょう人間にんげんせい 戦後せんご評論ひょうろんしゅうしん日本にっぽん文学ぶんがくかい 1949
  • 文学ぶんがくろん』ナウカしゃ 1949
  • 中野なかの重治しげはる選集せんしゅうあきら)』河出かわで書房しょぼう 1950 しん日本にっぽんぶん学会がっかいへん
  • 啄木たくぼく弘文こうぶんどうアテネ文庫ぶんこ 1951
  • 政治せいじ文学ぶんがく東方とうほうしゃ 1952
  • 鴎外おうがい その側面そくめん筑摩書房ちくましょぼう 1952、のち筑摩ちくま叢書そうしょ、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ
  • はなすこととくことと』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい新書判しんしょばん) 1953
  • むらぎもだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ 1954、のち角川かどかわ文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ  
  • 『わが読書どくしょ案内あんない和光わこうしゃ 1955
  • よるにちれ』筑摩書房ちくましょぼう 1955
  • そととのつながり』筑摩書房ちくましょぼう 1956
  • 事実じじつ解釈かいしゃく たてひょうがわをよ』だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ(ミリオン・ブックス) 1957
  • はぎのもんかきや』筑摩書房ちくましょぼう 1957、のち「はぎのもんかきや・しゃくさけ角川かどかわ文庫ぶんこ 
  • 『ハイネのはし村山むらやま書店しょてん 1957
  • 『おばあさんのむら岩波いわなみ少年しょうねん文庫ぶんこ 1957
  • 映画えいが雑感ざっかん 素人しろうとこころもち』だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ 1958
  • 中野なかの重治しげはる全集ぜんしゅうぜん19かん別巻べっかん1、筑摩書房ちくましょぼう 1959-63 - 別巻べっかん中野なかの重治しげはる研究けんきゅう
  • なしはな新潮社しんちょうしゃ 1959、のち角川かどかわ文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ岩波いわなみ文庫ぶんこ 
  • わすれぬうちに』筑摩書房ちくましょぼう 1960
  • 中国ちゅうごくたび筑摩書房ちくましょぼう 1960
  • 活字かつじ以前いぜん世界せかい筑摩書房ちくましょぼう 1962
  • ながめ』筑摩書房ちくましょぼう 1965
  • 事実じじつって』筑摩書房ちくましょぼう 1965
  • 春夏秋冬しゅんかしゅうとう筑摩書房ちくましょぼう 1968
  • 室生むろう犀星さいせい筑摩ちくま叢書そうしょ 1968
  • 日本にっぽん共産党きょうさんとう批判ひはん神山かみやま茂夫しげお共編きょうへんちょさんいち書房しょぼう 1969
  • 甲乙こうおつへいひのと』(上下じょうげ講談社こうだんしゃ 1969 のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 小品しょうひんじゅうさんけん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 1970
  • 四方しほうながめ』新潮社しんちょうしゃ 1970
  • 小林こばやし多喜二たきじ宮本みやもと百合子ゆりこ講談社こうだんしゃ 1972
  • レーニン素人しろうとかた筑摩書房ちくましょぼう 1973
  • ほんとつきあうほう筑摩書房ちくましょぼう 1975、ちくま文庫ぶんこ 1987
  • 『わがくに わがくにびと』新潮社しんちょうしゃ 1975
  • 中野なかの重治しげはる全集ぜんしゅうぜん28かん筑摩書房ちくましょぼう 1976-80
  • 日本語にほんご実用じつようめん筑摩書房ちくましょぼう 1976
  • 緊急きんきゅう順不同じゅんふどうさんいち書房しょぼう 1977
  • 沓掛くつかけ筆記ひっき河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 1979
没後ぼつご刊行かんこう
おも没後ぼつご新編しんぺん文庫ぶんこ
  • しゃくさけはぎのもんかきや』講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1992
  • 『あけびのはな講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ現代げんだい日本にっぽんのエッセイ〉1993
  • 新編しんぺん 沓掛くつかけ筆記ひっき講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ現代げんだい日本にっぽんのエッセイ〉1994
  • むらいえ・おじさんのはなしうたのわかれ』講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1994
  • 空想くうそうとシナリオ・汽車きしゃかんき』講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1997
  • うたのわかれ・しゃくさけ中公ちゅうこう文庫ぶんこ 2021 - 作品さくひん9へん

翻訳ほんやく

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おも伝記でんき研究けんきゅう

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  • 杉野すぎの要吉ようきち中野なかの重治しげはる研究けんきゅう 戦前せんぜんせん中篇ちゅうへん笠間かさま書院しょいん 1979ねん
  • 北川きたがわとおる中野なかの重治しげはる 近代きんだい日本にっぽん詩人しじんせん15』 筑摩書房ちくましょぼう、1981ねん
  • 松下まつしたひろし評伝ひょうでん中野なかの重治しげはる筑摩書房ちくましょぼう 1998ねん/平凡社へいぼんしゃライブラリー、2011ねんぞうてい
    信頼しんらいあつ編集へんしゅう担当たんとうしゃ全集ぜんしゅうんだ、ロシア文学ぶんがくしゃでもある。
  • 佐多さた稲子いなこなつしおり 中野なかの重治しげはるをおくる』 新潮社しんちょうしゃ 1983ねん/講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、2010ねん ※盟友めいゆう回想かいそう
  • 石堂いしどうきよしりん中野なかの重治しげはるとの日々ひび勁草書房しょぼう 1989ねん - ※往復おうふく書簡しょかん多数たすう所収しょしゅう
    • 石堂いしどうきよしりん 『わがとも中野なかの重治しげはる平凡社へいぼんしゃ 2002ねん
    • 石堂いしどうきよしりん中野なかの重治しげはる社会しゃかい主義しゅぎ勁草書房しょぼう 1991ねん
  • 小田切おだぎり秀雄ひでお中野なかの重治しげはる 文学ぶんがく根源こんげんから』 講談社こうだんしゃ 1999ねん ※長年ながねん交流こうりゅうがあった
  • 松尾まつおたかし中野なかの重治しげはる訪問ほうもん岩波書店いわなみしょてん 1999ねん ※晩年ばんねん交流こうりゅうがあった
  • てい道明みちあき中野なかの重治しげはる伝説でんせつ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2002ねん ※さい晩年ばんねん弟子でし
    • てい道明どうみょう 『「しらなみ」紀行きこう 中野なかの重治しげはる青春せいしゅん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2001ねん
    • てい道明どうみょう中野なかの重治しげはる私記しき構想こうそうしゃ 1990ねん
  • 藤森ふじもり節子せつこ女優じょゆうはら泉子いずみこ 中野なかの重治しげはるともきて』 新潮社しんちょうしゃ 1994ねん
  • はやし淑美よしみ中野なかの重治しげはる 連続れんぞくする転向てんこう八木はちぼく書店しょてん 1993ねん
    • はやし淑美よしみ批評ひひょう人間にんげんせい 中野なかの重治しげはる平凡社へいぼんしゃ 2010ねん
  • ミリアム・シルババーグ中野なかの重治しげはるとモダン・マルクス主義まるくすしゅぎはやし淑美よしみほかやく平凡社へいぼんしゃ 1998ねん
  • 竹内たけうち栄美子えみこ戦後せんご日本にっぽん中野なかの重治しげはるという良心りょうしん平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ 2009ねん - ※以下いか3さつ入門にゅうもんしょ
  • はやし淑美よしみへん新潮しんちょう日本にっぽん文学ぶんがくアルバム64 中野なかの重治しげはる新潮社しんちょうしゃ 1996ねん
  • 竹内たけうち栄美子えみこ丸山まるやまいちへん中野なかの重治しげはるほり田善でんぜんまもる 往復おうふく書簡しょかん 1953-1979』かげ書房しょぼう 2018ねん
  • 廣瀬ひろせ陽一よういち中野なかの重治しげはる朝鮮ちょうせん問題もんだい 連帯れんたい神話しんわえて』あおゆみしゃ、2021ねん12月28にちISBN 978-4-7872-9264-3 電子でんしばんあり)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ くちなし
  2. ^ 阿川あがわ弘之ひろゆき志賀しが直哉なおや した新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ〉、1997ねん、181-187ぺーじISBN 4101110166 
  3. ^ 中野なかの重治しげはる朝鮮ちょうせん問題もんだい書評しょひょう 日本にっぽん社会しゃかいの「鈍感どんかんさ」克服こくふくするこうしょ好日こうじつ”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2022ねん2がつ6にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 桐山きりやま秀樹ひでき, 吉村よしむら祐美ひろみ軽井沢かるいざわという聖地せいち』NTT出版しゅっぱん、2012ねん、96ぺーじISBN 9784757150812 

外部がいぶリンク

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