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文学ぶんがく

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ジャン・オノレ・フラゴナール読書どくしょするおんな』(1772ねん

文学ぶんがく(ぶんがく、英語えいご: literature)は、言語げんごによって表現ひょうげんされた芸術げいじゅつのこと。小説しょうせつ戯曲ぎきょく脚本きゃくほん随筆ずいひつ評論ひょうろんなどの総称そうしょうである。また、それらを研究けんきゅうする学問がくもん文芸ぶんげいがく参照さんしょう)。文芸ぶんげい(ぶんげい)ともいう。

原初げんしょてき文学ぶんがく口承こうしょう文芸ぶんげいであったが、写本しゃほんによる書物しょもつ流通りゅうつうて、やがて印刷いんさつ技術ぎじゅつ普及ふきゅうするにつれて活字かつじ印刷いんさつによる文学ぶんがく作品さくひん出版しゅっぱん主流しゅりゅうになった。現在げんざいでは電子でんし書籍しょせきインターネット利用りようした電子でんしメディアじょう表現ひょうげんされるものもある。

名称めいしょうについて[編集へんしゅう]

西洋せいようでの「文学ぶんがく」に相当そうとうするかたりえい: literatureふつ: littératureどく: Literatur: letteratura西にし: literatura)はラテン語らてんごlittera文字もじおよびその派生はせいlitteratura筆記ひっき文法ぶんぽう教養きょうよう)を語源ごげんとし、現在げんざいではおも以下いか意味いみつ。

  • 言語げんごによってつくられ、審美しんびてき側面そくめん筆記ひっきまたは口述こうじゅつの(科学かがくてき作品さくひん教育きょういくてき作品さくひんなどとはことなる)芸術げいじゅつ作品さくひん総体そうたい: 1764ねん初出しょしゅつ
  • そのような作品さくひん創作そうさくし、研究けんきゅうする活動かつどう: 19世紀せいき前半ぜんはん以降いこう
  • 審美しんびてき側面そくめん有無うむにかかわらず、ある主題しゅだい関係かんけいした出版しゅっぱんぶつ総体そうたい[ちゅう 1]: 1758ねんドイツLiteraturから

中国ちゅうごく日本にっぽんでの「文学ぶんがく」のかたり古代こだいより書物しょもつによる学芸がくげい全般ぜんぱん意味いみした[1]が、今日きょうのような言葉ことばによる審美しんびてき創作そうさく意味いみするようになったのはliterature(えい)、littérature(ふつ)の訳語やくごとして「文学ぶんがく」がてられた明治めいじ時代じだいからである。初期しょき翻訳ほんやくとしては、1857ねんジョゼフ・エドキンズによって『ろくごうくさむらだん』のなかあらわされた論説ろんせつぶんまれ臘為西国さいこく文学ぶんがく[2]や、1866ねん香港ほんこんつかわされたドイツ宣教師せんきょうしWilhelm Lobscheidによる英語えいご広東かんとん中国ちゅうごく辞典じてん『English and Chinese Dictionary』[3]げられ、英語えいごから中国語ちゅうごくごへの翻訳ほんやくが、著作ちょさくとおして日本にっぽんはいってきた。


文学ぶんがく定義ていぎ概念がいねん[編集へんしゅう]

明確めいかく定義ていぎ[編集へんしゅう]

文学ぶんがくは、言葉ことば口頭こうとうまたは文字もじ)によるコミュニケーションのうち、言語げんごのあらゆるちから活用かつようしてへの効果こうか増大ぞうだいさせようとするものとして定義ていぎされる。個人こじんてき判断はんだんによって境界きょうかい曖昧あいまいでまちまちとなる文学ぶんがくは、その媒体ばいたい分野ぶんやではなく審美しんびてき機能きのうによって特徴とくちょうづけられる: メッセージの表現ひょうげん方法ほうほう内容ないようより優位ゆういであり、(複雑ふくざつなものもふくむ)情報じょうほう伝達でんたつかぎられた実用じつようてきなコミュニケーションからもはみすものである。今日きょうでは、文学ぶんがくはそれによって作者さくしゃ歳月さいげつへだてて我々われわれかたけるところの書物しょもつ文化ぶんかむすけられ、しかしながらまた同時どうじ我々われわれ歌謡かようがその遠縁とおえんであるところの文字もじたぬ人々ひとびと伝統でんとうてき詩歌しかのようなさまざまなかたち口承こうしょうによる表現ひょうげんや、役者やくしゃこえ身体しんたいとおして受容じゅようされる演劇えんげきなどにも関係かんけいする。

もっと普通ふつう意味いみでの文学ぶんがくは、それ自身じしんれっきとした芸術げいじゅつである。しかしながら、哲学てつがくしょや、舞台ぶたい芸術げいじゅつ戯曲ぎきょく脚本きゃくほんなど(さらには漫画まんがやあるしゅ文字もじによる現代げんだい美術びじゅつなど)に接近せっきんすると、この芸術げいじゅつ境界きょうかいさだめるのはときとして困難こんなんである。一般いっぱんてきには、文学ぶんがくとく審美しんびてき目的もくてきないしは形式けいしき作品さくひんさい定義ていぎされる。この審美しんびてき側面そくめん文学ぶんがく志向しこうせいであり、ジャーナリズム政治せいじなどのなんらかの特定とくてい制約せいやくしたが各種かくしゅ作品さくひん識別しきべつする基準きじゅんである。一見いっけんすると、この定義ていぎ純粋じゅんすい哲学てつがくてき政治せいじてき歴史れきしてき作品さくひん排除はいじょするようにおもえる。だが、作品さくひんかく分野ぶんややジャンルが文学ぶんがくぞくするかかの分類ぶんるいにはとくに慎重しんちょうであるべきである。あるテクストは作者さくしゃがそうのぞまなかったにもかかわらず、またそれがその分野ぶんやとしての目的もくてきではなかったにもかかわらず一定いってい文学ぶんがくてき側面そくめんってしまいる。作品さくひん文学ぶんがくせい基準きじゅん学者がくしゃあいだ数々かずかず論争ろんそうまととなってきた。あるもの分野ぶんやあいだにヒエラルキーをもうけ、またあるものはある作品さくひんがその分野ぶんやによく一致いっちしていることや、文学ぶんがくてきテクストに期待きたいされる役割やくわり専念せんねんしていることで満足まんぞくする。またあるものにとっては、文学ぶんがく傑作けっさくなによりもまずとき試練しれんえるものであり、それこそがぜん世界せかいてき射程しゃてい保証ほしょうする資格しかくなのである。

実際じっさいのところ文学ぶんがくとはまずだいいちに、自分じぶん自身じしん自分じぶん世界せかいについて自分じぶん言葉ことばかたものと、その発見はっけん受容じゅようわけかちものとの出会であいなのであり、その形式けいしきてしのない多様たようせいなくあらたにまれる主題しゅだい人間にんげん存在そんざい条件じょうけんそのものを物語ものがたっているのである。

文学ぶんがく」という概念がいねん歴史れきしてき発達はったつ[編集へんしゅう]

審美しんびてき志向しこうせい作品さくひん集合しゅうごうという文学ぶんがく定義ていぎはかなり近代きんだいになってからのものである。事実じじつ、それまではむしろ、相応そうおう厳密げんみつ形式けいしきてき基準きじゅん適合てきごうする作品さくひん文学ぶんがくとしてみとめられる傾向けいこうにあった。アリストテレスは『詩学しがく』において、悲劇ひげき叙事詩じょじしまとしぼりそれらの話法わほう支配しはいする形式けいしきてき規則きそく導入どうにゅうした。さらに、古代こだいギリシアじんにとっては、歴史れきし純然じゅんぜんたる芸術げいじゅつであり、しんクレイオー霊感れいかんあたえられるものであった。

随筆ずいひつもまた文学ぶんがくぞくするとかんがえられていた。今日きょうのもはや文学ぶんがく作品さくひんとはかんがえられなくなったような随筆ずいひつくらべ、当時とうじ随筆ずいひつでは主題しゅだい重要じゅうようなものではなかった。哲学てつがくもまたおとらず両義りょうぎてきなものである。プラトン対話たいわへんやローマ皇帝こうていマルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省じせいろく』の文学ぶんがくせい今日きょうだれ疑問ぎもんおもわないであろう。他方たほうで、文学ぶんがく審美しんびせい厳格げんかく単純たんじゅんせいをもってあらわされるがしばしばもっと純粋じゅんすい文学ぶんがく形式けいしきであるとかんがえられてきた。作品さくひん文学ぶんがくせいうつろいやすいものであり、世紀せいきるととも文学ぶんがく領域りょういき拡大かくだいし、多様たよう通俗つうぞくてきしょ形式けいしき次々つぎつぎんでったものとおもわれる。

作者さくしゃ作家さっか[編集へんしゅう]

文学ぶんがく定義ていぎもとづくと、「作者さくしゃ」と「作家さっか」のあいだには区別くべつがある。作家さっか文学ぶんがく作品さくひんものすが、作者さくしゃ政治せいじ歴史れきし科学かがく文学ぶんがくなどのべつわずなんらかの書物しょもつあらわしたすべてのものす。

芸術げいじゅつ文学ぶんがく芸術げいじゅつ職人しょくにん[編集へんしゅう]

文学ぶんがく作品さくひん芸術げいじゅつせいどころ文芸ぶんげい評論ひょうろんたちを頻繁ひんぱん分断ぶんだんしてきた問題もんだいである。古代こだいより、2つのことなった概念がいねん存在そんざいし、たるべき様々さまざま文学ぶんがく芸術げいじゅつ潮流ちょうりゅう影響えいきょうおよぼしてきた。アリストテレスは『詩学しがく』において表現ひょうげんてき側面そくめん重要じゅうようでないとかんがえ、それよりも作品さくひん形式けいしきてき特性とくせい固執こしつしていた。作家さっか仕事しごとは、厳密げんみつ規則きそく理論りろんしたがうというめん建物たてものてる大工だいく仕事しごと類似るいじしたものであるということになる[4]。それにはんして、にせロンギヌス(en)は『崇高すうこうろん』において、感情かんじょう表現ひょうげん前面ぜんめんした。崇高すうこう読者どくしゃ興奮こうふんさせ、恍惚こうこつとさせるものであり、それは話法わほう完成かんせい一致いっちするものとされた。ここには、審美しんびてき題材だいざい細工ざいくほどこ反応はんのうこそうとはたら職人しょくにんと、公衆こうしゅう移入いにゅうさせるような感情かんじょうあらわつく霊感れいかんめぐまれた芸術げいじゅつ対比たいひ見出みいだされる。この論争ろんそう文芸ぶんげい評論ひょうろん幾度いくどとなくさい出現しゅつげんし、また古典こてん主義しゅぎロマン主義しゅぎ自然しぜん主義しゅぎ耽美たんび主義しゅぎのようなたがいに相容あいいれない潮流ちょうりゅう数多かずおおした。

文学ぶんがく著述ちょじゅつ[編集へんしゅう]

文学ぶんがくてき著述ちょじゅつ正書法せいしょほう文法ぶんぽうだけでなく、修辞しゅうじがく詩学しがく規範きはんにもしたがう。作家さっか文体ぶんたいつくげることを可能かのうにする言語げんごてきしょ手段しゅだん利用りようし、話法わほうささえ、散文さんぶん美的びてきなものにするために詩学しがくてき破格はかく脱線だっせん造語ぞうごなどもまたどころとする。作者さくしゃ固有こゆう文体ぶんたいてき要素ようそ修辞しゅうじ技法ぎほうのような修辞しゅうじがくてき効果こうか双方そうほう駆使くしされ、そのようにして作家さっか一線いっせんかく芸術げいじゅつとなるのである。

文学ぶんがく形態けいたい[編集へんしゅう]

オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく蔵書ぞうしょ

メディア[編集へんしゅう]

原初げんしょてき文学ぶんがく口伝くでん口承こうしょう文芸ぶんげい)である。それが文字もじきとめられるようになり写本しゃほんかたち流布るふするようになったが、15世紀せいき以降いこう印刷いんさつ技術ぎじゅつ普及ふきゅうし、やがて活版かっぱん印刷いんさつによる文学ぶんがく作品さくひん出版しゅっぱんさかんになった。現在げんざいではインターネット代表だいひょうされる電子でんしメディアじょう表現ひょうげんされるものもある。

文学ぶんがく形式けいしき[編集へんしゅう]

メディアの変遷へんせんおうじ、最初さいしょ音声おんせい受容じゅようされる叙事詩じょじし抒情詩じょじょうしなどのや、演劇えんげきげき文学ぶんがく)が中心ちゅうしんてき役割やくわりたしたが、近代きんだいいた文字もじかたちでの受容じゅよう容易よういになるにつれてから小説しょうせつへのだい規模きぼ移行いこうこった。

翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

言語げんご依存いぞんする芸術げいじゅつであるため、言語げんご作品さくひん鑑賞かんしょう解釈かいしゃくするためには翻訳ほんやく大変たいへん重要じゅうようであり、翻訳ほんやく存在そんざいおおきな意味いみつ。翻訳ほんやくされた作品さくひん翻訳ほんやく文学ぶんがくぶ。

評論ひょうろん[編集へんしゅう]

文学ぶんがく作品さくひん研究けんきゅう分析ぶんせき批評ひひょうすることを文芸ぶんげい評論ひょうろん文芸ぶんげい批評ひひょう)という。広義こうぎには研究けんきゅう論文ろんぶんから雑誌ざっしのコラムまですべ評論ひょうろんえる。文学ぶんがくだけではなく、あらゆる作品さくひん評論ひょうろん対象たいしょうになる。評論ひょうろんには様々さまざま手法しゅほうがあり、それは研究けんきゅう対象たいしょう時代じだい評論ひょうろん自身じしんなどに依存いぞんする。すぐれたひょう論文ろんぶんは、それ自体じたい文学ぶんがく作品さくひんとして評価ひょうかされる。作家さっか思想家しそうか文芸ぶんげい評論ひょうろんとして活動かつどうすることもしばしばある。

文学ぶんがく分野ぶんや[編集へんしゅう]

詳細しょうさいはそれぞれの項目こうもく参照さんしょう

文学ぶんがく全集ぜんしゅう[編集へんしゅう]

多数たすうたとえば50さく以上いじょう[よう出典しゅってん])の文学ぶんがく作品さくひん編集へんしゅうしたものを文学ぶんがく全集ぜんしゅうぶことがおおい。

代表だいひょうてきなものとして世界せかい文学ぶんがく全集ぜんしゅう日本にっぽん文学ぶんがく全集ぜんしゅうがある。個人こじん全集ぜんしゅう特定とくていくに全集ぜんしゅう特定とくていのジャンルの全集ぜんしゅうなどがある。

言語げんご国家こっか民族みんぞくによる分類ぶんるい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「scientific literature」など。この意味いみ日本語にほんごにははいってきていない。いいかたとしては「文献ぶんけん」がちかい。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]