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朝鮮ちょうせん文学ぶんがく

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春香はるかでん表紙ひょうし

朝鮮ちょうせん文学ぶんがく (ちょうせんぶんがく)は朝鮮ちょうせん民族みんぞくによってかれた文学ぶんがくである。現在げんざい朝鮮半島ちょうせんはんとう人工じんこうてき南北なんぼく分断ぶんだんされており、きた朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくでは「朝鮮ちょうせん文学ぶんがく」とぶが、みなみ大韓民国だいかんみんこくでは「韓国かんこく文学ぶんがく」とばれる。日本にっぽんではこの両者りょうしゃふくめて「朝鮮ちょうせん文学ぶんがく」とぶが、韓国かんこくしきに「韓国かんこく文学ぶんがく」という表現ひょうげん存在そんざいする。

歴史れきしてきれば、民族みんぞく文字もじであるハングル創製そうせいされたのは15世紀せいきなかばである、その以前いぜん基本きほんてき朝鮮ちょうせん文学ぶんがく漢文かんぶんかれていたし、日本語にほんごおなじく漢字かんじによって民族みんぞく言葉ことば表記ひょうきした吏読りとさとさつなどの伝統でんとう存在そんざいした。ハングル創製そうせい漢文かんぶんくのが正式せいしきとする意識いしきつよく、ハングルは朝鮮ちょうせん末期まっきまで公用こうよう文書ぶんしょとしては使つかわれなかったが、民間みんかんではハングルの発明はつめいけて『春香はるかでん』などおおくの小説しょうせつや、歌謡かようパンソリかれ、朝鮮ちょうせん民族みんぞく独自どくじ文学ぶんがく本格ほんかくてきはじまった。このながれをんで朝鮮ちょうせん末期まっき日本にっぽん統治とうち時代じだいおおくの文学ぶんがく作品さくひん発表はっぴょうされた。韓国かんこくではこの時期じき文学ぶんがくあるいは古代こだいさとなどもふくめて「韓国かんこく文学ぶんがく」とんでいる。韓国かんこく朝鮮ちょうせん文学ぶんがくといえばとく朝鮮ちょうせん時代じだい文学ぶんがくす。

朝鮮ちょうせん文学ぶんがくこりから高麗こうらい時代じだい

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朝鮮半島ちょうせんはんとうにおける最古さいこ書籍しょせきこううらら時代じだいまれた『さん国史こくし』(1145ねん)および『さんこくのここと』(1277ねん)である。よって、それより過去かこ文献ぶんけんたしかめるじゅつはないが、文字もじ活動かつどうさんこく時代じだいからなされていた。高句麗こうくりは『しんしゅう』(ぜん5かん)、百済くだらは『書記しょき』、しんは『国史こくし』という歴史れきししょ編纂へんさんしている。それ以外いがいにも『にわとりりんざつへん』『はなろう』『しんことつてとう文献ぶんけんじょうることができる。しかし、それらは高麗こうらい時代じだい散逸さんいつした。さんこく時代じだいより過去かこ文字もじ活動かつどうについては現在げんざいにおいて確認かくにんすることはできず、わずかに口伝くでんによってつたえられた説話せつわがその残骸ざんがいのこすのみである。

さん国史こくし』『さんこくのここと』は歴史れきししょとしてまれているが、文学ぶんがくとしてもむことが可能かのうである。『さん国史こくし』では、「はなろう」にかんする記述きじゅつ物語ものがたりせいびたものとることができ、また「みやこわたるでん」「ゆたかたちでん」などの烈女れつじょ孝女こうじょでん史実しじつ物語ものがたりせいふくんでいる。『さんこくのここと』では「春秋しゅんじゅうこう」「百済くだらおう」の逸話いつわ有名ゆうめいである。

高麗こうらい時代じだい書籍しょせきとしては、『白雲しらくも小説しょうせつ』(奎報)、『やぶ閑集』(ひとしろう)、『閑集』(ちぇしげる)、『くぬぎおうひえせつ』(ひとしけん)などのひえかん文学ぶんがくや『浮雲うきぐも居士こじでん』『ともがくどうでん』『ひろしとくかくでん』『おうろうかえしたましいでん』などのそうでんかれた。

朝鮮ちょうせん文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ野崎のさき充彦みつひこは、なが研究けんきゅう生活せいかつすえ朝鮮ちょうせん古典こてん文学ぶんがく主人公しゅじんこう舞台ぶたいはほとんど中国ちゅうごく中国人ちゅうごくじん)だから、「朝鮮ちょうせん古典こてん文学ぶんがく特徴とくちょう朝鮮ちょうせん不在ふざいである」と結論けつろんけている[1]

朝鮮ちょうせん時代じだい

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ハングルの誕生たんじょう

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朝鮮ちょうせん時代じだいはいると、ハングル創製そうせいされ(1446ねん)、いよいよ国文こくぶんによる文学ぶんがくあらわれる。よって、研究けんきゅうしゃ立場たちばによってはハングルで記述きじゅつされた文学ぶんがくをもって国文学こくぶんがく誕生たんじょうとみなす場合ばあいもある。しかし、ハングルは漢字かんじめない身分みぶんひくい(学識がくしきひくい)しゃ文字もじさげす傾向けいこうがハングル誕生たんじょうから近代きんだいはいるまで根強ねづよのこり、ハングルでの文学ぶんがく活動かつどう知識ちしきじんにとってその地位ちいあやうくする危険きけんせいはらんでいた。そのため、朝鮮ちょうせんではハングル(国文こくぶん)が誕生たんじょうして以後いご漢文かんぶんによる文学ぶんがく活動かつどうおもであり、ハングルでの文学ぶんがく活動かつどうでは作者さくしゃつとめてそのかくそうとした。ハングルでかれた文献ぶんけん作者さくしゃ不明ふめいのものがおおいのはそのためである。

漢文かんぶんでの文学ぶんがく活動かつどう依然いぜんとしてひえかん文学ぶんがくさかんであり、『於于たん』『東野とうの彙輯』『あお邱野だん』『あお邱笑くさむら』『けい西野にしのだん』『鵝洲雑録ざつろく』『しばみねるいせつ』などがかれる。『古今ここんわらいくさむら』は朝鮮ちょうせん最古さいこ猥談わいだんしゅうとしてられている。なかでも金時きんときの『きむ鰲新ばなし』(1494ねん)は中国ちゅうごくの『剪灯しんはなし』の影響えいきょうけた翻案ほんあん小説しょうせつとして文学ぶんがくてき価値かちたかい。『きむ鰲新ばなし』は朝鮮ちょうせんでは散逸さんいつしてしまったが、日本にっぽん訓点くんてんれられてまれていた。日本にっぽんの『とぎ婢子』は『きむ鰲新ばなし』の翻案ほんあんとみられている[独自どくじ研究けんきゅう?]

文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき(1592ねん、1597ねん)をると、軍記ぐんきがさかんにかれる。すなわち、『懲毖ろく』(やなぎしげるりゅう)、『奮忠紆難ろく』(しゃくみなみほう)、『日本にっぽん往還おうかんろく』(まき)、『しょうためうら倡義ろく』(きむりょう)、『唐山からやま義烈ぎれつろく』(まんあき)、『りゅうわん聞見ろく』(ていみがく)がそれである。その傾向けいこうへいらんけてさらつづき、『へい湖南こなみ倡義ろく』『ちょうしげるりょうみずうみけんろく』『西にしせいろく』『こうみやこ日記にっき』『みなみせい日記にっき』『つちのえさる倡義事実じじつ』『さん学士がくしでん』『えいよんなん倡義ろく』『はやしけいぎょうでん』などがかれた。

ハングルでの文学ぶんがく活動かつどう仏典ぶってんことわざかい(ハングルの註釈ちゅうしゃく)からはじまる。『法華経ほけきょう』『きむつよしけい』『楞厳けい』『えいよしみけい』『しゃくしょうぶし』などがそれである。また、『三綱さんこう行実ぎょうじつ』『烈女れつじょでん』などのように儒教じゅきょう道徳どうとく婦女子ふじょしおしえるためのものかれた。どき調ちょうべつきょくなども吏読りとかれていたものがハングルでかれるようになった。周世すせおおとりの「道東どうとうきょく」「ろくけん」、きむ絿の「花田はなたべつきょく」、いんよしどうの「やましょきょく」、の「きゅうきょく」、ひろしの「漁夫ぎょふ」「かえやまべつきょくていの「関東かんとうべつきょく」「星山ほしやまべつきょく」などがられている。

また、ハングルは『童蒙どうもうさき』『としかい新語しんご』『としかいこうむ』といった教科書きょうかしょるい使用しようされた。

古代こだい小説しょうせつ発展はってん

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ひろしよしわらわでん

朝鮮ちょうせん文学ぶんがくはハングルが誕生たんじょうしてもなお、漢文かんぶん主体しゅたいとしてつづられていた。また小説しょうせつというものたいしての評価ひょうかいちじるしくひくかったため、小説しょうせつ儒教じゅきょうてき背景はいけいでのみかたられることとなった。こうした一連いちれん小説しょうせつぐん古代こだい小説しょうせつばれる。

漢文かんぶんでの作品さくひんとしては『ひろしよしわらわでん』(もと)がげられる。みず滸伝翻案ほんあん小説しょうせつわれ、朝鮮ちょうせん文学ぶんがくで「あきらかい小説しょうせつ物語ものがたりしょう区切くぎったもの)」の形式けいしきれた最初さいしょのものだとされている。また、社会しゃかい批判ひはんふくんだ社会しゃかい小説しょうせつともわれ、おなよう小説しょうせつに『禹治でん』『じょはなたんでん』がある。また、中国ちゅうごくの『三国志さんごくし演義えんぎ』がひろまれ、それを翻案ほんあんした小説しょうせつもまたまれた。その漢文かんぶんかれた古代こだい小説しょうせつとして、『あきら善感ぜんかんろく』『つばめいわお外伝がいでん』『おか雑録ざつろく』『おそれはつぞくこころざし』『こうきょ小史しょうし』『たんりょう稗史はいし』『奇談きだんずいろく』『かんよしひめでん』『琉球りゅうきゅうおう世子せいし外伝がいでん』『ひがしひさしでん』『さんかん拾遺しゅうい』などがある。

ハングルでの作品さくひんとしては、『きゅうくもゆめ』(かねまんじゅう)がその最高さいこう傑作けっさく評価ひょうかされている。『謫降七仙林虎隠伝』、『ちょうこく鎮伝』、『べにろうゆめ』の翻案ほんあん推測すいそくされている。のち漢文かんぶん翻訳ほんやくされるといっためずらしい現象げんしょうさえきている。『べにろうゆめ』が作家さっかおおきな影響えいきょうおよぼしたように、『きゅうくもゆめ』も『たま麟夢』『たまはちすゆめ』『たまさくらゆめ』といった翻案ほんあん登場とうじょうした。かねまんじゅうは『しゃみなみせい』ものこしている。

また、朝鮮半島ちょうせんはんとうつたえられる説話せつわ書籍しょせきになったものとして、『コンチュイとパッチュイko:콩쥐팥쥐전)』(シンデレラけい説話せつわ)、『ねずみどうでん』『かえるでんko:두껍전)』『きょうおっとでん』『翟成でん』『きむ犢伝』『かえるへびごくあん』『人形にんぎょうでん(꼭두각시전)』『げんこま外史がいし』などがあるが、もっと有名ゆうめいなものとして、『春香はるかでん』『沈清でん』がげられる。

春香はるかでん』『沈清でん』ともにその発祥はっしょうさだかではないが、さるざいこう(1812ねん‐1884ねん)が『春香はるかでん』『沈清でん』をもとパンソリ台本だいほんとして『春香はるか』『沈清』をつくったとされること、様々さまざま文献ぶんけんに『春香はるかでん』『沈清でん』の原型げんけいられることから、ふるくからつたえられている説話せつわである、とえる。『春香はるかでん』はじょうつや小説しょうせつしょうされ、おなるい小説しょうせつに、『よしこうでん』『よしえいむすめでん』『しろづるおうぎでん』『深山ふかやまはくでん』『たまはるでん』がある。

そのほかに、継母けいぼ小説しょうせつしょうされる『薔花紅蓮ぐれんでん』『ていおつぜんでん』『ちょうゆたかくもでん』『さかなりゅうつたえ』、公案こうあんるい裁判さいばん重要じゅうようなプロットになる小説しょうせつ)としょうされる『たまむすめでん』『ひね大方おおがたでん』『かえるへびごくあん』『たか鸚訟あん』『やなぎふかしでん』『つきみね』『ぼく文秀ふみひででん』『欽欽新書しんしょ』がられている。

開化かいか日本にっぽん統治とうち時代じだい

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メディアの発達はったつ

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開化かいかから新聞しんぶん雑誌ざっしといったメディアが登場とうじょう発達はったつし、文学ぶんがく普及ふきゅう発展はってん寄与きよした。『独立新聞どくりつしんぶん』『きょうしろ新聞しんぶん』(のちに『すめらぎじょう新聞しんぶん英語えいごばん』)『帝国ていこく新聞しんぶん英語えいごばん』『大韓たいかん毎日まいにちさるほう』『大韓たいかんみんほう朝鮮ちょうせんばん』『国民こくみん新報しんぽう朝鮮ちょうせんばん』『万歳ばんざいほう英語えいごばん』(のちに『大韓たいかん新聞しんぶん英語えいごばん』)『かんじょう新報しんぽう』『きょうさと新聞しんぶんとう様々さまざま立場たちば団体だんたい新聞しんぶんしゃ設立せつりつした。新聞しんぶんには小説しょうせつ連載れんさいされ、大衆たいしゅう娯楽ごらくしての文学ぶんがく発達はったつするとなる。

雑誌ざっし1896ねん2がつ東京とうきょう韓国かんこく皇室こうしつ特派とくは留学生りゅうがくせいいたる創設そうせつした『親睦しんぼくかい会報かいほう』、11月にソウルで創設そうせつされた『대죠선독립협회회보 (だい朝鮮ちょうせん独立どくりつ協会きょうかい会報かいほう)』がその嚆矢こうしである。そのざい東京とうきょう朝鮮ちょうせんじん留学生りゅうがくせいたち各々おのおの団体だんたい会報かいほう発行はっこうする一方いっぽう朝鮮ちょうせんではちぇみなみよし印刷所いんさつしょ設置せっち(しんぶんかん)、『少年しょうねん』『東明とうめい』『時代じだい日報にっぽう朝鮮ちょうせんばん』『青春せいしゅん』『샛별 (セッピョル)』とう刊行かんこうした。そのにも『創造そうぞう』『薔薇ばらむら』『はくうしお』『曙光しょこう』『廃墟はいきょ』『開闢かいびゃく』『朝鮮ちょうせん文壇ぶんだん』『しん青年せいねん』『しん女性じょせい』『新天地しんてんち』『カトリック青年せいねん』『オリニ』『文芸ぶんげい運動うんどう』『国民こくみん文学ぶんがくとう文芸ぶんげい同人どうじん機関きかんとしておおくの雑誌ざっし発行はっこうされる。

しん小説しょうせつ

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19世紀せいき末期まっきはいると、列強れっきょう各国かっこくがアジアに進出しんしゅつし、朝鮮ちょうせんにおいても外国がいこく圧力あつりょくなか近代きんだいすすめられることになる。文学ぶんがくでもこの時期じきひとつの転換期てんかんきむかえる。すなわち、じんの『혈의누 (なみだ)』にはじまるいわゆる「しん小説しょうせつ」とばれる小説しょうせつ形態けいたい誕生たんじょうである。しん小説しょうせつ1910ねん前後ぜんご登場とうじょうした。それまでの「古代こだい小説しょうせつ」からきん現代げんだい小説しょうせつへの過渡かとてき小説しょうせつ形態けいたいである。しん小説しょうせつばれるものはに『畜獣会議かいぎろく』(安国やすくにぜん)、『ゆきちゅううめ』(しかまなぶ)、『自由じゆうかね』(うみあさ)などがある。これらのだい部分ぶぶん古代こだい小説しょうせつられる勧善懲悪かんぜんちょうあくのストーリーをきずっており、また旧来きゅうらい思想しそう文化ぶんか極端きょくたん批判ひはんしたりする内容ないようではあるが、言文げんぶん一致いっち文体ぶんたい新聞しんぶんとうのメディアをとおした文学ぶんがく普及ふきゅうというてんあたらしい。しん小説しょうせつばれる作品さくひんはそれほどおおくはなく、ひかりの『無情むじょう』の登場とうじょうでやがてえていくことになる。

近代きんだい文学ぶんがく形成けいせい

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ひかり

朝鮮ちょうせんにおいて、近代きんだいてき小説しょうせつ形態けいたいまた自由じゆう移入いにゅうしたのはひかりちぇみなみよしである。ひかり洙は1917ねんに『無情むじょう』を連載れんさいし、朝鮮ちょうせんにおける近代きんだい小説しょうせつ確立かくりつした。ちぇみなみぜん雑誌ざっしみずか手掛てがけて「新体詩しんたいし」を発表はっぴょうのちつづ詩人しじんたちすくなくない影響えいきょうあたえると同時どうじにその育成いくせい提供ていきょうした。

朝鮮ちょうせんにおける近代きんだい文学ぶんがく日本にっぽん留学りゅうがくちゅう、または留学りゅうがくしたインテリたちによって牽引けんいんされる。かれらは留学りゅうがくちゅう西洋せいよう文学ぶんがく思潮しちょうまなび、それをれた。きむあずまひとしれんそうわたるきむひろしさだまんうえやすししゅんぼくやすしとおばこいね兪鎮うまかげひとしげられる。かれらは「海外かいがい文学ぶんがく」「きゅうにんかい」「げき文学ぶんがくかい」「セクトンかいひとし各々おのおの団体だんたいつくり、たがいに文学ぶんがくてき主義しゅぎ批判ひはん主張しゅちょういながらその水準すいじゅんたかめていった。

こうした日本にっぽん留学りゅうがくぐみ、そのなかでも大学だいがくかよえる資金しきんものたち比較的ひかくてき裕福ゆうふくりょうはん階級かいきゅう子弟していであることがおおく、かれらに対抗たいこうする集団しゅうだんとして1920年代ねんだいころからプロレタリア主義しゅぎ作家さっか台頭たいとうする。プロレタリア主義しゅぎ作家さっかとして、はやしかずちぇ曙海あけみちぇあきらひさしかん雪野ゆきのそうかげひろしおもえようひとしげられる。かれらはKAPF結成けっせいし、労働ろうどうしゃ代弁だいべんしゃとして朝鮮ちょうせん総督そうとくとブルジョア民族みんぞく主義しゅぎ糾弾きゅうだんしたが、このうごきは朝鮮ちょうせん総督そうとく弾圧だんあつにより1935ねんころさかい沈黙ちんもくする。

日本にっぽん統治とうち終了しゅうりょう朝鮮ちょうせん文学ぶんがく

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韓国かんこく文学ぶんがく

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1970年代ねんだいわか新人しんじんたちのかがやかしい活動かつどう断然だんぜん脚光きゃっこうびるようになった。小説しょうせつ分野ぶんやではちぇひとしひろし晳暎ちょううみいちちょうよしさくなどおおくのわか作家さっかたちが続々ぞくぞく登場とうじょうした。いわゆる70年代ねんだい作家さっかばれる人々ひとびと多数たすう読者どくしゃ新聞しんぶん小説しょうせつ席捲せっけんした。このようにしてちぇひとしひろしの『ほしたちの故郷こきょう』、ちょううみいちの『ふゆおんな』などは空前くうぜんのベストセラーになっていちしゅ小説しょうせつ黄金おうごん時代じだい謳歌おうかした。

しかしこのような作品さくひん傾向けいこうたいしてその商業しょうぎょう主義しゅぎ文学ぶんがくとしてのやまい幤を指摘してきする批判ひはんこえたかまり、一方いっぽうでは産業さんぎょう社会しゃかい到来とうらいとともにその病理びょうりてきめん作品さくひんつうじて表現ひょうげんしたちょうひろしたん編集へんしゅうめずらしくおおくの読者どくしゃるベストセラーになった。また晳暎工事こうじ現場げんば労使ろうし関係かんけいあつかった『客地かくち』や南北なんぼく分断ぶんだん悲劇ひげき作品さくひんした『かん年代ねんだい』などを発表はっぴょうした。

金芝河きむじは

1970年代ねんだいかいでは維新いしん体制たいせいくら政治せいじ状況じょうきょうした詩人しじん金芝河きむじは発表はっぴょうした『ぞく』が筆禍ひっか事件じけんとなって国際こくさいてき議論ぎろんげかけた。このそとにも詩人しじんとしてはてい鎭圭ていげんむねぼく利道としみちのぼりかおるなどをげることができる。これらの作品さくひん現代げんだいあたらしい変貌へんぼうしめ先駆せんくてき役割やくわりたした。1980年代ねんだいはいって小説しょうせつのなかでおおきなながれを形成けいせいするようになったのはそれまでほとんどられなかった大河おおかわ小説しょうせつ登場とうじょうだ。これが読者どくしゃにもおおきい反響はんきょうるようになったが、その代表だいひょうてき作品さくひんとして晳暎歴史れきし小説しょうせつちょう吉山よしやま』とちょう廷来の『太白たいはく山脈さんみゃく』などをげることができる。とくに『太白たいはく山脈さんみゃく』は韓国かんこく出版しゅっぱん史上しじょう最大さいだいきとなった。

このほかぶんれつ長編ちょうへん英雄えいゆう時代じだい』も文壇ぶんだん注目ちゅうもくき、そのかれ1990年代ねんだいにかけて旺盛おうせい作品さくひん活動かつどうをしている。分野ぶんやではあきらしばちぇ勝子かつこ金光かねみつけいなどが注目ちゅうもくあつめる作品さくひん活動かつどうをした。1990年代ねんだいはいっておおくの商業しょうぎょう主義しゅぎてき小説しょうせつあらわれて読者どくしゃまどわす傾向けいこうもあったが、ほおけい大河たいが小説しょうせつ土地とち』が25ねんにもわた執筆しっぴつ期間きかん完成かんせいされたことは意味いみふかい。

さらに作家さっかひろしもりげん1960年代ねんだい登壇とうだんしたのち1990年代ねんだいいたるまで『モンドング』『つきかたな』などの大作たいさく発表はっぴょうしている。またさるきょうよしあなえだおよげなどのわか女流じょりゅう作家さっかたちの活動かつどういちじるしい。70年代ねんだい以後いごいちじるしい作品さくひん活動かつどうをしてこうぎんが「まんにん」「白頭山はくとうさん」などのちょう完成かんせいし、1930年代ねんだい詩壇しだんじょ廷柱はつ詩集ししゅうはなへびしゅう以後いごつづ作品さくひんいている。女流じょりゅう詩人しじんたちもひろしまことよしきむみなみきむしばきょうせんりょうひめなどが1950年代ねんだい以降いこう作品さくひんのたゆまぬ発表はっぴょうつづけている。

1980年代ねんだいには民主みんしゅてき平等びょうどう国家こっかつくるための闘争とうそうてき色合いろあいの作品さくひんおお登場とうじょうした。これはうまでもなく386世代せだい登場とうじょう関連かんれんしており、日本にっぽんでかつて流行りゅうこうしたしん左翼さよくのムーヴメントと傾向けいこうっていたため、批評ひひょう空間くうかんのような文芸ぶんげい批評ひひょうが80年代ねんだい韓国かんこく文学ぶんがく注目ちゅうもくしたことがある。ほおろうかいのような、はん権力けんりょくてき発展はってんしたのも韓国かんこく文学ぶんがくひとつの特徴とくちょうである。(ほお1991ねん国家こっか保安ほあんほう違反いはん嫌疑けんぎつかまったが、1998ねん特赦とくしゃされた。)

1990年代ねんだいはいるとペ・スアのような村上むらかみ春樹はるき吉本よしもとばなな影響えいきょうけたわか作家さっかたち登場とうじょうした。他方たほうわか時代じだい民主みんしゅ運動うんどうついやしたことへの喪失そうしつかん表現ひょうげんする作品さくひんおお発表はっぴょうされた。90年代ねんだい以降いこう韓国かんこく文学ぶんがく日本にっぽん文学ぶんがく影響えいきょうおおきくけており、今後こんご日本にっぽん文化ぶんか開放かいほうとも一気いっき韓国かんこく流入りゅうにゅうしてきた在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん文学ぶんがくライトノベルからの影響えいきょう無視むしできない。

なお、純文学じゅんぶんがくではないが、1990年代ねんだいのベストセラーとしてはおんなり(1937ねん~1988ねん)の『小説しょうせつひがし宝鑑ほうかん』(1990ねん)が300まん発売はつばいで『太白たいはく山脈さんみゃく』を上回うわまわ史上しじょう最高さいこう記録きろく更新こうしんし、きむたつあきら(1957ねん~)の『ムクゲノはなさきキマシタ』(1993ねん)も200まん以上いじょうった。これらはいずれも日本語にほんごやくている。

北朝鮮きたちょうせん文学ぶんがく

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1945ねん8がつ朝鮮ちょうせん日本にっぽん統治とうち終了しゅうりょうむかえると、38せん以北いほくではきむ日成いるそん中心ちゅうしんとする抗日こうにちパルチザン闘士とうしたち政権せいけん形作かたちづくる。文学ぶんがくもまたかれら「抗日こうにちパルチザン」を形象けいしょうしていくことをだいいちとした。

日本にっぽん統治とうち終了しゅうりょう直後ちょくごから自然しぜん発生はっせいてき文学ぶんがく芸術げいじゅつ団体だんたいかく地域ちいき結成けっせいされていたのを、1946ねん2がつ朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうは「北朝鮮きたちょうせん文学ぶんがく芸術げいじゅつそう同盟どうめい」として単一たんいつ組織そしきにまとめた。その綱領こうりょうなか帝国ていこく主義しゅぎ資本しほん主義しゅぎ排斥はいせきすると同時どうじ人民じんみん民衆みんしゅう啓蒙けいもうソ連それん中心ちゅうしんとする西側にしがわ諸国しょこくとの文化ぶんか交流こうりゅう目的もくてきとすることをさだめ、文士ぶんしのプロレタリア主義しゅぎ思想しそう養成ようせいする。

日本にっぽん統治とうち終了しゅうりょう詩文しぶんがくではちょうはじめてんの「白頭山はくとうさん」、小説しょうせつではひさしの「える大地だいち ()」が代表だいひょうてきである。そのにも「KAPF」の同人どうじんであるぼく世永よながほおはちそうかげ、また中国ちゅうごくから帰国きこくしたきむ史良しりょうなどが作品さくひん執筆しっぴつしている。1950ねん6月25にち朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつしても文士ぶんしふでまることなく、地下ちか印刷いんさつ工場こうじょうつくられて雑誌ざっし文庫ぶんこ発行はっこうされ、その作品さくひんかずは3せんえるともわれている。きむちょうちぇいし秉哲閔丙ひとしぼくつよしせんせいおおとりいんおもきたなどはこの時期じき執筆しっぴつした文士ぶんしである。その作品さくひんおおくはルポルタージュであった。こうした文壇ぶんだんながれのなかで、朝鮮ちょうせん戦争せんそうのさなか、日本にっぽん統治とうち終了しゅうりょうまえ作家さっかたちおおくが死亡しぼうわか作家さっかたち台頭たいとうし、北朝鮮きたちょうせん文壇ぶんだんおおきな転換てんかんをする。

朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせんむか政治せいじくと、文壇ぶんだんにもすぐれた文学ぶんがく登場とうじょうするようになる。ひさし長篇ちょうへん豆満江とうまんこう』が1954ねんにそのだい1発表はっぴょうされたことは北朝鮮きたちょうせん文学ぶんがくしんはじまりを印象いんしょうけるものである。そのせんせいおおとりの『ソッケウルの新春しんしゅん (석개울의 새 봄)』(1958-65ねん)、いんおもの『試練しれんなかで (시련 속에서)』(1957ねん)、けんの『ケマ高原こうげん (개마고원)』(1956ねん)などがこの時期じき代表だいひょうさくである。

1960年代ねんだい後半こうはんはいると、北朝鮮きたちょうせん文壇ぶんだん変化へんかきる。それ以前いぜんからも文学ぶんがくなか登場とうじょうしていたきむ日成いるそんがこの時期じき以降いこうから文学ぶんがく作品さくひんなか頻繁ひんぱん登場とうじょうしだした。祖国そこく解放かいほう闘争とうそう指導しどうしゃとして、または社会しゃかい主義しゅぎ朝鮮ちょうせん建設けんせつ指導しどうしゃとしてきむ日成いるそん形象けいしょうされはじめたのだ。よってこの時期じきより北朝鮮きたちょうせん文学ぶんがくを「主体しゅたい文学ぶんがく」ともぶようになる。だが一方いっぽうで、女性じょせい問題もんだい社会しゃかい問題もんだい恋愛れんあい主題しゅだいとした作品さくひん80年代ねんだい以降いこう顕著けんちょになっていることも事実じじつである。 はくみなみりゅう小説しょうせつとも』は、北朝鮮きたちょうせん芸術げいじゅつだん声楽せいがくとして活動かつどうしているわか女性じょせい離婚りこん訴訟そしょうこすストーリーをえがいたもので、1988ねん発表はっぴょう北朝鮮きたちょうせんでベストセラーになり、ドラマもされている[2]

韓国かんこく文学ぶんがくしょう

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韓国かんこく文学ぶんがく叢書そうしょシリーズ

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文学ぶんがくしゃ

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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