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趙 ちょう 廷来 (チョ・ジョンネ[3] 、1943年 ねん 8月 がつ 17日 にち - )は、韓国 かんこく の小説 しょうせつ 家 か 。
朝鮮 ちょうせん 人 じん パルチザンを肯定 こうてい 的 てき に描 えが いた長篇 ちょうへん 小説 しょうせつ 『太白 たいはく 山脈 さんみゃく 』は、反米 はんべい ・親 しん 北朝鮮 きたちょうせん が流行 りゅうこう していた当時 とうじ の韓国 かんこく で「必読 ひつどく 書 しょ 」としてベストセラーになったことで知 し られるが、当時 とうじ を知 し る人 ひと からは事実 じじつ と異 こと なる点 てん が指摘 してき されている。日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の朝鮮 ちょうせん で推奨 すいしょう された世俗 せぞく 的 てき な仏教 ぶっきょう 僧 そう の息子 むすこ である[4] 。
1943年 ねん 8月 がつ 17日 にち 、全羅南道 ぜんらなんどう 昇 のぼり 州 しゅう 郡 ぐん (現在 げんざい の順 じゅん 天 てん 市 し )双岩 ふたいわ 面 めん 仙 せん 巌 いわお 寺 てら に生 う まれる。父 ちち は日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい に推奨 すいしょう された世俗 せぞく 的 てき な仏教 ぶっきょう の僧 そう である趙 ちょう 宗 そう 玄 げん [4] 、母 はは は朴 ぼく 聖 きよし 純 じゅん 。4男 なん 4女 じょ の次男 じなん である。父 ちち は僧侶 そうりょ であり、仙 せん 巌 いわお 寺 てら の副 ふく 住職 じゅうしょく を務 つと めていた。趙 ちょう もまた、幼年 ようねん 期 き を仙 せん 巌 いわお 寺 てら で暮 く らした。
1947年 ねん 、妻帯 さいたい や肉食 にくしょく 禁止 きんし といった保守 ほしゅ 的 てき な仏教 ぶっきょう を信 しん じる住職 じゅうしょく と、妻帯 さいたい で肉食 にくしょく をする世俗 せぞく 的 てき な父 ちち [4] との間 あいだ で悶着 もんちゃく があり、趙 ちょう 一家 かずや は仙 せん 巌 いわお 寺 てら を離 はな れ、順 じゅん 天 てん 邑幸洞 ほら に引 ひ っ越 こ した。
1949年 ねん 、順 じゅん 天 てん 南 みなみ 国民 こくみん 学校 がっこう に入学 にゅうがく するも1950年 ねん に朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ し、田舎 いなか に疎開 そかい する。1951年 ねん に家 いえ に戻 もど るも1・4後退 こうたい で再 ふたた び避難 ひなん する。通学 つうがく を再開 さいかい できたのは1952年 ねん からであった。1956年 ねん 、光州 こうしゅう 西 にし 公立 こうりつ 中学校 ちゅうがっこう (現 げん :光州 こうしゅう 第一高等学校 だいちこうとうがっこう )に入学 にゅうがく 、1959年 ねん にはソウル の普 ひろし 成 なり 高等 こうとう 学校 がっこう に進学 しんがく する。1960年 ねん 4月 がつ 19日 にち 、四 よん 月 がつ 革命 かくめい が起 お こり、授業 じゅぎょう は中断 ちゅうだん 。この間 あいだ 、アーネスト・ヘミングウェイ や、アルベール・カミュ 、ギ・ド・モーパッサン など文学 ぶんがく 作品 さくひん に耽溺 たんでき した。他 た 校生 こうせい との農村 のうそん 活動 かつどう を兼 か ねた文芸 ぶんげい 活動 かつどう も行 おこな い、詩 し 、小説 しょうせつ 、童話 どうわ などを習作 しゅうさく し始 はじ める。1962年 ねん 、東国 とうごく 大 だい 学校 がっこう 国文 こくぶん 科 か に入学 にゅうがく 。大学 だいがく で洪 ひろし 申 さる 善 ぜん 、姜 きょう 熙根 らと会 あ う。初 はじ めは詩 し を習作 しゅうさく するも小説 しょうせつ 家 か になることを志 こころざ し、1963年 ねん に「創作 そうさく 文学 ぶんがく 会 かい 」を結成 けっせい した。呉 ご 永寿 ながとし を招聘 しょうへい して講義 こうぎ をしてもらったり、また「小説 しょうせつ 家 か を大学 だいがく 講師 こうし に呼 よ ぶ」ことを要求 ようきゅう するデモを起 お こした。呉 ご 永寿 ながとし とは師弟 してい の関係 かんけい になる。また、この頃 ころ 、金 きむ 初 はつ 蕙 と出会 であ い、恋愛 れんあい をする。1966年 ねん 、陸軍 りくぐん に入隊 にゅうたい 、KATUSA (米国 べいこく 軍 ぐん に配属 はいぞく された韓国 かんこく 軍 ぐん )に配属 はいぞく される。入隊 にゅうたい 中 ちゅう 、1967年 ねん 1月 がつ 29日 にち 、金 きむ 初 はつ 蕙と結婚 けっこん する。1969年 ねん 3月 がつ に除隊 じょたい すると、教師 きょうし 職 しょく を求 もと めるが就職 しゅうしょく できず、仕事 しごと のないまま習作 しゅうさく を続 つづ ける。
1970年 ねん に、『現代 げんだい 文学 ぶんがく 』に呉 ご 永寿 ながとし の推薦 すいせん で短篇 たんぺん 「陋名」「先生 せんせい 님 紀行 きこう 」が掲載 けいさい されることになり、文壇 ぶんだん にデビューする。創作 そうさく 活動 かつどう に没頭 ぼっとう する一方 いっぽう 、1972年 ねん 、中京 ちゅうきょう 高等 こうとう 学校 がっこう の教師 きょうし の職 しょく を得 え る。中京 ちゅうきょう 高校 こうこう は1973年 ねん の10月 がつ 維新 いしん の余波 よは で辞 や めることになったが、韓国 かんこく 文人 ぶんじん 協会 きょうかい の発行 はっこう する『月刊 げっかん 文学 ぶんがく 』の編集 へんしゅう の仕事 しごと を貰 もら い、執筆 しっぴつ 活 かつ 内 ない 動 どう と平行 へいこう して仕事 しごと をこなす。1976年 ねん 1月 がつ 、文人 ぶんじん 協会 きょうかい を離 はな れた後 のち 、『小説 しょうせつ 文芸 ぶんげい 』の運営 うんえい を引 ひ き受 う け、8号 ごう と9号 ごう の発行 はっこう に携 たずさ わった。1978年 ねん 、「民芸 みんげい 社 しゃ 」を設立 せつりつ し、本格 ほんかく 的 てき に出版 しゅっぱん 業 ぎょう を始 はじ める。しばらく、出版 しゅっぱん 業 ぎょう の仕事 しごと のため、創作 そうさく 活動 かつどう から遠 とお ざかるが、自 みずか らの本業 ほんぎょう は作家 さっか であることを見 み つめなおし、1981年 ねん から、創作 そうさく 活動 かつどう に時間 じかん を割 さ くことにする。この年 とし 、「유형의 땅 (流刑 りゅうけい の地 ち )」で現代 げんだい 文学 ぶんがく 賞 しょう を受賞 じゅしょう 、翌 よく 1982年 ねん 、「인간의 문 (人間 にんげん の門 もん )」で大韓民国 だいかんみんこく 文学 ぶんがく 賞 しょう を受賞 じゅしょう する。1983年 ねん から1989年 ねん まで、1万 まん 6千 せん 5百 ひゃく ページに及 およ ぶ長篇 ちょうへん 『太白 たいはく 山脈 さんみゃく 』を書 か き、当時 とうじ 反米 はんべい 親 おや 北朝鮮 きたちょうせん が流行 りゅうこう していた韓国 かんこく 内 ない で、絶賛 ぜっさん された[4] 。
2017年 ねん の韓国 かんこく 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では共 とも に民主党 みんしゅとう 候補 こうほ の文 ぶん 在 ざい 寅 とら を支持 しじ した[5] 。
作品 さくひん の影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
親 しん 北 きた だけでなく、反日 はんにち でもあり、韓国 かんこく 左派 さは である。現代 げんだい 韓国 かんこく 史 し を描 えが いたと主張 しゅちょう された『太白 たいはく 山脈 さんみゃく 』は反米 はんべい ・親 しん 北朝鮮 きたちょうせん が流行 りゅうこう していた当時 とうじ の「必読 ひつどく 書 しょ 」とされて700万 まん 部 ぶ のベストセラーとなった[4] [6] 。韓国 かんこく 人 じん の現代 げんだい 史観 しかん に与 あた えた影響 えいきょう は、日本 にっぽん の司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう が日本人 にっぽんじん が日本 にっぽん 近代 きんだい 史観 しかん に与 あた えた影響 えいきょう に匹敵 ひってき するものであり[6] 、韓国 かんこく 人 じん へ親 おや 北 きた 的 てき な対 たい 北朝鮮 きたちょうせん 観 かん に影響 えいきょう を与 あた えた[4] 。『アリラン 』も350万 まん 部 ぶ を売 う り上 あ げ、韓国 かんこく 人 じん の対 たい 日 にち 観 かん に否定 ひてい 的 てき な影響 えいきょう を与 あた えた。李 り 栄 さかえ 薫 かおる は著書 ちょしょ 『反日 はんにち 種族 しゅぞく 主義 しゅぎ 』で、『アリラン』を「狂気 きょうき に満 み ちている増悪 ぞうあく の歴史 れきし 小説 しょうせつ 」と批判 ひはん しているが[6] 、多 おお くの韓国 かんこく 人 じん が『アリラン』を「歴史 れきし 」として認識 にんしき し、「民族 みんぞく の受難 じゅなん 」を思 おも いながら読 よ んでいた。青年 せいねん だった読者 どくしゃ たちは中年 ちゅうねん に至 いた って文 ぶん 在 ざい 寅 とら 政権 せいけん を支持 しじ し、趙 ちょう 廷来の影響 えいきょう 力 りょく は更 さら に大 おお きくなりつつある[6] 。
2020年 ねん 、『太白 たいはく 山脈 さんみゃく 』をめぐる内容 ないよう が虚偽 きょぎ だという議論 ぎろん の中 なか で、「私 わたし が書 か いた歴史 れきし 的 てき 資料 しりょう は客観 きゃっかん 的 てき だ。国史 こくし 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい で発行 はっこう した本 ほん と進歩 しんぽ 的 てき 意識 いしき を持 も つ史学 しがく 者 しゃ が書 か いた本 ほん を中心 ちゅうしん にした明確 めいかく な資料 しりょう 」と主張 しゅちょう したが、自 みずか らの小説 しょうせつ を歴史 れきし 的 てき 資料 しりょう と主張 しゅちょう したことは批判 ひはん されている。また、「日本 にっぽん 留学 りゅうがく に行 い ってくれば無条件 むじょうけん で親日 しんにち 派 は になる。民族 みんぞく 反逆 はんぎゃく 者 しゃ になる。(彼 かれ らが)日本 にっぽん の罪悪 ざいあく に対 たい して肩入 かたい れし歴史 れきし を歪曲 わいきょく する者 もの を懲罰 ちょうばつ する新 あたら しい法律 ほうりつ を作 つく っている。私 わたし がここで積極 せっきょく 的 てき に出 で ようと思 おも う。社会 しゃかい 的 てき 責務 せきむ だと考 かんが える。法 ほう で治 おさ めなければならない」との姿勢 しせい を明 あき らかにした[7] [4] 。これに対 たい して陳重 のぶしげ 権 けん (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) は、「ここまでくれば狂気 きょうき 。時代 じだい 錯誤 さくご 的 てき 民族 みんぞく 主義 しゅぎ の中 なか に潜在 せんざい された極右 きょくう 的 てき 傾向 けいこう が無定見 むていけん に発現 はつげん した」「(趙 ちょう が支持 しじ している韓国 かんこく 左派 さは の)文 ぶん 在 ざい 寅 とら 大統領 だいとうりょう の娘 むすめ も日本 にっぽん の国士舘大学 こくしかんだいがく で留学 りゅうがく したと承知 しょうち しているが、『日本 にっぽん 留学 りゅうがく すれば親日 しんにち 派 は 』だとは趙 ちょう 廷来先生 せんせい が設置 せっち しろという反 はん 民族 みんぞく 行為 こうい 特別 とくべつ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい に回付 かいふ され民族 みんぞく 反逆 はんぎゃく 者 しゃ として処断 しょだん されるだろう」と批判 ひはん した[7] 。趙 ちょう は「登壇 とうだん 50周年 しゅうねん 記念 きねん 記者 きしゃ 懇談 こんだん 会 かい 」で「日本 にっぽん に留学 りゅうがく したら無条件 むじょうけん で親日 しんにち 派 は になる」「民族 みんぞく の精気 せいき のために歪曲 わいきょく された歴史 れきし を正 ただ すために、反 はん 民 みん 特 とく 委 い を復活 ふっかつ させなければならない。(韓国 かんこく 内 ない の)約 やく 150万 まん 人 にん に上 のぼ る親日 しんにち 派 は を断罪 だんざい すべきだ」と述 の べた[4] 。朝鮮日報 ちょうせんにっぽう は、大日本帝国 だいにっぽんていこく が無 な いのだから21世紀 せいき の大韓民国 だいかんみんこく 民 みん に親日 しんにち 派 は はいないとし、「150万 まん 人 にん という数字 すうじ も荒唐無稽 こうとうむけい だが、この思考 しこう 方式 ほうしき には狂気 きょうき すら感 かん じられる。」と批判 ひはん し、趙 ちょう の父親 ちちおや が日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう 世俗 せぞく 化 か 政策 せいさく により流入 りゅうにゅう した考 かんが えを信 しん じている僧侶 そうりょ だったことを挙 あ げ、日本 にっぽん 留学 りゅうがく 者 しゃ を親日 しんにち 派 は と認定 にんてい するならば。日本 にっぽん の朝鮮 ちょうせん 統治 とうち のおかげで生 う まれた貴方 あなた は何者 なにもの なのかと批判 ひはん している[4] 。
短篇 たんぺん
1970年 ねん 、누명
1972年 ねん 、이런 식이더이다
1973年 ねん 、거부반응
1973年 ねん 、타이거 메이저
1974年 ねん 、빙하기
1974年 ねん 、동맥
1978年 ねん 、마술의 손
中篇 ちゅうへん
1972年 ねん 、청산댁
1973年 ねん 、비탈진 음지
1974年 ねん 、황토
1981年 ねん 、유형의 땅
1983年 ねん 、박토의 혼
長篇 ちょうへん
1981年 ねん 刊行 かんこう 、대장경
1983年 ねん 刊行 かんこう 、불놀이
1988年 ねん 刊行 かんこう 、어머니의 넋
1989年 ねん 刊行 かんこう 、태백산맥 (太白 たいはく 山脈 さんみゃく )[4]
1994年 ねん 刊行 かんこう 、아리랑 (アリラン )
2002年 ねん 刊行 かんこう 、한강
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