朝鮮ちょうせん美術びじゅつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
黄海こうかい南道みなみどうやすたけぐんやすだけ3ごうふん壁画へきがko:안악 3호분高句麗こうくり時代じだい
忠清ただきよ南道みなみどう論山ろんざん、灌燭てら石造せきぞう弥勒菩薩みろくぼさつ立像りつぞうko:관촉사 석조미륵보살입상高麗こうらい時代じだい

朝鮮ちょうせん美術びじゅつ(ちょうせんびじゅつ)では、朝鮮半島ちょうせんはんとうにおける美術びじゅつについて解説かいせつする。なお、高句麗こうくり中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんかについて議論ぎろんがある(高句麗こうくり#歴史れきし論争ろんそう高句麗こうくり歴史れきし帰属きぞくをめぐる問題もんだい参照さんしょう)が、ここでは高句麗こうくりについても記載きさいすることとする。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん美術びじゅつ一般いっぱんに、かく時代じだいごとに特徴とくちょうてき様式ようしきが1つだけあって、様式ようしき作品さくひんすくない。いくつかの流派りゅうはきそったりすることもなく、地方ちほうごとにことなる特徴とくちょうがあるということもない。単一たんいつてきで、多様たようせいけることが、朝鮮ちょうせん美術びじゅつ特徴とくちょうである[1]

絵画かいが[編集へんしゅう]

近代きんだい以前いぜん朝鮮ちょうせん絵画かいがは、4〜7世紀せいき高句麗こうくり古墳こふん壁画へきが、13〜14世紀せいき高麗こうらい仏画ぶつが、14世紀せいき以後いごちょう絵画かいがの3つの分野ぶんや代表だいひょうされる。高句麗こうくり古墳こふん壁画へきがから高麗こうらい後期こうき仏画ぶつがまで500年間ねんかんは、ほぼ空白くうはくである。

高句麗こうくり古墳こふん壁画へきがは、ユネスコ世界せかい遺産いさんになっている。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく吉林きつりんしょうあつまりやす中心ちゅうしんとする「高句麗こうくり前期ぜんき都城みやこのじょう古墳こふん」と、朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく平壌ぴょんやん直轄ちょっかつ南浦みなみうら特別とくべつの「高句麗こうくり古墳こふんぐん」がある。

高麗こうらい仏画ぶつがは、つぎちょう仏教ぶっきょう弾圧だんあつされたため、朝鮮半島ちょうせんはんとうにはほとんどのこっておらず、だい部分ぶぶん日本にっぽんにある。楊柳ようりゅう観音かんのんなどかぎられた図像ずぞうおおく、多様たようせいけるのが特徴とくちょうである[2]

ちょう絵画かいがは、中国ちゅうごくいんをまねてつくった図画ずがしょko:도화서)のいんと、文人ぶんじんになっていた。かれらがえがいた正統せいとう絵画かいがは、ソウル開城かいじょうなどかぎられた都市とし上層じょうそう階級かいきゅうだけにれるかたち存在そんざいし、画壇がだんひろがりがられない。朝鮮ちょうせんでは美術びじゅつれる町人ちょうにん社会しゃかい地方ちほう都市とし形成けいせいされなかったからである[1]ちょう後期こうきになって、中国ちゅうごくではなく朝鮮ちょうせん風景ふうけいえがいたけい山水さんすいko:진경산수)がえがかれるようになった。

正統せいとう絵画かいがとはべつに、民間みんかん美術びじゅつひんではなく実用じつようてき目的もくてき朝鮮ちょうせんみんえがかれた。日本にっぽん統治とうち時代じだいやなぎ宗悦むねよしみん価値かちみとめて収集しゅうしゅうはじめ、研究けんきゅう対象たいしょうとした。

日本にっぽん統治とうち時代じだいに、こう羲東かねかん鎬(김관호)、蕙錫らが日本にっぽん留学りゅうがくして西洋せいようまなび、朝鮮ちょうせん西洋せいようをもたらした。

北朝鮮きたちょうせんでは、プロパガンダ絵画かいがえがかれ、伝統でんとう絵画かいが彩色さいしき西洋せいよう技法ぎほうれた絵画かいがを「朝鮮ちょうせん」とんでいる。朝鮮ちょうせん大家たいかであるてい鍾汝ko:정종여)は、日本にっぽん留学りゅうがくして美術びじゅつまなび、日本にっぽん戦争せんそう協力きょうりょくえがいたが、北朝鮮きたちょうせん人民じんみん芸術げいじゅつ称号しょうごうけ、美術家びじゅつか同盟どうめいふく委員いいんちょうつとめた。

日本にっぽん統治とうち時代じだいに、中国ちゅうごく影響えいきょうけた伝統でんとう絵画かいが西洋せいよう区別くべつして「東洋とうよう」とはじめたが、1970年代ねんだい韓国かんこくで「日本にっぽん」という言葉ことばがあるのだから、「東洋とうよう」ではなく「韓国かんこく」とばなくてはならない、と主張しゅちょうされはじめ、1980年代ねんだいから公式こうしきてきに「韓国かんこく」という言葉ことば使つかわれるようになった。韓国かんこくでは、彩色さいしきにちみかど残滓ざんしとされて排除はいじょされ、韓国かんこく文人ぶんじん水墨すいぼく中心ちゅうしんとなった。抽象ちゅうしょうにおいても単色たんしょく表現ひょうげん有力ゆうりょくだが、ここにも色彩しきさいゆたかな日本にっぽんあらがってぼく一色いっしょく奨励しょうれいされたという反日はんにち感情かんじょう背景はいけいがある[3]

おも画家がか作品さくひん生年せいねんじゅん[編集へんしゅう]

彫刻ちょうこく[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん先史せんし時代じだい遺物いぶつには、日本にっぽん土偶どぐうのような美術びじゅつてき価値かちのあるものは、存在そんざいしない[4]さんこく時代じだい (朝鮮半島ちょうせんはんとう)仏教ぶっきょう伝来でんらいし、きむぎんどうてつなどをの金属きんぞくまゆみ木材もくざい石材せきざいうるしぬの刺繍ししゅうかみもちいた仏像ぶつぞうつくられた[5]石窟せっくつあん(751ねん)が代表だいひょうてきなものである。また、寺院じいん付随ふずいする構造こうぞうぶつとして仏塔ぶっとうてられた。現存げんそんするものの大半たいはん石塔せきとうであるが、さんこく時代じだい初期しょきにはによるものが主流しゅりゅうであった[6]日本にっぽん統治とうち時代じだいに、きむふく鎮(ko:김복진)が東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう (旧制きゅうせい)彫刻ちょうこく留学りゅうがくし、朝鮮ちょうせん最初さいしょ洋風ようふう彫刻ちょうこくとなった。

陶芸とうげい[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん8000ねんから1500ねんごろ櫛目くしめぶん土器どき紀元前きげんぜん1500ねんから300ねんごろ無文むもん土器どきつくられたが、日本にっぽん縄文じょうもん土器どきのような美術びじゅつてき価値かちのあるものは存在そんざいしない[2]。10〜14世紀せいきには中国ちゅうごくのまねをして独自どくじ発展はってんさせた高麗こうらい青磁せいじつくられた。15世紀せいきには儒教じゅきょう影響えいきょうからこなあおすなわり、16〜19世紀せいきにはちょう白磁はくじわった。

しょ[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく流行りゅうこうにややおくれて忠実ちゅうじつ踏襲とうしゅうすることがおお[2]

金工きんこう[編集へんしゅう]

うるしこう[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくから螺鈿らでんつたわり、高麗こうらい少数しょうすう製作せいさくされた。現存げんそんするのは盒とけいばこで14れいのみ。朝鮮半島ちょうせんはんとうには1つだけしかのこっておらず、だい部分ぶぶん日本にっぽん欧米おうべいにある[2]

建築けんちく[編集へんしゅう]

世界せかい遺産いさんになっている仏国寺ぶっこくでらには、しん時代じだい石塔せきとうである釈迦しゃかとう多宝塔たほうとうのこされている。現存げんそんする朝鮮ちょうせん最古さいこ木造もくぞう建築けんちくとしては、浮石うきいしてら無量むりょう寿ひさし殿どの[4]おおとりとまてら極楽ごくらく殿どの[2]などがあげられており、いずれも建立こんりゅう年代ねんだいははっきりしないが13世紀せいきごろおもわれる。なお、仏教ぶっきょう弾圧だんあつにより廃寺はいじとなり荒廃こうはいしていた仏国寺ぶっこくでらであるが、日本にっぽん統治とうち時代じだい再建さいけんされた経緯けいいがある。

美術館びじゅつかん[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん総督そうとくは、1915ねん総督そうとく博物館はくぶつかん開館かいかんし、1926ねん慶州けいしゅう分館ぶんかん、1939ねんに扶余分館ぶんかん、1940ねんおおやけしゅう分館ぶんかん設立せつりつした。これが現在げんざい韓国かんこく国立こくりつ中央ちゅうおう博物館はくぶつかんとなっている。1931ねんには開城かいじょう府立ふりつ博物館はくぶつかん、1933ねんには平壌ぴょんやん府立ふりつ博物館はくぶつかん開館かいかんした。民間みんかんでも1924ねん浅川あさがわたくみ浅川あさがわはくきょうやなぎ宗悦むねよし日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせん民族みんぞく美術館びじゅつかん設立せつりつした。

日本にっぽん[編集へんしゅう]

朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく[編集へんしゅう]

大韓民国だいかんみんこく[編集へんしゅう]

美術びじゅつてん[編集へんしゅう]

日本にっぽん統治とうち時代じだいの1922〜1944ねん毎年まいとし朝鮮ちょうせん総督そうとく朝鮮ちょうせん美術びじゅつ展覧てんらんかいひらき、新人しんじん芸術げいじゅつ登竜門とうりゅうもんとしての役割やくわりたした。これが大韓民国だいかんみんこく大韓民国だいかんみんこく美術びじゅつ展覧てんらんかいがれた。

美術びじゅつ団体だんたい[編集へんしゅう]

だい2世界せかい大戦たいせんわった直後ちょくごの1945ねん8がつにソウルで朝鮮ちょうせん美術びじゅつ建設けんせつ本部ほんぶ結成けっせいされたが、あきには解体かいたいした。北朝鮮きたちょうせんでは朝鮮ちょうせん文学ぶんがく芸術げいじゅつそう同盟どうめい傘下さんか朝鮮ちょうせん美術家びじゅつか同盟どうめいがある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 美術びじゅつ朝鮮ちょうせん事典じてん しんてい増補ぞうほばん 平凡社へいぼんしゃ 2000ねん
  2. ^ a b c d e 高句麗こうくり百済くだらしん高麗こうらい」(世界せかい美術びじゅつだい全集ぜんしゅう 東洋とうようへん だい10かん小学館しょうがくかん 1998ねん7がつ
  3. ^ 単色たんしょくのリズム・韓国かんこく抽象ちゅうしょうてん戦後せんごかげまれた独自どくじせい 朝日新聞あさひしんぶん 2017ねん10がつ24にち
  4. ^ a b 朝鮮ちょうせん美術びじゅつ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ 小学館しょうがくかん
  5. ^ 水野みずの 2016, p. 1.
  6. ^ 水野みずの 2016, p. 163.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 韓国かんこくふつぞう名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2016ねん8がつ31にち 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]