朝鮮ちょうせん美術びじゅつ展覧てんらんかい

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朝鮮ちょうせん美術びじゅつ展覧てんらんかい(ちょうせんびじゅつてんらんかい)は、日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせんにおいて開催かいさいされた美術びじゅつ公募こうぼてん略称りゃくしょうは「鮮展」(せんてん)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

さんいち運動うんどう以後いごおこなわれた文化ぶんか統治とうち政策せいさく一環いっかんとして、朝鮮ちょうせん総督そうとく主管しゅかんした事業じぎょうだった。1922ねん5月にだい1かい展覧てんらんかい開催かいさいされた。1944ねんだい23かいまで、毎年まいとし公募こうぼてん形式けいしき開催かいさいされた。

展覧てんらんかい内容ないようとしては、おも美術びじゅつかい新人しんじん登竜門とうりゅうもんとしての役割やくわりたすこととなり、おおくの有名ゆうめい芸術げいじゅつたち日本にっぽん統治とうちにおける鮮展をつうじて、登壇とうだんするようになった。

鮮展は、文部省もんぶしょう主催しゅさい展覧てんらんかいである「文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい」(文展ぶんてん)ないし「帝国ていこく美術びじゅついん展覧てんらんかい」(みかどてん)を模倣もほうした形式けいしきによって運営うんえいされ、東洋とうよう洋画ようが彫刻ちょうこく部門ぶもん以外いがいにも朝鮮ちょうせん美術びじゅつ特性とくせいかした書道しょどう部門ぶもん設置せっちされた。審査しんさ委員いいんには朝鮮ちょうせんじん委嘱いしょくされたが、中盤ちゅうばん以降いこうかいすすむにれて、日本人にっぽんじん比率ひりつえていった。だい15かいからは、推薦すいせん作家さっか制度せいど新設しんせつされ、ベテラン作家さっかたち作品さくひん発表はっぴょう舞台ぶたいとしての機能きのうたすようになった。

前述ぜんじゅつとおり、鮮展はおおくの芸術げいじゅつ輩出はいしゅつする役割やくわりたしたが、かんてんという形式けいしきから芸術げいじゅつかい権威けんい主義しゅぎ蔓延はびこるようになり、戦後せんご韓国かんこくにおける近代きんだい美術びじゅつ日本にっぽんすすみ、画壇がだん日本にっぽん影響えいきょうまるようになったという批判ひはんかれる。

独立どくりつ1949ねん大韓民国だいかんみんこく創立そうりつされた大韓民国だいかんみんこく美術びじゅつ展覧てんらんかいが、鮮展をかたちとなった。