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日本にっぽん美術びじゅつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本にっぽん美術びじゅつ(にほんびじゅつし)は、日本にっぽん美術びじゅつながれ、様式ようしき変遷へんせんかく時代じだい代表だいひょうてき作品さくひん作家さっか研究けんきゅう相互そうご影響えいきょう関係かんけい作品さくひん作家さっかんだ時代じだい背景はいけい政治せいじ経済けいざい信仰しんこう風俗ふうぞく社会しゃかい文学ぶんがくなどとの関連かんれん)などについてべたもの、またはそうした分野ぶんや研究けんきゅうする学問がくもんのこと。

ほんこうでは日本にっぽん美術びじゅつ概観がいかんべるにとどめ、かく時代じだい美術びじゅつについてはそれぞれべつ項目こうもくもうけて詳説しょうせつする(予定よてい)。

概論がいろん

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日本にっぽん美術びじゅつ」のはじまり

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美術びじゅつ」という用語ようごは、1873ねん明治めいじ6ねん)、日本にっぽん政府せいふウィーン万国博覧会ばんこくはくらんかい参加さんかするにたり、出品しゅっぴん分類ぶんるいについてドイツの Kunstgewerbe および Bildende Kunst の訳語やくごとして「美術びじゅつ」を採用さいようしたのが初出しょしゅつとされる(山本やまもと五郎ごろう意匠いしょうせつ』:全文ぜんぶん近代きんだいデジタルライブラリ所収しょしゅう[1])。すなわち「おうこく維納博覧はくらんかい出品しゅっぴん心得こころえ」のだいケ条かじょう展覧てんらんかいひんひだりじゅうろくるいべつツ)だいじゅうに「美術びじゅつ西洋せいようニテ音楽おんがくがくぞうさくじゅつ詩学しがくとう美術びじゅつうんフ)(後略こうりゃく)」としるされる[2]。あるいは西にしあまね啓蒙けいもう1872ねん(1878ねんせつもあり)『美妙びみょう学説がくせつ』で英語えいごファインアート(fine arts)の訳語やくごとして採用さいようした(「哲学てつがくいちしゅ美妙びみょうがくうんアリ、所謂いわゆる美術びじゅつ(ハインアート)トしょうどおりシテ(後略こうりゃく)」とある)[3] もっとも、この当時とうじの「美術びじゅつ」には音楽おんがくなどもふくまれ、現代げんだい日本語にほんごの「芸術げいじゅつ」にちか語義ごぎであった。「美術びじゅつ」という単語たんご自体じたい明治めいじ時代じだい案出あんしゅつ訳語やくごであり、西洋せいよう概念がいねん日本にっぽんてはめたものであった以上いじょう、「日本にっぽん美術びじゅつ」あるいは「日本にっぽん美術びじゅつ」という概念がいねんもそれ以前いぜん時代じだいには存在そんざいしなかった。「美術館びじゅつかん」「美術家びじゅつか」「美術びじゅつ」などのかたり当然とうぜん明治めいじ時代じだい以降いこう使用しようされるようになったものである。「美術館びじゅつかん」という名称めいしょう1877ねん明治めいじ10ねん)に東京とうきょう上野うえの開催かいさいされただい1かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい陳列ちんれつかん名称めいしょうとして使用しようされたのが初出しょしゅつである[4]1889ねん明治めいじ22ねん)に開校かいこうした東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうげん東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく美術びじゅつ学部がくぶ)では「美学びがくおよ美術びじゅつ」が開講かいこうされ[5]、このころから「美術びじゅつ」のかたり現代げんだい同様どうよう意味いみ使用しようされている。1900ねん明治めいじ33ねん)には日本にっぽんはつ美術びじゅつほんされる『稿本こうほん日本にっぽん帝国ていこく美術びじゅつりゃく』が刊行かんこうされた(近代きんだいデジタルライブラリーに全文ぜんぶんあり[6])。

日本にっぽん美術びじゅつあつか範囲はんい

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日本にっぽん列島れっとう地域ちいき制作せいさく享受きょうじゅされた美術びじゅつをその範囲はんいとするとかんがえるのが一般いっぱんてきである。おも北海道ほっかいどうみ、特有とくゆう文化ぶんかをもつアイヌ人々ひとびと美術びじゅつや、現代げんだい沖縄おきなわけんたる琉球りゅうきゅう美術びじゅつについては、いわゆる日本にっぽん美術びじゅつとはべつ文脈ぶんみゃくろんじられることがある。もっとも、20世紀せいき以降いこう美術びじゅつについては、作者さくしゃがもっぱら海外かいがい制作せいさくしていたり、国境こっきょうえて幅広はばひろ活動かつどうしていることがおおく、上記じょうきかんがかたかならずしも妥当だとうしない。

つぎに、ジャンルのめんでどこまでを「美術びじゅつ」であつかうかというてんであるが、日本にっぽん美術びじゅつにおいては、絵画かいが彫刻ちょうこくならんで工芸こうげいひんめる位置いち非常ひじょうおおきく、金工きんこううるしこう染織せんしょく陶磁とうじなどの分野ぶんやきにして美術びじゅつかたることは妥当だとうでない。刀剣とうけん武具ぶぐ日本にっぽん美術びじゅつ伝統でんとうかんがえるうえ軽視けいしできない存在そんざいであり、「武士ぶしたましい」としょうされ神聖しんせいされている刀剣とうけんはその外装がいそう小道具こどうぐのみならず、かたな自体じたい美的びてき鑑賞かんしょう対象たいしょうとなっている。中国ちゅうごく場合ばあい同様どうよう、「しょ」も重要じゅうようなジャンルであり、「詩書ししょさんぜっ」という言葉ことばしめすように、水墨すいぼくなどでは1つの作品さくひんしょ絵画かいがあらわされ、これらは不可分ふかぶんのものとして鑑賞かんしょうされた。このほか、「日本にっぽん美術びじゅつ」という場合ばあいには、建築けんちく庭園ていえんについてもあわせてろんじるのが一般いっぱんてきである。

なお、近代きんだい以降いこうについては、写真しゃしんグラフィックアートなど、現代げんだいだい世界せかい大戦たいせん以降いこう)においては(日本にっぽんかぎった現象げんしょうではないが)、パフォーマンスハプニングビデオアートランドアートコンセプチュアル・アートなど、様々さまざま表現ひょうげん形態けいたいが「美術びじゅつ」の文脈ぶんみゃくかたられ、「美術びじゅつ」とそうでないものとの差異さい次第しだいにあいまいになってきている。

日本にっぽん美術びじゅつ位置付いちづけと特色とくしょく

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日本にっぽん美術びじゅつは、古代こだい以来いらい中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとうからの影響えいきょうおおきいが、平安へいあん時代じだい国風くにぶり文化ぶんかはじめ、日本にっぽん独自どくじ展開てんかいられる。近世きんせい初期しょき宣教師せんきょうしらが日本にっぽんおとずれ、一部いちぶ西洋せいよう美術びじゅつられるようになったが、その影響えいきょう局所きょくしょてきであった。ただし、江戸えど時代じだい美術びじゅつオランダ絵画かいが影響えいきょう指摘してきする研究けんきゅうしゃもいる。明治めいじ時代じだいになると、近代きんだい=西洋せいよう国家こっか目標もくひょうになり、美術びじゅつ分野ぶんやでもやと外国がいこくじんによる指導しどうおこなわれ、芸術げいじゅつ本場ほんばかんがえられたフランス留学りゅうがくするものもいた。洋画ようが技法ぎほう習得しゅうとくされる一方いっぽう伝統でんとうへの志向しこううまれ「日本にっぽん」が誕生たんじょうした。一方いっぽう海外かいがいにおいて日本にっぽん美術びじゅつ装飾そうしょくせい注目ちゅうもくされ、ジャポニスムがブームとなり、印象派いんしょうはアール・ヌーヴォーへの刺激しげきあたえた。

日本にっぽん美術びじゅつは、ひろ視野しやれば、アジア美術びじゅつ一環いっかんであり、インド中国ちゅうごくふく仏教ぶっきょうけん美術びじゅつなすこともできる。日本にっぽん美術びじゅつは、縄文じょうもん時代じだい例外れいがいとして、つね外国がいこく近世きんせい以前いぜんおも中国ちゅうごく近代きんだい以降いこうおも西洋せいよう)の影響えいきょうつよけつつ、独自どくじ様式ようしき発達はったつさせてきた。日本にっぽん美術びじゅつながれを理解りかいするには、つね中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとう美術びじゅつ対比たいひしてかんがえねばならず、日本にっぽん美術びじゅつ日本人にっぽんじんのみのによって自律じりつてき発達はったつしたものとかんがえることはあやまりだが、日本にっぽん美術びじゅつ中国ちゅうごく美術びじゅつ亜流ありゅうなすことも同様どうようあやまりといえよう。

欧米おうべいだい美術館びじゅつかんおおくに日本にっぽん美術びじゅつギャラリーがあり、「日本にっぽん美術びじゅつ」は独自どくじ様式ようしきをもった美術びじゅつとして認識にんしきされていることがかる。ただし、ニューヨークメトロポリタン美術館びじゅつかんやロンドンのだいえい博物館はくぶつかん日本にっぽんギャラリーは、中国ちゅうごく美術びじゅつやエジプト美術びじゅつのギャラリーにくらべて規模きぼちいさく、開設かいせつ時期じき比較的ひかくてきあたらしいということは事実じじつである。

以下いかおも絵画かいが彫刻ちょうこく工芸こうげい建築けんちくかく分野ぶんやについて記述きじゅつする。

先史せんし時代じだい

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縄文じょうもん時代じだい

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火焔かえん土器どき だか遺跡いせき出土しゅつど
遮光しゃこうがた土偶どぐうかめおか遺跡いせき出土しゅつど

日本にっぽん列島れっとうにもきゅう石器せっき文化ぶんか存在そんざいしたことは、いわ宿やど遺跡いせき群馬ぐんまけん)をはじめ、各地かくちでの発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかからあきらかとなっているが、日本にっぽんきゅう石器せっき文化ぶんか遺物いぶつには造形ぞうけい芸術げいじゅつぶべきものはほとんど存在そんざいしない。現代げんだいじんかんがえる「美術びじゅつ」に該当がいとうする遺物いぶつ出現しゅつげんするのはしん石器せっき文化ぶんか相当そうとうする縄文じょうもん時代じだいからである。縄文じょうもん時代じだい日本にっぽん列島れっとう美術びじゅつ外部がいぶからの影響えいきょう情報じょうほうにさらされず、独自どくじ発展はってんをとげた唯一ゆいいつ時代じだいである。この時代じだい人々ひとびとおも狩猟しゅりょう漁労ぎょろう採集さいしゅうによって生活せいかつしていたが、さんない丸山まるやま遺跡いせき青森あおもりけん)などの発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかによると、この時代じだいすで栽培さいばい農耕のうこうおこなわれ、人々ひとびとゆたかな食生活しょくせいかつをしていたことがあきらかになり、時代じだいかんわりつつある。縄文じょうもん時代じだい出土しゅつどする土器どき様式ようしきへんねんから草創そうそう早期そうき前期ぜんき中期ちゅうき後期こうき晩期ばんきの6区分くぶんされている。草創そうそう土器どきは、放射線ほうしゃせん炭素たんそによる年代ねんだい測定そくていいまからやく16,500ねんまえ暦年れきねん較正こうせい年代ねんだいほうによる。従来じゅうらい放射ほうしゃせい炭素たんそ測定そくてい年代ねんだいではやく13,000ねんまえから。)にさかのぼるとされている。その年代ねんだいについては議論ぎろん存在そんざいするが、現在げんざいのところ、これは世界せかい規模きぼても最古さいこ土器どきということになる。

木製品もくせいひん繊維せんい製品せいひんなどの有機ゆうき遺物いぶつ土中どちゅうのこそんしにくいため、この時代じだい出土しゅつど遺物いぶつ土器どき土偶どぐうはじめとする製品せいひん石器せっきなどのいし製品せいひんほねかく製品せいひん中心ちゅうしんとなる。このうち造形ぞうけい表現ひょうげんゆたかで時代じだい変遷へんせんもっともよくしめ遺物いぶつ土器どきである。土器どき時代じだい地域ちいきによって様式ようしきにかなりの相違そういがあり、おおくの形式けいしき区分くぶんされているが、全般ぜんぱんてき特色とくしょくとしてえることは、いわゆる縄文じょうもんなわもんともく)をはじめとした各種かくしゅ文様もんよううつわめんかざりし、祭祀さいし用途ようとつようつわしゅ容器ようきとしての機能きのうせいとらわれない華美かび装飾そうしょくほどこされる。

縄文じょうもんは、ぼうひねひも様々さまざまかたちけたほどこせ文具ぶんぐ焼成しょうせいまえうつわめんて、ころがすことによってしょうずるもので、ひもかたによって様々さまざま土器どき文様もんようまれる。このほかたけかん貝殻かいがらなどをほどこせ文具ぶんぐとした文様もんよう粘土ねんどひもけ、こくせんなど様々さまざま手段しゅだんもちいてうつわめん装飾そうしょくほどこされている。草創そうそう土器どきは、豆粒まめつぶぶんつめがたぶんなどとしょうされる素朴そぼく装飾そうしょくほどこしたものがおおい。中期ちゅうき縄文じょうもん時代じだい特有とくゆう造形ぞうけいがピークにたっする時期じきで、土器どき土偶どぐうともに装飾そうしょく過多かたともおもえるほどのダイナミックな造形ぞうけいられる。中部ちゅうぶ地方ちほうかちざかしき土器どき新潟にいがたけん出土しゅつどするうまだかしき土器どきなどがその代表だいひょうてきなものである。とく後者こうしゃはいわゆる火焔かえんしき土器どきしょうされるもので、くちえんには鶏冠けいかんないし王冠おうかんおもわせる複雑ふくざつ形状けいじょう装飾そうしょくし、うつわめんにも粘土ねんどひもけで複雑ふくざつ文様もんようあらわしている。後期こうきから晩期ばんきにかけては、ほどこした縄文じょうもん一部いちぶして平滑へいかつにし、「」と「文様もんよう」の区別くべつ鮮明せんめいにした「すりしょう縄文じょうもん」があらわれる。うつわがた装飾そうしょく中期ちゅうき呪術じゅじゅつてき装飾そうしょく過剰かじょうなものから次第しだい洗練せんれんされたものになり、製作せいさくしゃ美意識びいしき変化へんかうかがわれる。晩期ばんき土器どき用途ようとおうじてうつわしゅうつわがた変化へんかみ、現代げんだい急須きゅうす同形どうけい土器どきなどもある。

土偶どぐうもこの時期じき特有とくゆう遺物いぶつである。ハートがた土偶どぐう、ミミズク形くけい土偶どぐう遮光しゃこうがた土偶どぐうなどと通称つうしょうされる様々さまざま形態けいたいのものがあり、土器どき土偶どぐう装飾そうしょくほどこされた人面じんめん装飾そうしょくづけ土器どきられる。土偶どぐう現実げんじつ人体じんたい比例ひれいとはまったことなった姿すがたあらわされ、かろうじて人物じんぶつぞう認識にんしきできる段階だんかいまでデフォルメされたものがおおく、独特どくとく造形ぞうけい感覚かんかくつくられている。様々さまざま呪術じゅじゅつてき意図いとをもって製作せいさくされたものとかんがえられているが、妊娠にんしんした女性じょせい女神めがみ表現ひょうげんした土偶どぐうなどは豊穣ほうじょう祈願きがん意図いとをもってつくられたものであるとかんがえられている。

弥生やよい時代じだい

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初期しょき農耕のうこう文化ぶんか時代じだいであり、おおよそ紀元前きげんぜん3世紀せいきから紀元きげん3世紀せいきごろまでの期間きかん[ちゅう 1]前代ぜんだいとのおおきな相違そういは、日本にっぽん列島れっとう文化ぶんか外来がいらい文化ぶんか技術ぎじゅつ影響えいきょうけるようになったことであり、稲作いなさく農耕のうこう金属きんぞく中国ちゅうごく大陸たいりくからもたらされ、文化ぶんかあらたな時代じだいはいった。

文明ぶんめい進化しんかともない、支配しはいしゃ支配しはいしゃ分化ぶんかしたのもこの時期じきである。日本にっぽん列島れっとういま先史せんし時代じだいであり、この時代じだい歴史れきしどう時代じだい中国ちゅうごく史書ししょによって間接かんせつてきほかない。この時代じだい土器どきは、ぜん時代じだいのものにしてうつわがた洗練せんれんされ、装飾そうしょくひかえめな弥生やよい土器どきとなる。1まんねん以上いじょうつづいた縄文じょうもん時代じだいして、弥生やよい時代じだい期間きかんてきにはすうひゃくねんぎないが、出土しゅつどひん形式けいしきへんねんから前期ぜんき中期ちゅうき後期こうきけられている。

この時代じだい土器どきは1874ねん明治めいじ17ねん)に帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく)の隣地りんちこうおか弥生やよいまちげん東京とうきょう文京ぶんきょう弥生やよい)から出土しゅつどしたつぼがた土器どきまなべ史的してきには最初さいしょ出土しゅつどれいとされている。出土しゅつど地名ちめいをとって「弥生やよいしき土器どき」(弥生やよい土器どき)の名称めいしょう定着ていちゃくし、それが時代じだいめいともなった。弥生やよい土器どき地理ちりてき中国ちゅうごく大陸たいりく朝鮮半島ちょうせんはんとうちか北部ほくぶ九州きゅうしゅう最初さいしょ出現しゅつげんしたもので、地方ちほうでも縄文じょうもん土器どきわって製作せいさくされるようになり、北海道ほっかいどうのぞ日本にっぽん全国ぜんこく分布ぶんぷしている。

縄文じょうもん土器どきられた過剰かじょう装飾そうしょくかげひそめ、弥生やよい土器どきうつわがた文様もんようともに温和おんわ洗練せんれんされたものがおおられるようになった。土器どきなかにはくちえん人面じんめんあらわしたものもあるが、一般いっぱんにこの時代じだいには具象ぐしょうてき人物じんぶつ表現ひょうげんまれで、前代ぜんだいさかんにつくられた土偶どぐうもこの時代じだいにはほとんど姿すがたしている。

土器どき以外いがい出土しゅつどひんとしては青銅器せいどうき鉄器てっきなどの金属きんぞくいし製品せいひんほねかく製品せいひんかい製品せいひんなどがある。青銅器せいどうきには銅剣どうけんどうぼこ銅戈どうか(どうか)、銅鐸どうたく銅鏡どうきょうなどがある。このうち時代じだい象徴しょうちょうする代表だいひょうてき遺物いぶつされるのは銅鐸どうたくであろう。銅鐸どうたく後世こうせい釣鐘つりがね扁平へんぺいつぶしたようなうつわがたで、そのがた朝鮮半島ちょうせんはんとうにあったと推定すいていされるが、日本にっぽん独自どくじ発達はったつをとげた銅器どうきである。内部ないぶした(ぜつ)をもつ個体こたいがあることから、その原型げんけいらす楽器がっきであったとおもわれるが、次第しだい形式けいしきし、祭器さいきとなったものとおもわれる。基本きほんてき形状けいじょうはどの個体こたい同様どうようだが、おおきさや表面ひょうめん装飾そうしょくにはバラエティがあり、表面ひょうめん素朴そぼく絵画かいが表現ひょうげんられるものもある。製作せいさく当初とうしょ金色きんいろかがやき、所有しょゆうしゃとみ威厳いげん誇示こじする役割やくわりがあったものと想像そうぞうされる。銅剣どうけんとう武器ぶきとしての本来ほんらい用途ようとからはなれ、祭器さいきしたものとおもわれる。

古墳こふん時代じだい

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仁徳にんとく天皇陵てんのうりょうとされる「大山おおやま古墳こふん国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい
埴輪はにわ

おおよそ3世紀せいき後半こうはんから6世紀せいきなかごろまでの期間きかんす。多数たすうしょう国家こっかかれていた日本にっぽんには、このころから強大きょうだい権力けんりょくをもった王権おうけん成立せいりつする。この時代じだい代表だいひょうする遺物いぶつは、時代じだい名称めいしょうにもなっている古墳こふん、そのなかでも前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである。すで弥生やよい時代じだいから西日本にしにほん中心ちゅうしん墳丘ふんきゅういとなまれていたが、3世紀せいき後半こうはんごろから大和やまと盆地ぼんち中心ちゅうしん前方後円墳ぜんぽうこうえんふんしょうされる日本にっぽん独特どくとく形式けいしきだい規模きぼ墳墓ふんぼいとなまれるようになった。奈良ならけん桜井さくらいはし(はしはか)古墳こふん最初さいしょ古墳こふんわれている。こうしただい規模きぼ土木どぼく工事こうじ可能かのうになったということは、技術ぎじゅつ発達はったつともに、おおくの労働ろうどうりょく使つかえるだけの権力けんりょくをもち、広範囲こうはんい支配しはいひろげた王権おうけん成立せいりつ意味いみする。5世紀せいきには大阪おおさか平野へいや中心ちゅうしんにさらにだい規模きぼ前方後円墳ぜんぽうこうえんふんいとなまれた。大阪おおさかさかい大仙だいせん古墳こふんつたえ仁徳にんとく天皇陵てんのうりょう)はその典型てんけいてきれいである。古墳こふんは7世紀せいきはいっても築造ちくぞうされ、地方ちほうによっては8世紀せいきまでつくられているが、仏教ぶっきょうおおやけでんとしとされる538ねんごろさかいに、それ以後いご飛鳥あすか時代ときよ以前いぜん古墳こふん時代じだいんでいる。

この時代じだい出土しゅつどひんには馬具ばぐかたな装具そうぐなどの精巧せいこう金属きんぞく製品せいひんがあり、そのほか土器どき製品せいひんいし製品せいひんたまるい刀剣とうけんなどがおお出土しゅつどする。そのなかで、この時代じだい特徴とくちょうづける出土しゅつどひん埴輪はにわであろう。埴輪はにわ古墳こふん墳丘ふんきゅう周囲しゅういてられた素焼すやきの製品せいひんで、具象ぐしょうてき形体けいたいあらわさない円筒えんとう埴輪はにわからはじまり、やがてとりがた埴輪はにわ登場とうじょうとり以外いがい動物どうぶつ埴輪はにわ人物じんぶつ埴輪はにわがこれにつづく。動物どうぶつ埴輪はにわにはいぬいのうしにわとり馬具ばぐけたうまなどの出土しゅつどれいがあり、人物じんぶつ埴輪はにわには甲冑かっちゅうけた武人ぶじんぞう巫女ふじょ農民のうみんなど様々さまざま階層かいそう立場たちば人物じんぶつ表現ひょうげんされている。これらは、製法せいほうじょう制約せいやくから、形体けいたい単純たんじゅんで、人物じんぶつ顔貌かおかたち表現ひょうげん横長よこながあなけることによってりょうくち表現ひょうげんしたものがほとんどである。素朴そぼく表現ひょうげん単純たんじゅん技法ぎほうながら、人物じんぶつ表情ひょうじょうたくみにとらえ、芸術げいじゅつてきたか評価ひょうかされる作品さくひんおおい。武人ぶじん埴輪はにわなかには、当時とうじ刀剣とうけん甲冑かっちゅう忠実ちゅうじつ表現ひょうげんした入念にゅうねんさくもある。埴輪はにわは、当時とうじ人々ひとびと服装ふくそう髪型かみがた化粧けしょうなど生活せいかつ実態じったい具体ぐたいてきることのできる視覚しかく情報じょうほう提供ていきょうしてくれるというてんでも、学術がくじゅつてき貴重きちょう資料しりょうである。

古代こだい中古ちゅうこ

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法隆寺ほうりゅうじ西院さいいん伽藍がらん飛鳥あすか様式ようしき建築けんちくだが、実際じっさい建立こんりゅうは7世紀せいきまつ

美術びじゅつ史上しじょう飛鳥ひちょう時代じだいは、6世紀せいきなかば、日本にっぽん仏教ぶっきょう公式こうしき伝来でんらいした時期じきから、7世紀せいき後半こうはん天智天皇てんぢてんのう治世ちせいあたりまでをす。この時代じだいはいっても古墳こふん造営ぞうえいつづおこなわれているが、一応いちおう仏教ぶっきょうおおやけでん時期じきをもって古墳こふん時代じだい区切くぎっている。飛鳥あすか時代じだい終期しゅうきについては、政治せいじ史上しじょう区分くぶんでは710ねん平城ひらじろ遷都せんととしとするのが通常つうじょうである。美術びじゅつ史上しじょう区分くぶんでも710ねんまでを飛鳥あすか時代じだいとする場合ばあいもあるが、法隆寺ほうりゅうじ火災かさい炎上えんじょうした(『日本書紀にほんしょき』による)670ねん、ないし天武天皇てんむてんのう即位そくいの673ねんあたりを始期しきとして、以後いご平城ひらじろ遷都せんとまでの期間きかんは「白鳳はくほう時代じだい」または「奈良なら時代じだい前期ぜんき」としてべつ時代じだいるのが通例つうれいとなっている。

この時代じだいは、日本にっぽんはじめて外来がいらい宗教しゅうきょうである仏教ぶっきょうれ、その文化ぶんか下地したじつくったというてん重要じゅうよう時期じきである。仏教ぶっきょう百済くだら経由けいゆ日本にっぽん公式こうしきにもたらされた(仏教ぶっきょうおおやけでん時期じきについては、公式こうしき史書ししょである『日本書紀にほんしょき』には552ねん、『上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』や『元興寺がんごうじ縁起えんぎ』には538ねんとあるが、今日きょうでは後者こうしゃの538ねん仏教ぶっきょうおおやけでんとしとするのが定説ていせつである。仏教ぶっきょう受容じゅようをめぐっては有力ゆうりょく氏族しぞくである蘇我そがたかしふつ)と物部ものべはいふつ)のあいだ対立たいりつがあり、ついには武力ぶりょく抗争こうそう突入とつにゅうするが、結果けっかたかしふつ蘇我そが勝利しょうりした。6世紀せいきまつには日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてき仏教ぶっきょう寺院じいんである法興寺ほっこうじ飛鳥寺あすかでら)の建設けんせつ蘇我そがによってはじめられた。よう明天めいてんすめらぎ皇子おうじである厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいしひろられる)は、仏教ぶっきょうふか帰依きえし、6世紀せいきまつ四天王寺してんのうじ、7世紀せいきはじめに法隆寺ほうりゅうじ建立こんりゅうした。聖徳太子しょうとくたいし日本にっぽんにおける仏教ぶっきょう興隆こうりゅうとして神格しんかくされ、日本にっぽん仏教ぶっきょう寺院じいんでは宗派しゅうはわず崇拝すうはい対象たいしょうとなっている。法隆寺ほうりゅうじ西院さいいん伽藍がらん現存げんそんする世界せかい最古さいこ木造もくぞう建築けんちくとして著名ちょめいだが、『日本書紀にほんしょき』によれば、法隆寺ほうりゅうじは670ねんいち焼亡しょうぼうしており、現存げんそんするどうてら伽藍がらんはその(7世紀せいきまつごろ)の再建さいけんであることは発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかとうからも定説ていせつとなっている。

奈良なら時代じだい

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薬師寺やくしじひがしとう
東大寺とうだいじ大仏だいぶつ 台座だいざ以外いがいだい部分ぶぶん鎌倉かまくら時代ときよ江戸えど時代じだい補修ほしゅうである

美術びじゅつ史上しじょう区分くぶんでは、法隆寺ほうりゅうじ焼亡しょうぼうした670ねん、ないし天武天皇てんむてんのう即位そくいとしである673ねんから、794ねん平安へいあん遷都せんとまでを奈良なら時代じだいとすることがおおい。この場合ばあい平城ひらじろ遷都せんとの710ねんさかいとして、それ以前いぜん奈良なら時代じだい前期ぜんき(または白鳳はくほう時代じだい)、以後いご奈良なら時代じだい後期こうき(または天平てんぴょう時代じだい)としょうする。時代じだい終期しゅうきについては、長岡ながおか遷都せんととしである784ねんとする見方みかたもある。

710ねん平城ひらじろ遷都せんとさいし、当時とうじ飛鳥ひちょうにあった法興寺ほうこうじ元興寺がんこうじ)、大官大寺だいかんだいじ大安寺だいあんじ)、薬師寺やくしじうまやざかてら興福寺こうふくじ)などの寺院じいんはこぞってしんきょう移転いてんした。また、しんきょうには東大寺とうだいじ西大寺さいだいじ唐招提寺とうしょうだいじなどがあらたに建立こんりゅうされた。とき政権せいけん仏教ぶっきょうあつ保護ほごし、寺院じいん造営ぞうえい仏像ぶつぞう造立ぞうりゅう経典きょうてん書写しょしゃなどは国家こっか事業じぎょうとして実施じっしされた。なかでも聖武天皇しょうむてんのう仏教ぶっきょうふか帰依きえし、東大寺とうだいじ大仏だいぶつ造立ぞうりゅうし、また各国かっこく国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら建立こんりゅうすることをめいじた。平城京へいじょうきょうがあった時代じだい文化ぶんかは、年号ねんごうから「天平てんぴょう文化ぶんか」とばれ、国際こくさいしょくゆたかな仏教ぶっきょう文化ぶんかさかえた。東大寺とうだいじ倉庫そうこであったせいくらいん宝物ほうもつ聖武天皇しょうむてんのう遺愛いあいひん中心ちゅうしんとする8世紀せいき美術びじゅつ宝庫ほうこで、日本にっぽん製品せいひんとともにとうからの舶載はくさいひん数多かずおお所蔵しょぞうする。天平てんぴょう時代じだいはなやかな時代じだいというイメージがあるが、一方いっぽう天災てんさい凶作きょうさく権力けんりょくしゃ同士どうしこうそうなどが相次あいつ不安定ふあんてい時代じだいでもあった。

奈良なら時代じだい前期ぜんき白鳳はくほう時代じだい

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奈良なら時代じだい後期こうき天平てんぴょう時代じだい

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平安へいあん時代じだい

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平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどう

平安へいあん遷都せんとの794ねんから1185ねんごろまで、9世紀せいきから12世紀せいきいたやく4世紀せいきにわたる時代じだいである。美術びじゅつでは、遣唐使けんとうし廃止はいしされた894ねんあたりをさかいにして、以前いぜん平安へいあん時代じだい前期ぜんき以後いご平安へいあん時代じだい後期こうき藤原ふじわら時代ときよ)とぶことがおおい。とく彫刻ちょうこく方面ほうめんでは平安へいあん時代じだい前期ぜんきさだかん(じょうがん)時代じだいまたはひろしじん時代じだいぶこともあったが、特定とくてい元号げんごう平安へいあん時代じだい前期ぜんき代表だいひょうさせることにはあまり意味いみがないことから、今日きょうではこれらの呼称こしょうはあまりもちいられていない。

平安へいあん時代じだい前期ぜんきには空海くうかい最澄さいちょう相次あいついでとう渡航とこうし、密教みっきょう日本にっぽんつたえられた。空海くうかい最澄さいちょうらがつたえた仏教ぶっきょう思想しそう文物ぶんぶつ美術びじゅつめんでもおおきな影響えいきょうをもたらし、密教みっきょう曼荼羅まんだらや、奈良なら時代じだいにはられなかった本格ほんかくてき密教みっきょう彫像ちょうぞうつくられた。日本にっぽん文化ぶんかつね中国ちゅうごく大陸たいりくおよ朝鮮ちょうせん半島はんとうおもとする外来がいらい文化ぶんか影響えいきょうけ、仏教ぶっきょう文化ぶんか全般ぜんぱん多大ただい影響えいきょうあたえていた。それは平安へいあん時代じだい例外れいがいではないが、この時代じだいは、受容じゅようした外来がいらい文化ぶんか和風わふうし、文化ぶんか様々さまざまめんで「和様わよう」が成立せいりつした時代じだいとしてとらえられる。遣唐使けんとうし中止ちゅうしされた9世紀せいきまつ以降いこう文化ぶんか和風わふう進展しんてんし、漢字かんじもとにして日本にっぽん固有こゆう文字もじである仮名かめい考案こうあんされ、和歌わかや『源氏物語げんじものがたり』に代表だいひょうされる物語ものがたり文学ぶんがくさかんになった。これらの文学ぶんがくは、絵画かいが書道しょどう作品さくひんのテーマとなり、工芸こうげいひんのデザインにもおおいに影響えいきょうしている。また、仏像ぶつぞう絵画かいが大和絵やまとえ)、書道しょどう寺院じいん建築けんちくなど、造形ぞうけい芸術げいじゅつかく方面ほうめん和様わよう確立かくりつした。平安へいあん時代じだい後期こうきには源信みなもとのまこと恵心僧都えしんそうず)の『往生おうじょうようしゅう』などの影響えいきょう浄土じょうどきょう信仰しんこうさかんとなり、また、1052ねんを「末法まっぽう」のとししんじる末法まっぽう思想しそう(「末法まっぽう」のとし以後いご釈迦しゃかとなえたただしい仏法ぶっぽうおこなわれなくなるとしんじられた)が流布るふした。このため、貴族きぞくらは西方せいほう極楽浄土ごくらくじょうどへの往生おうじょうねがい、各地かくち阿弥陀如来あみだにょらいぞう安置あんちする阿弥陀堂あみだどう浄土じょうどしき庭園ていえんつくられた。

平安へいあん前期ぜんきひろしじん時代じだいさだかん時代じだい

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平安へいあん後期こうき藤原ふじわら時代ときよ

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扇面せんめん法華経ほけきょう冊子さっし

中世ちゅうせい

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鎌倉かまくら時代ときよ南北なんぼくあさ時代じだい

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東大寺とうだいじ南大門なんだいもん金剛力士こんごうりきしぞうけいさく、1203ねん

たいら滅亡めつぼうとしであり、みなもと頼朝よりともによって全国ぜんこく守護しゅご地頭じとう設置せっちされた1185ねん鎌倉かまくら時代じだい始期しきとすることがおおい。1180ねんには平重衡たいらのしげひらによる南都なんと焼討やきうち奈良なら南都なんと)の2だい仏教ぶっきょう勢力せいりょくであった東大寺とうだいじ興福寺こうふくじ炎上えんじょうしたが、このことは美術びじゅつ史上しじょう象徴しょうちょうてき事件じけんであった。焼失しょうしつした東大寺とうだいじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん興福寺こうふくじ堂宇どうう仏像ぶつぞうただちに再建さいけん計画けいかくすすめられたが、大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん再建さいけん担当たんとうしゃにんじられたのはわたりそう経験けいけんのあるじゅうみなもとであり、かれによってそうから伝来でんらいしん建築けんちく様式ようしきだい仏様ほとけさま導入どうにゅうされた。また、東大寺とうだいじ興福寺こうふくじ仏像ぶつぞう再興さいこうには、康慶こうけい運慶うんけい快慶かいけいけい中心ちゅうしんとする仏師ぶっし登用とうようされた。

この時代じだい前期ぜんきにはつづ院政いんせいおこなわれていたものの、政治せいじ文化ぶんか中心ちゅうしん次第しだい鎌倉かまくらうつっていった。たいら華麗かれいな「平家ひらかおさむけい」をのこしたことでもかるように、いちめん貴族きぞく文化ぶんかあこがれをもっていたが、わって政権せいけんをとったみなもと純然じゅんぜんたる武家ぶけであり、美術びじゅつ主要しゅよう享受きょうじゅしゃぜん時代じだい貴族きぞくから武士ぶしへとうつっていった。この時代じだいには栄西えいさい道元どうげんらのにゅうそうそうによって日本にっぽんにも本格ほんかくてき禅宗ぜんしゅうつたわり、比叡山ひえいざんなどのきゅう仏教ぶっきょう圧迫あっぱくけつつも、徐々じょじょ勢力せいりょくばしていった。13世紀せいき京都きょうと建仁寺けんにんじ建立こんりゅう皮切かわきりに、鎌倉かまくらにも建長寺けんちょうじ円覚寺えんかくじなどの本格ほんかくてきぜんてら建立こんりゅうされた。

南北なんぼくあさ時代じだい美術びじゅつてきには過渡かとととらえられ、鎌倉かまくら時代じだいふくめてろんじられることがおおい。ただし、刀剣とうけん武具ぶぐ分野ぶんやかんしては、長大ちょうだいだい太刀たち流行りゅうこうなど、あきらかな「南北なんぼくあさ時代じだい様式ようしき」があり、鎌倉かまくら時代じだいとはべつ時代じだいとされることがおおい。

だい仏様ほとけさま東大寺とうだいじ南大門なんだいもん
禅宗ぜんしゅうさまこう山寺やまでら仏殿ぶつでん

室町むろまち時代ときよ

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みやび」の北山きたやま文化ぶんか金閣寺きんかくじ庭園ていえん, 京都きょうと, 1397ねん
わび・さび」の東山ひがしやま文化ぶんか銀閣寺ぎんかくじ庭園ていえん, 京都きょうと, 1489ねん
雪舟せっしゅう秋冬あきふゆ山水さんすい

南北なんぼくあさ分裂ぶんれつ時代じだいて、室町むろまち幕府ばくふ3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ時代じだい、1392ねんにようやく南北なんぼく両朝りょうちょう合一ごういつし、文化ぶんか中心ちゅうしんふたた京都きょうともどった。義満よしみつ京都きょうと北山きたやま山荘さんそういとなみ(鹿苑寺ろくおんじ金閣寺きんかくじ)、この時代じだい文化ぶんか北山きたやま文化ぶんかぶことがある。8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ為政者いせいしゃとしてのつとめをおこたり、茶道さどう書道しょどう唐物とうぶつ中国ちゅうごく渡来とらい文物ぶんぶつ愛玩あいがんなどの趣味しゅみにふけっていたが、そのため文化ぶんか振興しんこうにはおおいに貢献こうけんした。かれ山荘さんそう慈照寺じしょうじ銀閣寺ぎんかくじ)が東山ひがしやまにあったことから、その時代じだい文化ぶんか東山ひがしやま文化ぶんかしょうすることがある。義政よしまさ東山ひがしやま山荘さんそうは、書院造しょいんづくり原型げんけいであり、日本にっぽん伝統でんとうてき住宅じゅうたく建築けんちくのルーツとなるものである。歴代れきだい足利あしかが将軍しょうぐん禅宗ぜんしゅう帰依きえし、これを保護ほごしたため、京都きょうと中心ちゅうしん禅宗ぜんしゅう寺院じいん隆盛りゅうせいし、そこから造園ぞうえん文学ぶんがく茶道さどうなど、様々さまざま文化ぶんかまれた。のうもこの時代じだい観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみにより完成かんせいされたものである。義政よしまさ収集しゅうしゅうひん東山ひがしやま御物ぎょもつしょうされ、足利あしかが同朋どうほうしゅ能阿弥のうあみ芸阿弥げいあみ相阿弥そうあみというさん世代せだい管理かんりし、『きみだいかん左右さゆうちょう』・『御物ぎょもつ目録もくろく』にまとめた。

北山きたやま文化ぶんか
東山ひがしやま文化ぶんか

近世きんせい

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桃山ももやま時代じだい

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長谷川はせがわ等伯とうはく 松林まつばやしみぎせき
姫路城ひめじじょう

室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうした1573ねんから、徳川とくがわ政権せいけん確立かくりつするまでの時代じだいす。美術びじゅつ史上しじょう区分くぶんでは、豊臣とよとみ滅亡めつぼうした1615ねんまでを桃山ももやま時代じだいとすることがおおい。はん世紀せいきたないみじか期間きかんであるが、美術びじゅつ史上しじょうとく絵画かいが建築けんちくにおいて特記とっきされる時代じだいである。城郭じょうかく建築けんちく発達はったつし、権力けんりょくのシンボルてき天守閣てんしゅかくきずかれ、御殿ごてん華麗かれい障壁しょうへき装飾そうしょくされた。室町むろまち時代じだいはじまったちゃ千利休せんのりきゅうによって大成たいせいされ、ぜん時代じだい書院しょいんちゃから、草庵そうあんちゃわびちゃという独特どくとく美意識びいしき形成けいせいされた。

江戸えど時代じだい

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日光にっこう東照宮とうしょうぐう
二条城にじょうじょう
尾形おがた光琳こうりん 風神ふうじん雷神らいじんのうち風神ふうじん
歌川うたがわ広重ひろしげ 東海道とうかいどうじゅうさんのうち蒲原かんばら
葛飾かつしか北斎ほくさい 富嶽ふがくさんじゅうろくけいのうち「凱風快晴かいせい

徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられたのは1603ねんだが、美術びじゅつ史上しじょう区分くぶんでは、大坂おおさかなつじん豊臣とよとみ滅亡めつぼうし、徳川とくがわ幕府ばくふ支配しはい体制たいせい確立かくりつした1615ねん桃山ももやま時代じだい江戸えど時代じだい区切くぎりとすることがおおい。この時代じだい美術びじゅつ多様たようし、その性格せいかく一言ひとことでいいあらわすことは困難こんなんであるが、古代こだい中世ちゅうせい美術びじゅつ宗教しゅうきょう仏教ぶっきょう中心ちゅうしんであったのにくらべ、いちじるしく世俗せぞく傾向けいこうつよまった。この時代じだい世情せじょう一応いちおう安定あんていし、2世紀せいき以上いじょうにわたっておおきな戦乱せんらんく、庶民しょみん生活せいかつレベルも、それ以前いぜん時代じだい比較ひかくすれば向上こうじょうしていた。そのため、美術びじゅつ享受きょうじゅしゃそう増大ぞうだいし、寺社じしゃ公家くげ武家ぶけなどにくわえ、裕福ゆうふく町人ちょうにんそう有力ゆうりょくパトロンとなった。さらには、おな作品さくひん複数ふくすう生産せいさんできる版画はんがという方式ほうしき流布るふにより、浮世絵うきよえのような町人ちょうにんとど芸術げいじゅつまれた。文化ぶんか中心ちゅうしん上方かみがた京都きょうと大阪おおさか)と江戸えど二分にぶんされる。幕府ばくふ開設かいせつ当初とうしょ江戸えどはひなびた場所ばしょであり、上方かみがた文化ぶんか先進せんしん地域ちいきであったが、やがて諸国しょこく人材じんざいあつまる江戸えど美術びじゅつになあつまるようになった。かく地方ちほうでも1610年代ねんだい肥前ひぜん有田ありた日本にっぽんはつ磁器じきつくられて以降いこう大量たいりょう磁器じき製品せいひんをヨーロッパに供給きょうきゅうした。また、うるし工芸こうげいなど独自どくじ工芸こうげいひん生産せいさんされるようになった。

寛永かんえい前期ぜんき

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元禄げんろく中期ちゅうき

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せい後期こうき

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蕪村ぶそんとんびからす』(重文じゅうぶんほん着色ちゃくしょく
若冲じゃくちゅう紫陽花あじさいそうにわとり

近代きんだい

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幕末ばくまつから明治めいじ

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橋本雅邦『竜虎』(1895年、静嘉堂文庫、左隻) (同右隻)
橋本はしもと雅邦がほう竜虎りゅうこ』(1895ねん静嘉堂文庫せいかどうぶんこひだりせき
どうみぎせき
鈴木すずき長吉ちょうきちじゅうたか』(1893ねん国立こくりつ工芸こうげいかん

幕末ばくまつ、ヨーロッパの万国博覧会ばんこくはくらんかい出展しゅってんした幕府ばくふかくはん工芸こうげいひん美術びじゅつひんすぐれた装飾そうしょくひんとして絶賛ぜっさんされ、日本にっぽん工芸こうげいへのヨーロッパからの関心かんしんたかまり、外貨がいかかせ輸出ゆしゅつひんとなる可能かのうせいひらかれた。しかし、日本にっぽんには西洋せいようのような「美術びじゅつ」と「工芸こうげい」の厳然げんぜんたる区別くべつく、日本にっぽん美術びじゅつひんそうじて装飾そうしょくてき工芸こうげいてきなされヨーロッパ美術びじゅつよりも一段いちだんひくいところにかれた。(しかし、ヨーロッパ美術びじゅつかいアカデミズム権威けんい美術びじゅつ工芸こうげい境界きょうかいらぎはじめたこの時期じき日本にっぽん美術びじゅつひん前衛ぜんえいてき芸術げいじゅつらにジャポニスムという強力きょうりょく影響えいきょうあたえることとなった。)

明治維新めいじいしん近代きんだい社会しゃかい激変げきへんによりそれまでの日本にっぽん美術びじゅつおおきくうごいた。明治維新めいじいしんにより狩野かのなどの幕府ばくふ支持しじ基盤きばんとしていた画壇がだん勢力せいりょくうしない、日本にっぽん江戸えど後期こうきから発達はったつしていた浮世絵うきよえ文人ぶんじん中心ちゅうしんとなる。政府せいふ早急そうきゅう西洋せいようしきの「ファイン・アート」(純粋じゅんすい美術びじゅつ)を導入どうにゅうしてヨーロッパ諸国しょこくじない芸術げいじゅつ体裁ていさいととのえようとし遠近えんきんほうなどの西にし洋画ようがほう導入どうにゅうした洋画ようが成立せいりつし、明治めいじ9ねん(1876ねん)には建築けんちく都市とし計画けいかく分野ぶんやへの応用おうよう目的もくてきとしたこう美術びじゅつ学校がっこう開校かいこうし、フォンタネージやと外国がいこくじんによる西洋せいよう美術びじゅつ教育きょういく開始かいしされ、こう美術びじゅつ学校がっこう出身しゅっしんしゃ洋画ようが彫刻ちょうこく明治めいじ前半ぜんはん日本にっぽん美術びじゅつかい中心ちゅうしんてき存在そんざいとなった。

一方いっぽう日本にっぽん諸派しょは絵画かいがなどは旧弊きゅうへいなものとなされ存続そんぞく危機ききおちいった。伝統でんとうてき画壇がだん凋落ちょうらくのほか廃仏毀釈はいぶつきしゃく大名だいみょう没落ぼつらくともない、おおくのすぐれた美術びじゅつひん古道具ふるどうぐ市場いちばにあふれ、美術びじゅつしょうだったはやし忠正ただまさらの積極せっきょくてき売買ばいばいにより欧米おうべい流出りゅうしゅつしそのままかえらなかった。明治めいじ12ねん(1879ねん)には佐野さの常民じょうみんによる竜池たついけかい日本にっぽん美術びじゅつ協会きょうかい)が結成けっせいされ、竜池たついけかい日本にっぽん伝統でんとう美術びじゅつ保護ほご育成いくせいほか日本にっぽん美術びじゅつ外貨がいか獲得かくとくのための貿易ぼうえきひんとしても注目ちゅうもくし、博覧はくらんかい共進きょうしんかい開催かいさい運動うんどうこした。

やがて近代きんだい一段落いちだんらくし、今度こんど国粋こくすい主義しゅぎや、民族みんぞく国家こっかとしての独自どくじ美術びじゅつ探求たんきゅうするうごきがこり、ふたた日本にっぽん美術びじゅつけられるようになる。アーネスト・フェノロサ岡倉おかくら天心てんしんらは、政府せいふから万国博ばんこくはく出展しゅってんのために「日本にっぽん美術びじゅつ」の解説かいせついてほしいとの依頼いらいけ、短期間たんきかん日本にっぽん美術びじゅつ通史つうしげた。これが現在げんざい我々われわれ日本にっぽん美術びじゅつ原型げんけいであるが、そのさいに、海外かいがいへの紹介しょうかいてきさないとされた作家さっからはリストからこぼち、結果けっかとしてながらく忘却ぼうきゃくされた。

フェノロサ・岡倉おかくら天心てんしんらは、急速きゅうそく近代きんだい弊害へいがいから日本にっぽん美術びじゅつまも育成いくせいするため、その優秀ゆうしゅう独自どくじせい東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう開校かいこうは、天心てんしんらのにより西洋せいよう一旦いったんしりぞけされ、こう美術びじゅつ学校がっこう出身しゅっしんしゃらは明治めいじ美術びじゅつかいつくって対抗たいこうする。パリ在住ざいじゅうはやし忠正ただまさによる印象派いんしょうは紹介しょうかいや、海外かいがい留学りゅうがくからかえった黒田くろだ清輝きよてるらの出展しゅってんで、明治めいじ美術びじゅつかい洋画ようがらは混乱こんらんしながらもヨーロッパの最新さいしん絵画かいが運動うんどう活発かっぱつ活動かつどうおこなった。

天心てんしんたちは、内紛ないふんにより東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうから追放ついほうされ、横山よこやま大観たいかん下村しもむら観山かんざんらとともに日本にっぽん美術びじゅついん結成けっせいする。また京都きょうと画壇がだん竹内たけうち栖鳳せいほうらをはじめ、おおくの日本にっぽん絵画かいが作家さっからがヨーロッパに留学りゅうがく。やがてこうしたうごきから、諸派しょは絵画かいが西洋せいよう影響えいきょうれたあたらしい民族みんぞく美術びじゅつとして日本にっぽん誕生たんじょうした。

1907ねん政府せいふによるはじめての公募こうぼてん文部省もんぶしょうだいいちかい美術びじゅつ展覧てんらんかい文展ぶんてん)がおこなわれ、日本にっぽん洋画ようが彫刻ちょうこくかく部門ぶもん新旧しんきゅう作家さっからが一堂いちどう展覧てんらんされた。

大正たいしょう戦前せんぜん昭和しょうわ

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明治めいじ後期こうきから大正たいしょう美術びじゅつかいは、1910ねん明治めいじ43ねん)に創刊そうかんされた雑誌ざっし白樺しらかんば』において耽美たんびてき・コスモポリタンてき西洋せいよう美術びじゅつ文学ぶんがく紹介しょうかいされ、にち戦争せんそう勝利しょうり象徴しょうちょうされる国力こくりょく伸長しんちょうあいまって、若者わかものあいだではフォーヴィスムキュビズムなどはん自然しぜん主義しゅぎてき前衛ぜんえい画風がふうこのまれ、個性こせい象徴しょうちょうする自由じゆう表現ひょうげんもとめる潮流ちょうりゅうられた。

一方いっぽう、『白樺しらかんば創刊そうかんおなじ1910ねん明治めいじ43ねん)には幸徳こうとく秋水しゅうすいらが大逆だいぎゃくざい死刑しけいとなった大逆だいぎゃく事件じけん発生はっせいしており、体制たいせいがわでは国家こっか体制たいせい弛緩しかん憂慮ゆうりょ国家こっか威信いしん強化きょうかするための統制とうせいおこなわれはじめ、画家がか文学ぶんがくしゃ一部いちぶ体制たいせい恭順きょうじゅんし、明治めいじ後期こうき大正たいしょう文学ぶんがく美術びじゅつかい白樺しらかんば代表だいひょうされるはなやかな側面そくめんと、国家こっか権力けんりょくによる芸術げいじゅつ統制とうせい戦争せんそう恐慌きょうこうなど時代じだい閉塞へいそくじょうきょう反映はんえい社会しゃかい意識いしきをもった潮流ちょうりゅうめんせい特徴とくちょうとする。

大正たいしょう洋画ようがかいでは、前衛ぜんえい美術びじゅつ影響えいきょうから自然しぜん主義しゅぎてきかんてん画風がふうきら在野ざいや立場たちばからはんかんてん表明ひょうめいする美術びじゅつ団体だんたい結成けっせい相次あいついだ。1912ねん大正たいしょう元年がんねん)に高村たかむら光太郎こうたろう斎藤さいとう与里よりらが中心ちゅうしんとなり、後期こうき印象派いんしょうはやフォーヴィスムの画家がか終結しゅうけつしたフュウザンかい結成けっせいした。1914ねん大正たいしょう3ねん)には文展ぶんてん洋画ようがだい新派しんぱ)の設置せっちもとめていれられなかった石井いしい柏亭はくてい有島ありしま生馬いくまらが二科会にかかい結成けっせいした。大正たいしょう4ねんには岸田きしだ劉生りゅうせいらのくさしゃ結成けっせいされ、二科会にかかいくさしゃ双璧そうへきとなる。1914ねん大正たいしょうねん)、前年ぜんねん死去しきょした岡倉おかくら天心てんしん追慕ついぼ横山よこやま大観たいかん下村しもむら観山かんざん中心ちゅうしんとして日本にっぽん美術びじゅついん再興さいこうされた。

一方いっぽう文部省もんぶしょうかんてん停滞ていたい打破だはするため1919ねん大正たいしょう8ねん)に帝国ていこく美術びじゅついん設置せっちし、従来じゅうらい文展ぶんてん廃止はいしあらたに帝国ていこく美術びじゅついん展示てんじかいみかどてん)を開催かいさいし、みかどてんでは従来じゅうらいそとこうてき写実しゃじつ主義しゅぎ画家がか中心ちゅうしんでありつつも、フォーヴィスムとう前衛ぜんえい画風がふうれた独自どくじのスタイルをしていた。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、児島こじまよし三郎さぶろうはやしたけし福沢ふくさわ一郎いちろう三岸みぎし好太郎こうたろうらが独立どくりつ美術びじゅつ協会きょうかい結成けっせい日本にっぽんてきフォーヴィスム・シュルレアリスム志向しこうした。

昭和しょうわ10年代ねんだいになると自由じゆう芸術げいじゅつ活動かつどうたいする制限せいげん弾圧だんあつ顕著けんちょとなる。従軍じゅうぐんする芸術げいじゅつ増加ぞうかし、またいくつもの美術びじゅつ団体だんたい解散かいさんされたり、政府せいふ指導しどうしたにさらにおおきな団体だんたい吸収きゅうしゅうされたりした。1943ねん昭和しょうわ18ねん)に結成けっせいされた新人しんじん画会がかい靉光あいみつらのように抵抗ていこうする活動かつどうられたが十分じゅうぶんなものとはいえなかった。戦時せんじにおいては国民こくみん戦意せんい高揚こうようのため、おおくの画家がか戦争せんそうえが戦争せんそう協力きょうりょくくわわることになった。藤田ふじた嗣治つぐじ宮本みやもと三郎さぶろう中村なかむら研一けんいちらがこれにあたる[7]

1938ねん6がつ27にちだい日本にっぽん陸軍りくぐん従軍じゅうぐん画家がか協会きょうかい結成けっせいされた。1942ねん3がつ19にち全国ぜんこく日本にっぽん画家がか2500にんによって日本にっぽん美術びじゅつほう国会こっかい結成けっせいされた[8]どう3がつ陸海りくかいぐんは、戦争せんそう記録きろく製作せいさくのため、藤田ふじた嗣治つぐじ中村なかむら研一けんいち宮本みやもと三郎さぶろう小磯こいそ良平りょうへい安田やすだうつぼ彦・川端かわばた龍子りゅうこ福田ふくだ豊四郎とよしろうらの南方なんぽう各地かくち派遣はけん決定けってい、4がつ-5月出発しゅっぱつした。12月3にち-12月27にちだい1かいだい東亜とうあ戦争せんそう美術びじゅつてん)、藤田ふじた十二月じゅうにがつはちにち真珠湾しんじゅわん」「シンガポール最後さいご」、中村なかむら「コタバル」、宮本みやもと山下やました・パーシバルりょう司令しれいかん会見かいけん」など。 1943ねん12月8にち-1944ねん1がつ9にちだい2かいだい東亜とうあ戦争せんそう美術びじゅつてん美術館びじゅつかん)、宮本みやもと海軍かいぐん落下傘らっかさん部隊ぶたいメナド攻撃こうげき」など。 1944ねん9がつ28にち情報じょうほうきょくが、公募こうぼてん中止ちゅうしなどの美術びじゅつ展覧てんらんかい取扱とりあつかい要綱ようこう発表はっぴょう二科会にかかい一水会いちすいかいてんしん制作せいさくてんなどが中止ちゅうし。10月6にち二科会にかかい解散かいさん以後いご旺玄しゃ構造こうぞうしゃ日本にっぽん彫刻ちょうこく協会きょうかい日本にっぽん木彫きぼり協会きょうかいしん構造こうぞうしゃなどが解散かいさん

現代げんだい

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昭和しょうわせん後期こうき

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昭和しょうわ後期こうき平成へいせい

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現代げんだい美術びじゅつ
20世紀せいきまつから21世紀せいき
サブカルチャー

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、北九州きたきゅうしゅうから出土しゅつどする最初さいしょ土器どき炭素たんそ14による年代ねんだい測定そくていほう調査ちょうさしたところ、紀元前きげんぜん8~9世紀せいきというたとの報告ほうこくもあり、弥生やよい時代じだい始期しきを5世紀せいきほどさかのぼらせるべきだとの主張しゅちょうもある。

出典しゅってん

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  1. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/854088
  2. ^ 美術びじゅつ 日本にっぽん近代きんだい思想しそう大系たいけい17』青木あおきしげる酒井さかい忠康ただやすこうちゅう岩波書店いわなみしょてん, 1989, p.403-405 所収しょしゅうどう書中しょちゅう青木あおきしげる北澤きたざわ憲昭のりあき解題かいだい山本やまもと明治めいじ23ねん)を引用いんようしている)
  3. ^ 西にしあまねちょ美妙びみょう学説がくせつ」(西にしあまね全集ぜんしゅう/大久おおひさ保利ほりけん編著へんちょ.だい1かん,宗高むなだか書房しょぼう p.477-492所収しょしゅう
  4. ^ 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん歴史れきし6.内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい 殖産しょくさん興業こうぎょう博物館はくぶつかん http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=149
  5. ^ 改正かいせい官立かんりつ公立こうりつ及ビ私立しりつしょ学校がっこう規則きそく』(近代きんだいデジタルライブラリー所収しょしゅう)p.10 全文ぜんぶんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812660/10
  6. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849674
  7. ^ 『カラーばん 日本にっぽん美術びじゅつ 増補ぞうほ新装しんそう美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ、2003ねん、174-175ぺーじISBN 4-568-40065-1 
  8. ^ 日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん 美術びじゅつ研究所けんきゅうじょ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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