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銅鐸どうたく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 静岡しずおかけん出土しゅつど(パリ、ギメ美術館びじゅつかんくら

銅鐸どうたく(どうたく)は、弥生やよい時代じだい製造せいぞうされた釣鐘つりがねかた青銅器せいどうきである。紀元前きげんぜん2世紀せいきから2世紀せいきやく400年間ねんかんにわたって製作せいさく使用しようされた。

名称めいしょう

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語源ごげんとなった「」は古代こだい中国ちゅうごく大陸たいりくにおいてもちいられたきの青銅器せいどうき楽器がっきである。鐸はちもう一方いっぽうにもったで鐸をらしておとをだした。これにたいしてるして使用しようされる楽器がっきは「かね」とばれる。

弥生やよい時代じだい銅鐸どうたくもしくはかねのようなかたちをしている青銅器せいどうきである。日本にっぽんではふるくから「銅鐸どうたく」とんだが、実際じっさいにはかねのようにるして使用しようされた[1]

銅鐸どうたく名称めいしょうがはじめてもちいられたのは8世紀せいき編纂へんさんされたぞく日本にっぽんにおいてである。和銅わどうろくねん713ねん)に大和やまとこく宇陀うだぐんにおいてつかった銅鐸どうたく献上けんじょうされたとしるされている。記録きろくでも銅鐸どうたく名称めいしょうられる[2]

だい倭國わのくに宇太ぐんなみざかさとじんだいはつ上村君かみむらきみひがしじんとくどう鐸於長岡ながおか野地やち而獻こう三尺口徑一尺其制異常音協律呂勅所司蔵之
大倭おおやまと宇太ぐんなみざかきょうひとだいはつ上村君かみむらきみひがしじん銅鐸どうたく長岡ながおかけんじる。たかさんしゃく口径こうけいいちしゃく、そのせいつねことにして、おとりつりょきょうう。所司しょしみことのりしてぞうめしめたまふ。

12世紀せいきの「扶桑ふそう略記りゃっき」や14世紀せいきの「石山寺いしやまでら縁起えんぎ」など以後いご記録きろくでは「たから鐸」とばれた[2]

出土しゅつど

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加茂かも岩倉いわくら遺跡いせき出土しゅつど銅鐸どうたく国宝こくほう島根しまね県立けんりつ古代こだい出雲いずも歴史れきし博物館はくぶつかん展示てんじ

これまでに出土しゅつどした銅鐸どうたく全国ぜんこくやく500である。文化庁ぶんかちょうによる平成へいせい13ねん(2001ねん)3がつまつ時点じてんでのおも出土しゅつどすう以下いかとおりである[3]

一時いちじ近畿きんき中心ちゅうしんとした銅鐸どうたく文化ぶんかけんという概念がいねん存在そんざいしたが、その吉野よしのさと遺跡いせきをはじめ北部ほくぶ九州きゅうしゅうおおくの銅鐸どうたくおよびその鋳型いがた出土しゅつどしたことから、銅鐸どうたく文化ぶんかけん概念がいねん否定ひていされた。とくに、吉野よしのさと遺跡いせきから出土しゅつどした銅鐸どうたくおよびその鋳型いがたつて出雲いずも出土しゅつど銅鐸どうたく木幡きばた銅鐸どうたく)と完全かんぜん一致いっちしたことから、最近さいきんではむしろ北部ほくぶ九州きゅうしゅうつくられたものが出雲いずもにひろまったとかんがえられるようになった。

文様もんようくわえてえがかれた銅鐸どうたくすくなくなく、やく13%である[4](1997ねん2がつ現在げんざい)。

形状けいじょう

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滋賀しがけん野洲やす小篠原こしのはら大岩山おおいわやま出土しゅつど 突線ひも5しき銅鐸どうたく
くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん展示てんじ

おおきさは12センチから1メートルをすものまである。1世紀せいきごろにはたかさが60センチにたっし、そのさらに大型おおがたすすみ、2世紀せいきには1メートルをえ、最終さいしゅうてきには134センチにたっする。しかし、その直後ちょくご鋳造ちゅうぞうんでいる。現存げんそんする最大さいだいのものは、滋賀しがけん野洲やす野洲やすまち大岩山おおいわやま1881ねん出土しゅつど1ごう銅鐸どうたくで、たかさ144センチ、重量じゅうりょう45キログラムにたっする。

近畿きんき地方ちほう生産せいさんされたものは表面ひょうめんかなら文様もんようがつけられている。文様もんよう一番いちばんおおいのが、袈裟けさたすきぶん(けさだすきもん)で、たて文様もんようたいよこ文様もんようたいとを交差こうささせている。そのまえ流水りゅうすいぶんであった。最古さいこきゅう銅鐸どうたくは、たて文様もんようたいよこ文様もんようたいよん袈裟けさたすきぶんかざっている。また、げるぼたん断面だんめんがた菱形ひしがたとなっている(Iしきひしたまきぼたんしき、りょうかんちゅうしき)[注釈ちゅうしゃく 1]。しかし、大阪おおさか茨木いばらぎ東奈良ひがしなら遺跡いせきから出土しゅつどしたしょう銅鐸どうたくぼたん断面だんめんがた円形えんけいである。その、IIしき外縁がいえんづけぼたんしき(がいえんつきちゅうしき)[注釈ちゅうしゃく 2]、IIIしき扁平へんぺいぼたんしき[注釈ちゅうしゃく 3]、IVしき:突線ぼたんしき[注釈ちゅうしゃく 4]変遷へんせんする。その自身じしん大型おおがたし、表面ひょうめんかざりがくわわる。このように銅鐸どうたくは、ひも形態けいたい変化へんかするとともに、銅鐸どうたく全体ぜんたい大型おおがたして、げてらす楽器がっきから、えつける祭器さいき変化へんかしたことがわかる。

紀元前きげんぜん2世紀せいき後半こうはんごろ40センチを大型おおがた銅鐸どうたくあらわれ、流水りゅうすいぶん採用さいようされている。この文様もんよう紀元前きげんぜん1世紀せいきごろ衰退すいたいする。当時とうじ家屋かおくなど弥生やよい時代じだい習俗しゅうぞく様子ようすえがいた原始げんしてき絵画かいがされているもの(絵画かいが銅鐸どうたく)もある。つて香川かがわけん出土しゅつど銅鐸どうたくかんして、その意味いみは、「きとしけるもの、すべておのれきんがためには、弱者じゃくしゃせいうばうこともさけがたく、われらじんもまた、鹿しかいのしし生活せいかつなが月日つきひおくってきたが、いま農耕のうこうごうおしえられてより、年々ねんねんみのりはゆたかにくらち、明日あしたしょくうれうることもなきにいたった。いざ、わが祖神そしん恩沢おんたくたたえようではないか」[5]解釈かいしゃくし、農耕のうこうにより弱肉強食じゃくにくきょうしょく時代じだいわったことを感謝かんしゃする「農耕のうこう賛歌さんかせつ」が定説ていせつである。

松帆まつほ銅鐸どうたく
みなみあわじ滝川たきがわ記念きねん美術館びじゅつかんだまあおかん展示てんじ

2015ねん兵庫ひょうごけんみなみあわじ発見はっけんされた「松帆まつほ銅鐸どうたく紀元前きげんぜん4世紀せいきまえ2世紀せいき前半ぜんはんごろ推定すいてい)」[6][7][8]は、じょうになっていた2くみ(4)をCTスキャン調査ちょうさした結果けっか、そのすべてに「した(ぜつ)」がのこされていた[9][10][11]。その調査ちょうさで「した」にのこったひも一部いちぶ実際じっさい確認かくにんされ、「ぼたん」からはひもきつけたことしめ繊維せんいへん痕跡こんせきつかっている[12]。この銅鐸どうたく青銅せいどうふくまれるなまり分析ぶんせき結果けっか朝鮮半島ちょうせんはんとう出土しゅつどする銅鐸どうたくおな材料ざいりょうつくられていたことがわかった。

歴史れきし

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近畿I式銅鐸(左)・三遠式銅鐸(右) いずれも突線鈕2式。近畿式銅鐸は鈕に渦紋の双頭飾り耳をつけて身の区画帯を斜格子紋とするが、三遠式銅鐸は鈕に飾耳がなく身の横帯を綾杉紋とする。 左は滝峯才四郎谷銅鐸、右は前原銅鐸。いずれも浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館展示。 近畿I式銅鐸(左)・三遠式銅鐸(右) いずれも突線鈕2式。近畿式銅鐸は鈕に渦紋の双頭飾り耳をつけて身の区画帯を斜格子紋とするが、三遠式銅鐸は鈕に飾耳がなく身の横帯を綾杉紋とする。 左は滝峯才四郎谷銅鐸、右は前原銅鐸。いずれも浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館展示。
近畿きんきIしき銅鐸どうたくひだり)・さんとおしき銅鐸どうたくみぎ
いずれも突線ぼたん2しき近畿きんきしき銅鐸どうたくぼたん渦紋かもん双頭そうとうかざみみをつけて区画くかくたいはす格子こうしもんとするが、さんとおしき銅鐸どうたくぼたんかざりみみがなくよこたいあやすぎもんとする。
ひだりたきみねざい四郎谷しろうたに銅鐸どうたくみぎ前原まえはら銅鐸どうたく。いずれも浜松はままつひめ街道かいどう銅鐸どうたく歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん展示てんじ

中国ちゅうごく江蘇ちぁんすーしょうすずにある春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい紀元前きげんぜん770 - どう221ねん)の地方ちほう国家こっかこし」の貴族きぞく紀元前きげんぜん470ねんごろ)から、日本にっぽん弥生やよい時代じだい銅鐸どうたくかたち原始げんしてき磁器じきの鐸が出土しゅつどしている。日本にっぽん銅鐸どうたくは、中国ちゅうごく大陸たいりく起源きげんとするすず朝鮮半島ちょうせんはんとうからつたわり独自どくじ発展はってんしたというのが定説ていせつだが、発掘はっくつ調査ちょうさ担当たんとうした南京なんきん博物はくぶついん考古こうこ研究所けんきゅうじょちょう所長しょちょうは、鐸が中国ちゅうごく南部なんぶえつから日本にっぽん直接ちょくせつつたわった可能かのうせいがあると指摘してきしている[13]

1世紀せいきすえごろをさかいにしてきゅう大型おおがたする(IVしき:突線ひもしき)。この大型おおがたした銅鐸どうたくには、近畿きんきしきさんとおしきの2しゅがある[注釈ちゅうしゃく 5]近畿きんきしき大和やまと河内かわうち摂津せっつ生産せいさんされ、さんとおしき濃尾平野のうびへいや生産せいさんされたものであろうと推定すいていされている。

近畿きんきしきは、近畿きんき一帯いったい中心ちゅうしんとして、ひがし遠江とおとうみ西にし四国しこくひがしはんきた山陰さんいん地方ちほうに、さんとおしきは、ひがし信濃しなの遠江とおとうみ西にし濃尾平野のうびへいや一応いちおう限界げんかいとし、例外れいがいてき伊勢湾いせわん東部とうぶ琵琶湖びわこ東岸とうがん京都きょうと北部ほくぶ日本にっぽん海岸かいがんにそれぞれ分布ぶんぷする。それぞれの銅鐸どうたく2世紀せいきだいさかんにつくられた。2世紀せいき末葉まつようになると近畿きんきしきのみとなる。銅鐸どうたくはさらに大型おおがたするが、3世紀せいきになると突然とつぜんつくられなくなる。

銅鐸どうたく発見はっけんされた記録きろくは、『扶桑ふそう略記りゃっき』の天智天皇てんぢてんのう7ねん668ねん)、近江おうみこく志賀しかぐんたかしぶくてら建立こんりゅうするのにさいして発見はっけんされた記述きじゅつ最古さいこであろうという。ただし、天智てんじ記事きじ詳細しょうさいしるしているはずの記紀ききは、この出来事できごとについてまったれていない。『ぞく日本にっぽん』には、和銅わどう6ねん713ねん)、大和やまと宇波うなみきょうひと長岡ながおかにおいて発見はっけんした記事きじがあり、『日本にっぽんりゃく』には、ひろしひとし12ねん821ねん)、播磨はりまこくされ、「おもねそだておうとう鐸」とよばれたとある。

なお『古事記こじき』のくにには小豆島しょうどしま別名べつめいとしてだい鐸姫登場とうじょうする。

用途ようと

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銅鐸どうたく形態けいたい変化へんか
東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん展示てんじ

が鐸(手付てつきのかね)にえるので楽器がっきのようにおもうが、現在げんざいのところ用途ようといまさだかではない。出土しゅつどじょうきょう表面ひょうめんのこされた痕跡こんせきなどから使用しよう方法ほうほうはある程度ていど推測すいそくされている。銅鐸どうたくはその形状けいじょうゆえ、初期しょき小型こがたものぼたん(ちゅう)の内側うちがわひも(ひも)などをとおしてるし、まい上面うわつらけられたあなからいし鹿角かつのせいの「した(ぜつ)」をらして胴体どうたい部分ぶぶんか、あるいは「した」そのものをらし、内部ないぶ胴体どうたい部分ぶぶん内面ないめん突帯と接触せっしょくさせることらされたとかんがえられる(西洋せいようかねカウベルおなじ)。

これはぼたん下部かぶおよ側面そくめんひも長期間ちょうきかんるされたことによる「れ」とかんがえられる痕跡こんせきや、内面ないめん突帯にしたたったためにできたとおもわれるへこみのかたちでの損傷そんしょう確認かくにんされる銅鐸どうたくがあるためである。ぎゃく梵鐘ぼんしょうのような、胴体どうたい外面がいめんたたくことでできたとかんがえられる痕跡こんせきのあるものは出土しゅつどれいがない。なお、銅鐸どうたくを「らす」段階だんかいにあってはこの内面ないめん突帯の摩滅まめつ軽減けいげんするため、この内面ないめん突帯を2ほんやしたものが銅鐸どうたく発達はったつともえていく。

2015ねん6がつ淡路島あわじしま発見はっけんされた銅鐸どうたく4からおとらすための青銅せいどうせいの「した(=)」が発見はっけんされたことを、けん教育きょういく委員いいんかい発表はっぴょうした。翌年よくねん、2016ねん1がつ発見はっけんされた弥生やよい前期ぜんきまつ中期ちゅうき初頭しょとう銅鐸どうたく7すべてに、したとそれをるすためとおもわれるひも存在そんざい確認かくにんされ、銅鐸どうたくりさげて使用しようされていたと推測すいそくされるようになった。

1世紀せいきすえごろには大型おおがたすすみ、ぼたん薄手うすで装飾そうしょくてきなものへの変化へんかられることから、銅鐸どうたく利用りようほうが、おとして「く」目的もくてきから地面じめん祭殿さいでんゆかかれて「せる」目的もくてきへと変化へんかしたとするせつ支持しじあつめている。これは「銅鐸どうたく」から「銅鐸どうたく」への展開てんかいばれ(田中たなかみがく)、ぼたんひれ外部がいぶみみくことがおおくなる。また、すでにらすことを放棄ほうきした設計せっけいであるにもかかわらず、長期間ちょうきかんらす」銅鐸どうたくの「延命えんめい」の工夫くふうであるはずの内面ないめん突帯が増加ぞうか三重みえ)されたものもある。これは通常つうじょうれることのない内面ないめんにまで装飾そうしょくびた、もしくは「らす」ためとはべつ目的もくてきがあった可能かのうせいかんがえられる。

古語こご拾遺しゅういにはてん岩戸いわと祭事さいじにおいててんほそおんなほこに鐸をつけておどるという描写びょうしゃがある。現在げんざいでも小野おの神社じんじゃなどつたわる鐸鉾のような使つかわれたほうをした可能かのうせいがある。

埋納まいのうじょうきょう

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埋納まいのうじょうきょうについてはむらはずれた丘陵きゅうりょうふもと、あるいは頂上ちょうじょうすこからの出土しゅつどだい部分ぶぶんであり、ふかすうじゅうセンチメートルの比較的ひかくてきあさあなってよこたえたものがおおい(さかさまにめられたものも2れいある)。いち出土しゅつどする場合ばあいおおいが、じゅうすう同時どうじ出土しゅつどしたれいまれにある。あまり注目ちゅうもくされることいが頂上ちょうじょうからの出土しゅつどがないことは銅鐸どうたく用途ようと信仰しんこうてき位置いちかんがえるうえ重要じゅうようかんがえられる。松帆まつほ銅鐸どうたくのように海岸かいがん砂丘さきゅう埋納まいのうされていたと推定すいていされるめずらしいれいもある。土器どき石器せっきちがい、住居じゅうきょあとからの出土しゅつどはほとんどなく、また銅剣どうけんどうほこなどどう製品せいひんことなり、はかからの副葬品ふくそうひんとしての出土しゅつどれいいちもないため(墳丘ふんきゅうしゅうほりからの出土しゅつどいちれいある)、個人こじんものではなく、村落そんらく共同きょうどうたい全体ぜんたい所有しょゆうぶつであったとされている。なお、埋納まいのう時期じき紀元前きげんぜんこう2世紀せいきころ集中しゅうちゅうしている。銅鐸どうたく埋納まいのうしたことの理由りゆうについては以下いかのように諸説しょせつある。

神体しんたいとしてべい穀物こくもつ豊穣ほうじょういのっておがんだのではないかというせつ[だれによって?]
しかし、これには反論はんろんがあり「まつるための宝物ほうもつならそれなりのあつかいをけるはずで、そのようなほどこしは見受みうけられない」ということである[だれによって?]。だが、この場合ばあいの「ほどこし」というものが具体ぐたいてきにどのような痕跡こんせきすのかが問題もんだいである[だれによって?]
平時へいじ地中ちちゅう埋納まいのうし、祭儀さいぎとう必要ひつようときして使用しようしたが、祭儀さいぎ方式ほうしき信仰しんこう変化へんかにより使つかわれなくなり、やがて埋納まいのうされたままわすられたとするせつ松本まつもと清張せいちょうひとし
とくに「銅鐸どうたく」の紋様もんよう不鮮明ふせんめいさは埋納まいのうから発掘はっくつまでの土中どちゅうでの経年けいねん劣化れっかではなく、みがとう行為こういによるものとされており(佐原さはらしん)、まつりのたびかえみがかれたためという。かつての東南とうなんアジア方面ほうめんベトナムひとし、しかし現在げんざい不明ふめい)のどうごろ地中ちちゅうめてあり、まつりのとき葬儀そうぎときして使用しようしていたという。
だい変事へんじにあたりかみ奉納ほうのうしたのではないかというせつ[だれによって?]
しかしじゅうすう同時どうじ出土しゅつどするれいは「だい変事へんじ」の規模きぼにあわせたために大量たいりょう埋納まいのうしたのか、全国ぜんこく各地かくち出土しゅつどするのは全国ぜんこく規模きぼ弥生やよい時代じだいとおして「だい変事へんじ」が頻発ひんぱつしたのか、ひとし埋納まいのうじょうきょうなどをまえたうえかんがえる必要ひつようがある。[だれによって?]
れいしずめるために銅器どうき埋納まいのうした風習ふうしゅうというせつ
古代こだい華南かなんにそのような風習ふうしゅうられた。
文字もじいまさだまっていない時代じだいに、任命にんめいしょえてかがみではなく銅鐸どうたく授与じゅよしたというせつ
だが、そもそもかがみ任命にんめいしょとしてあたえるような権力けんりょくしゃ集団しゅうだん当時とうじ日本にっぽん列島れっとう存在そんざいしたかがまず問題もんだいである(古墳こふん時代じだいには同盟どうめい集団しゅうだん配布はいふしたとおぼしきれいすくなからずあるようである)。また、銅鐸どうたく製造せいぞう集団しゅうだん文化ぶんかてき背景はいけい由来ゆらいするとおもわれる地域ちいきてき銅鐸どうたく特徴とくちょうについて考慮こうりょまったいているという批判ひはんがある。
銅鐸どうたくまつ当時とうじ列島れっとう信仰しんこうてき背景はいけいとはいちじるしくことなる文化ぶんかった外敵がいてきめてひとし社会しゃかいてき変動へんどうきたときに、銅鐸どうたく所有しょゆうしゃ土中どちゅう隠匿いんとくして退散たいさんしたというせつ古田ふるた武彦たけひこひとし
この「外敵がいてき」を後世こうせい有力ゆうりょく集団しゅうだん祖先そせんするせつもある。しかし、全国ぜんこくてきたような埋納まいのうのされほうなので、あわててかくしたのであればいろいろなかたがあるはず、という反論はんろんがある。2世紀せいき後半こうはんごろ倭国わのくに大乱たいらんこり、3世紀せいき前半ぜんはん卑弥呼ひみこ邪馬台国やまたいこく女王じょおうとしてやまと国々くにぐに統治とうちしている。
政治せいじてき社会しゃかい変動へんどうにより、不要ふようなものとして(多数たすう場合ばあい一括いっかつして)埋納まいのうしたというせつ三品みしなかげうつ小林こばやし行雄ゆきおひとし
つまり、弥生やよい時代じだい個々ここ村落そんらく統合とうごうするあたらしい支配しはいしゃあらわれるひとして人々ひとびとがよりおおきな集団しゅうだん構成こうせいするさいに、それまでのそれぞれの共同きょうどうたい祭儀さいぎから専制せんせいてき権力けんりょくしゃ祭儀さいぎへの変化へんかき、各々おのおの村落そんらく使つかわれていた銅鐸どうたく埋納まいのうしたというものである。そのさい集落しゅうらくによっては銅鐸どうたくこわとう行為こういもあったとおもわれ、一部いちぶ破壊はかい銅鐸どうたく出土しゅつどはこのような理由りゆうによるとする。また、この社会しゃかい祭儀さいぎ変化へんかとはつぎ古墳こふん時代じだいへの変化へんかのことと関連付かんれんづけられることがおおい。

銅鐸どうたくはしばしば破壊はかいされた状態じょうたい発見はっけんされる。たとえば、兵庫ひょうごけん豊岡とよおか久田谷くただに銅鐸どうたくは、5~10cm前後ぜんこうくだかれた状態じょうたい発見はっけんされた。奈良ならけん桜井さくらい脇本わきもと遺跡いせきからは、銅鐸どうたく破片はへんほか銅鐸どうたくとはちが鋳型いがたなどがまとまって出土しゅつどし、「銅鐸どうたくへんかし、かがみや鏃(やじり)などの青銅器せいどうきつくえた」可能かのうせい寺沢てらさわかおるにより指摘してきされている[14]。また、銅鐸どうたく発見はっけん破壊はかいされるれいもある。たとえば、よん袈裟けさたすきもん絵画かいがされたたにぶんあきらきゅうぞう銅鐸どうたくは、表裏ひょうりはち区画くかくのうち、片面かためん上段じょうだん左右さゆう区画くかく欠損けっそんしている。これは「江戸えど時代じだい花器かきとして銅鐸どうたく使つかうことが通人つうじんあいだ流行りゅうこうしたことによる」とかんがえられ、同様どうようにして発見はっけん破壊はかいされるケースは「容器ようき転用てんようしたりしゅ切断せつだんしたもの、切断せつだんしたものなど、その犠牲ぎせいになったものはじゅうれいほどになる」という[15]

しかし、遺跡いせきごとに用途ようと保管ほかん方法ほうほう埋納まいのう事情じじょうことなっていたとかんがえられるため、すべての銅鐸どうたく一律いちりつろんじることは危険きけんである。

銅鐸どうたく文化ぶんかけんどうほこ文化ぶんかけん

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どうほことも出土しゅつどした銅鐸どうたく島根しまねけん出雲いずもあら神谷かみや遺跡いせき
銅鐸どうたく分布ぶんぷ
武器ぶきがた青銅器せいどうき分布ぶんぷ

かつては遺跡いせき発掘はっくつされること自体じたいすくなく、青銅器せいどうき出土しゅつどりょうすくなかったため、どうほこおも北九州きたきゅうしゅう周辺しゅうへん銅鐸どうたく近畿きんきから東海とうかい地方ちほうにかけての地域ちいき出土しゅつどするというかたよりがあった。そしてこのかたよりが絶対ぜったいであったうちは中京ちゅうきょう以西いせい列島れっとう二分にぶんする「銅鐸どうたく文化ぶんかけん」と「どうほこ文化ぶんかけん」の存在そんざいによるものであるととらえられ、仮定かていとしてではなく真剣しんけんろんじられていた時代じだいがあった。(さらに中国ちゅうごく地方ちほうを「銅剣どうけん文化ぶんかけん」としてこれをくわえ、3つの文化ぶんかけん対立たいりつしあっていたとするせつもあった。)

しかし、発掘はっくつされる遺跡いせき増加ぞうかともな当然とうぜんのことながら青銅器せいどうき出土しゅつどれいえ、「銅鐸どうたく文化ぶんかけん」の地域ちいきどうほこ銅剣どうけんが、「どうほこ文化ぶんかけんない銅鐸どうたく出土しゅつどするといったことがおおくなった。とく佐賀さがけん吉野よしのさと遺跡いせきからは銅鐸どうたく鋳型いがた銅鐸どうたく出土しゅつどした[16]。また出土しゅつどした銅鐸どうたく島根しまねけん福田ふくだがた銅鐸どうたく酷似こくじしており、おな鋳型いがた吉野よしのさと生産せいさんされた銅鐸どうたく島根しまねけんまで移出いしゅつされた可能かのうせいたかくなった[17]。さらに福岡ふくおかけん大分おおいたけんなどでも多数たすう銅鐸どうたく鋳型いがた出土しゅつどしている[18]

このため、「銅鐸どうたく文化ぶんかけん」と「どうほこ文化ぶんかけん」という言葉ことばろんじられることがなくなり、小学校しょうがっこう教科書きょうかしょからも記述きじゅつ削除さくじょされている。

一方いっぽう三輪みわ賀茂かもなどの地祇ちぎけい氏族しぞくとの関連かんれん以前いぜんより指摘してきされており[19]出土しゅつど分布ぶんぷ島根しまねけん大国たいこく主神しゅしんなど出雲神いずものかみばなし舞台ぶたい)、兵庫ひょうごけん播磨はりまこく風土記ふどきなど出雲いずもけい神話しんわ舞台ぶたい)、徳島とくしまけんてんはちげん彦命後裔こうえい定住ていじゅう)、高知こうちけんてんはちげん彦命の後裔こうえい定住ていじゅう)、奈良ならけん事代ことしろ主神しゅしんなどさんりん本拠ほんきょ)、滋賀しがけんかず邇氏一派いっぱ三上みかみ本拠ほんきょ)、長野ながのけんけん御名ぎょめいかたしん後裔こうえい定住ていじゅう)であるように、三輪みわけい部族ぶぞく物部ものべけい部族ぶぞく政治せいじ連合体れんごうたいにおいて象徴しょうちょうてきもちいられたとするせつもある。これらは神武じんむ東征とうせい影響えいきょうによって崩壊ほうかいし、畿内きない中心ちゅうしん地域ちいきから弥生やよい時代じだい後期こうき銅鐸どうたくえたとされる[20]

国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい銅鐸どうたく

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*しるし国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい

名称めいしょう 出土しゅつど 収蔵しゅうぞう場所ばしょ 解説かいせつ
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 福井ふくいけん坂井さかい春江はるえまち井向いのむかい(いのむかい)出土しゅつど 個人こじんぞう されたもっとふる形式けいしき銅鐸どうたくひとつ。えがかれている画題がだいおおくがやく150ねん桜ヶ丘さくらがおかまち出土しゅつど銅鐸どうたくつて香川かがわけん出土しゅつど銅鐸どうたく共通きょうつうすることが重要じゅうようとされる。
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 福井ふくいけん坂井さかい春江はるえまち井向いのむかい出土しゅつど たつ考古こうこ資料しりょうかん
突線袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 愛知あいちけん名古屋なごや瑞穂みずほ軍水ぐんすいまち出土しゅつど たつ考古こうこ資料しりょうかん
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 滋賀しがけん大津おおつ石山寺いしやまでら出土しゅつど 石山寺いしやまでら
突線袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 2くち 滋賀しがけん野洲やす小篠原こしのはら大岩山おおいわやま出土しゅつど 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん 滋賀しがけん野洲やす小篠原こしのはら大岩山おおいわやまから1881ねん明治めいじ14ねん)に14くち、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に10くち出土しゅつどした銅鐸どうたくぐんのうち(前者ぜんしゃの14くちのうちの2くち)。2くちのうちの1くちたかさ135センチの日本にっぽん最大さいだい銅鐸どうたくである。
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 2くち
突線袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 7くち
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 1くち
滋賀しがけん野洲やす小篠原こしのはら大岩山おおいわやま出土しゅつど 滋賀しが県立けんりつ安土あづちじょう考古こうこ博物館はくぶつかん 滋賀しがけん野洲やす小篠原こしのはら大岩山おおいわやまから1881ねん明治めいじ14ねん)に14くち、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に10くち出土しゅつどした銅鐸どうたくぐんのうち、後者こうしゃの10くちにあたる。
突線袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 2くち 滋賀しがけん野洲やす小篠原こしのはら大岩山おおいわやま出土しゅつど たつ考古こうこ資料しりょうかん 滋賀しがけん野洲やす小篠原こしのはら大岩山おおいわやまから1881ねん明治めいじ14ねん)に14くち、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に10くち出土しゅつどした銅鐸どうたくぐんのうち(前者ぜんしゃの14くちのうちの2くち[注釈ちゅうしゃく 6]
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 滋賀しがけん守山もりやま新庄しんじょうまち出土しゅつど 個人こじんぞう
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 京都きょうと与謝よさぐん与謝野よさのまち三河内みかわち比丘尼びくにじょう出土しゅつど 梅林寺ばいりんじぞう京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 大阪おおさか羽曳野はびきの西浦にしうら出土しゅつど 文化庁ぶんかちょうぞう羽曳野はびきの市立しりつ陵南りょうなんもり総合そうごうセンター保管ほかん
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 大阪おおさか南河内みなみかわちぐん太子たいしまち山田やまだ出土しゅつど たつ考古こうこ資料しりょうかん
桜ヶ丘さくらがおか遺跡いせき出土しゅつどひん*
  • 袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく両面りょうめんざい画像がぞう)2くち
  • 袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 8くち
  • 銅鐸どうたく 1くち
  • 流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 3くち
  • 銅戈どうか7くち
兵庫ひょうごけん神戸こうべなだ桜ヶ丘さくらがおかまち出土しゅつど 神戸こうべ市立しりつ博物館はくぶつかん 銅鐸どうたく14くち銅戈どうか7くちふく一括いっかつ資料しりょう。14くち銅鐸どうたくのうち、4ごう銅鐸どうたくと5ごう銅鐸どうたく人物じんぶつ動物どうぶつなどの略画りゃくがされたもので、資料しりょうてき貴重きちょうである。
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 4くち 兵庫ひょうごけん豊岡とよおか気比けひ出土しゅつど 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん
よこたいぶん銅鐸どうたく 兵庫ひょうごけん洲本すもと中川原なかかわはらまちきゅう中川原なかかわはらむら出土しゅつど 隆泉寺りゅうせんじ
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく :銅鐸どうたくした 兵庫ひょうごけんみなみあわじ松帆慶野まつほけいの出土しゅつど 日光寺にっこうじ
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 兵庫ひょうごけんみなみあわじ松帆慶野まつほけいの出土しゅつど 慶野けいのぐみ所有しょゆう洲本すもと市立しりつ淡路あわじ文化ぶんか史料しりょうかん保管ほかん
銅鐸どうたくそうぼたん細線さいせん鋸歯きょしぶんきょう 奈良ならけん御所ごしょ名柄ながら出土しゅつど 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん
よこたいぶん銅鐸どうたく つて伯耆ほうきこく出土しゅつど たつ考古こうこ資料しりょうかん
島根しまねけんあら神谷かみや遺跡いせき出土しゅつどひん*
  • よこたいぶん銅鐸どうたく1くち
  • 袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく5くち
  • 銅剣どうけん358くち
  • どうほこ16くち
島根しまねけん出雲いずも斐川ひかわまち神庭かみにわ西谷にしたに出土しゅつど 文化庁ぶんかちょうぞう島根しまね県立けんりつ古代こだい出雲いずも歴史れきし博物館はくぶつかん保管ほかん 尾根おね斜面しゃめんから銅剣どうけん358ほんどうほこ(どうほこ)16ほん銅鐸どうたく6くち出土しゅつどした。畿内きない中心ちゅうしん出土しゅつどする銅鐸どうたく北九州きたきゅうしゅう中心ちゅうしん出土しゅつどするどうほこ出雲いずも地方ちほう特有とくゆう形式けいしきをもつ銅剣どうけんどういち遺跡いせきから、しかも大量たいりょう出土しゅつどしたというてん学術がくじゅつてき価値かちたかい。
島根しまねけん加茂かも岩倉いわくら遺跡いせき出土しゅつど銅鐸どうたく* 39くち 島根しまねけん雲南うんなんきゅう大原おおはらぐん加茂かもまち出土しゅつど 文化庁ぶんかちょうぞう島根しまね県立けんりつ古代こだい出雲いずも歴史れきし博物館はくぶつかん 1996ねん平成へいせい8ねん)に検出けんしゅつされたもので、1つの遺跡いせきからの出土しゅつどれいとしては日本にっぽん最多さいたの39くち出土しゅつどした。
突線流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 岡山おかやまけん岡山おかやま高塚たかつか遺跡いせき出土しゅつど 岡山おかやま県立けんりつ博物館はくぶつかん
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 岡山おかやまけん井原いはら木之子きのこまちざるもり出土しゅつど たつ考古こうこ資料しりょうかん
安芸あき福田ふくだそうやま出土しゅつどひん 広島ひろしまけん広島ひろしまひがし福田ふくだまち出土しゅつど 個人こじんぞう
突線袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 徳島とくしまけん徳島とくしま国府町矢野こくふちょうやの 矢野やの遺跡いせき出土しゅつど 徳島とくしまけん所有しょゆう徳島とくしま県立けんりつ埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい総合そうごうセンター保管ほかん
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 徳島とくしまけん阿南あなん山口やまぐちまち末広すえひろ出土しゅつど 文化庁ぶんかちょう保管ほかん
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく* つて讃岐さぬきこく出土しゅつど 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん 桜ヶ丘さくらがおか出土しゅつど銅鐸どうたく類似るいじした略画りゃくがされた銅鐸どうたく
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう たつ考古こうこ資料しりょうかん
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう たつ考古こうこ資料しりょうかん
袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう たつ考古こうこ資料しりょうかん
袈裟けさたすきぶんゆう銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう
つて高知こうちけん
たつ考古こうこ資料しりょうかん
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう
推定すいてい奈良ならけん
たつ考古こうこ資料しりょうかん
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう たつ考古こうこ資料しりょうかん
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう たつ考古こうこ資料しりょうかん
流水りゅうすいぶん銅鐸どうたく 出土しゅつどしょう たつ考古こうこ資料しりょうかん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 単独たんどく工房こうぼう製品せいひん
  2. ^ ひれからつづ文様もんようたいがIしきしゅ外側そとがわいた型式けいしき、IIしき後半こうはんになるとしゅ断面だんめんうす扁平へんぺいし、にくあつ部分ぶぶんりょう付近ふきんのみとなる。前半ぜんはん近畿きんき複数ふくすうこうじん集団しゅうだん製作せいさく、そのなか畿内きない南部なんぶ流水りゅうすい文様もんようをつくったこうじん集団しゅうだん有力ゆうりょく
  3. ^ しゅりょう付近ふきんにくあつ部分ぶぶんを1つの文様もんようとした型式けいしき製作せいさくは、前半ぜんはんまでIIしき前半ぜんはんからつづく、後半こうはんになると6袈裟けさたすき文様もんようあたらしく、流水りゅうすいぶんってわる。また、後半こうはんには東海とうかい四国しこく中国ちゅうごく地方ちほうにも銅鐸どうたく製作せいさくこうじん集団しゅうだん活躍かつやくする。
  4. ^ 文様もんようたい界線かいせんなどが文様もんようよりもふとせん使つかわれてはい型式けいしき
  5. ^ 近畿きんきしきしゅにはおおきなかざみみが3あるのにたいさんとおしきにはない。ふとせん直接ちょくせつ文様もんようたいせっするのが近畿きんきしきふとせんほそせん直接ちょくせつせっしないであいだかならほそせんはいるのがさんとおしき鋸歯きょしぶんない斜線しゃせん方向ほうこう底辺ていへんをしたにした状態じょうたいみぎがりぞろえられている近畿きんきしきたいして三猿さんえんとおしき斜線しゃせんみぎがりのひだりがりの文様もんよう交互こうごえがいている。
  6. ^ 1881ねん出土しゅつどの14くちのうち2くち所在しょざい不明ふめいの12くち(うち4くち重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は各所かくしょぶんぞう参照さんしょう大岩山おおいわやま銅鐸どうたく滋賀しがけん出土しゅつど銅鐸どうたくしょう銅鐸どうたく野洲やす公式こうしきサイト)。

出典しゅってん

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  1. ^ ただし銅鐸どうたくらしてもちいたかどうかはあきらかではない。
  2. ^ a b 銅鐸どうたく寺院じいん出土しゅつどあつかいにかんして―石橋いしばししげるとう千葉大学ちばだいがく
  3. ^ 兵庫ひょうごけん教育きょういく委員いいんかい 兵庫ひょうごけん遺跡いせき遺物いぶつすう全国ぜんこくてき位置いち(pdf)
  4. ^ 佐原さはらしん銅鐸どうたくく』小学館しょうがくかん、1997ねん3がつ31にちISBN 4-09-626059-2  p.68
  5. ^ 小林こばやし行雄ゆきお古墳こふんはなし岩波書店いわなみしょてん、1959ねん3がつ20日はつか  p.51
  6. ^ 弥生やよい時代じだい銅鐸どうたく出土しゅつど=「すうじゅうねんいちだい発見はっけん」-兵庫ひょうご淡路島あわじしま
  7. ^ くらしナビ・まなぶ:おしえて!デスク 淡路島あわじしま銅鐸どうたく発見はっけん
  8. ^ 動画どうが淡路島あわじしま銅鐸どうたくすうじゅうねんいちだい発見はっけん」 土砂どしゃ選別せんべつ作業さぎょうがきっかけ
  9. ^ はつ確認かくにん 発見はっけん銅鐸どうたくに「した
  10. ^ 銅鐸どうたくすべてに「した」=CTスキャンで-兵庫ひょうご淡路あわじ
  11. ^ 銅鐸どうたくないに「した」4ほん発見はっけん CTで収納しゅうのう状態じょうたいはつ確認かくにん みなみあわじ「松帆まつほ銅鐸どうたく
  12. ^ 田中たなか真治しんじ (2015ねん8がつ12にち). みなみあわじ出土しゅつど銅鐸どうたくからひも確認かくにん つるして使用しようか”. 神戸こうべ新聞しんぶん (神戸新聞社こうべしんぶんしゃ). http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201508/0008298118.shtml 2016ねん1がつ8にち閲覧えつらん 
  13. ^ 日本にっぽん銅鐸どうたくのルーツ?/中国ちゅうごく青磁せいじの「鐸」出土しゅつど
  14. ^ “3世紀せいき銅鐸どうたくリサイクル工房こうぼうあとか 奈良ならけん桜井さくらい出土しゅつど. 朝日新聞あさひしんぶん (神戸新聞社こうべしんぶんしゃ). (2007ねん12月7にち). オリジナルの2016ねん9がつ11にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160911144215/http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200712060108.html 2020ねん11月4にち閲覧えつらん 
  15. ^ 佐原さはらしん銅鐸どうたくく』小学館しょうがくかん、1997ねん3がつ31にちISBN 4-09-626059-2  p.220
  16. ^ 吉野よしのさと遺跡いせき出土しゅつど銅鐸どうたく 文化財ぶんかざいオンライン 文化庁ぶんかちょう
  17. ^ 特別とくべつてん出雲いずも聖地せいち至宝しほう―」の“奇妙きみょうな”銅鐸どうたく 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん
  18. ^ 中山なかやま平次郎へいじろう自筆じひつ原稿げんこう有銘あるめ銅鐸どうたく」「九州きゅうしゅうける銅鐸どうたく 九州きゅうしゅう銅鐸どうたく 福岡ふくおか博物館はくぶつかん 
  19. ^ 藤森ふじもり栄一えいいち銅鐸どうたく学生がくせいしゃ出版しゅっぱん、1964ねん
  20. ^ たから寿男としお銅鐸どうたくかがみつくる」『いにしえじゅ紀之のりゆき房間ふさま』、2014ねん
  21. ^ British Museum - Two dōtaku (ritual bells)” (英語えいご). the British Museum. 2013ねん12月28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん11月4にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • みずうみこく文化ぶんか93ごう~“邪馬台国やまたいこく銅鐸どうたくはなかった”』

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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学習がくしゅう