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石山寺いしやまでら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
石山寺いしやまでら
多宝塔たほうとう国宝こくほう日本にっぽんさんとうひとつ)
所在地しょざいち 滋賀しがけん大津おおつ石山寺いしやまでら1丁目ちょうめ1ばん1ごう
位置いち 北緯ほくい3457ふん37.51びょう 東経とうけい13554ふん20.25びょう / 北緯ほくい34.9604194 東経とうけい135.9056250 / 34.9604194; 135.9056250座標ざひょう: 北緯ほくい3457ふん37.51びょう 東経とうけい13554ふん20.25びょう / 北緯ほくい34.9604194 東経とうけい135.9056250 / 34.9604194; 135.9056250
山号さんごう 石光いしみつやま
宗派しゅうは 東寺とうじ真言宗しんごんしゅう
寺格じかく 大本山だいほんざん
本尊ほんぞん 如意輪観音にょいりんかんのん
創建そうけんねん 天平てんぺい19ねん747ねん
開山かいさん 良弁りょうべん
開基かいき 聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがん
正式せいしきめい 石光いしみつさん 石山寺いしやまでら
札所ふだしょとう 西国さいこくさんじゅうさんしょだい13ばん
近江おうみ西国さいこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうだい3ばん
しゅうさんじゅうさん観音かんのんだい1ばん
びわひゃくはち霊場れいじょうだい1ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい146ばん滋賀しがだい14ばん
文化財ぶんかざい 本堂ほんどう多宝塔たほうとうしゃく訶衍ろんほか9けん国宝こくほう
東大門ひがしだいもん鐘楼しゅろうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
珪灰せきくに天然記念物てんねんきねんぶつ
公式こうしきサイト 大本山だいほんざん 石山寺いしやまでら 公式こうしきホームページ
法人ほうじん番号ばんごう 9160005000599 ウィキデータを編集
石山寺の位置(滋賀県内)
石山寺
石山寺いしやまでら
石山寺いしやまでら (滋賀しがけん)
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石山寺いしやまでらてらもん
石山寺いしやまでら硅灰せきくに天然記念物てんねんきねんぶつ
多宝塔たほうとう紅葉こうよう

石山寺いしやまでら(いしやまでら)は、滋賀しがけん大津おおつ石山寺いしやまでらにある東寺とうじ真言宗しんごんしゅう大本山だいほんざん寺院じいん山号さんごう石光いしみつやま本尊ほんぞん如意にょい観世音菩薩かんぜおんぼさつ如意輪観音にょいりんかんのん)。開山かいさん良弁りょうべん西国さいこくさんじゅうさんしょだい13ばん札所ふだしょ

鷲尾わしおひかりへんが1910ねん明治めいじ43ねん石山寺いしやまでら座主ざすとなって以来いらい座主ざすきゅう華族かぞく鷲尾わしお世襲せしゅうしている。

2015ねん平成へいせい27ねん4がつ24にち、「琵琶湖びわことその水辺みずべ景観けいかんいのりとらしのみず遺産いさん 」の構成こうせい文化財ぶんかざいとして日本にっぽん遺産いさん認定にんていされる[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

とうてらは、琵琶湖びわこ南端なんたんちかくに位置いちし、琵琶湖びわこから唯一ゆいいつなが瀬田川せたがわ右岸うがんにある。本堂ほんどうくに天然記念物てんねんきねんぶつ珪灰せき(「石山寺いしやまでら硅灰せき」)という巨大きょだい岩盤がんばんうえち、これがてらめい由来ゆらいともなっている(石山寺いしやまでら珪灰せき日本にっぽん地質ちしつひゃくせん選定せんてい)。

蜻蛉とんぼ日記にっき』『更級さらしな日記にっき』『枕草子まくらのそうし』などの文学ぶんがく作品さくひんにも登場とうじょうし、『源氏物語げんじものがたり』の作者さくしゃ紫式部むらさきしきぶは、石山寺いしやまでら参篭さんろうおり物語ものがたり着想ちゃくそうたとする伝承でんしょうがある。「近江おうみ八景はっけい」の1つ「石山いしやま秋月しゅうげつ」でもられる。紅葉こうよう名所めいしょとしてもられ、あきにはライトアップおこなわれており、2015ねん平成へいせい27ねん)に日本にっぽん夜景やけい遺産いさん認定にんていされた[2]。また、洋画ようが三谷みたに祐幸ゆうこうによって寄付きふされた関西かんさい美術びじゅついん所有しょゆうする。

歴史れきし[編集へんしゅう]

石山寺いしやまでら縁起えんぎ絵巻えまき』によれば[3]聖武天皇しょうむてんのう発願ほつがんにより、天平てんぺい19ねん747ねん)、良弁りょうべん東大寺とうだいじ開山かいさん別当べっとう)が聖徳太子しょうとくたいし念持仏ねんじぶつであった如意輪観音にょいりんかんのんをこのまつったのがはじまりとされている。聖武天皇しょうむてんのう東大寺とうだいじ大仏だいぶつ造立ぞうりゅうにあたり、ぞう表面ひょうめん鍍金めっききんメッキ)をほどこすために大量たいりょう黄金おうごん必要ひつようとしていた。そこで良弁りょうべんめいじて、黄金おうごんられるよう、吉野よしの金峯山こんごうざんいのらせた。金峯山こんごうざんはそのとおり、「かねやま」としんじられていたようである。そうしたところ、良弁りょうべんゆめ吉野よしの金剛こんごう蔵王ざおう蔵王ざおう権現ごんげん)があらわれ、こうげた。「金峯山こんごうざん黄金おうごんは、(56おく7せんまんねんに)弥勒菩薩みろくぼさつがこのあらわれたとき黄金おうごんおおうためにもちいるものである(だから大仏だいぶつ鍍金めっきのために使つかうことはできない)。近江おうみこく志賀しかぐん湖水こすいみなみ観音かんのん菩薩ぼさつあらわれたまう土地とちがある。そこへっていのるがよい」。ゆめのおげにしたがって石山いしやまおとずれた良弁りょうべんは、比良びら明神みょうじん(≒しろひげ明神みょうじん)の化身けしんである老人ろうじんみちびかれ、巨大きょだいいわうえ聖徳太子しょうとくたいし念持仏ねんじぶつの6すん金銅かなどう如意輪観音にょいりんかんのんぞう安置あんちし、草庵そうあんてた。そしてほどなく(実際じっさいにはその2ねんに)陸奥みちのくこくから黄金おうごん産出さんしゅつされ、元号げんごう天平てんぴょうかちたからあらためた。こうして良弁りょうべん修法しゅほう霊験れいけんあらたかなること立証りっしょうできたわけであるが、如意輪観音にょいりんかんのんぞうがどうしたことか岩山いわやまからはなれなくなってしまった。やむなく、如意輪観音にょいりんかんのんぞうおおうようにどうてたのが石山寺いしやまでら草創そうそうという。そもそもせいくらいん文書ぶんしょによれば、この石山いしやまは、東大寺とうだいじ建立こんりゅうするために近江おうみこく各所かくしょから伐採ばっさいしてきた木材もくざいあつめておく場所ばしょであったのがれる。この東大寺とうだいじ良弁りょうべんつよつながりがあったのがかる。

その資料しりょうとしては『げんとおるしゃくしょ[4] や、後代こうだいであるが宝永ほうえい2ねん(1705ねん)のしろひげ大明神だいみょうじん縁起えんぎ絵巻えまきがある[5]

その天平てんぴょうたから5ねん761ねん)から造石つくりいし山寺やまでらしょという役所やくしょのもとで堂宇どうう拡張かくちょう伽藍がらん整備せいびおこなわれた。せいくらいん文書ぶんしょによれば、みやつこ東大寺とうだいじからも仏師ぶっしなどの職員しょくいん派遣はけんされたことがられ、石山寺いしやまでら造営ぞうえい国家こっかてき事業じぎょうとしてすすめられていた。これには、淳仁天皇じゅんにんてんのうこうけん上皇じょうこう造営ぞうえいした保良ぼらみや石山寺いしやまでらちかくにあったことも関係かんけいしているといわれる。本尊ほんぞんの塑造如意輪観音にょいりんかんのんぞうわきさむらい金剛こんごう蔵王ざおうぞう金剛こんごうしんぞうは、天平てんぴょうたから5ねん(761ねん)から翌年よくねんにかけて制作せいさくされ、本尊ほんぞん胎内たいない聖徳太子しょうとくたいし念持仏ねんじぶつの6すん如意輪観音にょいりんかんのんぞうおさめたという。こうして石山寺いしやまでら華厳宗けごんしゅう寺院じいんとしててらかんととのえられていった。

それ以降いこうから平安へいあん時代じだい前期ぜんきにかけてのてらはあまりはっきりしていないが、てらでんによれば、初代しょだい座主ざす(ざす、「住職じゅうしょく」とほぼ同義どうぎ)にせいたからいて真言宗しんごんしゅう寺院じいんとなっている。そのかんけんなどの当時とうじ高名こうみょうそう座主ざすとしてにゅうてらしている。せいたからかんけんはいずれも醍醐寺だいごじ関係かんけいそうである。石山寺いしやまでら醍醐寺だいごじ地理ちりてきにもちかく、このころから石山寺いしやまでら密教みっきょうすすんだものとおもわれる。

石山寺いしやまでら中興ちゅうこうといわれるのが、菅原すがわら道真みちざねまごだい3せい座主ざすあつしゆううちきょう寛平かんぺい2ねん890ねん〉 - てんれき7ねん953ねん〉)である。うちきょうとはうち供奉ぐぶじゅう禅師ぜんじ(ないくぶじゅうぜんじ)の略称りゃくしょうで、天皇てんのうはたにいてつね玉体ぎょくたい加持かじするそう称号しょうごうである。高僧こうそうでありながらしょしょく固辞こじしていたあつしゆうは、やがてこのうちきょうしょうされるようになった。「石山いしやまないきょう」・「普賢院ふげんいんないきょう」ともばれている。あつしゆうからだ不自由ふじゆうで、正式せいしきすわほうすわることができなかったことから学業がくぎょう精励せいれいし、膨大ぼうだい著述ちょじゅつのこしている。かれ自筆じひつほんいま石山寺いしやまでら多数たすう残存ざんそんし、「においの聖教せいきょう(においのしょうぎょう)」とばれ、一括いっかつして国宝こくほう指定していされている。このころ、石山いしやままい宮廷きゅうてい官女かんじょあいださかんとなり、『蜻蛉とんぼ日記にっき』や『更級さらしな日記にっき』にも描写びょうしゃされている。

うけたまわこよみ2ねん1078ねん)1がつ2にち落雷らくらいによって本堂ほんどう半焼はんしょうし、本尊ほんぞんの塑造如意輪観音にょいりんかんのんぞう損壊そんかいしたため、永長ながおさ元年がんねん1096ねん)に本堂ほんどう国宝こくほう)を再建さいけんし、あらたな本尊ほんぞんとして如意輪観音にょいりんかんのん坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)をまつかたちとなった。

東大門ひがしだいもん多宝塔たほうとう鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきみなもと頼朝よりとも寄進きしんによりてられたものとされる。このころには、だいたい現在げんざいるようなてらかんととのったとおもわれる。

戦国せんごく時代じだいもとかめ4ねん1573ねん)2がつひかりきよしいん暹慶室町むろまち幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき味方みかたをして織田おだ信長のぶながそむき、石山寺いしやまでらみなみにあった石山いしやまじょうもったが、すぐに柴田しばた勝家かついえ攻撃こうげきけて降伏ごうぶくしている。この合戦かっせんによって石山寺いしやまでらのいくつかの堂舎どうしゃ被害ひがいけている。その信長のぶながによって寺領じりょう5,000せき没収ぼっしゅうされてしまったが、信長のぶなが死後しご豊臣とよとみ秀吉ひでよしによってぶんろく5ねん1596ねん)にいくつかの寺領じりょう返還へんかんされている。

慶長けいちょう6ねん1601ねん)には徳川とくがわ家康いえやすによって寺領じりょう579せきみとめられている。

慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)、淀殿よどどのによって石山寺いしやまでら復興ふっこうおこなわれ、慶長けいちょう7ねん1602ねん)には本堂ほんどうごうあいだれいどう改築かいちくされている。

石山寺いしやまでらぜんやま炎上えんじょうするような兵火へいかにはわなかったため、建造けんぞうぶつ仏像ぶつぞう経典きょうてん文書ぶんしょなどの貴重きちょう文化財ぶんかざい多数たすうつてそんしている。

れい3ねん2021ねんだい52だい座主ざす鷲尾わしおへんたかし死去しきょ同年どうねん12がつ21にち長女ちょうじょ鷲尾わしおりゅうはなだい53だい座主ざす就任しゅうにん奈良なら時代じだいの747ねん創設そうせつ以来いらいはつ女性じょせい座主ざすとなった[6]

石山寺いしやまでら文学ぶんがく作品さくひん[編集へんしゅう]

石山寺いしやまでら紫式部むらさきしきぶ歌川うたがわ広重ひろしげ (3代目だいめ)

石山寺いしやまでらは、おおくの文学ぶんがく作品さくひん登場とうじょうすることでられている。

清少納言せいしょうなごんの『枕草子まくらのそうしひゃくはちだんさんかんほん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい」)には「てらつぼざか笠置かさぎ法輪ほうりん霊山れいざんは、釈迦しゃかふつすみかなるがあはれなるなり。石山いしやま粉河こかわ志賀しが」とあり、藤原道綱母ふじわらのみちつなのははの『蜻蛉とんぼ日記にっき』ではてんろく元年がんねん970ねん)7がつ記事きじ登場とうじょうする。『更級さらしな日記にっき』の筆者ひっしゃ菅原孝標女すがわらたかすえのむすめひろしとく2ねん1045ねん)、石山寺いしやまでら参篭さんろうしている。紫式部むらさきしきぶが『源氏物語げんじものがたり』の着想ちゃくそうたのも石山寺いしやまでらとされている。伝承でんしょうでは、寛弘かんこう元年がんねん1004ねん)、紫式部むらさきしきぶとうてら参篭さんろうしたさいはちがつじゅう名月めいげつばんに、「須磨すま」「明石あかし」のまき発想はっそうたとされ、石山寺いしやまでら本堂ほんどう一角いっかくには「紫式部むらさきしきぶ源氏げんじあいだ」がつくられている[7]

和泉式部いずみしきぶ日記にっき』(じゅうだん)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山いしやまもうでて」とあり、和泉式部いずみしきぶあつしどう親王しんのうとの関係かんけい上手うまくいかず、むなしい気持きもちなぐさめるためにてらこもった様子ようすえがかれている。

境内けいだい[編集へんしゅう]

本堂ほんどう国宝こくほう
  • 本堂ほんどう国宝こくほう) - 正堂せいどう(しょうどう)とれいどう(らいどう)をごうあいだつないだふくあい建築けんちくである。本堂ほんどう南側みなみがわ傾斜地けいしゃちみなみきにてられており、れいどう部分ぶぶんかかづくとなっている。 かかみやつこ本堂ほんどうは、清水寺きよみずでら長谷寺はせでらなど、観音かんのん菩薩ぼさつまつ寺院じいんおおい。現存げんそんする本堂ほんどうさん代目だいめで、奈良なら時代じだい草創そうそうてられたものは桁行けたゆきたけ梁間はりまたけであったが、天平てんぴょうたから5ねん761ねん)からよく天平てんぴょうたから6ねん762ねん)にみやつこ東大寺とうだいじによって桁行けたゆきななたけ梁間はりまよんたけ改築かいちくされ、これに10世紀せいきまつまでにかかみやつこれいどう増築ぞうちくされていたことが絵画かいが資料しりょうからかっている。この建物たてものうけたまわこよみ2ねん1078ねん)1がつ2にち火災かさい焼失しょうしつし、永長ながおさ元年がんねん1096ねん)に再建さいけんされ、慶長けいちょう7ねん1602ねん)に淀殿よどどの寄進きしんごうあいだれいどう改築かいちくされ、現在げんざい形式けいしきとなる。正堂せいどう永長ながおさ元年がんねん(1096ねん)の再建さいけん姿すがたのこ滋賀しがけんしも最古さいこ建築けんちくである。構造こうぞう桁行けたゆきあいだ梁間はりまあいだしゃ(もや)にいちあいだひさしまわし、全体ぜんたい正面しょうめんななあいだ奥行おくゆきよんあいだ(「あいだ」はながさの単位たんいではなく、はしらあいだかずしめ建築けんちく用語ようご)である。しゃ内陣ないじんとなっており、慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)に新設しんせつされた宮殿きゅうでんもうけられている。宮殿きゅうでん内部ないぶ如意輪観音にょいりんかんのんまつるが、隆起りゅうきした硅灰せき本尊ほんぞん台座だいざとなっている。ごうあいだ間口まぐちななあいだ奥行おくゆきいちあいだで、正堂せいどうれいどうつないでいる。内部ないぶ天井てんじょうはなく、見上みあげると正堂せいどうのきのこっている。ごうあいだひがしはしは「紫式部むらさきしきぶ源氏げんじあいだ」としょうされ、執筆しっぴつちゅう紫式部むらさきしきぶぞう安置あんちされている[7]れいどう桁行けたゆきななあいだ梁間はりまさんあいだしゃに、ごうあいだせっする北面ほくめんのぞさんぽうひさしまわし、全体ぜんたい正面しょうめんきゅうあいだ奥行おくゆきよんあいだで、さらにさんぽうえんをめぐらす。また東側ひがしがわいちあいだは吹さらしである。屋根やねひのきがわきで、正堂せいどうれいどうそれぞれをよせとうづくりとしたうえで、ふたつの屋根やねつらぬくように南北なんぼくだい屋根やねけられて南端なんたんれいどう上部じょうぶ千鳥ちどり破風はふとなる。本堂ほんどう正面しょうめん南面なんめんであるが、南面なんめんかかみやつことなっているため参拝さんぱいしゃ東面とうめん階段かいだんのぼれいどうえんまわってれいどうはいるようになる[8]
  • 蓮如れんにょどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 近世きんせい以降いこう浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ蓮如れんにょ上人しょうにんまつどうとなっているが、もともとはさんじゅうはちしょ権現ごんげんしゃ拝殿はいでんであった。さんじゅうはちしょ権現ごんげん社本しゃもと殿どの南側みなみがわ位置いちするがかみやつこどうである。『石山いしやまかなめ』には寛弘かんこう3ねん1006ねん)の藤原ふじわら道長みちなが願文がんもんえるとしるされているが、現存げんそんするものは慶長けいちょう7ねん(1602ねん)に淀殿よどどのにより再建さいけんされたものとかんがえられる。平面へいめん桁行けたゆきあいだ梁間はりまよんあいだで、北面ほくめんいちあいだ広縁ひろえんとなっておりさんじゅうはちしょ権現ごんげん社本しゃもと殿どのかいあっている。どう入口いりくち東面とうめんつまいれむね方向ほうこう入口いりくちという意味いみ)であり、東側ひがしがわいちあいだが吹さらしとなっている。おなじようにかかみやつこつまりの拝殿はいでん醍醐寺だいごじ清瀧きよたきみや拝殿はいでん国宝こくほう)があり、本殿ほんでんとの位置いち関係かんけいなど共通きょうつうする部分ぶぶんおおい。どう西側にしがわいちあいだ内陣ないじん体裁ていさいとなっており、蓮如れんにょぞうなどをまつる。屋根やね入母屋いりもやづくり文化ぶんか8ねん1811ねん)に桟瓦葺かわらぶきになっている。小屋こやうら構造こうぞうからもとひのきがわきなどかる屋根やねであったとおもわれる[9]
  • 観音堂かんのんどう - たかられき年間ねんかん1751ねん - 1764ねん)に京都きょうと三井みついぼうろうあまによって建立こんりゅう西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうのそれぞれの札所ふだしょ本尊ほんぞんした33たい観音かんのんぞうまつる。
  • 毘沙門堂びしゃもんどう滋賀しがけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - かぶとばつ毘沙門天びしゃもんてんなどをまつどうむねさつから安永やすなが2ねん1773ねん建立こんりゅうとわかる。建物たてものかたさんあいだであるが、外部がいぶからは桁行けたゆきさんあいだ梁間はりまあいだえ、内部ないぶはいると堂奥どうおうより4ぶんの1ほどにはしらが4ほん特異とくい平面へいめんである。堂奥どうおうがわ須弥壇しゅみだんになっているが、手前てまえはしらわたされたにじはり組物くみもの特徴とくちょうがある。屋根やねたからがた瓦葺かわらぶき[10]
  • 御影堂ごえどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 石山寺いしやまでらひらきそう祖師そし弘法大師こうぼうだいし良弁りょうべん僧正そうじょうあつしゆううちきょうまつ。『石山いしやまかなめ』によれば、もと三昧ざんまいどうもしくは法華ほっけどうばれ法華三昧ほっけざんまい道場どうじょうであったが、あつしゆう住居じゅうきょであった普賢院ふげんいん倒壊とうかいしたさいかげうつし、御影堂ごえどうとしたもの。現存げんそん建物たてもの室町むろまち時代ときよとされているが、須弥壇しゅみだん意匠いしょうなどから推測すいそくされるのみで確証かくしょうはない。またとおる年間ねんかん1716ねん - 1736ねん)におおきな改装かいそうほどこされている。平面へいめんかたさんあいだいちあいだよんめんどう一間いっけんしゃ四方しほうひさしをめぐらす)で、背面はいめんし(簡易かんいがこい)、背面はいめん以外いがいさんぽうえんをまわす。後世こうせい改装かいそうによりよんてんばしらのうち前面ぜんめんほんられておりわりにだいにじはりれている。だいにじはり上部じょうぶにはられたはしらいただきのこされている。本来ほんらいよんてんばしら内部ないぶだったであろう内陣ないじんおく中央ちゅうおういちあいだうつされている。屋根やねたからがたひのきがわきでいただき宝珠ほうしゅ[11]
  • だいいち梅園うめぞのかおるえん
  • あつしゆうないきょう供養くようとう
  • 石山寺いしやまでら硅灰せきくに天然記念物てんねんきねんぶつ) - 石山寺いしやまでら由来ゆらいとなったいわ石灰岩せっかいがん変成へんせいしてできた珪灰せき世界せかいてきにもめずらしく、日本にっぽん地質ちしつひゃくせんえらばれている。
  • 良弁りょうべんつえさくら - 良弁りょうべんしたつえそだったさくらという。
  • さんじゅうはちしょ権現ごんげんしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 祭神さいじん神武じんむ天皇てんのうから天智天皇てんぢてんのうまでの38だい歴代れきだい天皇てんのう本堂ほんどうのすぐ東側ひがしがわにある鎮守ちんじゅしゃ。『石山いしやまかなめ』は良弁りょうべん勧請かんじょうしたとの推測すいそくしるすがさだかではなく、文治ぶんじ年間ねんかん1185ねん - 1190ねん)の『灌頂』にえるとしている。現存げんそんする文献ぶんけんなどから慶長けいちょう7ねん(1602ねん)に淀殿よどどのにより再建さいけんされたものとかんがえられる。さんじゅうはちしょ観音かんのんじゅうはちしゅ法華ほっけじゅう羅刹らせつおんなとしているが、『近江おうみ輿地よちこころざしりゃく』では般若はんにゃじゅうろくぜんしん薬師くすしじゅう二神にかみすすむ法華ほっけじゅう羅刹らせつおんなしるす。建物たてものおおきないちあいだしゃ流造ながれづくり全体ぜんたいてき装飾そうしょくすくない意匠いしょうである。現在げんざいはほぼ剥落はくらくしてしまっているが、全体ぜんたい彩色さいしきほどこされていたことがかる。屋根やねひのきがわ[12]
  • 経蔵きょうぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 本堂ほんどう北東ほくとうにある小規模しょうきぼ校倉あぜくらづくりで、石山寺いしやまでら一切経いっさいきょう校倉あぜくら聖教せいきょうなどの文化財ぶんかざい収容しゅうようしてきた建物たてもの建立こんりゅう時期じきつたわっていないが、意匠いしょうなどから16世紀せいき後期こうきかんがえられる。こう桁行けたゆきやなゆきたかさをずらさずにげている。屋根やね瓦葺かわらぶきで、校倉あぜくらづくりではめずらしい切妻きりづまづくりとなっている[13]
  • 安産あんざん腰掛こしかけせき - 経蔵きょうぞう床下ゆかしたにある。
  • 紫式部むらさきしきぶ供養くようとう重要じゅうよう美術びじゅつひん) - 石造せきぞうたから篋印とうであるが、そのかささんじゅうとなっているめずらしいつくりとなっている。鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきみやつこ
  • 鐘楼しゅろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - てらでんではみなもと頼朝よりとも寄進きしんつたわるが、細部さいぶ様式ようしきなどから鎌倉かまくら時代じだい後期こうきかんがえられる。かいてで平面へいめん上下じょうげそうとも桁行けたゆきさんあいだ梁間はりまあいだで、上層じょうそうにはえんがまわされる。下層かそうしろ漆喰しっくいりのはかまこし上層じょうそう東西とうざい中央ちゅうおうとびらがあり、それ以外いがい連子窓れんじまどである。内部ないぶにはめいいが、平安へいあん時代じだいとみられる梵鐘ぼんしょう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)がられている。下層かそうから撞木しゅもくいてめずらしいつくりである。屋根やね入母屋いりもやづくりひのきがわ[14]
  • 宝蔵ほうぞう
  • めかくしせき重要じゅうよう美術びじゅつひん) - 石造せきぞう宝塔ほうとう
  • 若宮わかみや - 祭神さいじんてんあきらすめらぎ大神だいじん弘文天皇こうぶんてんのう弘文天皇こうぶんてんのうみずのえさるらんのち、このほうむられたという。
  • 多宝塔たほうとう国宝こくほう) - てらでんではみなもと頼朝よりともが、平治へいじらんのち石山寺いしやまでらあにみなもと義平よしひら平清盛たいらのきよもりからかくまってくれたことへのおれい寄進きしんしたとつたわる。墨書ぼくしょよりたてひさ5ねん1194ねん建立こんりゅうとわかる。年代ねんだいあきらかなものとしては日本にっぽん最古さいこ多宝塔たほうとうである。下層かそうかたさんあいだで、内部ないぶよんてんばしらない須弥壇しゅみだんえ、快慶かいけいさく大日如来だいにちにょらいぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする。また、はしら長押なげし仏画ぶつが彩色さいしきほどこされている。上層じょうそうは12ほん円柱えんちゅうよん手先てさき組物くみものり、ふかのきける。屋根やねひのきがわ[15]
  • みなもと頼朝よりとも供養くようとう - 南北なんぼくあさ時代じだいみやつこ
  • 亀谷かめたに禅尼ぜんに供養くようとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 亀谷かめたに禅尼ぜんに中原なかはらちかしのうつま頼朝よりとも次女じじょ乳母うばである。南北なんぼくあさ時代じだいみやつこ
  • 茶室ちゃしつ芭蕉ばしょうあん
  • 月見つきみてい - 石山寺いしやまでら尾根おねひがし突端とったんにあるちん瀬田川せたがわ琵琶湖びわこのぞ景勝けいしょうにあり、ここからつきは「近江おうみ八景はっけい 石山いしやま秋月しゅうげつ」の有名ゆうめいである。てらでんではもと年間ねんかん1156ねん - 1158ねん)に後白河天皇ごしらかわてんのう行幸ぎょうこうしたさい建立こんりゅうされたのがそもそものはじまりとつたわる。現存げんそんするものは貞享ていきょう4ねん1687ねん)の再建さいけん建物たてもの桁行けたゆきいちあいだ梁間はりまいちあいだであるが、東西とうざい方向ほうこうにややなが平面へいめんである。ひがしりの正方形せいほうけいほういちあいだ部分ぶぶんゆかげて舞台ぶたいじょうにしている。建具たてぐなどはく吹さらし。かかみやつことなっているが、はかまこしがあるため明確めいかくではない。屋根やねよせとうづくりで、上部じょうぶちがや葺、下部かぶは杮葺きであったが、2017ねん平成へいせい29ねん)にちがや葺は板葺いたぶきえられた[16]
  • こころ経堂きょうどう - 1990ねん平成へいせい2ねん建立こんりゅう花山はなやま法皇ほうおう西国さいこくさんじゅうさんしょ復興ふっこういちせんねん記念きねんてられた。
  • だい梅園うめぞの東風こちえん
  • ゆたかきよし殿どの - 宝物ほうもつかん毎年まいとしはるあきに「石山寺いしやまでら紫式部むらさきしきぶてん」がひらかれる。
  • 源氏げんじ文庫ぶんこ
  • だいさん梅園うめぞの
  • 牡丹園ぼたんえん
  • 源氏げんじえん
  • 紫式部むらさきしきぶぞう
  • ひかりどう - 2008ねん平成へいせい20ねん)に石山いしやま発祥はっしょうとするとうによって寄進きしんされた。かかみやつこ
  • 天智天皇てんぢてんのう石切場いしきりば - ここからされたいしが、大和やまとこく飛鳥あすかにある川原かわはらてらちゅう金堂こんどう礎石そせきとして使つかわれているのがかっている。
  • 西国さいこくさんじゅうさんしょ石仏いしぼとけぐん
  • 庭園ていえんゆうえん
  • はちだい龍王りゅうおうしゃ
  • みなもと義平よしひら供養くようとう - 義平よしひら平治へいじらんのちかくれていたという「かくれだに」にある。
  • 閼伽
  • 那須与一なすのよいち地蔵堂じぞうどう - 那須与一なすのよいち信仰しんこうしていた地蔵じぞうみことまつる。
  • 龍蔵りゅうぞう権現ごんげんしゃ - 明和めいわ年間ねんかん1764ねん - 1772ねん再建さいけん
  • みつぞういん - 塔頭たっちゅう島崎しまざき藤村とうそんゆかりのおどう
  • 吉祥院きっしょういん - 塔頭たっちゅう
  • 明王みょうおういん - 塔頭たっちゅう2024ねん1がつ29にちから2025ねん1がつ31にちまで、紫式部むらさきしきぶ主人公しゅじんこうとした大河たいがドラマひかきみ』の大河たいがドラマかん開館かいかんする[17]
  • くぐりがん
  • いけ
  • 比良びら明神みょうじん影向ようごうせき
  • 世尊せそんいん - 塔頭たっちゅう
  • おおやけふうえんしろみみてい
  • 法輪ほうりんいん - 塔頭たっちゅう
  • だい湯屋ゆや
  • 大黒天だいこくてんどう - 大黒天だいこくてんまつる。明治めいじ時代じだい後期こうき建立こんりゅうつたわる。建物たてものつまいれ桁行けたゆきあいだ梁間はりま正面しょうめんさんあいだ背面はいめんよんあいだ正面しょうめんいちあいだこうはいく。おくがわいちあいだ中央ちゅうおう内陣ないじんえ、それ以外いがいゆかたたみきとなっている。屋根やね瓦葺かわらぶきで、正面しょうめん入母屋いりもやづくり背面はいめん切妻きりづまである[18]
  • きむりゅう龍王りゅうおうしゃ - 石山寺いしやまでら守護神しゅごじん
  • ひろえみどりえん
  • あつしきよしかん
  • たからせいいん - 塔頭たっちゅう石山寺いしやまでら事務所じむしょ
  • 宿直しゅくちょく
  • 東大とうだいもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - てらでんではみなもと頼朝よりともによってたて久元ひさもとねん1190ねん)に建立こんりゅうされたとされる。細部さいぶ様式ようしきなどから本堂ほんどうれいどう建立こんりゅうされたのとどう時期じき慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に、淀殿よどどのによって新築しんちくちか大幅おおはば修理しゅうりがなされたとかんがえられる。さんあいだいち桁行けたゆきさんあいだで、中央ちゅうおういちあいだ開口かいこうという意味いみ)のはちきゃくもんほんはしら前後ぜんごに4ほんずつひかばしらつという意味いみ)で、りょうわき仁王におうぞうく。屋根やね入母屋いりもやづくり瓦葺かわらぶ[19]東大とうだいもんみなみ50メートルの場所ばしょ石山いしやま貝塚かいづか大津おおつ指定してい史跡しせき)がある。
  • 庭園ていえんろうきよし律師りっし大徳だいとくゆうおにさかい」 - 1999ねん平成へいせい11ねんちく

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

木造もくぞう如意輪観音にょいりんかんのん坐像ざぞう[編集へんしゅう]

とうてら本尊ほんぞんであり、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。ほん堂奥どうおう巨大きょだい厨子ずしおさめられている秘仏ひぶつである。33ねんに1ひらきとびら天皇てんのう即位そくい翌年よくねんひらきとびら以外いがい原則げんそくとして公開こうかいされず、ひらきとびら勅使ちょくしによりおこなわれるため、石山寺いしやまでらでは「日本にっぽんただいちみことのりふう観音かんのん」としている。ぞうだかやく3メートル。如意輪観音にょいりんかんのんぞうは6ひじぞう(6ほんをもつ)がおおいが、ほんぞうは2ひじぞうで、岩盤がんばんうえ直接ちょくせつましましている。本堂ほんどう再建さいけんどう時期じき平安へいあん時代じだい後期こうきさく推定すいていされる。ぞうないからは奈良なら時代じだい金銅かなどうふつ4たい水晶すいしょうせい五輪ごりんとうなどが発見はっけんされ、これらは2003ねん平成へいせい15ねん)、ほんぞう附属ふぞくとして重文じゅうぶん追加ついか指定していされている。ほんぞう以下いか機会きかいひらけとびらされている。

1991ねん平成へいせい3ねん)4がつ10日とおかから4がつ30にちまで(明仁あきひとだい125だい天皇てんのう即位そくいともな即位そくい吉例きちれいひらきとびら
2002ねん平成へいせい14ねん)8がつ1にちから12月16にちまで(開基かいき1,250ねん記念きねん
2009ねん平成へいせい21ねん)3がつ1にちから5がつ31にちまで、および9がつ1にちから12月16にちまで(花山はなやま法皇ほうおう一千年忌西国札所一斉開扉)
2016ねん平成へいせい28ねん)3がつ18にちから12月4にちまで(33ねんごとのひらきとびら
2020ねんれい2ねん)3がつ18にちから8がつ10日とおかまで(とくひとしだい126だい天皇てんのう即位そくいともな即位そくい吉例きちれいひらきとびら[20]

国宝こくほう[編集へんしゅう]

  • 本堂ほんどう
  • 多宝塔たほうとう むねさつ 1まい
  • 漢書かんしょ こうみかど列伝れつでんだいよんざんまき 2かん紙背しはい金剛こんごうかい念誦ねんじゅ私記しき
  • 史記しき まきだいきゅうじゅうろくきゅうじゅうななざんまき 1かん紙背しはい金剛こんごうかい次第しだい
  • たまへんまきだい廿にじゅうなな 後半こうはん紙背しはい如意にょい陀羅尼だらにけい
  • 春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい まきだい廿にじゅうろくざんまき(しゅんじゅうけいでんしっかい)
  • 春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい まきだい廿にじゅうきゅうざんまき紙背しはい金剛こんごうかい軌)
  • しゃく訶衍ろん(しゃくまかえんろん)5じょう
  • あつしゆうないきょうひつ聖教せいきょうかおるきよしきょう)(しゅんにゅうないくひつしょうぎょう・においのしょうぎょう)73かん1じょう:聖教せいきょう目録もくろく1かん[ちゅう 1]
  • のべれき交替こうたいしき紙背しはいみなみ天竺てんじく般若はんにゃ悉曇しったんじゅうはちしょう
  • えつ中国ちゅうごくかんくらおさむこく交替こうたいざんまき紙背しはいでん三昧ざんまい耶戒私記しき
  • 周防すおうこく玖珂くがぐん玖珂くがきょう延喜えんぎはちねん戸籍こせきざんまき紙背しはい金剛こんごうかいにゅう曼荼羅まんだら三昧ざんまい耶戒行儀ぎょうぎ

重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

建造けんぞうぶつ

  • 東大とうだいもん
  • 鐘楼しゅろう むねさつ 1まい
  • 石山寺いしやまでら 4むね
    • 御影堂ごえどう[21]
    • 蓮如れんにょどう いたさつ 1まい[21]
    • さんじゅうはちしょ権現ごんげん社本しゃもと殿どの[21]
    • 経蔵きょうぞう[21]
  • たから篋印とう - 亀谷かめたに禅尼ぜんに供養くようとう

絵画かいが

彫刻ちょうこく

  • 木造もくぞう如意輪観音にょいりんかんのんはん跏像(本尊ほんぞん)・ぞうない納入のうにゅうひんどうづくり如来にょらい立像りつぞう1どうづくり観音かんのん菩薩ぼさつ立像りつぞう2どうづくり菩薩ぼさつ立像りつぞう1水晶すいしょう五輪ごりんとう1木造もくぞう厨子ずし1) - 解説かいせつすんでじゅつ[ちゅう 2]
  • 木造もくぞう如意輪観音にょいりんかんのんはん跏像
  • 木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう多宝塔たほうとう安置あんち快慶かいけいさく
  • 木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞうつたえもと多宝塔たほうとう本尊ほんぞん
  • 金銅かなどう観世音菩薩かんぜおんぼさつ立像りつぞう - 奈良なら時代じだい1947ねん昭和しょうわ22ねん盗難とうなんい、そのくび以下いか胴体どうたい部分ぶぶんのみが発見はっけんされた。切断せつだんされた頭部とうぶ行方ゆくえ不明ふめいである。てらでんによるとかつらあきらいん寄進きしんしたもので、それ以前いぜん来歴らいれき不明ふめい[22]
  • どうづくり釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞう - 奈良なら時代じだい後期こうき総高そうだか13.0cmで頭頂とうちょうからかかまでいちでつくられる。経蔵きょうぞう本尊ほんぞんつたわるのみで、それ以前いぜん来歴らいれき不明ふめい[23]
  • 木造もくぞう持国天じこくてん立像りつぞう増長天ぞうちょうてん立像りつぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう
  • 木造もくぞう維摩居士こじ坐像ざぞう - 平安へいあん時代じだい前期ぜんきぞうだか49.5cmで一木ひとつきづくり。おおくの維摩居士こじ病苦びょうくろうしょうつくられるが、このぞうおだやかな顔立かおだちであることが特徴とくちょう[24]
  • 木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう - 平安へいあん時代じだい前期ぜんきぞうだか172.5cm。あたまからからだ一木ひとつきつくり、乾漆かんしつうすくもって彩色さいしきほどこ[25]
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞう
  • 塑造じゅんゆうないきょう坐像ざぞう御影堂ごえどう安置あんち) - ぞうない明徳めいとくさんねん地蔵じぞうすりふつ明徳めいとくよんねん塔婆とうばがた木札きふだおよ願文がんもん経巻きょうかんとうおさめる。台座だいざ裏面りめんに「おうながねんうるうよんがつ廿にじゅうななにち普賢院ふげんいん御影みかげ開眼かいがん供養くよう訖、座主ざす僧正そうじょうもりかい」のめいがある。
  • 塑造金剛こんごう蔵王ざおう立像りつぞう心木しんぎ[26]
    • 塑造断片だんぺん一括いっかつ光背こうはい1めんこころ木内きうち納入のうにゅうひん木造もくぞう五輪ごりんとうがた1木造もくぞう舎利しゃり容器ようき1ごうかみほん墨書ぼくしょ般若心経はんにゃしんぎょう1
      塑像そぞう表面ひょうめん粘土ねんど造形ぞうけいしたぞう)の内部ないぶにあったささえの心木しんぎである。この心木しんぎは、本尊ほんぞんみぎわきさむらいであるきむつよし蔵王ざおう蔵王ざおう権現ごんげんぞう内部ないぶから発見はっけんされたもの。金剛こんごう蔵王ざおうぞう自体じたい江戸えど時代じだいさくであるが、心木しんぎ奈良なら時代じだい創建そうけんのもので、学術がくじゅつてきにきわめて貴重きちょうなものである。

工芸こうげいひん

  • 梵鐘ぼんしょう

書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ

  • 叡山えいざんだい師伝しでん
  • 倶舎ろん こうせん22かん・倶舎ろんほうたからせん30かん・倶舎ろん頌疏 まどかあきらせん5かん
  • せつ一切有部倶舎論 せんしゃくひつ
  • じゅう誦律 まきだいじゅう
  • だい般若はんにゃけい音義おんぎ ちゅうまき
  • さとししょうだい師伝しでん
  • そら三蔵表制集 かんだいさん
  • 仏説ぶっせつきよしぎょうさわけい天平てんぴょう神護かんごねん吉備きび由利ゆりねがいけい
  • 法花ほうげげんさんけつ ひろじんじゅうねん書写しょしゃ奥書おくがき
  • 法華ほっけよし疏 7かん
  • 石山寺いしやまでら一切経いっさいきょう 4,644じょう:ざつたからけい まきだいよん光明皇后こうみょうこうごうがついちにちねがいけい以下いか199かん
  • 石山寺いしやまでら校倉あぜくら聖教せいきょう 1,926てん聖教せいきょうばこ30ごう
  • 本朝ほんちょうぶんいきれいほん
  • たてひさ年中ねんじゅうけんちょう 2かん
  • くだりれきしょう 円珍えんちん

考古こうこ資料しりょう

  • 袈裟けさたすきぶん銅鐸どうたく

出典しゅってん2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000ねん平成へいせい12ねん))による。

重要じゅうよう美術びじゅつひん[編集へんしゅう]

  • 石造せきぞう宝塔ほうとう - めかくしせき
  • 石造せきぞうさん重宝ちょうほう篋印とう - 紫式部むらさきしきぶ供養くようとう

くに天然記念物てんねんきねんぶつ[編集へんしゅう]

滋賀しがけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 毘沙門堂びしゃもんどう むねさつ 2まいいたさつ 1まい須弥壇しゅみだん 1つり燈籠どうろう 2いし燈籠どうろう 2

大津おおつ指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 絹本けんぽんちょしょく紫式部むらさきしきぶぞう でん狩野かの孝信たかのぶひつ
  • 石山寺いしやまでら知足ちそくあんコレクション
    • かわら 26てん
    • かわら 1さつ
  • いたちょしょくつなぎ 1めん
  • 順礼じゅんれいさつ 5まい

前後ぜんご札所ふだしょ[編集へんしゅう]

西国さいこくさんじゅうさんしょ
12 岩間いわまてら正法寺しょうほうじ - 13 せき山寺やまでら - 14 園城寺おんじょうじ三井寺みいでら
近江おうみ西国さいこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょう
2 東門ひがしもんいん - 3 せき山寺やまでら - 4 近松ちかまつてら
しゅうさんじゅうさん観音かんのん
1 せき山寺やまでら - 2 泉水せんすいてら廃寺はいじ
びわひゃくはち霊場れいじょう
1 せき山寺やまでら - 2 岩間いわまてら正法寺しょうほうじ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
145 建部たけべ大社たいしゃ - 146 せき山寺やまでら - 147 園城寺おんじょうじ三井寺みいでら

拝観はいかん情報じょうほう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1961ねん昭和しょうわ36ねん)の国宝こくほう指定していには「60かん1じょう」だったが、寺内てらうちあらたに発見はっけんされた13かん2002ねん平成へいせい14ねん)に追加ついか指定していされている。
  2. ^ 納入のうにゅうひん平成へいせい15ねん5がつ29にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい105ごう追加ついか指定してい文化庁ぶんかちょうサイトの「くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース」では納入のうにゅうひん記載きさい脱落だつらくしている。
  3. ^ 1948ねん昭和しょうわ23ねん)の盗難とうなん以前いぜん画像がぞう盗難とうなんくびからした部分ぶぶん発見はっけんされているが、頭部とうぶ行方ゆくえ不明ふめいである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 琵琶湖びわことその水辺みずべ景観けいかんいのりとらしのみず遺産いさん”. 文化庁ぶんかちょう. 2020ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  2. ^ 日本にっぽんはつ夜景やけい遺産いさん紅葉こうよう 大津おおつ石山寺いしやまでらでライトアップ”. 京都きょうと新聞しんぶん. (2015ねん11月13にち). オリジナルの2015ねん11月14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151114090617/http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20151113000217 2020ねん5がつ27にち閲覧えつらん 
  3. ^ 薗田そのだみのる橋本はしもとまさしせん神道しんとうだい辞典じてん』(snippet)吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2004ねんhttps://books.google.co.jp/books?id=Yz0QAQAAMAAJ , p.494
  4. ^ 相馬そうままさる近江おうみ33ヵ所かしょ』(preview)保育ほいくしゃ、1982ねんISBN 9784586505814https://books.google.co.jp/books?id=Qt0dGmPoUbEC&pg=PA8 , p.8-9
  5. ^ しろひげだい神社じんじゃ縁起えんぎしろひげ大明神だいみょうじん縁起えんぎ絵巻えまき原文げんぶん”. しろひげ神社じんじゃ. 2012ねん6がつ閲覧えつらん
  6. ^ 読売新聞よみうりしんぶんオンライン(2023ねん4がつ11にち
  7. ^ a b 源氏物語げんじものがたり誕生たんじょう”. 大本山だいほんざん 石山寺いしやまでら 公式こうしきホームページ. 文学ぶんがくてら. 石山寺いしやまでら. 2024ねん6がつ5にち閲覧えつらん
  8. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 54-56.
  9. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 33 - 37.
  10. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 30.
  11. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 44 - 48.
  12. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 38 - 39.
  13. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 40 - 41.
  14. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 59.
  15. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 57 - 58.
  16. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 49 - 50.
  17. ^ ひかきみへ びわ大津おおつ 大河たいがドラマかん”. 大津おおつ大河たいがドラマ「ひかきみへ」活用かつよう推進すいしん協議きょうぎかい. 2023ねん12月26にち閲覧えつらん
  18. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 25.
  19. ^ 石山寺いしやまでら 2006, p. 61.
  20. ^ 重要じゅうようみことのりふう秘仏ひぶつ本尊ほんぞん 如意にょい観世音菩薩かんぜおんぼさつ 御開おひらきとびら 期間きかん延長えんちょうについて”. 石山寺いしやまでら公式こうしきホームページ (2020ねん6がつ24にち). 2020ねん7がつ1にち閲覧えつらん
  21. ^ a b c d 平成へいせい20ねん12月2にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい172ごう
  22. ^ 宇野うの茂樹しげき 1978, p. 519-520.
  23. ^ 宇野うの茂樹しげき 1978, p. 519 - 520.
  24. ^ 宇野うの茂樹しげき 1978, p. 524 - 527.
  25. ^ 宇野うの茂樹しげき 1978, p. 524-527.
  26. ^ 平成へいせい16ねん6がつ8にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい112ごう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 石山寺いしやまでら石山寺いしやまでら建築けんちく石山寺いしやまでら、2006ねん 
  • 宇野うの茂樹しげき王朝おうちょう美術びじゅつ」『あたらしおさむ大津おおつ古代こだいだいいちかん大津おおつ、1978ねん 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]