石山寺
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びわ | |
珪灰 | |
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![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/Ishiyamadera23n4272.jpg/220px-Ishiyamadera23n4272.jpg)
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f2/Ishiyama_temple.jpg/220px-Ishiyama_temple.jpg)
2015
概要 [編集 ]
『
歴史 [編集 ]
『
その
その
それ
石山寺 と文学 作品 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/Murasaki_Shikibu_by_Hiroshige.png/220px-Murasaki_Shikibu_by_Hiroshige.png)
『
境内 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/Ishiyamadera45n4272.jpg/220px-Ishiyamadera45n4272.jpg)
本堂 (国宝 ) -正堂 (しょうどう)と礼 堂 (らいどう)を合 の間 で繋 いだ複 合 建築 である。本堂 は南側 の傾斜地 に南 向 きに建 てられており、礼 堂 部分 が懸 造 となっている。懸 造 の本堂 は、清水寺 、長谷寺 など、観音 菩薩 を祀 る寺院 に多 い。現存 する本堂 は三 代目 で、奈良 時代 の草創 期 に建 てられたものは桁行 五 丈 、梁間 二 丈 であったが、天平 宝 字 5年 (761年 )から翌 天平 宝 字 6年 (762年 )に造 東大寺 司 によって桁行 七 丈 、梁間 四 丈 に改築 され、これに10世紀 末 までに懸 造 の礼 堂 が増築 されていたことが絵画 資料 から分 かっている。この建物 が承 暦 2年 (1078年 )1月 2日 の火災 で焼失 し、永長 元年 (1096年 )に再建 され、慶長 7年 (1602年 )に淀殿 の寄進 で合 の間 と礼 堂 が改築 され、現在 の形式 となる。正堂 は永長 元年 (1096年 )の再建 の姿 を良 く残 す滋賀 県 下 最古 の建築 である。構造 は桁行 五 間 、梁間 二 間 の身 舎 (もや)に一 間 の庇 を廻 し、全体 で正面 七 間 、奥行 四 間 (「間 」は長 さの単位 ではなく、柱 間 の数 を示 す建築 用語 )である。身 舎 が内陣 となっており、慶長 年間 (1596年 - 1615年 )に新設 された宮殿 が設 けられている。宮殿 内部 に如意輪観音 を祀 るが、隆起 した硅灰石 が本尊 の台座 となっている。合 の間 は間口 七 間 奥行 一 間 で、正堂 と礼 堂 を繋 いでいる。内部 に天井 はなく、見上 げると正堂 の軒 が残 っている。合 の間 の東 端 は「紫式部 源氏 の間 」と称 され、執筆 中 の紫式部 の像 が安置 されている[7]。礼 堂 は桁行 七 間 、梁間 三 間 の身 舎 に、合 の間 と接 する北面 を除 く三 方 に庇 を廻 し、全体 で正面 九 間 、奥行 四 間 で、さらに三 方 に縁 をめぐらす。また東側 一 間 は吹さらしである。屋根 は檜 皮 葺 きで、正堂 と礼 堂 それぞれを寄 棟 造 としたうえで、二 つの屋根 を貫 くように南北 に大 屋根 が掛 けられて南端 は礼 堂 上部 で千鳥 破風 となる。本堂 の正面 は南面 であるが、南面 は懸 造 となっているため参拝 者 は東面 の階段 を登 り礼 堂 の縁 を回 って礼 堂 に入 るようになる[8]。蓮如 堂 (重要 文化財 ) -近世 以降 は浄土真宗 本願寺 派 の蓮如 上人 を祀 る堂 となっているが、もともとは三 十 八 所 権現 社 の拝殿 であった。三 十 八 所 権現 社本 殿 の南側 に位置 する懸 造 の堂 である。『石山 要 記 』には寛弘 3年 (1006年 )の藤原 道長 の御 願文 に見 えると記 されているが、現存 するものは慶長 7年 (1602年 )に淀殿 により再建 されたものと考 えられる。平面 は桁行 五 間 、梁間 四 間 で、北面 一 間 が広縁 となっており三 十 八 所 権現 社本 殿 と向 かいあっている。堂 の入口 は東面 の妻 入 (棟 の向 く方向 が入口 という意味 )であり、東側 一 間 が吹さらしとなっている。同 じように懸 造 で妻 入 りの拝殿 は醍醐寺 の清瀧 宮 拝殿 (国宝 )があり、本殿 との位置 関係 など共通 する部分 が多 い。堂 の西側 一 間 が内陣 の体裁 となっており、蓮如 像 などを祀 る。屋根 は入母屋 造 で文化 8年 (1811年 )に桟瓦葺 になっている。小屋 裏 の構造 から元 は檜 皮 葺 きなど軽 い屋根 であったと思 われる[9]。観音堂 -宝 暦 年間 (1751年 - 1764年 )に京都 の三井 某 老 尼 によって建立 。西国 三 十 三 所 観音 霊場 のそれぞれの札所 の本尊 を模 した33体 の観音 像 を祀 る。毘沙門堂 (滋賀 県 指定 有形 文化財 ) -兜 跋 毘沙門天 などを祀 る堂 。棟 札 から安永 2年 (1773年 )建立 とわかる。建物 は方 三 間 であるが、外部 からは桁行 三 間 、梁間 二 間 に見 え、内部 に入 ると堂奥 より4分 の1ほどに柱 が4本 建 つ特異 な平面 である。堂奥 側 が須弥壇 になっているが、手前 の柱 に渡 された虹 梁 や組物 に特徴 がある。屋根 は宝 形 で瓦葺 [10]。御影堂 (重要 文化財 ) -石山寺 開 創 の祖師 、弘法大師 、良弁 僧正 、淳 祐 内 供 を祀 。『石山 要 記 』によれば、元 は三昧 堂 もしくは法華 堂 と呼 ばれ法華三昧 の道場 であったが、淳 祐 の住居 であった普賢院 が倒壊 した際 に御 影 を移 し、御影堂 としたもの。現存 の建物 は室町 時代 とされているが、須弥壇 の意匠 などから推測 されるのみで確証 はない。また享 保 年間 (1716年 - 1736年 )に大 きな改装 を施 されている。平面 は方 三 間 の一 間 四 面 堂 (一間 身 舎 の四方 に庇 をめぐらす)で、背面 に張 り出 し(簡易 な囲 い)、背面 以外 の三 方 に縁 をまわす。後世 の改装 により四 天 柱 のうち前面 二 本 が抜 き取 られており代 わりに大 虹 梁 を入 れている。大 虹 梁 の上部 には抜 き取 られた柱 の頂 部 が残 されている。本来 四 天 柱 の内部 だったであろう内陣 は奥 の中央 一 間 に移 されている。屋根 は宝 形 の檜 皮 葺 きで頂 部 に宝珠 が載 る[11]。第 一 梅園 「薫 の苑 」淳 祐 内 供 供養 塔 石山寺 硅灰石 (国 の天然記念物 ) -石山寺 の名 の由来 となった岩 。石灰岩 が変成 してできた珪灰石 。世界 的 にも珍 しく、日本 の地質 百 選 に選 ばれている。良弁 の杖 桜 -良弁 が付 き刺 した杖 が育 った桜 という。三 十 八 所 権現 社 (重要 文化財 ) -祭神 :神武 天皇 から天智天皇 までの38代 の歴代 天皇 。本堂 のすぐ東側 にある鎮守 社 。『石山 要 記 』は良弁 が勧請 したとの推測 を記 すが定 かではなく、文治 年間 (1185年 - 1190年 )の『灌頂記 』に見 えるとしている。現存 する文献 などから慶長 7年 (1602年 )に淀殿 により再建 されたものと考 えられる。三 十 八 所 は観音 二 十 八 部 衆 と法華 十 羅刹 女 としているが、『近江 輿地 志 略 』では般若 十 六 善 神 と薬師 十 二神 将 、法華 十 羅刹 女 と記 す。建物 は大 きな一 間 社 流造 で全体 的 に装飾 の少 ない意匠 である。現在 はほぼ剥落 してしまっているが、全体 に彩色 が施 されていたことが分 かる。屋根 は檜 皮 葺 き[12]。経蔵 (重要 文化財 ) -本堂 北東 にある小規模 な校倉 造 で、石山寺 一切経 や校倉 聖教 などの文化財 を収容 してきた建物 。建立 時期 は伝 わっていないが、意匠 などから16世紀 後期 と考 えられる。校 木 を桁行 と梁 行 で高 さをずらさずに組 み上 げている。屋根 は瓦葺 で、校倉 造 では珍 しい切妻 造 となっている[13]。安産 の腰掛 石 -経蔵 の床下 にある。紫式部 供養 塔 (重要 美術 品 ) -石造 の宝 篋印塔 であるが、その傘 が三 重 となっている珍 しい作 りとなっている。鎌倉 時代 中期 の造 。鐘楼 (重要 文化財 ) -寺 伝 では源 頼朝 の寄進 と伝 わるが、細部 様式 などから鎌倉 時代 後期 と考 えられる。二 階 建 てで平面 は上下 層 とも桁行 三 間 、梁間 二 間 で、上層 には縁 がまわされる。下層 は白 漆喰 塗 りの袴 腰 、上層 は東西 中央 に扉 があり、それ以外 は連子窓 である。内部 には銘 が無 いが、平安 時代 とみられる梵鐘 (重要 文化財 )が吊 られている。下層 から撞木 を引 いて撞 く珍 しい作 りである。屋根 は入母屋 造 で檜 皮 葺 き[14]。宝蔵 - めかくし
石 (重要 美術 品 ) -石造 宝塔 。 若宮 -祭神 :天 照 皇 大神 、弘文天皇 。弘文天皇 が壬 申 の乱 の後 、この地 に葬 られたという。多宝塔 (国宝 ) -寺 伝 では源 頼朝 が、平治 の乱 の後 に石山寺 が兄 の源 義平 を平清盛 から匿 ってくれたことへのお礼 で寄進 したと伝 わる。墨書 より建 久 5年 (1194年 )建立 とわかる。年代 の明 らかなものとしては日本 最古 の多宝塔 である。下層 は方 三 間 で、内部 の四 天 柱 内 に須弥壇 を据 え、快慶 作 の大日如来 像 (重要 文化財 )を安置 する。また、柱 や長押 に仏画 や彩色 が施 されている。上層 は12本 の円柱 に四 手先 組物 が載 り、深 い軒 を受 ける。屋根 は檜 皮 葺 き[15]。源 頼朝 供養 塔 -南北 朝 時代 の造 。亀谷 禅尼 供養 塔 (重要 文化財 ) -亀谷 禅尼 は中原 親 能 の妻 で頼朝 の次女 の乳母 である。南北 朝 時代 の造 。茶室 「芭蕉 庵 」月見 亭 -石山寺 の尾根 の東 の突端 部 にある亭 。瀬田川 や琵琶湖 を望 む景勝 地 にあり、ここから見 る月 は「近江 八景 石山 の秋月 」の図 で有名 である。寺 伝 では保 元 年間 (1156年 - 1158年 )に後白河天皇 が行幸 した際 に建立 されたのがそもそもの始 まりと伝 わる。現存 するものは貞享 4年 (1687年 )の再建 。建物 は桁行 一 間 、梁間 一 間 であるが、東西 方向 にやや長 い平面 である。東 寄 りの正方形 の方 一 間 部分 は床 を上 げて舞台 状 にしている。建具 などは無 く吹さらし。懸 造 となっているが、袴 腰 があるため明確 ではない。屋根 は寄 棟 造 で、上部 は茅 葺、下部 は杮葺きであったが、2017年 (平成 29年 )に茅 葺は板葺 に葺 き替 えられた[16]。心 経堂 - 1990年 (平成 2年 )建立 。花山 法皇 西国 三 十 三 所 復興 一 千 年 記念 で建 てられた。第 二 梅園 「東風 の苑 」豊 浄 殿 -宝物 館 。毎年 春 と秋 に「石山寺 と紫式部 展 」が開 かれる。源氏 文庫 第 三 梅園 牡丹園 源氏 苑 紫式部 像 光 堂 - 2008年 (平成 20年 )に石山 を発祥 の地 とする東 レによって寄進 された。懸 造 。天智天皇 の石切場 - ここから切 り出 された石 が、大和 国 飛鳥 にある川原 寺 中 金堂 の礎石 として使 われているのが分 かっている。西国 三 十 三 所 石仏 群 庭園 「無 憂 園 」八 大 龍王 社 源 義平 供養 塔 -義平 が平治 の乱 の後 に隠 れていたという「かくれ谷 」にある。- 閼伽
井 屋 那須与一 地蔵堂 -那須与一 が信仰 していた地蔵 尊 を祀 る。龍蔵 権現 社 -明和 年間 (1764年 - 1772年 )再建 。密 蔵 院 -塔頭 。島崎 藤村 ゆかりのお堂 。吉祥院 -塔頭 。明王 院 -塔頭 。2024年 1月 29日 から2025年 1月 31日 まで、紫式部 を主人公 とした大河 ドラマ『光 る君 へ』の大河 ドラマ館 が開館 する[17]。- くぐり
岩 池 比良 明神 影向 石 世尊 院 -塔頭 。公 風 園 白 耳 亭 法輪 院 -塔頭 。大 湯屋 大黒天 堂 -大黒天 を祀 る。明治 時代 後期 の建立 と伝 わる。建物 は妻 入 で桁行 五 間 、梁間 は正面 三 間 、背面 四 間 で正面 に一 間 の向 拝 が付 く。奥 側 一 間 の中央 に内陣 を据 え、それ以外 の床 は畳 敷 きとなっている。屋根 は瓦葺 で、正面 は入母屋 造 、背面 は切妻 である[18]。金 龍 龍王 社 -石山寺 の守護神 。拾 翠 園 淳 浄 館 宝 性 院 -塔頭 。石山寺 事務所 。宿直 屋 東大 門 (重要 文化財 ) -寺 伝 では源 頼朝 によって建 久元 年 (1190年 )に建立 されたとされる。細部 の様式 などから本堂 の礼 堂 が建立 されたのと同 時期 の慶長 年間 (1596年 - 1615年 )に、淀殿 によって新築 に近 い大幅 な修理 がなされたと考 えられる。三 間 一 戸 (桁行 三 間 で、中央 の一 間 が開口 という意味 )の八 脚 門 (本 柱 の前後 に4本 ずつ控 え柱 が建 つという意味 )で、両 脇 に仁王 像 を置 く。屋根 は入母屋 造 で瓦葺 き[19]。東大 門 の南 50メートルの場所 に石山 貝塚 (大津 市 指定 史跡 )がある。庭園 「朗 澄 律師 大徳 遊 鬼 境 」 - 1999年 (平成 11年 )築 。
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東大 門 -
鐘楼 -
御影堂 (開山 堂 ) -
御影堂 内陣 -
毘沙門堂 -
三 十 八 所 権現 社本 殿 -
大黒天 堂 -
月見 亭 -
経蔵 -
蓮如 堂 -
多宝塔 細部 -
石造 宝塔 と石庭 -
宝 篋印塔 -
宝 篋印塔 (後方 の塔 は重要 文化財 ) -
宝 篋印塔 -
宝 篋印塔 -
無 憂 園 -
東大 門 の金剛力士 (仁王 )像 -
心 経堂 -
三 鈷の松 -
くぐり
岩
文化財 [編集 ]
木造 如意輪観音 坐像 [編集 ]
- 1991
年 (平成 3年 )4月 10日 から4月 30日 まで(明仁 の第 125代 天皇 即位 に伴 う即位 吉例 開 扉 ) - 2002
年 (平成 14年 )8月 1日 から12月16日 まで(開基 1,250年 記念 ) - 2009
年 (平成 21年 )3月 1日 から5月 31日 まで、および9月 1日 から12月16日 まで(花山 法皇 一千年忌西国札所一斉開扉) - 2016
年 (平成 28年 )3月 18日 から12月4日 まで(33年 ごとの開 扉 ) - 2020
年 (令 和 2年 )3月 18日 から8月 10日 まで(徳 仁 の第 126代 天皇 即位 に伴 う即位 吉例 開 扉 )[20]
国宝 [編集 ]
本堂 多宝塔 附 :棟 札 1枚 漢書 高 帝 紀 下 、列伝 第 四 残 巻 2巻 (紙背 金剛 界 念誦 私記 )史記 巻 第 九 十 六 、九 十 七 残 巻 1巻 (紙背 金剛 界 次第 )玉 篇 巻 第 廿 七 後半 (紙背 如意 輪 陀羅尼 経 )春秋 経伝 集 解 巻 第 廿 六 残 巻 (しゅんじゅうけいでんしっかい)春秋 経伝 集 解 巻 第 廿 九 残 巻 (紙背 金剛 界 儀 軌)釈 摩 訶衍論 (しゃくまかえんろん)5帖 淳 祐 内 供 筆 聖教 (薫 聖 教 )(しゅんにゅうないくひつしょうぎょう・においのしょうぎょう)73巻 1帖 (附 :聖教 目録 1巻 )[注 1]延 暦 交替 式 (紙背 南 天竺 般若 悉曇 十 八 章 )越 中国 官 倉 納 穀 交替 記 残 巻 (紙背 伝 三昧 耶戒私記 )周防 国 玖珂 郡 玖珂 郷 延喜 八 年 戸籍 残 巻 (紙背 金剛 界 入 曼荼羅 受三昧 耶戒行儀 )
重要 文化財 [編集 ]
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木造 如意輪観音 半 跏像(本尊 )・像 内 納入 品 (銅 造 如来 立像 1躯 、銅 造 観音 菩薩 立像 2躯 、銅 造 菩薩 立像 1躯 、水晶 五輪 塔 1基 、木造 厨子 1基 ) -解説 は既 述 [注 2]。木造 如意輪観音 半 跏像木造 大日如来 坐像 (多宝塔 安置 )快慶 作 木造 大日如来 坐像 (伝 ・元 多宝塔 本尊 )金銅 観世音菩薩 立像 -奈良 時代 。1947年 (昭和 22年 )盗難 に遭 い、その後 、首 以下 の胴体 部分 のみが発見 された。切断 された頭部 は行方 不明 である。寺 伝 によると桂 昌 院 が寄進 したもので、それ以前 の来歴 は不明 [22]。銅 造 釈迦如来 坐像 -奈良 時代 後期 。総高 13.0cmで頭頂 から懸 裳 まで一 鋳 でつくられる。経蔵 の本尊 と伝 わるのみで、それ以前 の来歴 は不明 [23]。木造 持国天 立像 ・増長天 立像 ・毘沙門天 立像 木造 維摩居士 坐像 -平安 時代 前期 。像 高 49.5cmで一木 造 り。多 くの維摩居士 は病苦 の老 相 で作 られるが、この像 は穏 やかな顔立 ちであることが特徴 [24]。木造 毘沙門天 立像 -平安 時代 前期 。像 高 172.5cm。頭 から体 を一木 で作 り、乾漆 を薄 くもって彩色 を施 す[25]。木造 不動明王 坐像 - 塑造
淳 祐 内 供 坐像 (御影堂 安置 ) -像 内 に明徳 三 年 地蔵 摺 仏 、明徳 四 年 塔婆 形 木札 及 び願文 経巻 等 を納 める。台座 裏面 に「応 永 五 年 閏 四 月 廿 七 日 、普賢院 御影 、開眼 供養 訖、座主 僧正 守 快 」の銘 がある。 - 塑造
金剛 蔵王 立像 心木 [26]附 塑造断片 一括 、光背 1面 、心 木内 納入 品 (木造 五輪 塔 形 1基 、木造 舎利 容器 1合 、紙 本 墨書 般若心経 1紙 )塑像 (表面 を粘土 で造形 した像 )の内部 にあった支 えの心木 である。この心木 は、本尊 の右 脇 侍 である金 剛 蔵王 (蔵王 権現 )像 の内部 から発見 されたもの。金剛 蔵王 像 自体 は江戸 時代 の作 であるが、心木 は奈良 時代 創建 時 のもので、学術 的 にきわめて貴重 なものである。
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梵鐘
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叡山 大 師伝 - 倶舎
論 記 普 光 撰 22巻 ・倶舎論 疏法 宝 撰 30巻 ・倶舎論 頌疏円 暉 撰 5巻 説 一切有部倶舎論仙 釈 筆 十 誦律巻 第 五 十 二 大 般若 経 音義 中 巻 智 証 大 師伝 不 空 三蔵表制集巻 第 三 仏説 浄 業 障 経 (天平 神護 二 年 吉備 由利 願 経 )法花 玄 賛 義 決 弘 仁 十 年 書写 奥書 法華 義 疏 7巻 石山寺 一切経 4,644帖 (附 :雑 宝 経 巻 第 四 (光明皇后 五 月 一 日 願 経 )以下 199巻 )石山寺 校倉 聖教 1,926点 (附 :聖教 箱 30合 )本朝 文 粋 零 本 建 久 年中 検 田 帳 2巻 行 歴 抄 円珍 記
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袈裟 襷 文 銅鐸
重要 美術 品 [編集 ]
石造 宝塔 - めかくし石 。石造 三 重宝 篋印塔 -紫式部 供養 塔 。
国 の天然記念物 [編集 ]
滋賀 県 指定 有形 文化財 [編集 ]
毘沙門堂 附 :棟 札 2枚 、板 札 1枚 、須弥壇 1基 、釣 燈籠 2個 、石 燈籠 2基
大津 市 指定 有形 文化財 [編集 ]
絹本 著 色 紫式部 像 伝 狩野 孝信 筆 石山寺 知足 庵 コレクション古 瓦 26点 古 瓦 譜 1冊
板 絵 著 色 繋 馬 図 1面 順礼 札 5枚
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石山寺 縁起 絵巻 第 1巻 第 3段 石山寺 建立 の際 に地中 から宝 鐸が発見 される -
石山寺 縁起 絵巻 第 4巻 第 1段 石山寺 に参籠 した紫式部 は湖面 に映 る月影 を見 て物語 の構想 を得 る -
石山寺 縁起 絵巻 第 3巻 第 3段 菅原 孝女 の石山 参詣 、雪 の逢坂 関 -
木造 毘沙門天 立像 (平安 時代 、重要 文化財 ) -
木造 大日如来 坐像 (伝 元 多宝塔 本尊 、平安 時代 、重要 文化財 ) -
平安 時代 の作 ・木造 不動明王 坐像 (平安 時代 、重要 文化財 )
前後 の札所 [編集 ]
西国 三 十 三 所 - 12
岩間 寺 正法寺 - 13石 山寺 - 14園城寺 (三井寺 ) 近江 西国 三 十 三 観音 霊場 - 2
東門 院 - 3石 山寺 - 4近松 寺 江 州 三 十 三 観音 - 1
石 山寺 - 2泉水 寺 (廃寺 ) - びわ
湖 百 八 霊場 - 1
石 山寺 - 2岩間 寺 正法寺 神仏 霊場 巡拝 の道 - 145
建部 大社 - 146石 山寺 - 147園城寺 (三井寺 )
拝観 情報 [編集 ]
交通 アクセス開門 時間 - 8:00から16:30
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
出典 [編集 ]
- ^ “
琵琶湖 とその水辺 景観 -祈 りと暮 らしの水 遺産 ”.文化庁 . 2020年 9月 20日 閲覧 。 - ^ “
日本 初 、夜景 遺産 の紅葉 大津 ・石山寺 でライトアップ”.京都 新聞 . (2015年 11月13日 ). オリジナルの2015年 11月14日 時点 におけるアーカイブ。 2020年 5月 27日 閲覧 。 - ^
薗田 稔 、橋本 政 宣 『神道 史 大 辞典 』(snippet)吉川弘文館 、2004年 。, p.494 - ^
相馬 大 『近江 33ヵ所 』(preview)保育 社 、1982年 。ISBN 9784586505814 。, p.8-9 - ^ “
白 鬚 大 神社 縁起 (白 鬚 大明神 縁起 絵巻 原文 )”.白 鬚 神社 . 2012年 6月 閲覧 。 - ^
読売新聞 オンライン(2023年 4月 11日 ) - ^ a b “
源氏物語 の誕生 ”.大本山 石山寺 公式 ホームページ.文学 の寺 .石山寺 . 2024年 6月 5日 閲覧 。 - ^
石山寺 2006, p. 54-56. - ^
石山寺 2006, p. 33 - 37. - ^
石山寺 2006, p. 30. - ^
石山寺 2006, p. 44 - 48. - ^
石山寺 2006, p. 38 - 39. - ^
石山寺 2006, p. 40 - 41. - ^
石山寺 2006, p. 59. - ^
石山寺 2006, p. 57 - 58. - ^
石山寺 2006, p. 49 - 50. - ^ “
光 る君 へ びわ湖 大津 大河 ドラマ館 ”.大津 市 大河 ドラマ「光 る君 へ」活用 推進 協議 会 . 2023年 12月26日 閲覧 。 - ^
石山寺 2006, p. 25. - ^
石山寺 2006, p. 61. - ^ “【
重要 】勅 封 秘仏 御 本尊 如意 輪 観世音菩薩 御開 扉 期間 延長 について”.石山寺 公式 ホームページ (2020年 6月 24日 ). 2020年 7月 1日 閲覧 。 - ^ a b c d
平成 20年 12月2日 文部 科学 省 告示 第 172号 - ^
宇野 茂樹 1978, p. 519-520. - ^
宇野 茂樹 1978, p. 519 - 520. - ^
宇野 茂樹 1978, p. 524 - 527. - ^
宇野 茂樹 1978, p. 524-527. - ^
平成 16年 6月 8日 文部 科学 省 告示 第 112号
参考 文献 [編集 ]
石山寺 『石山寺 の古 建築 』石山寺 、2006年 。宇野 茂樹 「王朝 の美術 」『新 修 大津 市 史 』古代 第 一 巻 、大津 市 、1978年 。
関連 文献 [編集 ]
朝日新聞社 編 『週刊 朝日 百科 日本 の国宝 :滋賀 /石山寺 』78号 、朝日新聞社 、1998年 、226-256頁 。野口 ,武彦 、鷲尾 ,隆輝 『古寺 巡礼 近江 :石山寺 』 2巻 、淡 交社、1980年 。doi:10.11501/12220575。ISBN 9784473005083。平凡社 地方 資料 センター編 『滋賀 県 の地名 』平凡社 〈日本 歴史 地名 大系 〉、1991年 。ISBN 9784582490251。
関連 項目 [編集 ]
外部 リンク[編集 ]
公式 ウェブサイト石山寺 -滋賀 ・びわ湖 観光 情報 第 十 三 番 石山寺 :西国 三 十 三 所 石山寺 -国 指定 文化財 等 データベース(文化庁 )