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華厳けごんてら

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華厳けごんてら
仁王門におうもん
所在地しょざいち 岐阜ぎふけん揖斐いびぐん揖斐川いびがわまち谷汲たにぐみいさおせき23
位置いち 北緯ほくい3532ふん14.54びょう 東経とうけい13636ふん28.43びょう / 北緯ほくい35.5373722 東経とうけい136.6078972 / 35.5373722; 136.6078972座標ざひょう: 北緯ほくい3532ふん14.54びょう 東経とうけい13636ふん28.43びょう / 北緯ほくい35.5373722 東経とうけい136.6078972 / 35.5373722; 136.6078972
山号さんごう 谷汲たにくさん(たにぐみさん)
宗派しゅうは 天台宗てんだいしゅう
本尊ほんぞん じゅういちめん観音かんのん秘仏ひぶつ
創建そうけんねん のべれき17ねん798ねん
開山かいさん ゆたかしか上人しょうにん
開基かいき 大口おおぐち大領だいりょう
正式せいしきめい 谷汲たにくさん 華厳けごんてら
別称べっしょう 谷汲たにくさん(たにぐみさん)
札所ふだしょとう 西国さいこくさんじゅうさんしょだい33ばん
東海とうかい白寿はくじゅさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうだい33ばん
東海とうかいさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょうだい33ばん
文化財ぶんかざい 木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう絹本けんぽんちょしょくさんじゅうさんしょ観音かんのんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 3200005005962 ウィキデータを編集
華厳寺の位置(岐阜県内)
華厳寺
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参道さんどう
仁王におうぞう
本堂ほんどうこうはい精進しょうじんとしのこい
笈摺おいずるどう
満願まんがんどう

華厳けごんてら(けごんじ)は、岐阜ぎふけん揖斐いびぐん揖斐川いびがわまち谷汲たにぐみいさおせきにある天台宗てんだいしゅう寺院じいん

概要がいよう[編集へんしゅう]

山号さんごう谷汲たにくさん(たにぐみさん)。本尊ほんぞんじゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつわきさむらいとして不動明王ふどうみょうおう毘沙門天びしゃもんてん安置あんちする。西国さいこくさんじゅうさんしょだい33ばん札所ふだしょ満願まんがん結願けちがん寺院じいんで、さくら紅葉こうよう名所めいしょとしてもられおおくの観光かんこうきゃくにぎわう。西国さいこくさんじゅうさんしょ札所ふだしょ寺院じいんでは唯一ゆいいつ近畿きんき地方ちほう以外いがいにある。

本尊ほんぞん真言しんごん・ご詠歌えいか[編集へんしゅう]

本尊ほんぞん真言しんごん:おん まかきゃろにきゃ そわか

詠歌えいか現世げんせい本堂ほんどう」):らすほとけのしるしありければ まだともしびもえぬなりけり

詠歌えいか過去かこ満願まんがんどう」):万世ばんせい(よろずよ)のねがいをここにおさめおく みずこけより谷汲たにぐみ

詠歌えいか来世らいせ笈摺おいずるどう」):いままではおやたのみし笈摺おいずるを ぎておさめむる美濃みの谷汲たにぐみ

歴史れきし[編集へんしゅう]

えいろく3ねん1560ねん成立せいりつの『谷汲たにぐみ山根やまねもと由来ゆらい』によると、華厳けごんてらのべれき17ねん798ねん)、会津あいづ郡司ぐんじ黒河くろかわきょう現在げんざい福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ)の大口おおぐち大領だいりょうなる人物じんぶつによって創建そうけんされたという。『由来ゆらい』によれば、大口おおぐち大領だいりょう仏師ぶっし依頼いらいしてみずからの信仰しんこうするじゅういちめん観音かんのんぞう造立ぞうりゅうした。かれ観音かんのんぞうとともに会津あいづかえろうとしていたが、途中とちゅう美濃みのこく赤坂あかさか現在げんざい岐阜ぎふけん大垣おおがき)で観音かんのんぞううごかなくなってしまった。赤坂あかさかきたさと山中さんちゅう観音かんのん所縁しょえん霊地れいちがあるというおげをけ、大口おおぐち大領だいりょう同地どうち草庵そうあん建立こんりゅうのべれきまつねんに、当地とうち修行しゅぎょうしていたそうゆたかしか上人しょうにん(ぶねんしょうにん)の協力きょうりょく華厳けごんてら建立こんりゅうした。

延喜えんぎ17ねん917ねん)には醍醐天皇だいごてんのうが「谷汲たにくさん」の山号さんごうと「華厳けごんてら」の扁額へんがく下賜かしてんけい7ねん944ねん)には朱雀すざく天皇てんのう鎮護ちんご国家こっか道場どうじょうとしてとうてら勅願ちょくがんしょさだめ、仏具ぶつぐ福田ふくだとしていちまんせんせきあたえたという。「谷汲たにくさん」という山号さんごうについては、てら付近ふきんたにからあぶらし、仏前ぶつぜん灯明とうみょうようあぶらめどもきなかったことに由来ゆらいする。

西国さいこくさんじゅうさんしょ霊場れいじょう中興ちゅうこうしゃ伝承でんしょうされる花山はなやま法皇ほうおう徒歩とほ巡幸じゅんこうし、とうてらだいさんじゅうさんばん札所ふだしょ満願まんがんところさだめ、ぜんころも笈摺おいずる)、つえ、およびさんしゅ詠歌えいか奉納ほうのうしたとつたえ、鎌倉かまくら時代ときよにはこう白河しらかわ法皇ほうおう花山はなやま法皇ほうおうあとしたって同行どうこうせん有余ゆうよじんしたがえて巡幸じゅんこうしたという。なお、西国さいこくさんじゅうさんしょ巡礼じゅんれいについてれたもっとふる史料しりょうである『寺門てらかど高僧こうそう所収しょしゅうの「くだりみことでん」および「さとしちゅうでん」では、だいさんじゅうさんばん霊場れいじょうさんしつてらになっており、園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)のそうさとしちゅうさんじゅうさんしょ霊場れいじょう巡礼じゅんれいしたおう元年がんねん1161ねん)には、華厳けごんてら満願まんがんしょではなかった。また、三種さんしゅのご詠歌えいかのうち「らす」のうた作者さくしゃ判明はんめいしており、花山はなやま法皇ほうおうではなく、前出ぜんしゅつさとしちゅう作歌さっかである[1]

うけたまわひさし3ねん1221ねん)の承久じょうきゅうらんでは、朝廷ちょうていがわぞくしたため寺領じりょう没収ぼっしゅうされた。

たてたけし元年がんねん1334ねん足利あしかが新田にった戦乱せんらんこり、新田にった一族いちぞく堀口ほりぐちさだみつるらんをはじめとする戦乱せんらん幾度いくどとなくしょどう伽藍がらん焼失しょうしつするが、本尊ほんぞんならびにわきさむらいとう山中さんちゅううつなんのがれた。

文明ぶんめい11ねん1479ねん)、観音かんのん菩薩ぼさつゆめつげけた薩摩さつまこく鹿児島かごしま慈眼寺じがんじ住職じゅうしょく道破どうはひろえこくにより、再興さいこうされたとつたえられている。

境内けいだい[編集へんしゅう]

総門そうもんをくぐると、左右さゆうソメイヨシノさくら並木なみき土産物みやげものてん飲食いんしょくてん旅館りょかんなどのなら参道さんどうつづき、距離きょりにしてやく1km、徒歩とほ10ふんほどで仁王門におうもんたっする。そこからはゆるやかなのぼりの石畳いしだたみ参道さんどうとなり、あたりの石段いしだんのぼると本堂ほんどうがある。本堂ほんどう背後はいごには阿弥陀堂あみだどう笈摺おいずるどう子安こやすどう、そこからさらに石段いしだんのぼったさき満願まんがんどうつ。このほか、満願まんがんどうから徒歩とほやく1あいだほどのところにおくいんがある。1980年代ねんだいまで本堂ほんどう周辺しゅうへんにはトロッコの線路せんろ多数たすうのこされていた。

境内けいだい一覧いちらん[編集へんしゅう]

  • 本堂ほんどう - 1879ねん明治めいじ12ねん)にごうたい法印ほういんによって再建さいけん入母屋いりもやづくり正面しょうめんあいだ側面そくめんよんあいだ外陣がいじんおくに、むね直行ちょっこうさせて内陣ないじん接続せつぞくする。本尊ほんぞんじゅういちめん観音かんのんわきさむらいとして不動明王ふどうみょうおうぞう毘沙門天びしゃもんてんぞう後者こうしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする(いずれも非公開ひこうかい)。どうない右手みぎておさめけいしょ地下ちかに「戒壇かいだんめぐり」があり、正面しょうめんこうはい左右さゆうはしらには「精進しょうじんとしのこい」としょうする、どうせいこいけられている。西国さいこく札所ふだしょ巡礼じゅんれいさんじゅうさんばん札所ふだしょとうてら満願まんがんしたものは、その記念きねんにこのこいれるならわしがある。
    • 本尊ほんぞんじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう - 厳重げんじゅう秘仏ひぶつ写真しゃしん公表こうひょうされておらず、制作せいさく年代ねんだい構造こうぞうとう詳細しょうさい不明ふめいである。西国さいこくさんじゅうさんしょ巡礼じゅんれい中興ちゅうこうしゃとされる花山はなやま法皇ほうおういちせんねんに、2008ねん平成へいせい20ねん)から2010ねん平成へいせい22ねん)にかけて、西国さいこくさんじゅうさんしょぜん札所ふだしょ寺院じいんで「結縁けちえん開帳かいちょう」がおこなわれ、華厳けごんてら本尊ほんぞん2009ねん平成へいせい21ねん)3がつ1にちから3がつ14にちまで開帳かいちょうされた。てら西国さいこくさんじゅうさんしょ札所ふだしょかい発表はっぴょうによると、1955ねん昭和しょうわ30ねん以来いらいの54ねんぶりの開帳かいちょうであった。明治めいじ時代じだいまでは33ねんごとひらきとびら大正たいしょう時代じだいから1955ねんまでは7ねんに1かいひらきとびらであったが、同年どうねん以降いこう定例ていれいひらきとびらおこなわれなくなった。本尊ほんぞん実見じっけんしたひとはなしとして久野くのけん美術びじゅつ史家しか)がつたえるところによると、じゅう一面観いちめんかん音像おんぞうえのきいち木造もくぞうぞうだか7しゃく5すんぞう華厳経けごんきょうしょし、ころもにはさんせん仏像ぶつぞう諸仏しょぶつ三昧ざんまい耶形をえが特異とくい姿すがたぞうであるという[2]
  • 鐘楼しゅろうどう
  • 阿弥陀堂あみだどう
  • 笈摺おいずるどう - 本堂ほんどう背後はいごにあるしょうどうとうてらには花山はなやま法皇ほうおうぜんころも笈摺おいずる)、つえ、およびさんしゅのご詠歌えいか奉納ほうのうしたとされる。このどうには今日きょう西国さいこくさんじゅうさんしょ巡礼じゅんれいえた人々ひとびと奉納ほうのうした笈摺おいずる朱印しゅいんちょうひとしかれ、多数たすう千羽鶴せんばづる奉納ほうのうされている。千羽鶴せんばづる折鶴おりづる(おりつる)が笈摺おいずる(おいづる)にちなむことから奉納ほうのうされる。
  • こけみず地蔵じぞうみこと - 花山はなやま法皇ほうおう御詠歌ごえいか由来ゆらいする地蔵じぞうみこと
  • 子安こやすどう - 笈摺おいずるどうひだりとなりつ。本尊ほんぞん子安こやす観音かんのん安産あんざん子宝こだから祈願きがん赤子あかご身体しんたい健康けんこうなどのねがごとしるしたたくさんのよだれかけ奉納ほうのうされている。
  • 満願まんがんどう - 本堂ほんどうから裏手うらてすすみ、笈摺おいずるどう子安こやすどうて、階段かいだんさんじゅうさんだんのぼったさきどう周囲しゅういには「満願まんがん」の文字もじきざまれたたぬき石像せきぞうならぶ。巡礼じゅんれいしゃはここでおささつおさめる。
    • 本尊ほんぞんじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう[注釈ちゅうしゃく 1] - いち木造もくぞうぞうだか215.7cm。ころもぶん目鼻立めはなだちのなどかた荒々あらあらしいが、作風さくふう古風こふうで、平安へいあん時代じだい前期ぜんき、9 - 10世紀せいきにさかのぼるさく推定すいていされる。
  • 西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょう石仏いしぼとけぐん
  • おくいん - 満願まんがんどうよりやく1.5kmの登山とざんようする。もときたりょうにあったが、正中せいちゅう年間ねんかん1324ねん - 1326ねん)のころうつされる。
  • 妙法みょうほうたき
  • 菅原すがわら道真みちざね参籠さんろう岩屋いわや
  • もとさん大師だいしどう
  • うちふつ客殿きゃくでん
  • 庫裏くり
  • 中門ちゅうもん
  • ほんもん
  • 一切いっさい経堂きょうどう
  • さんじゅうさんしょどう - 西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうのそれぞれの札所ふだしょ本尊ほんぞんした33たい観音かんのんぞうまつる。
  • 英霊えいれいどう
  • 明王みょうおういん - 塔頭たっちゅう
  • 豊川とよかわ分霊ぶんれい吨枳あま天堂てんどう - 豊川とよかわ稲荷いなり分霊ぶんれいである吨枳あまてんまつる。
  • 地蔵じぞういん - 塔頭たっちゅう
  • 羅漢らかんどう
  • 十王じゅうおうどう
  • 一乗院いちじょういん - 塔頭たっちゅう
  • 法輪ほうりんいん - 塔頭たっちゅう
  • 地蔵堂じぞうどう
  • 仁王門におうもん - たかられき年間ねんかん1751ねん - 1764ねん再建さいけん[3]入母屋いりもやづくりさんあいだじゅうもんおくあいだ左右さゆう仁王におうぞう安置あんち。その手前てまえ通路つうろ左右さゆう巨大きょだい草鞋わらじ奉納ほうのうされている。
  • 総門そうもん

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう[注釈ちゅうしゃく 1] - ぞうだか168.2cm。本堂ほんどうない本尊ほんぞんわきさむらいとして安置あんちされるが、一般いっぱんには公開こうかいされていない。たいをなす不動明王ふどうみょうおうぞう近世きんせいさくであるが、この毘沙門天びしゃもんてんぞう平安へいあん時代じだい初期しょき、9世紀せいきにさかのぼるいにしえぞうである。ほんぞうは、いんうつな表情ひょうじょうふとしづくりの体躯たいく頭部とうぶからだにめりむような表現ひょうげんなど、日本にっぽん毘沙門天びしゃもんてんぞうなかでも異色いしょくさくである。
  • 絹本けんぽんちょしょくさんじゅうさんしょ観音かんのん曼荼羅まんだら - たて197.1cmよこ144.3cm、鎌倉かまくら時代じだい平成へいせい24ねん9がつ6にち指定してい

西国さいごく霊場れいじょうだいさんじゅうさんばんさつ和讃わさん[編集へんしゅう]

さんじゅうさんばんとめは 今日きょういままでおやよりも

たのみにかけし笈摺おいずるを ぬぎておさめむる霊場れいじょう

みの行末ゆくすえ大野おおのなる たにくみさんたか

ほうはちすのけごんてら あおるにもみこととけれ

南無なむ大慈だいじ観世音かんぜおん 南無なむ大悲だいひ観世音かんぜおん

マスコットキャラクター[編集へんしゅう]

谷汲たにくさん華厳けごんてら門前もんぜまちの「谷汲たにぐみ門前もんぜん街並まちなみづくり協議きょうぎかい」によってマスコットキャラクター「いのりちゃん」が制定せいていされている。マスコットキャラクターとしてははじめてさんじゅうさんしょ満願まんがん達成たっせいした。この功績こうせきさんじゅうさんしょ札所ふだしょかいみとめられ、「西国さいこくさんじゅうさんしょPR大使たいし」「西国さいこく巡礼じゅんれい大使たいし」に任命にんめい、また特命とくめい先達せんだつにも任命にんめいされた。

前後ぜんご札所ふだしょ[編集へんしゅう]

西国さいこくさんじゅうさんしょ
32 観音正寺かんのんせいじ - 33 華厳けごんてら
東海とうかい白寿はくじゅさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょう
32 法華寺ほっけじ - 33 華厳けごんてら
東海とうかいさんじゅうろく不動尊ふどうそん霊場れいじょう
32 えんきょうてら - 33 華厳けごんてら - 34 大徳だいとくいん

交通こうつうアクセス[編集へんしゅう]

鉄道てつどう・バス[編集へんしゅう]

※ いずれもぶし運行うんこう便びんがあり、ぶし運行うんこう便びん運行うんこうされない朝夕あさゆうのみとなり事実じじつじょう利用りようできない。

自動車じどうしゃ[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

2001ねん平成へいせい13ねん)までは名鉄めいてつ谷汲線たにぐみせんちかくまでびていて谷汲たにくさん華厳けごんてら巡礼じゅんれいきゃく交通こうつう便びんとなっていた。

毎月まいつき18にちのみ岐阜ぎふえき名鉄めいてつ岐阜ぎふえきより岐阜ぎふバス【C49】「谷汲たにくさんきが1往復おうふくのみ運行うんこうされる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 2008ねん平成へいせい20ねん)、奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん名古屋なごや博物館はくぶつかん開催かいさいされた特別とくべつてん西国さいこくさんじゅうさんしょ 観音かんのん霊場れいじょういのりとよし』に出品しゅっぴんされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 参考さんこう文献ぶんけん和田わだ、1998)pp8 - 10, pp216 - 217を参照さんしょう
  2. ^ 久野くのけん秘仏ひぶつつ」『芸術げいじゅつ新潮しんちょう』1969ねん10がつごう新潮社しんちょうしゃ
  3. ^ web西国さいこく霊場れいじょうさんじゅうさんヶ所かしょめぐり(華厳けごんてら

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん・NHKプラネット近畿きんきへん 『西国さいこくさんじゅうさんしょ 観音かんのん霊場れいじょういのりとよし』(特別とくべつてん図録ずろく)、奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん名古屋なごや博物館はくぶつかん、NHKプラネット近畿きんき、NHKサービスセンターかん、2008ねん解説かいせつ執筆しっぴつよりゆき富本とみもとひろし清水しみずけんほか)
  • 和田わだよしみ寿男としお 『御詠歌ごえいかたび 西国さいこくさんじゅうさん札所ふだしょめぐる』、和泉いずみ書院しょいん、1998ねん
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 岐阜ぎふけん地名ちめい』、平凡社へいぼんしゃ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]