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豊川とよかわ稲荷いなり

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豊川とよかわ稲荷いなり
本殿ほんでん
所在地しょざいち 愛知あいちけん豊川とよかわ豊川とよかわまち1番地ばんち
位置いち 北緯ほくい3449ふん28.26びょう 東経とうけい13723ふん31.24びょう / 北緯ほくい34.8245167 東経とうけい137.3920111 / 34.8245167; 137.3920111座標ざひょう: 北緯ほくい3449ふん28.26びょう 東経とうけい13723ふん31.24びょう / 北緯ほくい34.8245167 東経とうけい137.3920111 / 34.8245167; 137.3920111
山号さんごう えん福山ふくやま(えんぷくざん)
宗派しゅうは 曹洞宗そうとうしゅう[1]
本尊ほんぞん 千手観音せんじゅかんのん[1]
創建そうけんねん 嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん
開山かいさん 東海とうかいよしえき
正式せいしきめい えん福山ふくやま豊川閣妙厳寺とよかわかくみょうごんじ
略体りゃくたい: えん福山ふくやま豐川閣妙嚴寺とよかわかくみょうごんじ
札所ふだしょとう 東海とうかいさんじゅうろく不動尊ふどうそん17ばん
東海とうかいひゃく観音かんのん 結願けちがんてら
三河みかわしん四国しこくはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう番外ばんがい札所ふだしょ
文化財ぶんかざい 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう2重要じゅうよう文化財ぶんかざい
公式こうしきサイト 豊川とよかわ稲荷いなり公式こうしきホームページ
法人ほうじん番号ばんごう 2180305003810 ウィキデータを編集
豊川稲荷の位置(愛知県内)
豊川稲荷
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豊川とよかわ稲荷いなり(とよかわいなり)は、愛知あいちけん豊川とよかわ豊川とよかわまちにある曹洞宗そうとうしゅう寺院じいん

概要がいよう

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正式せいしき寺号じごう妙厳寺たえがんじ(みょうごんじ)[1]くわしくは「えん福山ふくやま 豊川とよかわかく 妙厳寺たえがんじ」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)としょうする寺院じいんである[広報こうほう 1]境内けいだいまつられる秘仏ひぶつ豊川とよかわ吒枳あまてん(だきにしんてん)」の稲穂いなほかついだ姿すがたなどから、一般いっぱんには「豊川とよかわ稲荷いなり」のばれるようになった[2][注釈ちゅうしゃく 1]豊川とよかわ稲荷いなり神社じんじゃではないものの、境内けいだい参道さんどうには鳥居とりいっている[1]日本にっぽんさんだい稲荷いなりの1つとされる[2][注釈ちゅうしゃく 2]

北海道ほっかいどう東京とうきょう神奈川かながわけん大阪おおさか福岡ふくおかけんに、別院べついん下記かき)をつ。また、豊川とよかわ高等こうとう学校がっこう運営うんえいしている。てらへは商売しょうばい繁盛はんじょうなどをねが参拝さんぱいきゃく年間ねんかんやく500まんにんおとずれる[2]

とうてら門前もんぜまち稲荷いなり寿司ずし発祥はっしょうひとつともわれており、周辺しゅうへんには稲荷いなり寿司ずしみせならんでいる[3][4]

本尊ほんぞん鎮守ちんじゅ

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ほうどう本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのんまつる)
山門やまかど現存げんそん最古さいこ建造けんぞうぶつ
今川いまがわ義元よしもと寄進きしんによる)
東京とうきょう別院べついん江戸えど参詣さんけいしょ)の山門さんもん
おくいん(かつての稲荷いなり本殿ほんでん、この堂宇どうう妙厳寺たえがんじから分離ぶんり危機ききにあった)

妙厳寺たえがんじ本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのんである[1][5]豊川とよかわ稲荷いなりの「稲荷いなり」とは、境内けいだい鎮守ちんじゅとしてまつられる吒枳あまてん(だきにてん)のことである[1][注釈ちゅうしゃく 3]

吒枳あまてんは、インド古代こだい民間みんかん信仰しんこう由来ゆらいする仏教ぶっきょう女神めがみであるが、日本にっぽんでは稲荷いなり信仰しんこう習合しゅうごうし、稲荷いなりしん同一どういつされるにいたった。妙厳寺たえがんじでは「吒枳あまてん」(だきにしんてん)と呼称こしょうする。

沿革えんかく

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嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん)、曹洞宗そうとうしゅう法王ほうおうかんいわお)の東海とうかいよしえきによって創建そうけん[5]室町むろまち時代ときよ末期まっき今川いまがわ義元よしもと伽藍がらん整備せいびした。当時とうじは、豊川とよかわ河川かせんめい)のちかくにひろがるえんぶくおかという高台たかだい伽藍がらんがあったが、元禄げんろく年間ねんかんまでに現在地げんざいち移転いてんした。現存げんそんするしょどう江戸えど時代じだい末期まっきから近代きんだい再建さいけんである。

開山かいさん

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開祖かいそ東海とうかいよしえき幼名ようみょういわせんだいといい、9さいときに、曹洞宗そうとうしゅう法王ほうおう5せいはなぞうくもりもと仏門ぶつもんはいった。そして、東海とうかい地方ちほうにおける法王ほうおう拠点きょてんとなる普済寺ふさいじ浜松はままつ)で修行しゅぎょう[注釈ちゅうしゃく 4]、その諸国しょこく行脚あんぎゃはいった。えいとおる11ねん1439ねん)、荒廃こうはいした真言宗しんごんしゅう寺院じいん歓喜かんきいん豊橋とよはし)を再建さいけん曹洞宗そうとうしゅうあらため、その2ねん豊川とよかわえんぶくおか妙厳寺たえがんじ建立こんりゅうする。存命ぞんめいちゅう妙厳寺たえがんじあとつぎゆずり、ふたた歓喜かんきいん隠栖いんせいした。

稲荷いなり信仰しんこう

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前述ぜんじゅつのとおり、豊川とよかわ稲荷いなりは吒枳あまてん鎮守ちんじゅとする。

縁起えんぎによると、鎌倉かまくら時代じだい禅僧ぜんそうかんいわおよしいん妙厳寺たえがんじでは法王ほうおうほうとして尊崇そんすう)がいれそうし、ぶんひさし4ねん1267ねん)、日本にっぽんふね帰国きこく途上とじょう、吒枳あまてん加護かごけたのがきっかけとなり、このてん護法ごほうしんとして尊崇そんすうするようになったとされる。

そのかんいわおの6代目だいめほうまごにあたる東海とうかいよしえき妙厳寺たえがんじ創建そうけんするにさいし、かんいわお自作じさくの吒枳あまてんぞう山門さんもん鎮守ちんじゅとしてまつったといわれる。豊川とよかわ吒枳あまてん姿すがたは、白狐びゃっこり、いねたばをかついで宝珠ほうしゅち、いわうえ天女てんにょかたちである。

また、俗説ぞくせつであるが、ひらはちきつねまつっているともいわれている。妙厳寺たえがんじ開山かいさんとき平八郎へいはちろう名乗なのおきな姿すがたをしたきつねがやってきて、寺男てらおとことしてよしえきによくつかえた。えき入寂にゅうじゃくしたのち愛用あいようがまのこして忽然こつぜん姿すがたしたという。いまもこのがま本殿ほんでんおく安置あんちされている。

戦国せんごく時代じだいになると、三河みかわ領主りょうしゅ今川いまがわ義元よしもと徳川とくがわ家康いえやすからそとまもるけ、また、九鬼くき嘉隆よしたかなどの武将ぶしょうからも帰依きえけた[注釈ちゅうしゃく 5]海上かいじょう交通こうつう守護神しゅごじん四国しこく金毘羅こんぴらみやられるが、毛利もうり水軍すいぐん勢力せいりょく範囲はんいのため、嘉隆よしたかは、家康いえやす領内りょうないにあり容易ようい祈願きがんできる豊川とよかわ稲荷いなり信仰しんこうしたのではないかといわれる。

江戸えど時代じだいになると、大岡おおおか忠相ただすけ渡辺わたなべ崋山かざんからの信仰しんこうけ、立身出世りっしんしゅっせ盗難とうなんけのかみとして江戸えど庶民しょみんからも信仰しんこうされるようになり、文政ぶんせい11ねん1828ねん)には、大岡おおおかてい一角いっかくりて江戸えど参詣さんけいしょ東京とうきょう別院べついん)が創建そうけんされた。

江戸えど時代じだい末期まっきには東海道とうかいどうから豊川とよかわ稲荷いなり参拝さんぱいするため、現在げんざい愛知あいちけん豊橋とよはし豊川とよかわいし鳥居とりいてられた[1]

皇族こうぞくにおいては有栖川ありすがわとう帰依きえし、明治めいじ初年しょねんに「豊川とよかわかく」のへんがく寄進きしんしたことから、豊川とよかわかくともばれるようになる。

神仏しんぶつ分離ぶんりれい

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豊川とよかわ吒枳あまてん

1871ねん明治めいじ4ねん)、神仏しんぶつ分離ぶんりれいもとづき、妙厳寺たえがんじにも神仏しんぶつ区別くべつきびしい調しらべがおよぶが、翌年よくねんには稲荷いなりどうをそのまま寺院じいん鎮守ちんじゅとしてまつることがみとめられる[6][注釈ちゅうしゃく 6]。しかし、それまで境内けいだい参道さんどうならんでいた鳥居とりい撤去てっきょされ、「豊川とよかわ稲荷いなり」「豊川とよかわ大明神だいみょうじん」の呼称こしょう使つかわれなくなった。以降いこうは「豊川とよかわ吒枳あまてん」とごうするようになる(ただし、もなく通称つうしょうとして「豊川とよかわ稲荷いなり」とぶことは復活ふっかつする)。

なお、現在地げんざいち鳥居とりいったのは戦後せんごであるが、この鳥居とりい1930ねん昭和しょうわ5ねん)に敷地しきちない移転いてん保管ほかんされていた江戸えど時代じだい末期まっき東海道とうかいどうにあった鳥居とりいである[1]

また、江戸えど時代じだい全国ぜんこく寺社じしゃに吒枳あまてん勧請かんじょうしていた、愛染寺あいぜんじ伏見ふしみ稲荷いなり本願ほんがんしょ)が廃寺はいじになったことにより、明治めいじ以降いこう豊川とよかわ稲荷いなり寺院じいんへの吒枳あまてん勧請かんじょう中心ちゅうしんてき役割やくわりになうようになる。

全国ぜんこく稲荷いなり神社じんじゃ京都きょうと伏見ふしみ稲荷いなりそう本社ほんしゃとしているが、豊川とよかわ稲荷いなり神社じんじゃではなく寺院じいんであり、上述じょうじゅつしたように、信仰しんこう対象たいしょうは「稲荷いなり」と通称つうしょうされてはいるものの、稲荷いなりしんそのものではなく、吒枳あまてんである。

史料しりょうじょうからの解釈かいしゃく豊川とよかわ稲荷いなりという名称めいしょう起源きげん

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江戸えど幕府ばくふ朱印しゅいんじょうには、すべて「三河国宝飯郡豊川村妙厳寺寺領」となっており、豊川とよかわ稲荷いなり正式せいしき呼称こしょうされていた事実じじつ確認かくにんできない。また、明治めいじ4ねん西にし大平おおひらはん管内かんない三河国豊川村妙厳寺境内豊川明神神仏区別(太政官だじょうかん)において、題名だいめいには「妙厳寺たえがんじ」または「豊川とよかわ明神みょうじん」と記載きさいされており、本文ほんぶんちゅうはじめて「豊川とよかわ稲荷いなり」という呼称こしょう登場とうじょうする。それによると、6、70ねん以来いらい土地とち名前なまえ由来ゆらいにより、豊川とよかわ明神みょうじんまたは豊川とよかわ稲荷いなり呼称こしょう伏見ふしみ稲荷いなりしゃさわしたにてもない、と説明せつめいしている。

御宝みたからごう真言しんごん

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  • 御宝みたからごう南無なむ豊川とよかわ吒枳あまてん
  • 真言しんごん:オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ

年中ねんじゅう行事ぎょうじとう

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初詣はつもうで本殿ほんでんまえ模様もよう警察けいさつなどによる交通こうつう規制きせいおこなわれている。(2010ねん平成へいせい22ねん元旦がんたん

初詣はつもうで

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正月しょうがつ初詣はつもうで期間きかんちゅう大変たいへんかず参拝さんぱいきゃくおとずれるため、元旦がんたんより1がつ5にちまでの9から17豊川とよかわ稲荷いなり周辺しゅうへんおよ門前もんぜんどおりの道路どうろ完全かんぜん通行止つうこうどめとなり、すべ歩行ほこうしゃ天国てんごくとなる。

2017ねん平成へいせい29ねん)の正月しょうがつさんにち参拝さんぱいきゃくやく145まんにん[7]

稚児ちご行列ぎょうれつ

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としに2かい春季しゅんき大祭たいさい(5がつ4にちから5がつ5にち)と秋季しゅうき大祭たいさい(11月22にちから11月23にち)に稚児ちご行列ぎょうれつおこなわれる。衣装いしょう一般いっぱんてきだが、化粧けしょう歌舞伎かぶき舞踊ぶようちか厚化粧あつげしょうとなり、巫女ふじょおもわせる熨斗のしかざりをける。

縁日えんにち

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月例げつれいさい毎月まいつき22にち。(妙厳寺たえがんじ開山かいさんの、旧暦きゅうれき11がつ22にち由来ゆらいする)

たままつり

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盆踊ぼんおどり。毎年まいとし8がつ7にちから8がつ8にちにかけておこなわれる。おも豊川とよかわ空襲くうしゅうでの犠牲ぎせいしゃれいなぐさめるもよおし。

境内けいだい

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総門そうもん
さいさち殿どの書院しょいん
寺宝じほうかん
れい狐塚きつねづか
妙厳寺たえがんじ庭園ていえん本殿ほんでん
豊川とよかわ稲荷いなり表参道おもてさんどう

建築けんちくぶつ

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  • 総門そうもん - 入母屋いりもやづくり唐破風からはふきのよんきゃくもん1884ねん明治めいじ17ねん建立こんりゅう
  • 山門さんもん - 入母屋いりもやづくり楼門ろうもん天文てんもん5ねん1536ねん)、今川いまがわ義元よしもとにより寄進きしんされる。
  • ほうどう - 「本堂ほんどう」とも。妙厳寺たえがんじ本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのんぞう安置あんち山門さんもんはいった正面しょうめん位置いちする。天保てんぽう年間ねんかん1830 - 1843ねん)の再建さいけん
  • 本殿ほんでん - とうてら信仰しんこう中心ちゅうしんになっている吒枳あまてんまつる。境内けいだい左手ひだりておく鳥居とりいをくぐったさきにある。入母屋いりもやづくり重層じゅうそう屋根やねつまいれだい規模きぼ堂宇どうう1908ねん明治めいじ41ねん)に着工ちゃっこうし、20ねん以上いじょうをかけて1930ねん昭和しょうわ5ねん)に竣工しゅんこうした。
  • 瑞祥ずいしょう殿どの - 信者しんじゃ接待せったいよう鉄骨てっこつづくかいての建物たてもので、1かいには休憩きゅうけいしつ、2かいには研修けんしゅう道場どうじょうや252じょう広間ひろまがある[8]2016ねん平成へいせい28ねん11月15にち建立こんりゅう
  • さいさち殿どの - 「書院しょいん」とも。信者しんじゃ接待せったいよう建物たてもので、内部ないぶには400じょう広間ひろまがある。1929ねん昭和しょうわ4ねん建立こんりゅう
  • 寺宝じほうかん - てら所蔵しょぞう文化財ぶんかざい保存ほぞん

境内けいだいには鎮守ちんじゅどう鐘楼しゅろうどうたからくも殿どのまんとうどう三重みえとう小規模しょうきぼ)、弘法ぐほうどう大黒おおくろどうおくいんけいくももんなどのしょどうがある。

その

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  • れい狐塚きつねづか(れいこづか) - 1,000たい以上いじょうきつね石像せきぞう安置あんちされている。
  • 慰霊いれい - 海軍かいぐん工廠こうしょう空爆くうばくくなった人々ひとびと慰霊いれい
  • 千本せんぼんのぼり(千本せんぼんはた) - 参道さんどうなら参拝さんぱいしゃねがごとかれた1,000ほんのぼり
  • 稲荷いなり公園こうえん - 境内けいだい一部いちぶ開放かいほうして整備せいび
  • 妙厳寺たえがんじ庭園ていえん
  • 豊川とよかわ高等こうとう学校がっこう - 豊川とよかわ稲荷いなり運営うんえい母体ぼたいとなっている。現在げんざい近郊きんこう移転いてん跡地あとち駐車ちゅうしゃじょうとした。

文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい

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交通こうつうアクセス

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豊川とよかわ稲荷いなり別院べついん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1954ねん昭和しょうわ29ねん4がつ1にちから40日間にちかん秘仏ひぶつ豊川とよかわ吒枳あまてん(だきにしんてん)」のご開帳かいちょう開催かいさいした[2]
  2. ^ さんだい稲荷いなり選定せんていには諸説しょせつあり一定いっていしていない。豊川とよかわ稲荷いなりではの2箇所かしょ伏見ふしみ稲荷いなり大社たいしゃゆうとく稲荷いなり神社じんじゃとしている(稲荷いなりしん#信仰しんこう参照さんしょう[よう出典しゅってん]
  3. ^ リンクさきのページは「荼枳あまてん」の表記ひょうきであるが、このページは妙厳寺たえがんじ表記ひょうきわせる。
  4. ^ 東海とうかい地方ちほうのこの門流もんりゅうとくに「普済寺ふさいじじゅうさん門派もんぱ」とぶ。えきはじめ、普済寺ふさいじじゅうさんにん高弟こうていがそれぞれ寺院じいん創建そうけん再建さいけんし、この地方ちほうにおける曹洞宗そうとうしゅう普及ふきゅうすすめた[よう出典しゅってん]
  5. ^ 織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし信仰しんこうしたともいわれるが、たしかな記録きろくにあることではない[よう出典しゅってん]
  6. ^ 大岡越前守おおおかえちぜんのかみ晩年ばんねんに1まんせき拝領はいりょうさんかわ西にし大平おおひらはん藩主はんしゅとなり、豊川とよかわ西にし大平おおひらはん領地りょうちとなった。この調しらべのさいに、しん政府せいふ妙厳寺たえがんじあいだはいったのも西にし大平おおひらはんである(廃藩置県はいはんちけんまで)[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h 宮沢みやざわ崇志たかし (2018ねん1がつ23にち). “ぐるり東海とうかい 愛知あいち豊川とよかわ稲荷いなり通信つうしん稲荷いなり」でもじつは「おてら」”. 朝日新聞あさひしんぶん (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ): p. 朝刊ちょうかん 名古屋なごや共通きょうつうばん 
  2. ^ a b c d 吉田よしだ幸雄ゆきお (2016ねん10がつ24にち). “現場げんばから 豊川とよかわ稲荷いなり秘仏ひぶつ開帳かいちょう 期待きたいたかまる にぎわい創出そうしゅつ 地域ちいき模索もさく”. 中日新聞ちゅうにちしんぶん (中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ): p. 朝刊ちょうかん 県内けんないばん 14 
  3. ^ 『るるぶ愛知あいち 名古屋なごや 知多ちた 三河そうご 瀬戸せと'24』JTBパブリッシング、2023ねん、119ぺーじ 
  4. ^ 地球ちきゅうあるかた編集へんしゅうしつ へん地球ちきゅうあるかた 日本にっぽん 2023~2024』2022ねん、516ぺーじ 
  5. ^ a b 新編しんぺん豊川とよかわ編集へんしゅう委員いいんかい 2011, p. 767.
  6. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい 1989, p. 1310.
  7. ^ 吉田よしだ幸雄ゆきお (2017ねん1がつ5にち). “豊川とよかわ稲荷いなり さんにち145まんにん 昨年さくねん2まんにんぞう もりあげたい活躍かつやく”. 中日新聞ちゅうにちしんぶん (中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ): p. 朝刊ちょうかん ひがし三河そうごばん 18 
  8. ^ 吉田よしだ幸雄ゆきお (2016ねん11月16にち). “瑞祥ずいしょう殿どの 完成かんせい法要ほうよう 豊川とよかわ稲荷いなり 秋季しゅうき大祭たいさい利用りようへ”. 中日新聞ちゅうにちしんぶん (中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ): p. 朝刊ちょうかん ひがしかわ総合そうごうばん 21 
  9. ^ 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう”. 愛知あいちけん. 2018ねん12月11にち閲覧えつらん

広報こうほう資料しりょう・プレスリリースなどいち資料しりょう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 23 愛知あいちけん角川書店かどかわしょてん、1989ねん 
  • 新編しんぺん豊川とよかわ編集へんしゅう委員いいんかい へん新編しんぺん豊川とよかわ だいかん 近世きんせい』2011ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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