真言宗しんごんしゅう

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空海くうかい

真言宗しんごんしゅう(しんごんしゅう)は、空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)によって9世紀せいき平安へいあん時代じだい初頭しょとうひらかれた大乗だいじょう仏教ぶっきょう宗派しゅうは日本にっぽん仏教ぶっきょうのひとつ。空海くうかい長安ながやすわたり、あおりゅうてら恵果けいかからまなんだ中国ちゅうごく密教みっきょうからみつ)を基盤きばんとしている。

空海くうかい著作ちょさく秘密ひみつ曼荼羅まんだらじゅうじゅうしんろん』『秘蔵ひぞうたから』で、当時とうじ伝来でんらいしていた仏教ぶっきょう各派かくは教学きょうがく一応いちおう評価ひょうかあたえつつも密教みっきょうさい上位じょういき、じゅう段階だんかい思想しそう体系たいけいなかんだ。最終さいしゅうてきには顕教けんぎょうくらべて、密教みっきょう真言しんごん密教みっきょう)の優位ゆういせい顕教けんぎょう思想しそう経典きょうてん真言しんごん密教みっきょう包摂ほうせつされることをいた。 天台てんだい密教みっきょうたいみつしょうするのにたいし、真言しんごん密教みっきょう東寺とうじ基盤きばんとしたのであずまひそかしょうする[1]教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ真言宗しんごんしゅう総本山そうほんざん)を総本山そうほんざんとしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

立教りっきょうひらきむね[編集へんしゅう]

金剛峯寺こんごうぶじおも殿どの和歌山わかやまけん高野たかのまち
東寺とうじ金堂こんどう京都きょうと京都きょうと

平安へいあん時代じだい初期しょき大同だいどう元年がんねん806ねん)、空海くうかい中国ちゅうごくとう)より帰朝きちょう。その空海くうかいは、ひろしひとし7ねん816ねん)に高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじおさむぜん道場どうじょうとしてひらきそうひろじん14ねん823ねん)には、嵯峨天皇さがてんのうよりみことのりたまものされた教王護国寺きょうおうごこくじ真言宗しんごんしゅう根本こんぽん道場どうじょうとしてむねだん確立かくりつした。同年どうねん東寺とうじたいして「真言宗しんごんしゅう定額ていがくそうじゅうくちき、他宗たしゅうそうざつじゅうきんじる」むねかんたまわった。また、淳和天皇じゅんなてんのうに「真言宗しんごんしゅうしょがくけいりつろん目録もくろく」をつくり、献上けんじょうした。

空海くうかい入定にゅうじょう[編集へんしゅう]

空海くうかい入定にゅうじょうさいし、住持じゅうじしていた寺院じいん弟子でしづけしょくした。

教王護国寺きょうおうごこくじじつとし金剛峯寺こんごうぶじしんしか神護かんごてら真済しんぜいあんさちてらめぐみうん寛平かんぺい法皇ほうおう宇多天皇うだてんのう開基かいきした仁和寺にわじ醍醐寺だいごじせいたから円成寺えんじょうじえきしんなどがあり、これらの寺院じいんとしぶんしゃ国家こっか公認こうにん僧侶そうりょ養成ようせい)を許可きょかされ、それぞれの寺院じいん独立どくりつした傾向けいこうっていった。のちに、東寺とうじ長者ちょうじゃ真言宗しんごんしゅう最高さいこう権威けんいしゃとする制度せいど確立かくりつする。

東寺とうじ高野たかのさん本末ほんまつあらそい)[編集へんしゅう]

かんけん東寺とうじ長者ちょうじゃ金剛峯寺こんごうぶじ座主ざすね、教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ本寺ほんじとし、金剛峯寺こんごうぶじ末寺まつじとする本末ほんまつ制度せいど確立かくりつ金剛峯寺こんごうぶじ本末ほんまつあらそいにけ、一時いちじてきではあるが、東寺とうじ長者ちょうじゃ真言宗しんごんしゅう統括とうかつすることになった。

高野たかのさん落雷らくらいにより伽藍がらんしょどう焼失しょうしつしたり、国司こくしによる押妨などにより衰微すいびし、無人むじん状態じょうたいになるまでにいたった。この状態じょうたい平安へいあん時代じだい中期ちゅうきまでつづくが、藤原ふじわら道長みちながこう野山のやま登山とざん山上さんじょう寺社じしゃ参詣さんけいすること)したことにより復興ふっこうすすみ、皇族こうぞく摂関せっかん公家くげ高野山こうのやまへの登山とざんつづいた。

その皇族こうぞく摂関せっかん公家くげなどによる経済けいざいてき支援しえんもあり、高野たかのさん財政ざいせいにおいても安定あんていしていった。

さとし鑁としん教学きょうがく[編集へんしゅう]

むねだんは、師資しし相承そうしょう重視じゅうしするため、事相じそう真言しんごん密教みっきょう実践じっせんするための作法さほう修法しゅほう作法さほうなど)のちがいにより分派ぶんぱしていった。ただし、教学きょうがく教義きょうぎ)そのものは空海くうかいにより大成たいせいされていたため、平安へいあん時代じだいなかばまでむねない論争ろんそうほとんどなかった。

11世紀せいきまつさとしきょうきょう大師だいし)は、だい伝法でんぼういん創建そうけん教学きょうがく振興しんこうのためにだい伝法でんぼうかい復興ふっこうおこなった。東寺とうじ支配しはいから高野たかのさん独立どくりつはかり、東寺とうじ長者ちょうじゃ金剛峯寺こんごうぶじ座主ざす兼職けんしょくする慣例かんれい廃止はいしし、金剛峯寺こんごうぶじ座主ざすにんぜられたが、金剛峯寺こんごうぶじかた本寺ほんじかた)の反発はんぱつ失敗しっぱいした。その座主ざすして根来ねごろさん和歌山わかやまけん)に隠棲いんせいした。これより、金剛峯寺こんごうぶじかた本寺ほんじかた)とさとし鑁のながれをだい伝法でんぼういんかたいんかた)とのあいだなが派閥はばつ抗争こうそうつづいた。両派りょうはは、真言宗しんごんしゅう)・しんしん真言宗しんごんしゅう)にかれていった。のちに両派りょうは教義きょうぎてきにも、いちみつ成仏じょうぶつほう説法せっぽうなどについてちがいがしょうじることとなる。

1290ねんせいおう3ねん)には、よりゆきだい伝法でんぼういん根来ねごろさんうつし、大日如来だいにちにょらい加持かじほうせつしん)をとなえて、しん真言宗しんごんしゅう教義きょうぎ基礎きそ確立かくりつした。

徳川とくがわ家康いえやす保護ほごけ、1601ねん慶長けいちょう6ねん)にげんなだめが、根来寺ねごろじにあった智積ちしゃくいん京都きょうと東山ひがしやまななじょう再建さいけんした。のちに真言宗しんごんしゅうさとしやま総本山そうほんざんとなった。

教学きょうがく振興しんこう[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい東寺とうじそう杲宝けんたから(げんぼう)らが東寺とうじもん教学きょうがく大成たいせいさせて、大日如来だいにちにょらい本地ほんじ加持かじせつ)をいた。高野たかのさんでは「おうひさし大成たいせい」としょうされる教学きょうがく発展はってんがあり、たからせいいんなだめこころよが而二もん(ににもん)の教学きょうがく無量むりょうことぶきいんちょうさとしもん教学きょうがく振興しんこうさせた。

江戸えど幕府ばくふによる統制とうせい戒律かいりつへの関心かんしん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいはいると、江戸えど幕府ばくふ仏教ぶっきょうかいたいしてあらたな宗教しゅうきょう統制とうせいこうじ、1604ねん慶長けいちょう14ねん)に関東かんとう真言宗しんごんしゅう法度はっとされた。

1615ねん元和がんわ元年がんねん)7がつ24にちには、徳川とくがわ家康いえやす真言宗しんごんしゅうしょ法度はっと真言宗しんごんしゅうしょ本山ほんざんしょてらたいしてし、幕府ばくふ監視かんしかれることになった。同時どうじに、幕府ばくふ宗教しゅうきょう政策せいさくであるてらだん制度せいど確立かくりつした。宗門しゅうもんあらためなどをおこなうことで行政ぎょうせい機関きかん役割やくわりたし、幕府ばくふ支配しはい体制たいせい完全かんぜんまれた。

てらだん制度せいどしょ本山ほんざん末寺まつじにとっては財政ざいせいてき安定あんていたが、一部いちぶしょ本山ほんざん末寺まつじ綱紀こうきのゆるみもきた。このことから、きよしいむ慈雲じうんらが戒律かいりつ関心かんしんをよせ、戒律かいりつ研鑽けんさん研究けんきゅうによる復興ふっこうおこなった。

はいふつ棄釈の打撃だげき余波よは[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん以降いこう神仏しんぶつ分離ぶんり推進すいしんされ、宮中きゅうちゅうでのみことのり修法しゅほうかい廃止はいしとなって、宮中きゅうちゅう行事ぎょうじにおける仏教ぶっきょうしょく排除はいじょはかられた。それにともなはいふつ棄釈おこり、真言宗しんごんしゅう寺院じいん本山もとやま末寺まつじにかかわらずおおきな打撃だげきけた。真言宗しんごんしゅうぞくしている神宮寺じんぐうじはいされて、神社じんじゃあらためられることもあった。僧籍そうせき離脱りだつして、神社じんじゃ神職しんしょくになったり、還俗げんぞくするそうあらわれた。政府せいふ寺院じいん所有しょゆうしている土地とち返納へんのう要求ようきゅうして、強制きょうせいてき返納へんのうまたは没収ぼっしゅう措置そちった。勅願ちょくがんしょ門跡もんぜき称号しょうごう禁止きんしされ、財政ざいせい基盤きばんうしなっておおくの寺院じいん関係かんけい廃寺はいじまれた。廃仏毀釈はいぶつきしゃく機運きうん仏教ぶっきょう各派かくは危機ききかんつのらせ、各派かくは団結だんけつして仏教ぶっきょう宣揚せんようして、邪論じゃろんはいすべくかくむね同盟どうめいかい結成けっせいした。1869ねん明治めいじ2ねん東京とうきょう大徳だいとくいんにて、かくむね同盟どうめいかい大会たいかい開催かいさいされ、高野山こうのやま明王みょうおう院主いんじゅ高岡たかおかぞうたかしされて盟主めいしゅとなった。神葬しんそうさいさかんであったため無住むじゅう寺院じいんえ、そのことでも廃寺はいじつづき、深刻しんこく事態じたいになっていった。

むねだん近代きんだい[編集へんしゅう]

霊雲寺れいうんじ山門やまかど東京とうきょう文京ぶんきょう

1872ねん明治めいじ5ねん)、真言宗しんごんしゅう統括とうかつすべく管長かんちょうしょく設置せっちされ、金剛峯寺こんごうぶじ住職じゅうしょく降魔ごうまけんとおるめいじられた。1873ねん明治めいじ6ねん)3がつ29にち太政官だじょうかんたちくだり、教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ金剛峯寺こんごうぶじりょうてらが、真言宗しんごんしゅうそう本寺ほんじさだめられた。

政府せいふ宗教しゅうきょう政策せいさくであるいちむねいち管長かんちょうせいが、よししん真言宗しんごんしゅうかく本山ほんざんにももとめられた。真言宗しんごんしゅうからは教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ金剛峯寺こんごうぶじが、しん真言宗しんごんしゅうからは智積ちしゃくいん長谷寺はせでら各々おのおの交替こうたい真言宗しんごんしゅう管長かんちょう就任しゅうにんすることになった。管長かんちょうぜん真言宗しんごんしゅう統括とうかつ宗務しゅうむたることとなり、真言宗しんごんしゅうにもいちむねいち管長かんちょうせい導入どうにゅうされることとなった。

しかし、1878ねん明治めいじ11ねん)、仁和寺にんなじ大覚寺だいかくじ広隆寺こうりゅうじ神護かんごてら西大寺さいだいじ法隆寺ほうりゅうじ唐招提寺とうしょうだいじ真言宗しんごんしゅうから離脱りだつし、仁和寺にわじない西部せいぶ真言宗しんごんしゅうしょうする宗派しゅうはてて、独自どくじ管長かんちょうく。また、しん真言宗しんごんしゅう智積ちしゃくいん長谷寺はせでら離脱りだつし、真言宗しんごんしゅうしんしょうして独自どくじ管長かんちょうき、真言宗しんごんしゅう金剛峰寺こんごうぶじ東寺とうじ合併がっぺいして、真言宗しんごんしゅうから真言宗しんごんしゅうしょうして独自どくじ管長かんちょういた。こうして、真言宗しんごんしゅういちむねいち管長かんちょうせい瓦解がかいして、西部せいぶ真言宗しんごんしゅう真言宗しんごんしゅうしん真言宗しんごんしゅうとなり、3にん管長かんちょう存在そんざいする状態じょうたいとなった。このことは、政府せいふるところとなり、内務省ないむしょうから、いちむねいち管長かんちょうせいるよう通達つうたつがあった。これをけ、霊雲寺れいうんじにおいて、しん合同ごうどう会議かいぎおこなわれた。結果けっか1879ねん明治めいじ12ねん)に正式せいしき合同ごうどうはかられた。あわせて、教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ総本山そうほんざんにして、長者ちょうじゃ称号しょうごうふくすることになった。

画一かくいつ宗派しゅうは分離ぶんり独立どくりつこうそう[編集へんしゅう]

1896ねん明治めいじ29ねん)、醍醐寺だいごじ真言宗しんごんしゅうからの分離ぶんり独立どくりつ金剛峯寺こんごうぶじ同様どうよう請願せいがんが、真言宗しんごんしゅうむねかい提出ていしゅつされた。この請願せいがん内務省ないむしょう審議しんぎされたが、結局けっきょく認可にんかとなった。

1899ねん明治めいじ32ねん)10がつ真言宗しんごんしゅうむねかいにて、画一かくいつ宗派しゅうは(かくいつしゅうは。よししん真言宗しんごんしゅう各派かくは合同ごうどう協力きょうりょくして、ぜん真言宗しんごんしゅう統括とうかつしていく)と分離ぶんり独立どくりつよししん真言宗しんごんしゅうかく本山ほんざんには、歴史れきしてき経緯けいい事相じそう真言しんごん密教みっきょう修法しゅほう儀礼ぎれい)の流派りゅうはちがいなどから、かく本山ほんざんごとで独自どくじ宗派しゅうはてて、むねだん維持いじしていく)のによる対立たいりつがあり、紛糾ふんきゅうした。

真言宗しんごんしゅう解体かいたいと「はち各派かくは」の分離ぶんり独立どくりつ[編集へんしゅう]

醍醐寺だいごじ金堂こんどう京都きょうと京都きょうと

1895ねん明治めいじ28ねん)6がつ真言しんごんりつむね(西大寺さいだいじ)にたいして独立どくりつ認可にんかされる。

1900ねん明治めいじ33ねん)9がつ真言宗しんごんしゅう高野たかの金剛峯寺こんごうぶじ)・真言宗しんごんしゅう御室おむろ仁和寺にんなじ)・真言宗しんごんしゅう大覚寺だいかくじ大覚寺だいかくじ)・真言宗しんごんしゅう醍醐だいご醍醐寺だいごじ)・しん真言宗しんごんしゅうさとしやま智積ちしゃくいん)・しん真言宗しんごんしゅう豊山とよやま長谷寺はせでら)・りつむねたいして独立どくりつ認可にんかされた。 さらに、1907ねん明治めいじ40ねん)、真言宗しんごんしゅう東寺とうじ東寺とうじ)・真言宗しんごんしゅう山階やましな勧修寺かんしゅうじ)・真言宗しんごんしゅう泉涌寺せんにゅうじ泉涌寺せんにゅうじ)・真言宗しんごんしゅう小野おのずいしんいん)が独立どくりつし、真言宗しんごんしゅう解体かいたいされた。

真言宗しんごんしゅう各派かくは独立どくりつにより、東寺とうじ真言宗しんごんしゅう総本山そうほんざんとする制度せいど終焉しゅうえんする。

真言宗しんごんしゅうけい宗派しゅうはは、はち真言宗しんごんしゅう高野たかの真言宗しんごんしゅう御室おむろ真言宗しんごんしゅう大覚寺だいかくじ真言宗しんごんしゅう東寺とうじ真言宗しんごんしゅう山階やましな真言宗しんごんしゅう泉涌寺せんにゅうじ真言宗しんごんしゅう醍醐だいご真言宗しんごんしゅう小野おの)となり、はち連合れんごう制度せいど組織そしきした。

1925ねん大正たいしょう14ねん)、はち連合れんごう制度せいど解体かいたいされ、宗派しゅうは自主じしゅ独立どくりつせいられた。

1926ねん大正たいしょう15ねん)、真言宗しんごんしゅう高野たかの真言宗しんごんしゅう御室おむろ真言宗しんごんしゅう大覚寺だいかくじは、合同ごうどうして真言宗しんごんしゅう組織そしきした。真言宗しんごんしゅうはほかの真言宗しんごんしゅうけい宗派しゅうはとのあいだ真言宗しんごんしゅう各派かくは協約きょうやく締結ていけつし、教師きょうし住職じゅうしょく人材じんざい交流こうりゅう相互そうご協力きょうりょくおこなった。

だい真言宗しんごんしゅう戦時せんじ戦後せんごむねだん[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそうした1941ねん昭和しょうわ16ねん)3がつ政府せいふ宗教しゅうきょう政策せいさくにより真言宗しんごんしゅうしん真言宗しんごんしゅうけい宗派しゅうは合同ごうどうし、だい真言宗しんごんしゅう成立せいりつする。政府せいふ主導しゅどうによりこれまでの歴史れきしてき経緯けいい教義きょうぎちがいを無視むしして無理むりやり合同ごうどうさせた。戦時せんじちゅうは、敵国てきこく降伏ごうぶく祈祷きとうだい真言宗しんごんしゅうかく本山ほんざん末寺まつじにおいて度々どどおこなわれた。

戦後せんごだい真言宗しんごんしゅうから独立どくりつしていく真言宗しんごんしゅうしん真言宗しんごんしゅう宗派しゅうは相次あいついだ。あたらしい宗教しゅうきょう法人ほうじん制度せいど制定せいていされ、そのうごきは加速かそくした。よししんしょ宗派しゅうはからさらわかれ、修験しゅげんどう儒教じゅきょう道教どうきょうひとしわさって独自どくじ教義きょうぎとなえ、真言宗しんごんしゅうけいしん宗教しゅうきょう分類ぶんるいされる宗教しゅうきょう団体だんたいいくつか成立せいりつした。真言宗しんごんしゅう醍醐だいごぞくしていた伊藤いとうしんじょう真如苑しんにょえんひらいた。これらの団体だんたいは、仏教ぶっきょうけいしん宗教しゅうきょうことなり、真言宗しんごんしゅうとの関係かんけいはおおむね良好りょうこうである。

大師だいし信仰しんこう[編集へんしゅう]

宗祖しゅうそ空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)への敬慕けいぼあつく、10世紀せいきには高野たかのさん空海くうかい入定にゅうじょう信仰しんこうこり、弘法大師こうぼうだいし信仰しんこう大師だいし信仰しんこう)をいている。

弘法大師こうぼうだいし信仰しんこうたかまりのなかで、稚児ちご大師だいし修行しゅぎょう大師だいし入定にゅうじょう大師だいしさば大師だいしかぎ大師だいし日輪にちりん大師だいしなどで信仰しんこう対象たいしょうになった。

宗祖しゅうそ空海くうかいは、讃岐さぬきこく屏風びょうぶうらげん香川かがわけん善通寺ぜんつうじ)の出身しゅっしんで、仏教ぶっきょうしゃであるとともに思想家しそうか著述ちょじゅつ、また「さんぴつ」の1人ひとりかぞえられる能書のうがきとして、日本にっぽん文化ぶんか多大ただい影響えいきょうあたえた人物じんぶつである。かれのべれき23ねん(804ねん)、遣唐使けんとうしふね同乗どうじょうしてとうわたり、長安ながやすあおりゅうてら恵果けいかから密教みっきょう奥義おうぎさずかった。また、とうおおくの仏典ぶってん仏具ぶつぐ仏画ぶつがなどを日本にっぽん請来しょうらいした。

ひろじん7ねん(816ねん)には高野たかのさん和歌山わかやまけん伊都いとぐん高野たかのまち)のて、ここに金剛峯寺こんごうぶじひらけそうひろじん14ねん(823ねん)には、平安京へいあんきょうかんてらであった東寺とうじ嵯峨天皇さがてんのうより下賜かしされ、これらりょうてら真言しんごん密教みっきょう根本こんぽん道場どうじょうとした。

835ねんうけたまわ2ねん3月21にちに、62さい高野たかのさん入定にゅうじょうした。空海くうかい入定にゅうじょうしてから86ねん延喜えんぎ21ねん921ねん)に、弘法大師こうぼうだいし諡号しごう醍醐天皇だいごてんのうよりおくられた。

真言しんごんはち[編集へんしゅう]

密教みっきょうインドこり、中国ちゅうごくて、空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)につたえられ、日本にっぽん独立どくりつした宗派しゅうはとして真言宗しんごんしゅうひらくまでに、はちつたえられたとする伝承でんしょうがあり、真言しんごんはち(しんごんはっそ)という。

づけほう(ふほう)のはちつて(でんじ)のはちふたつがあり、空海くうかい著作ちょさく秘密ひみつ曼荼羅まんだらきょうづけほうでん』『言付ことづけほうでん』で、真言しんごん密教みっきょう起源きげんづけほうななつてななづけほうつてはちうち弘法大師こうぼうだいしのぞなな)の伝記でんきづけほう系譜けいふしるしている。

真言宗しんごんしゅうのほとんどの寺院じいんは、本堂ほんどうなどに真言しんごんはち((つてはち)・絵像えぞう制作せいさくされることがおおい)がまつっているのが特徴とくちょうひとつである。

づけほうはち[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうほうりゅう正系せいけいしめしている。教主きょうしゅ大日如来だいにちにょらい説法せっぽう金剛こんごう薩埵がいて教法きょうほうこり、真言宗しんごんしゅうおしえがつたわった系譜けいふである。

  1. 大日如来だいにちにょらい(だいにちにょらい)
  2. きむつよし薩埵(こんごうさった)
  3. りゅうたけし菩薩ぼさつ(りゅうみょうぼさつ)
  4. りゅうさとし菩薩ぼさつ(りゅうちぼさつ)
  5. 金剛こんごうさとし三蔵さんぞう(こんごうちさんぞう)
  6. 不空ふくう三蔵さんぞう(ふくうさんぞう)
  7. 恵果けいか阿闍梨あじゃり(けいかあじゃり)
  8. 弘法大師こうぼうだいし

つてはち[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうおしえが日本にっぽんつたわるまでの歴史れきしかかわった8にん祖師そしづけほうはちのうち、ふつみことである大日如来だいにちにょらいきむつよし薩埵をのぞき、2人ふたり祖師そしくわえた。はち大師だいし(はっそだいし)ともしょうされる。

しるしむすんだり仏具ぶつぐなどをっているが、これはさとりの本質ほんしつをあらわしている。

  1. りゅうたけし菩薩ぼさつ大日如来だいにちにょらい直弟子じきでしきむつよし薩埵から密教みっきょう経典きょうてんさずかって、つたえたといわれている(さん鈷杵(さんこしょ)を右手みぎてっている)。
  2. りゅうさとし菩薩ぼさつりゅうたけしから密教みっきょうさずかった(経文きょうもん右手みぎてっている)。
  3. 金剛こんごうさとし三蔵さんぞう : インドでりゅうさとしから密教みっきょうまなんだのちとうわたり、『きむつよしいただきけい』をつたえる(数珠じゅず右手みぎてっている)。
  4. 不空ふくう三蔵さんぞう西域せいいきまれ。貿易ぼうえきしょう叔父おじれられてとうき、長安ながやす金剛こんごうさとし入門にゅうもん。『きむつよしいただきけい』を漢語かんご翻訳ほんやくし、灌頂道場どうじょうひらいた(そとばくしるし(げばくいん)をむすんでいる)。
  5. ぜんかしこ三蔵さんぞう(ぜんむいさんぞう : インドまれ。大乗だいじょう仏教ぶっきょうまなび、さらに密教みっきょうぐ。80さいになってとうわたり『だい日経にっけい』をつたえる(右手みぎてひとさしゆびてている) 。
  6. いちぎょう禅師ぜんじ(いちぎょうぜんじ): 中国ちゅうごくまれ。禅宗ぜんしゅう天台てんだい教学きょうがく天文学てんもんがく数学すうがくまなぶ。長安ながやすぜんかしこ入門にゅうもんし、ぜんかしこ口述こうじゅつをもとに『だい日経にっけい(だいにちきょうしょ)』を完成かんせいさせた(法衣ほうえのなかでしるしむすんでいる)。
  7. 恵果けいか阿闍梨あじゃり中国ちゅうごくまれ。金剛こんごうかい胎蔵かい両部りょうぶ密教みっきょういだ(椅子いすすわり、よこ童子どうじまちらせている)。
  8. 弘法大師こうぼうだいし恵果けいか阿闍梨あじゃりからきむつよし・胎蔵かい両部りょうぶさづけられ、日本にっぽんつたえて真言しんごん密教みっきょうひらいた。空海くうかい鈷杵(ごこしょ)を右手みぎてち、左手ひだりてには念珠ねんじゅっている)。
はち大師だいし光林寺こうりんじ

教義きょうぎ[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅう即身成仏そくしんじょうぶつみつげん国土こくどをその教義きょうぎとする。

中心ちゅうしんとする本尊ほんぞんは、宇宙うちゅう本体ほんたいであり絶対ぜったい真理しんりである大日如来だいにちにょらい

教理きょうりとして、4つ。ろくだいろくだい縁起えんぎ)のおしえ、曼荼羅まんだらおしえ、さんみつ修行しゅぎょうと、上記じょうき即身成仏そくしんじょうぶつる。

教学きょうがくとして、大日だいにちけい教学きょうがくと、きむつよしいただきけい教学きょうがく、2つの おけいかれるおしえが、根本こんぽんしょとされる。

事相じそうきょうしょう[編集へんしゅう]

真言しんごん密教みっきょうまなんでいくうえで、事相じそう(じそう)ときょうしょう(きょうそう)が重要じゅうようされる。

事相じそうとは、真言しんごん密教みっきょう実践じっせんする方法ほうほう、すなわち修法しゅほう作法さほう灌頂護摩ごま観法かんぽうしるしちぎり真言しんごんなどの行法ぎょうほう)をす。これにたいし、きょうしょうとは、真言しんごん密教みっきょう理論りろんである。

きょうしょうまなんでいくことで、真言しんごん密教みっきょう理論りろん理解りかいし、理論りろん実践じっせんする方法ほうほうおこなうために事相じそうまなぶ。きょうしょう裏付うらづけのない、事相じそう無意味むいみ動作どうさになってしまうという。

事相じそうきょうしょう両方りょうほうまなばなければ、真言しんごん密教みっきょう理想りそうとする境地きょうちへの到達とうたつ出来できないとされている。事相じそうきょうしょう両方りょうほう習得しゅうとくする重要じゅうようせいくたとえとして、事相じそうきょうしょうくるま両輪りょうりんえて場合ばあいがある。また、慈雲じうんは「事相じそうはなれてきょうしょうなく、きょうしょうはなれて事相じそうなし、こときょう一致いっちして、みつをつくすべき」とべた。

9世紀せいきなかば(平安へいあん時代じだい前期ぜんき律令りつりょう制度せいどから王朝おうちょう国家こっかいた転換期てんかんき)から、事相じそう研究けんきゅうさかんとなった。えきしんはじまる広沢ひろさわりゅう(ひろさわりゅう)、せいたからとする小野おのりゅう(おのりゅう)がこった。両派りょうはは、それぞれろくりゅうかれて、野沢のざわじゅうりゅう根本こんぽんじゅうりゅう)になり、やがてさんじゅうろくりゅうになった。そのほうりゅうは、あわせて100あまりをかぞえた。真言しんごん密教みっきょう事相じそう流派りゅうはは、すべて、広沢ひろさわりゅう小野おのりゅう二流にりゅうからかれた。

広沢ひろさわりゅう小野おのりゅう野沢のざわじゅうりゅう[編集へんしゅう]

平安へいあん中期ちゅうきえきしんはじまる広沢ひろさわりゅうせいたから始祖しそとする小野おのりゅうこった。両派りょうはは、それぞれろくりゅうかれて、野沢のざわじゅうりゅう(やたくじゅうにりゅう)、または、根本こんぽんじゅうりゅうしょうされる。

野沢のざわじゅうりゅう定義ていぎでは、持明院じみょういんりゅう広沢ひろさわりゅうれない。また、中院なかのいんりゅう小野おのりゅうれない。いずれのほうりゅうも、高野たかのさんうつったためである。これは、ななにち修法しゅほうなどおおやけ請の修法しゅほう関与かんよしないために区別くべつされただけで、野沢のざわじゅうりゅうは、ひがし密事みつじしょうほうりゅうをすべてをしめしたものではない。

広沢ひろさわりゅう[編集へんしゅう]

特徴とくちょうは、軌をおもんじる。ひろしあさ建立こんりゅうした京都きょうと右京うきょう嵯峨広沢さがひろさわにある広沢ひろさわいけみなみにある遍照寺へんしょうじ所在地しょざいちめい語源ごげんとなっている。

広義こうぎでは、ひがし密事みつじしょうを2ふんした場合ばあい小野おのりゅうたいをなすほうりゅう狭義きょうぎでは、広沢ひろさわりゅうないほうりゅう仁和にわ三流さんりゅう広沢ひろさわ三流さんりゅうをあわせて広沢ひろさわろくりゅうしょうする。しかし、ろくりゅうぞくするほうりゅう一定いっていしておらず、観音かんのんいんりゅう仁和にわ御流おながれけいきたいんりゅう慈尊院じそんいんりゅうなどをれるせつもある。寿ことぶきいんりゅう仁和にわ御流おながれ西院さいいんりゅう(にしのいんりゅう)を仁和にわ三流さんりゅうしょうし、はなぞういんりゅう忍辱山にんにくせんりゅう(にんにくせんりゅう)・伝法でんぼういんりゅう広沢ひろさわ三流さんりゅうしょうする。

  • 広沢ひろさわりゅうけい流派りゅうはりゃく系譜けいふ
    • 仁和にわ御流おながれりゃく系譜けいふさとしほう空海くうかい-みやび-みなもとひとし-えきしん-寛平かんぺい法皇ほうおう宇多天皇うだてんのう)-ひろしあさ-すみしん-せいしん-ひろしすけ-さとしほう
    • 西院さいいんりゅうりゃく系譜けいふ (しんしょう空海くうかい-みやび-みなもとひとし-えきしん-寛平かんぺい法皇ほうおう宇多天皇うだてんのう)-ひろしあさ-すみしん-せいしん-ひろしすけ-しんしょう
    • 寿ことぶきいんりゅうりゃく系譜けいふえいいわお空海くうかい-みやび-みなもとひとし-えきしん-寛平かんぺい法皇ほうおう宇多天皇うだてんのう)-ひろしあさ-すみしん-せいしん-ひろしすけ-えいいわお
    • はなぞういんりゅうりゃく系譜けいふひじりめぐみ空海くうかい-みやび-みなもとひとし-えきしん-寛平かんぺい法皇ほうおう宇多天皇うだてんのう)-ひろしあさ-すみしん-せいしん-ひろしすけ-ひじりめぐみ
    • 忍辱山にんにくせんりゅうりゃく系譜けいふひろしへん空海くうかい-みやび-みなもとひとし-えきしん-寛平かんぺい法皇ほうおう宇多天皇うだてんのう)-ひろしあさ-すみしん-せいしん-ひろしすけ-ひろしへん
    • 伝法でんぼういんりゅうりゃく系譜けいふさとし鑁) 空海くうかい-みやび-みなもとひとし-えきしん-寛平かんぺい法皇ほうおう宇多天皇うだてんのう)-ひろしあさ-すみしん-せいしん-ひろしすけ-さとし

小野おのりゅう[編集へんしゅう]

小野おのりゅうは、真言宗しんごんしゅう善通寺ぜんつうじ大本山だいほんざんずいしんいん旧称きゅうしょう曼荼羅まんだらてら)がある京都きょうと山科やましな小野おの語源ごげんとなっている。せいたから小野おのりゅう元祖がんそずいしんいんひらけそうした仁海にんかい小野おのりゅうりゅうとする場合ばあいもある。口伝くでん口訣くけつおもじるのが特徴とくちょうである。

広義こうぎでは、ひがし密事みつじしょうを2ふんした場合ばあい広沢ひろさわりゅうたいをなすほうりゅう狭義きょうぎでは、小野おのりゅうない流派りゅうは醍醐だいごさんりゅう理性りせいいんりゅう三宝さんぼういんりゅう金剛こんごうおういんりゅう)と勧修寺かんしゅうじ三流さんりゅうずいしんいんりゅうあんさちてらりゅう勧修寺かんしゅうじりゅう)をす。たんずいしんいんりゅうのみを場合ばあいもある。

  • 小野おのりゅうけい流派りゅうはりゃく系譜けいふ
    • あんさちてらりゅうりゃく系譜けいふ (そう空海くうかい-みやび-みなもとひとし-せいたから-かんけん-仁海にんかい-なりみこと-はんしゅん-いむさとし-そう
    • 勧修寺かんしゅうじりゅうりゃく系譜けいふ (ひろししん空海くうかい-みやび-みなもとひとし-せいたから-かんけん-仁海にんかい-なるみこと-はんしゅん-いむさとし-ひろししん
    • ずいしんいんりゅうりゃく系譜けいふ (ぞうしゅん空海くうかい-みやび-みなもとひとし-せいたから-かんけん-仁海にんかい-なるみこと-はんしゅん-いむさとし-ぞうしゅん
    • 三宝さんぼういんりゅうりゃく系譜けいふ (ていうみ空海くうかい-みやび-みなもとひとし-せいたから-かんけん-仁海にんかい-なるみこと-義範よしのり-かつさとし-ていうみ
    • 理性りせいいんりゅうりゃく系譜けいふ (賢覚けんかく空海くうかい-みやび-みなもとひとし-せいたから-かんけん-仁海にんかい-なるみこと-義範よしのり-かつさとし-賢覚けんかく
    • 金剛こんごうおういんりゅうりゃく系譜けいふ聖賢せいけん空海くうかい-みやび-みなもとひとし-せいたから-かんけん-仁海にんかい-なるみこと-義範よしのり-かつさとし-聖賢せいけん

しん[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅう日本にっぽん仏教ぶっきょう宗派しゅうはなかでは分派ぶんぱおおいものの1つである。13世紀せいきまつ真言宗しんごんしゅうしん真言宗しんごんしゅうわかれ、さらにそこから多種たしゅ多様たよう教義きょうぎ展開てんかいして現在げんざいいたっているのが特徴とくちょうである。

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大日如来だいにちにょらい本地ほんじほうせつ教学きょうがく)による。現実げんじつ世界せかい一事いちじ一物いちもつほう真理しんりそのものをふつ身体しんたいとみなす)の大日如来だいにちにょらい説法せっぽうであるといている。

しん[編集へんしゅう]

さとし鑁(きょうきょう大師だいし)をとし、大日如来だいにちにょらい加持かじせつ教学きょうがくしん)による。現実げんじつ世界せかい一事いちじ一物いちもつは、加持かじ大日如来だいにちにょらい説法せっぽうであるといている。

真言宗しんごんしゅう各派かくはそう大本山だいほんざんかいかくやまかい[編集へんしゅう]

昭和しょうわ14ねん1939ねん)の宗教しゅうきょう団体だんたいほう成立せいりつにより、真言しんごんりつむね以外いがい宗派しゅうは真言宗しんごんしゅうとして統合とうごうされた。しかし、戦後せんご分派ぶんぱ独立どくりつ相継あいつぎ、現在げんざいやく50の宗派しゅうはがある。そのうち主要しゅような16の18のそう大本山だいほんざんが、昭和しょうわ33ねん1958ねん6月15にちに、真言宗しんごんしゅう各派かくはそう大本山だいほんざんかいかくやまかい)をかくやま連絡れんらく親睦しんぼく共通きょうつう事業じぎょう主宰しゅさい目的もくてき結成けっせいされた。これらの寺院じいん真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざんという。

  • 真言宗しんごんしゅう各派かくはそう大本山だいほんざんかい事務じむきょく - 総本山そうほんざん智積ちしゃくいんうち事務じむ局長きょくちょう主事しゅじ書記しょきく)
    • 代表だいひょう総務そうむ
    • 常任じょうにん委員いいんかい議長ぎちょうく。また、常任じょうにん委員いいんについては代理だいり出席しゅっせきゆるされている)
    • 事務じむ局長きょくちょう かくやまかい事務じむきょくいているさとしやまから選出せんしゅつするのが慣例かんれいとなっている。

真言宗しんごんしゅう長者ちょうじゃ[編集へんしゅう]

  • 真言宗しんごんしゅうない最高さいこう名誉めいよしょく真言宗しんごんしゅう代表だいひょうして、真言宗しんごんしゅう内外ないがい重要じゅうよう法会ほうえしょ行事ぎょうじ参列さんれつする。
  • 任期にんきは1年間ねんかん。そのとしこうななにち修法しゅほう修法しゅほう)のだい阿闍梨あじゃり真言宗しんごんしゅう長者ちょうじゃとなる。
  • 毎年まいとしかくやまかいぞくする真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざん管長かんちょう山主やまぬしなかから推戴すいたいで、毎年まいとし修法しゅほうななにち修法しゅほう)のだい阿闍梨あじゃり選出せんしゅつする。
  • 修法しゅほうなりみたしたのちかくやまかいから長者ちょうじゃつえおくられる。

真言宗しんごんしゅう長者ちょうじゃ歴代れきだい[編集へんしゅう]

  • 1968ねん 平野ひらのりゅうほう泉涌寺せんにゅうじだい150せい長老ちょうろう
  • 1969ねん 那須なす政隆まさたか智積ちしゃくいんだい60せいぬし
  • 1970ねん 木村きむらきよしさとし教王護国寺きょうおうごこくじだい254せい長者ちょうじゃ
  • 1971ねん 堀田ほったしんかい金剛峯寺こんごうぶじだい403せい座主ざす
  • 1972ねん 平林ひらばやしなだめだか長谷寺はせでらだい74せいぬし
  • 1973ねん もりたいえん仁和寺にんなじだい41せい門跡もんぜき
  • 1974ねん 松本まつもとみのるどう宝山寺ほうざんじだい18せい貫主かんしゅ
  • 1975ねん 石堂いしどうめぐみしゅん中山寺なかやまでら長老ちょうろう
  • 1976ねん せき尚道なおみち根来寺ねごろじだい38せい座主ざす
  • 1977ねん はちすせい善隆よしたか善通寺ぜんつうじだい55せい法主ほっしゅ
  • 1978ねん 川田かわたきよし長谷寺はせでらだい76せいぬし
  • 1979ねん 芙蓉ふようりょうじゅん智積ちしゃくいんだい62せいぬし
  • 1980ねん 田中たなか真弘まさひろあさまもる孫子まごこてらだい131せい法主ほっしゅ
  • 1981ねん 小松こまつみちえん泉涌寺せんにゅうじだい151せい長老ちょうろう
  • 1982ねん 立部たちべみずゆう仁和寺にんなじだい43せい門跡もんぜき
  • 1983ねん 上野うえのよりゆきさかえ智積ちしゃくいんだい63せいぬし
  • 1984ねん 松本まつもとみのるどう西大寺さいだいじだい69せい長老ちょうろう
  • 1985ねん 小峰こみねじゅんほまれ智積ちしゃくいんだい64せいぬし
  • 1986ねん 小林こばやしたかしひとし仁和寺にんなじだい44せい門跡もんぜき
  • 1987ねん 村主むらぬしめぐみかい中山寺なかやまでら長老ちょうろう
  • 1988ねん 勝又かつまたしゅんきょう長谷寺はせでらだい79せいぬし
  • 1989ねん 藤井ふじいりゅうこころ智積ちしゃくいんだい65せいぬし
  • 1990ねん 鈴木すずき凰永(あさまもる孫子まごこてらだい132せい法主ほっしゅ
  • 1991ねん 池田いけだ瑩輝(中山寺なかやまでら長老ちょうろう
  • 1992ねん 廣澤ひろさわ純孝すみたか根来寺ねごろじだい39せい座主ざす
  • 1993ねん 竹内たけうちたかしみね金剛峯寺こんごうぶじだい408せい座主ざす
  • 1994ねん 小林こばやしうみとおる泉涌寺せんにゅうじだい152せい長老ちょうろう
  • 1995ねん 吉田よしだしゅんほまれ長谷寺はせでらだい81せいぬし
  • 1996ねん 吉田よしだ裕信ひろのぶ仁和寺にんなじだい47せい門跡もんぜき
  • 1997ねん 野澤のざわひそかいむあさまもる孫子まごこてらだい133せい法主ほっしゅ
  • 1998ねん 麻生あそう文雄ふみお醍醐寺だいごじだい102せい座主ざす
  • 1999ねん 稲葉いなば信隆のぶたか根来寺ねごろじだい41せい座主ざす
  • 2000ねん 和田わだゆうげん金剛峯寺こんごうぶじだい410せい座主ざす
  • 2001ねん だかよしきよしじゅん善通寺ぜんつうじだい56せい法主ほっしゅ
  • 2002ねん ほりさとしはん仁和寺にんなじだい47せい門跡もんぜき
  • 2003ねん 川田かわたきよしじょう長谷寺はせでらだい83せいぬし
  • 2004ねん 片山かたやまなだめゆう大覚寺だいかくじだい60せい門跡もんぜき
  • 2005ねん 宮坂みやさかなだめかち智積ちしゃくいんだい68せいぬし
  • 2006ねん 佐藤さとうれいむべ仁和寺にんなじだい48せい門跡もんぜき
  • 2007ねん 大矢おおやみのるえん宝山寺ほうざんじだい19せい貫主かんしゅ
  • 2008ねん 上村うえむら貞郎さだお泉涌寺せんにゅうじだい154せい長老ちょうろう
  • 2009ねん 阿部あべ龍文たつふみ智積ちしゃくいんだい69せいぬし
  • 2010ねん 松長まつながゆうけい金剛峯寺こんごうぶじだい412せい座主ざす
  • 2011ねん みなみあげどう仁和寺にんなじだい49せい門跡もんぜき
  • 2012ねん 樫原かしわらぜんきよし善通寺ぜんつうじだい57せい法主ほっしゅ
  • 2013ねん 亀谷かめたにあきらえいずいしんいんだい43せい門跡もんぜき
  • 2014ねん 加藤かとう精一せいいち長谷寺はせでらだい86せいぬし
  • 2015ねん 立部たちべゆうどう仁和寺にんなじだい50せい門跡もんぜき
  • 2016ねん 仲田なかたじゅん醍醐寺だいごじだい103せい座主ざす
  • 2017ねん 小峰こみねはじめまこと智積ちしゃくいんだい71せいぬし
  • 2018ねん 黒沢くろさわぜん紹(大覚寺だいかくじだい63せい門跡もんぜき
  • 2019ねん 田代たしろひろしきょう長谷寺はせでらだい87せいぬし
  • 2020ねん 瀬川せかわ大秀おおひで仁和寺にんなじだい51せい門跡もんぜき
  • 2021ねん 布施ふせきよしとし智積ちしゃくいんだい72せいぬし
  • 2022ねん いけ泰道やすみち大覚寺だいかくじだい64せい門跡もんぜき
  • 2023ねん たかちょんたかし教王護国寺きょうおうごこくじだい258せい長者ちょうじゃ
  • 2024ねん かんさとしじゅん善通寺ぜんつうじだい58せい法主ほっしゅ
  • 2025ねん 長谷部はせべ真道まみち金剛峯寺こんごうぶじだい415せい座主ざす

かくやまかい参画さんかくする真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざん順不同じゅんふどう[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうけい
しん真言宗しんごんしゅうけい
真言しんごんりつむね

密教みっきょう学芸がくげいしょう密教みっきょう教化きょうかしょう[編集へんしゅう]

かくやまかい事業じぎょうとして、こうななにち修法しゅほうのほかに密教みっきょう学芸がくげいしょうおよ密教みっきょう教化きょうかしょう授与じゅよがある。受賞じゅしょうしゃ以下いかとおりである。

密教みっきょう学芸がくげいしょう[編集へんしゅう]

  1. 1961ねん長谷ながたにたからしげる栂尾つがおさちくもしょう野立のだちみょう安間あんま立雄りつお神林かんばやしたかしきよし
  2. 1962ねん鈴木すずきさとしべん那須なす政隆まさたか大正大学たいしょうだいがく学長がくちょう)・堂本どうもと印象いんしょう
  3. 1963ねん大山おおやまこうあつし勝又かつまたしゅんきょう伊藤いとうひさ
  4. 1964ねん岩原いわはらたいしん渡辺わたなべあきらひろし東洋大学とうようだいがく教授きょうじゅ)・辻井つじいひろししゅう
  5. 1965ねん田中たなかうみおう干潟ひかたりゅうさち文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい古文書こもんじょ調査ちょうさ特別とくべつ調査ちょうさはん
  6. 1966ねん守山もりやまきよししん
  7. 1967ねん佐和さわたかしけん京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく教授きょうじゅ
  8. 1968ねん小田おだ慈舟(高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  9. 1969ねん青木あおきとおるこう円通寺えんつうじ住職じゅうしょく)・服部はっとり如実にょじつ種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ)・芙蓉ふようりょうじゅん大正大学たいしょうだいがく学長がくちょう
  10. 1970ねん櫛田くしたりょうひろし大正大学たいしょうだいがく学長がくちょう
  11. 1972ねんかじ芳光よしみつくも大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・中川なかがわよしきょう高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  12. 1973ねん田久保たくぼしゅうほまれぶくせいてら住職じゅうしょく)・山本やまもとさとしきょう高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  13. 1974ねん酒井さかいしんてん高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  14. 1975ねん高橋たかはしなだめじゅんかんさとしいん住職じゅうしょく
  15. 1976ねん堀内ほりうち寛仁ひろひと高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ)・宮坂みやさかなだめかち名古屋大学なごやだいがく教授きょうじゅ
  16. 1977ねん加藤かとう章一しょういち大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・大森おおもり健二けんじ(財)ざいだんほうじん建築けんちく研究けんきゅう協会きょうかい
  17. 1978ねん金岡かなおかしげるとも東洋大学とうようだいがく教授きょうじゅ)・ 松長まつながゆうけい高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  18. 1980ねん高田たかだひとしさとし高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ)・高木たかぎしんもと高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  19. 1981ねん伊原いはらあきらはちす九州大学きゅうしゅうだいがく教授きょうじゅ)・羽毛田うもうだ義人よしひとコロンビア大学ころんびあだいがく教授きょうじゅ
  20. 1982ねん松尾まつおよしうみ京都大学きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)・吉原よしはらさかえさとし神戸商船大学こうべしょうせんだいがく教授きょうじゅ
  21. 1983ねんかずしゅうじょう高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  22. 1984ねん高井たかい隆秀たかひで種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ)・田村たむらたかしあきら京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく教授きょうじゅ
  23. 1985ねん藤井ふじいりゅうこころ種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ
  24. 1986ねん永井ながい義憲よしのり大妻女子大学おおつまじょしだいがく教授きょうじゅ
  25. 1987ねん(財)ざいだんほうじん美術びじゅついん国宝こくほう修理しゅうりしょ
  26. 1988ねん吉井よしいかおるじゅん清水寺きよみずでら住職じゅうしょく)・手嶋てじませんしゅん御室おむろりゅうはなつとむちょう (財)ざいだんほうじん京都きょうと芸術げいじゅつ協会きょうかい
  27. 1989ねん高見たかみひろしきょう萬福寺まんぷくじ住職じゅうしょく
  28. 1990ねん加藤かとうなだめゆう種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ)・山崎やまざき泰廣やすひろ種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ
  29. 1991ねんしゅうふじ真雄まさおはやしあきらてら住職じゅうしょく)・三神みかみさかえのぼりさとしやまこうでんしょ
  30. 1992ねんかべ灌雄(種智院大学しゅちいんだいがく助教授じょきょうじゅ)・日野西ひのにしじょう高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ)・上田うえだれいじょう延命寺えんめいじ住職じゅうしょく
  31. 1993ねん川原かわはらさかえほう早稲田大学わせだだいがく教授きょうじゅ
  32. 1994ねん牧尾まきおりょううみ大正大学たいしょうだいがく学長がくちょう)・村主むらぬしめぐみかい追手門学院大学おうてもんがくいんだいがく教授きょうじゅ)・みつおおとりしま高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ)・あずま智學ちがく高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  33. 1995ねん佐藤さとうりょうもりさとしやまこうでんしょ山形やまがた地蔵寺じぞうじ住職じゅうしょく)・加藤かとう精一せいいち大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・よりゆき富本とみもとひろし種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ
  34. 1996ねん和田わだひとしみやび龍華りゅうげてら住職じゅうしょく)・佐藤さとうたかしけん大正大学たいしょうだいがく学長がくちょう)・かしわもと弘雄ひろお松阪女子短期大学まつざかじょしたんきだいがく教授きょうじゅ)・川崎かわさきしんじょう筑波大学つくばだいがく教授きょうじゅ
  35. 1997ねん鳥越とりこし正道せいどう神泉しんせんいん住職じゅうしょく種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ)・吉田よしだひろし大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・加藤かとうじゅんあきら名古屋大学なごやだいがく教授きょうじゅ
  36. 1998ねん上山うえやま春平しゅんぺい京都大学きょうとだいがく教授きょうじゅ)・齋藤さいとう昭俊あきとし大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・橋本はしもと初子はつこ大谷大学おおたにだいがく教授きょうじゅ)・津田つだしんおもね国際こくさい仏教ぶっきょうがく大学院だいがくいん大学だいがく教授きょうじゅ
  37. 1999ねん上島うえしまゆう花園大学はなぞのだいがく教授きょうじゅ)・小野塚おのづかいくきよし大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・岡村おかむらけいしん高知大学こうちだいがく教授きょうじゅ)・せい慈圓じえん高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ
  38. 2000ねん金田一きんだいち春彦はるひこ玉川大学たまがわだいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ)・北条ほうじょう賢三けんぞう大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・浜田はまだ泰介たいすけ日本にっぽん画家がか)・村上むらかみたもつことぶき山口大学やまぐちだいがく教授きょうじゅ
  39. 2001ねん松崎まつざきめぐみすい大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・村岡むらおかそら光明寺こうみょうじ名誉めいよ住職じゅうしょく)・福田ふくだあきらなり大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ)・北村きたむらふとしどう種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ)・真鍋まなべしゅんあきらたからせん短期大学たんきだいがく学長がくちょう
  40. 2002ねん辻井つじいひろしきゅう嵯峨さが御所ごしょ華道かどう総司そうししょふく総裁そうさい)・池口いけぐちめぐみかん最福寺さいふくじ法主ほっしゅ
  41. 2003ねん稲葉いなばよしたけし高野たかの山本やまもとさとしいん住職じゅうしょく
  42. 2004ねん吉田よしだひろし如(せいきょうてら住職じゅうしょく
  43. 2005ねん該当がいとうなし
  44. 2006ねん該当がいとうなし
  45. 2007ねん越智おち淳仁じゅんにん高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ)・小峰こみね彌彦やひこ大正大学たいしょうだいがく学長がくちょう
  46. 2008ねん児玉こだま義隆よしたか種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ
  47. 2009ねん梅原うめはらたけし京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ
  48. 2010ねん該当がいとうなし
  49. 2011ねん目黒めぐろ宗光むねみつ萬善寺ばんぜんじ住職じゅうしょく)、布施ふせきよしとしさとしやまこうでんしょ)、中村なかむら幸真ゆきまさ種智院大学しゅちいんだいがく教授きょうじゅ)、長谷ながたにほう寿ことぶきけんこうづくりふつ所所しょしょぬし
  50. 2012ねん岡田おかだおさむかつ嵯峨さが御流おながれ華道かどう総司そうししょはなつとむちょう)、廣澤ひろさわ隆之たかゆき大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅさとしさん伝法でんぼう院長いんちょう
  51. 2013ねん松本まつもとあきらけい大東文化大学だいとうぶんかだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)、星野ほしの英紀ひでのり大正大学たいしょうだいがく学長がくちょう
  52. 2014ねん真保しんぼりゅうたかし善養寺ぜんようじ住職じゅうしょく)、大澤おおさわきよしひろし豊山とよやま総合そうごう研究けんきゅういん教授きょうじゅ)、生井いくいさとし紹(高野山大学こうやさんだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ
  53. 2015ねん松本まつもとしゅんあきら三重みえ真福寺しんふくじ住職じゅうしょく)、高橋たかはし尚夫ひさお大正大学たいしょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ豊山とよやま総合そうごう研究けんきゅういんそうまなぶ研究所けんきゅうじょ所長しょちょう)、苫米地とまべち誠一せいいち大正大学たいしょうだいがく教授きょうじゅ
  54. 2016ねん木南きなみたくいち帝塚山大学てづかやまだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ平井ひらいなだめけい大正大学たいしょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)、小山こやまのりいさむ大正大学たいしょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)、うしおひろしけん種智院大学しゅちいんだいがくとくにん教授きょうじゅ)、中川なかがわ紀子のりこしん真言宗しんごんしゅう総本山そうほんざん根来寺ねごろじ文化ぶんか研究所けんきゅうじょ所長しょちょう
  55. 2017ねん永村ながむらしん日本女子大にほんじょしだい名誉めいよ教授きょうじゅ)、藤田ふじた光寛みつひろ高野山大こうやさんだい名誉めいよ教授きょうじゅ)、本多ほんだたかしひとし大正大学たいしょうだいがくもと教授きょうじゅ)、大塚おおつか慈伸(大正大たいしょうだい学長がくちょう
  56. 2018ねん宮坂みやさかなだめひろしさとしさん伝法でんぼういん院長いんちょう)、木村きむら秀明ひであき大正大学たいしょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ
  57. 2019ねんさかき義孝よしたか大正大学たいしょうだいがくもとふく学長がくちょう)、山陰さんいん春夫はるお高野山大学こうやさんだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ

密教みっきょう教化きょうかしょう[編集へんしゅう]

こうななにち修法しゅほう[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅう各派かくはそう大本山だいほんざんかい所属しょぞくかく宗派しゅうは管長かんちょう山主やまぬし真言宗しんごんしゅう各派かくはそう大本山だいほんざんかい所属しょぞくかく宗派しゅうはからえらんだ定額ていがくそうにより、毎年まいとし1がつ8にちから1がつ14にちまでのいち週間しゅうかん(21)にわたって、東寺とうじ・灌頂いんにてのちななにち修法しゅほう(ごしちにちみしほ)をおこなっている。真言宗しんごんしゅう最高さいこうとされている。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

こうななにち修法しゅほう真言しんごんいん修法しゅほう(しんごんいんみしほ)などとばれ、通称つうしょう修法しゅほう(みしほ・みしゅほう)とばれている。真言宗しんごんしゅう最高さいこういむただしとされる。

正月しょうがつ1にちから7にちまで宮中きゅうちゅうおこなわれている、神事しんじである宮中きゅうちゅうまえななにちぶしかいたいする行事ぎょうじ834ねんうけたまわ元年がんねん)に、仁明天皇にんみょうてんのうみことのりほうじて、空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)が宮中きゅうちゅう真言しんごんいんにて、国家こっか安泰あんたい玉体ぎょくたい安穏あんのん(ぎょくたいあんのん)・五穀ごこく豊穣ほうじょう万民ばんみん豊楽ほうらく(ばんみんぶらく)をいのっておこなわれてから、毎年まいとし宮中きゅうちゅう恒例こうれい行事ぎょうじとして正月しょうがつおこなわれていた。

南北なんぼくあさ時代じだい戦乱せんらん地震じしんなどをふくめて、すう中断ちゅうだんする時期じきがあったが、後水尾天皇ごみずのおてんのう醍醐寺だいごじ座主ざすえんじ尽力じんりょくにより、1623ねん元和がんわ9ねん)に170ねんぶりに復活ふっかつされた。1871ねん明治めいじ4ねん)にはいふつ棄釈の影響えいきょうにより廃止はいしされるまでおこなわれていた。

しゃく雲照うんしょうらの嘆願たんがんにより、1883ねん明治めいじ16ねん)1がつ8にち復活ふっかつした。そのときから、修法しゅほうおこな場所ばしょ宮中きゅうちゅうから東寺とうじ・灌頂いんうつした。

1920ねん大正たいしょう9ねん以降いこうは、真言宗しんごんしゅうしん真言宗しんごんしゅうかく本山ほんざん協同きょうどうして修法しゅほうおこなうようになった。

1968ねんより、かくやまかい事業じぎょうとなった。

次第しだい[編集へんしゅう]

修法しゅほうは、合計ごうけい21ヶおこなわれる。勧修寺かんしゅうじながれ金剛こんごうかいほう)と西院さいいんりゅう(胎蔵かいほう)のりょうかいを1ねんきに交互こうごしゅうし、息災そくさい増益ぞうえき護摩ごま五大ごだい明王みょうおう十二天じゅうにてん聖天しょうてんほうなどをあわせてしゅうする。

前日ぜんじつの7にち修法しゅほう出仕しゅっしするきょうそうが、東寺とうじ集会しゅうかいしょで習礼をおこなう。

初日しょにちひらきしろ)の1がつ8にちには、宮内庁くないちょうより、天皇てんのう御衣おんぞおさめた唐櫃からびつ捧持ほうじした勅使ちょくし東寺とうじ・灌頂いんつかわして、御衣おんぞ東寺とうじ灌頂いん道場どうじょううちどう瑜伽ゆが壇上だんじょう安置あんちする。

11にち中日ちゅうにち)・14にち結願けちがん)は勅使ちょくしが、東寺とうじ・灌頂いん道場どうじょうにおいて焼香しょうこうし、参拝さんぱいをされる。同日どうじつ14にち勅使ちょくし御衣おんぞ奉還ほうかん儀式ぎしき東寺とうじ灌頂いんぜんどうにておこない、こうななにち修法しゅほうなりまんする。

修法しゅほう使用しようする念珠ねんじゅ鈷杵・袈裟けさなどは、空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)がとう中国ちゅうごく)よりかえったほうである。以前いぜんは、東寺とうじ長者ちょうじゃだい阿闍梨あじゃりつとめていた。

結願けちがんかぎ東寺とうじ灌頂いん道場どうじょうへの一般いっぱん参拝さんぱいゆるされている。

  • 構成こうせい真言宗しんごんしゅう各派かくはそう大本山だいほんざんかい所属しょぞくかく宗派しゅうはより選出せんしゅつされたもの
    • 法務ほうむ法印ほういんだい阿闍梨あじゃり(1めい
    • かえ(1めい
    • 息災そくさい護摩ごまきょう(1めい
    • 増益ぞうえき護摩ごまきょう(1めい
    • 五大ごだいたかしきょう(1めい
    • 十二天じゅうにてんきょう(1めい
    • 聖天しょうてんきょう(1めい
    • かみきょう(1めい
    • あいだ観音かんのんきょう(1めい
    • 舎利しゃりもり(1めい
    • 咒頭(1めい
    • 伴僧ばんそう(4めい
  • 事務じむきょく
    • 別当べっとう(1めい
    • 大行事だいぎょうじ(1めい
    • しょう行事ぎょうじ(1めい
    • 局長きょくちょう(1めい
    • 総務そうむ(1めい
    • 用度ようど(1めい
    • うけたまわつかまつ(16めい
    • 随行ずいこう(17めい
    • 従弟じゅうてい(2めい
    • 定額ていがくそう
    • 修法しゅほう事務じむ局員きょくいん

真言宗しんごんしゅうけい大学だいがく[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうけい高等こうとう学校がっこう[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうけい中等ちゅうとう学校がっこうほかの由緒ゆいしょ[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうけい諸派しょは 総本山そうほんざん大本山だいほんざんかくやまかい所属しょぞく宗派しゅうは以外いがい[編集へんしゅう]

これらの宗派しゅうははほとんどが戦後せんご分離ぶんり独立どくりつであるが、寺院じいんそのものはふるくからあったものや新設しんせつされたものなど、さまざまである。

真言宗しんごんしゅうけい
しん真言宗しんごんしゅうけい
  • 室生寺むろうじ - 真言宗しんごんしゅう室生寺むろうじ大本山だいほんざん
  • 鑁阿てら - 真言宗しんごんしゅう大日だいにち根本こんぽん道場どうじょう
その真言宗しんごんしゅうけいしん宗教しゅうきょう教団きょうだん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざんリンク[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうけい諸派しょは本山もとやまリンク[編集へんしゅう]

真言宗しんごんしゅうけい大学だいがく[編集へんしゅう]