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唐招提寺とうしょうだいじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
唐招提寺とうしょうだいじ
金堂こんどう
所在地しょざいち 奈良ならけん奈良なら五条ごじょうまち13番地ばんち46ごう
位置いち 北緯ほくい3440ふん32.1びょう 東経とうけい13547ふん5.4びょう / 北緯ほくい34.675583 東経とうけい135.784833 / 34.675583; 135.784833座標ざひょう: 北緯ほくい3440ふん32.1びょう 東経とうけい13547ふん5.4びょう / 北緯ほくい34.675583 東経とうけい135.784833 / 34.675583; 135.784833
山号さんごう なし
宗派しゅうは りつむね
寺格じかく 総本山そうほんざん
本尊ほんぞん 盧舎那仏るしゃなぶつ国宝こくほう
創建そうけんねん 天平てんぴょうたから3ねん759ねん
開山かいさん 鑑真がんじん
中興ちゅうこうねん ひろしもと2ねん1244ねん
中興ちゅうこう さとしもり大悲だいひ菩薩ぼさつ
札所ふだしょとう 大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう だい26・27ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい24ばん奈良ならだい11ばん
文化財ぶんかざい 金堂こんどう講堂こうどう乾漆かんしつ鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞうほか(国宝こくほう
れいどう木造もくぞう弥勒みろく如来にょらい坐像ざぞう木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
世界せかい遺産いさん
公式こうしきサイト 唐招提寺とうしょうだいじ
法人ほうじん番号ばんごう 9150005000294 ウィキデータを編集
唐招提寺の位置(奈良市内)
唐招提寺
唐招提寺とうしょうだいじ
唐招提寺とうしょうだいじ (奈良なら)
唐招提寺の位置(日本内)
唐招提寺
唐招提寺とうしょうだいじ
唐招提寺とうしょうだいじ (日本にっぽん)
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唐招提寺とうしょうだいじてらもん

唐招提寺とうしょうだいじ(とうしょうだいじ)は、奈良ならけん奈良なら五条ごじょうまちにあるりつむね総本山そうほんざん寺院じいん山号さんごうはなし。本尊ほんぞん盧舎那仏るしゃなぶつ開基かいき創立そうりつしゃ)はとう出身しゅっしんそう鑑真がんじん[1]である。鑑真がんじん晩年ばんねんごしたてらであり、奈良なら時代じだい建立こんりゅう金堂こんどう講堂こうどうはじめ、おおくの文化財ぶんかざいゆうする。1998ねん平成へいせい10ねん)に古都こと奈良なら文化財ぶんかざい一部いちぶとして、ユネスコより世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

歴史れきし

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ぞく日本にっぽんとうによれば、唐招提寺とうしょうだいじとうそう鑑真がんじん天平てんぴょうたから3ねん759ねん)、しん田部たなべ親王しんのう天武天皇てんむてんのうだい7皇子おうじ)のきゅうたくあと朝廷ちょうていからゆずけ、てらとしたものである。てらめい当初とうしょは「からりつ招提」としょうした。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方しほう」を意味いみするcāturdiśa僧団そうだん組織そしき意味いみするサンガをあわせたかたり現前げんぜんするそうだけでなく、すべてのそうのための組織そしき意味いみする)に由来ゆらいする中国ちゅうごく[2]で、四方しほうからそうたちのあつまりじゅうするところ意味いみした。鑑真がんじん研究けんきゅうしゃ安藤あんどう更生こうせいによれば、とうではかんてらでないてらを「招提」としょうしたという。「からりつ招提」とは「とうりつまな道場どうじょう」のであり、のちかんがくたまわってから「唐招提寺とうしょうだいじ」としょうするようになった[3]

鑑真がんじんわたり戒律かいりつ(かいりつ)の伝来でんらい

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鑑真がんじん688ねん - 763ねん)のわたりについては、淡海三船おうみのみふねせんの『から大和やまとじょう東征とうせいでん』(たからひさし10ねん779ねん成立せいりつ)が根本こんぽん史料しりょうとなっている。唐招提寺とうしょうだいじ歴史れきしについては同書どうしょのほか、『招提てら建立こんりゅう縁起えんぎ』、江戸えど時代じだいのものであるが元禄げんろく14ねん1701ねん義澄よしずみせんの『招提せんさい伝記でんき』などの史料しりょうがある。『建立こんりゅう縁起えんぎ』はうけたまわ2ねん835ねん)に鑑真がんじん孫弟子まごでしにあたる豊安とよやすしるした『招提てらりゅう』が原本げんぽんであるが、この原本げんぽんはすでにうしなわれ抄出しょうしゅつしたものが『しょてら縁起えんぎしゅう』(護国寺ごこくじほん醍醐だいご寺本てらもと)に収録しゅうろくされている[4][5][6]

鑑真がんじん仏教ぶっきょうしゃ戒律かいりつさづける「導師どうし」「つて戒の」として日本にっぽん招請しょうせいされた。「戒律かいりつ」とは、仏教ぶっきょう教団きょうだん構成こうせいいん日常にちじょう生活せいかつうえまもるべき「規範きはん」・「きまり」を意味いみし、一般いっぱん仏教ぶっきょう信者しんじゃさづける「菩薩戒ぼさつかい」と、正式せいしきそうさづける「具足ぐそく戒」とがある。出家しゅっけしゃ正式せいしきそうとなるためには、「戒壇かいだん」というで「さんななしょう」という授戒じゅかい3にんと、証明しょうめい授戒じゅかい儀式ぎしき立会たちあ見届みとどけるやく高僧こうそう)7にんのもと「具足ぐそく戒」をけねばならないが、当時とうじ8世紀せいき前半ぜんはん)の日本にっぽんではこうした正式せいしき授戒じゅかい制度せいど整備せいびされておらず、授戒じゅかい資格しかくのあるそう不足ふそくしていた。そのためかん承認しょうにん私的してき出家しゅっけ得度とくどするわたしそうえ、やく免除めんじょのためにわたしそうとなるものもいて社会しゃかい秩序ちつじょみだれにつながっていた[7][8]

こうしたなか天平てんぺい5ねん733ねん)、遣唐使けんとうしともわたりとうしたひろしあきらさかえあきらという留学りゅうがくそうがいた。かれらがあげしゅうげん江蘇ちぁんすーしょう)の大明寺だいみょうじ高僧こうそう鑑真がんじんはじめてったのは西暦せいれき742ねん10月のことであった。ひろしあきらさかえあきらは、日本にっぽんには正式せいしきつて戒のがいないのでしかるべき高僧こうそう推薦すいせんいただきたいと鑑真がんじんもうた。鑑真がんじん弟子でしたち渡航とこう危険きけんなどを理由りゆうわたりこばんだ。弟子でしたちうちわたりこころざしをもつものがいないことをった鑑真がんじんは、みずかわたりすることを決意けついする。しかし、当時とうじ航海こうかい命懸いのちがけであったうえに、当時とうじとうから出国しゅっこくすることは国禁こっきんおかすことであった。そのため、鑑真がんじんひろしあきらさかえあきららの渡航とこう計画けいかく挫折ざせつ連続れんぞくであった。1かい渡航とこう計画けいかく743ねん)は、鑑真がんじん弟子でしの如海の密告みっこくによりふねまえ発覚はっかくし、ひろしあきらさかえあきら捕縛ほばくされてしまった。2かい渡航とこう計画けいかく同年どうねん)では、ふね揚子江ようすこうくだったものの強風きょうふう難破なんぱする。だい3・4かい渡航とこう計画けいかく744ねん)は密告みっこくによって頓挫とんざし、ふねすこともかなわなかった。748ねん、5かい渡航とこう計画けいかくではあらしってふね漂流ひょうりゅうし、から最南端さいなんたん海南かいなんとうまでながされてしまった。陸路りくろあげしゅうもど途中とちゅう、それまで行動こうどうともにしてきたさかえあきら病死びょうしし、高弟こうていさち彦(しょうげん)も死去しきょ鑑真がんじんみずからは失明しつめいするという苦難くなんあじわった。753ねん、6かい渡航とこう計画けいかくつい日本にっぽんかえ遣唐使けんとうしせんから副使ふくし大伴おおとも麻呂まろ機転きてん乗船じょうせんかない、ようやく来日らいにち成功せいこうするが、鑑真がんじん当時とうじすでに66さいになっていた[9][10]

こうして遣唐使けんとうしせん同乗どうじょうすると、琉球りゅうきゅう天平てんぴょうかちたから5ねん753ねん)12月、鑑真がんじん薩摩さつまこく上陸じょうりくした。よく天平てんぴょうかちたから6ねん754ねん)2がつ、ようやく難波なんば大阪おおさか)にたどりいた。同年どうねん4がつ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんまえで、ひじりたけし太上天皇だじょうてんのう光明こうみょう皇太后こうたいごうこうけん天皇てんのうらに菩薩戒ぼさつかいさづけ、沙弥さやそう具足ぐそく戒をさづけた。鑑真がんじん天平てんぴょうかちたから7さい755ねん)から東大寺とうだいじからぜんいんじゅうしたのち天平てんぴょうたから3ねん759ねん)に前述ぜんじゅつのようにいま唐招提寺とうしょうだいじあたえられた。だい僧都そうずにんじられ、のち大和やまとじょう尊称そんしょうおくられた鑑真がんじんは、天平てんぴょうたから7ねん763ねん)5がつ波乱はらん生涯しょうがい日本にっぽんじた。かぞどし76であった[11]

伽藍がらん(がらん)の整備せいび

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唐招提寺とうしょうだいじ寺地てらち平城京へいじょうきょう右京うきょう五条ごじょうぼう位置いちしたしん田部たなべ親王しんのうやしき跡地あとちで、ひろさは4まちであった(創建そうけん伽藍がらん東西とうざい255メートル、南北なんぼく245メートル[12])。境内けいだい発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかしん田部たなべ親王しんのうていおもわれる前身ぜんしん建物たてものあと検出けんしゅつされている。また、境内けいだいから出土しゅつどしたかわらうち単純たんじゅん幾何きかがくぶんかわらじゅうけんぶんのきまるかわらじゅうぶんのきひらかわらわせ)は、しん田部たなべ親王しんのうていのものと推定すいていされている[13]寺内てらうち現存げんそんする2むね校倉あぜくらづくり倉庫そうこのうち、経蔵きょうぞうしん田部たなべ親王しんのうたく倉庫そうこ切妻きりづまづくりからよせとうづくり改造かいぞうしたものとされている。すなわち、『招提てら建立こんりゅう縁起えんぎ』(『しょてら縁起えんぎしゅう所収しょしゅう)に「地主じぬしくら」としてげられている3むねくらのうちのひとつがこれにあたるとみられる。しん田部たなべ親王しんのう時代じだい建物たてものはない[14]

『招提てら建立こんりゅう縁起えんぎ』に、寺内てらうち建物たてもの名称めいしょうとそれらの建物たてものだれ造営ぞうえいによるものであるかがしるされている。それによると、奈良なら時代じだい唐招提寺とうしょうだいじには、南大門なんだいもん西南せいなんもんきた土門どもん中門ちゅうもん金堂こんどうけいろう鐘楼しゅろう講堂こうどう八角はっかくどう3食堂しょくどう(じきどう)、羂索どう(けんさくどう)、僧房そうぼうしょう子房しぼう温湯ぬるゆしつくらなどがあった。このうち、南大門なんだいもん西南せいなんもんきた土門どもん中門ちゅうもん金堂こんどう鑑真がんじん弟子でしでともに来日らいにちした如宝造営ぞうえい講堂こうどうは、平城ひらじろみやひがしあさしゅう殿どの移築いちくしたもの、食堂しょくどう(じきどう)は藤原仲麻呂ふじわらのなかまろいえほどこせいれ寄進きしん)、羂索どう(けんさくどう)は藤原ふじわら清河きよかわいえほどこせいれであった[15]藤原ふじわら清河きよかわは、鑑真がんじんわたりしたさい遣唐使けんとうし大使たいしであったが、鑑真がんじんっただいせんことなり、清河きよかわっただいいちせん遭難そうなんしてとうもどされかれとうぼっした。「藤原ふじわらきよしかわほどこせいれ」とは、清河きよかわいえ建物たてもの移築いちくした、もしくは清河きよかわ家族かぞく建築けんちく負担ふたんした、のほぐされている[16]。これらの建物たてもののうち、もっともはや鑑真がんじん在世ざいせいちゅう建立こんりゅうされたものは講堂こうどうであった[17]金堂こんどう建立こんりゅう年代ねんだいには諸説しょせつあったが、部材ぶざい年輪ねんりん年代ねんだい測定そくてい結果けっか781ねん伐採ばっさいされた材木ざいもく使用しようされていることがわかり、鑑真がんじんぼつの8世紀せいきまつ建立こんりゅうであることが確実視かくじつしされている[18]。『招提せんさい伝記でんき』によれば、唐招提寺とうしょうだいじ歴代れきだい住持じゅうじ鑑真がんじんほうよしせい、如宝、豊安とよやすじゅんとなっているが、このうちだい4だいの如宝の時代じだい金堂こんどうふく伽藍がらん主要しゅよう建立こんりゅうされたとみられる[19]。また、鎮守ちんじゅしゃとして境内けいだいひがし水鏡みずかがみ天神てんじんしゃ建立こんりゅうされた。

主要しゅよう伽藍がらんのうち、もっともおくれて建立こんりゅうされたのはひがしとうで、『日本にっぽんりゃく』にひろしひとし元年がんねん810ねん)の建立こんりゅうとある[20]

さとしもりらによる中興ちゅうこう

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平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以後いご戒律かいりつ護持ごじすたれたため唐招提寺とうしょうだいじ衰亡すいぼうした[21]。とはいえ、のべ6ねん1140ねん)にはまだ金堂こんどう講堂こうどう宝蔵ほうぞう御影堂ごえどう阿弥陀あみだいんなどは残存ざんそんしていた[21]

鎌倉かまくら時代ときよになると、釈迦しゃか信仰しんこう舎利しゃり釈迦しゃか遺骨いこつ信仰しんこう戒律かいりつ復興ふっこう気運きうんたかまりにともなって、鑑真がんじんかれのもたらした舎利しゃりたいする信仰しんこう復興ふっこうした。まず中川なかがわてらじつはん来訪らいほうし、『授戒じゅかいしき』を撰述せんじゅつした[21]。さらに、笠置かさぎてら解脱げだつぼう貞慶じょうけいたてひとし3ねん1203ねん)、唐招提寺とうしょうだいじにて釈迦しゃか念仏ねんぶつかい(ねんぶつえ)をはじめた[22]

唐招提寺とうしょうだいじ中興ちゅうこうとされるのは、四条しじょう天皇てんのう菩薩戒ぼさつかいさづけたこともあるりつむね高僧こうそうさとしもりである[21]さとしもりひろしもと元年がんねん1243ねん)に舎利しゃりかい創設そうせつ鑑真がんじん遺徳いとく顕彰けんしょうなどをおこな[21]、さらによくひろしもと2ねん1244ねん)に正式せいしきとうてらにゅうてらし、再興さいこうした[23]てらかん本格ほんかくてき復旧ふっきゅう整備せいびおこなったのはさとしもり法灯ほうとういだあかしげんで、しょ伽藍がらん修理しゅうり仏像ぶつぞう造立ぞうりゅうなどに尽力じんりょくし、戒壇かいだん創設そうせつおこなった[21]

鎌倉かまくら時代じだい末期まっきはいると、祖父そふ亀山天皇かめやまてんのうぜんりつ振興しんこう政策せいさく継承けいしょうした後醍醐天皇ごだいごてんのうからの崇敬すうけいけた。もととく2ねん1330ねん8がつ9にちには、後醍醐ごだいごみかどさとしもりたいし、「大悲だいひ菩薩ぼさつ」の諡号しごうおくった(『僧官そうかん補任ほにん』)[24]仏教ぶっきょう美術びじゅつ研究けんきゅうしゃ内田うちだ啓一けいいちによれば、後醍醐ごだいごみかど腹心ふくしん護持ごじそう祈祷きとう天皇てんのう守護しゅごするそう)をつとめた文観もんかんぼうひろしん真言しんごんりつむね出身しゅっしんで、唐招提寺とうしょうだいじ中興ちゅうこう9せい長老ちょうろうさとしめぐみ文観もんかんからづけほう伝授でんじゅ)をけていたため、この諡号しごう追贈ついぞう文観もんかん推挙すいきょによるものではないかという[24]。なお、軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』(正平しょうへい25ねん/建徳けんとく元年がんねん/おうやす3ねん1370ねん)ごろ完成かんせい)には、後醍醐天皇ごだいごてんのう鎌倉かまくら幕府ばくふ倒幕とうばく運動うんどう文観もんかんともくわわった高僧こうそうとして「きょうえん」という人物じんぶつ登場とうじょうするが、これは唐招提寺とうしょうだいじ中興ちゅうこう10せい長老ちょうろうけいえんがモデルであるとされている[25](ただし史実しじつとしてけいえん倒幕とうばくくわわったかは不明ふめいである)。

その

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14世紀せいき南北なんぼくあさ時代じだい以降いこう戦乱せんらんによっててらぜいふたたかたむき、寺領じりょうおおくが収奪しゅうだつされふたた衰退すいたいした[21]

江戸えど時代じだい中期ちゅうきはいると、護持ごじいん隆光りゅうこう唐招提寺とうしょうだいじ授戒じゅかいけた[21]隆光りゅうこうはのち江戸えど幕府ばくふだい5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしとその生母せいぼであるかつらあきらいん帰依きえけ、綱吉つなよしかつらあきらいん隆光りゅうこうとの関係かんけいから唐招提寺とうしょうだいじにも帰依きえし、これを庇護ひごして修理しゅうりおこな[21]元禄げんろく11ねん1698ねん)には戒壇かいだんいん再興さいこうしている[21]。その一方いっぽうで、たびたび地震じしん雷火らいかなどの天災てんさいによる被害ひがいけ、とおる2ねん1802ねん)の火災かさいではひがしとう五重塔ごじゅうのとう)などの重要じゅうよう建築けんちくおお喪失そうしつした[21]

近代きんだい現代げんだい

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明治めいじとなり神仏しんぶつ分離ぶんりおこなわれると鎮守ちんじゅしゃ水鏡みずかがみ天神てんじんしゃ独立どくりつした。近代きんだい以降いこう明治めいじ時代じだいから昭和しょうわ時代じだいにかけて、しょどう修理しゅうり保存ほぞん施工しこうされている[21]

1934ねん昭和しょうわ9ねん9月21にち室戸むろと台風たいふう暴風雨ぼうふううにより宝蔵ほうぞう開山かいさんどう半壊はんかいろう損害そんがいける[26]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)にはりつむね戒学いん設立せつりつ1963ねん昭和しょうわ38ねん)には御影堂ごえどうきゅう興福寺こうふくじ一乗院いちじょういん宸殿の移築いちく)の造立ぞうりゅうおこなわれた[21]

また、鑑真がんじん生涯しょうがい唐招提寺とうしょうだいじ井上いのうえやすし小説しょうせつ天平てんぴょういらか』(1957ねん)でひろられるようになった。

鑑真がんじん和上わじょう業績ぎょうせき名声めいせいつうじ、1978ねん昭和しょうわ53ねん)のにちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく成立せいりつにも寄与きよし、たか評価ひょうかけている[21]

金堂こんどう
金堂こんどう
金堂こんどう

金堂こんどう

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国宝こくほう奈良なら時代じだい8世紀せいき後半こうはん建立こんりゅう寺院じいん金堂こんどうとしては現存げんそん唯一ゆいいつのものである(奈良ならしん薬師寺やくしじ本堂ほんどう奈良なら時代じだい建築けんちくだが、当初とうしょから本堂ほんどうとしててられたものではない)。2000ねん平成へいせい12ねん)から解体かいたい修理しゅうり(「平成へいせいだい修理しゅうり」)がおこなわれ、2009ねん平成へいせい21ねん)11月1にち - 3にち落慶らっけい行事ぎょうじおこなわれた。よせとうづくりほん瓦葺かわらぶきで、だいむね左右さゆう鴟尾しびかざる。このうち西側にしがわ鴟尾しび創建そうけん当初とうしょのもので、東側ひがしがわ鎌倉かまくら時代じだいげんとおる3ねん1323ねん)の補作ほさくであったが、いずれの鴟尾しび劣化れっかはなはだしいため、平成へいせいだい修理しゅうりともない、屋根やねじょうからろして別途べっと保管ほかんすることとなり、屋根やねじょうにはあたらしい鴟尾しびかざられている。

正面しょうめん7あいだ側面そくめん4あいだ(「あいだ」はながさの単位たんいではなく、はしらあいだかずあらわす)で、手前てまえの7あいだ×1あいだばなし(かべ建具たてぐとうもうけず、開放かいほうとする)とすることがこの建物たてもの特色とくしょくである。ほうしとなったどう正面しょうめんには8ほんふと円柱えんちゅうならび、この建物たてもの見所みどころとなっている。建物たてものぶんひさし7ねん1270ねん)、げんとおる3ねん(1323ねん)、元禄げんろく6ねん1693ねん)から元禄げんろく7ねん1694ねん)に修理しゅうりされている。とく元禄げんろく修理しゅうりだい規模きぼで、創建そうけん当初とうしょ垂木たるきのすぐじょうかわらいていたものをあらためて、屋根やね勾配こうばいきゅうにし、桔木(はねぎ)をれ、近世きんせいふう小屋こやぐみとした。そのため屋根やねだか創建そうけんより2メートル以上いじょうたかくなっている。外面がいめん各所かくしょけられた長押なげし元禄げんろくざいで、創建そうけん当初とうしょ現状げんじょうよりせいのひく長押なげしもちいられていた。1898ねん明治めいじ31ねん)から1899ねん明治めいじ32ねん)の修理しゅうりでは小屋こやぐみ構造こうぞう再度さいどあらため、西洋せいようしきのキングポストトラスとしている。このように修理しゅうりかさねられてたが、平成へいせいだい修理しゅうりともな調査ちょうさ結果けっか当初とうしょざい良好りょうこう残存ざんそんしていることがかった。垂木たるきは9わり当初とうしょざいさいようしており[27]とびら当初とうしょざい加工かこうして使用しようしている[27]2005ねん平成へいせい17ねん)、奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい発表はっぴょうによれば、金堂こんどう部材ぶざいにはてんおう元年がんねん781ねん)に伐採ばっさいされたヒノキざい使用しようされており[28]建立こんりゅう同年どうねん以降いこうということになる。[29]

どうないひろ部分ぶぶんめて須弥壇しゅみだんがあり、そのうえ仏像ぶつぞうならんでいる。中央ちゅうおう本尊ほんぞん盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞうかってみぎ薬師やくし如来にょらい立像りつぞうひだり千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうの3たいきょぞう安置あんちするほか、本尊ほんぞん手前てまえ左右さゆう梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう須弥壇しゅみだん四隅よすみ四天王してんのう立像りつぞう安置あんちする(仏像ぶつぞうはいずれも国宝こくほう)。盧舎那仏るしゃなぶつ薬師やくし如来にょらい千手観音せんじゅかんのんわせはれいがなく、経典きょうてんにもえないことからその典拠てんきょあきらかでない。東大寺とうだいじ本尊ほんぞん盧舎那仏るしゃなぶつ)、下野しもの薬師寺やくしじ筑紫つくし観世音寺かんぜおんじを「天下てんかさん戒壇かいだん」としょうするが、唐招提寺とうしょうだいじさんみこと盧舎那仏るしゃなぶつ薬師くすし観音かんのんわせで天下てんかさん戒壇かいだんあらわしているとするせつもある[19]

  • 乾漆かんしつ盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞう
国宝こくほうぞうだか304.5センチメートル。奈良なら時代じだい末期まっき、8世紀せいき後半こうはんさくとされる。盧舎那仏るしゃなぶつは、大乗だいじょう戒律かいりつ経典きょうてんである『梵網けい』(5世紀せいきころ中国ちゅうごく成立せいりつ)のしゅみことである。ぞうせんふつ光背こうはいい、蓮華れんげじょうまします。麻布まふうるしかためて造形ぞうけいしただつかつ乾漆かんしつぞうである。唐招提寺とうしょうだいじわたしてらであるが、ほんぞう制作せいさく手間てまかるだつかつ乾漆かんしつぞうであることから、みやつこ東大寺とうだいじこうじんによるさく推定すいていされている。光背こうはいせんほとけは860たいあまりのこ[注釈ちゅうしゃく 1]
金堂こんどう平成へいせいだい修理しゅうりにともない、どうない仏像ぶつぞう搬出はんしゅつされて保存ほぞん修理しゅうりけた。盧舎那仏るしゃなぶつぞう修理しゅうり1999ねんから2002ねんにかけておこなわれたが、このさいにいくつかのしん知見ちけんがあった。台座だいざはちすべんは、現状げんじょうでは12ぽう6だん配置はいちされているが、当初とうしょは8ぽう12だん配置はいちされていたことが、はちすべん痕跡こんせき調査ちょうさから判明はんめいした。なお、材質ざいしつ劣化れっかしているため、平成へいせい修理しゅうりでははちすべん当初とうしょ形式けいしき復元ふくげんすることはしていない。Xせん撮影さつえい結果けっかほんぞうりょうてのひらには2ずつの小玉こだまあな貫通かんつうしていることから数珠玉じゅずだま推定すいていされる)がまれていることが判明はんめいした。また、ほんぞうひとみにはいし陶器とうきのようなかた物体ぶったいまれているが、Xせん撮影さつえい結果けっか、このひとみうら(または内部ないぶ)にみち0.6センチメートルほどの球状きゅうじょう物体ぶったいまれていることも判明はんめいした。これらのてのひらへの工作こうさくは、ぞうひとみからのひかりなどの「このみしょう」をあらわすことを期待きたいしてのものと推定すいていされている[30][31]
  • こころ乾漆かんしつ薬師如来やくしにょらい立像りつぞう
国宝こくほうぞうだか336.5センチメートル。盧舎那仏るしゃなぶつぞうとはみやつこぞう技法ぎほうことなり、しん屎漆(こくそうるし)をげて造形ぞうけいしたこころ乾漆かんしつぞうである。かつては奈良なら時代じだいさくかんがえられていたが、1972ねん昭和しょうわ47ねん)の修理しゅうりひだりてのひら内側うちがわに3まい古銭こせん納入のうにゅうされているのが発見はっけんされ、そのうちもっと年代ねんだいくだたかし平永ひらながたからのべれき15ねん796ねん以降いこう鋳造ちゅうぞうであることから、ほんぞう制作せいさくもそれ以降いこう、つまり平安京へいあんきょう遷都せんととなる。光背こうはいはこのぞうのものとしてははばひろすぎ、ぞう光背こうはい転用てんようしたものと推定すいていされている。
  • こころ乾漆かんしつ千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう
国宝こくほうぞうだか535.7センチメートル。奈良なら時代じだい末期まっきさくで、盧舎那仏るしゃなぶつぞうよりはやや時代じだいがるとされている。千手観音せんじゅかんのんぞうは40合掌がっしょうしゅふくめて42)でせん代表だいひょうさせるものがおおいが、ほんぞう実際じっさいに1,000ほんあらわしたれいで、大手おおて42ほんあいだ小手こてをびっしりとける。現状げんじょう大手おおて42ほん小手こて911ほんけい953ほんであるが、制作せいさく当初とうしょけい1,000ほんゆうしたものとおもわれる。
ぞうわきしゅっている持物もちもの(じもつ)はそのだい部分ぶぶんこうだが、なかには宮殿きゅうでん蓮華れんげなど当初とうしょのものもある。ほんぞう盧舎那仏るしゃなぶつぞう同様どうよう、1999年度ねんどから2002年度ねんどにかけて保存ほぞん修理しゅうりおこなわれ、このときにすべてのわきしゅをいったんはずし、保存ほぞん処置しょちをしてからもともどした。修理しゅうりに、寺内てらうち収蔵しゅうぞうから、ほんぞう背面はいめんすそ部分ぶぶん断片だんぺん発見はっけんされ、修理しゅうりはこの断片だんぺん本来ほんらい位置いち復元ふくげんしている[31]
  • 木造もくぞう梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう国宝こくほう) - ぞうだかはそれぞれ186.2および188.2センチメートル。奈良なら時代じだい末期まっき - 平安へいあん時代じだい初期しょき
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう国宝こくほう) - ぞうだかは185.0 - 188.5センチメートル。奈良なら時代じだい末期まっき - 平安へいあん時代じだい初期しょき
金堂こんどう内部ないぶしょほとけ かってみぎより薬師如来やくしにょらい立像りつぞう盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう 手前てまえつのはかってみぎ梵天ぼんてん立像りつぞうひだり帝釈天たいしゃくてん立像りつぞうかくぞうとも国宝こくほう
講堂こうどう

講堂こうどう

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国宝こくほう入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき。正面しょうめん9あいだ側面そくめん4あいだ平城ひらじろみやひがしあさしゅう殿どの移築いちく改造かいぞうしたもので、天平てんぴょうたから4ねん760ねんごろ平城ひらじろみや改修かいしゅうともなって移築いちくされた。ひがしあさしゅう殿どのは、かべ建具たてぐのほとんどない開放かいほうてき建物たてもので、屋根やね切妻きりづまづくりであったが、寺院じいんよう改造かいぞうするにあたって、屋根やね入母屋いりもやづくりとし、建具たてぐれている。鎌倉かまくら時代じだい建治けんじ元年がんねん1275ねん)にも改造かいぞうされているが、奈良なら時代じだい宮廷きゅうてい建築けんちく唯一ゆいいつ遺構いこうとしてきわめて貴重きちょうである。どうないには本尊ほんぞん弥勒みろく如来にょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい鎌倉かまくら時代じだい)と、持国天じこくてん増長天ぞうちょうてん立像りつぞう国宝こくほう奈良なら時代じだい)を安置あんちする。1970ねん昭和しょうわ45ねん)にしん宝蔵ほうぞう完成かんせいするまでは、どうない多数たすう仏像ぶつぞう安置あんちしていた。また、講堂こうどう僧侶そうりょが習学するための空間くうかんであったことから講師こうし、読師がすわろんだいかれる。

  • 木造もくぞう弥勒みろくふつ坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - ぞうだか283.3センチメートル。鎌倉かまくら時代じだいさくひざうらには弘安ひろやす10ねん1287ねん)のがあるが、『招提せんさい伝記でんき』によると開眼かいがん供養くようは5ねんせいおう5ねん1292ねん)である。
  • 木造もくぞう持国天じこくてん増長天ぞうちょうてん立像りつぞう - ぞうだかはそれぞれ132.5および128.2センチメートル。かぶと(よろい)の文様もんようこうなどにから時代じだいいしとの類似るいじ指摘してきされ、鑑真がんじんとも来朝らいちょうしたこうじん制作せいさく関与かんよしたと推定すいていされる。

御影堂ごえどう

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうは「きゅう一乗院いちじょういん 宸殿 殿上てんじょうおよ玄関げんかん」。鑑真がんじん肖像しょうぞう彫刻ちょうこく国宝こくほう)を安置あんちする(開山かいさん前後ぜんこうの6がつ5にち - 7にちのみ公開こうかい)。建物たてもの興福寺こうふくじ有力ゆうりょくいんであった一乗院いちじょういんの宸殿で、慶安けいあん2ねん1649ねん)の建立こんりゅう一乗院いちじょういん廃寺はいじとなったのち奈良なら県庁けんちょうとされたり、1962ねん昭和しょうわ37ねん)までは奈良なら地方裁判所ちほうさいばんしょ庁舎ちょうしゃとして使用しようされ、1964ねん昭和しょうわ39ねん)に唐招提寺とうしょうだいじ移築いちくされた。障壁しょうへき鑑真がんじんぞう奉納ほうのうするため、1971ねん昭和しょうわ46ねん)から1982ねん昭和しょうわ57ねん)にかけて日本にっぽん画家がか東山ひがしやまいさおえびすによってあらたにえがかれたもの。

  • 乾漆かんしつ鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞう国宝こくほう) - ぞうだか80.1センチメートル。伝承でんしょうによれば鑑真がんじん弟子でししのぶはじめが、唐招提寺とうしょうだいじ講堂こうどうはりれるゆめ師僧しそう死去しきょ間近まぢかいことをってつくらせたものという。鑑真がんじんぼっした天平てんぴょうたから7ねん763ねんごろさく推定すいていされ、日本にっぽん最古さいこ肖像しょうぞう彫刻ちょうこくといわれている。だつかつ乾漆かんしつづくりだが、ひざじょうんだ両手りょうて木製もくせいである。肖像しょうぞう彫刻ちょうこくとしては異例いれいの、じたかたちあらわされる。このぞう1977ねんにはパリのプティ・パレ美術館びじゅつかん展示てんじされ、1980ねん昭和しょうわ55ねん)には中国ちゅうごくに「里帰さとがえり」してあげしゅう鑑真がんじん故郷こきょう)と北京ぺきん公開こうかいされた。2013ねん平成へいせい25ねん)、複製ふくせいぞう制作せいさくされた。
  • 御影堂ごえどう障壁しょうへき - 東山ひがしやまいさおえびすふで[32]あしかけ10ねん以上いじょうにわたり、作者さくしゃ日本にっぽん中国ちゅうごく各地かくちでのスケッチをもと制作せいさくしたもので、鑑真がんじん故郷こきょう中国ちゅうごく日本にっぽん風景ふうけい奉納ほうのうし、御霊みたまなぐさめるという趣旨しゅしえがかれたものである。中国ちゅうごく安徽あんきしょうにあるやま幻想げんそうてき風景ふうけいすみだけでうつしている。東山ひがしやま生前せいぜんやまれば、あらゆる山水さんすい技法ぎほうがそこからまれたことがわかる」とかたっている。御影堂ごえどう南側みなみがわひがしの「宸殿のあいだ」に『濤声』16めん西にしの「上段じょうだんあいだ」に『やまくも』10めんゆかあいだゆかわき天袋てんぶくろふくむ)をえがく。これらは彩色さいしきで、日本にっぽんうみやま風景ふうけいあらわし、1975ねん完成かんせいしたものである。御影堂ごえどう北側きたがわは、鑑真がんじんぞう厨子ずしがある「まつあいだ」に『あげしゅう薫風くんぷう』26めん西にしの「さくらあいだ」に『やま暁雲ぎょううん』8めんひがしの「うめあいだ」に『かつらりんがつよい』8めん、これらは水墨すいぼくで、鑑真がんじん故郷こきょうあげしゅうふく中国ちゅうごく風景ふうけいあらわし、1980ねん完成かんせいしたものである。厨子ずし内壁ないへきには『瑞光ずいこう』(1981ねん昭和しょうわ56ねんさく)をえが[33]

しん宝蔵ほうぞう

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1970ねん昭和しょうわ45ねん)に完成かんせいした鉄筋てっきんコンクリート収蔵しゅうぞう例年れいねんはるあき期日きじつかぎって公開こうかいされる。金堂こんどうにあった木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)のほか、「きゅう講堂こうどう木彫きぼりふつぐん」といわれる、もと講堂こうどうかり安置あんちされていた奈良なら時代じだい末期まっきから平安へいあん時代じだい前期ぜんきいち木彫きぼり仏像ぶつぞうぐん収蔵しゅうぞうされ、一部いちぶ展示てんじされている。

  • 木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - ぞうだか352.7センチメートル。もと西山にしやま大日だいにちどう廃絶はいぜつ)の本尊ほんぞんつたえ、しん宝蔵ほうぞうができるまでは金堂こんどう東側ひがしがわ外陣がいじんにあった。平安へいあん時代じだい初期しょきさく
  • 木造きづくりつたえ薬師如来やくしにょらい立像りつぞう国宝こくほう) - ぞうだか160.2センチメートル。奈良なら時代じだい
  • 木造きづくりつたえしゅうたからおう菩薩ぼさつ立像りつぞう国宝こくほう) - ぞうだか173.2センチメートル。奈良なら時代じだい
  • 木造きづくりつたえ獅子吼ししく菩薩ぼさつ立像りつぞう国宝こくほう) - ぞうだか171.8センチメートル。奈良なら時代じだい
かつて講堂こうどうないには由来ゆらいしょう破損はそんぼとけ多数たすう安置あんちされていた。それらはしん宝蔵ほうぞううつされ「きゅう講堂こうどう木彫きぼりふつぐん」としょうされている。なかでも、うえの3ぞうと、現在げんざい講堂こうどうにある持国天じこくてん増長天ぞうちょうてん立像りつぞう作風さくふう唐風とうふうつよく、鑑真がんじんとともに来日らいにちしたこうじん制作せいさく関与かんよしたと推定すいていされる。奈良なら時代じだいにはどうづくり乾漆かんしつづくり、塑造の仏像ぶつぞうさかんにつくられ、純粋じゅんすいいち木造もくぞう作品さくひんはむしろすくないが、上記じょうき薬師やくし如来にょらいしゅうたからおう菩薩ぼさつ獅子吼ししく菩薩ぼさつかくぞうはいずれもヒノキまたはカヤのいち木造もくぞうで、素地そじ仕上しあげとし、うちりをほどこさず、足下あしもと台座だいざはちすにくまで一木ひとつきつくるなど、技法ぎほう共通きょうつうてんおおい。薬師如来像やくしにょらいぞう京都きょうと神護かんごてら薬師如来像やくしにょらいぞうとの様式ようしきてきつながりが注目ちゅうもくされる。しゅうたからおう菩薩ぼさつぞう獅子吼ししく菩薩ぼさつぞう破損はそんはげしいが、もと前者ぜんしゃさんろくひじ後者こうしゃさんよんひじ不空ふくう羂索観音かんのんとして造立ぞうりゅうされたものと推定すいていされる。
  • 木造もくぞう如来にょらいがた立像りつぞう(にょらいぎょうりゅうぞう、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - ぞうだか154.0センチメートル(現存げんそん)。頭部とうぶりょう手先てさき両脚りょうきゃくさきかけしっする。「唐招提寺とうしょうだいじのトルソー」の通称つうしょう著名ちょめいぞうである。ふくせいから如来にょらいぞうとみられるが、本来ほんらいぞうめい不明ふめいなため、「如来にょらいがたぞうばれる。上記じょうき薬師やくし如来にょらいしゅうたからおう菩薩ぼさつ獅子吼ししく菩薩ぼさつとはことなって、うちりをほどこし、本体ほんたい台座だいざべつざいからつくっており、和様わようすすんだ平安へいあん時代じだい初期しょきさくとみられる。ふところもぶんほそするどころもぶん交互こうごあらわこぼしなみしきころもぶんや、大腿だいたい量感りょうかん強調きょうちょうした表現ひょうげん平安へいあん初期しょき彫刻ちょうこくにしばしばられるものである。

伽藍がらん

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金堂こんどう南東なんとうよりのぞむ)
金堂こんどう 正面しょうめんほう
金堂こんどう平面へいめん
講堂こうどう
講堂こうどう平面へいめん
宝蔵ほうぞう経蔵きょうぞう

南大門なんだいもんはいると正面しょうめん金堂こんどう国宝こくほう)、その背後はいご講堂こうどう国宝こくほう)がある。かつては南大門なんだいもん金堂こんどうあいだ中門ちゅうもんがあり、中門ちゅうもん左右さゆうから回廊かいろう金堂こんどう左右さゆうたっしていた。金堂こんどう講堂こうどうあいだ東西とうざいにはそれぞれろう国宝こくほう)と鐘楼しゅろうがある。講堂こうどう東方とうほうには南北なんぼくながひがししつ(ひがしむろ、重要じゅうよう文化財ぶんかざい)があるが、この建物たてもの南側みなみがわれいどう(らいどう、重要じゅうよう文化財ぶんかざい)とばれている。講堂こうどう西にしにあった西室にしむろきたにあった食堂しょくどう(じきどう)はいまうしなわれている。このほか境内けいだい西側にしがわには戒壇かいだん北側きたがわには鑑真がんじんびょう御影堂ごえどう地蔵堂じぞうどう中興ちゅうこうどうほんぼう開山かいさんどう東側ひがしがわには宝蔵ほうぞう国宝こくほう)、経蔵きょうぞう国宝こくほう)、しん宝蔵ほうぞうひがしとうあとなどがある。

  • 金堂こんどう国宝こくほう) - 奈良なら時代じだい建立こんりゅう解説かいせつすんでじゅつ
  • 鐘楼しゅろう - 梵鐘ぼんしょう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は平安へいあん時代じだいつくられたもの。
  • ろう国宝こくほう) - 舎利しゃり殿どの鎌倉かまくら時代ときよじん元年がんねん1240ねん建立こんりゅう金堂こんどう講堂こうどう東側ひがしがわ小規模しょうきぼろうづくり(2かいけん)の建物たてもの入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき。あたまぬきはしだい仏様ほとけさま(だいぶつよう)のはなとする。西側にしがわ対称たいしょうてき位置いち鐘楼しゅろうたいし「ろう」としょうするが、この建物たてものには太鼓たいこではなく、鑑真がんじんとうから請来しょうらいした仏舎利ぶっしゃり安置あんちしており、そのため舎利しゃり殿どのともしょうする。毎年まいとし、5月19にちおこなわれる梵網かい(ぼんもうえ、通称つうしょう「うちわまき」)のさいは、この建物たてものろうじょうから縁起物えんぎもののうちわがかれる。
  • 講堂こうどう国宝こくほう) - もともとは平城ひらじろみやひがしあさしゅう殿どので、天平てんぴょうたから4ねん760ねんごろ現在地げんざいち移築いちく改築かいちく解説かいせつすんでじゅつ
  • 訶梨みかどははしゃ
  • 開山かいさんどう - もともとは元禄げんろく年間ねんかん1688ねん - 1704ねん)に徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ歴代れきだい位牌いはいまつ霊殿れいでんとして建立こんりゅうされたものだが、1881ねん明治めいじ14ねん)に現在地げんざいち移築いちくされると、国宝こくほう鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞう安置あんちする開山かいさんどうとされた。その鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞう御影堂ごえどううつされると、さとしもり上人しょうにん聖武天皇しょうむてんのう徳川とくがわ家康いえやすまつって「本願ほんがん殿どの」と改称かいしょうされるが、2013ねん平成へいせい25ねん)にふたた開山かいさんどうもどされた。現在げんざい鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞうの「身代みがわりぞう」がまつられている。
  • れいどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - もとの僧房そうぼう弘安ひろやす6ねん1283ねん)に改築かいちくしたもの。ろうひがしにある南北なんぼく細長ほそなが建物たてもの桁行けたゆき19あいだ梁間はりま4あいだ入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき。中央ちゅうおうややみなみりに馬道うまみち(めどう、土間どま通路つうろ)があり、それよりきたの10あいだぶん東室ひがしむろみなみの8あいだ仏堂ぶつどうとなり、となりろう舎利しゃり殿どの)に安置あんちされた仏舎利ぶっしゃり礼拝れいはいするためのどうとしてれいどう(らいどう)とばれる。れいどうないには清凉寺せいりょうじしき釈迦如来しゃかにょらい立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)ときょう舎利しゃりとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする。
    • 木造もくぞう釈迦如来しゃかにょらい立像りつぞう - ぞうだか166.7センチメートル。京都きょうと嵯峨さが清凉寺せいりょうじにある、三国伝来さんごくでんらい霊像れいぞうとして信仰しんこうあつめる釈迦しゃかぞう様式ようしきした「清凉寺せいりょうじしき」とばれる形式けいしき釈迦しゃかぞうである。中興ちゅうこうさとしもりはじめた釈迦しゃか念仏ねんぶつかい(ねんぶつえ)という行事ぎょうじ本尊ほんぞんとして造立ぞうりゅうされたものであり、ぞうない納入のうにゅう文書ぶんしょによりせいよしみ2ねん1258ねん)の造立ぞうりゅう判明はんめいする。釈迦しゃか念仏ねんぶつかいわせ、10月21にち - 23にちのみ公開こうかいされる。
  • ひがししつ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 宝蔵ほうぞう国宝こくほう) - れいどう東側ひがしがわならんでっている校倉あぜくらづくり倉庫そうこきた宝蔵ほうぞうみなみ経蔵きょうぞう)。奈良なら時代じだい建立こんりゅうよせとうづくり宝蔵ほうぞう経蔵きょうぞう外観がいかんているが、規模きぼ経蔵きょうぞうほうがややちいさい。のきささえる構造こうぞうには両者りょうしゃちがいがある。経蔵きょうぞうではさい上段じょうだんこううえけた(けた)という方形ほうけい断面だんめん水平すいへいざいれてのきささえているのにたいし、宝蔵ほうぞうではうえから1だんと2だんこうよりながつくり(おくり)、これが直接ちょくせつのきささえている。宝蔵ほうぞう当地とうちてらになってからの建物たてものであると推定すいていされている[注釈ちゅうしゃく 2][34]
  • ななじゅう石塔せきとう
  • じゅう石塔せきとう
  • 経蔵きょうぞう国宝こくほう) - 奈良なら時代じだい建立こんりゅう経蔵きょうぞう唐招提寺とうしょうだいじ創建そうけん以前いぜん当地とうちしん田部たなべ親王しんのうやしきであった時代じだいからの建物たてもので、米倉よねくら改造かいぞうしたものといわれる。現在げんざい[いつ?]よせとうづくりになっているが、もともとは切妻きりづまづくりであった。唐招提寺とうしょうだいじもっとふる建造けんぞうぶつであり、日本にっぽん最古さいこ校倉あぜくらづくり建物たてものである。
  • 滄海そうかい - いけ
  • しん宝蔵ほうぞう - 1970ねん昭和しょうわ45ねんちく解説かいせつすんでじゅつ
  • 戒壇かいだん - 境内けいだい西側にしがわにある。戒壇かいだんは、出家しゅっけしゃ正式せいしきそうとなるための受戒じゅかい儀式ぎしきおこな場所ばしょ戒壇かいだんいん建物たてもの江戸えど時代じだい末期まっきよしみひさし元年がんねん1848ねん)に放火ほうかにより焼失しょうしつして以来いらい再建さいけんされず、3だんいしだんのみがのこっている。1978ねん昭和しょうわ53ねん)にインド・サンチーしきとうした宝塔ほうとう壇上だんじょうかれた。唐招提寺とうしょうだいじ戒壇かいだん創建そうけん建立こんりゅうせつと、鎌倉かまくら時代じだい弘安ひろやす7ねん1284ねんはつ建立こんりゅうせつとがある。
  • 蓮池はすいけ
  • おうりょうぼう - 塔頭たっちゅう
  • 醍醐だいご井戸いど - 井戸いどちかくにはひがしとう礎石そせきだとされているいしが4つかれている。
  • ほんぼうぞうまついん
    • 庫裏くり
    • 客殿きゃくでん
    • 表門おもてもん
  • 牟尼ぞういん
  • 中興ちゅうこうどう - 1999ねん平成へいせい11ねん建立こんりゅう重要じゅうよう文化財ぶんかざい木造もくぞう大悲だいひ菩薩ぼさつ坐像ざぞう中興ちゅうこうさとしもり肖像しょうぞう)をまつる。通常つうじょう非公開ひこうかい
  • 地蔵堂じぞうどう - 重要じゅうよう文化財ぶんかざい木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう安置あんちする。地蔵じぞうぼん(8がつ23・24にち)の期間きかんのみ公開こうかい
  • 御影堂ごえどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - もともとは興福寺こうふくじ一乗院いちじょういんの宸殿。1964ねん昭和しょうわ39ねん)に現在地げんざいち移築いちくされた。解説かいせつすんでじゅつ
  • きゅう一乗院いちじょういん僧正そうじょうもん奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • 茶室ちゃしつさんあかつきあん
  • 鑑真がんじん和上わじょう御廟ごびょう - 開山かいさん御廟ごびょうともばれる。
  • ちょうむらさき手植てうえの瓊花(けいか) - 1982ねん昭和しょうわ57ねん)6がつ来日らいにちした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく首相しゅしょう当時とうじ)のちょうむらさきえたもの。瓊花は鑑真がんじん和上わじょう故郷こきょうであるげん中国ちゅうごく江蘇ちぁんすーしょうあげしゅう名花めいかである。
  • いけ
  • 戒学いん
  • 東門ひがしもん
  • 水鏡みずかがみ天神てんじんしゃ - 祭神さいじん菅原すがわら道真みちざね気比けひ大神だいじんてんあきら天神てんじん春日かすが大神おおがみ。かつての鎮守ちんじゅしゃ明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんり唐招提寺とうしょうだいじから独立どくりつしたが、現在げんざい[いつ?]管理かんり唐招提寺とうしょうだいじおこなっている。
  • ひがしとうあと - 五重塔ごじゅうのとうあと基壇きだんのこる。『日本にっぽんりゃく』によれば、ひろしひとしもと810ねん)の創建そうけんとおる2ねん1802ねん落雷らくらい焼失しょうしつした。水鏡みずかがみ天神てんじんしゃ境内けいだいにある。
  • 弁天べんてんしゃ
  • 弁天べんてん
  • 寺務じむしょ
  • 南大門なんだいもん - 天平てんぺいさましきして1960ねん昭和しょうわ35ねん)に再建さいけんされた。はしらあいだ中央ちゅうおうさんとびらとする切妻きりづまづくりもん複製ふくせいではあるがけられている勅額ちょくがく唐招提寺とうしょうだいじ」はこうけん天皇てんのう宸筆しんぴつである。
  • 西にしとうあと - 唐招提寺とうしょうだいじ戒壇かいだんいんちかくのてら域外いきがい私有地しゆうちに、西にしとう存在そんざいしたという伝承でんしょうがある。ただ、存在そんざいつたえる史料しりょうもあるが、跡地あとち発掘はっくつとうもされておらずさだかではない。
  • 西方せいほういん - さかいがい塔頭たっちゅう唐招提寺とうしょうだいじおくいんすこ西にしにある。

文化財ぶんかざい

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東征とうせいでん だいいちかんだいいちだん鑑真がんじん得度とくど
金堂こんどう諸仏しょぶつ 手前てまえから薬師やくし如来にょらい盧舎那仏るしゃなぶつ千手観音せんじゅかんのん
乾漆かんしつ盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞう
こころ乾漆かんしつ千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう
木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞうのうち多聞天たもんてん
木造もくぞう梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞうのうち梵天ぼんてん
宝蔵ほうぞうおく)と経蔵きょうぞう手前てまえ

国宝こくほう

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  • 金堂こんどうきゅう鴟尾しび2箇[注釈ちゅうしゃく 3]きゅう部材ぶざい22まいきゅう内陣ないじん天井てんじょうささえばん4、きゅう内陣ないじん天井板てんじょういた6、きゅうのきささえばん12)、ざい11てん[36]
  • 講堂こうどう蟇股かえるまた4箇、高座こうざ1ついざい53てん[36]
  • ろう厨子ずしざい21てん[36]
  • 経蔵きょうぞうざい9てん[36]
  • 宝蔵ほうぞうざい4てん[36]
  • 乾漆かんしつ鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞう御影堂ごえどう安置あんち
  • 乾漆かんしつ盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞう金堂こんどう安置あんち
  • こころ乾漆かんしつ千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう金堂こんどう安置あんち
  • こころ乾漆かんしつ薬師如来やくしにょらい立像りつぞう金堂こんどう安置あんち
  • 木造もくぞう梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう所在しょざい金堂こんどう
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう所在しょざい金堂こんどう
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい立像りつぞう 1軀、木造もくぞうでんしゅたからおう菩薩ぼさつ立像りつぞう 1軀、木造もくぞうでん獅子吼ししく菩薩ぼさつ立像りつぞう 1軀、木造きづくりつたえだい自在じざいおう菩薩ぼさつ立像りつぞう 1軀、木造もくぞう天王てんのう立像りつぞう 2軀(けい6[37][38]
  • 舎利しゃり容器ようき
    • はく瑠璃るり舎利しゃりつぼ鑑真がんじん和上わじょう将来しょうらい舎利しゃり納入のうにゅう)1くち後醍醐天皇ごだいごてんのうふう花押かおう足利あしかが義満よしみつふう花押かおう足利あしかが義則よしのりふう
    • 方円ほうえんいろどりいとはなもう 1まい
    • 金亀こんき舎利しゃりとう 1

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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建造けんぞうぶつ
  • れいどう - 東室ひがしむろふくむ。
  • きゅう一乗院いちじょういん 2むね - 御影堂ごえどう
    • 宸殿
    • 殿上てんじょうおよ玄関げんかん
絵画かいが
  • 絹本けんぽんちょしょくじゅうろく羅漢らかんぞう
  • 絹本けんぽんちょしょくだい威徳いとく明王みょうおうぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく法華ほっけ曼荼羅まんだら
  • かみほんちょしょく東征とうせい絵巻えまき はちすぎょうひつ 5かん
彫刻ちょうこく
  • 木造もくぞう弥勒みろく如来にょらい坐像ざぞう講堂こうどう安置あんち
  • 木造もくぞう厨子ずしにゅう釈迦如来しゃかにょらい立像りつぞう せいよしみ2ねん1258ねん)(れいどう安置あんち
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう地蔵堂じぞうどう安置あんち
  • 木造もくぞう大悲だいひ菩薩ぼさつ坐像ざぞう おうひさし2ねん1395ねんなりけいさく中興ちゅうこうどう安置あんち
  • 木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう
  • 木造もくぞう如来にょらいがた立像りつぞう頭部とうぶ両手りょうてかけ9世紀せいき
  • 木造もくぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう面部めんぶ左手ひだりてかけ
  • こころ乾漆かんしつ菩薩ぼさつ立像りつぞう 2
  • 木造もくぞうてんがた立像りつぞうつて帝釈天たいしゃくてん
  • 木造きづくり如来にょらい坐像ざぞうつて釈迦如来しゃかにょらいでんたから如来にょらい)2
  • 木造もくぞう宝生ほうしょう如来にょらい立像りつぞう
  • 木造もくぞう如来にょらいがた坐像ざぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう菩薩ぼさつがた立像りつぞう頭部とうぶかけ)・てんがた立像りつぞうつて梵天ぼんてん
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう(1900ねん明治めいじ33ねん重文じゅうぶん指定してい
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう(1901ねん明治めいじ34ねん重文じゅうぶん指定してい法花ほうげいんきゅうくら[注釈ちゅうしゃく 4]
  • 木造もくぞう聖徳太子しょうとくたいし立像りつぞう
  • 木造もくぞうだい威徳いとく明王みょうおうぞう
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞう たたえうみさく
  • 木造もくぞう吉祥天きちじょうてん立像りつぞう
  • 木造もくぞう行基ぎょうき菩薩ぼさつ坐像ざぞう
  • こころ乾漆かんしつふつあたま(1902ねん明治めいじ35ねん重文じゅうぶん指定してい
  • こころ乾漆かんしつふつあたま1915ねん大正たいしょう4ねん重文じゅうぶん指定してい
  • 木造もくぞう菩薩ぼさつあたま
  • 銅板どうばん押出おしだしさんみこと仏像ぶつぞう
  • 銅板どうばん押出おしだしふつぞう 5めん薬師如来やくしにょらい立像りつぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう吉祥天きちじょうてん立像りつぞう如来にょらい立像りつぞう如来にょらい坐像ざぞう
  • 磚製阿弥陀如来あみだにょらいぞうつて文殊もんじゅ菩薩ぼさつぞう

参考さんこう京都きょうと壬生寺みぶでら木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は、唐招提寺とうしょうだいじきゅうぞう

工芸こうげいひん
南大門なんだいもん勅額ちょくがく(レプリカ)。つてこうけん天皇てんのう宸筆しんぴつ
  • 太鼓たいこえん(1915ねん大正たいしょう4ねん重文じゅうぶん指定してい
  • 太鼓たいこえん:かわ残闕ざんけつ 一括いっかつ)(1959ねん昭和しょうわ34ねん重文じゅうぶん指定してい
  • 鉦鼓しょうこえん (1915ねん大正たいしょう4ねん重文じゅうぶん指定してい
  • 鉦鼓しょうこえん(1929ねん昭和しょうわ4ねん重文じゅうぶん指定してい
  • 鉦鼓しょうこえん いちたい(1959ねん昭和しょうわ34ねん重文じゅうぶん指定してい
  • 牛皮ぎゅうひ華鬘けまん残闕ざんけつ(ごひけまんざんけつ)8まいぶん:残片ざんぺん 一括いっかつ
  • 金銅かなどう金剛こんごうばん
  • 金銅かなどう舎利しゃり容器ようき
  • 金銅かなどうほうるい金剛こんごうばん鈷鈴、独鈷とっこきねさん鈷杵、鈷杵)
  • 金銅かなどうほうるいしゃ2、ろく24、灑水1、ぬり1)
  • 金銅かなどうはちすべんかざりほうしゃ1、花瓶かびん2、ろく6、飲食いんしょく2、灑水1、ぬり1)
  • どう香水こうすいつぼ
  • くろうるしはなばん
  • くろうるし舎利しゃり厨子ずし
  • どうさん具足ぐそく:ばこ えいただしじゅうさんねんめい
  • にちきょう舎利しゃりとう
  • 法会ほうえしょ用具ようぐるい(ほうえ しょようぐるい)(奚婁1くち羯鼓かっこ1くちつづみどう1くち木製もくせいだて3まい木製もくせいがら香炉こうろ3くち:残闕ざんけつ10くち)、木製もくせい竜頭りゅうず8とう木製もくせい馬頭めず1とう
  • 唐招提寺とうしょうだいじ勅額ちょくがく
  • 梵鐘ぼんしょう
書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ歴史れきし資料しりょう
  • 根本こんぽんせつ一切いっさいゆう戒経・老母ろうぼろくえいけい 2かん天平てんぴょうじゅうねんがついちにち光明皇后こうみょうこうごうねがいけい
  • 戒律かいりつ伝来でんらい 上巻じょうかん 保安ほあんねん奥書おくがき
  • 四分律刪繁補闕行事鈔 かんさん
  • だい般若はんにゃけい まきだいひゃくろくじゅうなな 宝亀ほうきじゅうねん願文がんもん
  • だい盧遮那るしゃな成仏じょうぶつ神変しんぺん加持かじけい うけたまわこよみさんねん読了どくりょう奥書おくがきおようけたまわやすよんねん読了どくりょう奥書おくがき
  • 法華経ほけきょうひらきゆいども)10じょう さとしもりひつ ひろしもと元年がんねんねん奥書おくがき
  • よんふん戒本(ひろしもと元年がんねん奥書おくがき)1じょう、梵網けいひろしもと元年がんねん奥書おくがき)2じょうたから篋印陀羅尼だらにけい1じょう唯識ゆいしきさんじゅう頌・大乗だいじょうひゃくほうあかりもんろん般若心経はんにゃしんぎょうたからおさむ元年がんねん奥書おくがき)1じょう 以上いじょう5じょう さとしもりひつ
  • 瑜伽ゆがろん まきだいさんじゅうはち 弘安ひろやす五年中宮寺尼信如移点奥書(奈良なら時代じだい書写しょしゃ
  • 唐招提寺とうしょうだいじ一切経いっさいきょう 4,794じょうそうばん4,456じょうばん88じょう写本しゃほん250じょう もとばん大乗だいじょうけいうちばん83かん写本しゃほん29かん)269かん
  • れい私記しき断簡だんかんぐんぼうれい営繕えいぜんれいせきれい)2
  • 唐招提寺とうしょうだいじ文書ぶんしょ 2かん
  • みなみ贍部しゅうだい日本国にっぽんこく正統せいとう伝香寺でんこうじきゅうぞう

典拠てんきょ2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000ねん平成へいせい12ねん))による。

くに指定してい史跡しせき

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  • 唐招提寺とうしょうだいじきゅう境内けいだい

奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • きゅう一乗院いちじょういん僧正そうじょうもん建造けんぞうぶつ) - 江戸えど時代じだい前期ぜんき造営ぞうえい。1962ねん昭和しょうわ37ねん)7がつ12にち指定してい[40]
  • 絹本けんぽんちょしょく薬師くすしじゅう二神にかみすすむぞう絵画かいが) - 鎌倉かまくら時代じだい後期こうきさく。2007ねん平成へいせい19ねん)3がつ30にち指定してい[40]
  • かみ本金ほんきんちょしょく南蛮なんばんじん渡来とらい競馬けいば ろくきょく屏風びょうぶ 木製もくせい屏風びょうぶばこ 1ごう)(絵画かいが) - 江戸えど時代じだいさく。2017ねん平成へいせい29ねん)2がつ14にち指定してい[41][42]
  • くろうるしかおる工芸こうげいひん) - 室町むろまち時代ときよ文明ぶんめい10ねん(1478ねん)のさく。1996ねん平成へいせい8ねん)3がつ22にち指定してい[40]
  • 金銅かなどうそうたからぶんきょばこ蓮華れんげ文香あやかばこ 1そう工芸こうげいひん) - 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく鎌倉かまくら時代じだいさく。2001ねん平成へいせい13ねん)3がつ30にち指定してい[40]
  • 仏堂ぶつどうおさめおけ文書ぶんしょばこおよところおさむ文書ぶんしょ木札きふだ 5くち 1かん(10つう) 1つう歴史れきし資料しりょう) - 室町むろまち時代じだい。 2013ねん平成へいせい25ねん)3がつ29にち指定してい[40]

奈良なら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 絹本けんぽんちょしょく行基ぎょうき菩薩ぼさつぞう 1ぶく - 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 絹本けんぽんちょしょくもとあきら律師りっしぞう 1ぶく
  • 絹本けんぽんちょしょくきょうせい菩薩ぼさつぞう 1ぶく
  • どうしゅ錫杖しゃくじょう 1

その

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2014ねん平成へいせい26ねん)に西室にしむろあと周辺しゅうへんなどで三彩さんさいかわらしろみどりさんしょく釉薬(うわぐすり)をほどこしたかわら)がつかった[43][44]

行事ぎょうじ

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  • 梵網かい(うちわまき)(5月19にち) - 鎌倉かまくら時代ときよ唐招提寺とうしょうだいじ復興ふっこうしたさとしもり上人しょうにんしのんでおこなわれる行事ぎょうじさとしもり殺生せっしょう戒をまもり、ころさなかったといわれ、そのとくしのんだ法華寺ほっけじ尼僧にそうがせめてうちわではらえるようにと霊前れいぜんにうちわをそなえたのがはじまりといわれる。15、ハートがたをした1500まいのうちわがろうより参拝さんぱいしゃけばらかれる。このうちわはひろえた参拝さんぱいしゃから縁起物えんぎものとして非常ひじょう貴重きちょうがられている。がいむしよけや、かみなりよけなどのご利益りやくがあるとされる。かれるうちわはてら手作てづくりである。
  • 開山かいさん6月5にち - 7にち) - 6月6にち鑑真がんじん命日めいにちにあたり、その前後ぜんご3日間にちかん御影堂ごえどうにおいて国宝こくほう鑑真がんじん和上わじょうぞうひらけとびらする。同時どうじ東山ひがしやまいさおえびす障壁しょうへき公開こうかいされる。
  • 観月みづきさんふつかい(かんげつさんぶつえ、旧暦きゅうれき8がつ14にち - 16にち) - 夜間やかん金堂こんどうひらけとびらし、どうないさんみことぼとけがシルエットとしてかびがる。

前後ぜんご札所ふだしょ

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大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう
25 喜光よしみつてら - 26 唐招提寺とうしょうだいじ - 27 唐招提寺とうしょうだいじおくいん - 28 往生おうじょういん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
23 西大寺さいだいじ - 24 唐招提寺とうしょうだいじ - 25 薬師寺やくしじ

アクセス

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周辺しゅうへん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 盧舎那仏るしゃなぶつぞう光背こうはいほとけ員数いんずうについては資料しりょうによって「862」または「864」とある。『月刊げっかん文化財ぶんかざい』554ごう 特集とくしゅう唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう平成へいせいだい修理しゅうり」(だいいち法規ほうき、2009ねん平成へいせい21ねん))2ページの解説かいせつおく健夫たけお執筆しっぴつ)には「862」とあるが、おな特集とくしゅうの50ページ(神田かんだ雅章まさあき執筆しっぴつ)には「864」とあり、いずれが正確せいかくであるかは不明ふめいである。
  2. ^ 経蔵きょうぞう宝蔵ほうぞうでは、正面しょうめんとびらじょうかずことなる(経蔵きょうぞうは2箇、宝蔵ほうぞうは1箇)。
  3. ^ きゅう鴟尾しび2箇は2012ねん追加ついか指定してい[35]
  4. ^ 唐招提寺とうしょうだいじ塔頭たっちゅう法花ほうげいん法華ほっけいん)は1934ねん昭和しょうわ9ねん)まで唐招提寺とうしょうだいじ境内けいだいにあり、その奈良ならけん曽爾そにむら今井いまい移転いてんしたが、太平洋戦争たいへいようせんそう廃寺はいじとなった[39]

出典しゅってん

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  1. ^ 鑑真がんじんさんのおどうよみがえる 6がつ落慶らっけい法要ほうよう唐招提寺とうしょうだいじ”. 産経さんけいニュース (2022ねん4がつ6にち). 2022ねん4がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ 佐々木ささき閑「仏陀ぶっだ生涯しょうがい26」(動画どうが
  3. ^ 大橋おおはし、2016)p.14
  4. ^ もり2016ねん平成へいせい28ねん))p.89
  5. ^ 竹田たけだ、2016ねん平成へいせい28ねん))p.113
  6. ^ 片岡かたおか、2016ねん平成へいせい28ねん))p.145
  7. ^ 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん2009ねん平成へいせい21ねん))p.177
  8. ^ 上杉うえすぎ、2016ねん平成へいせい28ねん))pp.290 - 291
  9. ^ 鷲塚わしづか、2009ねん平成へいせい21ねん))p.27
  10. ^ はやし、2016ねん平成へいせい28ねん))pp.34 - 36
  11. ^ 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん、2009ねん平成へいせい21ねん))p.210
  12. ^ "創建そうけん伽藍がらん 東西とうざい255メートル"読売新聞よみうりしんぶん、2016ねん平成へいせい28ねん)9がつ1にち記事きじ)。
  13. ^ 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん、1993ねん平成へいせい5ねん))p.61
  14. ^ 鷲塚わしづか、2009ねん平成へいせい21ねん))p.28
  15. ^ 片岡かたおか、2016ねん平成へいせい28ねん))pp.146 - 147
  16. ^ 片岡かたおか、2016ねん平成へいせい28ねん))pp.149 - 150
  17. ^ 片岡かたおか、2016ねん平成へいせい28ねん))p.149
  18. ^ ひかりだに、2009ねん平成へいせい21ねん))pp.34 - 37
  19. ^ a b 片岡かたおか、2016ねん平成へいせい28ねん))p.147
  20. ^ 山本やまもと、1993ねん平成へいせい5ねん))p.2
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n 堀池ほりいけ 2007.
  22. ^ 山本やまもと、1993ねん平成へいせい5ねん))p.3
  23. ^ 細川ほそかわ、2009)p.40
  24. ^ a b 内田うちだ 2006, pp. 135–136.
  25. ^ 内田うちだ 2006, pp. 135–136, 169.
  26. ^ 京都きょうと奈良なら国宝こくほう建造けんぞうぶつだい損害そんがい大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』 - 1934ねん昭和しょうわ9ねん)9がつ23にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん - 昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp234 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん、1994ねん平成へいせい6ねん))
  27. ^ a b 田中たなかいずみ唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう解体かいたい修理しゅうり現場げんばから」『国宝こくほう鑑真がんじん和上わじょうてん図録ずろく所収しょしゅう、2009
  28. ^ ひかりだに拓実たくじつ年輪ねんりん年代ねんだい測定そくてい調査ちょうさ」『月刊げっかん文化財ぶんかざい』554ごうだいいち法規ほうき、2009
  29. ^ 金堂こんどう建築けんちくおよ平成へいせいだい修理しゅうりについては以下いか資料しりょう参照さんしょうした。
    • 鈴木すずき嘉吉よしきち金堂こんどう歴史れきし修理しゅうり」『国宝こくほう鑑真がんじん和上わじょうてん図録ずろく所収しょしゅう、2009ねん平成へいせい21ねん
    • 田中たなかいずみ唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう解体かいたい修理しゅうり現場げんばから」『国宝こくほう鑑真がんじん和上わじょうてん図録ずろく所収しょしゅう、2009ねん平成へいせい21ねん
    • 特集とくしゅう唐招提寺とうしょうだいじ よみがえる天平てんぴょういらか」『芸術げいじゅつ新潮しんちょう』720ごう(2009ねん12がつ)、新潮社しんちょうしゃ、2009ねん平成へいせい21ねん
    • 特集とくしゅう唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう 平成へいせいだい修理しゅうり」『月刊げっかん文化財ぶんかざい』554ごうだいいち法規ほうき、2009ねん平成へいせい21ねん
  30. ^ おく、2009)、pp.52 - 53
  31. ^ a b 神田かんだ、2009)、pp.48 - 51
  32. ^ 特集とくしゅう 唐招提寺とうしょうだいじ障壁しょうへきうみやま東山ひがしやまいさおえびす制作せいさく記録きろく NHK名作めいさくせん動画どうが静止せいし) -NHKアーカイブス
  33. ^ 経緯けいい著書ちょしょ唐招提寺とうしょうだいじへのみち』(新潮しんちょう選書せんしょ)にくわしい
  34. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか』「日本にっぽん国宝こくほう6」、pp.197 - 198(執筆しっぴつ松本まつもとおさむ
  35. ^ 平成へいせい24ねん7がつ9にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい107ごう
  36. ^ a b c d e れい4ねん9がつ20日はつか文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい119ごう
  37. ^ れい元年がんねん7がつ23にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい23ごう
  38. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していおよ登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の登録とうろくについて〜」 - (文化庁ぶんかちょうサイト、2019ねん平成へいせい31ねん)3がつ18にち発表はっぴょう
  39. ^ 唐招提寺とうしょうだいじしょういんが80ねんぶり里帰さとがえり - 産経さんけいWEST”. www.sankei.com (2014ねん3がつ11にち). 2016ねん3がつ4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん12月29にち閲覧えつらん
  40. ^ a b c d e 奈良ならけん指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん (PDF)奈良ならけんホームページ)。
  41. ^ かみ本金ほんきんちょしょく南蛮なんばんじん渡来とらい競馬けいば (PDF)奈良ならけんホームページ)。
  42. ^ 平成へいせい29ねん2がつ14にち奈良ならけん公報こうほうより奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい告示こくじだい19ごう (PDF) (リンクは奈良ならけんホームページ)。
  43. ^ 天平てんぴょう三彩さんさいかわら65てん - 唐招提寺とうしょうだいじ
  44. ^ ちかくの建物たてもの使用しようか - 唐招提寺とうしょうだいじ三彩さんさいかわら西室にしむろあと周辺しゅうへん 大量たいりょう出土しゅつど

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう6ごう 唐招提寺とうしょうだいじ』、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997ねん平成へいせい9ねん
  • 特別とくべつてん図録ずろく 国宝こくほう 鑑真がんじん和上わじょうてん』、奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん監修かんしゅう、TBS発行はっこう、2009ねん平成へいせい21ねん
  • 内田うちだ啓一けいいち文観もんかんぼうひろしん美術びじゅつ法藏館ほうぞうかん、2006ねんISBN 978-4831876393 
  • 大橋おおはしいちしょう片岡かたおか直樹なおき編著へんちょ唐招提寺とうしょうだいじ - 美術びじゅつ研究けんきゅうあゆみ - 』、さとぶん出版しゅっぱん、2016ねん平成へいせい28ねん
    • 大橋おおはしいちしょう唐招提寺とうしょうだいじ創立そうりつ
    • はやしみなみひさし鑑真がんじんわたり
    • もり美智代みちよ創建そうけん戒壇かいだん設営せつえい所在地しょざいち
    • 竹田たけだ慈子しげこ鑑真がんじん和上わじょうぞう制作せいさく背景はいけい
    • 片岡かたおか直樹なおき創建そうけん唐招提寺とうしょうだいじ伽藍がらん金堂こんどうさんぞう
    • 上杉うえすぎよし麿まろ鑑真がんじん和上わじょうりつむね伝来でんらい
  • 月刊げっかん文化財ぶんかざい』554(特集とくしゅう 唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう - 平成へいせいだい修理しゅうり)、だいいち法規ほうき、2009ねん平成へいせい21ねん
    • ひかりだに拓実たくじつ年輪ねんりん年代ねんだい測定そくてい調査ちょうさ
    • おく健夫たけお保存ほぞん修理しゅうりによるしん知見ちけん」(pp.52 - 53)
    • 神田かんだ雅章まさあき保存ほぞん修理しゅうり内容ないよう」(pp.48- 51)
  • 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょへん 『奈良ならてら』、岩波いわなみ新書しんしょ、2003ねん平成へいせい15ねん
    • 鷲塚わしづか泰光やすみつ唐招提寺とうしょうだいじ美術びじゅつ歴史れきし
    • 細川ほそかわ涼一りょういち中世ちゅうせい唐招提寺とうしょうだいじ復興ふっこうさとしもりけいえん
  • 堀池ほりいけはるほう唐招提寺とうしょうだいじ」『改訂かいてい新版しんぱん世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2007ねん 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 井上いのうえやすし森本もりもとたかしじゅん 『古寺ふるでら巡礼じゅんれい奈良なら9 唐招提寺とうしょうだいじ』、あわ交社、1979ねん昭和しょうわ54ねん)-監修かんしゅう井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか
  • 玉城たまき妙子たえこ唐招提寺とうしょうだいじ たくみいどむ』、小学館しょうがくかん、2005ねん平成へいせい17ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびすしょう画集がしゅう 唐招提寺とうしょうだいじぜん障壁しょうへき』、新潮しんちょう文庫ぶんこ、1984ねん昭和しょうわ59ねん
  • 東山ひがしやまいさおえびす 『唐招提寺とうしょうだいじへのみち』、新潮しんちょう選書せんしょ、1980ねん昭和しょうわ55ねん
  • 星山ほしやますすむ也 『唐招提寺とうしょうだいじ』、保育ほいくしゃ日本にっぽん古寺ふるでら美術びじゅつ8)、1987ねん昭和しょうわ62ねん
  • 森本もりもとたかし順序じゅんじょ徳田とくたあきらほん 『唐招提寺とうしょうだいじ』 学生がくせいしゃ、1998ねん平成へいせい10ねん)、 上記じょうき2さつ絶版ぜっぱんにつき、本書ほんしょ参照さんしょうしやすい。
  • 特別とくべつてん図録ずろく 唐招提寺とうしょうだいじ美術びじゅつ』、奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん、1993ねん平成へいせい5ねん
    • 山本やまもと信吉のぶよし唐招提寺とうしょうだいじ歴史れきし
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 奈良ならけん地名ちめい』(平凡社へいぼんしゃ
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 奈良ならけん』(角川書店かどかわしょてん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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