長江 ながえ
長江 ながえ の夕暮 ゆうぐ れ
国 くに
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく
支流 しりゅう
- 左 ひだり 支流 しりゅう
雅 まさ 礱江 , 岷江 , 沱江 , 嘉 よしみ 陵 りょう 江 こう , 漢江 かんこう
- 右 みぎ 支流 しりゅう
烏江 からすえ , 沅江 , 資 し 江 え , 湘江 , 贛江 , 黄 き 浦江 うらえ
市 し
宜 むべ 賓 まろうど 市 し , 瀘州市 し , 重慶 たーちん 市 し , 万 まん 州 しゅう 区 く , 宜 むべ 昌 あきら 市 し , 荊州市 し , 岳 たけ 陽 ひ 市 し , 武漢 ぶかん 市 し , 九 きゅう 江 え 市 し , 安 やす 慶 けい 市 し , 銅 どう 陵 りょう 市 し , 蕪 かぶら 湖 みずうみ 市 し , 南京 なんきん 市 し , 鎮江市 し , 南通 みなみとおり 市 し , 上海 しゃんはい 市 し
源流 げんりゅう
各 かく 拉 ひしげ 丹 に 冬 ふゆ 峰 ほう
- 所在地 しょざいち
タンラ山脈 さんみゃく , 青海 あおみ 省 しょう
- 標高 ひょうこう
5,042m (16,542ft)
- 座標 ざひょう
北緯 ほくい 32度 ど 36分 ふん 14秒 びょう 東経 とうけい 94度 ど 30分 ふん 44秒 びょう / 北緯 ほくい 32.60389度 ど 東経 とうけい 94.51222度 ど / 32.60389; 94.51222
合流 ごうりゅう 地 ち
東シナ海 ひがししなかい
- 所在地 しょざいち
上海 しゃんはい 市 し と江蘇 ちぁんすー 省 しょう 南 みなみ 通 どおり
- 座標 ざひょう
北緯 ほくい 31度 ど 23分 ふん 37秒 びょう 東経 とうけい 121度 ど 58分 ふん 59秒 びょう / 北緯 ほくい 31.39361度 ど 東経 とうけい 121.98306度 ど / 31.39361; 121.98306 座標 ざひょう : 北緯 ほくい 31度 ど 23分 ふん 37秒 びょう 東経 とうけい 121度 ど 58分 ふん 59秒 びょう / 北緯 ほくい 31.39361度 ど 東経 とうけい 121.98306度 ど / 31.39361; 121.98306
長 なが さ
6,300km (3,915mi) [1]
流域 りゅういき
1,808,500 km² (698,266 sq mi ) [2]
流量 りゅうりょう
- 平均 へいきん
20,066 m3 /s (708,624 cu ft/s) [3]
- 最大 さいだい
110,000 m3 /s (3,884,613 cu ft/s) [4] [5]
- 最小 さいしょう
2,000 m3 /s (70,629 cu ft/s)
長江 ちょうこう 流 りゅう 路 ろ 図 ず
長江 ながえ (ちょうこう、簡体字 かんたいじ 中国語 ちゅうごくご : 长江 、拼音 : Cháng Jiāng [ヘルプ /ファイル ] )は、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 青海 あおみ 省 しょう のチベット高原 こうげん を水源 すいげん 地域 ちいき とし、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の華中 かちゅう 地域 ちいき を流 なが れ東シナ海 ひがししなかい へと注 そそ ぐ川 かわ である。全長 ぜんちょう は6,300 km で、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく およびアジア で最長 さいちょう 、世界 せかい でもナイル川 がわ 、アマゾン川 あまぞんがわ に次 つ ぐ第 だい 3位 い の大河 たいが である。
中国 ちゅうごく 国外 こくがい では、最 さい 下流 かりゅう 部 ぶ の異称 いしょう である「揚子江 ようすこう 」(ようすこう、簡 : 扬子江 こう 、拼音 : Yángzǐ Jiāng [ヘルプ /ファイル ] 、英 えい : Yangtze River )の名 な で良 よ く知 し られる。古語 こご では江 こう (こう)。音訳 おんやく する場合 ばあい は「長 ちょう 」のみを音訳 おんやく しチャン川 がわ (Chang River) とすることもあるが、「江 こう 」が本来 ほんらい の河川 かせん 名 めい であることから、(他 た の中国 ちゅうごく の河川 かせん を「片仮名 かたかな +川 かわ 」とする場合 ばあい でも)チャンチアン とすることもある[6] 。
青海 あおみ 省 しょう のタンラ山脈 さんみゃく からチベット高原 こうげん 、四川 しせん 盆地 ぼんち 、三 さん 峡 かい を経 へ て湖北 こほく 省 しょう 宜 むべ 昌 あきら 市 し に至 いた るまでが長江 ながえ 上流 じょうりゅう (最 さい 上流 じょうりゅう の通 つう 天 てん 河 かわ 、四川 しせん 西部 せいぶ の金沙江 きむしゃこう 、四川 しせん 東部 とうぶ の川 かわ 江 え )、宜 むべ 昌 あきら から江西 えにし 省 しょう 湖 みずうみ 口 こう 県 けん までが中流 ちゅうりゅう (荊江)、湖 みずうみ 口 こう から上海 しゃんはい 市 し の東シナ海 ひがししなかい 河口 かこう までが下流 かりゅう (揚子江 ようすこう )にあたる。
その流域 りゅういき には成都 せいと 、武漢 ぶかん 、重慶 たーちん などの重要 じゅうよう 工業 こうぎょう 都市 とし 、上海 しゃんはい 、南京 なんきん などの商業 しょうぎょう 都市 とし を含 ふく む中国 ちゅうごく の19の省 しょう (市 し 、自治 じち 区 く )があり、全 ぜん 流域 りゅういき の人口 じんこう は約 やく 4億 おく 5000万 まん にも達 たっ している。古 ふる くから水上 すいじょう 交易 こうえき の盛 さか んだった華中 かちゅう でも中心 ちゅうしん 的 てき な交通 こうつう 路 ろ として利用 りよう されてきた。
世界 せかい 主要 しゅよう 河川 かせん の比較 ひかく
アマゾン川 あまぞんがわ
ナイル川 がわ
ミシシッピ川 がわ
長江 ながえ
ヴォルガ川 がわ
コンゴ川 がわ
長 なが さ (km)
6,516
6,650
3,779
6,300
3,700
4,700
流域 りゅういき 面積 めんせき (100万 まん km2 )
7.05
2.9
3.2
1.8
1.3
3.7
平均 へいきん 流量 りゅうりょう (1000 m3 /s.)
297
2-3
18
21
8
39
長江 ながえ 流域 りゅういき
上流 じょうりゅう 部 ぶ は金沙江 きむしゃこう (きんさこう)またはディチュ河 かわ (チベット語 ご : vbri-chu、འབྲི་ཆུ་、「母 はは ヤク の川 かわ 」)、下流 かりゅう 部 ぶ は揚子江 ようすこう (ようすこう、中国 ちゅうごく 語 ご 拼音字母 じぼ : Yáng zǐ Jiāng [ヘルプ /ファイル ] )とも呼 よ ばれる。後者 こうしゃ は本来 ほんらい は揚子 ようこ 橋 きょう という橋 はし の名前 なまえ だったが、西洋 せいよう 人 じん により長江 ながえ 全体 ぜんたい の名前 なまえ として誤用 ごよう された(英語 えいご の「Yangtze 」など)。
河 かわ と江 こう は本来 ほんらい 固有名詞 こゆうめいし であり、「河 かわ 」は黄河 こうが を、「江 こう 」は長江 ちょうこう を意味 いみ する。長江 ちょうこう 南岸 なんがん の湿潤 しつじゅん な稲作 いなさく 地帯 ちたい は「江南 こうなん 」と呼 よ ばれ、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 南部 なんぶ の東海岸 ひがしかいがん 地域 ちいき は「江東 こうとう 」となる。
流域 りゅういき の地形 ちけい [ 編集 へんしゅう ]
長江 ながえ 源流 げんりゅう 、タンラ山脈 さんみゃく の氷河 ひょうが
チベット高原 こうげん (青海 あおみ 省 しょう )。青 あお 蔵 ぞう 鉄道 てつどう が上流 じょうりゅう を渡 わた る。
長江 ながえ 流域 りゅういき は、中国 ちゅうごく 中部 ちゅうぶ ・南部 なんぶ の広 ひろ い範囲 はんい を覆 おお っており、源流 げんりゅう から河口 かこう の標高 ひょうこう 差 さ は5,400 m に達 たっ し、その地形 ちけい も高原 こうげん 、褶曲 しゅうきょく 山脈 さんみゃく 、低 ひく い山地 さんち ・丘陵 きゅうりょう 、盆地 ぼんち 、平野 へいや など多岐 たき にわたる。流域 りゅういき は、西部 せいぶ の高原 こうげん ・高山 たかやま 地区 ちく 、中部 ちゅうぶ の中山 なかやま ・低 てい 山地 やまち 区 く 、東部 とうぶ の丘陵 きゅうりょう ・平原 ひらはら 地区 ちく に大 おお きく分 わ けられる。
まず四川 しせん 省 しょう の広元 ひろもと 市 し と雅 まさ 安 やすし 市 し を結 むす ぶ線 せん から西 にし は高原 こうげん ・高山 たかやま 地区 ちく であり、さらに二 ふた つに分 わ けることができる。すなわち、水源 すいげん 近 ちか くの標高 ひょうこう 5,000 mから4,000 mのチベット高原 こうげん を流 なが れる地域 ちいき と、四川 しせん 省 しょう 西部 せいぶ の標高 ひょうこう 5,000 mを超 こ える褶曲 しゅうきょく 山脈 さんみゃく (横断 おうだん 山脈 さんみゃく )に囲 かこ まれた険 けわ しい峡谷 きょうこく を流 なが れる地域 ちいき である。こうした山地 さんち はプレート がぶつかり合 あ っている場所 ばしょ で、地震 じしん 活動 かつどう も活発 かっぱつ である。
湖北 こほく 省 しょう 襄 じょう 陽 ひ 市 し ・宜 むべ 昌 あきら 市 し ・凱里市 し より西 にし は中部 ちゅうぶ の中山 なかやま ・低 てい 山地 やまち 区 く で、さらに三 みっ つに分 わ けることができる。北側 きたがわ の四川 しせん 省 しょう ・陝西 せんせい 省 しょう ・湖北 こほく 省 しょう をまたぐ秦 はた 嶺 みね 山脈 さんみゃく 、大 だい 巴 ともえ 山脈 さんみゃく 、南側 みなみがわ の湖北 こほく 省 しょう ・湖南 こなん 省 しょう ・貴 き 州 しゅう 省 しょう をまたぐ鄂黔山地 さんち 、これらに挟 はさ まれた四川 しせん 盆地 ぼんち の三 さん 地区 ちく である。
宜 むべ 昌 あきら より東 ひがし は東部 とうぶ の丘陵 きゅうりょう ・平原 ひらはら 地区 ちく で、さらに三 みっ つに分 わ けることができる。北側 きたがわ の淮陽低 てい 山 やま 丘陵 きゅうりょう 区 く 、南側 みなみがわ の江南 こうなん 低 てい 山 やま 丘陵 きゅうりょう 区 く 、その間 あいだ の長江 ながえ 中 ちゅう 下流 かりゅう 平原 ひらばら 区 く である。このほか、様々 さまざま な平野 へいや や盆地 ぼんち にこれらを分 わ けることができる。たとえば武漢 ぶかん 周辺 しゅうへん の長江 ちょうこう と漢 かん 水 すい が交 まじ わるあたりの江漢 こうかん 平原 へいげん 、湖南 こなん 省 しょう の洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ 平原 ひらはら 、江西 えにし 省 しょう の鄱陽湖 みずうみ 平原 ひらはら 、安徽 あんき 省 しょう の巣 す 湖 みずうみ 平原 ひらはら 、江蘇 ちぁんすー 省 しょう の長江 ながえ デルタ などは本流 ほんりゅう 沿 ぞ いの地形 ちけい で、支流 しりゅう 沿 ぞ いには漢 かん 中 ちゅう 盆地 ぼんち 、南陽 なんよう 盆地 ぼんち などがある。
流域 りゅういき の周 まわ りは山地 さんち に囲 かこ まれている。流域 りゅういき の北 きた には崑崙山 こんろんざん 脈 みゃく 、バヤンカラ山脈 さんみゃく (巴 ともえ 顔 がお 喀拉山脈 さんみゃく )、秦 はた 嶺 みね 山脈 さんみゃく 、大 だい 巴 ともえ 山脈 さんみゃく があり、南 みなみ には南 みなみ 嶺 みね 山脈 さんみゃく 、武 たけ 夷 えびす 山脈 さんみゃく 、天目 てんもく 山脈 さんみゃく がある。
源 みなもと 流域 りゅういき と通 つう 天 てん 河 かわ [ 編集 へんしゅう ]
青海 あおみ 省 しょう 南部 なんぶ には、長江 ちょうこう の源流 げんりゅう とされる三 みっ つの川 かわ がある。一番 いちばん の源流 げんりゅう (本源 ほんげん )がタンラ山脈 さんみゃく (唐古 からこ 拉 ひしげ 山脈 さんみゃく )の氷河 ひょうが に発 はっ する沱沱河 かわ (トト河 かわ )、南 みなみ の源流 げんりゅう (南 みなみ 源 げん )がタンラ山脈 さんみゃく 東部 とうぶ の広大 こうだい な沼地 ぬまち 帯 おび に発 はっ する当 とう 曲 きょく (ダムチュー)、北 きた の源流 げんりゅう (北 きた 源 げん )が野生 やせい 生物 せいぶつ の多 おお いフフシル 山地 さんち に発 はっ する楚 すわえ 瑪爾河 かわ (チュマル河 かわ )である。
これらの川 かわ は、タンラ山脈 さんみゃく の北 きた に広 ひろ がるチベット高原 こうげん 北東 ほくとう 部 ぶ の地帯 ちたい の峡谷 きょうこく を流 なが れる。途中 とちゅう で沱沱河 かわ は当 とう 曲 きょく と合流 ごうりゅう して通 つう 天 てん 河 かわ となり、曲 きょく 麻 あさ 萊県 の西部 せいぶ で楚 すわえ 瑪爾河 かわ とも合流 ごうりゅう する。通 つう 天 てん 河 かわ は沱沱河 かわ と当 とう 曲 きょく の合流 ごうりゅう 地点 ちてん から玉樹 たまき チベット族 ぞく 自治 じち 州 しゅう の巴 ともえ 塘河口 かこう までの813キロメートルの区間 くかん である。巴 ともえ 塘河(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 口 くち からは金沙江 きむしゃこう と名 な が変 か わる。
長江 ながえ の源流 げんりゅう については長年 ながねん 考察 こうさつ が加 くわ えられてきたが、明 あきら 代 だい に地理 ちり 学者 がくしゃ ・徐 じょ 霞 かすみ 客 きゃく が金沙江 きむしゃこう を源流 げんりゅう とする論考 ろんこう を残 のこ し、さらに清 きよし 代 だい には通 つう 天 てん 河 かわ の存在 そんざい も知 し られるようになった。1956年 ねん と1977年 ねん の長江 ながえ 源 はじめ 流域 りゅういき 調査 ちょうさ により、沱沱河 かわ が長江 ちょうこう の源流 げんりゅう と定 さだ められた。
上流 じょうりゅう の金沙江 きむしゃこう 。雲南 うんなん 省 しょう の虎 とら 跳 とべ 峡 かい
雲南 うんなん 省 しょう 麗 うらら 江 え 市 し 石 せき 鼓 こ 鎮で南 みなみ 向 む きから北 きた 向 む きへ180度 ど 流 なが れを変 か える金沙江 きむしゃこう (長江 ちょうこう 第 だい 一 いち 湾 わん )
金沙江 きむしゃこう は長江 ちょうこう の上流 じょうりゅう 部 ぶ であり、青海 あおみ 省 しょう 西南 せいなん 部 ぶ の玉樹 たまき チベット族 ぞく 自治 じち 州 しゅう の巴 ともえ 塘河口 こう から、四川 しせん 省 しょう 宜 むべ 賓 まろうど 市 し の岷江 合流 ごうりゅう 点 てん までを指 さ す。全長 ぜんちょう は2,308 km、流域 りゅういき 面積 めんせき は340,000 km2 で、落差 らくさ は3,300 mに達 たっ する。チベット語 ご でディチュ河 かわ (ワイリー拡張 かくちょう 方式 ほうしき のチベット語 ご 表記 ひょうき : 'bri chu)と呼 よ ばれる川 かわ と部分 ぶぶん 的 てき に重 かさ なる。
岷江 と金沙江 きむしゃこう が合流 ごうりゅう し長江 ちょうこう が始 はじ まる地点 ちてん (四川 しせん 省 しょう 宜 むべ 賓 まろうど 市 し 岷江口 こう )
青海 あおみ 省 しょう 西部 せいぶ で発 はっ した後 のち 、南 みなみ の崑崙山 こんろんざん 脈 みゃく へ向 む かい、青海 あおみ 省 しょう とチベット(西蔵 とりぞう )自治 じち 区 く の境界 きょうかい をなすタンラ山脈 さんみゃく の北 きた 麓 ふもと を流 なが れ、チベット東部 とうぶ のカム 地方 ちほう を東西 とうざい に二分 にぶん している。東経 とうけい 97度 ど 、北緯 ほくい 27–37度 ど 付近 ふきん では、中国 ちゅうごく の行政 ぎょうせい 区分 くぶん でいう「西蔵 とりぞう 」と「四川 しせん 」の境界 きょうかい となっている。
また四川 しせん 省 しょう から雲南 うんなん 省 しょう にかけての褶曲 しゅうきょく 山脈 さんみゃく 地帯 ちたい (横断 おうだん 山脈 さんみゃく )では、南東 なんとう へ流 なが れる金沙江 きむしゃこう と瀾滄江 こう (メコン川 がわ 上流 じょうりゅう 部 ぶ )、怒 いか 江 こう (サルウィン川 がわ 上流 じょうりゅう 部 ぶ )がそれぞれ深 ふか い谷間 たにま を刻 きざ みながら平行 へいこう に流 なが れ、三江 みえ 併流 をなしている。この三江 みえ 併流部分 ぶぶん の三 さん 河川 かせん 間 あいだ の距離 きょり は小 ちい さく、金沙江 きむしゃこう と瀾滄江 こう が最 もっと も接近 せっきん する地点 ちてん では37 kmしか離 はな れていない。
雲南 うんなん 省 しょう のシャングリラ市 し (旧称 きゅうしょう :中 ちゅう 甸県)から玉 たま 竜 りゅう ナシ族 ぞく 自治 じち 県 けん の間 あいだ では、金沙江 きむしゃこう は「虎 とら 跳 とべ 峡 かい 」と呼 よ ばれる大 だい 峡谷 きょうこく を流 なが れている。左岸 さがん には哈巴雪山 ゆきやま 、右岸 うがん には玉 たま 龍 りゅう 雪山 ゆきやま という5,000 m級 きゅう の高山 こうざん がそそり立 た ち、川 かわ の両 りょう 岸 きし には落差 らくさ 2,000 mにも及 およ ぶ断崖絶壁 だんがいぜっぺき が迫 せま っている。
ここまではほぼ北 きた から南 みなみ へと流 なが れていた金沙江 きむしゃこう は、麗 うらら 江 え 市 し の玉 たま 竜 りゅう ナシ族 ぞく 自治 じち 県 けん 石 いし 鼓 こ 鎮において流 りゅう 路 ろ をほぼ反転 はんてん させ、南 みなみ から北 きた へと流 なが れるようになる。この大 だい 蛇行 だこう は長江 ちょうこう 第 だい 一 いち 湾 わん と呼 よ ばれ、観光 かんこう 名所 めいしょ となっている。ここでの流 りゅう 路 ろ 変更 へんこう が地図 ちず 上 じょう ではあまりに鋭角 えいかく で不自然 ふしぜん な流 なが れであることから、河川 かせん 争奪 そうだつ が起 お こり、そのまま南 みなみ へと流 なが れ紅 べに 河 かわ となっていた上流 じょうりゅう 部 ぶ が長江 ちょうこう へと奪 うば われ東 ひがし へ流 なが れるようになったという説 せつ が提唱 ていしょう された[8] 。この説 せつ に対 たい する反論 はんろん としては石 いし 鼓 こ のような高度 こうど の高 たか い高原 こうげん においては河川 かせん 争奪 そうだつ は起 お きにくく、また南 みなみ へと続 つづ くルート上 じょう の堆積 たいせき 物 ぶつ と金沙江 きむしゃこう 上 じょう 流域 りゅういき の地質 ちしつ がまったく違 ちが うことや、現在 げんざい の流 りゅう 路 ろ と地質 ちしつ 構造 こうぞう 線 せん が一致 いっち していることなどが挙 あ げられる。この長江 ちょうこう 第 だい 一 いち 湾 わん は流 ながれ 路 ろ の大 おお きな転換 てんかん 点 てん であり、ここまで南 みなみ へと流 なが れていた長江 ながえ はここから基本 きほん 的 てき には東 ひがし 流 りゅう するようになる。
金沙江 きむしゃこう は攀 よじ 枝 えだ 花 はな 市 し において雅 まさ 礱江 を合 あ わせる。攀 よじ 枝 えだ 花 はな 市 し は1965年 ねん に建設 けんせつ された新 あたら しい都市 とし であり、攀 よじ 鋼 こう 集団 しゅうだん を中心 ちゅうしん とする鉄鋼 てっこう 業 ごう を基盤 きばん とする。また、攀 よじ 枝 えだ 花 はな 市 し は長江 ちょうこう 本流 ほんりゅう 沿 ぞ いの大都市 だいとし としては最 もっと も上流 じょうりゅう に位置 いち し、成 なり 昆 こん 線 せん がここで金沙江 きむしゃこう を渡 わた る。さらに東 ひがし へ流 なが れる金沙江 きむしゃこう は、山岳 さんがく 部 ぶ を抜 ぬ けて四川 しせん 盆地 ぼんち に入 はい り宜 むべ 賓 まろうど 市 し の岷江口 こう で岷江 と合流 ごうりゅう し、長江 ちょうこう と名 な を変 か える。
長江 ながえ 中流 ちゅうりゅう に面 めん する湖北 こほく 省 しょう 宜 むべ 昌 あきら 市 し
宜 むべ 賓 まろうど から湖北 こほく 省 しょう 宜 むべ 昌 あきら 市 し まで、四川 しせん 盆地 ぼんち や三 さん 峡 かい を流 なが れる長江 ながえ 上流 じょうりゅう は、四川 しせん を流 なが れることから俗 ぞく に「川 かわ 江 え 」と呼 よ ばれる。険 けわ しい山岳 さんがく 地帯 ちたい を流 なが れてきた源流 げんりゅう 部 ぶ とは違 ちが い、宜 むべ 賓 まろうど より下流 かりゅう は流 なが れも緩 ゆる やかになり、船 ふね の航行 こうこう も可能 かのう となる。宜 むべ 賓 まろうど からは四川 しせん 盆地 ぼんち の南 みなみ 縁 えん を流 なが れ、重慶 たーちん 市 し に達 たっ する。重慶 たーちん は南西 なんせい から流 なが れてきた長江 ながえ と北 きた から流 なが れてきた嘉 よしみ 陵 りょう 江 こう が合流 ごうりゅう する地点 ちてん に発達 はったつ した都市 とし であり、四川 しせん 盆地 ぼんち 東部 とうぶ の中心 ちゅうしん 都市 とし として、また大型 おおがた 船舶 せんぱく の終着 しゅうちゃく 地点 ちてん としても重要 じゅうよう な役割 やくわり も果 は たしている。三 さん 峡 かい ダムの建設 けんせつ によって、それまで3,000 t 級 きゅう の船 ふね しか遡上 そじょう できなかったのが10,000 t級 きゅう の大型 おおがた 船舶 せんぱく まで重慶 たーちん に航行 こうこう できるようになり、河港 かこう 都市 とし としての重慶 たーちん の重要 じゅうよう 性 せい はより増 ま した。重慶 たーちん 市 し 中心 ちゅうしん 部 ぶ を過 す ぎると四川 しせん 盆地 ぼんち は終 お わり、両側 りょうがわ には険 けわ しい山岳 さんがく が迫 せま るようになる。重慶 たーちん 市 し 奉 たてまつ 節 ふし 県 けん の白 しろ 帝 みかど 城 じょう を過 す ぎると、宜 むべ 昌 あきら 市 し までの間 あいだ は瞿塘峡 かい 、巫 みこ 峡 かい 、西陵 せいりょう 峡 かい の三 みっ つの大 だい 峡谷 きょうこく 、いわゆる三 さん 峡 かい が120 kmにわたって続 つづ き、重慶 たーちん から「長江 ちょうこう 三 さん 峡 かい 下 くだ り 」を楽 たの しむ観光 かんこう 客 きゃく も多 おお い。三 さん 峡 かい の終点 しゅうてん である宜 よろし 昌 あきら 市 し には2012年 ねん に三 さん 峡 かい ダム が完成 かんせい し、膨大 ぼうだい な電力 でんりょく を生 う み出 だ し流量 りゅうりょう を調節 ちょうせつ している。一方 いっぽう で、このダムの完成 かんせい は景勝 けいしょう 地 ち であった三 さん 峡 かい の風景 ふうけい を変化 へんか させ、また上流 じょうりゅう に住 す む140万 まん 人 にん の住民 じゅうみん は移住 いじゅう を余儀 よぎ なくされることとなった[12] 。この三 さん 峡 かい の終点 しゅうてん までが、長江 ちょうこう の上 うえ 流域 りゅういき となっている。
湖北 こほく 省 しょう 黄 き 岡市 おかいち から望 のぞ む長江 ちょうこう と対岸 たいがん の鄂州市 し
宜 むべ 昌 あきら から江西 えにし 省 しょう 九 きゅう 江 え 市 し までの長江 ちょうこう 中流 ちゅうりゅう は、古代 こだい の荊州 (湖北 こほく 省 しょう 一帯 いったい )を流 なが れることから俗 ぞく に「荊江」と呼 よ ばれる。荊江は長江 ながえ 中 ちゅう 下流 かりゅう の平原 へいげん 地帯 ちたい を流 なが れるために、川 かわ 江 え よりもさらに緩 ゆる やかな流 なが れになる。古来 こらい より要衝 ようしょう として栄 さか えた江 こう 陵 りょう 市 し を過 す ぎ、岳 たけ 陽 ひ 市 し で長江本 ながえほん 流 りゅう は洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ に接 せっ する。もっとも、江 こう 陵 りょう 付近 ふきん から岳 たけ 陽 ひ までの間 あいだ では直接 ちょくせつ の接点 せってん 以外 いがい にも4本 ほん の支流 しりゅう が長江本 ながえほん 流 りゅう から洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ へと流 なが れ込 こ んでおり、洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ に供給 きょうきゅう される水量 すいりょう の半分 はんぶん は長江 ちょうこう から流 なが れ込 こ むものである。このため、洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ は長江 ちょうこう の遊水地 ゆうすいち 的 てき 役割 やくわり を果 は たしており、増水 ぞうすい 期 き には通常 つうじょう 時 じ よりかなり面積 めんせき が増大 ぞうだい する。一方 いっぽう で、長江 ちょうこう 上流 じょうりゅう から流 なが れ込 こ む膨大 ぼうだい な土砂 どしゃ と干拓 かんたく は洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ の面積 めんせき を縮小 しゅくしょう させ続 つづ けており、現在 げんざい では通常 つうじょう 時 じ は東 ひがし ・南 みなみ ・西 にし の3つの湖 みずうみ に分 わ かれてしまううえ、増水 ぞうすい 時 じ の面積 めんせき でも半分 はんぶん 以下 いか にまで減少 げんしょう し、鄱陽湖 みずうみ に抜 ぬ かれてしまった[13] 。岳 たけ 陽 ひ 市 し の、長江 ちょうこう と洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ が接 せっ する地点 ちてん に建 た てられた岳 たけ 陽 ひ 楼 ろう は雄大 ゆうだい な景観 けいかん で知 し られ、瀟湘八景 はっけい のひとつにも数 かぞ えられ、また杜 もり 甫 はじめ や孟 はじめ 浩然 こうぜん 、范仲淹 などの名 な だたる詩人 しじん がここで多 おお くの詩文 しぶん を生 う み出 だ した。
岳 たけ 陽 ひ で長江本 ながえほん 流 りゅう は北東 ほくとう に転 てん じ、その下流 かりゅう には赤 あか 壁 かべ があり、ここで208年 ねん に曹操 そうそう 軍 ぐん と孫 まご 権 けん ・劉 りゅう 備連合 れんごう 軍 ぐん の間 あいだ で赤 あか 壁 かべ の戦 たたか い が起 お こった。そこから下流 かりゅう に行 い くと、長江 ながえ は西 にし から流 なが れてきた漢 かん 水 すい と合流 ごうりゅう する。この合流 ごうりゅう 地点 ちてん は水陸 すいりく 交通 こうつう の交 まじ わる要衝 ようしょう であり、長江 ちょうこう と漢 かん 水 すい によって分 わ けられた北 きた の漢 かん 口 こう ・西 にし の漢 かん 陽 ひ ・南 みなみ の武 たけ 昌 あきら の3都市 とし が発達 はったつ していた。武漢 ぶかん 三 さん 鎮と呼 よ ばれたこの3都市 とし は1926年 ねん に合併 がっぺい して武漢 ぶかん 市 し となり、長江 ながえ 中 ちゅう 流域 りゅういき 最大 さいだい の都市 とし となっている。武漢 ぶかん で長江 ながえ は南東 なんとう へと転 てん じ、江西 えにし 省 しょう の九 きゅう 江 え 市 し で再 ふたた び北東 ほくとう へと転 てん ずる。この九 きゅう 江 え 市 し は鄱陽湖 みずうみ と長江本 ながえほん 流 りゅう との接点 せってん にある都市 とし である。鄱陽湖 みずうみ は洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ と同 おな じく長江 ちょうこう の遊水池 ゆうすいち 的 てき 役割 やくわり を持 も っているが、近年 きんねん では洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ と同 おな じく面積 めんせき 縮小 しゅくしょう が起 お こっている[14] 。洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ の東洞 ひがしぼら 庭 にわ 湖 みずうみ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 、南 みなみ 洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) と西洞 さいと 庭 にわ 湖 みずうみ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) [15] [16] [17] および鄱陽湖 みずうみ の2か所 しょ [18] [19] はラムサール条約 じょうやく に登録 とうろく されている。
九 きゅう 江 え から先 さき は長江 ちょうこう 下流 かりゅう であり、特 とく に江蘇 ちぁんすー 省 しょう 揚 あげ 州 しゅう 市 し から鎮江市 し 付近 ふきん 、およびそれより下流 かりゅう では、かつて「揚子 ようこ 津 つ 渡口 とぐち 」という渡 わた し があったことから「揚子江 ようすこう 」と呼 よ ばれていた。これが中国 ちゅうごく 国外 こくがい で長江 ながえ を指 さ す言葉 ことば としても用 もち いられるようになっている。九 きゅう 江 え からは長江 ながえ は北東 ほくとう に再 ふたた び転 てん じ、南京 なんきん で東 ひがし へと向 む かう。南京 なんきん は六朝 りくちょう や明 あきら などの各 かく 王朝 おうちょう が都 と した古都 こと であり、江南 こうなん のみならず長江 ちょうこう 流域 りゅういき の政治 せいじ 的 てき 中心 ちゅうしん の役割 やくわり を幾度 いくど となく握 にぎ ってきた。南京 なんきん より下流 かりゅう は長江 ちょうこう の河口 かこう デルタ地域 ちいき となるが、この長江 ながえ の流 なが れる江蘇 ちぁんすー 省 しょう 南部 なんぶ に銭 ぜに 塘江流域 りゅういき の浙江 せっこう 省 しょう 北部 ほくぶ を加 くわ えた地域 ちいき は長江 ながえ デルタ と呼 よ ばれ、中国 ちゅうごく 総 そう 人口 じんこう の10%、中国 ちゅうごく 国内 こくない 総 そう 生産 せいさん (GDP)の22.3%(2008年 ねん )を占 し める中国 ちゅうごく 最大 さいだい の工業 こうぎょう ・経済 けいざい 地域 ちいき となっている。そして、長江 ちょうこう の河口 かこう に位置 いち するのが中国 ちゅうごく 最大 さいだい の都市 とし である上海 しゃんはい である。上海 しゃんはい は、長江 ながえ 水運 すいうん と海運 かいうん との結節 けっせつ 点 てん として急速 きゅうそく に発達 はったつ した都市 とし である。河口 かこう には巨大 きょだい な沖積 ちゅうせき 島 とう である崇 たかし 明島 あからじま が浮 う かんでいる。
安徽 あんき 省 しょう 池州 いけす 市 し の河畔 かはん にある昇 のぼり 金 きん 湖 みずうみ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) [21] 、上海 しゃんはい 市 し 崇 たかし 明島 あからじま 東部 とうぶ の崇 たかし 明 あきら 東灘 ひがしなだ 湿地 しっち (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) [22] および長江 ながえ 河口 かこう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の長江 ちょうこう 口 こう カラチョウザメ自然 しぜん 保護 ほご 区 く (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) [23] はラムサール条約 じょうやく に登録 とうろく されている。
紀元前 きげんぜん 14000年 ねん 頃 ごろ から長江 ながえ 文明 ふみあき と呼 よ ばれる文明 ぶんめい が流域 りゅういき に成立 せいりつ し、北 きた の黄河 こうが 文明 ぶんめい と密接 みっせつ に関係 かんけい しながら成長 せいちょう していったが、やがて黄河 こうが 文明 ぶんめい と融合 ゆうごう するようになり、春秋 しゅんじゅう 時代 じだい には上 うえ 流域 りゅういき に巴 ともえ ・蜀 しょく 、中 ちゅう 流域 りゅういき に楚 すわえ 、下 しも 流域 りゅういき に呉 ご ・越 こし などの国家 こっか が成立 せいりつ して黄河 こうが 流域 りゅういき の諸 しょ 国家 こっか と争 あらそ った。戦国 せんごく 時代 じだい に入 はい ると上 うえ 流域 りゅういき は秦 はた 、中 ちゅう 下 か 流域 りゅういき は楚 すわえ が制 せい したが、やがて秦 はた が強大 きょうだい 化 か し、紀元前 きげんぜん 223年 ねん には秦 はた が楚 すわえ を滅 ほろ ぼして長江 ちょうこう 流域 りゅういき は全 すべ て秦 しん の統治 とうち 下 か に入 はい った。以後 いご 、幾度 いくど も王朝 おうちょう の交代 こうたい はあったものの、基本 きほん 的 てき には黄河 こうが 流域 りゅういき と長江 ちょうこう 流域 りゅういき は統一 とういつ 王朝 おうちょう の下 した に置 お かれることとなった。
後 こう 漢 かん 王朝 おうちょう が滅亡 めつぼう し、222年 ねん に建 けん 業 ぎょう に都 と した呉 ご が成立 せいりつ すると、280年 ねん に呉 ご が晋 すすむ に滅 ほろ ぼされて一 いち 度 ど は統一 とういつ されるものの、晋 すすむ 王朝 おうちょう が八 はち 王 おう の乱 らん によって混乱 こんらん したのち滅亡 めつぼう する。独自 どくじ の文化 ぶんか が花開 はなひら いた。華北 かほく が五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく および北朝 ほくちょう 時代 じだい を通 つう じて北方 ほっぽう 遊牧 ゆうぼく 民族 みんぞく 系 けい の王朝 おうちょう が交代 こうたい したのに対 たい し、南朝 なんちょう は一貫 いっかん して漢人 かんど 王朝 おうちょう であった。
南北 なんぼく 朝 あさ を統一 とういつ した隋 ずい は黄河 こうが 流域 りゅういき と長江 ちょうこう 流域 りゅういき を結合 けつごう させるため、610年 ねん に大 だい 運河 うんが を完成 かんせい させた。この運河 うんが によって長江 ながえ と黄河 こうが は結 むす ばれ、特 とく に長江 ちょうこう 下 か 流域 りゅういき は経済 けいざい 的 てき に大 だい 発展 はってん して中国 ちゅうごく の経済 けいざい 的 てき な中心 ちゅうしん 地 ち となった。唐 とう 代 だい には既 すで に経済 けいざい の中心 ちゅうしん は長江 ちょうこう 下 か 流域 りゅういき に移 うつ っており、ここを握 にぎ っていたことで安史 やすし の乱 らん によって衰退 すいたい した唐 から 王朝 おうちょう は乱 らん 後 ご もなお1世紀 せいき 以上 いじょう 存続 そんぞく することができた。唐 とう が黄 き 巣 す の乱 らん によって衰退 すいたい して滅亡 めつぼう すると、長江 ちょうこう 上 じょう 流域 りゅういき には前 ぜん 蜀 しょく および後 こう 蜀 しょく 、中 ちゅう 流域 りゅういき には荊南 および楚 すわえ 、下 しも 流域 りゅういき には呉 ご 、南 みなみ 唐 とう および呉 ご 越 えつ といった国々 くにぐに が割拠 かっきょ して、黄河 こうが 流域 りゅういき を押 お さえた各 かく 王朝 おうちょう と対立 たいりつ した。なかでも南 みなみ 唐 とう は楚 すわえ や閩 を滅 ほろ ぼし中原 なかはら 王朝 おうちょう と十分 じゅうぶん に対抗 たいこう できる力 ちから を有 ゆう していたが、後 こう 周 しゅう の世 よ 宗 むね によって958年 ねん に敗北 はいぼく させられ衰退 すいたい した。これをきっかけに後 こう 周 しゅう は強大 きょうだい 化 か し、最終 さいしゅう 的 てき に後 こう 周 しゅう を継 つ いだ宋 そう 王朝 おうちょう (北 きた 宋 そう )によって長江 ながえ 流域 りゅういき の諸 しょ 王朝 おうちょう は次々 つぎつぎ と滅 ほろ ぼされ、978年 ねん には長江 ちょうこう 流域 りゅういき 最後 さいご の独立 どくりつ 王朝 おうちょう だった呉 ご 越 えつ が降伏 ごうぶく して南北 なんぼく は再 ふたた び統一 とういつ された。1126年 ねん に北 きた 宋 そう が金 かね によって滅 ほろ ぼされると宋 そう は南 みなみ 遷 うつ し、1127年 ねん に南 みなみ 宋 そう 王朝 おうちょう が成立 せいりつ して再 ふたた び長江 ちょうこう 流域 りゅういき と黄河 こうが 流域 りゅういき は分裂 ぶんれつ した。南 みなみ 宋 そう 時代 じだい には長江 ちょうこう 流域 りゅういき の開発 かいはつ がさらに進 すす められ経済 けいざい 的 てき には絶頂 ぜっちょう を迎 むか えた。長江 ちょうこう 下 か 流域 りゅういき の穀物 こくもつ 生産 せいさん が伸 の び、「江 こう 浙熟すれば天下 てんか 足 た る」と称 しょう されたのもこの頃 ころ のことである。やがて金 きむ を滅 ほろ ぼした元 もと が侵攻 しんこう し、1279年 ねん に南 みなみ 宋 そう は滅亡 めつぼう した。元 もと が衰亡 すいぼう すると、長江 ちょうこう 流域 りゅういき には湖北 こほく の陳 ちん 友 とも 諒 りょう 、集 しゅう 慶 けい (後 ご の南京 なんきん )の太 ふとし 祖 そ 洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど 、蘇州 そしゅう の張 ちょう 士 し 誠 まこと の3人 にん の群雄 ぐんゆう が並 なら び立 た ったが、太 ふとし 祖 そ 洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど が両 りょう 勢力 せいりょく を滅 ほろ ぼして長江 ながえ 中 ちゅう 下 か 流域 りゅういき を統一 とういつ 。この地方 ちほう の経済 けいざい 力 りょく を背景 はいけい に北 きた 伐 き を行 おこな って元 もと を北 きた へ追 お いやり、1368年 ねん に中国 ちゅうごく を統一 とういつ すると集 しゅう 慶 けい を応 おう 天 てん 府 ふ と改 あらた めて首都 しゅと に定 さだ めた。長江 ちょうこう 流域 りゅういき から興 おこ った王朝 おうちょう が中国 ちゅうごく を統一 とういつ したのはこれが唯一 ゆいいつ のことである。この明 あきら は太 ふとし 祖 そ 洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど ・建 けん 文 ぶん 帝 みかど の2代 だい にわたって応 おう 天 てん 府 ふ に首都 しゅと を置 お いたが、靖 やすし 難 なん の変 へん によって帝位 ていい を奪 うば った永楽 えいらく 帝 みかど は1421年 ねん に首都 しゅと を再 ふたた び北京 ぺきん に移 うつ し、長江 ちょうこう 下 か 流域 りゅういき は再 ふたた び経済 けいざい のみの中心 ちゅうしん 地 ち となった。明朝 みんちょう 期 き には長江 ちょうこう 下流 かりゅう では商品 しょうひん 作物 さくもつ の栽培 さいばい などに重点 じゅうてん が移 うつ って穀物 こくもつ 生産 せいさん が低下 ていか し、かわって長江 ながえ 中 ちゅう 流域 りゅういき に穀物 こくもつ 生産 せいさん 地 ち が移動 いどう して「湖 みずうみ 広 ひろ 熟 じゅく せば天下 てんか 足 た る」と呼 よ ばれるようになった。
清 きよし の時代 じだい も19世紀 せいき 半 なか ばを過 す ぎると統治 とうち が緩 ゆる み始 はじ め、長江 ちょうこう 流域 りゅういき も混乱 こんらん に巻 ま き込 こ まれることとなった。1851年 ねん には洪秀全 こうしゅうぜん によって太平 たいへい 天国 てんごく の乱 らん が起 お き、1864年 ねん に滅 ほろ ぼされるまで長江 ながえ 中 ちゅう 下 か 流域 りゅういき の広 ひろ い範囲 はんい を支配 しはい 下 か に置 お いた。19世紀 せいき 末 まつ になると列強 れっきょう 諸国 しょこく が中国 ちゅうごく を各国 かっこく の勢力 せいりょく 範囲 はんい に分割 ぶんかつ する中 なか 、長江 ちょうこう 流域 りゅういき はイギリス の勢力 せいりょく 範囲 はんい となった。1911年 ねん に武 たけ 昌 あきら で武 たけ 昌 あきら 起 おこり 義 よし が起 お きたのをきっかけとして辛 からし 亥 い 革命 かくめい が起 お き、清朝 せいちょう が倒 たお れ中華民国 ちゅうかみんこく が成立 せいりつ すると首都 しゅと は当初 とうしょ 南京 なんきん に置 お かれたが、袁世凱 によってすぐに北京 ぺきん へと遷都 せんと された。後 のち に蔣介石 せき 政権 せいけん は南京 なんきん を首都 しゅと とし、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 時 とき は重慶 たーちん へ疎開 そかい 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち に成立 せいりつ した中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は北京 ぺきん を首都 しゅと としている。
気候 きこう と流域 りゅういき の産業 さんぎょう [ 編集 へんしゅう ]
長江 ながえ 流域 りゅういき の降水 こうすい 量 りょう は全般 ぜんぱん に多 おお く、年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう が1,000 mm を下回 したまわ るところはほとんどない。源流 げんりゅう 部 ぶ を除 のぞ く流域 りゅういき の大半 たいはん は温暖 おんだん 湿潤 しつじゅん 気候 きこう に属 ぞく し、上流 じょうりゅう 部 ぶ や周辺 しゅうへん 部 ぶ には一部 いちぶ 温帯 おんたい 夏 なつ 雨 う 気候 きこう 地域 ちいき も存在 そんざい する。黄河 こうが 流域 りゅういき と長江 ちょうこう 流域 りゅういき はだいたい秦 はた 嶺 みね ・淮河線 せん によって分割 ぶんかつ されるが、この線 せん は年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう 1,000 mm線 せん とほぼ一致 いっち しており、そのためこの線 せん の南北 なんぼく 、すなわち黄河 こうが 流域 りゅういき と長江 ちょうこう 流域 りゅういき では主 しゅ 穀 こく や農作物 のうさくもつ 、それを栽培 さいばい する農業 のうぎょう 全般 ぜんぱん 、さらには文化 ぶんか 全般 ぜんぱん にいたるまで、様々 さまざま な違 ちが いがある。黄河 こうが 流域 りゅういき が畑作 はたさく を基盤 きばん とした区域 くいき であるのに対 たい し、長江 ちょうこう 流域 りゅういき は水田 すいでん を基盤 きばん とし、コメ を主 おも 穀 こく として栽培 さいばい する。長江 ちょうこう 流域 りゅういき では、果物 くだもの は柑橘類 かんきつるい を中心 ちゅうしん にしている。絶 た えず旅 たび をするという意味 いみ の「南船北馬 なんせんほくば 」という言葉 ことば が表 あらわ す通 とお り、長江 ちょうこう 流域 りゅういき では陸運 りくうん よりも船 ふね などを利用 りよう した水運 すいうん がどちらかといえば歴史 れきし 的 てき に盛 さか んであった。
洪 ひろし 湖 みずうみ 市 し の長江 ちょうこう の堤防 ていぼう 。「住 じゅう 血 ち 吸虫 がいるため、人 ひと や家畜 かちく が水 みず に入 はい ることは固 かた く禁 きん じられている」と警告 けいこく されている。
長江 ながえ は全域 ぜんいき が湿潤 しつじゅん な地域 ちいき を流 なが れるため、半 はん 乾燥 かんそう 地域 ちいき を流 なが れる北 きた の黄河 こうが に比 くら べ流量 りゅうりょう が非常 ひじょう に多 おお い。黄河 こうが では近代 きんだい 以降 いこう 水路 すいろ としての重要 じゅうよう 性 せい が急速 きゅうそく に低下 ていか したのと比 くら べ、長江 ながえ は現在 げんざい でも交通 こうつう 路 ろ として極 きわ めて重要 じゅうよう である。かつて10000トン級 きゅう の大型 おおがた 船舶 せんぱく は武漢 ぶかん 市 し までしか航行 こうこう できなかったが、三 さん 峡 かい ダムの建設 けんせつ に伴 ともな い重慶 たーちん 市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ まで10000トン級 きゅう の船 ふね が遡上 そじょう できるようになった[26] 。
また、豊富 ほうふ な水量 すいりょう を誇 ほこ る長江 ちょうこう に比 くら べ、北方 ほっぽう の黄河 こうが 流域 りゅういき は気候 きこう も乾燥 かんそう しているうえに人口 じんこう に比 くら べて水量 すいりょう が少 すく なく、華北 かほく 平原 へいげん や北京 ぺきん などでは水不足 みずぶそく が問題 もんだい となっていた。これを解消 かいしょう するため、長江 ちょうこう から取水 しゅすい して黄河 こうが 流域 りゅういき へと水 みず を送 おく る南 みなみ 水北 すいほく 調 ちょう 計画 けいかく が立案 りつあん された。この計画 けいかく は1952年 ねん に毛沢東 もうたくとう が構想 こうそう したものが起源 きげん であるとされるが、着工 ちゃっこう は2002年 ねん までずれこんだ。この計画 けいかく では長江 ちょうこう の取水 しゅすい 口 こう および北方 ほっぽう への送水 そうすい 路 ろ は、西 にし 線 せん 、中央 ちゅうおう 線 せん 、東 ひがし 線 せん の3ルートが計画 けいかく された。東 ひがし 線 せん はほぼ河口 かこう 部 ぶ にあたる江蘇 ちぁんすー 省 しょう の揚 あげ 州 しゅう 市 し から取水 しゅすい し、大 だい 運河 うんが に沿 そ ってポンプで揚水 ようすい しながら北 きた へ送 おく り、黄河 こうが の下 した をトンネルでくぐって華北 かほく 平原 へいげん へ給水 きゅうすい し、天津 てんしん 市 し まで水 みず を送 おく るルートである。中央 ちゅうおう 線 せん は長江 ちょうこう 中流 ちゅうりゅう 部 ぶ にそそぐ支流 しりゅう の漢江 かんこう に丹 に 江口 えぐち ダムを建設 けんせつ し、ここから北 きた へと送水 そうすい する。このルートでは鄭 てい 州 しゅう 市 し で黄河 こうが を越 こ え、華北 かほく 平原 へいげん 西部 せいぶ に給水 きゅうすい しながら北京 ぺきん へと到達 とうたつ するルートである。西 にし 線 せん は、長江 ちょうこう 上流 じょうりゅう の通 つう 天 てん 河 かわ と支流 しりゅう の雅 みやび 礱江、大 だい 渡河 とか といった源流 げんりゅう 部 ぶ にある諸 しょ 河川 かせん にダムを建設 けんせつ し、巴 ともえ 顔 がお 喀拉山脈 さんみゃく (バヤンカラ山脈 さんみゃく )にトンネルを掘 ほ って、黄河 こうが 上流 じょうりゅう に直接 ちょくせつ 水 みず を流 なが し込 こ むルートである。このルートでは黄河 こうが の水 みず が直接 ちょくせつ 増加 ぞうか するため、黄河 こうが 上流 じょうりゅう 部 ぶ 各省 かくしょう のみならず断 だん 流 りゅう に苦 くる しむ黄河 こうが 自体 じたい の水量 すいりょう 調整 ちょうせい も期待 きたい できるルートである。しかしながら、この3ルートにはそれぞれ弱点 じゃくてん があった。東 ひがし ルートは水量 すいりょう は多 おお いものの、長江 ちょうこう の末端 まったん 部分 ぶぶん から取水 しゅすい するために長江 ちょうこう の水 みず が汚染 おせん されており、浄化 じょうか に多大 ただい なコストがかかることや、地形 ちけい 的 てき に水 みず をくみ上 あ げる必要 ひつよう があるため、運用 うんよう コストがかかること。中央 ちゅうおう 線 せん はやや高地 こうち から取水 しゅすい するため自然 しぜん 流下 りゅうか で北京 ぺきん まで送 おく ることができコストも安 やす く、水質 すいしつ もきれいだが、水路 すいろ が長大 ちょうだい になること。西 にし 線 せん は水量 すいりょう も水質 すいしつ も良好 りょうこう だが、巨大 きょだい 山脈 さんみゃく を貫通 かんつう するトンネルを掘 ほ らねばならず、また貴重 きちょう な自然 しぜん の残 のこ る長江 ちょうこう 上 じょう 流域 りゅういき の環境 かんきょう を破壊 はかい することが懸念 けねん された。こうした中 なか 工事 こうじ は2002年 ねん に東 ひがし 線 せん 、2003年 ねん に中央 ちゅうおう 線 せん が着工 ちゃっこう され、2014年 ねん には中央 ちゅうおう 線 せん が開通 かいつう して送水 そうすい が開始 かいし され、水 みず が華北 かほく ・北京 ぺきん へと送 おく られるようになった。しかし、この計画 けいかく によって長江 ながえ 流域 りゅういき の33万 まん 人 にん の住民 じゅうみん が移住 いじゅう を余儀 よぎ なくされた[27] 。また、西 にし 線 せん はその工事 こうじ の難易 なんい 度 ど や環境 かんきょう への影響 えいきょう などから、いまだ着工 ちゃっこう されていない。
しかし、南 みなみ 水北 すいほく 調 ちょう によって取水 しゅすい される長江 ちょうこう 自体 じたい も流域 りゅういき 人口 じんこう の増大 ぞうだい や経済 けいざい 成長 せいちょう に伴 ともな い、水量 すいりょう の不足 ふそく が懸念 けねん されるようになってきている。源 みなもと 流域 りゅういき のチベット高原 こうげん では重要 じゅうよう な水源 すいげん となる湿原 しつげん の消失 しょうしつ が続 つづ いており、長江 ちょうこう や黄河 こうが といった大 だい 河川 かせん の水量 すいりょう への影響 えいきょう が懸念 けねん されている[28] 。長江 ちょうこう の水量 すいりょう は基本 きほん 的 てき に多 おお く安定 あんてい しているものの、毎年 まいとし のように水害 すいがい や、逆 ぎゃく に渇水 かっすい に見舞 みま われている。1998年 ねん には大 だい 洪水 こうずい が起 お き、8400万 まん 人 にん 以上 いじょう が被災 ひさい した。2007年 ねん には夏季 かき に水害 すいがい が多発 たはつ した[30] 。一方 いっぽう 、3か月 げつ 後 ご の2008年 ねん 1月 がつ には干 かん ばつによって水位 すいい は過去 かこ 140年間 ねんかん で最低 さいてい レベルに下 さ がった[31] 。
上 うえ 流域 りゅういき においては森林 しんりん の乱伐 らんばつ が進 すす み、土砂 どしゃ が大量 たいりょう に長江 ちょうこう に流入 りゅうにゅう するようになった。これにより長江 ながえ の土砂 どしゃ 量 りょう は激増 げきぞう し、非常 ひじょう に大量 たいりょう の土砂 どしゃ を運搬 うんぱん する黄河 こうが のようになると危惧 きぐ されるようになった。1998年 ねん の長江 ながえ 大 だい 洪水 こうずい もこの森林 しんりん 乱伐 らんばつ による上流 じょうりゅう の保水 ほすい 量 りょう の低下 ていか が原因 げんいん として挙 あ げられており、これ以降 いこう 中国 ちゅうごく 政府 せいふ は上流 じょうりゅう 地域 ちいき において退 すさ 耕 たがやせ 還 かえ 林 はやし (農地 のうち への植林 しょくりん )や裸 はだか 地 ち への植林 しょくりん を積極 せっきょく 的 てき に進 すす めるようになった。
また、長江 ちょうこう の特 とく に下 しも 流域 りゅういき においては水質 すいしつ の悪化 あっか も深刻 しんこく である。2006年 ねん に長江 ちょうこう に排出 はいしゅつ された汚水 おすい の総量 そうりょう は305億 おく トンに達 たっ し、20年 ねん 前 まえ と比 くら べると倍増 ばいぞう している[32] 。
長江 ながえ にはいくつかの固有 こゆう 種 しゅ が生息 せいそく しているが、開発 かいはつ の進展 しんてん に伴 ともな いこれらの貴重 きちょう な生物 せいぶつ の生息 せいそく 環境 かんきょう が大幅 おおはば に変化 へんか し、いくつかの種 たね は絶滅 ぜつめつ の危機 きき に瀕 ひん している。特 とく に下 しも 流域 りゅういき に主 おも に生息 せいそく していたヨウスコウカワイルカ は、2006年 ねん に6週間 しゅうかん の調査 ちょうさ にもかかわらず1頭 とう も確認 かくにん することができず、絶滅 ぜつめつ が懸念 けねん されている[34] 。同 おな じく絶滅 ぜつめつ が危惧 きぐ される長江 ちょうこう のスナメリ に関 かん しては、2012年 ねん に生息 せいそく 数 すう の調査 ちょうさ が行 おこな われた[35] 。カラチョウザメ も長江 ちょうこう に生息 せいそく しているが、2014年 ねん の調査 ちょうさ では自然 しぜん 生殖 せいしょく が確認 かくにん できず、絶滅 ぜつめつ の危険 きけん 性 せい が増大 ぞうだい したと考 かんが えられている[36] 。また、ヨウスコウカワイルカ、カラチョウザメ、スナメリのほか、洞 ほら 庭 にわ 湖 みずうみ および鄱陽湖 みずうみ はソデグロヅル 、コウノトリ の生息 せいそく 地 ち であり[15] [16] [17] [18] [19] 、昇 のぼり 金 きん 湖 みずうみ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) にはアカハジロ 、ソデグロヅル、コウノトリ、ナベヅル などが生息 せいそく しており[21] 、河口 かこう 一帯 いったい はヘラシギ 、クロツラヘラサギ 、ナベヅル、ハシナガチョウザメ 、マッコウクジラ などの生息 せいそく 地 ち である[22] [23] 。
長江 ちょうこう では約 やく 30万 まん 人 にん が漁業 ぎょぎょう に従事 じゅうじ しているが魚類 ぎょるい の種類 しゅるい ・数 かず の減少 げんしょう が深刻 しんこく であるため、中国 ちゅうごく 政府 せいふ は2021年 ねん から10年間 ねんかん 、長江 ながえ を禁漁 きんぎょ とする措置 そち を導入 どうにゅう している[37] 。
雲南 うんなん の峡谷 きょうこく 地帯 ちたい を流 なが れる金沙江 きむしゃこう
宜 むべ 昌 あきら 市 し 付近 ふきん の河岸 かわぎし
四川 しせん 省 しょう 東部 とうぶ を
流 なが れ
重慶 たーちん 市 し 中心 ちゅうしん 部 ぶ で
長江 ちょうこう にそそぐ
嘉 よしみ 陵 りょう 江 こう
四川 しせん 省 しょう 中央 ちゅうおう 部 ぶ を
流 なが れる
岷江
四川 しせん 省 しょう 西部 せいぶ を
流 なが れる
雅 まさ 礱江
橋 はし ・トンネル・渡 わた し[ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん 付近 ふきん の長江 ちょうこう を行 い き交 か う船 ふね
黄 き 浦江 うらえ が長江 ちょうこう の最下 さいか 流 りゅう に合流 ごうりゅう する場所 ばしょ にある港湾 こうわん 地帯 ちたい (上海 しゃんはい 市 し 宝山 たからやま 区 く )
長江 ながえ を渡 わた る多数 たすう の橋 はし 、トンネル 、渡 わた し がある。主 おも なものを、下流 かりゅう から上流 じょうりゅう の順 じゅん に挙 あ げる。
長江 ながえ の各 かく 部分 ぶぶん での自然 しぜん 景観 けいかん ・人工 じんこう 物 ぶつ (橋 はし ・ダムなど)の名勝 めいしょう で観光 かんこう が行 おこな われているだけでなく、中流 ちゅうりゅう 部 ぶ の重慶 たーちん から武漢 ぶかん までの川 かわ 江 こう では、「長江 ちょうこう 三 さん 峡 かい 下 くだ り 」の観光 かんこう が歴史 れきし 的 てき にも有名 ゆうめい である。
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