袁世凱

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

Yuan Shikai

袁世凱(中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとう

任期にんき 1913ねん10がつ10日とおか1915ねん12月12にち
1916ねん3月22にち – 1916ねん6月6にち
首相しゅしょう くままれよわい
まごたから
じょあきら
だん祺瑞

中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ
だい2だい 臨時りんじだい総統そうとう
任期にんき 1912ねん3がつ10日とおか1913ねん10がつ10日とおか
首相しゅしょう から紹儀
りくしるしさち
ちょう秉鈞

任期にんき 1911ねん11月16にち1912ねん2がつ12にち
皇帝こうてい せんすべみかど

出生しゅっしょう 咸豊9ねん8がつ20日はつか (1859-09-16) 1859ねん9月16にち
きよし 河南かなんしょうひねしゅうこうぐすくけん
死去しきょ (1916-06-06) 1916ねん6月6にち(56さいぼつ
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく きょうちょう地方ちほう
政党せいとう 共和党きょうわとう
配偶はいぐうしゃ 于氏(正妻せいさい
沈氏

きむ

楊氏

ちょう
かく
りゅう
署名しょめい
ひろしけんみかど
中華ちゅうか帝国ていこく
皇帝こうてい
王朝おうちょう 中華ちゅうか帝国ていこく
在位ざいい期間きかん 1915ねん12月12にち - 1916ねん3月22にち即位そくいしきおこなわれず)
都城みやこのじょう 北京ぺきん
せいいみな 袁世凱
慰亭
ちち 袁保ちゅう
はは りゅう
年号ねんごう ひろしけん : 1915ねん - 1916ねん
袁世凱
職業しょくぎょう 軍人ぐんじん政治せいじ
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ 袁世凱
簡体字かんたいじ 袁世凯
拼音 Yuán Shìkǎi
ラテン Yuan Shikai
和名わみょう表記ひょうき えん せいがい
発音はつおん転記てんき ユエン・シーカイ
テンプレートを表示ひょうじ
朝鮮ちょうせん活躍かつやくしていたころわかき袁世凱

(えん せいがい、ユエン・シーカイ、拼音: Yuán Shìkǎi英語えいご:Yuan Shikai、1859ねん9月16にち咸豊9ねん8がつ20日はつか) - 1916ねん6月6にち)は、中国ちゅうごく清末きよすえみんはつ軍人ぐんじん政治せいじ初代しょだい中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとう北洋ほくよう軍閥ぐんばつ総帥そうすいだいきよし帝国ていこくだい2だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんつとめたが、清朝せいちょう崩壊ほうかいだい2だい中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじだい総統そうとう初代しょだい中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとう就任しゅうにん一時いちじてき存在そんざいした中華ちゅうか帝国ていこく使用しようされた元号げんごうよりひろしけんみかどばれることもある。

慰亭(いてい)、ごうようあん(ようあん)。中華ちゅうか帝国ていこく時代じだいひろしけん皇帝こうてい(こうけんこうてい、英語えいご:Hongxian Emperor)と自称じしょうした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

清朝せいちょう陸軍りくぐん洋式ようしきにな台頭たいとう[編集へんしゅう]

生家せいかは、官僚かんりょう軍人ぐんじんおお輩出はいしゅつした地元じもとでも指折ゆびおりのぞくであった。そういったなかまれた袁世凱は、わかころから立身出世りっしんしゅっせつよ願望がんぼういていたとおおくの伝記でんきかたっている。

まず官僚かんりょうこころざして科挙かきょに2挑戦ちょうせんしたが、どちらも1度目どめ試験しけん及第きゅうだいせず断念だんねんした。そこで軍人ぐんじんとなることをこころざし、ひかりいとぐち7ねん1881ねん)には鴻章こうしう幕下まくした淮軍とうじ、朝鮮ちょうせんわたった。その任地にんち発生はっせいしたみずのえうまへんみずのえうま事変じへん)・きのえさるへんきのえさる政変せいへん)では閔妃びんび要請ようせいしたたくみなきで鎮圧ちんあつ貢献こうけんし、情勢じょうせいきよし有利ゆうりみちびいた。そして事実じじつじょう朝鮮ちょうせん公使こうしとして鴻章こうしう監督かんとくした朝鮮ちょうせん内政ないせいにも干渉かんしょうできるほどのおおきな権限けんげんった。清国きよくにから派遣はけんされていた袁世凱は、清国きよくにないでは一介いっかい武弁ぶべんにすぎなかったが、朝鮮ちょうせんでは国王こくおうでさえ服従ふくじゅうするような強大きょうだい権限けんげんっていたが、袁世凱指導しどうかん城府じょうふのインフラや治安ちあん悲惨ひさん状態じょうたいであった[1]清国きよくに指導しどうで、外交がいこう顧問こもんにはうまたてつねもと神戸こうべ大阪おおさか領事りょうじ)と、メレンドルフむかれられ、朝鮮ちょうせん政治せいじ外交がいこう経済けいざい完全かんぜん清国きよくに掌握しょうあくしており、属国ぞっこくというより植民しょくみんであった[1]

袁世凱は朝鮮ちょうせん政経せいけい両面りょうめんともにきよし勢力せいりょく扶植ふしょくして、対抗たいこうする日本にっぽん勢力せいりょく排除はいじょしようとかんがえ、とく経済けいざいてきには一定いってい成果せいかげている。ところがひかりいとぐち20ねん1894ねん)、まずしさと圧政あっせいあえいだ朝鮮ちょうせん民衆みんしゅうきのえうま農民のうみん戦争せんそうひがしがくとうらん)をこした。朝鮮ちょうせんきよしぐん派遣はけん要請ようせいし、日本にっぽん対抗たいこうして派兵はへいした。これによりにちしん戦争せんそう勃発ぼっぱつする。

しかしにちしん戦争せんそうきよし大敗たいはいわり、鴻章こうしう責任せきにんわれ失脚しっきゃく敗北はいぼくなかで袁は本当ほんとう意味いみ近代きんだいした軍隊ぐんたい必要ひつようせい痛感つうかんした。当時とうじきよし軍隊ぐんたいは、軍備ぐんび資金しきんあたえられても上官じょうかんによる横領おうりょう頻発ひんぱつ満足まんぞく装備そうびたなかったり、装備そうび充実じゅうじつしていても兵隊へいたい規律きりつがなっていなかった。袁世凱は戦後せんごあいだもないひかりいとぐち21ねん1895ねん)10がつにはえびす燏棻からがれた陸軍りくぐんていぐん)の洋式ようしき職務しょくむき、近代きんだい兵器へいきともなったへい訓練くんれんきびしい規律きりつなどを実施じっしし、おおきな成果せいかげた。当時とうじ欧米おうべいじん日本人にっぽんじんも、袁世凱の軍隊ぐんたい視察しさつしてたか評価ひょうかくだしている。当時とうじの袁世凱の軍隊ぐんたいのことを新建しんたけ陸軍りくぐんぶ。袁世凱の要請ようせいで、公使館こうしかんづけ武官ぶかん青木あおきせんじゅん軍事ぐんじ顧問こもんとして新建しんたけ陸軍りくぐん指導しどう育成いくせいした。袁世凱は青木あおきを「もっと信頼しんらいできる日本人にっぽんじん」とひょうしていたという。

この軍事ぐんじりょくこそが袁世凱のちから基礎きそとなり、その北洋ほくようぐん屋台骨やたいぼねとなった。人材じんざいめんでも、だん祺瑞馮国あきらおうめずらし(その北洋ほくよう三羽烏さんばがらすばれる)らはこの時期じきから袁世凱の幕下まくしたはいり、かれささえることとなる。

へんほう義和よしかずだんらん[編集へんしゅう]

ひかりいとぐち24ねん1898ねん)のつちのえいぬへんほうさいには康有為こうゆういりょうあきらちょうへんほう当初とうしょ支持しじした。ぐん洋式ようしきすすめていた袁世凱にとっても、へんほう主張しゅちょうこのましくおもえるものであった。かれ自身じしんりょうあきらちょう学習がくしゅうサークルであるつよ学会がっかい所属しょぞくしていたこともある。しかしへんほう形勢けいせいおもわしくないとた袁世凱は、たん嗣同ちかけられていたへんほうによるクーデター計画けいかく西にしふとしきさき側近そっきんさかえろく密告みっこくし、その功績こうせきによってへんほうつちのえいぬ政変せいへんたおされたのちも、西にしふとしきさき信頼しんらいひかりいとぐち25ねん1899ねん)には山東さんとうめぐなでにんぜられた。

義和よしかずだんらんでは袁世凱はみずからの治下ちかでの反乱はんらん逸早いちはや鎮圧ちんあつし、新建しんたけ陸軍りくぐんつよさを証明しょうめいした。西にしふとしきさきいただ朝廷ちょうてい各省かくしょう指導しどうしゃ義和よしかずだんむすんで欧米おうべい列国れっこくぐん攻撃こうげきする命令めいれいくだすが、袁世凱はりょうこう総督そうとく鴻章こうしうりょうこう総督そうとくりゅうひつじさるいちみずうみこう総督そうとくちょうほららと協調きょうちょうし、しょ外国がいこく東南とうなん互保盟約めいやくむすび、朝廷ちょうてい命令めいれいにはしたがわず領土りょうど軍隊ぐんたい保全ほぜんした。結局けっきょく義和よしかずだんらん列国れっこくぐんによって鎮圧ちんあつされ、西にしふとしきさき動員どういんされた北京ぺきん周辺しゅうへんしんぐんはほとんど壊滅かいめつし、袁世凱のちから相対そうたいてきつよまることとなった。

ひかりいとぐち27ねん1901ねん)、鴻章こうしうぼっするにたって袁世凱に北洋ほくよう通商つうしょう大臣だいじんけんちょく隷総とくぎ、北洋ほくようぐん誕生たんじょうする。従来じゅうらい新建しんたけ陸軍りくぐん事務じむくわえ、ちょく隷総とく北洋ほくよう大臣だいじんたことで政治せいじてき立場たちばがった。そのさかえろく有力ゆうりょくしゃぼっしていくなか権勢けんせいつよめた。

にち戦争せんそうとききよし表面ひょうめんじょう厳正げんせい中立ちゅうりつであったが、袁世凱は諜報ちょうほう馬賊ばぞくたい編成へんせいなどで日本にっぽん協力きょうりょくし、諜報ちょうほう将校しょうこう日本にっぽんぐん特別とくべつ任務にんむはん派遣はけんした。これは、開戦かいせん先立さきだひかりいとぐち29ねん1903ねん)11がつ中旬ちゅうじゅん、袁世凱は青木あおきせんじゅん天津てんしん会見かいけんして、「情報じょうほうはい次第しだい日本にっぽんがわわたす。馬賊ばぞく使用しようかんしては、その蜂起ほうきちょく隷省以外いがいおこなうのなら支障ししょうないので、秘密裏ひみつり援助えんじょしよう」と返答へんとうしていたことによる。これにもとづき、袁世凱はりぬきの将校しょうこうらをまんしゅうこうむいにしえ奥深おくふかく、しん国境こっきょう付近ふきんまで潜入せんにゅうさせた。

「ストロング・マン」袁世凱[編集へんしゅう]

袁世凱(1912ねんごろ)。“Strong Man”の異名いみょうをとったが、かなり小柄こがらであった
袁世凱(きよし国内こくないかく総理そうり大臣だいじん時代じだい

この時期じきから袁世凱は政治せいじとしても活躍かつやくし、いわゆるひかりいとぐち新政しんせい中心ちゅうしんてき人物じんぶつとなった。かれった政策せいさくとは、国債こくさいなどによってしょ外国がいこくからかねり、その資金しきんによって陸軍りくぐん洋式ようしき教育きょういく機関きかん拡充かくじゅう鉄道てつどう銀行ぎんこうなどのインフラ整備せいびおこなっていくというものであった。この方式ほうしきからし革命かくめいのちかれだい総統そうとうになったのち変化へんかがなく、にちどくえいふつ列強れっきょうカ国かこくからりた。資金しきんりることで列強れっきょう侵略しんりゃくされるリスクについては、各国かっこく平均へいきんしてたよることで回避かいひ可能かのうであるとかんがえていた。にち戦争せんそう日本にっぽんひがしさんしょうにおいて独占どくせんてき権益けんえき確保かくほくわだてるが、かれアメリカ同地どうち介入かいにゅうさせることで、日本にっぽん侵食しんしょく阻止そししようとしている。

1907ねんには軍機ぐんき大臣だいじん外務がいむ尚書しょうしょとなった。この時期じき辰丸たつまる事件じけん中国ちゅうごく南部なんぶ沿岸えんがん日貨にっか排斥はいせき運動うんどうあおるなど、日本にっぽん影響えいきょうりょく活動かつどうおこなった。

清朝せいちょう崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

1912ねん3がつ10日とおかせんすべみかど退位たいいとともに袁世凱は中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんした

ひかりいとぐち34ねん1908ねん)にひかりいとぐちみかど崩御ほうぎょ、その翌日よくじつ西にしふとしきさき病没びょうぼつしてせんすべみかど即位そくいせんすべみかどちちあつし親王しんのう摂政せっしょうおうとして政権せいけん担当たんとうすると袁世凱の政界せいかいでの状況じょうきょう一変いっぺんする。あつし親王しんのうつちのえいぬへんほうあにこういとぐちみかど裏切うらぎった袁世凱をにくんでおり、せんみつる元年がんねん1909ねん)の年初ねんしょに袁世凱を失脚しっきゃくさせた。さらに袁世凱を殺害さつがいする計画けいかくもあったが、内部ないぶ情報じょうほうてかろうじて北京ぺきんのがれた。すべてのしょくうしなった袁世凱は、河南かなんしょうあきらとくちかくにきょかまえ、失意しつい日々ひびごすこととなる。しかし、一方いっぽうかれ部下ぶかおお政権せいけんのこっており、またあきらとく交通こうつう要衝ようしょうでもあるため、情報じょうほうはふんだんに入手にゅうしゅしていたらしい。

せんすべ3ねん1911ねん)10がつからし革命かくめい勃発ぼっぱつ華中かちゅう華南かなんでは革命かくめい優位ゆうい情勢じょうせい推移すいいした。朝廷ちょうていないまんしま貴族きぞくらも袁世凱のほかにこれを鎮圧ちんあつできる人物じんぶつはいないと判断はんだんし、清朝せいちょうだい2だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんみずうみこう総督そうとく任命にんめいするとともに、反乱はんらんぐん鎮圧ちんあつめいじた。袁世凱は部下ぶかだん祺瑞・馮国あきららを鎮圧ちんあつかわせつつもみずからはうごかず、一方いっぽう革命かくめい極秘ごくひ連絡れんらくわした。そしてみずからの臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにん言質げんちるや革命かくめい寝返ねがえり、朝廷ちょうてい要人ようじん政権せいけん交代こうたいうながした。こうしてせんすべ4ねん1912ねん)2がつ12にちせんすべみかど上諭じょうゆ発布はっぷされて清国きよくに最後さいご皇帝こうてい退位たいい清朝せいちょう滅亡めつぼうした。同年どうねん3がつ10日とおか議場ぎじょうでの満場一致まんじょういっちにより、袁世凱が中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんした。

中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとう就任しゅうにん[編集へんしゅう]

北洋ほくよう政府せいふだい总统1913ねん~1915時代じだいの袁世凱

袁世凱の政治せいじたいするかんがえは一貫いっかんしており、中央ちゅうおう元首げんしゅ強権きょうけんるうことではじめてあさのようにみだれた中国ちゅうごくはまとまりるというものであった。こうした発想はっそう当時とうじたい中国ちゅうごくかん主流しゅりゅうであり、まごぶんなどもそうかんがえていた。しかし、これにたいして当時とうじ国民党こくみんとう実質じっしつてき指導しどうしゃであるそうきょうひとしは、最高さいこう権力けんりょくしゃ権限けんげん制限せいげんし、議院ぎいんないかくせいおこなうことが必要ひつようであると主張しゅちょうした。当時とうじとしては斬新ざんしんなこのかんがえはおおくの国民こくみんしんとらえ、国民党こくみんとう1912ねんみんこく元年がんねん)12月の選挙せんきょ圧勝あっしょうした。袁世凱はおおきな影響えいきょうりょくちつつあるそうきょうじん警戒けいかいし、懐柔かいじゅうさくをしばらくとりつづけたが、ついに1913ねん3月、そうきょうじん暗殺あんさつした。そのだい総統そうとう権限けんげん強化きょうかしたり、任期にんきながくするなどみずからの強権きょうけんつとめた。

こののちおおくのくにから借款しゃっかんおこない、近代きんだい資金しきん確保かくほし、インフラ整備せいびおこなった。この借款しゃっかんにたいして南方みなかた各省かくしょうから反発はんぱつこえがあがり反乱はんらんとなったが、袁世凱は得意とくい軍事ぐんじりょくをもってこれを撃退げきたいした。反乱はんらんぐん指揮しきしていたれつひとしまごぶんきょうらは日本にっぽん亡命ぼうめいした(1913ねん9月、だい革命かくめい)。同年どうねん10がつには正式せいしきだい総統そうとう就任しゅうにんして臨時りんじ政府せいふ北京ぺきん政府せいふへと移行いこうした。さらに国民党こくみんとう解散かいさん命令めいれいしたうえで、国会こっかいない国民党こくみんとう議員ぎいん全員ぜんいん解職かいしょくした。

1914ねんみんこく3ねん)5がつには、だい総統そうとう権限けんげん強化きょうかした中華民国ちゅうかみんこくやくほう中国語ちゅうごくごばんみんこくさんねんやくほう)を公布こうふ同年どうねん7がつだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、中立ちゅうりつをいちはやく宣言せんげんして、にちどくえい山東さんとう半島はんとう設定せっていした交戦こうせん区域くいき通告つうこくした。しかし、ドイツはにかわずみ鉄道てつどう物資ぶっし補給ほきゅう利用りようし、にちえい同盟どうめい理由りゆうとして交戦こうせんった日本にっぽんがこの鉄道てつどう占領せんりょうするなど、交戦こうせん区域くいきがい影響えいきょうおよんだ。戦時せんじ国際こくさいほうじょう管理かんりとした日本にっぽんたいして、袁世凱はドイツ租借そしゃくとう権益けんえき中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ管理かんりすべきとして対立たいりつ、袁世凱は日本にっぽんにドイツ利権りけん返還へんかんもとめるが、れられなかった。

1915ねんみんこく4ねん)1がつ18にち日本にっぽんからたいささえ21ヶ条かじょう要求ようきゅう権益けんえき法益ほうえき保護ほご問題もんだい交渉こうしょうもとめられた。この日本にっぽん政府せいふとの直接ちょくせつ交渉こうしょうおうじた袁世凱は、一部いちぶ情報じょうほうしょ外国がいこくにリークして国際こくさい世論せろんうったえたり、交渉こうしょうにおいて遷延せんえんさくこうじるなどのさく交渉こうしょう阻止そしはかった。しかし、同年どうねん5がつ9にち、袁世凱が承認しょうにんしてたいささえ21ヶ条かじょう要求ようきゅう受諾じゅだくいたる。受諾じゅだくも袁世凱はあきらめず、6月22にち公布こうふ懲弁国賊こくぞく条例じょうれいきょうれいだい115ごう)によって、外国がいこくじん借家しゃくやとうふく商工しょうこうじょう契約けいやくおこない、自国じこく利益りえき優先ゆうせんさせないものたいして銃殺じゅうさつけいしょすとさだめ、外国がいこくじんたいする差別さべつてきあつかいを法令ほうれいして、たいささえ21ヶ条かじょう受諾じゅだく効力こうりょく空文くうぶんさせたとされる。

短期間たんきかん帝政ていせい復活ふっかつ病死びょうし[編集へんしゅう]

つげてんれいにおけるひろしけん皇帝こうてい

こうした不安定ふあんてい状況じょうきょうなか1915ねんに袁世凱は側近そっきん楊度皇帝こうてい即位そくい運動うんどうをさせ、帝政ていせい復活ふっかつさせた。1916ねんより年号ねんごうひろしけんさだめ、国号こくごうを「中華ちゅうか帝国ていこく」にあらためた。こうした袁世凱の行動こうどうは、みずからの野望やぼうたすためというめんもあった一方いっぽう[2]四分五裂しぶんごれつした中華ちゅうかたばねるためには、強力きょうりょく立憲りっけん君主くんしゅせい必要ひつようとのかんがえであったという見方みかたもある。

しかし、結果けっかはまったく予想よそうはんするものだった。北京ぺきんでは学生がくせいらが批判ひはんのデモをおこない、地方ちほう軍閥ぐんばつはこれを口実こうじつ次々つぎつぎ反旗はんきひるがえした。かれ足元あしもと北洋ほくよう軍閥ぐんばつしょしょうまでもが公然こうぜん反発はんぱつし、袁世凱を批判ひはんした。さらには当初とうしょ傍観ぼうかんしていた日本にっぽん政府せいふが、即位そくいへのけのわるさをるや、きびしく非難ひなんはじめた。結局けっきょくひろしけん元年がんねん(1916ねん)3がつにしぶしぶ帝政ていせい廃止はいし。しかし一度いちど失墜しっついした権威けんいもどらず、同年どうねん6がつ失意しついのうちに病死びょうしした。56さいぼつ死因しいん尿毒症にょうどくしょうつたえられる。

袁世凱の死後しごかれ部下ぶかであった馮国あきらじょあきらだん祺瑞などが相次あいついで政権せいけんにつきいわゆる北京ぺきん政府せいふとして対外たいがいてき中華民国ちゅうかみんこく正式せいしき政府せいふとして存続そんぞくしたが、いずれも大陸たいりく全体ぜんたいをまとめるちからちえず、かく地方ちほう根拠こんきょとする軍閥ぐんばつ割拠かっきょ時代じだい突入とつにゅうした。蔣介せききた終了しゅうりょうするまでの10ねんあまり、この状況じょうきょうつづくこととなる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

清朝せいちょう末期まっき軍人ぐんじんとして陸軍りくぐん近代きんだいすすめる役割やくわりかついつつ台頭たいとうし、かれ自身じしんつくげた軍事ぐんじりょく背景はいけい政治せいじてきにもおおきな権力けんりょくるい、欧米おうべい諸国しょこくではかれのことを「ストロング・マン」とんだ。そのいち失脚しっきゃくするが、からし革命かくめい混乱こんらんなか朝廷ちょうていまごぶん革命かくめいとのあいだたくみに遊泳ゆうえいし、中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとうとなり、革命かくめい弾圧だんあつするとともに、インフラ整備せいび軍備ぐんび充実じゅうじつなどのめんから国家こっか近代きんだいたった。さらに一時いちじ帝政ていせい復活ふっかつしたが、内外ないがい反発はんぱつって帝政ていせい廃止はいしし、失意しついのうちにぼっした。

いちつまきゅうわらわとのあいだに17なん14じょをもうけた。長男ちょうなん袁克じょう中国語ちゅうごくごばんは、吉野よしの作造さくぞう家庭かてい教師きょうしつとめた。ちち補佐ほさし、からし革命かくめいや、ちち皇帝こうてい即位そくいなどにおいて数々かずかず策謀さくぼうめぐらせるも、ちちあと隠居いんきょしてその生活せいかつ困窮こんきゅうきわめ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく建国けんこくあきら中央ちゅうおうぶんかんしょくた。次男じなん袁克ぶん朝鮮ちょうせんもちぞく安東あんどうきん出自しゅつじはは(そのために中華ちゅうか王朝おうちょうとはいえいち武人ぶじん側室そくしつ地位ちいあまんじなければならないことをつねなげいていた)として出生しゅっしょうこんきょくいえとして著名ちょめい人物じんぶつであるが、皇帝こうてい即位そくいへの反対はんたいちちいかりをってわれ、あお一員いちいんとなった。その袁克ぶん物理ぶつり学者がくしゃとしてをはせた袁家騮である(実験じっけん物理ぶつり学者がくしゃ健雄たけお夫婦ふうふ)。

また、大叔父おおおじ袁甲さんみちこうみかど時代じだい進士しんしで、その戸部とべさむらいろう刑部おさかべさむらいろうつとめた袁保つね(袁世凱のしたがえちち)である。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

83にちしかたなかった皇帝こうていへのゆめ、その中国ちゅうごく漢方薬かんぽうやくにもじり「おこりびょうろく君子くんしおくいのちひね」(たいれん)と風刺ふうしされた。部将ぶしょうであった各地かくち軍閥ぐんばつ強烈きょうれつ反対はんたいふくみ、これほどまでに沸騰ふっとうした世論せろんあやまったのは、おおまかにいえば皇太子こうたいしほっした長男ちょうなんんだ楊度らにだまされたといってよい。

岡本おかもと隆司たかしはその著書ちょしょにおいて、袁世凱は社交しゃこうたくみであり、自分じぶんちいさい課題かだいについては処理しょりできるが、中国ちゅうごく中央ちゅうおうとしてあつかうのはふさわしくないとべている[3]かれ息子むすこ家庭かてい教師きょうしであった吉野よしの作造さくぞうは、かれ愛嬌あいきょうしたたるばかりであったが、事後じごにその虚偽きょぎ喝破かっぱした。袁世凱をまごぶんともののしったきた一輝いっき証言しょうげんたっている。地方ちほうかんとしては冷徹れいてつ果断かだんにみえたが、元首げんしゅとしては醜悪しゅうあくさ、生臭なまぐささにてんじる。

現在げんざいでも中華民国ちゅうかみんこくおよび中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくで、袁世凱は悪役あくやくでありとき漢奸かんかんとまでいわれている。中国ちゅうごく国民党こくみんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう双方そうほう称揚しょうようするまごぶんらを弾圧だんあつしたこと、日本にっぽんたいはな21カ条かじょう要求ようきゅうくっしたこと、そして時代じだい逆行ぎゃっこうして皇帝こうてい即位そくいしたことは、革命かくめいてられた共和きょうわせい中国ちゅうごくみだしたとしてきびしく批判ひはんされている。

たいはな21カ条かじょう要求ようきゅうれることをめた5月9にちは、現代げんだい中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)ではきゅうこくはじ中国語ちゅうごくごばんといわれ、愛国あいこく活動かつどうするとなっている。現代げんだい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくではみずからの任期にんき制限せいげん撤廃てっぱいうご習近ひらたとうそう書記しょき国家こっか主席しゅせきを袁世凱になずらえるうごきがインターネットきたさいにこれを否定ひていてきとらえた当局とうきょくによって「ひろしけん[4][5]とともに「袁世凱」という言葉ことば自体じたいが、中国ちゅうごくのネット検閲けんえつ規制きせい対象たいしょうになっている[6][7][8]

しかし近年きんねん、そうした否定ひていてき評価ひょうかまごぶん革命かくめい善玉ぜんだま位置いちづける単純たんじゅん歴史れきしかんとして修正しゅうせいされつつある。新建しんたけ陸軍りくぐん設立せつりつ科挙かきょ廃止はいし学校がっこう制度せいど整備せいびといった近代きんだい政策せいさく推進すいしんした役割やくわりのほかに、独裁どくさいてき政治せいじ手法しゅほう必要ひつようせいまごぶんなどにも共有きょうゆうされていたこと、権謀術数けんぼうじゅっすう駆使くししたと同時どうじに、ひとつの理念りねん主義しゅぎとらわれない現実げんじつ政治せいじとしての側面そくめんっていたことなどについて、公平こうへい評価ひょうかもとめられるようになっている(公共こうきょう知識ちしき分子ぶんし参照さんしょう)。

参考さんこう書籍しょせき[編集へんしゅう]

なお、このなかに所収しょしゅう竹内たけうちみのる論文ろんぶん大正たいしょうにおける中国ちゅうごくぞうと袁世凱評価ひょうか」が、明治めいじまつからの大正たいしょうにかけてのリアルタイムな日本人にっぽんじんの袁世凱観をわかりやすくまとめている

袁世凱についての書籍しょせきで、日本語にほんご流布るふしているものはあまりおおくない。しかし、資料しりょうとしての自身じしん上奏じょうそうぶん電信でんしんぶんるい非常ひじょうおおのこっており、中華民国ちゅうかみんこく中心ちゅうしん出版しゅっぱんされている。

  • (英語えいご) Stefan Huebner, Pan-Asian Sports and the Emergence of Modern Asia, 1913-1974. Singapore: NUS Press, 2016, 17-54ページ所収しょしゅう。978-981-4722-03-2。

出典しゅってん脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 文雄ふみお日本にっぽん植民しょくみん真実しんじつ扶桑社ふそうしゃ、2003ねん10がつ31にち、141ぺーじISBN 978-4594042158 
  2. ^ かれ皇帝こうてい即位そくいへの願望がんぼうしめすエピソードはふんだんにのこされているという。
  3. ^ 岡本おかもと[2015:211-215]
  4. ^ “「習近ひら独裁どくさい」を中国人ちゅうごくじんはなぜ歓迎かんげいするのか”. iRONNA. (2018ねん3がつ7にち). http://ironna.jp/article/9111 2018ねん3がつ12にち閲覧えつらん 
  5. ^ “「信女しんにょねがい一生いっしょうどももと」也不ぎょう中國ちゅうごくおさむけんせわしきん敏感びんかん. 自由時報じゆうじほう. (2018ねん3がつ1にち). http://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/2352848 2018ねん3がつ12にち閲覧えつらん 
  6. ^ 中国ちゅうごくネット 改憲かいけん批判ひはん拡大かくだい 国家こっか主席しゅせき終身しゅうしんせい暗黒あんこく支持しじするな」”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2018ねん2がつ28にち). https://www.sankei.com/article/20180228-KTCVXBVB6VND5NZ4Y572GA3IUY/ 2018ねん3がつ12にち閲覧えつらん 
  7. ^ ““皇帝こうてい”する習近たいら中国ちゅうごくわらってはいけない検閲けんえつ事情じじょう」”. 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう. (2018ねん3がつ5にち). https://bunshun.jp/articles/-/6406 2018ねん3がつ12にち閲覧えつらん 
  8. ^ 中国ちゅうごく当局とうきょく、なぜまたクマのプーさんを検閲けんえつ? 主席しゅせき任期にんき延長えんちょうあんで”. BBC. (2018ねん2がつ27にち). http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43208840 2018ねん3がつ12にち閲覧えつらん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

 中華民国ちゅうかみんこく
先代せんだい
すめらぎせい取消とりけしにより復職ふくしょく
だい総統そうとう
1916ねん
次代じだい
はじむもとひろし
  中華ちゅうか帝国ていこく
先代せんだい
共和きょうわせいから移行いこう
皇帝こうてい
1915ねん - 1916ねん
次代じだい
帝政ていせい廃止はいし
 中華民国ちゅうかみんこく
先代せんだい
設置せっち
だい総統そうとう
1913ねん - 1915ねん
次代じだい
すめらぎせい移行いこう
先代せんだい
まごぶん
臨時りんじだい総統そうとう
1912ねん - 1913ねん
次代じだい
だい総統そうとう移行いこう
  きよし
先代せんだい
けい親王しんのう奕劻
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
1911ねん - 1912ねん
次代じだい
廃止はいし
先代せんだい
みず
みずうみこう総督そうとく
1911ねん
次代じだい
こう
先代せんだい
りょうみ
外務がいむ尚書しょうしょ
1907ねん - 1908ねん
次代じだい
りょう敦彦あつひこ
先代せんだい
鴻章こうしう
ちょく隷総とく
1901ねん - 1907ねん
次代じだい
楊士驤
先代せんだい
毓賢
山東さんとうめぐなで
1899ねん - 1901ねん
次代じだい
えびす廷幹