青木あおきせんじゅん

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青木あおき せんじゅん
生誕せいたん 1859ねん6月19にち
日向ひなたこく那珂なかぐん佐土原さどわらまち
死没しぼつ (1924-12-12) 1924ねん12月12にち(65さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1880 - 1919
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん
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青木あおき せんじゅん(あおき のぶずみ、安政あんせい6ねん5月19にち[1][2]1859ねん6月19にち) - 大正たいしょう13ねん1924ねん12月12にち[1][2])は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん中将ちゅうじょう[3]もっと初期しょきの「ささえつう軍人ぐんじん[よう出典しゅってん]通算つうさん13ねん中国ちゅうごく生活せいかつおくった。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

佐土原さどわらはん青木あおき新蔵しんくら長男ちょうなんとしてうまれる[1]陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうて、明治めいじ10ねん1877ねん)5がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入学にゅうがく[1]明治めいじ12ねん1879ねん)12月、砲兵ほうへい少尉しょうい任官にんかんし、翌年よくねん12がつ陸士りくしきゅう3)を卒業そつぎょう[1][2][4]

明治めいじ14ねん1881ねん)4がつ山砲さんぽうへいだい2大隊だいたいづけとなり、陸士りくし教官きょうかん参謀さんぼう本部ほんぶ出仕しゅっしなどをて、明治めいじ17ねん1884ねん)10がつからどう20ねん1887ねん)12月、清国きよくに差遣さけんとなり、広東かんとん北京ぺきん駐在ちゅうざい[1]明治めいじ21ねん1888ねん)3がつ近衛このえ砲兵ほうへい連隊れんたいづけとなり、陸士りくし教官きょうかん参謀さんぼう本部ほんぶだい2局員きょくいんベルギー留学りゅうがくなどをて、明治めいじ27ねん1894ねん)8がつだい1ぐん参謀さんぼう発令はつれいされ、翌月よくげつから明治めいじ28ねん1895ねん)5がつまでにちしん戦争せんそう出征しゅっせいした[1]

明治めいじ28ねん(1895ねん)5がつ参謀さんぼう本部ほんぶだい2局員きょくいん就任しゅうにんし、明治めいじ30ねん1897ねん)10がつからどう33ねん1900ねん)3がつまで清国きよくに公使館こうしかんづけとなる[1][4]袁世凱要請ようせいで、新建しんたけ陸軍りくぐん軍事ぐんじ顧問こもんとして、ぐん指導しどう育成いくせいにあたった[よう出典しゅってん]帰国きこく参謀さんぼう本部ほんぶづけとなり、だい5師団しだん司令しれいづけ清国きよくに公使館こうしかんづけ参謀さんぼう本部ほんぶいん歴任れきにんし、明治めいじ35ねん1902ねん)12月、砲兵ほうへい大佐たいさ昇進しょうしん野戦やせん砲兵ほうへいだい14連隊れんたいちょう就任しゅうにん[1][4]明治めいじ36ねん1903ねん)11月、清国きよくに公使館こうしかんづけとなった[1][4]。このころ京師けいし警務けいむ学堂がくどうつとめていた漢学かんがくしゃ中島なかじまい、のちこうむ研究けんきゅう編纂へんさん依頼いらいしている[よう出典しゅってん]

にち戦争せんそうでは、明治めいじ37ねん1904ねん)7がつ満州まんしゅうぐんそう司令しれいづけとして北京ぺきん駐在ちゅうざい[1][2][4]配下はいか特別とくべつ任務にんむはんばれる組織そしきしたがえ、馬賊ばぞく使用しよう鉄道てつどう電線でんせん破壊はかい工作こうさく従事じゅうじした[よう出典しゅってん]明治めいじ38ねん1905ねん)1がつ清国きよくに公使館こうしかんづけとなり、明治めいじ40ねん1907ねん)11月、陸軍りくぐん少将しょうしょう、さらに大正たいしょう2ねん1913ねん)8がつ陸軍りくぐん中将ちゅうじょうすす旅順りょじゅん要塞ようさい司令しれいかん就任しゅうにんした[1][2][4]

大正たいしょう4ねん1915ねん)12月、参謀さんぼう本部ほんぶづけとなり、大正たいしょう6ねん1917ねん)1がつからどう12ねん1923ねん)1がつまで北京ぺきん政府せいふおう聘としてはじむもとひろし軍事ぐんじ顧問こもんつとめた[1]。このあいだ大正たいしょう8ねん1918ねん)8がつ予備よびやく編入へんにゅう[4]大正たいしょう10ねん1921ねん)4がつ後備こうびやくとなった[1]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • にちしん戦争せんそうは、先述せんじゅつのように袁世凱軍事ぐんじ顧問こもん新建しんたけ陸軍りくぐん指導しどう)をしており、袁からの信用しんようたかかった。にち戦争せんそうさいして袁のたいにち協力きょうりょくしたのは青木あおきちからによるところがおおきい。[よう出典しゅってん]
  • 伝記でんき佐藤さとう垢石こうせき青木あおきせんじゅん - 謀略ぼうりゃく将軍しょうぐん』(ぼくすい書房しょぼう、1943ねん) がある[1]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん、5ぺーじ
  2. ^ a b c d e 日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん』14ぺーじ
  3. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 6ぺーじ
  4. ^ a b c d e f g 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』60ぺーじ
  5. ^ 官報かんぽうだい320ごう叙任じょにん及辞れい」1884ねん7がつ23にち
  6. ^ 官報かんぽうだい2406ごう叙任じょにん及辞れい」1891ねん7がつ8にち
  7. ^ 官報かんぽうだい3433ごう叙任じょにん及辞れい」1894ねん12月6にち
  8. ^ 官報かんぽうだい5920ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん3がつ31にち
  9. ^ 官報かんぽうだい7352ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん12月28にち
  10. ^ 官報かんぽうだい150ごう叙任じょにん及辞れい」1913ねん1がつ31にち
  11. ^ 官報かんぽうだい1671ごう叙任じょにん及辞れい」1918ねん3がつ1にち
  12. ^ 官報かんぽうだい3131ごう叙任じょにん及辞れい」1893ねん12月5にち
  13. ^ 官報かんぽうだい3693ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん10がつ19にち
  14. ^ 官報かんぽうだい3862ごう付録ふろく辞令じれい」1896ねん5がつ16にち
  15. ^ 官報かんぽうだい4323ごう叙任じょにん及辞れい」1897ねん11月27にち
  16. ^ 官報かんぽうだい5487ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん10がつ15にち
  17. ^ 官報かんぽうだい539ごう叙任じょにん及辞れい」1914ねん5がつ18にち
  18. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  19. ^ 官報かんぽうだい1850ごう叙任じょにん及辞れい」1918ねん10がつ2にち
  20. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅう勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん(戦前せんぜん) - archive.today(2012ねん8がつ1にちアーカイブぶん
  21. ^ 官報かんぽうだい4810ごう敍任じょにん及辞れい」1899ねん7がつ14にち
  22. ^ 官報かんぽうだい1023ごう叙任じょにん及辞れい」1915ねん12月28にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん
  • 福川ふくかわ秀樹ひでき日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、2001ねん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん