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金鵄勲章きんしくんしょう

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金鵄勲章きんしくんしょう

こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう正章まさあきだい綬およびふくあきら
日本にっぽん勲章くんしょう
みどりしろ
創設そうせつしゃ 明治天皇めいじてんのう
対象たいしょう 武功ぶこう抜群ばつぐんナルしゃ
状態じょうたい 廃止はいし
さい高級こうきゅう こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
最下さいかきゅう こうななきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
歴史れきし統計とうけい
創設そうせつ 1890ねん明治めいじ23ねん2がつ11にち
期間きかん 1890ねん - 1947ねん
最初さいしょ授与じゅよ 1895ねん1がつ16にち
序列じょれつ
上位じょうい 菊花きっかあきら勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
下位かい 旭日きょくじつあきら
金鵄勲章きんしくんしょうの綬

金鵄勲章きんしくんしょう(きんしくんしょう、きゅう字体じたい金鵄勳章きんしくんしょう)は、かつて制定せいていされていた日本にっぽん勲章くんしょうひとつ。日本にっぽん唯一ゆいいつ武人ぶじん勲章くんしょうとされ、武功ぶこうのあった陸海りくかいぐん陸軍りくぐん海軍かいぐん)の軍人ぐんじんおよび軍属ぐんぞくあたえられた[1]金鵄きんしあきらともいう。

勲章くんしょうめいの「金鵄きんし」は、日本にっぽん神話しんわにおいて、神武じんむ東征とうせいさいに、神武じんむ天皇てんのうゆみにとまった黄金おうごんしょくトビとび)がひかかがやき、ちょうずい軍兵ぐんびょうくらませたという伝説でんせつもとづく。

概要がいよう

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陸軍りくぐん正装せいそうこういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう正章まさあきふくしょう着用ちゃくようした大正天皇たいしょうてんのう
こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょうだい綬およびこういちきゅうふくあきら)を佩用はいようした海軍かいぐん大将たいしょう当時とうじ片岡かたおか七郎しちろう片岡かたおか将官しょうかん時代じだいにち戦争せんそう戦功せんこうこういちきゅう受章じゅしょうした。このほか、佐官さかん時代じだいにちしん戦争せんそう戦功せんこうこうよんきゅう受章じゅしょうしている
こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょうおよび、こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょうを併佩する陸軍りくぐん中将ちゅうじょう当時とうじ牛島うしじまみつる牛島うしじま尉官いかん時代じだいシベリア出兵しゅっぺいときこうきゅうを、将官しょうかん時代じだいにちちゅう戦争せんそう戦功せんこうこうきゅう受章じゅしょうした

金鵄勲章きんしくんしょうは、1890ねん明治めいじ23ねん)の紀元節きげんせつ(2がつ11にち)に、明治天皇めいじてんのうはっした「金鵄勲章きんしくんしょう創設そうせつ詔勅しょうちょく」によって創設そうせつされ、同日どうじつに「金鵄勲章きんしくんしょう等級とうきゅうせいしき佩用はいようしき」(明治めいじ23ねん2がつ11にちみことのりれいだい11ごう)によってそのせいしきとうさだめられた。「武功ぶこう抜群ばつぐんナルしゃ」を、「こういちきゅう」から「こうななきゅう」まで7等級とうきゅうこうきゅうじょしたうえで、勲章くんしょう授与じゅよした。

ちん󠄂おもんみミルニ
かみ󠄀たけ天皇てんのうすめらぎぎょうヲ恢弘シ繼承けいしょうシテちん󠄂ニ及󠄁ヘリこんはるカニ登極とうきょく紀元きげんさんスレハせんひゃくじゅうねんたち󠄁セリちん󠄂此期ニぎわ
天皇てんのう戡定かんてい故事こじちょう金鵄勳章きんしくんしょう創設そうせつ將來しょうらい武功ぶこう拔羣ノしゃ󠄁ニ授󠄁あずかなが
天皇てんのうれつひかりニシ以テ其忠いさむ󠄁ヲ獎勵セントスなんじしゅ庶此むねからだセヨ
— 1890ねん明治めいじ23ねん)2がつ11にち、「金鵄勲章きんしくんしょう創設そうせつ詔勅しょうちょく

金鵄勲章きんしくんしょう佩用はいようしきは、「勲章くんしょう佩用はいようしき」(明治めいじ21ねん11月17にちみことのりれいだい76ごう)ではなく、 「金鵄勲章きんしくんしょう等級とうきゅうせいしき佩用はいようしき」(明治めいじ23ねん2がつ11にちみことのりれいだい11ごう)にてさだめられた。

  • こういちきゅうだい綬は、だい綬章じゅしょうとはちがい、唯一ゆいいつ左肩ひだりかたからみぎわきける(勲章くんしょう佩用はいようしきだい1じょう乃至ないしじょう)(「金鵄勲章きんしくんしょう等級とうきゅうせいしき佩用はいようしき金鵄勲章きんしくんしょう佩用はいようしきだい1ごう)。
  • こういちきゅうふくしょうおよびきゅう正章まさあき(メダルとしては同型どうけい)については、当初とうしょはこちらも旭日きょくじつあきらぎゃくにそれぞれみぎあばらひだりあばら佩用はいようしていたが、明治めいじ28ねん改正かいせい明治めいじ28ねん8がつ19にちみことのりれいだい120ごう)により、旭日きょくじつあきら同様どうようにそれぞれひだりあばらみぎあばらとなった(勲章くんしょう佩用はいようしきだい3じょう)。
  • こうさんきゅう以下いか旭日きょくじつあきらなどとわらない(勲章くんしょう佩用はいようしきだい3じょう).

にちしん戦争せんそう開戦かいせん1894ねん明治めいじ27ねん)9がつ29にちには、「金鵄勲章きんしくんしょう年金ねんきんれい」(明治めいじ27ねんみことのりれいだい173ごう)が制定せいていされて、「こうきゅうおう終身しゅうしん年金ねんきん」をたまわることとなった(れい1じょう)。10がつ3にち公布こうふこう1きゅう900えんよりこう7きゅう65えんまで)。

金鵄勲章きんしくんしょうはつ授与じゅよしゃは、にちしん戦争せんそうちゅう参謀さんぼう総長そうちょうとして広島ひろしま大本営だいほんえいいたるも、1895ねん明治めいじ28ねん)1がつ15にち薨去こうきょした陸軍りくぐん大将たいしょう有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうである。熾仁親王たるひとしんのうよく16にちだいくん菊花きっかあきら頸飾あわせてこうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょうした[2]生存せいぞんしゃ授与じゅよとしては、1895ねん8がつ5にちこうきゅう金鵄勲章きんしくんしょうだいくん菊花きっかあきら頸飾とあわせて受章じゅしょうした、陸軍りくぐん大将たいしょう当時とうじ小松こまつみやあきらじん親王しんのうはつとなる[3]こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょうはつ授与じゅよにちしん戦争せんそうではなくにち戦争せんそうからであり、1906ねん明治めいじ39ねん)4がつ1にち山縣やまがた有朋ありともら17めい陸海りくかいぐん大将たいしょう元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょうおよび元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょうふくむ)が受章じゅしょうしている。

昭和しょうわ16ねんみことのりれいだい726ごう金鵄勲章きんしくんしょう併佩ニせきスルけん」により、金鵄勲章きんしくんしょう当時とうじ日本にっぽん勲章くんしょうなか唯一ゆいいつさき授与じゅよされたこうきゅうひくもののち授与じゅよされたこうきゅうたかおな勲章くんしょうの併佩がゆるされていた。

1 金鵄勳章きんしくんしょうゆうスルしゃ󠄁さら󠄁ニ同級どうきゅう󠄁ノ金鵄勳章きんしくんしょうたまものハリタルトキハヲ倂佩スベシ
2 金鵄勳章きんしくんしょうゆうスルしゃ󠄁さら󠄁ニ上級じょうきゅう󠄁ノ金鵄勳章きんしくんしょうたまものハリタルトキハぜんたまものハリタル金鵄勳章きんしくんしょうヲ倂佩スルコトヲとく

その同種どうしゅ上級じょうきゅう勲章くんしょうけたものは、まえ授与じゅよされた勲章くんしょう返還へんかんするむねさだめた「勲章くんしょうかえおさめけん」(明治めいじ22ねんみことのりれいだい38ごう)は、昭和しょうわ48ねん10がつにち政令せいれい287ごう勲章くんしょうかえおさめけん廃止はいしする政令せいれい」により廃止はいしされている。

宮中きゅうちゅう席次せきじにおいて、こうきゅうおな数字すうじ勲等くんとうよりも上位じょういにあったため、その運用うんようちゅうもっと上位じょうい佩用はいようするものとされていた。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)の太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)の敗戦はいせんにより、金鵄勲章きんしくんしょうかんする事務じむ所管しょかんしていた陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう廃止はいしされてそれぞれだいいち復員ふくいんしょうだい復員ふくいんしょう事務じむぎ、よく1946ねん昭和しょうわ21ねん)には生存せいぞんしゃたいする叙勲じょくん一時いちじ停止ていしされた[4]1947ねん昭和しょうわ22ねん)5がつ3にちには日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうされ、同日どうじつ施行しこうされた「内閣ないかく官制かんせい廃止はいしとうかんする政令せいれい」(昭和しょうわ22ねん政令せいれいだい4ごう)1じょうにより「金鵄勲章きんしくんしょうじょたまもの条例じょうれい」(明治めいじ27ねんみことのりれいだい193ごう)、「金鵄勲章きんしくんしょう等級とうきゅうせいしき佩用はいようしき」などが廃止はいしされたため、金鵄勲章きんしくんしょう廃止はいしされた。

意匠いしょう

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月岡つきおか芳年よしとしだい日本にっぽん名将めいしょうかん』より「神武じんむ天皇てんのう」。神武じんむ天皇てんのうゆみさきまった金鵄きんしひかりはなち、ちょうずい彦軍のへいをくらませている。

金鵄勲章きんしくんしょうは、神武じんむ天皇てんのう東征とうせいさいしてちょうずい彦のぐん交戦こうせんちゅう金色きんいろかがやれいとび天皇てんのうゆみにとまり、ちょうずい彦の軍勢ぐんぜいがそのひかりがくらんで降参こうさんしたという逸話いつわもとづいている。旭光きょっこううえ金色きんいろれいとびはいし、した大神宮だいじんぐうたてほこけんはいしたものである。こうきゅうにより七宝しっぽう有無うむきむ鍍金めっき範囲はんいちがいなどがあるが、ほとんどの等級とうきゅう意匠いしょう同一どういつ裏面りめん装飾そうしょくい。こうきゅう正章まさあきこういちきゅうふくあきら)のみ、ななめの旭光きょっこう部分ぶぶん黄色おうしょく七宝しっぽうもちいられている。

綬は浅葱あさつきしょくばれるあざやかな緑色みどりいろ織地おりじしろそうせんはいされている。

こうよんきゅうかんしては、1937ねん10がつには類似るいじするこうきゅうとの区別くべつ明確めいかくにするため(其ノあきらニ於テ金銀きんぎんアルモあきら及綬ノだいキサ、かたちいろトモどういちニシテ近接きんせつ注視ちゅうしスルニサレハ判別はんべつごくメテ困難こんなんナリ)、昭和しょうわ12ねんみことのりれいだい577ごう明治めいじ23ねんみことのりれいだい11ごう金鵄勲章きんしくんしょう等級とうきゅうせいしき佩用はいようしきちゅう改正かいせいス」により、くんよんとう旭日きょくじつあきらおよび瑞宝章ずいほうしょう同様どうように、綵花(円形えんけいかざり、ロゼット)をしょう綬にすよう改正かいせいされている。同時どうじに(きゅう制式せいしきひんは)当分とうぶんうち従前じゅうぜんの綬をもって佩用はいようすることもゆるされている。

略綬りゃくじゅ一覧いちらん

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こうきゅう

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こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう佩用はいようした陸軍りくぐん騎兵きへい大尉たいい当時とうじ竹田たけだみや恒久こうきゅうおう恒久こうきゅうおうにち戦争せんそう戦功せんこうこうきゅう受章じゅしょうした
ぜんきゅう金鵄勲章きんしくんしょう略綬りゃくじゅ大正たいしょう10ねん以前いぜん制式せいしきであり、こうよんきゅうの綬も綵花がされない旧式きゅうしきのものである。こういちきゅう乃至ないしきゅう金鵄勲章きんしくんしょうにはふくしょうく。こういちきゅうふくしょうこうきゅうと、こうきゅうこうさんきゅう金鵄勲章きんしくんしょうおなじものである。

金鵄勲章きんしくんしょう付随ふずいして、じょせられた軍人ぐんじん功績こうせきしめ等級とうきゅう位階いかい勲等くんとうならび「こうきゅう」と表示ひょうじした(肩書かたがきにおける表示ひょうじじゅんは、しょく階級かいきゅう位階いかい勲等くんとうこうきゅう爵位しゃくい学位がくい氏名しめいとなる。れいとして「枢密院すうみついん議長ぎちょう元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょうしたがえいちだいくんこういちきゅう公爵こうしゃく山縣やまがた有朋ありとも」)。かくきゅう正式せいしきにはこういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょうのように等級とうきゅう+金鵄勲章きんしくんしょうかたちばれる。またこうきゅうわせて年金ねんきん下賜かしされた。年金ねんきん時代じだい変化へんかとインフレりつしたがい、金鵄勲章きんしくんしょう廃止はいしになる1945ねんごろまで徐々じょじょ金額きんがく上昇じょうしょうしていった。

  • こういちきゅう:天皇てんのうちょく隷部たい将官しょうかんおや補職ほしょく)たる司令しれいかんたいして特別とくべつ詮議せんぎうえ授与じゅよ
    正章まさあきだい綬をもっ左肩ひだりかたからみぎわきしだれ、ふくあきらこうきゅう金鵄勲章きんしくんしょうおなじ)をひだりあばら佩用はいようする。
    年金ねんきんがく900えん
  • こうきゅう:功労こうろうある将官しょうかん佐官さかん最高さいこうこうきゅう
    正章まさあきこういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょうふくしょうおなじ)はみぎあばら佩用はいようする。
    年金ねんきんがく650えん
  • こうさんきゅう:将官しょうかんはつじょ功労こうろうある佐官さかん尉官いかん最高さいこうこうきゅう
    正章まさあきちゅう綬をもっ喉元のどもと佩用はいようする。
    年金ねんきんがく400えん
  • こうよんきゅう:佐官さかんはつじょせられるこうきゅう功労こうろうある尉官いかんじゅん士官しかん下士官かしかん最高さいこうこうきゅう
    正章まさあきしょう綬をもっひだりあばら佩用はいようする。
    年金ねんきんがく210えん
  • こうきゅう:尉官いかんはつじょせられるこうきゅうじゅん士官しかん下士官かしかんなか功労こうろうかさねたものこうきゅう。またへい最高さいこうこうきゅう
    正章まさあきしょう綬をもっひだりあばら佩用はいようする。
    年金ねんきんがく140えん
  • こうろくきゅう:じゅん士官しかん下士官かしかんはつじょせられるこうきゅう。また功労こうろうあるへいこうきゅう
    正章まさあきしょう綬をもっひだりあばら佩用はいようする。
    年金ねんきんがく90えん
  • こうななきゅう:へいはつじょせられるこうきゅう
    正章まさあきしょう綬をもっひだりあばら佩用はいようする。
    年金ねんきんがく65えん

運用うんよう

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対外たいがい戦争せんそう本格ほんかくしはじめた1894ねん明治めいじ27ねん)にさだめられた「金鵄勲章きんしくんしょうじょたまもの規定きてい」により、金鵄勲章きんしくんしょうじょたまもの事務じむ手続てつづきや「武功ぶこう」の評価ひょうか基準きじゅんあたえられた[5]海軍かいぐん大臣だいじん西郷さいごう従道つぐみちの1895ねん通知つうちによれば、武功ぶこう評価ひょうかには「殊勲しゅくん」、「勲功くんこう」、「くんろう」、「功労こうろう」の4段階だんかいもうけられた[5]

かってみぎむねひだり先頭せんとうこうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう佩用はいようした元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょう当時とうじ永野ながの修身しゅうしん永野ながの海軍かいぐん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん海軍かいぐん大臣だいじん軍令ぐんれい総長そうちょうさん顕職けんしょくすべてを経験けいけんした元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょうであるが、金鵄勲章きんしくんしょう最後さいごまで尉官いかん時代じだいにち戦争せんそう戦功せんこう受章じゅしょうしたこうきゅうのみであった(元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょうしたがえ勲一等くんいっとうこうきゅう

官吏かんりではへい民間みんかんじんでも対象たいしょうとなったが、金鵄勲章きんしくんしょう陸海りくかいぐん軍人ぐんじん軍属ぐんぞくのみでかつ相応そうおう戦功せんこうがなくては授与じゅよされず、大将たいしょう[ちゅう 1]や、皇族こうぞく軍人ぐんじん[ちゅう 2]といえども相応そうおう武功ぶこうがなければ授与じゅよされなかった[よう出典しゅってん]。ただし、軍隊ぐんたい陸海りくかいぐんでは部隊ぶたい意味いみする)の指揮しきかんだけでなく、陸軍りくぐん大臣だいじん海軍かいぐん大臣だいじん参謀さんぼう総長そうちょう軍令ぐんれい総長そうちょうといった官衙かんがちょうとしての功績こうせきも「武功ぶこう」にふくまれたため、寺内てらうち正毅まさき米内よない光政みつまさのように前線ぜんせんずにこういちきゅうけたれいもある。

受章じゅしょうしゃにはこういちきゅうで900えんこうななきゅうで65えん年金ねんきん支給しきゅうされた。昭和しょうわ初期しょき当時とうじ二等兵にとうへい月給げっきゅうは8えん80ぜにであり、かなりの高額こうがくであった[ちゅう 3]。この年金ねんきん終身しゅうしん年金ねんきんであったが、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん開戦かいせん受章じゅしょうしゃ急増きゅうぞう国庫こっこおおきな負担ふたんになったため、1940ねん昭和しょうわ15ねん)に一時いちじかねせい変更へんこうになり、国債こくさいかたち支給しきゅうされた。しかし、のちの太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんによりその国債こくさいは1えん価値かちもないものになった。また、生存せいぞんしゃへの授与じゅよは1940ねん最後さいご戦争せんそう激化げきかのためいち停止ていしされ、以後いご戦功せんこうげた戦死せんしものあたえられるのみとなった。

後年こうねん金鵄勲章きんしくんしょう復権ふっけん運動うんどう

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太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせん一旦いったん停止ていしされていた生存せいぞんしゃ叙勲じょくん制度せいど1963ねん昭和しょうわ38ねん)に再開さいかいされ、勲章くんしょう叙勲じょくん再開さいかいされたが金鵄勲章きんしくんしょう廃止はいしされおおやけでの佩用はいよう禁止きんしされていた。 そのため金鵄勲章きんしくんしょう叙勲じょくんしゃたちは、名誉めいよ年金ねんきん復活ふっかつもとめて「金鵄きんし連盟れんめい」をつくり、運動うんどうはじめた。1985ねん昭和しょうわ60ねん)には「きゅう勲章くんしょう名誉めいよ回復かいふくかんする懇談こんだんかい」という国会こっかい議員ぎいんあつまりがつくられ、当時とうじ中曽根なかそね康弘やすひろ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん同様どうよう要請ようせいをしている。叙勲じょくんしゃ高齢こうれいとうにより活動かつどう下火したびになったが、佩用はいようよく1986ねん昭和しょうわ61ねん)にみとめられた。

金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょうしゃ

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受章じゅしょうしゃすう

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概数がいすう

  • にちしん戦争せんそうやく2000にん
  • にち戦争せんそうやく10まん9600にん
  • だいいち世界せかい大戦たいせんやく3000にん
  • 満州まんしゅう事変じへんやく9000にん
  • ささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう):やく19まんにん
  • だい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう):やく62まんにん

こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょうしゃ

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こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょうしゃけい42にん陸軍りくぐん27にん海軍かいぐん15にん)である。また、大将たいしょう大半たいはんであるが中将ちゅうじょう死後しご特進とくしんふくむ)にも5にんおくられている。陸海りくかいぐん少将しょうしょうたいしてこういちきゅう授与じゅよ前例ぜんれいがなかったが、山口やまぐち多聞たもん有馬ありま正文まさふみりょう少将しょうしょう死後しご中将ちゅうじょう特進とくしん)は特旨とくしを以って授与じゅよされた。表記ひょうきちゅうかく階級かいきゅう爵位しゃくい最高さいこうのもの。[7]

陸軍りくぐん軍人ぐんじん

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陸軍りくぐん正装せいそうこういちきゅうだい綬およびふくあきら)を佩用はいようした山縣やまがた有朋ありとも
陸軍りくぐん正装せいそうかってみぎむねはし勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう並列へいれつしてこういちきゅうふくあきら)を佩用はいようした川村かわむら景明かげあき
にち戦争せんそうこう
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だいいち世界せかい大戦たいせんこう
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満州まんしゅう事変じへんこう
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ささえ事変じへんこう
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だい東亜とうあ戦争せんそうこう
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海軍かいぐん軍人ぐんじん

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海軍かいぐん正装せいそうこういちきゅうふくあきら)を佩用はいようした山本やまもと権兵衛ごんべえ。このほか、山本やまもと佐官さかん時代じだいにちしん戦争せんそう戦功せんこうこうよんきゅう受章じゅしょうしている
海軍かいぐん正装せいそうこういちきゅうだい綬およびふくあきら)を佩用はいようした伊集院いじゅういん五郎ごろう。このほか、伊集院いじゅういん佐官さかん時代じだいにちしん戦争せんそう戦功せんこうこうよんきゅう受章じゅしょうしている
にち戦争せんそうこう
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ささえ事変じへんこう
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だい東亜とうあ戦争せんそうこう
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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ れいとして、りくまさるたまもの軍刀ぐんとうくみ陸軍りくぐんかく要職ようしょく、さらに予備よびやく編入へんにゅうだい36だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんまで歴任れきにんした、せい勲一等くんいっとう阿部あべ信行のぶゆき陸軍りくぐん大将たいしょう金鵄勲章きんしくんしょう拝受はいじゅしていない。
  2. ^ 皇族こうぞく自身じしんむかえる年齢ねんれいによって自動的じどうてきだいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょうといった最高さいこう勲章くんしょう授与じゅよされるが(皇族こうぞくれい皇族こうぞく#叙勲じょくん)、金鵄勲章きんしくんしょうかんしては例外れいがいとされていた[よう出典しゅってん]
  3. ^ 昭和しょうわ8ねんでの恩給おんきゅう大将たいしょう2,850えん大佐たいさ1,748えん少尉しょうい893えんだった[6]

出典しゅってん

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参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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